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2017年01月24日

あわしま堂 いちごブッセ

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いちごブッセ商品詳細|株式会社あわしま堂|和菓子・洋菓子
卵をたっぷり使用した生地で、いちごジャムを混ぜ込んだクリームをサンドしました。

まいばすけっとで62円(税込)で購入。
冬季限定。

発売日は不明だが、安かったので買ってみた。
袋には
しっとり感アップ!
とか
いちごジャム入り
(とちおとめ苺ピューレ使用)

って書いてある。
前のがどんなのか知らないから、しっとり感がどのぐらいアップしたのかは不明。
柔らかいスポンジケーキの間にイチゴのクリームが入っている感じの菓子。
普通な感じだけど、美味しいと思う。



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2017年01月21日

チロルチョコ さくらもち

チロルチョコ さくらもち 袋 7個 10コ入り



1月16日発売。
イオンで100円(税込)で購入。
7個入り。

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桜の葉塩漬けパウダーを桜もちチョコに練り込んで再現性にこだわった商品だそうだけど、正直桜餅っぽい味かって言われるとそうは思えない。
よくある桜っぽい香料が入ってるなぁっていう感じの、微妙な味のホワイトチョコっていう。
中に餅っぽいのが入っているけど、桜餅の餅ってこういうんじゃないよねぇ。
美味しいか不味いかで言うと、若干不味い方かな。

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日清 カップヌードルライトプラス ビーフと野菜のボルシチ

日清食品 カップヌードルライトプラス ビーフと野菜のボルシチ 58g×12個



「カップヌードルライトプラス ビーフと野菜のボルシチ」(12月5日発売) | 日清食品グループ

12月5日発売。
イオンで151円(税込)で購入。
内容量58g(めん36g)。

去年の12月発売だから新発売でもないねぇ。
見たことがないヤツだったから新発売かなぁと思ったら違ったねぇ。

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普通にお湯を入れて三分っていうヤツ。
ボルシチ味らしいんだけどボルシチの味がピンとこないのだが。
薄いビーフシチューみたいな感じもするし、デミグラスソースっぽい味だなと。
まずいってほどでもないけど、それほど美味しいって感じでもなく。
それなりにいろいろ具も入っている。
カロリーが低いらしいけど、物足りない感じの味ではないなと思う。

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バカルディ クラシック カクテルズ ラズベリー モヒート

バカルディ クラシックカクテルズ ラズベリーモヒート 700ml



700ml入り。
アルコール分18%。

ラズベリー、ライムの酸味が爽やかなモヒートリキュールだそうです。
まずはそのまま飲んでみる。
アルコール度数も高いけど、味が濃厚な感じ。
ラズベリーの甘味みたいなのが感じられる。
炭酸で割ると本格カクテル!ってことで、炭酸を入れるのだが、全部炭酸で割ると私には甘味が足りなくなるかなということで、ちょっと甘味のあるヤツも足す。

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これは本当に色がいいよなぁ〜って思う。
すごくキレイなピンクで。
味が濃いので、いろいろ足しても風味もしっかり残っているし、アルコールも感じられる。
簡単に自宅で本格的な美味しいカクテルが(しかも一瓶で結構な量が入っているし)楽しめちゃうっていう、なかなかいい商品だと思う。

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2017年01月20日

グリコ プリッツ ハッピーピンク

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イオンで73円(税込)で購入。
内容量55g。
ストロベリー0.5%使用(生換算)
ピーチ果汁0.3%使用(生換算)
ラズベリー0.2%使用(生換算)
発酵バター6%使用

この商品の情報を調べてみたがさっぱりわからない。
見たことがないものだったので、てっきり新発売だと思って買ったら、去年の11月には売っていた模様。
で、11月11日の「ポッキーの日」発売なのかな?と思ったら、11月8日には発売になっていたようだ。
イオン限定っていう話もあるし、イオン以外では見たことがないので(というか、今までイオンでも見かけなかったのだが)イオン限定なのかなとは思う。

中は二袋に分かれている。
「甘じょっぱいおいしさ」って箱に書いてあるので、変な味だったらどうしよう・・・って思ったけど、確かに甘味もしょっぱさもあるけど、まあまあ美味しいぐらいかな?って思ったんだけど。
でも喰った人の感想を見たら結構disられている。
実際ストロベリーとかピーチとかの風味は別段感じられないな。
ほどほどの甘味としょっぱさがあるプリッツだなっていう味。
久しぶりにプリッツを食べたので、思ったより細いなと思ったけど、前からこの太さだったかな?
わからん。

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チロルチョコ コールドストーンラムレーズン

【限定品】チロルチョコ コールドストーンラムレーズン 10個



「コールド・ストーン・クリーマリー ラムレーズンアイスクリーム」と「チロルチョコ<コールドストーンラムレーズン>」 11月15日「冬アイスの日」から全国のセブン-イレブンで新発売|コールドストーンクリーマリージャパン Cold Stone Creamery Japan
「コールド・ストーン・クリーマリー ラムレーズンアイスクリーム」は、ラムレーズンを使った大人向けアイスクリームです。一般的には、バニラアイスクリームにラムレーズンを混ぜ込むことが多い中、この商品はラム酒を使用した"ラムアイスクリーム"を使用しています。また、たっぷりのラムレーズンとクルミを混ぜ込むことで、濃厚なアイスクリームとともに、ラムレーズンの果肉感とクルミのザクザク感というコールドストーンらしい様々な食感も楽しむことができます。アルコールを使ったアイスクリームは、共同開発の中でも初の取り組みです。

去年の11月15日からセブンイレブン限定発売。
43円(税込)で購入。
アルコール分0.1%配合。

去年発売になったヤツだから新発売ってワケでもないけど、セブンイレブンに行ったら見たことがないのがあったから一応買ってみたワケです。
滅多にセブンイレブンには行かないから、セブンイレブン限定のヤツってほとんど見たことないのばっかりってことになるけど。

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中はこんなのだった。
ロケットの絵なのかな?
で、アイスクリームの味がすんのか?と思って食べたのだが、そういう感じの味でもなかったんだけど、説明をよく読んだら、別にアイスクリーム味ってことではない感じ。
同じ味のアイスクリームを売ってますよ的な?
酒が入っているけど、あんまり酒の感じはしないな。
ホワイトチョコが殆どで、ちょっとザクザクした部分があるっていう。
値段がねぇ、この何倍もデカいブラックサンダーと同じって考えると、すっごく割高な感じがしてしまった。
味は普通かな。
値段ほどの価値は感じないっていう。

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有楽製菓 ブラックサンダーゴールドカフェ

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ユーラクニュース: 「ブラックサンダーゴールドカフェ」新発売のお知らせ

セブンイレブン限定で1月16日から数量限定発売。
43円(税込)で購入。
内容量標準26g。
豊橋夢工場。
コーヒー粉末0.4%使用。

ブラックサンダーシリーズ初の姉妹品だそうだが、姉妹品の定義がようわからんけど。
ブラックサンダーの新手のは今までも大量に発売されているけど、それらとどう違うのかは不明。
袋に「あなたのアモーレはどっち?」と書いてある。
味は普通のブラックサンダーとあんまり変わらない感じだけど、そこはかとないコーヒーフレーバーが。
大人向けっぽいけど、甘さは普通にある感じ。
まあ、美味しい方だと思う。


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2017年01月19日

発達障害 うちの子、将来どーなるのっ!?

発達障害 うちの子、将来どーなるのっ!? (こころライブラリー)



読んでみたので感想を。
そもそも何でこれを読もうと思ったのか記憶にないのだが、正直私には何の役にも立たない内容だった。
最初に著者のADHDのお子さんが登場で、ADHDの気がない私には関係ない内容かぁ・・・なんて思いながら読み進んでいったら、子供の進路の話みたいなのしかなく、結局最後まで私には何の関係もない話。
この本はまだ子供とか学生とかの当事者と、その親御さんにとって意味のある内容かと思う。
かなり具体的に学校や就労支援について書いてある。
だから、発達障害のお子さんを抱えて「この先一体どうしたら?」っていう感じの方にとって参考になるような内容かと思うのだ。
ただ、確かにちょっと「うまくいっているものばかり」にはなっているよね。
地方なんかだと、サポート体制自体が貧弱だったり、障害者向けの職業訓練なんかも実際に私もさんざん行ってみたけど、結構ひどい内容のところもあったり。
そういう「負の側面」は一切出てきません。
だから、この本を読んで「自分の子供も大丈夫!」みたいに思ってしまって、残酷な現実に直面してしまうと「こんなハズでは・・・」ってなっちゃうかなぁとは思う。
ガイドブック的に捉えて読む分にはいいかなと思うけど。

ADHDだけの人ってそれほど疲れないのかも知れないけど(個人差も大きいかなと思うけど)、私なんかもそうだけど「普通にする」(普通に挨拶とか普通に会話とかその程度)というのはかなり無理をしないとできないことなので、当然のことながら仕事以前に非常に疲れる。
だから会社で働いても仕事自体以前にそういう「余計なこと」でかなりエネルギーを消耗する。
結果、例え定時で帰してもらえても健常者と同様の働き方をするのって、正直しんどい。
どの企業もそのあたりを全く理解していなくて「定時で帰れるんだからいいだろう?」「仕事の伝え方とか配慮してやってるんだから大丈夫だろう?」みたいな感じなんだよね。
そういう「現実の企業の理解のなさ」みたいなのとか、もちろんこの本には一切出てきません。
障害をオープンにする話しか出てこないけど、オープンにしない人たちの「事情」みたいなことも出てきません。
だから、これ一冊で全て解決!ではないけど、じゃあどういうのを合わせて読めば・・・ってのは私にはわからないねぇ。
何しろ事前に若い人向けってのがわかっていたら、その本は読まないからねぇ。

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2017年01月18日

2016年3月14〜25日◆『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一(後編)

これの続きです。

鷲田清一さんがお書きになった反リーダーシップ論。
「世の中を引っ張る、そういう英雄が出て来い」
その考え方は間違っている。
世の中を進めるのは実はリーダーではなくて、ビリっけつを走っている人。
その人たちが平均値を上げる。
そのことが全体がよくなる唯一の道なのだという鷲田さんの『しんがりの思想』。
少し社会全体がプロフェッショナルに頼りすぎているんじゃないだろうかという。
それよりも私達は市民として、一人間として、自分たち自らでしっかり勉強しないとダメなんじゃないかと。
そういう個人の人民の努力が世の中全体をよくするのではなかろうか。
そういう考え方の方。

学校で何か事件が起きたときにまずいちばんにカウンセラーを呼ぶという、もう学校現場のモードのようになっている動きがある。(118頁)

両者は気前よく己の時間をこの問題にあててその原因を探るが、知性の肺活量と呼ぶものが少なすぎる。
「なぜそういう問題に陥ったのか」というのをまず自分たちで考えてみよう。
専門家の知識とか専門用語にすがらないで。
要は「誰かが答えを握って正しく、市民はそれを受け取るとよいことがある」という方程式は世の中にないのだ。
スクールカウンセラーなんか置かなくて、その非行に走る少年たちの予兆みたいなものを、今の人たちは捉えきれない。
これは一体何なのだろうか?という。
それは私達の力が少しダウンしているんじゃないか。
生きていく力。

リーダー、つまり人の世のトップに立ちたがる人間、そういうものが子どもたちにパーッとあふれると世の中そのものが脆くなっていく。
たとえば私達は○十年前、失敗の世界大戦を引き起こした歴史を持っている。
なぜあんな馬鹿や戦争をやったのかを探らなければならない。
その一つに戦前の日本の大半の少年たちが夢見たもの。
「君は将来何になりたい?」
日本全国の少年に聞くとだいたい同じ答えが返ってきた。
それは「陸海軍の大将になりたい」。
少年たちがみんな軍人さんの大将になる夢を持ったという社会は非常にもろかったではないかと仰っている。
(本の中にはそういう話は見つけられなかった)

深い味わいを感じつつ耳を傾けた、松下幸之助の、意表をつくようなリーダー論である。−中略−彼があげたのは、まずは「愛嬌」、次に「運が強そうなこと」、最後が「後ろ姿」である。(149〜150頁)

愛嬌のあるひとにはスキがある。−中略−「わたしがしっかり見守っていないと」という思いにさせる。(150〜151頁)

人がこう思うと、その人の周りにはすごい強いチームができる。
才能は人を呼ぶのである。

 次に「運が強そうなこと」。ここで注意しておくべきは、松下がけっして「運が強いこと」とは言っていないことだ。−中略−そういう「運の強そうな」ひとのそばにいるとなんでもうまくいきそうな気になる。(151頁)

「後ろ姿」は無言の言葉である。
その人の後ろ姿を見ると付いて行きたくなるというような後ろ姿。
懸命に説明したがる人は意外と脆い。
後ろ姿で人を惹き付ける人、無防備で緩んだところがあるが、その緩んだ無防備の後ろ姿に余韻がある。
「そういう人が人を引っ張っていくのにはもってこいなんだ」という。
よくリーダー論で言われる「軸がぶれない」「統率力」「聞く耳を持っている」そんなものは三の四の次だ。

とある武道家の方から「あなた運強いでしょ」と言われた武田先生。
「やっぱ運いいんですよ」と言ったら「それは、まぐれじゃなくて運が強いんだ」と言われて何かギクッとしたことがある。
面白いなぁと思う。

精神科医の中井久夫は−中略−サルの集団になぞらえてこう言っている──
 お猿の実験では、ナンバー2の性格がその集団を決めるんです。ナンバー1をたとえロボトミーにしても、ナンバー2が権力欲をもたずに、しかも集団を余裕とユーモアをもってまとめていく能力があったら、その集団は決して崩れないんです。
(153頁)

これから長らく続くであろう「右肩下がり」の時代は「我慢」と工夫の時代であろう。ここでは、だれかに、あるいは特定の世代や社会層に、どこか特定の地域に、はたまた何か特定の業種に、ダメージが集中しないように、負担とリスクの分散をさせること、それらを均等に担うことが求められる。(153〜154頁)

政治という術があるが、それがこの「揚げ足を取ったり」的のエラーを哄笑する、あざ笑う、そういうことではなくて「条理を尽くして説得していく」という。
鷲田さんはそういう意味で現安倍政権に非常に強い疑念を持ってらっしゃる方。

「条理を尽くす」には、理路を説く前にまず「相手の立場や心情を十分に顧慮」することが肝要だ。(157頁)

安倍さんにはそういう「条理を尽くす」というのはちょっとできてないんじゃないかという批判があった。

「何を言っているかではなく、その人間が何を聞き取る人間であるのかを注視していれば間違う確率は少ない」とは平川克美の言葉(157頁)

最近武田先生が魅せられているのは「ワイルド」。
自分の中でそういう「野生」みたいなものがどんどん薄れていくからだろう。
自分に何がないのかというと、やっぱり明らかに野生がない。
どんどん野生が落ちているので、個人的に野生の研究に入っている武田先生。
野生の研究の本に「裸足で走れ」と書いてあった。
それで暇な時に、とある公園を裸足で走っている武田先生。
それと靴を変えて袋状の靴下をやめ、五本指靴下にした。
そうしたら足の形が変わり始めた。

平田オリザさんは劇団を主宰してらっしゃって、その劇団の採用面接での基準を話してらっしゃる。

彼は劇団員の採用面接をするときに、入団希望者の話を聞きながら、コンテクストの近いひと、コンテクストを広げられるひと、独特のコンテクストをもったひとに分類し、もっとも遠いひとから順に選んでゆくというのだ。(158頁)

(番組では「最も自分に遠い人」と言っているが、本の中では「自分に」という表現はないので、その解釈でいいのかよくわからない)

二〇一〇年、NHKのドキュメンタリー番組「無縁社会」が放映された。−中略−高齢の親の死亡を届けずに年金等を受給し続けていた一家族の「事件」に、「無縁社会」というこの番組の残像を重ねたひとも少なくなかっただろう。これに家庭内の幼児虐待がそのまま死につながった事件や、いじめのはての小学生の自殺の報道なども続き−中略−
 地縁も血縁も社縁もやせ細ってしまったこの「無縁社会」についてのドキュメンタリー番組の残像がいまなお色濃いのは
(164頁)

鷲田さんは現代社会という中で、若者がいかに縁というものを見つけにくい時代になったかというのをものすごく丁寧に分析してあった。
自立の概念が自己決定、自己責任と同じものにされている時代、縁に希望を見つけることは人間にとって困難なようである。

著者はようやく「しんがり」にふさわしい現代語に辿り着く。
「ボランティア」
自分をさて置いておいて「あなたを助けることによって、私は私を確認している」という。
ボランティアに関しては、最近の若い人を尊敬している武田先生。
もうサラッと言う。
武田先生が大学生の頃にボランティアというので大学で授業があって、いかにヨーロッパでボランティアが当たり前で、日本社会は全然それに追いついていないというのを教壇の上から嘆くだけ嘆いていた教授の顔を覚えている。
スウェーデンだったかの例を出して、ボランティアを何年やったかというのは嫁入り道具になる。
技術があってボランティアの何々とかっていう技術を取得すると、ものすごく姑さんから喜ばれる。
だから介護力、介護術みたいなのも一緒に教えられるらしい。

阪神・淡路大震災からまる二十年。そのあいだに培われ、根付いてきた文化の一つに、ボランティアがある。そしてそれがその後起こった新潟の、そして東北の震災時にもさまざまな救援のかたちで働いたのは、記憶にあたらしい。(187頁)

このボランティア技術こそズバリ「しんがりの思想」と呼べるものではないだろうかと鷲田さんは仰る。
(本の中にはそういうふうには書いていない)

哲学者である著者は言う。
私が自由であるためには自由を他者に要求すると共に、同等の自由を他者に送らなければ自由は獲得できない。

内田樹さんがよく言う。
「私という存在を確認するためには、あなたを経由しないかぎり、私は私を獲得できない」
私は私の名前をつぶやくことによって、私は返事しない。
私は私の名を他人から呼ばれて返事することで私を確認する。
だから他者がいない限り、私は私を確認できない。
これは哲学。

 数年に一度、投票というかたちで関与するのが精一杯の民主主義、そこにおいて「主権者とおだてられながら、なんと空しい存在でしょう」とみずからを自嘲したあと−中略−
 そんなある日、近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。
「お買いものとは、どんな社会に一票を投じるかということ。」
(198頁)

ずっと前にニベアを絶賛していた水谷譲。
ああいう女性の感性に驚かされる武田先生。
男はそういう依存度がすごく低い。
「ニベア」「クリーム」とやったら男は「クリーム」の方だけを見て「これ、肌につけるやつだな」とか。
上の方のメーカーはわりと無視するというのがあるので、女性のそういう製造会社に対する依存、女性の持っている感性はすごい。
奥様にもそういうところがあると感じる武田先生。

DVDのレンタル店が殺伐としている。
武田先生が行った店がそうだっただけかもしれないが、ソファが置いてある。
近所の団地の子が5〜6人くらいで靴を脱いで裸足で、丸い玉を並べるスマートフォンのゲームをやっている。
そして借りに来た人たちはカゴを提げてボンボコボンボコカゴの中に。
夢もカケラもない。
荒涼としているようにしか思えない。
面白くなければ早回しをして見てしまうという水谷譲。
指を指して「これ!」みたいなのが店内に漂っていない。
「これを見るぞ」みたいな意欲が全く無くて、ダーンとカゴの中に入れる。
商品の扱いも乱暴だし、手にとった商品に、商品の重みがない。
万引き用で中身が抜いてあるのでパッケージだけというような。
昔、レコード屋さんで視聴をお願いすると、塩化ビニールの黒い盤をものすごく大事そうにテーブルの上に置く。
それで慎重に針を置く。
LPの12曲の中で1曲だけ聞いていいとかっていう。
その時のLPの扱い方の指先が、その塩化ビニールの盤がいかに貴重かみたいなのが伝わる。
それで1200円くらいだったかの当時のLPを買った時というのは、そのレコード屋さんの手つきを真似して、自分もターンテーブルに置く。
そうするとビートルズが流れ始める。
それはもう、ただの消費行動ではなく「彼らとつながった」とか「文化的に全世界とつながった」とかという、そんなアレがあったのだが、今は扱われ方が乱暴。

 レヴィナスの哲学の基本概念に「有責性」(resuponsabilité)というものがあります。(202頁)

「責任」は英語にリスポンシビリティ(responsibility)の訳語として使われている。この語はrespondとabilityの合成語で、要は、何かに応じることができるということである。「助けて」という他人の声、もしくは訴えや呼びかけにきちんと応える用意があること、そういう意味がこの語の芯をなしている。(201頁)

誰かが絶叫している。
「Help me!」
それに対して私達は応答しなければならない。
その時の応答の声は英語で言うと
「Can I help you?」
これはやっぱり英語というものの明快さ。
「Can I help you?」これを日本語に訳すと「いいえ、お互い様ですよ」という。
こういうのを歌にしたいと思う武田先生。
「お陰様」「お互い様」そういう言葉で一曲作りたいなと思う。
誰に命令されるわけではない、己に命じる行為。
その自由さを担保する。
そのために私はあなたに「Can I help you?」「できることありますか?」「お互い様ですよ」という、そういう言葉「responsibility」反応しなければならない。
それが「しんがりの思想」の一番深いところにある芯なのであるという。

コメディアンの財津一郎さん。
財津さんが『金八先生』の時に武田先生に教えてくれたこと。
「サービス精神というのはね、武田君。サービスをする時、もったいぶって『サービスをしますよ』じゃない。サービスに入った瞬間『喜んで、喜んで〜』って言いながらその行為に入るんだ。それが芸だし、それが芸人のサービス精神なんだ。出し惜しみしちゃいかん」
せっかく何かを自分が思い立って「お手伝いしましょうか?」って言うんだったら、その表情に満面の「喜んで〜」っていう、そういう表情がなければ一文の値打ちもないという。

武田先生がずっと読んでいてまだ終わらない『菜の花の沖』

菜の花の沖〈1〉 (文春文庫)



あの中で日露史が出てくる。
司馬遼太郎という人が歴史を辿りながら、日露史の齟齬というか、うまくいかないところをずっと書いてらっしゃる。
徳川時代から日本国とロシア国って何もうまくいっていない。
もうギスギスした関係。
ロシアが江戸時代の真ん中くらいに「貿易したい」と申し込むと、日本の横着な長崎の役人は「お白洲に正座して上奏しろ、伝えろ」と言いながらロシアの提督に正座を命じる。
そういう西洋文明に対する嫌味のようなことをやったばっかりに、ロシアの軍人さんたちが怒って、北海道の樺太の方で幕府が立てた番屋小屋を襲うという事件が起こった。
それは単なる私情、「ワタクシ」の感情だった。
それをロシアの態度だと勘違いした幕府は、次にやってきたロシアの軍人さんのゴローニンというキャプテンを捕虜にしてしまう。
そういう国家を名乗っているばかりにうまくいかない。
ところが感動するのは、個人としてロシア人と日本人はすごくうまくいっている。
ゴローニンという人は高田屋嘉兵衛(番組内で「高島屋」と言ったようだが、多分「高田屋」)という淡路島生まれの商人と言葉もあまりできないのだが何カ月か過ごして「すごいいい人」とお互いに認め合う。
ゴローニンという人はすごくいいロシア人で、アイヌの人たちの暮らしぶりにものすごく同情して「この人たちが幸せになるように、もう少し考えてあげようよ」なんていうことをちゃんと文面で残されているし、高田屋嘉兵衛はアイヌの人たちと遭遇すると白いご飯を握り飯にしてプレゼントした。
つまり個人としては非常にうまくいくロシア人と日本人だけど、国家を名乗るとケンカばかりしてしまうという。
「日本」は国家を名乗るとロクなことがない。

この間、爆買いにやってきた中国の青年がtwitterに書いた。
日本で買った爆買いの土産物を失くした。
置き忘れたのだろう。
「すげえぜみんな聞けよ。必ず戻ってくるんだ」
そのことを中国の青年はものすごく感動しているのだが、その手の青年が一人、中国の上海に理解者としているということを喜べばトップが世界を変えるんじゃなくて、しんがりが世界を変えていく。

2016年3月14〜25日◆『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一(前編)

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)



関西方面にいらっしゃる哲学者の先生。
武田先生と年齢が同じ(お二方とも1949年生まれ)。

「しんがり」という言葉が好きな武田先生。
「どべ」「ビリ」ということ。
鷲田さんは心構えのことを仰っているので、具体例は本の中にはない。
「リーダーシップ論」があるが、鷲田さんの発想は「そうじゃないんじゃないか」。
武田先生が好きな考え方「反リーダーシップ論」。
世の中を決定しているのはリーダーじゃなくて、優秀なビリの人を持っている社会が良い社会なのだ。
「しんがり」の人、最後尾を歩いている人、走っている人。

「しんがり」という言葉そのものは、日本史の戦国期、合戦で用いられる軍事用語。
詳しく言うと、隊列や陣、序列の最後、最下位を示す言葉ではあるのだが、この「しんがり」というのは合戦や戦闘になった時、最も勇敢な軍人が担当する戦闘場所。
だからしんがりというのは、いざ戦闘となった場合は意味がコロッと変わる。
具体例で言うと、例えば織田信長の軍勢が武田軍と激突する。
織田信長はコテンパンにやられる。
武田軍は圧倒的に勇猛果敢で強い。
それで信長は何と、ほとんどの兵隊さんを全部捨てて、まず自分がトップバッターで逃げる。
退却戦になるのだが、その退却戦になった瞬間にリーダーの信長は一番最初に逃げながら言い置いた命令が「しんがりは秀吉」。
「退却戦のビリは秀吉が担当しろ」
これは何を意味するかというと、最も優秀な信頼できる兵士であるということ。
秀吉は何をやるかと言うと、退却戦の最後尾について味方を逃しつつ、敵と戦い自分も逃げる。
これをやらなければならない。
だからしんがりを担当するというのは、知恵があって戦争に強くて度胸満点。
三拍子も四拍子もそろわないと退却戦においては、しんがりは任せてもらえない。

幕末に薩長軍と幕府軍が鳥羽伏見で激突する。
時の勢い等々があって、幕府軍は総崩れになる。
退却戦に入る。
その時に大阪までの退却戦のしんがりは誰か?
新撰組、土方歳三。
その全体の軍隊の中で最も勇猛果敢な人間がしんがりを担う。
数千の薩長軍に対して、新選組は土方をトップにして数十人の単位で、千の軍勢を止めたというので武名がものすごく上がる。
「さすが土方」と。
そのしんがりの意味合いが変わるというのは、このへんのこと。
普段は「最後」という意味を示すのだが、戦闘になって退却戦になった場合、しんがりといのは最も勇猛果敢な、リーダー以上に優秀な人でないと担当できないという。

前に『三枚おろし』で日立の社長さんのをやった。
あの人は「しんがり」のことを「ラストマン」とおっしゃった。
船が傾いて沈んでいく時に、全員避難したかどうかを全部チェックして最後に船を脱出する人。
この「ラストマン」と同異義語が日本には古くからあって、それが「しんがり」ということ。

 リーダー論、リーダーシップ論がとかく賑やかである。(2頁)

 そもそも、みながリーダーになりたがる社会はすぐに潰れるということがある。(6頁)

リーダー論に素直に従うようなひとほどリーダーにふさわしくない者はいないという、語るに落ちる事実がある。(6頁)

それよりはしんがりの人、これこそが本当の勇者ではないか?

民俗学者の宮本常一。
『三枚おろし』でも取り上げた方。
(このブログでは取り上げていない)

庶民の発見 (講談社学術文庫)



ある石工の言葉として、宮本が『庶民の発見』(一九六一年)のなかで記録しているものである。「ほめられなくても自分の気のすむような仕事はしたいものだ」とも、この職人は語っている。−中略−
 石工は、田舎を歩いていて見事な石の積み方に心打たれ、将来、おなじ職工の眼にふれたときに恥ずかしくないような仕事をしておきたいとおもった。
(9頁)

黙々と田舎の河原の土手あたりにしっかりした石を組んでいる、あるいはその石組を見て感動している石工さん。
「実はこの手の人たちが世の中を作っているんだ」と仰っている。



寂しい浜辺を遠くの方で一人、走っている。
そうするとナレーションか文字か何かで「もうオリンピックは始まっている」
長距離ランナーらしきその青年は、オリンピックを目指して練習している。
それをそのコマーシャルは「もうオリンピックは始まっている」という。
ジーンとくる。
影で努力しているその影の人。
鷲田氏はそういう「影」とは言わないまでも、そういう人たちが大事なんじゃないか。
リーダーよりも最後尾のしんがりの人たちが大事なのではないか。
なぜ、その人たちが大事か。
それは日本が縮小社会に入ったから。
日本は縮んできている。
年間で25万人のスケールで人口が減っている。
だから4〜5年で百万都市が一つ消える。
そういう激変が日本には訪れつつある。
1970年代、人口は一億を突破し、30歳以下の若者人口は国民の49%。
そういう世相が変わって日本という国は老いに入った。
2008年、1億3千万を超えた人口はついに減少に転じ、出生数は減少。
もはや4人家族、子供が2人の家族、こういう家族がもう珍しくなった。
これは間違いなく縮小社会であって、2011年の大震災と原発事故が追い打ちをかけ、地方消滅というような危機が今、進行している。
これからも果てしなく日本の縮小は続くであろう。

 この国は本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつある。(144頁)

「負けた」というのではない。
やっぱり国にも攻め込んでいく時と、退却する時と二つあっていいのではないか。

震災の半年後にNHKの朝の連続テレビ小説「カーネーション」の放送が始まった。(39〜40頁)

カーネーション 完全版 DVD-BOX1【DVD】



岸和田に生まれた女三人姉妹(コシノ3姉妹)がファッションの道を歩くという。

 番組の折り返し点は敗戦の日。その玉音放送のシーンだった。玉音放送を聴いたあと、洋服店を営む糸子がすっくと立ち上がり、家族や従業員たちに言う──
「さ、お昼にしょうけ」
(40頁)

つまりこれじゃないかと。
このエネルギー。
これこそ「しんがりの哲学」ではないだろうか、というのが鷲田さん。

このあたりから大阪NHKは続々とヒットが朝ドラで出る。
今はまた『あさが来た』か何かで大人気。

連続テレビ小説 あさが来た 完全版 ブルーレイBOX1 [Blu-ray]



福沢先生も活躍なさった。
(武田先生が演じられたらしい)

何故、人はリーダーを探すのか?

 だれもみずから責任をとらないで、他者に「押しつけ」るという責任放棄の構造。これに合わせ鏡のように対応するもう一つの責任放棄の構造があるようにおもう。「おまかせ」の構造である。(47頁)

近代国家の成立したばかりの日本で、そのことをまずトップバッターで嘆いたのが、何と今、話に出た福沢諭吉という先生。

「人民はこれを一国文明の徴として誇るべきはずなるに、かへつてこれを政府の私恩に帰し、ますますその賜に依頼するの心を増すのみ。〔中略〕人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かへつて民心を退縮せしむるの具となるべきなり」と、福澤はいう。(50頁)

政府が頑張って鉄道を引いた、政府が頑張って家を庶民のためにいっぱい建ててくれた。
「あー政府っちゃありがたいありがたい」
「そんな情けない国民を作ってしまった」と仰っている。
「何を言っとるんだ」と。
「なぜ自分が時代の主人公であると胸を張らんのか。鉄道を作ったのは政府にあらず国民なり!」
福沢先生はこの時代からこのことをおっしゃっている。
「一番重要なのは政府ではないんだ。国民の質なのである」と。
「国民の質こそが全てではないか」と仰っている。

メディアによって編集された情報をそのまま反復して、まるでニュースキャスターが言っていることをなぞるようなことを持論になさっている方がいらっしゃる。
それではつまらない。
「時たま違うことを言ってもいいのではないか」と思う武田先生。
それから、いろいろ政治を批判なさる、憤る方、ものすごく怒りながら国民を叩く人がいらっしゃるが、あの人の叩き方は「映りの悪いテレビの横っ面はたく」ようなもの。
昔、父ちゃんがよく叩いていた。
叩けば時々目が覚めたように映り始める。
でも、叩くことで映りがよくなるテレビと違って、社会・世間というのはよくならないのではないだろうか。
巨大規模で人口減少に入った現在、サービスのための政治とか市民を持ち上げてくれる行政サービス、そういうのは時代としてもう終わったんじゃないか。
それなのに「市民がバカになっている」と。

今年(2016年)「真田ブーム」。

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真田っていう人もよくよく考えてみると「しんがり」の人。
家康に勝ったところで「天下を取る」という、そこまでの野望は持っていなかった人。
「一泡吹かせてやりたかった」という。
草刈(正男)さんがやっている幸村の父(真田昌幸)。
あの人の気持ちがわかる。
真田幸村は最後まで家康に抵抗して大坂城での戦いではものすごい勇猛ぶりを見せる。
でも絶望的。
勝てるわけがないのだから。
何でそんなファイトが燃えたのかといったら、真田は家康と3回戦って1回も負けたことがない。
平べったく言うと、4回目をやってみたくなる。
何かその痛快さ。
六文銭なんていう発想そのものがまさに「しんがりの思想」。

武田先生がちょっとジーンときたこと。
清原事件の時の桑田(真澄)さんの登場。
彼は清原について語ったことがあって「いつまでも4番打者であるってことが忘れられなかったのかな」と言った後「僕たちは『見せる野球』。何万人のお客さんに来てもらって『見せる野球』というのに憧れて生きてきた。その『見せる野球』というのが終わるんだ。そしたら今度は自分が支える野球というのをやらなければならない。一番最後はどこかで静かに野球を見ているという、そういう人間にならなければならないけど、最後まで清原は見せる野球っていうので支える野球ができなかったんじゃないかな」という。
これは芸能人にもピッタリ。
視聴率戦争の中で戦いつつ、必死になって順位を争ってきた。
「今週○%」とか。
やっぱり「数字じゃない」なんてことは主役をやめないと言えない。
主役一はやっぱり数字と一緒に背負う。
その後、桑田さんが言った「支える野球」という。
だから武田先生も「支える芸能人」。
一番最後は「芸能を見る人」あるいは「楽しめる人」に自らならないといけないなと思う武田先生。

 こういう仕組みが完備してゆくことで、市民生活において逆にクオリティを大きく損なったものがある。いうまでもなく、《いのちの世話》を自力でおこなう能力の喪失である。いまこの国で、赤ちゃんを取り上げる腕前をもつひとは専門職を除きほぼゼロである。遺体の清拭や死化粧をするひと、できるひともほぼゼロである。調理において魚を捌けるひとも、家人の病や傷の応急手当ができるひとも格段に減った。(62頁)

この間、地方のテレビ番組で盛り上がったこと。
食中毒の話になったのだが、昔の母親は鼻一つだった。
ご飯か何か、夕方にカゴの中に入れたものを母がクンクンと鼻で嗅いで「喰える」と言うと、うわーってみんな家族でご飯を食べたというのがある。
保健所の仕事みたいなものもお母さんが鼻一つでやっていた。
ジャッジメント。
「消費期限、賞味期限なんか袋に書かなくても結構だ。そんなものは私が判断しますわ」という。
震災時「どこへ逃げるか」「どうやって逃げるか」「何を持って逃げるか」みんな自分で判断していた。
あるいは最低限の排泄物の処理。
もう「自分のところの排泄物は自分の畑へ」なんていう。
完全エコの三角マークみたいな人がいた。
あるいは降ってくる雨を自らの工夫で飲料水に変える等々。
そういう「命の世話」というような最低限の能力がもう全くできない。
すぐにプロを呼ばないと気がすまないという市民に成り下がっているのではないかという鷲田さんのお叱り。

むかしの庶民の家にあっていまはないものに話が及んだ。で、とっさに浮かんだのが、わたしは救急箱、お相手は大工箱、この二つだった。(63頁)

どんな家庭でもカンナ、トンカチ、ノコギリ、糸のこ。
そのへんで箱を組み立てるぐらいの道具は。
台風がやってきたら家の修繕。
武田先生の家はプロでもあったのだが、ミシンがあった。
これらのことを実は全部今、プロに任せて甘えきっているのではないかというのがこの作者からの声。

「しんがり」を漢字で書くと「殿軍」。
(「殿」だけで「しんがり」と読むようだが、小説で使われているのは「殿軍」らしい)
別名はこの通り「でんぐん」と呼ぶ。
これに初めて接したのは『竜馬がゆく』。
司馬(遼太郎)さんの本に出てきて、一発で好きになった言葉。
龍馬の友達の土佐勤王党の誰かが新撰組に追われる。
四、五人いて、一人、腕は大したことがなが度胸が抜群のヤツがいて、トップバッターで沖田と土方が追ってくる。
その時に友達の四人を逃がしておいて、ブワーッと抜刀して四人の仲間に絶叫した言葉が「おいが殿軍(でんぐん)!おいが殿軍!」と言う。
「俺がしんがり!俺がしんがり!」という。
つまり「俺が新撰組と格闘している間にお前らは逃げろ」という。
その時に覚えたその「殿軍」と書いて、司馬さんがそこに「しんがり」というルビを打つ。
「しんがりを務めた○○は」と書いてあって「沖田、土方になますのように斬られた。が、血しぶきを浴びつつなお、その頬に笑顔が残っていたという」とか。
何かもうゾクッとするような表現がたまらなく好きな武田先生。

ちなみに「しんがり」を「殿」と書くのは「殿」の展(屍)がひとが几(牀几)に腰掛けている姿で、「殿」が「天子の御所」や「政務を執る所」を意味する一方で、それが「臀」に通じるところから「尻」、さらには「しんがり」を意味するようになったからだといわれる(145頁)

私達は何か問題があると、強いリーダーあるいは専門家にすがりつく。
しかしプロの専門家というのは話を聞けば聞くほど、ますます全体が見えなくなるのではないか。
北朝鮮がロケットを打ち上げた。
ロケットの専門家がスタジオにいるのだが、話を聞いていてもよくわらかない。
「だから何だ」と言いたくなる。
最近、専門家が多ければ多いほど全体像はわかりにくくなっている。
やはり世の中は複雑。

「どんな専門家がいい専門家ですか?」
 返ってきた答えはごくシンプルで高度な知識を持っているひとでも、責任をとってくれるひとでもなく、「いっしょに考えてくれるひと」というものだった。
(104頁)

複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。(107頁)

個人の自由を大切にすることは社会の多様性のため、自然界と同様、様々な人が生きているということは、社会を活性化する意味でとても大事なことである。
社会が全部均一になってしまうと、これはあきらかに退化の徴候である。

英語のリベラル(liberal)の第一の意味は「気前がよい」だということ、このリベラルの名詞には二つ、「自由」を意味するリバティと「気前のよさ」と「寛容」を意味するリベラリティとがあることをここで思い出したい(110頁)

「フリー」というのは「自由」という意味もあるが「タダ」「無料」という意味がある。
ケチな人というのは心に自由がない人。
そうやって考えると英語というのは「本質を示そう」という。
この発想は面白い。
だから一発回答ではなくて、いくつもの意味を引っ張り出していくという。
そういう知恵が今「しんがりの思想」として大事なのではないかと思ったりする。