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2015年12月31日

ファミリーマート チーズを味わう4種のチーズまん

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チーズを味わう4種のチーズまん|中華まん|商品情報|FamilyMart
人気のあるカマンベール、ゴーダ、チェダー、パルメジャーノレッジャーノの4種類のチーズを使用した、チーズ本来の味わいを楽しめるチーズまんです。クリーミーでなめらかな口当たりが特徴です。

本体 121円(税込 130円)

普通の肉まんやあんまんみたいなのと比べると、ぺっちゃんこな感じ。
私の舌は雑巾なのでそのせいかも知れないが、中のチーズの味がプロセスチーズみたいだった。
プロセスチーズをまんじゅうの皮の中に入れて温めましたみたいな味。
まずくはないけど、普通の肉まんか何かの方がいいかなと思った。

「当たり!!が出たらもう一本」になったアメリカンドッグもついでに買ってみたが、残念ながらハズレだった。

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湖池屋 こだわり揚げポテト とり唐味

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“和”の上質感漂うジューシーな味わい 「こだわり揚げポテト とり唐味」 頑固な職人技が光るこだわりのポテトチップス
カラッと香ばしく揚げられたとり唐揚げの味わいをポテトチップスで表現。ジューシーな鶏の旨みに香り高い醤油の風味を加え、和の上質感が漂う上品な味わいに仕上げました。

サークルKで165円のヤツをポイントdeクーポン値引き115円で、+Kクーポンを50ポイント利用。
内容量65g。
12月28日全国コンビニエンスストア発売。

味は鶏のから揚げっていうか、しょう油っぽいようなコンソメっぽいような味。
ちょっと硬い。
まあまあ美味しいかな。

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2015年12月30日

チロルチョコ しるこもち

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12月7日イオン各店で限定販売。
7個入り。
イオンで100円(税込)で購入。

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外側は小豆風味チョコ。
その中に小豆風味ペーストともちグミってのが入っている。
お汁粉みたいな味っていうか、あんこみたいな味がする。
それと同時にチョコレートの味がするので、そういうのが好きな人は好きらしいが、私はあんことチョコの味が同時に味わえるのが、どうも気色悪いので、これは嫌いな味だな。

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2015年12月27日

オリエンタル ドアラカレー あいだをとって、中辛

オリエンタル ドアラあいだをとって、中辛 200g×5個



今人気の中日ドラゴンズのマスコットキャラクター「ドアラ」とのコラボ商品。(中日球団承認)
だそうです。
パッケージの裏側には
第三回
レールを歩くだけの人生。

って書いてあるから、第一回とか第二回とかもあるのかも知れず。
内容量は200gで、野菜も肉もそれなりに入っているし、中辛でもクソ甘いのがたまにあるけど、これはちゃんとほどほどの辛さもあって、普通って言えば普通の味だけど美味しいと思う。

★5箱セット★ ドアラカレーおとなって、辛口200g×5箱セット (箱入) 【全国こだわりご当地カレー】



posted by ひと at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月7〜18日◆『父という病』岡田尊司(後編)

これの続きです。

戦後は大蔵官僚となり、官僚として成功しそうになるが、ふと自分に限界を感じた彼は作家への道を歩き出す。
歩き始めると同時に、今まで逃げて通った道を引き返していくという中年期を迎える。
痩せ細った文士然とした自分の体を憎み、剣道を始め、ボディービルを始める。
みるみる筋肉をつけ、最後は徴兵忌避で逃げ回っていた彼が、自ら私立の軍隊のような組織を作り、その制服を着て割腹自殺をするという人生の終わり方。
益荒男というか侍を演じたという、そういう最期を彼は迎えた。

 後に三島が自決したとき、梓は、わが子の振る舞いが理解できずに、困惑したという。(93頁)

人生の不思議なところで、父や母たちと逃げ回ったところで、最後は一人で出向くというのが人生の不思議なところ。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)



J・D・サリンジャー。

母親のミリアムは、息子を甘やかした。一家を牛耳っているのは母親のミリアムだった。ミリアムには過敏で傷つきやすいところがあり、思い通りにならないと激しいヒステリーを起こすので、ソロモンは妻に逆らえなかった。(97頁)

成績は不振で注意散漫のサリンジャー。

 こうして十六歳のサリンジャーは、ヴァレーフォージ軍学校という士官養成学校に送り込まれることとなった。軍隊式というより、文字通り軍隊の訓練を行う学校であり、生徒は連隊に所属する学生士官として扱われた。もちろん完全寄宿制で、母親に助けを求めることもできなかった。(99頁)

父母と離れ、ここで俄然、作家に目覚める。
彼は懸命に自分の中に男を作ろうとする。
このあたりコンプレックス、一種父母のうまくいかなさの中から、見つかった才能。

父と息子の関係の破綻というのは昔からある。

実際、古代ローマ時代には、父親は法的にも子供の殺生与奪の権利を有していた。今日では、父親が少し手を上げただけでも虐待とされて通報されるかもしれないが、古代ローマ時代には、親に歯向かう子どもを殺しても罪に問われなかった。(74頁)

父・息子というのも血をみるというような関係もある。
血を見ないまでも親子関係を辞めてしまう勘当というのが戦前まで日本社会には現実にあった。
父子の縁は切れた。
「関係を切る」というのも一種の関係。
勘当されてから忽然と息子に才能が芽生えるというのがある。

二葉亭四迷。
文学に生きると言われたら父がカッとなって勘当した。
出て行く二葉亭四迷に向かって叫んだ言葉が「くたばってしめぇ」。
(ウィキペディアによると筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である)

金色夜叉 (新潮文庫)



勘当が生んだ文学者。
尾崎紅葉。
この人も勘当されている。
遠藤周作も親から勘当されて作家になっている。
父と息子の間で縁を切るというのは別の縁に結ばれるきっかけにもなる。
母親は「包む」という原理なら、父親は「切る」という原理。
切るということによって別の縁が生まれるということがある。

 インドを独立へと導いたマハトマ・ガンジーの父親カラムチャンド・ガンジー−中略−
 父親は誰からも尊敬される偉大な存在であり、息子に対しても、寛大で優しい父親だった。
−中略−マハトマがイギリスに留学し、恵まれた教育を受けることができたのは、言うまでもなく、父親の社会的地位と経済力があったからだ。(128〜129頁)

 その父親は、マハトマが高等学校の上級になった頃には、病みつくようになっていた。マハトマは、父親の看病をするため、学校が終わるとすぐに家に帰った。父親は痔疾に苦しんでいたが、その手当をするのもマハトマの仕事だった。毎日足をマッサージして、父の苦しみを少しでもほぐそうと努めた。−中略−
 マハトマが心に抱き続けた罪悪感と禁欲的態度は、父親の死にまつわる不幸な出来事によって決定的となる。マハトマは十六歳になっていた。父親の容体は、手当の甲斐なく悪化の一途をたどっていた。
 その日も、父親につきっきりで看病をし、父親の足をさすっていたが、叔父が交代してくれるというので、少し休もうと自室に下がった。
 実は、マハトマにはすでに妻がいた。当時のインドの風習に従って、十三歳で結婚し、妻はすでに身重となっていた。部屋に戻ると、妻は眠っていたが、マハトマは若い欲望を抑えることができず、妻を揺り起こし、看病疲れで高ぶっていた神経を鎮めるように妻の体を求めた。ところが、行為の最中に、下僕が激しくドアを叩いた。父親の病状が急変したのだ。駆けつけたが、父親はすでに行きをひきとっていた。
 自分が欲望に溺れているときに、父親は断末魔の苦しみを味わっていたという思いが、マハトマを苛んだ。彼が後年、過酷なまでに自らに禁欲を強いるようになるのも、このつらい体験によるところが大きかった。父親に対して罪を犯したという罪悪感は、父親が偉大で、清廉な人物であったため、いっそう強まることとなった。
(131〜132頁)

 ガンジーは、子どもたちにイギリスから押し付けられた英語を学ばせたり高等教育を受けさせるよりも、農作業や人格教育を優先すべきだと考えた。ガンジー自身はイギリスに留学したにもかかわらず、息子たちには学校にさえ通わせず、英語に触れさせまいと土着の言語であるグジャラート語で話した。−中略−
 最たる犠牲者は長男のハリラールだった。ハリラールは向学心に溢れる子どもで、学校に通いたいと父親に訴えたが、父親は頑として許さなかった。
(134〜135頁)

 しかし、それでも、ハリラールは誰よりも父に認められたかった。そのため、父親の反政府運動に進んで参加し、何度も逮捕された。にもかかわらず、ハリラールが抗議運動のために違法行為をしたかどで訴追されると、ガンジーは弁護士として息子を弁護するどころか、厳しく罰すようにと裁判所で証言したのだ。(135〜136頁)

(番組では「ガンジーが弁護士を雇って銭を払って出す」と言っているが、本によると状況は違うようだ)

 ハリラールは人生の敗残者の道を歩んだ。女とアルコールに溺れ、父親の名を騙って犯罪行為も働いた。それは父に対する“抵抗運動”だったに違いない。その極めつきは、イスラム教に改宗したことだ。(136頁)

武田先生が沢木耕太郎さんから聞いたインドの夕べ。
インド女性の美しさがすごいらしい。
夕方、電燈も灯っていないようなほの暗い村にランプが2〜3個灯る。
そこをインドの女の人が歩く。
沢木氏がうたたねをしていて、やっと涼しくなって目が覚めたのだろう。
夕暮れの風がザーッと吹いて、その風の中を17〜18歳のインドの女性が白いサリーで歩いて行く時、沢木氏曰く「死んだかと思った」。
観音様が迎えにきたような美しさ。
南国だからガチッと服を着ていない。
夢を見ているみたい。
『踊るマハラジャ』の主役の女優さんもきれい。

あんまり立派な方をお父さんに持つと息子が苦しむ。
これとは真逆に、娘との関係でも父親と強く結ばれた娘というのも独特の人生を歩く。
サッチャーとヒラリー。
彼女たちはお父さんが好き。
お父さんに己を重ねたい。
(番組ではサッチャーやヒラリーは母親を見下した発言が多いと言っているが、本の中では「サッチャーは、母親を軽視するとともに」と書いてあるのみ)

クリントン大統領夫妻が、故郷、アーカンソーの田舎町をドライブしていて、とあるひなびたガソリンスタンドに立ち寄った。そこで働いていたのは、ヒラリーの昔のボーイフレンドだった。
クリントン大統領が言った。
「ヒラリー、僕と結婚してよかったね。もし彼と結婚していれば、今頃君は、田舎のガソリンスタンドのおカミさんだ。」
それを聞いたヒラリー女史は何の迷いもなく答えた。
「何を言うの、ビル! もし私が彼と結婚していたら、彼がアメリカ合衆国の大統領になっていたはずよ」

(有名なアメリカのジョークらしい。番組の中で言っていた内容とは多少異なるが、こちらの方が元ネタらしい。出展は調べてみたがわからなかった)

父は立派であれ、だらしなくであれ、その生き方において子供たちにその成長後、影を強く残すものである。

団塊世代の写真を一生懸命とっている写真家の方から、武田先生が団塊の世代の典型だということで招かれた。
「武田さん。団塊の世代について、どんなふうな印象を持っていますか?」という問いに対してその方が深くうなづいてくださった言葉。
「私は団塊の世代は父を追放した世代、そんなふうに思っております」
団塊の世代でお父さんのことを褒める人はほとんどいない。
戦争で負けたお父さんだから。
学校でも先生からそう教えられた。
日本はアジアに対してひどいことをしたんだ。
それは日本が戦争をしたからです。
中国で乱暴し、朝鮮や韓国の人たちにご迷惑をかけた。
それは日本の兵隊です。
つまりあなた方のお父さんです。
今、日中韓で揉めていることは、全部、私たち団塊の世代の父がしでかしたことであります。
やっぱり暗にあるのは、戦争を遂行した世代に対する憎悪。
仲が悪かった武田先生の父と兄。
ある意味ではそういう兄も父も嫌いだった武田先生。
ただただ母がかわいそうで。
だからあの歌(『母に捧げるバラード』のことを指すと思われる)には父がいない。
父という病にかかりたくなかった世代。
でも、よく考えてみると、父を追放した世代なのだが、父を追放したゆえに、この世代はひどい犯罪を起こす。
政治運動では連合赤軍。
自分の父を捨てて他に理想の父親を求めた。
連合赤軍の諸君はマルクスやレーニンに父親を求め、実在の父親を踏みにじった。
そうやって考えていると、この年齢になってつくづく思うのは「父にひどいことをした」。
戦争に行って大日本帝国のために尽くして、ボロボロに負けて、三百万人もの死者がいて、国土は真っ平らに焼かれて、帰ってきてから何の保証もない。
「さあ、復興だ働け」というので鉄工所で油まみれになって働き、長男や次男からは小馬鹿にされ、テレビではアメリカ軍のテレビドラマが大人気で、子供たちは『コンバット』とか夢中で見ているんだから、身の置き場がなくつらかっただろう。
親父が一年に何回か給料をくすねて「軍国酒場」へ行く。
そこには自分の部下のフリをしてくれる酒場の従業員の人がいる。
ホステスさんは看護婦さんの恰好をして「武田上等兵、しっかりしてください」。
そんなところでカネを使う父を本当に軽蔑した。
しかし、そこにしかなかったのだろう。
昔の軍隊の同窓会があって、そこで自分の所属していた連隊の連隊長が「武田、貴様の息子は芸能界で活躍している鉄也君か」と言われた時に「そうであります!」と言ったら「よか息子産んだじゃなかとか」と言われた時に父親は泣いたらしい。
帰ってきた武田先生に向かって「連隊長が褒めてくれたぞ、お前のことを」。
連隊長から褒められたことを喜ぶ父が大嫌いだったが、「それはよかった」と一緒に笑ってあげられなかったかと思うと父にむごいことをした罪を自分はこれから受けるのだろう。

内田樹氏の「我々団塊の世代、父親にはひどいことをしたものです」という一行が気になっていた。
戦争からやっとの思いで生きて帰ってきた父親。
彼に安住の地はなく、焼野原で彼は復興のために働き始め、油臭くて最低限の労働環境の中で働きつつ、子を大きくし、その子供たちからは何一つ感謝されない。
子供たちは民主主義という新しい制度を学校で学んで帰って来るが、それが父親たち世代、戦争を起こした世代というのが日本をこんな目に遭わせたんだと、学校の先生もそんなことをおっしゃる。
父を追放し、民主的親子関係を目指す。
自分が家庭を持ったら、俺はこんな親父じゃなくて、友達のような、アメリカ人の親子みたいに「お父さん」じゃなく「タカシ」みたいに名前で娘に呼ばせたりなんかするという、そんな親子になるんだと思っていた。
友達のような親子関係になろう。
そんなふうにつとめてみたが、その結果はどうであったか。
世間にはニート、引きこもり、結婚に興味を目指さないという若者たちが。
自分たちが夢見たものとは全く違うものしか夢見ないという子供たちで溢れている。

著者は終章で、父親を求め続ける子供として母と父に聖邪の価値を付けない方がいい。
「こういうお母さんはいいんだ」「こういうお父さんは悪いんだ」
そういう○×で父と母をつけない方がいい。
なぜなら聖者はするどい理由で全面の否定、邪を塗りつぶし、聖を疑うことなく信じてしまうからである。
○×で父母を見ぬ方がいい。
振り返ってみると、武田先生の出世作『母に捧げるバラード』は母ちゃん○、父ちゃん×。

母に捧げるバラード(海援隊)



著者は聖邪・○×ではなく、損得ではなく、父との関係というものを統合してもらえないか、内に含んでもらえないか。
理想でもなく、否定でもなく、憧れ、支配、そういうものではなく父というものを統合してください。

 父親に関する客観的な事実やエピソードを集めて、その人生を再構成してみるのもよいだろう。父親も一人の人間で、あなたと同じように、孤独や辛さや苦しみを抱えながら生きていたはずだ。(326〜327頁)

「父」というと酒を飲んで暴れることしか思い出せない武田先生。
でも、楽しいことが全くなかったかというとわずかにある。
思い出の始まりが海。
四歳ぐらいの頃、生まれて初めて海を見せてくれたのが父。
その海岸がちゃんとある。
四歳の武田先生は、海を見てあまりの広さに「なんてとこだ」と思った。
志賀島というというところに父と二人で海を眺めに行った。
海を見せてくれたのは父だった。
酒を飲んで暴れたのも父、東京へ行くと決心した武田先生にものすごい形相で「おまえ家出を計画しとらんか」と疑ったのも父。

あの頃映画 幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010 [DVD]



『幸せの黄色いハンカチ』が大ヒットした時、ガンの徴候があった父が気弱に武田先生の前にハガキを一枚ポロンと置いて「鉄矢、もうリクエストカードは書かんでよかろう」。
母からノルマでハガキを50枚書かなければならかった父。
そうしないと母から物差しで手を叩かれる。
「動いとらんばい、手が!」
リクエストカードに書く人生に疲れたのだろう。
それも父。
悪い父の思い出と、悲しげな父の思い出と、やさしい父の思い出を一緒に思い出すべきです。
そのことを「父を統合する」という。
子供は父を必要としている。
その当たり前をかみしめるべきであります。
思い出すとよい。
父も悲しい人でありました。
また、愛すべき人でもありました。
そう思いかえせる時、心がとっても静かになる。
父の悪口を言う人の心は荒れている。
しかし「父は父でつらかったんじゃないかな」そんなふうに父を語ると心が静かになる。
父を語る口調、それが心を静かにさせる唯一の道ではないか?

2015年12月7〜18日◆『父という病』岡田尊司(前編)

時々「家族にとって必要ではないのではないか」と自分のことを思ってしまう武田先生。
ヘンリー・フォンダの『黄昏』をDVDで見て泣けた武田先生。

黄昏 [DVD]



ヘンリー・フォンダが役立たずのくせに頑固で、娘のジェーン・フォンダが帰ってくるんだけど、命令ばっかりする父親に反発して、再婚相手の血のつながらない孫がいて「そうとうおじいちゃんなんでしょ?あなた」「死ぬの怖い?」と訊く孫で、フェンリー・フォンダがオタオタしながら再び人間の関係を。
おばあちゃん役のキャサリーン・ヘップバーンがいい。
『黄昏』のフェンリー・フォンダを見ていると老いが他人事じゃないと感じ、考え込んでしまう。

(051)父という病 (ポプラ新書)



(私は新書の方を読んだのだが、新書じゃない方も出ているので、番組で扱っているものとはページ数などが違っているかも知れない)
本の腰帯の大文字「父親って必要ですか」。

夏場のこと、喉が渇いていたのでガリガリ君のブルーがどうしても食べたくなって三軒茶屋のコンビニに入った武田先生。
血糖値が高くて本当は食べてはいけないのだが。
そのコンビニで見かけた二十代後半のお母さん。
66歳の武田先生が見て、かぶりつきたくなるようないい女。
ノースリーブの太い二の腕。
男の子のお母さん。
肩に乗せんばかりの肩幅。
全盛期の小谷実可子のよう。
肌は小麦色で、口紅は真っ赤。
小さな男の子にキリンさんのお母さんのように覗きこむようにして「アイス食べる?」。
思わず「食べる!」と答えそうになる武田先生。
母でもないのに、なついていきたくなるぐらい。
後ろからみているとフトモモにすがりつきたくなるぐらい。
そういう圧倒すべき肉体を持った女性を見た後、先日の秋口にたくましいお母さんを見て、近くの公園を走っている足が止まって、見とれて動けなかった。
ガッチリとした輪郭、シルエットをお持ちの女性がノックバットをやってらっしゃる。
この方のノックバットの振り方。
運動をやっていた武田先生が肩から腰を見ると、相当若い頃、運動をやっていた体形なのがわかる。
44〜46歳ぐらい。
男の子三人相手にノックバットで野球のキャッチの指導をなさっている。
男の子三人は小学校の低学年、中学年、高学年。
2、3、6というような男の子三人が低学年から手前に三人縦に並べてゴロからフライまでやる。
その時のお母さんのノックバットしながらの檄にうっとりとする。
コンビニで出会ったお母さんも、何に圧倒されるかというと、この方々は子供らを自分の体から産んだこと。
女性の力、あの雄姿というのは、男親にはありえないのだ。
男親は王(貞治)であろうが長嶋(茂雄)であろうが高橋由伸であろうが、てめぇで子供を産んでジャイアンツの選手にして鍛えることはできない。
このお母さん方みたいな方々を見ているうちに「男親って本当に必要なのか?世の中、女だけで充分回るんじゃないか」という自信のなさがこの本を手に取らせた。

果たして「父は病」なのか?

母が男たちを産み、男としての命を与えている。
男としての力を母が授けている。
今でもかろうじて父である武田先生。
その光景に圧倒された。

生物学の定説。
「男」という種はすでに絶滅にさしかかっている。
Y染色体はどんどん小さくなっていっている。
遠い将来、男はいなくなる。

 母親役の存在がいなければ、子どもはまともに育たないどころか、成長さえも止まってしまい、生命さえも危険になるということは、夥しいデータが裏付けた揺るぎない事実だ。このことは、人間だけでなく、すべての哺乳類に当てはまる生物学的な事実でもある。これは、すべての哺乳類が、オキシトシン・システムという同じ愛着の仕組みを共有するためだ。
 では、父親についてはどうか。
 まず、生物学的な観点から言うと、母子と生活を共にし、子育てに父親がかかわる種は、哺乳類全体の三%程度とされ
(12頁)

イクメンが当たり前だと思ったら大間違い。
哺乳類の世界にイクメンなんていない。
「おしめは私が替えましょう」とか「お風呂は私が入れております」というシロナガスクジラはいない。

 採取狩猟生活では、母子だけで暮らすことにあまり不都合はないが、農耕生活になると、高度の組織化された社会的協力や蓄積された富をめぐる集団間の組織的な戦闘が起きるようになり、社会の掟やルールに沿った行動様式を身に着ける必要が強まった。(13頁)

農耕によって父は「家」という単位のリーダーで、教育者で精神的支柱だった。
その象徴が今は変わりつつある。
今はますます男はいらなくなった。

 平成二二年の犯罪統計から、少年犯罪のピークである十五歳で見ると、実父母がそろっている家庭が約六割だったのに対し、実母だけの家庭は三割を占めた。−中略−父親のみの家庭の占める割合は、母親のみの家庭の約四分の一で、それを考慮すると、そのリスクは、さらに二・五倍程度の上昇を示すと推測される。(16頁)

そういう意味では(父親は)やや役に立つ。
父親というのは象徴的な存在。

 二十世紀の初め、フロイトが精神分析を創始してから半世紀近く、その中心にあったのは父親だった。フロイトがエディプス・コンプレックスを発見したのは、フロイト自身の自己分析によってだ。(17頁)

エディプス・コンプレックスというものが、全ての男の子の中にあるのではないか?
それは父に対する一種反抗心という無意識を持っている。
フロイトは激しい言葉で「男の子は成長するにしたがって母親を取られまいとして、夢の中で、あるいは譬えとして一回父親を殺さなければならない」。

「お父さん」というのが西洋のシンボルでは「ドラゴン」になる。
向こうの騎士は龍退治をやる。
あれはお父さんをやっつけて嫁さんを手に入れる。
子供は龍をやっつける物語が好き。
テレビゲームの『ドラゴンクエスト』。
あのドラゴンの後ろ側には父親がかくれている。
父親はやっつけなければならない敵なのだが、やっつけた後に父親の象徴であるドラゴンを子分にしたら少年たちは遥かな旅に出る。
ドラゴン、龍というのはとても大事なシンボル。
父親の象徴でもあるが、男の子が一人前に育つために、寄り添うべき存在でもある。

父という存在が人間の中で複雑なものになっていく。
そのなる過程としてフロイトという心理学者が言ったようにエディプス・コンプレックス。
子供というのは、特に男の子は一旦父親を殺して、しのいで、乗り越えて自分の中にある「男」というものを確立しなければならない。
一度父を倒さなければならない。
男の子は必ず通過する。
現実にぶつかる場合もある。
酔っぱらった武田先生のお父様が「柔道を教えてやる」と軍隊で習った柔道で。
当時柔道部だった武田先生。
酔っぱらった親父など簡単。
投げ飛ばした。
「抑え込んでみろ」というから抑え込んだら一歩も動けなくなった。
父が「まいった」をした。
次の日から父がものすごくおとなしくなった。
アメリカで言うところのキャッチボール。
息子のボールが取れなくなった父親。
そういうものの中にフロイトが言うところの「父親殺し」。
そういうものが誰の人生の中にもある。
個人によってはものすごく大きくなることがある。

フロイトへの回帰を主張したフランスの精神分析医ジャック・ラカンだった。ラカンは枠組みを与える父親の機能を「父の名」と読んだ。−中略−「父の名」とは、象徴的な意味での掟であり法だ。(20頁)

そういうふうに解すると、あるわけのわからない物語がパッとわかったりする。

進撃の巨人(18) (講談社コミックス)



あの城壁の向こう側に立っている巨人は「父」。
少年たちが戦いを挑んでいる。
そうやって考えるとあの物語も非常にシュールな物語。

『アナと雪の女王』
姿を現すことはないが、女王が使う、何でも凍らせるという魔法は「父」。
父親的なものがああいう魔法を彼女に。
彼女はそれを乗り越えなければ、あの魔法の力から逃れることができない。
人生の障害の障害になったり。
障害は壁にはなっているが守られている。
私を守ってくれるのだが、娘が外に出ていこうとする時には最大の障害になる。

父親としては自動扉だった武田先生。

フューリー [DVD]



ブラッド・ピットの傑作。
これは戦車一台の五人の戦士が三百人のドイツ兵と戦闘を開始して一人だけ助かって四人死んだ。
倫理もなく正義も何もない。
そこにある五人の男たちの掟。
その掟とは何か?
父を守る。
そんなふうにして物語の中にあるものを置きかえていくと・・・。

父とは母とは全く異質なもので、母と比べると貧弱なものである。

フランスでの調査では、労働者の父親が子どもの世話にかける時間は、一日平均六分だった。アメリカでも、母親の四分の一か五分の一の時間しか、父親は子どもにかかわっていなかった。(22〜23頁)

父と母は役割が違う。
子供の側にいるのは母親がいい。
誕生時から三年間はお母さんと一緒にいるという環境が一番いいのであって、会社にそのまま連れて行ってもOKというような環境がいいと武田先生は思う。
「三年間抱っこし放題」は言葉づかいが問題になったが、間違ってはいない。

父親は、何でも遊びにして面白がろうとした。一方、母親は何でもルーチンワークにして、それに根気よく取り組み、また、取り組ませようとした。−中略−母親は型通りの遊びやおもちゃを使った遊びを好み、父親は体を使った遊びや型にはまらない、独自の遊びを好んだ。(23頁)

 いずれにしても、量においても質においても、父親が母親の代わりをすることは、そう容易なことではなさそうだった。(24頁)

「父親とは、外界から子どものもとにやってくる最初の他者」と言ったのは、あるイタリアの精神分析医だ。その言葉通り、母親と半ば融合した乳飲み子にとって、父の登場かなりだしぬけで、脈絡のないものだ。(28頁)

父は母と子の関係の中にある、価値や意味とは全く違う世界観をもたらすものでなければならない。

奥様と一緒になって子育てをしていると、子育ての時にお父さんとお母さんの意見が一致するのはあまりよくないような気がする武田先生。
迷いながらしか大人になれないんだから、なるべく迷うようにしてあげるのが父母の違いのつとめではないか?
子供から訊かれたら違うことを教えてやろうと思っていたのだが、母親の言うことを聞いてしまって訊いてこなかった。

父親の存在そのものというのは、やっぱり母とは全然違うもことを持ってくる。
ここに宗教がある。
「お母さん」から宗教は生まれていない。
仏教にしても、イスラム教にしても、キリスト教にしてもユダヤ教にしても、神道における神話にしても、女性世界の理屈ではない。
マリアがあんなに我が子イエスを心配しているのに、振り切ってイエスは十字架に行ってしまう。
ブッダだってお母さんが泣きながら「出家やめて!」と止める。
女のルールに従わないで出家してしまう。
男の間のルールみたいなもの、掟みたいなものを「神」と読んだりしている。
名画にもなっている旧約聖書アブラハムの書。


(同じお題でいろんな画家が描いているが、これかな?)

[まことの]神はアブラハムを試みられた。そして彼に,「アブラハムよ」と言われた。それに対し彼は,「はい,私はここにおります!」と言った。すると,続いてこう言われた。「どうか,あなたの子,あなたの深く愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に旅をし,そこにおいて,わたしがあなたに指定する一つの山の上で,これを焼燔の捧げ物としてささげるように」。それでアブラハムは朝早く起き,自分のろばに鞍を置き,従者二人と息子のイサクを伴った。−中略−ついに彼らは[まことの]神が指定された場所に着いた。それでアブラハムはそこに祭壇を築き,まきを並べ,息子イサクの手と足を縛って,祭壇の上,そのまきの上に寝かせた。次いでアブラハムは手を伸ばし,屠殺用の短刀を取り,自分の子を殺そうとした。ところが,エホバのみ使いが天から彼に呼びかけて,「アブラハム,アブラハムよ!」と言った。それに対して彼は,「はい,私はここにおります!」と答えた。すると[み使い]はさらに言った,「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。(旧約聖書:創世記22章)

男の理屈。
その神様の試しによって旧約の神はアブラハムを認めてあげる。
女の理屈ではない。

ウツの地にヨブという名の人がいた。その人はとがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れていた。−中略−そして,使者がヨブのところに来て,言った,「牛がすき返し,雌ろばはその傍らで草を食べていましたが,そのとき,シバ人が襲ってきて,これを奪い,従者たちを剣の刃に掛けて討ち倒しました。−中略−「あなたのご子息や娘さんたちは,長子であるそのご兄弟の家で食べたり,ぶどう酒を飲んだりしておられました。すると,どうでしょう,荒野の地方から大風が吹いて来て,家の四隅を打ったため,それが若い人たちの上に倒れて,皆さまは死なれました。−中略−そこでサタンはエホバのみ前から出て行き,ヨブの足の裏から頭のてっぺんまで悪性のはれ物で彼を打った。それで彼は自分のために土器のかけらを取り,それで身をかいた。そして彼は灰の中に座っていた。ついに,その妻は彼に言った,「あなたはなおも自分の忠誠を堅く保っているのですか。神をのろって死になさい!」 −中略−そこでエホバは風あらしの中からヨブに答えて言われた,「 −中略−わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。 −中略−だれがその度量衡を定めたのか。もしあなたが知っているのなら。 あるいは,だれが測り綱をその上に張り伸ばしたのか。その受け台は何の中に埋められたのか。 あるいは,だれがその隅石を据えたのか。明けの星が共々に喜びにあふれて叫び, 神の子たちがみな称賛の叫びを上げはじめたときに。 また,[だれが]扉で海をふさいだのか。 (旧約聖書:ヨブ記)

「生まれて無いヤツがガタガタ言うな!」
(聖書の中にはそんなことは書いていないが)
つまりここにあるルールというのは「父の名において」。
男は自分たちのルールを作っていかなければ気が済まない。
人間の脳内ホルモンの中にはバソプレシン(アルギニン・バソプレシン)とかオキシトシンというものがある。
そういう脳内ホルモンで父親らしく、母親らしくできる。
女性、男性というのは決定的な違いが老いになると現れる。
いかに男性、女性が老いで変化していくか。

男はお父さんになっておじいちゃんになって縮んでいくのだが、これは動物で例えると不完全変態。
例えばヤゴがトンボになるようなもので、トンボとヤゴの口のところは同じ。
ところが娘から母になって母からおばあちゃんになるが完全変態でイモムシが蝶々になるように全部変わる。
おじいちゃんは縮んでおじいちゃんになるが、おばあちゃんは時としておじいちゃんになる。

子供を育てるのは難しい。

 二十世紀最大の画家のひとりパブロ・ピカソの父親ホセは、息子同様、絵画に熱い情熱を捧げ−中略−出生時の仮死状態が影響したのか、甘やかされ過ぎたことが拍車をかけたのか、その点は不明だが、パブロは成長するにつれ、行動や学習の問題を顕著に表し始めた。まったく落ち着きがなく、衝動的で、やりたいことだけをやり、わがままの言い放題だった。ただ、唯一の例外は絵を描くことで、まだ言葉も喋れないうちから、それとわかる絵を描き、切り絵を作った。
 三歳のとき、妹が生まれ、母親の愛情を奪われてから、パブロは父親にべったりになった。
(57〜59頁)

(番組では父親にべったりになった理由は「母親が嫌っていたから」というような説明だったが、本にはそのようには書いていない)

それ以外の憂さ晴らしといえば、闘牛ごっこと称して、野良猫を追いかけ、やっつけることだった。ときには、殺してしまうこともあったという。(61頁)

もしピカソほどの才能がなければ、彼は間違いなく深刻な社会不適応を起こしていただろう。(63頁)

ピカソにとっては父なくばピカソはなかった。

『金閣寺』などで知られる作家の三島由紀夫、本名平岡公威の父親は平岡梓といい、農商務省(現在の農林水産省)の官僚だった。−中略−その梓が見合結婚したのが、開成中学の校長の娘で、三島の母となる倭文重だった。−中略−その家では、すべてが姑の夏子を中心に回っていただけでなく、わが子さえも、夏子に取り上げられてしまった。生まれてきた孫公威を溺愛した夏子は、「二階で赤ん坊を育てるのは危険」という口実により、母親の手から奪い取り、自分の部屋で育てようとした。倭文重は、三時間おきに母乳を与えるときだけ、“面会”を許された。夏子は、孫の遊び相手選びにまで口をだし、男の子は危ないと言って、年上の女の子だけと遊ばせた。後に男性的なものに強く固執することになる三島は、幼少期まるで女の子のように育てられたのだ。(68〜90頁)

 幼い頃からずっと母親に甘え損なった三島は、成人してからも、母親にべったりだったという。(91頁)

(番組では祖母の他界で母親にべったりになったと言っているが、本によると引っ越しなどによるらしい)

梓は梓なりに、一人しかいないわが子を愛していた。若い頃の三島は、青白く、とてもひ弱だった。徴兵検査を東京ではなく、わざわざ本籍地の兵庫県志方村で受けさせたのは、わが子の弱々しさが余計に際立ち、検査に不合格になるとの思惑からだった。田舎の若者が、米俵を軽々担ぎ上げて、甲種合格となる中、三島が抱えようとした米俵は、微動だにせず、周囲の失笑をかったが、案に相違して、検査の結果は、第二乙種合格だった。兵隊がそれほど不足していたのだ。
 いよいよ三島にも召集令状が下って、入隊検査を受けるべく、本籍地に向かった。このときは、梓が付き添った。折から三島は発熱し、検査のため裸になると、余計に具合が悪くなった。ゼーゼー荒い息をついているのを、診察した医者が、結核の初期である肺浸潤と誤診した。間一髪、入隊を免れた三島と父梓は、小躍りするように連隊の弊社から、駅まで駆け続けたという。
(91〜92頁)

(番組では「肺に影があるという誤診で」と言ってるが、上記のようにそうではない)

2015年12月26日

今年も徹子の部屋にタモリが出演しない模様

説明するまでもないけど、有名なテレビ番組「徹子の部屋」。
毎年、一番最後の放送回のゲストはタモリっていうのが恒例だったのだが、今年も出ないらしい。

徹子の部屋|テレビ朝日

どうしちゃったんだろう。
何か大人の事情があるのかな?

『徹子の部屋』40周年Anniversary Book (ぴあMOOK)



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翔んで埼玉

このマンガがすごい! comics 翔んで埼玉 (Konomanga ga Sugoi!COMICS)



テレビで紹介されて面白そうな本だなと思ったけど廃刊になっていて古本でも手に入らなかったのだが、復刊ってことですぐに予約を。
描き下ろしマンガも収録ってことだが、たいして内容もない感じ。
著者が埼玉から移転してしまって、マンガ自体は途中で終わっちゃってる感じで、もう続きも描かれることもないらしいけど、やっぱり最後まで見たいなと。
テレビで紹介されている通り、埼玉のことをかなりバカにした内容だけど、茨城に対してはそれ以上っていう。
「時の流れに」と「やおい君の日常的でない生活」は埼玉とは全く関係のないマンガ。

posted by ひと at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月24日

ロピア港北インター店の年末年始の営業時間

そういうのを紹介するブログではない気がするけど、検索をかけて来ている人が何人かおられるので、必要とされる情報なのかな?ってことで載せておく。

12月29日(火)9:00〜20:00
12月30日(水)9:00〜20:00
12月31日(木)9:00〜20:00
1月1日(金)休み
1月2日(土)10:00〜18:00
1月3日(日)10:00〜18:00
1月4日(月)通常営業


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閉館になる前に神奈川県立近代美術館に行ってきた

神奈川県立近代美術館ってうのがある。
で、現在、鎌倉館、鎌倉別館、葉山館の三カ所があるらしいのだが、その中の鎌倉館ってのが来年閉館らしい。
ってことで、閉館になる前に一度行って来ようということで行ってみた。

ご利用案内 : 神奈川県立近代美術館<鎌倉館>

2016年1月31日、展覧会の最終日をもって「神奈川県近代美術館 鎌倉」の公開を終了
3月末日をもって「鎌倉館」を閉館

だそうです。

で、よくわかってなくて鎌倉別館の方にも行ったんだけど、まずは鎌倉館の方の話ね。
鎌倉駅からちょっと歩く。
土産物屋なんかが並んでいる通りを行くと、楽しく寄り道しつつ行ける感じだけど、開館と同時に行こう!と思って九時半とかに歩くと店は開いてないっていう。
平日の昼間だったんだけど、無くなっちゃうからなのか、いつもこのぐらいなのか、混んでるってほどでもないけど、それなりに人はいた。
美術館って行かないから他の美術館との比較ができないけど、いろんな絵画とか彫刻みたいなものとか展示してあった。
で、つくづく自分には美的センスというか審美眼みたいなものがないんだなと痛感。
有名な絵なんかもあったみたいだけど、良さが全くわからず。

DSCN0056.JPG

ミュージアムショップで絵葉書を購入。
一枚50円。

建物の一階からは、大きい池がよく見えて景色がいい。
何の鳥かわからないけど、結構大きい鳥なんかがいた。
写真を撮ったけどうまく撮れなかったんで載せないけど。

建物の三階は閉鎖されているけど、中三階みたいなのがあったんでそこも行った。
狭い場所だから一度に入れる人数が制限されているが、行ってみてもたいしたものもなかった。

で、一通り鎌倉館を見終わったので、そこから徒歩五分ほどの場所にあるっていう鎌倉別館ってのにも行ってみることに。
先ほどとは違って、店があるような道でもなく(飲食店なんかがポツリポツリとあったけど)つまんない感じで歩く。
で、建物は外から見るとなかなか立派な感じだったけど、展示されているものも少なく、わざわざ行ったのにな・・・って感じがしてしまった。
ここは外にもいろいろ大きい展示物がある。

IMG_2222.JPG

裸婦像みたいなのってあっちこっちで見かけるけど、こういうのはちょっと珍しい感じがした。

ってことで、鎌倉駅に向かって戻る。
楽しく土産のせんべいなんかを買って帰りましたとさ。
鎌倉は何度か行ったことがあったけど、毎回江ノ電が走っている方面にしか行っていなかった。
まだまだ鎌倉はいろんな場所があるんだねぇ。

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2015年12月23日

湖池屋 ポテトチップス のりの逸品

DSCN0061.JPG

2種類の“青のり”を贅沢にブレンド 期間限定「ポテトチップス のりの逸品」 『のり塩』の老舗 湖池屋が送るワンランク上の逸品
香り高く味わい深い徳島県産「すじ青のり」と、柔らかで口どけの良い愛媛県産「うすば青のり」をたっぷりと使用することで、のりの風味が存分に味わえるワンランク上の贅沢な「のり塩」が完成しました。特徴が異なる2種類の“青のり”が奏でる香りと味わいのハーモニーをこの機会にぜひご堪能下さい。

サンクスで165円のヤツをポイントdeクーポン値引き115円で、+Kクーポンを50ポイント利用。
内容量65g。
12月21日全国コンビニエンスストア発売。

海苔の味とか塩の味とか全体に濃い感じがした。
美味しいか美味しくないかでいうと、今一つ美味しくない感じかな。
まずいってほどではないけど、あんまり好きな感じじゃない。

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2015年12月21日

2015年8月24日〜9月4日◆『紋切型社会』武田砂鉄(後編)

これの続きです。

E・H・カーは「歴史とは何か」と問われて、現代の光を過去にあて、過去の光で現代を見ることだ、と語っているし(62頁)

戦争を語るには語る資格があり、それを現代にいかに重ね、いかに連続しているもの、していないものをきちんと抽出できるか否か。
体験の有無だけで歴史を語る身分資格を決定してちっとも検証しないジジイやババアの昔話に嫌気がさしてくる。
(と砂鉄氏が書いていると番組では言っているが、そういう過激な書き方はしていない)
戦争を語り継ごうとか言う人がいる。
それはきちんと戦争を語るには現代に重ねて現代にその戦争の影響が連続しているものと連続していないものをきちんとわけられる人、体験を知っている知らないだけではなくて
歴史を語る検証するという力があるのかどうかを持っているかどうかが大事で、ジジババの昔話で戦争の話をすんじゃ無ぇ。
紋切型の強制では戦争を語り継げないのではないか?

老いの才覚 (ベスト新書)




「日本人は、被災したその日から、すぐに菓子パンを食べることができるのに、『三日間パンばかり配られて飽き飽きした』などと文句を言っている。それほどに贅沢なのです。これは若者も同じですが、原初的な不幸の姿が見えなくなった分、ありがたみもわからなくなった」(66頁)

「うるせえババア」
(62ページに「うるせえジジイ(ババア)」とは書いてあるのだが、文章の前後を読むと、番組の取り上げ方はちょっと著者の意図とはズレている感じがする)

 曾野綾子は産經新聞の連載「透明な歳月の光」(二〇一四年五月一四日)に「韓国船沈没事故に思う」という原稿を寄せた。−中略−
「どうしてここまで、船客たちは逃げてこなかったのかと思う。そうすれば、この船長のように、数人に抱きかかえられるようにして救出されたのである。(中略)船内に浸水してきそうになったら、本能的に上へ逃げ出すという行動が、なぜ高校生にもみられなかったのか」と書く。
−中略−
「決して韓国の高校生だけに欠落した本能ではない。最近の文化に守られた日本人の大人にも子供にも欠けているのが、自分で判断するという自己制御の力である」と続く。
(68〜69頁)

その言い方が、砂鉄氏は「私は知っている。でもあなたは知らないでしょ?」という文章の流れを、気配を感じて、ここでも異議を提案している。

 歴史が旧世代の安堵のためばかりに使われている。でも歴史は現在を見るために使われるべきなのだ。「若い人は、本当の貧しさを知らない」は、その現在から猛ダッシュで逃げている。結果として、歴史を知ることからも逃げている。歴史は、今に体を預けている人だけが使うべきだ。(72頁)

武田先生は砂鉄氏とは意見を異にする。
船が傾きかけてきて、船内放送を信じて動かなかったセウォル号の韓国高校生の行動というのは、ちょっと疑問に思ったことがある。
韓国社会の中は紋切型になるかも知れないが、儒教の浸透度が日本よりも遥かに深い。
韓国のセウォル号の高校生たちになかったものは何かというと、旧世代に対して「クソババア」と呼び捨てにする、そういう気持ちがなかったと言える。

「そうは言っても男は」
これは性発言に関する失言。
この失言は橋本徹氏の発言。

 沖縄の海兵隊、普天間に行った時に、司令官の方に、もっと風俗業を活用してほしいと言ったんですよ。(中略)性的なエネルギーを合法的に解消できる場所というのが日本にはあるんですから(239〜240頁)

この人の世界観を一言で表現した失言だ。

「(女性を)強姦する体力がないのは男として恥ずべき」と愚かすぎる発言を残したのは文化庁長官だった時の三浦朱門(妻は曾野綾子)だが(243頁)

 二〇一三年末自民党議員で組織される「婚活・街コン推進議連」が、−中略−この議連の会長・小池百合子は街コンの意義を「少子化対策と地域活性化という二つの国家的課題をいっぺんに片付けてしまう」と高らかに宣言し、「片付ける」というデリカシーに欠けるフレーズに本音を託した。(243頁)

「世界男女格差報告」で上位に位置するスウェーデンでは、公開される映画が男女平等に配慮しているかどうかを示す「A指定」が導入され始めているという。その条件とは「役名のある女性が二名以上登場すること、そして二人の会話の内容が『オトコ以外の話題』に及ぶこと」だという(『クーリエ・ジャポン』二〇一四年一月号)。『ロード・オブ・ザ・リング』三部作、『ハリー・ポッター』の一作を除く全作がNGと聞けばやりすぎのような気もするが(247頁)

日本では婚外子、いわゆる「お妾さん」の子とか不倫でこの世に誕生してきた子供たちに対する冷遇という問題がずっとあった。
昔武田先生が聞いた話。
昔は血液型とかうるさくない時は、産婆さんが不倫のお子さんでもきちんと引き取る。
お子さんのない家庭に。
ある意味闇の人間関係があった。
今は、赤ちゃんポストとか名前だけでもめたり。
さじ加減だけで世の中を通っていた。
産婆さん曰く「男たちは戦場に出て行ったきり帰ってこない。それでもねぇ女たちは妊娠するんですよ」。
お子さんのないご家庭に連絡が行き、そこの奥様がそこの町にやってくる。
それで生まれたお子さんを持って自分の町にお帰りになる。
それで、その方は「里まで子供を産みに帰っていました」ということで何の支障もなく。
大人のさじ加減の知恵みたいなものが脈打っていたというのを訊いて。

田中角栄氏。
現役の時、ロッキード事件に引っかかってからは「目黒の闇将軍」とか罵倒された方。
すぐそばで番記者をしてらっしゃった方がおっしゃった話。
初恋の相手が故郷で生活に苦しんでいる。
どこかから聞いて、お金を贈られた。
聞くとジンとする話をいっぱいもってらしゃつというのが田中角栄氏。
角栄氏の政敵が亡くなられた時、葬儀屋もかけつけて来ていない時に枕元に正座していたのが角栄氏。
奥様が慌てて亡くなられた死者の枕元に座っている角栄氏に駆け寄った瞬間、角栄氏は札束をドサッと置いて「とりあえずこれで」。
三百万円あった。
なんでかというと、政治家というのは現金がそう簡単に引っ張り出せないシステムで、葬式の最初のお金としてこれぐらい必要だというので置いていった。
角栄氏の悪いところは、そういうふうにしてお金にしちゃうところかも知れないけど、人間の一番苦しい時にはお金の問題ってある。
もう一つ、長岡で聞いた伝説。
角栄氏は自分が選挙で協力してくれた人にものすごく手厚い。
協力してくれた人が亡くなった。
墓場にお花が飾ってあり、いろんな人の花が次々枯れて行く中で、田中角栄の花だけが枯れない。
枯れたら入れ替えるようにという指示が花屋さんに届けてある。
そういう細やかさ。
お妾さんもいらっしゃった。
そういう性的なものに関しても旧世代。
それが田中角栄という人物のマイナスになっていないと番記者の方がおっしゃった。

性に関する失言の多い人は性を「性行為」で考えている。
性行為はあっても愛撫がない。
愛撫から性行為を語った方がいいんじゃないか。
最も性について語るのにおすすめの女性。
五月みどりさん。
性を語るうまさ。
充実した性を体験なさっているから、と武田先生は思う。
昔、芸能界の移動はほとんど夜行列車。
長期公演の時などに、好きな男性ができる。
夜行列車で他のバンドマンがいるとか、他の棚に寝ているのにその人の寝台まで行く。
「開けてびっくり。違う人だったりするんですよぉ」

「誰がハッピーになるのですか?」という章の中で砂鉄氏が好きだと言っているジャーナリストは本田靖春氏と竹中労氏。

自らを「由緒正しい貧乏人」と名乗ったのはジャーナリストの本田靖春だ。(269頁)

 本田は七一年に読売新聞を辞める。社主の正力松太郎、彼の意向に沿うことばかりを紙面に反映させる「正力コーナー」の存在を許すことができなかった。−中略−本田は、四〇歳前にして、とっとと新聞社を出て行く。(270頁)

血を売るという人が、昔いっぱいいた。
その人たちのドキュメンタリー「黄色い血」。

 本田の、東京五輪開催を前に起きた吉展ちゃん誘拐事件を追った『誘拐』(ちくま文庫)はノンフィクション史に残る傑作だ。(270頁)

 静岡の寸又峡温泉で発生した立てこもり事件、金嬉老事件を追った『私戦』(河出文庫)は、犯人の金嬉老がぶつかった在日朝鮮人に対する差別意識に寄り添いながら劇場型犯罪を見つめた一冊だ。(271頁)

竹中労。
芸能ジャーナリストで、芸能界の裏事情を暴き続けた人。
暴力団と関係のある演歌歌手や国民歌手を次々に告発した。

 宮崎勤に向かう竹中労の次の言葉は、イレギュラー認定で処理しまくる現在にはどう響くだろう。
「宮崎勤の犯罪は、実に人間的である。彼をけだものでも悪魔でもなく、一個の人間として捉えれば、犯罪の深層は見えてくる。
(277〜278頁)

「臭いものにフタ」をして無視するマスコミに異を唱えたジャーナリスト。
砂鉄氏は「この世にあるものにやすやすとつながるのではない。沙弥無二ないものとつながるものがジャーナリストだ。加害者被害者のどちらかだけに繋がって安堵しているメディアが大嫌い」。

森達也が、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい 正義という共同幻想がもたらす本当の危機』(ダイヤモンド社)と長い長いタイトルで主張したように、当事者に感情を委ねる以外の選択肢を示した途端に叩かれる社会にある。(279〜280頁)

特に紋切型を大事にしているメディアというのは、どっち側かに偏る。
そのことに対する彼の違和。

ジャーナリストにはある程度の貧しさがないといけないように感じる武田先生。
あまり儲かっているジャーナリストが好きじゃない。

社会正義は難しい。
何が正しいかどうか。

(ここから司馬遼太郎著『胡蝶の夢』の話に入るが割愛する。この本は10月26日から番組で改めて紹介されるが、それに関してもこのブログでは取り上げない予定)

2015年8月24日〜9月4日◆『紋切型社会』武田砂鉄(前編)

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす



決まりフレーズの連発で世の中をうまくまとめているつもりの文化人に対する痛烈な批判本。
表表紙のサブタイトル「言葉で固まる現代を解きほぐす」。
腰帯推薦文に重松清さん、池澤夏樹さん。
両者とも文壇の大御所。
池澤さんの絶賛「読後感は正に痛快。」。

武田砂鉄
1982年生まれ。ライター。
本書が初の著作となる。

一言で世の中をまとめたり、世相を切ったりする人をあまり好きではない武田先生。
即答の15秒コメンテーターがワイドショーやニュース番組にたくさん出ている。
一言で言える人たちに対するコンプレックスがある。
若い頃はこの手の人たちに憧れた。
わかりやすい四文字熟語のスローガンで「絶対反対!」。
年をとると「絶対反対とか言っていいのかな?」とか、「絶対反対っていう言葉はないんじゃないか?」とか。
ニュースショーをすっかり変えたという革命児、久米宏さん。
コマーシャル直前に鉛筆をくるくるっと回しながら憮然と与党、自民党を罵倒して「コマーシャル」と言い捨てる。
爽快感があったり。
「お金に色はついてないんですよ」というホリエモン。
ああいうギクッとする一言のうまさ。
オウムの広報官をやってらした上祐さん。
パネルか何かを出してパン!と投げて、ああいうのは見事だった。
今は橋本徹さん。
クソ教育委員会。
「クソ」ともう一度言い直す。
爆笑問題の太田(光)さん。
このあたりが短いコメントのコメンテーターとしては名人だということだろう。
現代の、ある意味でヒーローだと思う。

今、急激に田中角栄を見直そうっていう流れがあるらしい。
「本当はすごい政治家だった」とか、「ロッキード事件には冤罪の臭いがする」とか、「角栄追放は早かったのではないか?」「日本の政界が今一番身もだえして求めているのは実は角栄ではないか?」「安倍政権の地方を作ろうとか地方創世とか言っているけど、それに一番最初に着手したのは角栄ではないか?」「角栄は本当はエネルギー問題を考えていた」「角栄ありせばかくのごとき日中関係にはならず」とか、えらく持ち直しているらしい。
「田中角栄っていう人に情的に賛同することは知的ではない」と新聞社がボロクソに言った。
角栄金券問題が出た時「やっぱり一国の総理ともあろうものが」とか「総理の犯罪」とかいうのでボッコボコに叩いた。
当時尻馬に乗って「この人は悪い人だ」と思った武田先生。
「本当はいい人だったんじゃないか」と急に言われても困る。
20〜30年経つと、人間を見る目が白から黒になるという。

最近武田先生が聞いた話。
「森(喜朗)さんの悪口を書いておくともつ」
あの方はオリンピックの一件でも、コメントとしては冴えている。
「私は始めからあんな形は嫌いだったんだよ」
メディアに「失言」で貢献なさる。
ナベツネ(渡邉恒雄)さん。
失言で必ず次の日新聞を売ってくれるという新聞王。
「この人さえ叩いておけば」とか「正義のこういう構え方でいっとけば」というような紋切型に対してまだ30代の武田砂鉄君という文化批評者。

砂鉄氏が嫌いな言葉「育ててくれてありがとう」。
こういう決まり文句に砂鉄氏は深い深い疑念を抱く。

「ゼクシィ」のサイトに「花嫁の手紙」のサンプル文が掲載されている。(23頁)

書き出し、エピソード、結びの段落に分けられて締めの言葉はどれがいいかというアンケートに一位だったのが「育ててくれてありがとう」。

 二〇一二年に自民党がまとめた日本国憲法改正草案にはこんな記載がある。家族の助け合いが「なければならない」と強制されている。体じゅうをタバコの焼印だらけにされたトラウマを持つ息子も、母親の過干渉からようやく独り立ちした娘も、再三注意を促すも悪事に手を染め続けてきた息子を持つ親も、家族であるのだから互いに助け合わ「なければならない」のである。第二四条の「家族、婚姻等に関する基本原則」の冒頭に唐突に加わるこの一文と、ゼクシィのサンプル文「今まで私を育てていただいて本当にありがとうございました」はスタンスを共有している。法規と模範解答とが同化している。(27〜28頁)

 田房永子はコミックエッセイ『ママだって、人間』(河出書房新刊)の中で、−中略−目の前にいる子どもを無事に育て上げることが母親の既定路線としてそびえたつ世の中では、ママだって人間ですとは言わせてくれない。はいはいはい、と一回でいい「はい」を連発して、あんたのことを考えている場合ではないでしょう、この子のことを第一に考えなさい、あんただって、あんたよりこの子が大事でしょう、と小さな違和がたちまち踏み潰される。(30頁)

ママだって、人間



おおよその場合、親は子を育てるが、育てないこともある。−中略−明子さんの言葉は、大抵の場合、お母様に届くけれど、届かないこともある。届かせるべきではないこともある。この当たり前を獲得しなければならない。(31頁)

一言でまとめてしまわずに、ぐずぐず考え込んだ方がいいんだ。
親子関係ってそんなに単純なものじゃなねぇよ。
紋切型の中にある「子は親の背中を見て育つ」。
武田先生は親の背中を結構見ていたが、見ていない子もいる。
親の背中を見ない子もいるという、そのリアルを私たちは忘れてはいけない。
家族とか親子というのは、もともとぐずぐずした関係である。
「てめぇそれでも親か!」と親に向かって叫びたくなることもあった。
でも親になると「てめぇそれでも俺の子か!」と叫びたくなる時もある。
そんなのがぐずぐずぐずぐず続いて腹も立ったり、我が子に絶望したり、我が親に絶望しながらも、晩飯は家族で食べている。
それでもぐずぐずやっている。
ふっといいところを見つけると「アイツもだいぶん大人になったな」とかっていう結論が出ないぐずぐずした関係。
「ありがとう」では済まされない宿命というか宿怨というか。
夫婦もそう。
所詮他人と拗ねた先輩もいた。
夫婦というのは中島みゆきさんの言う「縦糸」とか「横糸」ではなく「絡んだ糸」。


武田先生の友人の話。
ふっと夫婦で旅をしている時に、断崖絶壁から背中を向けた女房をポンと押してみたくなる。
そんな瞬間があって、二〜三歩歩いて「何てバカなことを考えたんだ」と思って女房を見たら女房が押そうとしていた、というぐずぐずしたもの。

 選挙が行なわれる度に選挙ポスターを舐めまわすように凝視しているが、若手候補の売り出し方の近似が気になってしまう。−中略−「新進気鋭」と同様に、賛意を促す文言があまりにも類似していて歯がゆい。「若さで改革!」「フレッシュ革命!」「日本のために汗をかきます!」(77〜78頁)

たまに水谷譲が化粧をしてお洒落をしてワンピースを着ると「なにそれ?どうしたの」と不安がる小学校三年生のお子さん。
母親が女の部分を持っているということに対して落ち込む男の子。
「母親」というのは女という性でありながら、女という性でないところがある。
姿見の前で口紅を塗る母親を見て嫌だった武田先生。
夫婦仲があまりよくなく、給料の件で掴み合いをする両親。
喧嘩をした翌朝、三面鏡で口紅を塗る母。
近所のおばさんからからかわれると母が「夫婦だから、紅の一本もささんと男も帰ってきにくかろうと思うてですね」という変な言い訳をする。
そこに父母の男女の臭いがするとすごく不安になる。
男の子は母親が持っているエロスを自分に向けられるといいのだが、他者に向けられると怖い。
子供の時に母親のフトモモに脚をつっこんで寝るのが大好きだった武田先生。
母親の匂いいっぱいに眠る幸せは忘れないが、その母親の柔らかさみたいなものが、父親も含めての異性に向けられると子供としてすごく不安になった。
親子におけるエロスの関係ももちろんあるだろう。
児童文学の作家、灰谷健次郎のエッセイにドキッとさせられる武田先生。
「父母が離婚したばっかりに不幸になる子供がいる。逆に両親が離婚しないから不幸になる子もいる。」
離婚した方がいいっていう父母も世の中にはいる。
砂鉄氏が言っていることを暗く言ってしまうと、子供を殺す親が現実にいる。
親を殺す子供もいる。
一言で、その絆というのを紋切型でできないのが「親と子」「子と親」という関係なのではないか?
怖ろしくぐずぐずした関係で、死ぬまで戸惑いながら関係を探っていくしかないのではないか。

次に砂鉄氏が紋切型で問題にした一言「全米が泣いた」。
映画宣伝の紋切の傑作「全米が泣いた」。
これは前提として「南米はどうなの?」それは訊くな。
「アジアではどう?」となどど一切訊いてはいけない。

 七年間ほど編集者をやっていたが、ある時「これは、誰が待望しているの?」と上司に冷たくあしらわれたことがある。ある本の文庫化の帯文言を「待望の文庫化」で締めたのである。一体、誰が待望しているというのか、と問われ、返答に窮する。(74頁)

 批判する方法を比べて、褒め讃える方法は本当に手持ちの駒が少ないのだろうか。−中略−それは、発せられた言葉のバラエティや精度の問題ではなく、ただただ、言葉を受け取る側の問題、懐のサイズに起因しているのではないか。(76頁)

(番組では「日本語の中に褒めるというパターンが非常に少ない」と言っているので本の内容を曲解しているようだ)

「あなたにとって、演じるとは?」「音楽とはなんでしょう?」
大仰なインタビューがまるでオーガニックを強制的に喰わせるレストランに入ったような。
砂鉄氏は『情熱大陸』『プロジェクトX』『サラリーマン金太郎』が大嫌い。
どれも団塊を生きた人たちの物語。
「この社会とこのシステムは俺たちが作った」といううぬぼれに満ち溢れたものが反映されたテレビ番組が『情熱大陸』『プロジェクトX』『サラリーマン金太郎』。
彼らは成功者がどのようにして成功したのか、それを伝えたいと思っている。
見てる方としては、そんなことを知りたくもない。
砂鉄氏がまあまあ好きなのは『タモリ倶楽部』『半沢直樹』の「倍返しだ!」。

 フジテレビ系列で日曜の十四時から放送される『ザ・ノンフィクション』は大好物番組だ。(91頁)

見ていて武田先生は「ものすごく居心地が悪い」と感じる番組。

『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』(日本テレビ)などでも吹奏楽部を取り上げることがある。
そうすると、必ずベスト3に入るところが最初から選んである。
優勝すれば、今まで撮った分が努力していた「あの子とあの子の頑張りが優勝に」。
惜しくも2位になれば「泣いて再起を近く彼らたちの青春」みたいな落とし方をする。
『ザ・ノンフィクション』は箸にも棒にもかからないようなブラスバンドを取り上げる。
先生から「バカ!ダメだオマエら!」と言われて、本当にダメになっていくのをじっと撮っている。
サクセスなんかない。
空中分解。
木端微塵に砕けて行くというのをノンフィクションでとらえる。

武田先生が見ていてゴルフの打ちっぱなしに行く予定を取りやめたほどの回。
舞妓さんに憧れた沖縄の少女。
舞妓さんに精進する姿を撮る。
ところが、しきたりの世界なのでついていけない。
それで、舞妓さんの世界に絶望する。
沖縄に戻って友達に励まされて、また舞妓になりに行く。
やっぱりダメ。
お茶屋さんのおかみさんなんかと合わない。
一番最後はお茶屋さんを辞めて出ていく後姿でおしまい。
「これからどうするの?」と言ったら「東京に行って夜の世界で働こうかな」。
そういう、気持ちの悪い、座りの悪い人生。

 ある放送回。愛妻に先立たれ、田舎の豪邸に一人で住む社長さんが「男はこの年になってくると金と土地だ」と強気に言い放ちながら、ロシア娘とのお見合いサービスに入会、ロシア娘を呼び寄せて豪邸に住まわせる。一定期間同居してもらい(性交は禁止、同室で寝ることも禁止)、フィーリングを確かめてから婚姻するかどうかの判断をするという。
 ロシア娘を日本に呼ぶための高額費用を負担しているものだから、会員の多くは、やって来たロシア娘と謙虚に向き合おうとするのだけれど、この社長は一切の謙虚さを持たない。呼び寄せる前、カビの生えた食器、書類や半端に残った食事などが山積みになったテーブルを取材陣が指摘すると、「いいのいいの、今度来てもらうロシアの娘に片付けてもらおうと思ってるから」。
−中略−お見合いの仲介業者がやって来ると彼女の不満は爆発し、「私は日本に掃除しに来たのか!」とロシア語でぶちまける。−中略− 
 ロシア娘は故郷へ戻ってから、社長に断りのメッセージを送る。
(91〜92頁)

その社長さんが一番最後に「やっぱり金目当てだった」と言う。
日曜の午後、見た後に全てのやる気が失せる。
その紋切型で解決しないぞという恐ろしさを教えてくれるには、この『ザ・ノンフィクション』は最高の番組だ。

(6月21日放送「AKB48と日本人」と思われる)
AKBの指原とかセンターの子は相手にしない、端っこにいる子をいかにして、真ん中に持って行くかで金を数千万突っ込んでいる50代の男たちの集団にピントが合っている。
肉体労働をやってぼろきれの働いてCDを数百・数千枚買って投票用紙で一番端っこにいる子を48人の中に入れるという情熱に取りつかれた。
その子(CDを買っている男)の親御さんが経営している旅館か何かに行って、例のAKBの総選挙を見る。
テレビではその子の部分は放送していないのでインターネットで見る。
それで(当選者に)入っていたら60近いおっさんが嬉しさ余って号泣する。
「生きがいをくれた」
片一方の方は漏れて、また「漏れた」と言って泣いている。
「明日から黙って俺は働くんだ」っていうノンフィクション。
一番最後に入った子(AKB)がお母さんと一緒に食事をしている。
その子は「芸能界でカネ貯めて、ママにマンション買ってあげる」と張り切っている。
横におばあちゃんがいて、おばあちゃんは乗っていないようだ。
AKBを辞めて欲しい様子。
女の子が金切声で「マンション買ってあげるから張り切ってんじゃん!応援してくれてもいいじゃん!」。
どこに着地するのか全く予想ができない。

『ザ・ノンフィクション』が放つ言葉は、野ざらしの言葉だ。−中略−カロリーを調整してこない。咀嚼しやすいようには整えない。でも、相手と懸命に向き合って、ようやく向こう岸まで泳ぎ渡った言葉って、振り返ってみればそういう言葉ばかりではなかったか。(96頁)

人は多様性があっていいのだ。
泳ぎ渡った人だけが吐ける人間の本性のようなことが、いい意味でも悪い意味でもぞっとする人間が人間を見るというドキュメンタリーの確信部分になっている。
泳ぎ渡った人の本音の言葉。
泳ぎ渡って気持ち悪くて言葉がゲロっぽい人もいる。
「野ざらしの言葉」というのは「野に吐き出された言葉」だから拾って食べる言葉としては危険なところある。
砂鉄氏の言葉は万人向けではない。

「若い人は、本当の貧しさを知らない」
よくベテランの人が使う言葉。
(本の中で著名人たちをものすごい言葉で罵倒しているように番組では紹介しているが、読んだ限りではそういう過激な書き方はしていない)

 昨今の新書市場は、年老いた大家の人生指南本と近隣諸国を無節操に殴打する本に溢れているが、この二つは「歴史を修正する」という点で密接に絡み合っている。(65頁)

その手の本の主役が曾野綾子で、説教臭い新書ブームのヒロインだ。
曾野綾子の決まり文句が「私は戦争と本当の貧しさを知っているのよ」から話を起こし、「だから聞きなさい」という文章の展開に著者は激しく異議を唱える。

2015年12月18日

ダイソー エバビレーナ 白髪タッチA(ブラック)

白髪がどんどん生えてきているのだが、面倒くさいので染めていない。
ってことで、出かける時だけ白髪を隠すヤツを塗っていたのだが、使い切ったっぽいので新しいヤツ。
前のはシエロ コーミングカバー
ダイソーで白髪に塗るヤツが売っていたので買ってみた。

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108円(税込)。

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マスカラみたいになっている。
生え際だけに塗りたいのだが、長い髪の生え際だけってのは非常に塗りづらい。
塗ってから比較的早く乾くのだが、乾いた後はごわごわっていうか、カチカチっていうか、結構固くなる。
塗り方にもよるのかも知れないけど。
シエロのヤツはいつまで経ってもちょっとずつ落ちてきて、顔が黒くなったりして困ったけど、こっちの方が落ちない感じ。

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森永製菓 ジャック ソルティキャラメル

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森永JACK 美味しいのに崖っぷちキャンペーン

サークルKで168円のヤツをポイントdeクーポン値引き118円で、+Kクーポンを50ポイント利用。
内容量30g。
11月10日リニューアル、コンビニエンスストア・駅売店先行。

昨年春に一度発売したけど、全然売れなかったっていうヤツ。
小さい袋にちょっとしか入っていないのに、チャック付きっていう。
どういう食べ方を想定しているのかよくわからない。
袋の裏に「コーヒーにぴったり!」って書いてあるけど、コーヒー一杯に対してこれを一粒とか?
当然のことながら一度で全部喰った。

味はあんまり美味しくないんじゃないか?と思いつつ喰ったんだけど、思ったよりは美味しい。
もちろんこの値段では買わないけど。
表面のキャラメルが甘ったるいけど、ソルティパウダーとやらの塩味も利いている。
でも、キャラメルが歯にくっつく感じが嫌いだし、私は買わないな。
それと、手がちょっとだけべたべたしちゃう。
ポテトチップスみたいに箸で喰うワケにもいかず。
手がべたべたすんのはイヤだな。

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2015年12月16日

エースコック うる星やつら あっさり醤油ラーメン 高橋留美子ふるさとの味わい

エースコック うる星やつら あっさり醤油ラーメン 高橋留美子 ふるさとの味わい 50g×12個



うる星やつら あっさり醤油ラーメン 高橋留美子ふるさとの味わい|商品情報|エースコック株式会社

12月7日発売。
スーパーで108円(税抜)で購入。

これと一緒に「らんま1/2 濃厚味噌ラーメン 高橋留美子ふるさとの味わい」ってのも売っていたけど、これだけ購入。
「高橋留美子先生のふるさと新潟市で愛され続けるご当地ラーメンを再現」だそうです。

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普通にお湯を入れて三分待つタイプ。
あっさりっていうか薄い味の感じの醤油ラーメン。
ネギが多いのでネギ臭い。
普通の味かな。

エースコック らんま1/2 濃厚味噌ラーメン 高橋留美子 ふるさとの味わい 50g×12個



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湖池屋 ポテトチップス 苺のショートケーキ味

ポテトチップス 苺のショートケーキ味 60g×12袋



ポテノミクスで“ケーキ”対策を実行 「ポテトチップス 苺のショートケーキ味」 クリスマス(にも合う)ケーキ(味)予約も受付
「ポテトチップス 苺のショートケーキ味」は年末年始の“ケーキ”に対する消費者意識の高まりに対応する商品として企画された新商品です。

サークルKで138円のヤツをポイントdeクーポン値引き98円で、+Kクーポンを40ポイント利用。
内容量60g。
12月14日コンビニ先行発売。
12月21日全国スーパーマーケット等、一般チャネル発売。

かなり話題になった商品なので感想をネット上で見かけるのだが、香りはかなりそれっぽいけど、味は案外普通って話だった。
で、袋を開けてみて、確かに香りはイチゴのケーキだなって雰囲気の香りがする。
味は「普通」っていうから普通の味なのかな?と思ったら、甘いな。
ケーキっぽい味のような気もするけど、よくわからん。
まずいってほどでもないけど、美味しいものでもないな。


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2015年12月14日

2015年3月16〜27日◆『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』田口茂(後編)

これの続きです。

「確かである」とはどういうことなのか?
確かさを背後から自明なもの(あたりまえのもの)が支えている。
その「あたりまえ」に謎がある。

ここに一つのサイコロを置いてみよう。
サイコロというものはその全ての面を一度に見ることはできない。
むろん、展開図にすれば全面を見ることができるが、それはサイコロではない。
そのサイコロをやや斜め上から見た時、1と2とその上に4の面が見えている。
見えていない部分はどんな数字なのか?
表と裏を合わせると7になる。
1の真裏は6、2の真裏は5、4の真下にあるのは3。
私たちは絶えず見えている面と見えていない面を表裏合わせれば7になるという構造で見る。
一瞬も疑わない。
1の裏には必ず6があるとみる。

われわれが「物」という名のもとにつかんでいるのは、個々の面でもなく、それらを寄せ集めた全体(展開図)でもなく、絶えず流動する経験のなかで、その経験プロセスが示す確固たる規則性のことなのである。(70頁)

何か不自然な、何かヘマをした時に「私」が現れる。
そしてヘマをしたことに関していくつもの私を裏表で思い出す。
つまり「私」とはヘマした時に現れる現象。

内田樹氏の構造学の哲学の本(何冊か出版されているので、どの本かの特定ができず)。
「人間は間違った時のみ個性的です」という言葉を見つけた。
人間は間違っていない時には個性がない。
人間は間違うことによって個性をつくってゆく。
正しい答えでは個性は作れない。
間違ったからこそ個性が生まれる。

フッサールの現象学も同じことを言っている。
私たちは流れの中で現れてくる、そういう現象なのだ。
私たちは流れていく構造をつかむこと。

例えば映画を見に行く。
最近一発でわかる。
「あ、CG!」
本物そっくりな映像にするためにCG(コンピュータグラフィックス)がある。
平面を三次元画像で描けてCGっていう映画作りが始まった。

アナと雪の女王 (吹替版)



あんなに本物そっくりに動く「アナと雪の女王」だが、なんであんなに小顔の頭でっかちのお人形さんにしちゃったのか?
そこが不思議。

最近では私たちはそれがCGかどうか一発でわかる。
CGだと何が起きてもあまり迫力を感じない。
人間がすっ飛ぼうが潰されようが空中を飛んでいこうが、ハラハラもドキドキもしない。
でもそれは、逆の意味で言うとCGの本意じゃない。
本物そっくりに見せておいてハラハラドキドキさせるために生まれたのがCGなのに、目はすぐに見抜く。
そしてちっともハラハラドキドキしない。

アナと雪の女王。
人間の動きそのもの。
ドレスの裾のひらひらとかの変化とか、数秒のうちに凍りゆく床面とか、その後の『ベイマックス』というのも大ヒット。
ロボットの動きから少年の動きは人間そっくり。
それほど人間そっくりなのに、私たちは「あ、CG」。
この矛盾は一体何なのか?
例えば、雪の女王が歌いながら氷の城を歩く時、女王の姿はカメラに対して見え隠れの流れのうちに動くのである。
回転したりすると顔が隠れてまた出てくる。
CGはその女王の動きが転がるサイコロのように数式に変換されて動画化されている。
つまりあの動きは数式が支配しているのである。
私たちはあの本物そっくりの動きをすぐにCGと見抜くことができる。
なぜだろう?
あまりにも矛盾がない。
CGの動きには裏が感じられない。
サイコロの1が見えた時に裏は6、2が見えた時に裏は5・・・CGにはそれが感じられない。
裏を感じない。
だからこそ、どこかで「あ、CGか」と思ってしまう。

確かさを支えるこの「あたりまえ」には現れていないものが広がっている。
家一軒を見る時、家がハリボテだとは思わない。
ちゃんと裏口があると私たちは思う。
現れていないものがあると思う。
CGが本物そっくりであっても、逆にそのそっくりが「本物でないな」と直観してしまうのは、これには「裏がない」とどこかで思ってしまう。
例えばCGで海が登場する。
魚が泳いでなさそうな気がする。
生き物の臭いとか気配とか。
CG画面には臭いがない。
『アナと雪の女王』も氷の世界があっておうちの中に入っていくと暖炉で火が燃えているが熱を感じない。
つまりCGの世界は、あてが外れるという可能性がほとんどない。
きちんと全部計算されている。
あの画面を見ている限り、何も考えなくていい。
サイコロの1の裏は6・・・そんなことがない。
裏を考えなくていい。
表だけを見ている。
その「確かさ」の違いが、私たちの中で世界が広がって見えない。
のりしろを感じない。
CGは見えている人だけが人。
その違いを私たちは肌で感じてしまう。

世界は相関関係で動いている。

 たとえば、列車に乗っていて、自分の乗っている列車が動き始めたと思ったら、実は窓外に見える隣の列車が動き出していたことに気づく、といった経験をすることがある。この場合、隣の列車の窓を通して向こうに透かして見えている駅舎などの風景に注目すれば、その風景に対して自分の身体が止まっていることから、自分の乗っている列車が止まっていることに気付くことができる。(89頁)

動くっていうことを実感するためには、動くものと動かないものがない限り、動いていることを確認できない。
そういう相関で世界構造が見えているのだが、CGにはそれがない。
CGは一つの窓からの世界を描くことはできるが、二つの窓から描くことはできない。
CG画面というものは、ものの現れ方が規則的に描くことで表現される世界である。
規則正しく動くが、しばらく見ていると私たちはそれがすぐに人によって計算され、CG画面で描かれた絵だと気づく。
そうするとたちまちリアルさを感じなくなる。
リアルを追求したCG画面は、なぜリアルさを失うのだろうか?
例えばハリウッドのゴジラ。
ものすごくリアル。
でも、飽きてしまう。
なぜ飽きるのか?
どちらかといえば私たちは、円谷のゴジラにリアルさを感じる。
ハリウッド版CGゴジラはゴジラ以外の何者でもない。
でもゴジラ以外の何者でもないゴジラを見ていても、私たちはゴジラを感じない。
人間の感性は不思議。
CG画面のゴジラは、三角形が伸び縮みして動いている像と同じ。
「立体はこう動く」という数式だから。
一方円谷のゴジラは着ぐるみ。
中に人が入っている。
ゴジラを演じている。
その中身は人だから、時としてゴジラの動きのあてがはずれて、ゴジラが人間みたいに動く。
私たちは人間みたいな動きをした時に、ゴジラに修正して見る。
無意識のうちに「今のコケ方、人間に近いな。本物のゴジラはこんなふうに転ぶんじゃねぇの?ゴジラだったら」って修正して見る時にゴジラ像が出てくる。
ゴジラの動きが様々な人を含む動物、ゴリラとか象とかワニのように動く。
いろんなものの共通性を持っているがゆえに着ぐるみのゴジラは「どこにでもあってどこにもない」ゴジラという現象で見えてくる。
どこにでもあってどこにもないという現象に見えてくる時に、私たちはゴジラに見えてくる。
我々は現象の中に見い出される多様な結びつきの現象そのものの重なり合いを本質として取り出す。
CG画面のゴジラが一歩歩く。
人間にも似てない。
ゴリラにも似てない。
ゴジラだから。
でも着ぐるみのゴジラは人間にも見えるし猿にも見えるしゴリラにも見える。
我々は修正しつつそれをゴジラだと思おうと努力する。
そのことによってイメージができる。
ゴジラというのはシリーズを重ねつつ、時代の変化等々で形が変わってきている。
それを込みで見ている。
CGのゴジラは一回作ってしまうと何も変わらない。
着ぐるみのゴジラは何かに結びつく。
ゴジラが吠えた時に「怒った時の私に似ている」とか。
CGのゴジラは何にも結びつかない。
CG画面はなぜ私たちにリアルさを感じさせないのか?
着ぐるみのゴジラの方が遥かに私たちはついリアルを感じさせる。
着ぐるみのゴジラはどこにでもあってどこにもないゴジラ。
CGの方はどこにもなくてそこにしかないというゴジラだからリアルさを感じない。

なぜコロッケさんのモノマネでみんなが笑うのか?
コロッケのデフォルメとは何ぞや?
それは様々な結びつき。
だからおかしい。
例えば森進一さんのモノマネ。
恐竜森進一。
五木ひろしさんのモノマネの時にロボット仕掛けひろしをやる。
あれはコロッケさんのモノマネが様々なものに結びついているから本質を感じる。
「そういえば森進一さんは一番もっともうなった時、何となく恐竜っぽいな」とかっていう「結ばれたもの」のおかしさが私たちに笑いを誘う。
間違いないことは、森さんが現れて「おふくろさん」を歌う時、もう笑わない。
それは森さん本人だから。
何にも結びつかない森さんだから。
コロッケが芸として見せるのは「これにもこれにもこれにも結びつく」というのを見せた時に、私たちはその人の本質を想像しておかしくなる。
「笑う」というのは実に哲学的。
結びつきが愉快。
まさか森さんが卵から生まれた恐竜になるとは思わなかったというおかしさ。
北島三郎という演歌界の重鎮をコロッケさんは「お猿のかごや」みたいにやる。
「お猿のかごや」と結びついたという、結びつきがおかしい。
本質と呼ばれているものは、多様な契機の間の結びつきの現象である。
結びつきを持たないものは本質から遠くなる。

武田鉄也がモノマネにもってこいなのは、結びつけやすいから。
くどさといい、言っていることのわからなさ、力技で人をうなづかせようとするどこかに潜んでいる無理。
そういうものがいくつも重なった時に武田というのがおかしくなる。
そこが現象として現れる。
1の裏に6が隠れている、2の裏に5が隠れているという、そういう結び付きが本質を感じさせる。

 そして何より、どこまでも流れゆく生のなかで、そのほかならぬわれわれの生が、いかに深く「同一性」に魅了されているかを、再び驚きをもって眺めるということは(132頁)

 私は通常、ほとんど自動化された経験のなかで生きている。−中略−
 しかし、この滑らかな、ほとんど自動的に展開していく経験の流れが、何らかの事情で妨げられるとき、通常は自明性のなかに沈んでいる経験の各パーツが、はっきりとした姿をとって浮上してくる。
−中略−
 そしてそこでは、「私」もまた浮上してくる。滑らかな経験の展開が妨げられたとき、「私」が呼び出され
(178〜179頁)

私たちは生きていることも忘れないと、生きてゆくということができない。
毎日「俺は生きてるぞ」って思っていると生きているのが重荷になる。
フッサールさんが言っている、否定的経験に直面したとき「私」はやっと「私」を思い出す。
うまくいっている人は「私」なんて全然思い出さない。

 ここで、「自我は実体ではなく媒介である」という言い方が、一つの助けになるかもしれない。(191頁)

私が「私」と言う時、それは私を統一し、まるで実体的につかみうるように思えるが、出来事が流れ去ると、自我はそういう形を失うのである。
悩む時「私」は出てくるんだけど、何にも悩まない時「私」は出て来ない。
メシ喰って幸せな時「私」はいない。
「私」というのは現象である。

自我とは出来事によって再構成されたもので、最初から自我はいると自我は主張するが、自我などというものは出来事が流れる去ると形を失うのである。
私は首尾一貫「私」として生きていると主張するが、実は「私」というのは時々思い出される私であって、うまくいっている時は私は「私」を忘れている。

 路上で道を訊かれ、「ほら、あの道ですよ」と指さす。他人は指された方向に顔を向け、頷く。(240頁)

その瞬間にその人と私の間に生じる現象が「間主観性」と呼ばれるらしい。
「ほら、あの道ですよ」と指差した瞬間の出来事のことを「間主観性」。
他人と共有される「主観性」という。

道を尋ねる。
親切な人が「あの道ですよ」と指さしてくれる。
私が「あの道」を見て「あ!あの道ですね」と言う、この瞬間に私はその人が見ているものを見ているということになっている。
その道がわからない時には「え?」って言いながら教えてくれる人を見る。
その人を見る限りその道がわかっていない。
その人から目を放した瞬間に、その道がわかったという合図になる。

この間主観は日常では例えばドラマ、映画を見たり、誰かの歌声につられたり、スポーツに興奮したり、恋をしたり、その人と愛し合っている時に立ち起こる哲学的体験で、私たちの自我は他人に憑りつかれる体験を日々繰り返している。

「確かさ」はものすごく難しい。
確かさを確かさとして成り立たせているその「あたりまえ」を見つける考え方が現象学である。


2015年3月16〜27日◆『現象学という思考 <自明なもの>の知へ』田口茂(前編)

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)



フッサールはレビナスが批判した、同じくヨーロッパの構造主義の哲学者。
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール
オーストリアの哲学者
(番組では「フランス」と紹介していたが、違うようだ)
哲学というとドイツ・フランスが大活躍をしていたが、最近はずっと途切れている。
経済学者のピケティみたいなのが大当たりをとる。
電話帳みたいな経済学の本。
「キャピタル、資本主義っていうのが限界が見えたぞ」みたいな、どう進んだところで資本主義というのが中間層から貧しい人たちのために味方することはないんだ、と。
アメリカの富の70%を10%の人が握っている。
それで、中間層以下の人は全体の富の5%ぐらいしか握っていない。
これはどんどん開いて、中間層が持っている20%を、70%を持っていた人が75、80にするぞ、という。
混迷をますます増す社会。

ちょっと立ち戻ってフランス構造主義。
この構造主義の先輩であるフッサールの現象学という考え方をやってみよう。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
心象スケッチ 春と修羅「序」

宮澤賢治の詩に出てくる「現象」。

内田樹氏曰く「不思議というのは、UFOとか幽霊というけれども、そんなことよりも、もっと手前のほうにあるんだ」。
なぜ女の人は唇を赤くぬるんだ?とか。
あたりまえのところに実は深い謎がある。

あたりまえに潜む謎を追及していこうじゃないかって声を出したのがフッサールという人。

 「これは真実だと主張するのが、いまや、あらゆる架空の物語の慣例である。しかしながら、わたしの話は、本当に本当なのである。」(ボルヘス『砂の本』)
 ボルヘスはこう言って、無限のページをもつありえない本の話を語り出す。彼一流のとぼけた書き出しだが、そこに、ある皮肉な真理を読み取ることも不可能ではない。つまり、架空の話をするときこそ、人はそれがいかに本当であるかを強調するのが常なのである。
 これは以外にも、われわれ自身がよく知っている日常の真理かもしれない。「確実に金儲けができます!」「絶対確実に幸せになれます!」こうしたキャッチフレーズほど、疑わしさを醸し出すものはあるまい。
(12頁)

「絶対に間違いありません!」「必ず○○します!」「確実に○○です」というのは危ない話、あまり信用できない話の枕詞なのだ。
じゃあ、本当に確かな話は、絶対に「確かな」という形容詞を必要としない。
「危なくない」とか「信用できる」とか「確かだ」と思った瞬間にその言葉を使わないのがあたりまえ。
「本当の」「確かな」「確実に」「必ず」という語には、「確か」ではない不安が潜んでいる。

だからわれわれは、本当に確かなことは、わざわざ確かだと強調したりはしない。確かであるかどうか不安が生じたとき、はじめて「確かさ」を意識的に追及する動きが生じるのである。(13〜14頁)

それが実は日常における、証明なんかいらない「自明」の真理なのである。

本当に何の疑いもなく「確か」だと思われていることは、かえってことさらに「確か」だと言われることはなく、あまりにも確かなことは、語られることさえなく、沈黙のうちに沈んでいるのではないか、というのがその考えである。(14頁)

それゆえフッサールは、現象学を「自明なものの学」と呼ぶ。ある入門講義の中で、彼はみずからの考える哲学を次のように特徴づけている。−中略−自然的な人間にとって(また自然的な態度にとどまる学者にとっても)自明であるような一切のことが、最も深い謎に纏い付かれていることが反省のなかで明らかになる。(14頁)

哲学は「とても難しいことをわかろうとする学問」じゃなくて、「あたりまえのことに潜んでいる謎を解く」学問。

内田樹氏曰く
高価なバカラの脚高のワイングラスを二客を貰ったとする。
それをガラスケースのどこに飾るか?
「真ん中の一番よく見えるところに飾る」という水谷譲。
しかし、その場所は地震の多い日本では、もっともガラス容器が割れやすい場所でもある。
なぜそこに置くのか?
本当に不思議なのだが、どこの飲み屋に行っても一番高いガラス食器は一番高いところに置きたがる。
なぜ壊れやすいものを壊れやすい場所に置くのだろう?
つまり、壊れるものが値打ちがある。
壊れないものには値打ちを認めない。
割れないガラス食器は値段が安い。
花でも生花がなぜ高いかというと、何日かすると枯れていくから。
いかによくできているとはいえ、ビニールの枯れない花は値段が高くならない。
壊れるものに値段が置くというところが、実はあたりまえなんだけれども、この中に巨大な謎があって、人間は壊れるもの、枯れていくもの、やがて消え失せるものに関して美しさを感じる。
友人の家に行った時に高いガラスケースを指差して「あれはバカラ」と言われて「おお!」と思うけど、見えやすいそこに置いたということは、一番壊れるところに置く。
つまり壊れることを前提にしてガラス食器を見るところに値段がある。
永遠に壊れないものというのは、ひどく値段が安くなる。
人間はそういう「あたりまえ」のところに、実は謎を感じない。

リンゴが木から落ちるのは「あたりまえ」である。そんなことは誰でも知っている。だがこの「あたりまえ」の事実を「重力」という力によって説明するということは、決して自明ではない。生物が成長するのは「あたりまえ」だが、それが遺伝子によって制御されていることは、「あたりまえ」ではない。科学は、自明なことには手をつけない。それを事実として前提した上で、そこに潜んでいる驚くべき新たな事柄を明るみに出す。(15〜16頁)

「あたりまえ」の中に、実は大きい謎が渦巻いているのではないだろうか?
そういう「現象学」という考え方。

現象学は、むしろ「あたりまえ」ゆえに通常は素通りされてしまっているもの、それゆえ何かをテーマとして追及するような思考にとっては、ほとんど意識に上らないような次元を問題にする。(16頁)

噴出しようとする問いに蓋をして無視するのでもなく、不安と派手に一戦交えるのでもなく−−不安に呑み込まれずに、冷静にこの問いへと「一歩一歩、徒歩で」近づいてゆく道を、現象学は指し示しているように思われるのである(19頁)

自明性、「あたりまえ」へと問いを向けることは我々の経験、我々の生がどのように成り立ち営まれているか問うことになる。
これはまた、謎への壮大な挑戦でもある。

50代の初めの方で、レビナスを説明してくださる内田氏の言葉使いに強く惹かれていった武田先生。
「あたりまえ」に深い謎を感じたから。
現象学の裾野は広い。

たとえば認知科学、神経科学、ロボット工学などの分野で、現象学は新たに注目を集めているし、−中略−看護や介護など、「ケア」という言葉で包括されうるような人間への関わりを考えるために、現象学を援用しようとする働きもある(20頁)

人間的経験や人間の生をある程度の包括的な見通しをもって論じうる研究のプラットフォームが必要になるが、おそらく現象学は、長年にわたってそのような議論のプラットフォームを提供し続けてきた。(21頁)

特権的有識、専門家は必要ない。
哲学的成果や真理も求められない。
他の人と「あたりまえ」の背後にあるものを探索しつつ、対照し訂正しつつ完全にする。
それが現象学のルールである。
真理はいつも運動の中に出現するのであって、黄金の鉱脈のように横たわり眠っているものではない。
真理とは穀物のように実り、泉のごとくに湧くものなのである。
「あたりまえの謎」とは50代の時、人生で体験したいくつものことが実は、謎だらけであるとハタと気づいた。

西の窓辺へお行きなさい 「折り返す」という技術



私(武田先生)の謎。
なぜ結婚したのだろう?
50代頃から急にわからなくなった。
「壊れるもの」だから。
「これは壊れるな」と奥様のことを誤解した。
私は25歳で結婚したが、なぜナザレの大工の息子の像の前で永遠の愛を誓ったのだろう?
25歳の時に教会で式を挙げたのだが「ちょっとこれはどうかな?自信ないな」と思ったのは「とわの愛を誓うや」と博多なまりの牧師さん、神父さんからそう訊かれた。
25歳で「永遠」という言葉は、何かものすごくうなづきにくかった。
自信がなかった。
でも「はい、誓います」と言わない限り、儀式が進行しない。
もう一つ思ったのは、なぜ「永遠」の意味もわかっていない若造に向かって「永遠」なんていうことを誓わせるんだろう?
次々「とわ」を誓ってカップルが生まれて、次々「とわ」に守れず男女がちぎれていく。
なんでわざわざ「とわ」を使うんだろう?
それはもしかすると、一回嘘をつかせるためなのではないか?
「ある一定の期間」とか「三年以内までは」とか。
そこに永遠という言葉の意味があるのではないか?
できもしないことを「できる」と言い切るところに結婚の意味があるのではないか?
土台無理がある。

男女の愛撫は、なぜ食べることの動作に関係した言葉が多いんだろう?
舐める、噛む、すする。
男女はなぜ、最高の快感の時に最も苦しい表情をするのだろう?

なぜ人は認知症に陥った場合、徘徊するのか?
病態として同じように現れる。
あの病の何かの目的があるはず。
そんなふうにして考えていくと、病気一つでさえ、ものすごく不思議になってくる。

「絶対に確かである」と言われて、決してそれが絶対確かであるとは人は信じない。
しかし、その疑いを向けて杞憂の愚を私たちは犯さない。
永遠の愛を誓った後、永遠が終わるまでドキドキしながら「守れるかなぁ?」とはしない。
「誓っちゃったな」とか言いながら生きて行く。

 われわれは通常、何の疑問もなく、椅子に自分の身体を預ける。イスが壊れていて、座った途端に自分の身体は後ろへ投げ出され、強く頭を打つかもしれない。−中略−
 いずれの場合も、「絶対に確かか?」と言われれば、そうではない、と答えざるをえない。だが、このような疑いをあらゆるものに向け続けていれば、われわれの生活は成り立たない。「杞憂」の故事にあるとおりである。
 つまりわれわれは、「絶対に確かだ」と信じているわけではないことを、とりあえず「確かだろう」と見なして、行為し、生活しているのである。絶対に確かではなくても、われわれは何かを信じることができる。そして生活していく上では、絶対的な確かさを求めるよりも、ある程度の確かさを信じられることの方が、むしろ重要である。逆に、「絶対的な確かさ」をどこまでも追及していこうとすると、このような日常生活の確かさが崩壊の危機に瀕する。「この食品は絶対に安全なのだろうか。見えない雑菌や農薬で汚染されているのではないか。」このように疑い始めれば、何一つ安心して食べることもできなくなる。
「疑い始めたらきりがないから、疑うのをやめて鈍感に生きよう」などと言いたいのではない。ここに考えるべき「哲学的」問題があると言いたいのである。
(31頁)

人間は「確かさ」を一回カッコの中に入れておいて、意識されないようにして日常をスムーズに生きている。
あまりにも「確かさ」「絶対」を追い求めると、逆に息苦しくなる。
「あなたの心臓おかしいですよ」って言われると、ずっと耳の中で心臓の音が鳴り始めて、息苦しくなる。

「絶対的な確かさ」というのは逆の意味で、生きて行くことの進行を妨げる。

 先行きの見えない状況に置かれたとき、「確かなのか?」という問いは、切実な問いとしてわれわれに迫ってくる。だが、この問いを、それが指し示す方向に向かって際限なく問い続けるなら、その試みは容易に挫折し、問いそのものが意味を失ってしまうように見える。確かさを問うことは、通常は、不安な生が安心や安定を求める動きであるはずだが、むやみに確かさを問い続けると、生の不安はかえって多いようのないものとなってしまう。なぜなら、そのような「絶対的な確かさ」など、どこにもないように思えるからである。(33頁)

「絶対」からわずかに距離を置いて、忘れてしまうということが「確か」になる。

現代社会で不安なもの。
 旅の安全
 チキンナゲット
 原発
 JRが雪で止まる
 マイカーのエアバッグ
 毎日飲んでいる糖尿病、血圧の薬
 人間ドッグの医師が信用できるかどうか
 今度やってくるM8〜M9の地震、津波
その安全を確かに確かめるものは、残念なことにすべて他人を経由しなければ手に入らない。
自分では確かめようがない。
その他人、メディア、専門家、大学教授、研究者、その仕事に従事している者の確かさを信用できないから「絶対に確かか?」と疑い続けると私たちは生きていけなくなる。
「薬を飲むバカがあるか」とか「薬ほど危ないものはない」とかって本を書く、大きな病院の先生がいる。

だから医者は薬を飲まない (SB新書)



あんなのを見るとガックリくる。
あんなのを持って行って人間ドックのお医者さんに「こんなのありますよ」とは言えない。
医療に関して揺さぶるお医者さんがお医者さんの中にいる。
逆説を言われる。
「本当は血圧は少し高めじゃないとダメなんだ」
そんなことを言う人がいると「健康って何だろう?」と、健康について考えるたびに不健康になっていく。

私たちは日常の暮らしの中で「確かさ」を求める。
だが、その確かさを私たちは疑いながら、しかしその確かさを私たちは私たち自身で確かめることはできない。
そういう現代社会を私たちは生きているのだ。
その矛盾を解決し、消し去ることは現実にできない。
矛盾を矛盾としてその矛盾を経験しながらそれを「非主題化」、テーマにしない。
それを当たり前にして生きている。

とりあえず自転車のペダルをこぎましょう。
ハンドルを左右に振りながら、この矛盾という自転車で走りましょう。
自転車を非主題として、前方に広がる風景、車や歩行者、そして目指す地点に向かっていることを主題にしましょう。
それが、自転車に乗っていることを最も確かにするコツなのです。
(自転車の話は50ページに出てくるが、番組で言っているのとは内容がだいぶ違う感じがする)

最近よく忘れ物をする武田先生。
忘れ物というのは「あたりまえ」の中に自分が埋もれている。
車のキーを何回無くしたか?
魔法のように消え失せる。
かぶっていたハンチングがないということで店を探したり、行きつけの場所に行って従業員の人に「落ちてませんでしたか」とか言って。
家に帰ってイスの後ろにあった。
自分が日常で取っている行動の何かがそこに置かしたんだろうけどあたりまえすぎて忘れている。

「自明なもの」は、ことさらに主題化されないときにのみ、本来の「自明なもの」として作動しうる。だから、それが通常は見えてこないのは当然である。−中略−
 だから、「自明なもの」は、ただ自然な仕方で経験に身を任せていても見えてこない。「いつも通り」の認識や経験の仕方では、見えてこないのである。ここでは、ある意味で「不自然な」考察が必要になる。
−中略−
 それゆえ、現象学の営みがもつ「不自然さ」をいつも意識しておくために、「現象学的還元」という特別の方法が必要になるとフッサールは考えた。
(53〜54頁)

身近であるにも関わらず通常気づくこともない豊かな現象と経験の世界の広がりがそこにあるのである。
一体「あたりまえ」とはどのような現象なのであろうか。

不自然な時だけ思い出すものというのがある。
それをフッサールは「現象学的還元」という。
不自然な時だけ「私」を思い出す。
ものを忘れた時。
「あ!ハンチング無ぇ!バカだなぁ〜俺」って言った時だけ「俺」が出てくる。
「俺」がうまくいっている時は俺は「俺」を全く忘れている。
へまをやった時とか、バカをやった時、失敗した時とか、そんな時だけ不思議なことに一人称の「私」が出てくる。

類型的予科が機能不全を起こした瞬間、私の意識は、過去へと遡り、空想の世界を駆けめぐり、未来を先取りしている。(175頁)

ものを無くした時「バッカだなぁ〜、何で俺帽子・・・帽子を無くしたのは一回や二回じゃない。俺が生まれて帽子を始めて無くしたのは、小学校のあの遠足に行く直前だったよ」。
「私」がかけめぐる。
つまり「私」は現象学的現象である。

2015年12月12日

東ハト ティラノの肉!? バーべキュー味

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株式会社 東ハト/商品カタログ

サンクスで152円のヤツをポイントdeクーポン値引き112円で、+Kクーポンを40ポイント利用。
内容量45g。
12月7日コンビニ先行発売。

ティラノサウルスの肉をイメージしたスナックです。 野菜の旨みと隠し味のスパイスで肉の旨みを引き立て、バーベキューソースにつけこんだ肉を炭火で焼きあげたような、香ばしく濃厚な味わいに仕上げました。

もう一種類の「帰ってきた マンモスの肉!? うましお味」っていうのも選べたけど、こっちにしてみた。
時々このシリーズのが発売されるのだが、味にアタリハズレがある。
これはまあまあかな。
バーべキュー味ってことだが、私はピザソースみたいな味だなと思った。
丸くて平べったい形で、一口で喰うにはちょっと大きいから、もう一回り小さいと喰いやすいのに(個人の感想です)。
一度に喰うのにはよさげな量かなとは思うんだけど、この少ない量でこのお値段ってなると、普通には買わないと思う。

東ハト 帰ってきた マンモスの肉! ?うましお味 45g×12袋



posted by ひと at 17:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする