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2016年05月30日

三立 私のチョコバット

三立製菓 私のチョコバット ラズベリー&ナッツ と ダブルち・よ・こ・れ・い・と 1本×10本



発売はずいぶん前だけど、全然売ってなかったんだよね。
発売当初、商品名が話題になったんで、いろんな店を回って探したけど全く売っていなかったという。

まいばすけっとで74円(税込)で購入。
パティシエ辻口博啓氏監修。

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てっきり中身はコーン系のサクサクしたヤツかな?と思ったら全然違った。
何だろうなぁ。
クッキーとも違うし、小麦系は小麦系だけど。
もっと甘い菓子なのかと思ったら、それほど甘味は強くない感じ。
ラズベリーが入っているということで、結構酸味もある。
ラズベリーなのかわからないがジャリジャリした感じのものが口に残って不快な感じ。

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◆RSP53◆サラヤ◆ラカント シリーズ◆16◆

プレゼンもしていただいたサラヤ様のラカント シリーズをご紹介。




サンプルバッグにはこれが一本ずつ入っていました。

ではプレゼンの内容のご紹介を。
時代は「カロリー」から「糖質」へ
ということで。
昔は摂取カロリーが消費カロリーより少なけりゃいいみたいなカロリーベースの考え方しかされてなかったけど、今はずいぶん変わってきたようです。

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このグラフから、カロリーを抑えることよりも、糖質が低い食事の方がダイエットには有効だということがわかりますね。

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どうしてダイエットに効果があるのかというと、血糖値の急激な上昇は肥満につながるものなので、血糖値が上がらないとかゆっくり上がるとかっていう状況になれば、肥満は防げるということで。
グラフのように、通常食よりも糖質制限食の方が、大幅に血糖値の上昇を抑えることができていますね。

このプレゼンの内容がよかったなと思ったのは、過激な糖質制限は推奨していないこと。
いずれこのブログでも紹介する予定だけど、無責任に過激な糖質制限を推奨している人がいるのだけど、そういうのは健康被害も報告されているし、いかがなものかと思っている。

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ロカボ(ローカーボ)の食べ方ということで。
糖質を1食20〜40g+間食10g=1日70〜100g以内
ってことで。

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食事はおいしく、楽しいもの
おいしくなければ続かない
おいしさと健康は両立できる

ということで

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7年連続ミシュラン三ツ星の日本料理店「青山えさき」監修でリニューアル。
これ1本で本格三ツ星名店の味!

です。
だから、こんなに糖質が低いのに味もしっかりと美味しさを追求しているという!

ということで、いただいた「すし酢」を使っていなりずしを作ってみました。

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いつもは粉末のものを使っているんだけど、これは液体なのでご飯を炊く時に水を少な目にしてみたけど、それでも若干水っぽくなったかな。
2合に対して75ccなので、結構な水分量な感じ。
味は普通の寿司酢と全く変わらない感じで、糖質を気にしている人はこれを使うと味は変えずに料理が作れるかなっていう。

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2016年2月29日〜3月11日◆日本の正義はなぜ通用しないのか(後編)

これの続きです。

ヨーロッパは、お互いにしっかり決めたので戦争がなくなる。
それでヨーロッパはそのことによって平和に満ち満ちて、文明国として豊かに実り、その間、経済的な力を蓄える。
世界を支配する力を持った欧州が戦争をしないわけだから。
そのヨーロッパの繁栄にヨーロッパ人たちは誇りと確信をもって40年間の平和を貪った。
ところが人間は切ない。

 今から一世紀ほど時代をさかのぼった一九一四年、六月に起きたオーストリア皇位継承者の暗殺事件を契機として、ヨーロッパの大国は総動員体制に入り、長い平和の時代が幕を閉じる。(81頁)

ヨーロッパ世界はこの第一次世界大戦を重大な転機として、その後着実に没落していった。四年間の戦争の間に、膨大な数の才能あふれる若者たちが戦場に送られて、屍と化した。イギリスからは六一〇万人が戦争に動員され、七五万人ほどが戦死した。イギリスの自治領および植民地からは二八〇万人が動員され一八万人が戦死した。ヨーロッパ大陸諸国からは、よりいっそう多くの犠牲が生まれた。ドイツでは一三二〇万人が動員され、戦死者は二九三万人。フランスでは八一〇万人が動員され、戦死者は一三二万人。フランスでは八一〇万人が動員され、戦死者は一三二万人。さらにロシアは一五八〇万人が動員され、一八〇万人の戦死者が出ている。−中略−あわせて主要国の軍人の戦死者だけでも、一〇〇〇万人以上が戦争で屍となった。それに非戦闘員の死者などを加えれば、その数ははるかに大きく膨れあがる。(81〜82頁)

日本は、八〇万人ほどを戦争に動員したが、しかしながらそこでの戦死者は一〇〇〇人程度であった。(83頁)

その4年間の間に何が日本で起こったかというと、軽工業、繊維業で儲かってかろうじて外貨を稼いでいた日本は、軍服を作れば売れるわ石炭を掘り出せば売れるわ。
戦争をやっているヨーロッパの戦場へ物を売れば売れるという。
経済的に発展して軽工業から重工業に切り替えられるという。
ひとの家の不幸で、経済の構造そのものを転換する。
この時に日本人は何を思ったか?
「戦争は儲かる」
繊維業をやっていて、ドイツの軍服もイギリスの軍服もみんな日本が作った。
みんな工場が焼けてしまっているので、一番安全なのは戦争に全く国土を焼いていない日本ということになる。
この時は何でも売れた。
綿を作れば綿が売れる。
この第一次世界大戦でブワーっと経済の構造まで変えて急成長したのが極東の島国日本とアメリカ。
この「戦争は儲かる」という考え方、経済が活況になったというのが、日本をものすごく大きな過ちに向かわせてしまう。
「戦争ぐらいありがたいものはない」という、他人の血を流す戦いのうまみみたいなものを知ってしまった。
日本はその間に国力を温存しているので世界のNo.5に入る大国になる。
全ては第一次世界大戦を対岸から眺めていた日本。
この事の迂闊さがあって、近代の戦争というのがいかに恐ろしいかを全く勉強しなかった。
飛行機、戦車、毒ガス。
これは全部、第一次世界大戦の時に発明された兵器。
これは一部ロボットまで。
人殺しはもう人間がやらないでロボットにやらせようというような発想。
そのアイディアもこの期に発明されている。
それから第一次世界大戦はロケット、潜水艦。
その設計図も第一次世界大戦中に考えられた。
原子兵器。
原子爆弾等々に関しても、もうアイディアはこの間にできあがっていたという。
我が大日本帝国の陸海軍は近代戦がいかに凄まじいかを、全く勉強しない。
日露のままの軍備で最強の軍隊を持っていると自惚れた。
そして日露戦時の日本兵の愛国心で大国を打ち負かしたという信仰のようなものが軍隊を支配していた。
その軍隊を更に酔わせるように国民も「日本の兵隊さんは世界最強なんだ」という民族主義の自惚れを持った。
これが巨大な不幸を日本に招く大元となった。
何だかんだ言いつつ「軍部に騙された」とか言っているけれど民間も相当悪い。
誰もが次の戦争を待ちわびているという。
芥川龍之介の小説の中にも、わくわくするような文章で「さあ次の戦争はアメリカとだなぁ」などというのがポコっと出てくる。
「アメリカに勝ちさえすればもう天下獲ったてなもん。世界はオレのもん」みたいなのがあった。

本当の世界の流れはどこにあったか?
第一次世界大戦後、この欧州大戦以降、ヨーロッパには切実に平和を求める運動が巻き起こる。
欧州の大国は「間違ってた」と。
アジアにおける植民地を自らの力で押さえ込む力が無くなってしまう。
イギリスなんかもインドあたりでくたびれてしまって、抑えられなくなった
1919年、第一次大戦の戦後処理を平和裏に行おうということでパリ講和会議が開かれる。
これは大きな会議。
この時に軍縮の問題が出る。
それから「民族というものはやっぱり民族単位でそれぞれ自分たちの国を切り盛りした方がいいよね」なんていう今に繋がる発想がこの段階で次々に出る。
そして国際平和組織を作ろうという提案がなされる。
日本はこの時にドイツからしっかりと中国山東省、南洋諸島の委任統治権を獲得している。
このパリ会議には西園寺公望さん、元外相の牧野伸顕さんも参加する。
この方々は国際外交の流れを見誤っていて、日本の主張をするだけで、そこで語り合われる軍縮とかっていう会議の本当のテーマはあまり興味がなかったようだ。
それと語学の問題もあり、他の大国からは日本のことを「サイレント・パートナー」といわれる。
「無口な相棒」っていうようなことを言われた。
このあたりから世界の大きな潮流を見逃すという悲劇に日本が歩み出す。

第一次世界大戦後のヨーロッパは戦争にくたびれ果ててフラフラ。
日本はその第一次大戦でしっかり儲かった。
アジアでの権益は拡大し、どんどん日本の植民地支配が広くなる。
これは日本が獲ったというよりも、戦争をやりすぎてヨーロッパの国々が経営する力が無くなったということ。
日本はそのくたびれ果てたヨーロッパを見て、千載一遇のチャンスとみる。
「彼らはもうアジアを抑えこむ力がない。だったら最も力があるのはアジア人の中でも我らジャパンだ!」
日本は国際社会に対して「アジアの国々はアジア人の手でちゃんと切り盛りすべきだ」と言った。
その第一条件として、アメリカでの人種差別をあげた。
黒人差別もあったらしいが、この時は日系人差別がひどかった。
それで日本は頭にきていた。
「世界五大強国であるところの日本人を差別するとは何事だ」という怒りが日本の中に渦巻いていた。
もちろん「人種差別撤廃」これは正義。
正義なのだが、日本はこの正義を国際会議が開かれる度に欧米指導者に強く求める。
でもこの正義を承認する国は残念ながら無い。
「人種差別はいかん」と良いことは言っている。
この間の中心になったのがあの近衛文麿さん。
近衛さんは大上段に拳を振り上げて「肌の色で人間を決めるのか!」みたいな立派なことを言う。
そうするともう日本国内は「うわー」と拍手拍手。
さらに若き外交官、重光葵は「欧州は平和を主張しながら東洋においてはフランス、オランダ、イギリスそれらの国々はアジア同胞を支配して差別しとるじゃないか」「正義はフランス、オランダ、イギリスには無い」と強く主張。
あくまでも日本を中心としてアジアを開放しようという運動を起こそうとアジア諸国に呼びかけた。
正義なのだが、正義はつまづきやすい。
「日本が先頭に立ってアジアを!」
「いやいや俺達のところには俺達の大将がおりますんで。その人と一緒に私たちはやりたいと思って・・・」
「何?お前俺の言うこと聞けないの?俺が開放してやるって言ってるのに!」
これが始まっちゃった。
この日本人が叫びだしたスローガン「アジアは一つ」。
一つじゃない。
アジアはバラバラ。
アジアは一つという理想を主張しすぎると、そこの国々で抗日運動が巻き起こる。
特に最も激しかったのがやっぱり中国だろう。
プライドが高いのだから当たり前。
第一、ついこの間までは遣唐使、遣隋使でお勉強しに行っていた国が「いいから俺の言う事聞け」と。
「かつて英米と連携しつつ戦争と外交を実に巧みに使い分けて日清日露の戦いを勝利の形で終わらせた日本の外交。そういう技術の巧みさがすっかりこの機は消え失せて日本は正義のみで突っ走るという外交になってしまった」という。

そして1931年。
「アジアは一つ」のスローガンを一生懸命叫んでいる日本だが、その日本に対して中国全土では抗日運動が激しくなる。
錦州という中国の一州で、すごく激しい反日運動、抗日運動が起きる。
この時に本当によせばいいのに、陸軍がこの錦州という中国の街を爆撃機で攻撃している。
戦略爆撃機でこの錦州を攻撃して反日、抗日運動を抑えこもうとした。
これをジーっと見ていたのがヨーロッパ。
「次の戦争に勝ってやる」と若き企みをもつアドルフ・ヒトラーという人が日本の陸軍が普通の街に爆弾を落としたのを見てこう思った。
「俺もやろう、おんなじことを」
ヒントは日本だった。
そこの責任はやっぱり重い。

「アジアは一つ」というスローガンのもとにアジアをまとめようとした正義の日本。
しかし「アジアは一つ」というスローガンそのものが反発を買う。
「一つではない。我々には我々の歴史がある」と叫び返したのが中国。
蒋介石は激しく日本に対して抗日戦線を拡大する。
その軍事行動を抑えこむために帝国陸軍は錦州爆撃。
一般市民を巻き込んで攻撃してしまう。
これを見ていたドイツに新しく育ちつつある愛国運動家アドルフ・ヒトラーは敵国の都市そのものを爆撃するという日本の戦闘を真似する。
そのアドルフ・ヒトラーのやり口を見て「それもこれも悪いのは日本だ。日本があんなことやったから」ということで大戦の一番最後。
とうとう日本は原爆投下。
だがその始まりは錦州爆撃。
「被害幅が違う」とか言っているが、やっぱり一般市民の上に爆弾を投下するというのを軍事作戦としてやったのは日本陸軍。
日本は一次大戦を知らずに、しかしそれでも空母と戦闘機を組み合わせた機動部隊による海戦等々。
そんなことはアメリカなんかできないだろうと。
真珠湾で成功するがミッドウェーでは失敗する。
もう、すぐ真似られてしまう。
戦争なんてそんなもの。
そしてこの中で、細谷氏が調べて懸命に主張なさっているのは、こういう国全体、民間も浮かれて戦争で景気の良い国になろうとする中で、この国の天皇の裕仁天皇(昭和天皇)は陸軍に対して何度も注意を呼びかけている。
でも陸軍は全然コントロールが効かなくなる。
勝手に戦線を拡大して、「勝った勝った」で騒ぐうちに新聞も全部「勝った勝った」と書くので国民たちは「もうちょっと経てば景気が良くなる。もっと景気が良くなる」という負のスパイラルに入った。
その間、若き天皇裕仁はひたすらに日本の前途を心配していた。
その間の日記等々が残っており、一部の資料が示されているが、読んでいて胸が痛くなるほどだ。
「欧州世界の平和への流れ、それがあることを国際会議で見抜けなかった。」
人種平等は確かに正義だが、その人種平等という正義を求めて、それが日本のみの民族主義になってしまった。
「日本人が一番良いんだ」「賢いんだ」「立派なんだ」そういう愛国主義になってしまった。
アメリカの力をなめきったことが、あの巨大な戦火に国民を巻き込んだ引き金となってしまったのだ。
その犠牲の凄まじさはもう本当に胸が痛むほどの人数。
どんどん日本が悪い方に傾いていくのだが、良い人はいる。
世界を相手に戦争しながら日本が「いかん!間違った方角に行ってる」と反抗する人々がちゃんといて、その人達が必死に生きていた。

 一九四〇年当時、ドイツと提携する危機に警鐘を鳴らす数少ない外交評論家がいた。先に触れた清沢洌である。清沢はこの年、慶応義塾大宅で行っていた講義をまとめた著書、『第二次欧州大戦の研究』のなかで、このヨーロッパの戦争では最終的にドイツが敗北して、イギリスが勝利するという見通しを、次のように説明していた。「ドイツ戦闘(バツトル)には勝つ見込みはあるが、戦争(ワー)に勝つ見込みが少ないことを認めざるをえない」。(163頁)

ちょうどこれはナチスがドーバー海峡を越えてイギリスに攻め込もうとしているのだが、清沢氏が失敗すると言っていて、案の定失敗している。
それを見ながら日本は三国同盟を結ぶ。
やっぱり外交の失敗。

もちろん日本国民も勉強不足だと思う。
「仲良し三国同盟」などと言って提灯行列をやっている。

年間九〇〇〇万トンもの鉄を生産している英米両国に対して、年間七〇〇万トンの日本が一体どうやって戦うのでしょう」。(168頁)

(番組では上記は清沢氏の言葉としているが違うようだ)
「鉄の生産力がこんだけ違う。勝てるわけがないじゃないか!」と。
こんな人がちゃんといた。

何度もイギリスは日本に外交上の妥協を呼びかけている。
チャーチルは日本のことをなかなか見捨てずに「冷静に対応してくれ」と何回も日本に日英同盟のよしみで声をかけている。
明治期外交を担当した人たちの柔らかい発想。
だんだん硬直してきて大和魂みたいなことばっかり言い始めた日本の外交。
同じ国の人間かと言いたくなるような気もする。
戦争中、日本はどうであったか。
とにかく陸海軍はひたすらアメリカをなめたとしか言いようがない。
今もそうだが、現代社会もアメリカの悪口さえ言っていれば何でも説明がつくと思ってらっしゃる方もいらっしゃるようだが。
そんな簡単なものであろうはずがない。
日本はそういうイギリスの呼びかけにも全て拒否して戦争を断行し、戦争を続行する。
膨大な敗戦の記録、負け戦の記録があるがここではあえて触れない。
日本がいよいよ追い詰められたのが1945年のこと。
これはもう沖縄に米軍上陸ということで。
今も基地問題で揺れているが。

 一九四五年四月に、小磯国昭陸軍大将を首相とする内閣が総辞職して、鈴木貫太郎海軍大将が組閣することになった。すでに七七歳の高齢であったが、この危機に向き合うのには彼以外には指導者が見当たらなかった。それは、天皇の強い意向でもあった。(249頁)

彼が日本の敗戦処理にあたる。
そしてポツダム宣言受諾等々の決断をしていく。
陸海軍は情けないことに、原爆を2個落とされても日本国民に竹槍を持たせて戦えというようなナンセンスなことを言っている。
ポツダム宣言受諾ということで着々と事を進めるのだが、そのことが陸海軍の軍人にバレるとどんな謀反を起こすかわからない。
そういう動きを台無しにする可能性があったので、鈴木貫太郎という人はとぼけながらもそれを密かに進めるという。

首相就任間もない鈴木は、四月中旬のアメリカ大統領死去に際して、「ルーズヴェルト大統領の死去がアメリカ国民にとって大いなる損失であることを思い、深甚なる弔意」を表したのである。このメッセージは、四月一五日の「ニューヨーク・タイムズ」の三面に掲載されることになった。(250頁)

その時にナチスドイツはヒトラーを先頭にしてこの不幸を大いに喜んだ。
「神の罰がアメリカに下った!」と喜んだらしい。
鈴木は違った。
鈴木は弔電を打っている。

鈴木が一九一八年に、練習艦隊司令官として遠洋航海でアメリカを訪問したことに触れている。サンフランシスコでたまたま鈴木は、テーブルスピーチをしなければならなくなった。この頃アメリカでは、将来アメリカが日本と戦争をするのではないかという憶測が語られていた。それについて、鈴木は次のように語る。
「この日米戦争はアメリカでも日本でもしばしば耳にする、しかしこれはやつてはならぬ」。
(250頁)

「日本がアメリカを占領できるわけがない」ということを言った人。
もうちょっと早かったら原爆投下というのは避けられたかもしれない。
戦後史については、いまだに新資料などが発見されている。
歴史としていまだに、まだ二次大戦というのは生乾きで固まっていない。
歴史といえるほど事実が定まってはいない。
だからといってあの戦略なき日本軍の戦いをいまさら「あれは正義だったんだ」と主張できるはずもない。
この大混乱の敗戦前後でも、わずかながら実にクールにクレバーに、アメリカ・イギリスと交渉しあった一群の人たちがいた。

2016年2月29日〜3月11日◆日本の正義はなぜ通用しないのか(前編)

戦後史の解放I 歴史認識とは何か: 日露戦争からアジア太平洋戦争まで (新潮選書)



武田先生がこの本を選んだ理由の一つは従軍慰安婦の件。
昨年慰安婦問題が日本政府と韓国の政府との間でとりあえず、あるラインが見えてきた。
でもその後の報道を聞くと、慰安婦だった人たちが激しく日韓の歩み寄りを罵ってらっしゃる。
あのおばあちゃんたちの日本に対する罵倒を聞いてるともう、耳をふさぎたくなる。
「結局何をやっても、もうやっぱり許してもらえないんじゃないか」という絶望感に囚われて。

もう一つの理由。
九州でテレビのレギュラーをやっているので月に1〜2回帰る。
博多の街をぶらぶら歩くみたいなコーナーを担当している武田先生。
もう見渡す限り韓国と中国の観光客の方。
テレビの女性アナウンサーと2月の上旬に太宰府天満宮へ行った。
テレビも話題が欲しいので受験にはもってこいだということで。
その時に太宰府天満宮の参道に日本人はいない。
武田先生と彼女だけ。
正面からはあきらかに中国の言葉、後ろからは韓国の言葉。
あんなに東京で日中韓がうまくいっていないという頭があるのだが、地方都市福岡、いわゆるアジアの玄関口の福岡に行くと観光親善が進んでいる。
太宰府天満宮は武田先生の高校から近いので、参道には結構後輩がいる。
梅ヶ枝餅という餅を焼きながら「武田さん!」「生徒会長!」と言う。
生徒会長を二年生の時にやって名物男だった武田先生。
「どげんね景気は?」と訊くと「よかよか。大宰府は儲かってしょうがなかもん」と言う。
切れ間が無い。
中韓の観光客に混じって、また2月後半から始まる受験に、センター試験終わってどっとやって来るわけで。
その時に太宰府の後輩と話したのだが、武田先生たちが高校生の頃、太宰府は「町」で人口7千。
今は名前が変わって別の「市」という名前を持っているのだが、7千の町が今や大宰府を中心として7万の市になっている。
この2〜30年で。
普通は田舎だったら寂れていく一方というが。
それも中韓のいわゆるお客様の支えみたいなものが。

よく韓国の方、中国の方もおっしゃる。
政治的な話。
「歴史認識が違う」
ではその歴史認識って一体何だろう?と思った頃に、この本を読んだのだろう。
新潮選書だが細谷雄一氏が「日本の正義はなぜ通用しないんだ」というその問題点を。
かなり硬めの本。
この本が気に入ったのは、一番最初のつかみの章にJ-POPキングの桑田佳祐さんの詩が出てくる。

 二〇一四年一二月三一日の大晦日恒例のNHK紅白歌合戦で、サザンオールスターズのボーカルである桑田圭祐が、付けひげをして画面に登場し、この「ピースとハイライト」の曲を歌った。これがヒトラーに扮して、安倍晋三首相を揶揄しているのではないかという憶測がインターネットで流れたのだ。これに対して桑田と彼の所属する事務所の株式会社アミューズは、このパフォーマンスが「特定の思想・団体に賛同、反対あるいは貶めるなどといった意図は全くない」と弁明した。また、デモやニュースの映像を演出のために用いたのは、あくまでも「緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で仕様したもの」だと説明した。−中略−その三日前に横浜で行われたサザンオールスターズのコンサートを、安倍晋三首相は昭恵夫人と一緒に聴きに行っている。そこでも桑田は即興で「衆院解散はむちゃくちゃ」と歌ったが(3〜4頁)

その後も点々と桑田さんの政治的発言と言うか、いわゆる日本の現体制を批判する発言が一部物議を醸した。

 気になったのが、この「ピースとハイライト」という曲の歌詞である。この歌の途中で、次のような歌詞が流れてくる。
  教科書は現代史を
  やる前に時間切れ
  そこが一番知りたいのに
  何でそうなっちゃうの?
(4頁)

現行の教育に対する桑田さんの批判の一文がある。
現代史の不勉強が歴史認識のズレを産んでいるのではないかということで。
では、桑田さんがそこまでおっしゃるんなら、というような気分になって企画したのが「日本の正義はなぜ通用しないのか」。

 二〇一五年五月二〇日の国会での党首討論では、共産党の志位和夫委員長が、ポツダム宣言についての認識を安倍晋三首相に質し、次のように訊いた。−中略−これに対して安倍首相は、「その部分をつまびらかに読んでいないので、直ちに論評することは差し控えたい。先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがある」と答えた。(5頁)

かつて首相を務めた鳩山由紀夫は、香港のフェニックステレビの取材に対して、このカイロ宣言を前提にして、尖閣諸島について「中国側から見れば、盗んだというふうに思われても仕方がない」とコメントしている。
 この鳩山の軽率な発言に怒り心頭の菅義偉内閣官房長官は、次のように記者会見で述べた。「その発言を聞いてですね、わたしは絶句しました。開いた口がふさがらないという言葉がありますけれども、まさにこのようなことだろうというふうに思います」と論評している。
(5〜6頁)

これはもう、「辞めたんだからウロウロ歩くな、外国を」という悲鳴が上がった。
ここにも現代史の不勉強がある。
カイロ宣言を読めば「尖閣は日本のものだ」ということがわかる。
カイロ宣言は中国の蒋介石、アメリカのルーズベルト、そして英国のチャーチルとの間で語り合っている。
この時に中国東北部の4省、台湾、澎湖島返還が条件だった。
ここに尖閣がないからカイロ宣言は触れていない。
だから盗んだというのは全然当たっていないわけで、つまり要求を何もされていない。

 本書では、桑田が自らの歌詞の中で、学校教育では「やる前に時間切れ」になってしまうという「現代史」を、国際社会の中での日本、という視点から概観することにしたい。(8頁)

日本という国というのはいろいろと考え方はあるだろうが、ざっくり考えて、あれほどの戦争の犠牲を払いつつ戦後、あの短期間でオリンピックをやるだけの国に成り上がる。
それはどういうことかというのも謎。
なんであんな馬鹿な戦争をやったかというのも謎。
あんな馬鹿な戦争からなんでこんなに立ち直りができるようになったのか。
そこもぜひ疑問に思って欲しい。
戦後、アメリカに次いでドイツを抜いた。
つまりアメリカの後ろ側に来るぐらいの経済力をつけた。
この細谷氏の世界史の見方がすごくおもしろいのは「現代史をもう一回広い視野で見てみよう」と。

中韓とのズレはいつから始まったか?

 戦後五〇周年を迎えた一九九五年八月一五日午前一〇時。−中略−前年の一九九四年六月三〇日以降、政権を担っていたには自民党と新党さきがけ、そして首相である村山富市を擁する社会党であった。(21頁)

 この談話の文書についての閣議決定がなされ、閣議終了後の午前一一時から記者会見が行われた。そこに村山首相が現れた。いわゆる「村山談話」の誕生である。(22頁)

村山首相の言葉のなかには、「植民地支配と侵略」によって多くの悲劇をもたらしたことへの「痛切な反省」と「心からのお詫び」という言葉が含まれている。(22頁)

村山さんは陸軍で軍曹をやっていた。
己の良心に従ってこの反省とお詫びの歴史認識を内外に発表したのだが、これは社会党がリードした反省文であったという。
村山さんサイドの人脈が作った反省文。
ここからもう日本国内にズレがあった。
村山談話というのは、確かにご迷惑をかけたんだからとりあえず謝っておこうという。
そうしたら、謝った瞬間に急に向こうが「やっぱ悪いことしたんだ!」「非を認めたな!」みたいな流れになった。
村山さんは談話を発表するので、結構無理なさっている。
何でかというと、この村山談話に賛成した国会議員230名。
「こんなのダメだよ」と反対したのが241名。
だから村山談話は、発表した段階で国会全体をまとめうる納得いく談話ではなかった。
この亀裂のまま国会決議を通したために、かえって中韓から「謝り方が半端だ」という口実を与えてしまった。
「何だその態度」と結局、村山さんの良心が中韓に激怒のきっかけを与えた。
これを機にどうも中国は反日教育に乗り出したようだ。
悪いことは全部日本。
これもやった人の名前もわかっているが。
あの人が反日教育。
向こうも必死で、やらざるを得なかった。
それでもう、謝ってくれた村山はもってこいだった。
韓国も同じ。
この村山談話のこの反省を聞いて「みろ!」と「悪いのは全部日本じゃないか!」と。
そこで韓国の中にいらっしゃる婦人に自立を促すというような組織団体がこれを慰安婦問題という新たな問題が立ち起こった。
ご存知の方も多かろうと思うが、はげしく朴政権の政治決定に抗う、その朝鮮人慰安婦問題をふりかざすグループ。
こういう方々は皆「女性権利向上」そして「民主化運動の正義」、そういうのも同時に叫んでらっしゃる。
だから彼らのテーマは慰安婦問題だけではない。
自らの運動のためには村山談話は格好の的になり得た、お神輿になり得た、弱点になり得た。
つまり歴史認識をはっきりさせた村山談話のせいで、中韓は「天皇陛下が土下座しろ」とまで言い始めるという。
これで外交が一層混乱してしまった。
大戦中は現役の兵士として実戦戦闘に参加した村山さんの、実に人間として美しい反省。
ところが村山さんの正義がかえって歴史認識を混乱させたという。

ここで間違ってはいけないことは「歴史認識とは何か?」。

 ミシェル・フーコーの思想が歴史学にも大きな影響を及ぼし、−中略−それによって、「歴史叙述による史的現実の把握は不可能だ」という認識(43頁)

歴史なんていうのは、捕まえようと思って捕まえられるもんじゃないんだ。
非常にミッシェル・フーコーはクールに歴史認識については書いてる。

「意識的にせよ、無意識的にせよ、われわれは過去に関する知識を自分たちの現在の目的に利用したいとも思っている。」(44頁)

(番組ではフーコーの言葉として紹介されているが、リチャード・エヴァンズの言葉)

また、現代の問題を全て歴史の中にあるとする「あそこの歴史が間違ったからこんなことになった」と乱暴に分析する主観の人がいる。
歴史認識で快刀乱麻にそういう分析をする、そういう主観の持ち主がいる。
『戦後史の正体』という本をお書きになった元外交官の孫崎享さん。

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)



この方の主観はアメリカ陰謀主観。
「アメリカが全部裏でやっているからこんなことになった」という。
裏で操っているのは全てアメリカ。
こういうのは、よく週刊誌に載っている。
アメリカの圧力の強弱で日本は路線を選択。
「日本の戦後史というのは全部動かしているのはアメリカなんだ」
元外交官のこの方は「まったくアメリカから自立していない日本。それが戦後の闇なのである」ということで。
しきりにナショナル・セキュリティ・アーカイブ(NSA)と言う。
アメリカが発表して良いと許可を出した資料を日本の政治を語る人がちっとも読んでいないから、そういうことで非難していらっしゃる。
細谷氏はそういう孫崎氏の意見には反発してらっしゃる。
「敵はここだ」とか「あの歴史のあそこから間違えた」とかいうのは、極端な考え方なのではなかろうかなという。
やっぱり「もっと広い目で」ということである。

 日本における歴史教育は、通常「日本史」と「世界史」に分かれている。(60頁)

世界史と日本史、その両方をきちんと勉強しなきゃいけないんだと一生懸命叫んでらっしゃる。
著者は「世界史との連続で見るべきであって、一点からの見方だけではなくて日本史と世界史をくっつけてみるという勉強の仕方をしないかぎり歴史認識というのは持てないんじゃないか」という。
やっぱり現代史というか明治維新以降は、くっつけて勉強した方がいいと思う武田先生。
第2回のパリ万博か何かの会場にロンドン留学の時、夏目漱石が遊びに行っている。
その時、その会場にピカソが居た。
『龍馬伝』の時に一生懸命スタッフを口説いた武田先生。

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龍馬と海舟はアメリカの南北戦争を知っていたという。
ペリーがやって来て何年後かにアメリカは南北にちぎれて国内戦争に入る。
その南北戦争で余った武器が明治維新の時に龍馬が輸入して長州に渡した銃。
だから『風と共に去りぬ』で使われた銃が高杉晋作が握った銃。

風と共に去りぬ [DVD]



そういうのを知ると胸がときめくくらいうれしくなる。
そういう世界史と日本史というのを絶対横で見ないとダメなんじゃないかなという気がする。
そういう歴史の見方をする人がやっぱりいる。
例えば、国家間の戦争のみを戦争と捉えるのではなくて、国内が分裂して戦うことも戦争だと認めたほうがいいんじゃないか。

 ハーバード大学歴史学部教授のニーアル・ファガーソンは、その著書『憎悪の世紀』において、二〇世紀の残酷な虐殺の歴史を振り返っている。−中略−ファガーソンによれば、このユダヤ人のホロコーストを含めて、「一九二八年から五二年までの間に、政治的な暴力によって少なくとも二一〇〇万人が死んだ」という。−中略−ファガーソンは、日露戦争が始まった一九〇四年から朝鮮戦争が休戦する一九五三年までの半世紀に大量殺戮が集中していたことから、これを「五〇年戦争」と呼ぶ。(70〜71頁)

ファガーソンは一九〇四年から一九五三年までの半世紀を、「憎悪の世紀」と呼んでいる。(72頁)

ファガーソンの言葉を借りれば、「第三次世界大戦(The Third World War)」の代わりに、「第三世界の戦争(The Therd World's War)」となったのだ。(72頁)

今も世界戦争の真っただ中。
今は宗教戦争。

「平和」というのは最近できた言葉。
平和とはつい最近の19世紀半ば、ヨーロッパで発明された考え方。
それが平和。
桑田氏言うところの「ピース」というフレーズはどのようにして生まれたのか。
これはナポレオンの後に生まれた言葉。
ナポレオンがヨーロッパを荒らしまくって、その後、国家間の戦争で疲れたヨーロッパの人々がウィーンに集まった。
欧州政治家が「法律をもって戦争を何とか避けるような努力をしよう」「その方法を模索しよう」ということで集まった。
1814年のその会議、ヨーロッパでの会議で発明された言葉がピース。
それまで戦争は認められていた。
戦争というのは国のやらなければいけない政策の一つ。
一番重大なことは、それまでの戦争は兵隊さんがやった。
兵隊さんが違う国の兵隊さんと比較的広い所で、邪魔の入らない所で戦争したのが戦争だった。
街の真ん中でやるなんて誰も考えなかった。
ワーテルローの戦いや関ヶ原の合戦。
広い所でがっちりぶつかり合うのが戦争で、戦争するのは兵隊さん。
だから戦争は国の政策の一つだった。
それが変わってしまった。
その国に所属している人たちは「あーうちの兵隊さんが勝った」とか。
その土地に住んでいる人たちにはあまり被害が及ばないから。
「兵隊さん頑張って」といったものだろう。
全部様子を変えたのはナポレオン。
ナポレオンが「兵隊さんは国民がなる」という国民皆兵制度をとる。
そうするとその国に生まれた人が兵隊さんになるので、戦争が兵隊さんだけのものではなくて国民のものになってしまった。
そうするとものすごく戦争の被害が大きくなってくる。
このままだったらもう共倒れになるということで1814年からヨーロッパが全員集まって、戦争を避けるための会議が行われた。

一八九九年にオランダのハーグで開かれた、万国平和会議であった。−中略−この会議の開催を提唱して、二六カ国の政府代表がハーグに集まった。このハーグ平和会議では、戦争においても一定の法規をつくる必要が議論された。−中略−日本もまた、この会議に参加していた。(77頁)

 一九〇四年に始まった日露戦争において、日本は「文明国」として国際法を順守して戦った。とりわけロシア人の戦争捕虜への国際法に基づいた丁寧な対応が、国際社会を驚かせた。日本は世界に向けて、自らが国際法を順守する「文明国」であるというイメージを植え付けることに、見事に成功したのである。−中略−捕虜収容所におけるロシア人捕虜の死亡率は、わずかに〇・五%であり、これは驚くほど低い数字であった。
 日本が、ハーグ陸戦規則が規定する以上の待遇を行ったことに対して、敵国ロシアからも謝意が表せられるほどであった。さらには、この頃の日本の軍部では、国際法教育が徹底していた。
−中略−下士官兵も初年兵教育や市販の軍務参考書でハーグ陸戦規則やジュネーヴ条約の知識を得ていた」という。(78頁)

敵国のトルストイが滅茶苦茶エッセイで褒めている。
「日本人偉い。兵隊さんは強いし、みんなマナー良いし」
ロシアの将校の中には捕虜なのだが街を歩く自由が認められているので、金沢なんかでは芸者さんとデキちゃって、国際結婚みたいなことした人もいたっていう。
一部のロシアの兵隊さんたちが神戸に抑留される。
捕虜となって収容所に入れられるが街を歩くのはOK。
ごはんじゃかわいそうだということで、日本の職人さんがロシアの兵隊さんのためにパンを焼いてあげたという。
それがかの有名な神戸パンの始まり。
そんな国はどこにもない。
敵国の食糧事情に合わせて一生懸命パンを焼いてあげて。
大半のロシア兵が帰りたがらなかった。
帰ったら捕虜になった屈辱で殺された人がいる。
「国に帰るよりここのほうが豊かで安全だ」と言った兵隊さんたちがいたという。

この時に「日本の正義」は世界で通用した。
みんな絶賛した。
これによってジャポニズムが起きる。
フランスあたりで日本人の真似をしようということでゴッホさんが浮世絵を持ってきて絵を描いたりなんかするのは、この手の評判があったから。
この素晴らしい国が数十年後に「鬼畜米英」と言い出す。
何でそんな国になっちゃったのか?

2016年05月29日

◆RSP53◆タマノイ酢◆はちみつマイルドセンナ◆15◆

次はタマノイ酢様のはちみつマイルドセンナをご紹介。

タマノイ酢 はちみつマイルドセンナ 125ml×24本



サンプルバッグにはこれが一つ入っていました。
ってことで、冷蔵庫で冷やして飲んでみました。
味はライチ味っていうことだけどリンゴっぽいなと思ったらライチは入っていなくてリンゴ酢入り。
フルーツ系のジュースの味かなっていう味だけど口とかノドとかがちょっとイガイガする感じ。
これがセンナとやらなのかな?
わからん。
で、昼前に飲んだけど、今のところ便意はございません。
何時間後ぐらいに効果が出るんだろう?
便秘薬じゃないから、そういうものでもないのかな?

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◆RSP53◆小林製薬◆噛むブレスケア パインアメ味◆14◆

小林製薬様の噛むブレスケア パインアメ味をご紹介します。

0DSCN0886.JPG

サンプルバッグには噛むブレスケアが二種類とパインアメも三個入っていました。
で、噛むブレスケア パインアメ味なんですが何と!6月8日発売予定!
パイン株式会社のロングセラー商品「パインアメ」とのコラボレーション商品です。
ブレスケアの清涼感はそのままに、パインアメの甘酸っぱくてジューシーな味を再現したそうです。
ってことで食べてみましたので感想を。

0DSCN0889.JPG

ケースも可愛い
パインアメの味が再現されているっていうから、パインアメみたいな味なのかな?って思ったけど思ったのとかなり違った。
あんまりパインアメっぽい味がしなくて、原材料名をいくら見てもハッカとかメントールとか書いていないけど、そういう感じの辛い味がする。
私の舌がおかしいのかも知れないけど。
若干酸味は感じる。
美味しいかどうかっていうと・・・私はあんまり好きじゃない感じの味かな。

パインバウム(直径12.5cm厚3.5cm) スッキリ パインアメ と バウムクーヘン が ドッキング 大阪土産



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2016年3月28日〜4月8日◆『タモリと戦後ニッポン』近藤正高(後編)

これの続きです。

その辺りでグングンと、ということで何とフジテレビの看板番組になって視聴率も4〜5%から5か月後は24%。
「テレフォンショッキングに出ないと芸能人じゃない」という時代があった。
武田先生も「いつ電話かかってくんだろうか?」と思っていた。

フジテレビはここから笑いのテレビ局になる。
昼間は『笑っていいとも!』で楽勝パターン。
夜は夜でその『笑っていいとも!』にゲスト出演したお笑いの傭兵たちを使って『オレたちひょうきん族』。
この2本で50%近い視聴率を取り続けるという。
フジテレビは人気テレビ局となった。
これに『月9』が加わるので80年代から90年代、フジテレビが席巻する。
そこから10年、『笑っていいとも!』に登場するタモリにゆっくりと毒が薄れていって、『笑っていいとも!』とはおばさんと女の子にウケるという揶揄、批判が襲う。
しかしもう、この段階で10年経っている。
非常に酷いことを言うが、これは武田先生も同じ運命にある。
実は大橋巨泉さん、萩本欽一さん、この人たちがテレビで絶頂期っていうのはだいたい10年周期。
そうすると人気は下る。
タモリもパワーダウンの危機がやって来る、。
タモリと一緒に80年代、90年代の時代を作り覇を競い合ったさんま、たけし共に若手の台頭でゆっくりと人気がダウンする。

日本テレビで同じ正午の生番組としてみのもんた司会の『午後は○○おもいっきりテレビ』の放送が始まり、やがて視聴率トップの座を争うようになる。(266頁)

タモリがホストを務めた『今夜は最高!』は、その裏番組でとんねるず司会の『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ・フジテレビ系、一九八七〜九四年)が高視聴率を記録したことから、スポンサー側が「タモリひとりだけでは心もとない」と発言、それがきっかけで八九年に終了したともいわれている。(267〜268頁)

 さらにダウンタウンやウッチャンナンチャン、またヒロミを中心とするB21スペシャルが「お笑い第三世代」ともてはやされ始めたのもこのころだ。前出のフジテレビのプロデューサーの佐藤義和は、『いいとも!』に続いて深夜番組『夢で逢えたら』(一九八八〜九一年)を手がけ、ダウンタウンとウッチャンナンチャンに加えて清水ミチコと野沢直子を起用している。女性タレントではまた山田邦子がこの時期、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ、一九八九〜九二年)など多くのレギュラー番組を持ち、好感度調査では連年トップを独占していた。
 他方、マンザイブームで台頭した島田紳助、あるいは同時期に頭角を現した所ジョージやラサール石井といったタレントたちも報道番組やクイズ番組などへの出演を通じて知性派タレントへとイメージを変えていく。二度目の東京進出で成功した笑福亭鶴瓶や
(267〜268頁)

 ビートたけしもほぼ同時期、九四年にバイク事故で瀕死の重傷を負うという危機に陥った。(270頁)

(ここで番組ではたけしのフライデー襲撃事件も同時期であるかのように説明しているが、調べてみると1986年のことなのでかなり前)

さんまは大演技派女優の大竹しのぶさんとの結婚で今で言う「お笑いビッグ3」それぞれに危機がやって来る。
(本によると結婚で危機が来たのではなく離婚で)

九三年には総選挙で躍進した非自民勢力が集結して細川護熙(日本新党)を首相とする連立政権が発足(272頁)

95年には「阪神淡路大震災」、そして「地下鉄サリン事件」「オウム真理教テロ事件」。
世相が大きく揺れる中で『笑っていいとも!』はすでにお昼の風景となって、苦しいことは苦しかった。

みんなピンチを迎えるが、たけしは映画製作で乗り切る。
さんまはちょっと人気が落ち始める時に離婚をお笑いのネタにした。

タモリは『笑っていいとも!』をどの手の方法で守りぬいたか?
たけしには「たけし軍団」がいた。
さんまもジミー大西等々、吉本の若手で自分の周りを固める。
タモリは何をやったかというと、そういう取り巻きは作らない。
だけど台頭する若手を選ばずに番組にボンボン出す。
アイドルから少女モデル、歌手。
異種業種の人を番組にどんどんレギュラーで入れていく。
そしてこんな新人をレギュラーに入れた。
それがSMAP。
アイドルを番組の中のレギュラー陣に迎えた。

『笑っていいとも!』には、たけしも顔を出す。
『笑っていいとも!』の中には「たけし軍団」がいた。
そのまんま(そのまんま東)さんとか、らっきょ(井出らっきょ)さんがいたから、たけし軍団が気を利かせてたけしを説得して『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出す。

九二年に女優の大竹しのぶと離婚した際には、額に油性ペンで×印を描いて記者会見にのぞんだ。さらに会見の翌々日(九月一一日)には『いいとも!』のタモリとのトークコーナーでも離婚をネタに笑いを誘った。−中略−
 たしかにこのときの二人の会話の書き起こしを読むと、タモリのツッコミや茶々の入れ方は絶妙だ。たとえば話の途中、さんまのシャツに×印のデザインが入っているのに気付いたタモリは「あれっ、これはバツイチ?」と唐突に訊く。するとさんまは「これはバツイチではない。あんた腫れ物に触るのが好きだな」と返す。だがタモリは懲りずに、今度はシャツにプリントされた文字を指し「これ、Cっていうのは離婚のコン?」と畳みかける。いかにも無理やりなツッコミだが、これに「違う。シーちゃんのC」と、さらりと別れた妻のニックネームを出してボケてみせたあたり、さすがさんまである。
(269〜270)

九四年四月に中居正広と香取慎吾が、さらに九五年一〇月には草g剛が新たにレギュラーに加わった。三人とも男性アイドルSMAPのメンバーだ。(277頁)

レギュラー化しなかったのは木村拓哉さん。
とにかくSMAPの4人が顔を揃える。
これはどうしてかと言うと、91年のこと、デビュー当時のSMAPは、歌番組が激減して出る番組が無かった。
ジャニーズ全体もすごく悩んでいた。

そこでSMAPの所属するジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川は彼らをバラエティ路線で売り出すことを決意する。(278頁)

この体験を踏まえて特に才能を急速に伸ばしたのは中居くん。
中居くんはやっぱりここから番組を回すまでに成長する。
しかも彼は、自分が踊りはともかくも歌は上手じゃないっていうアイドルとしては致命的なことをギャグにする。
SMAPで歌っていると木村くんが嫌な顔をして「俺の側には来ないで、つり込まれるから」とか、「中居くんが叫んでもモニターに一切自分の声が聞こえてこない」とか。
それをあえて出すという。
このあたりは傍目から見るとタモリという人のおかげ。
ジャニーさんの期待通り、タモリはSMAPを育てたと言っても過言ではないと思う。

この辺りからさらに新しいタレント発掘をタモリがシラッとした顔をしながらやる。
タモリはSMAP中居くんあたりを育てるが、それと共にもう一人育てたのが鶴瓶(笑福亭鶴瓶)。
当然だが吸収が早い。
しかもこの人は素人いじりがとてつもなく上手で、その素人いじりの技術をもってして今NHKに。
このあたり、どうもタモリの匂いがするような気がする。
この時代、タモリは真ん中に立たない。
任せられる所は全部若手に任せる。
若手のヤツが笑いを取りにいっても全然怒らない。
それで結局、笑いが取れない時は若手がタモリにすがると、タモリがそこそこの打率にしてそいつに渡す。
この辺はもう、全然肩に力を入れなくなる。
『笑っていいとも!』司会者交代の噂が何度も飛び交うが実現しない。
タモリのその構えこそがまさしくあの番組の本質だったわけで、やる気を振り回さない。
肩の力をいかに抜くか。
その代表者がやっぱりタモリだった。
やがて2010年代、次々と終了の噂が飛び交うようになる。
しかし32年間続いた番組を終わらせる力は、はっきり言ってフジテレビ内にはなかった。
番組を終わらせたのはやはり、32年間番組を一人仕切ってきたタモリ本人のみであったという。

『いいとも!』の終了が発表された二〇一三年一〇月二二日(火曜日)の放送にも、木曜レギュラーだった鶴瓶が急遽登場、そこで「『いいとも!』終わるってホンマ?」と質問して、タモリから「来年の三月で終わる」との言葉を引き出した。鶴瓶がのちに語ったところによれば、じつはこれは事前にタモリから電話で頼まれていたことだったという。しかも放送当日にはレギュラーとして中居正広が出ていた。タモリはレギュラーのなかでもとくに信頼する二人を立ち会わせる形で番組終了を発表したのだった(279頁)

 一四年三月三一日、最終回が放送された当日の夜には特別番組としてグランドフィナーレが同じくスタジオアルタから放送されている。そこでは『いいとも!』のレギュラー出演経験者が一堂に会した。ダウンタウンの松本人志は、自分たちと不仲が噂されていたとんねるずや爆笑問題と同じ場に居合わせていることを「ネットが荒れる」とネタにして笑いをとった。
 当のネット上では、そうしたお祭り騒ぎに「テレビの葬式のようだ」という書きこみも散見された。
(299〜300頁)

この後もタモリは続いていく。
『笑っていいとも!』の後も新たなるスタートを切る。
タモリの指向はどこへ向かうのか。
著者はジャズ評論家で散策好きだった植草甚一さんと重ねている。

武田先生も『金八先生』をやっていた。
だがタモリに勝てないなと思うのは、9シリーズまでやって30年間『金八先生』を演じたが、タモリはやっぱりすごい。
武田先生には隙間があった。
『刑事物語』もやったし『織部金次郎』もやったし「僕は死にましぇん」(101回目のプロポーズ)もやったし大河ドラマもやった。
だがシリーズが終了すれば1年のうちの半年間は別の仕事ができた。
タモリ違う。
月〜金なのだ。

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月〜金を32年間、あのお昼の時間帯『笑っていいとも!』をやった。
その他、夜は空いてるとはいえ、この人は32年間2泊3日の旅ができなかった。
過酷といえばこれほど過酷なスケジュールを平然とサングラスの内側に瞳を隠してできたというのはこの人がよほど真面目な性格でなければ。
番組が流れたのは何日かしかない。
昭和から平成に代わるとかサリン事件、震災報道等々ぐらいで数日。
2泊3日の旅を堪えて月〜金のお昼間、太陽の一番照ってる時間は全部あのアルタというスタジオの中に彼は・・・。
どう考えても2泊3日の旅はできない。
金曜日が終わって、月曜日には絶対9時過ぎぐらいには新宿に戻ってこないといけないのだ。

1995年、タモリは一級小型船舶免許取得のため番組をサボっている。
(番組では「トップシークレットだったのではないか」と言っているが、翌日の『笑っていいとも!』で試験のことを詳しく語っているようだ。)
この人はある意味で地上、陸地に飛び交ってる電波から離れたかったのだろう。
(本によるとそれ以前から船が好きだったようだ)
それでグングン実は腕を上げて海に出る。
加山(加山雄三)さんみたいな側面がタモリにはあった。

 船が好きなタモリは、一九九五年には一級小型船舶操縦士免許を『いいとも!』出演を休んでまで受験して取得、自分のヨットを静岡県沼津市に保有し、さらに二〇〇九年から「タモリカップ」というヨットレースを沼津ほか各地で開催している。(320頁)

もう一つ、タモリの遊びが「時刻表」。
どこも旅ができないから『笑っていいとも!』の楽屋でペラペラペラーと時刻表を見て
「『笑っていいとも!』終わって1時半のやつで新幹線で行くと・・・滋賀で乗り換えると夕方は金沢か・・・」っていうようなことを。
それだけではつまらないから自分のあこがれの街に時刻表で行く。
そのあこがれの街の5万分の1の地図を見ながら、山に登ったり降りたりで時刻表を読み、地図を眺めて架空の旅を楽しんだという。
ここから武田先生も見習わなきゃと思う。
『笑っていいとも!』が終わったので架空の旅ではなくて、時刻表を持ってその地図の街へ出向いて、あの高低差を楽しむという『ブラタモリ』。
そこにつながる。
タモリは高低差好き。
そのあこがれの街に行って、上りの坂があったり下りの坂があると「あ!高低差」って言いながら。
その上り下りを「あ!この高低か・・・」と。
その高低があるのがたまらない。
それは、地図で平べったいところを歩いていたから。
そうするとタモリは今、『ブラタモリ』とか『ヨルタモリ』等々で、そのタモリを楽しんでらっしゃる。

2015年、NHKが『ブラタモリ』を再開する。
『笑っていいとも!』は無くなったので『ブラタモリ』は遠出するようになった。
タモリは喜々として女の子と道を歩いているところである。
スケジュールの都合で今まで行けなかった地方を歩くタモリ。
旅への翼、新たなる羽ばたきを繰り返している。
だが『ブラタモリ』はお笑い番組としてはおもしろくない。
タモリの興味も、お笑いよりもその風景の地形、あるいは遺構、歴史、そこに住む人たちの暮らしっぷり、それに触れて楽しむ。
そういう意味では『笑っていいとも!』、四ヵ国語麻雀、あるいはイグアナのものまね、宇宙空間におけるターザンみたいなそういうギャグ性はない。
今タモリは、さんま、たけしという、あのライバルたちとは全く違う道を歩いている。
二人はスタジオで照明を浴び、懸命にテレビの世界で戦っている。
タモリは何処に居るか?
彼は田舎町の路地、風に吹かれ雨に濡れながら街角を歩いている。
タモリはもう、笑いを取りにいかない。
振り返るとタモリにはいつも主張があった。
どんな主張か?
タモリは、タモリを目指す。
今、「おもしろくないタモリ」を目指してらっしゃるという気がする武田先生。
タモリは70年代、タレントの先陣を切って笑いに突っ込んでいった。
今、ある意味でタモリは今までのタモリを卒業したのではないか。
しかしそれでも尚、タモリはタモリ。

ちゃんと遊んだことが無い武田先生。
遊びを練習して遊んだことが無い。
普通の人は遊ぶ時に練習する。
小型船舶などの免許を取りに行く。
武田先生はそういうのが無い。
ゴルフで遊ぶが、すぐにゴルフ場を出てしまう。
だから武田先生のゴルフはシッチャカメッチャカ。
今、ゴルフのスクールレッスンに通っている。
スクリーンに向かってボールを打っている。
いかに自分がひどいかよくわかる。
遊びについて何のライセンスも持たず、真剣に遊んだことが1回も無い。
そういう意味でタモリを少し見習って何ヶ月間かこの世界を離れて『ブラテツヤ』をしようかと。
日本中をコンサートで歩いているのだが。
このあいだ福岡の柳川へ行った。
そこの会館で歌を歌ったことがあるが、水郷柳川のお堀を歩いたことが無い。
店屋物で柳川でチャンポン喰ったことがあるのだが、どこかで物を食べる時も、「早い」というのが条件。
名物を喰ったことがない。
ちゃんと「遊び」というのをやった方がいいのかもしれないと思う武田先生。

かつてポストモダンの旗手であったタモリ。
今や歴史や文化、民族というものを歩いて眺めてらっしゃる。
タモリの主張はなんだったか?
それはジーッとそれをやっているうち、見ているうち、観察してるうちに、「意外とおもしろいよ?」という、そういう提案をなさるタレントさんではなかろうか。
そういう意味で笑いの先の最先端という時代を今、たった一人でまず歩かれているのではなかろうか。

2016年3月28日〜4月8日◆『タモリと戦後ニッポン』近藤正高(前編)

これの続きです。

九州福岡の面白い30代の青年であったタモリ上京し、そこからテレビ界へ入っていく。
現代テレビの縮図がタモリの周りで渦巻き始める。
その中でタモリはまた、新たなるムーブメントを起こす。
タモリがまだメインではなくテレビへ出始めた頃、面白いヤツでイグアナとか四ヵ国語麻雀とかをやるお笑いタレントとしてデビューした頃、ちょうど起こっていたのが第一次漫才ブーム。
おぼん・こぼんの活躍とか。
その第一次漫才ブームがゆっくり傾きかける。
その傾いた所にタモリたちがバーっと出てくる。
(調べてみたが漫才ブームは80〜82年らしいので、時系列的には合わないと思う)
60年代後半から70年代初め、テレビのお笑いを独占したのがフジテレビ正午の生番組の『お昼のゴールデンショー』。
司会はマエタケ(前田武彦)さん。
マエタケさんのほんとに間つなぎで、とんでもないコントのコンビが出てくる。
これがおかしいのなんの。
これがコント55号。
衝撃的だった。
「この人たち、映る気がないのかな?」と思うくらい動きが早い。
それまでお笑いの人は、センターの床から上ってくるマイクに向かって立ったまんま。
コント55号はコントをやるのだが、左右に振るがカメラが追いつかない。
オーバーな言い方になるかも知れないが、当時のカメラは大きくてタンスを半分に切ったくらいの大型カメラだったので振れない。
それを苦しめるように振るから、この二人はいつも画面の端にいる。
それで飛ぶ。
「なんでそうーなるの」とかって。
それがもうお腹を抱えるくらいおかしい。
それでネタがすごい生々しい。
萩本欽一さん称するサラリーマンが、とあるラーメン屋さんにふらっと入ると上京して来たばっかりの東北訛りのお下げ髪の坂上二郎さん、女の子がラーメンを運んで来てテーブルに置くのだが、その二郎さんの北国からやって来た少女の親指がどんぶりに入っている。
それを萩本さんがツッコむと、もう遮二無二坂上さんが「今度の『若い根っこの会』の研究発表会で嫌なお客であなたの事を言います」。
それを東北訛りでやり返す。
非常に生々しい人間カタログ風にやる。
これが面白い。
この注目されたコント55号の萩本欽一、坂上二郎はフジテレビの大躍進のトップバッター。
人気が出ると飛びつくという勢いが昔のフジテレビはすごかった。
すぐに土曜夜8時に持ってくる。
『コント55号の世界が笑う』というのをやる。
これがおかしいのなんの。
フジテレビは土曜の夜8時をお笑い番組にする。
このままじゃ天下を獲られると思ったのがTBS。
「この二人を潰しておかないと大変なことになるぞ」というので、TBSは命をかけて銭を集めてドリフターズというグループに遮二無二カネを突っ込んで、セットをめちゃくちゃ豪華にしたドリフターズの『8時だョ!全員集合』を始める。
このコント55号とドリフの一騎打ちは本当に命をかけた戦いだった。
萩本さんはこれを見てどう出るかというと、ぶつけない。
フジテレビは「カネ出しましょうか」と言うのだが「いらない」と言う。
萩本さんは笑いの方向を変える。
このドリフ対コント55号のお笑いが、その後大きくテレビ番組を変える一種、お笑いの大競争の導火線になっていく。
お笑いの天才萩本欽一はドリフにどう対抗したか?
今にも繋がるというテレビ界の革命がここから始まる。

萩本欽一というこの人とドリフターズの一騎打ちが民放ゴールデンタイムで戦われるようになった。
ここからお笑いがゴールデンタイムに登場した。
ドリフが大掛かりな仕掛け物でコントをやるのに対抗して、萩本さんは全く別種の笑いの形をつくる。
それはもう本当に萩本革命と言っていいくらい。

最終的にたどり着いたのが、自分でテレビ番組をつくるということだった。先述の林家三平のブレーンシステムをさらに進化させ、出演する側が番組のキャスティングボートを握るのだ。そんなことは日本ではまだ前例がなかった。
 その第一歩として萩本は、自分と一緒に企画を考えたりコント台本を書いたりする作家を自前で育てることにし、テレビ局でバイトなどをしていた二〇代の若者たちを集めた。こうして結成されたのがパジャマ党で
(174頁)

それを抱えて、全く新しい形のテレビ番組を作り始める。
みんながびっくり仰天した。
何をやったか?
萩本さんはラジオ番組を持っていた。
そのラジオ番組の構成をパジャマ党と一緒に膨らませて、1975年土曜7時半から90分番組のお笑い番組、バラエティ番組をつくる。
これが『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(欽ドン!)。
(番組では『欽ちゃんのドンといってみよう!』と言っているようだが、こちらはラジオ番組の方のタイトル)
何が画期的かというと、「ややウケ」とか「バカウケ」とか、つまりお笑いを素人が作ってくる。
その場でライブでやる。
しかも演じるのはほとんど素人の子。
萩本欽一が日本で初めてやったお笑いの手法「素人いじり」。
少し萩本さんに嫌味を言うとすれば、結構これでお笑いを辞めた人がいる。
「素人の方がウケるんだったら何のために浅草で俺たちは苦労してるんだ」
ガックリきて「もう辞めるわ」という。
一種浅草の衰退にもつながったという。
ちょっと極端な話で萩本さんのせいではないのだが。
それで萩本さんのイジりがうまいから、下手であればあるほどウケる。
お笑いの間も完璧に外す人がいた。
宮城県から連れてきたほっぺたの赤い女の子「気仙沼ちゃん」。
それから素人同然の新人さんを三人並べて「良い子・悪い子・普通の子」。
お笑いが全くできない演歌歌手みたいな人を欽ちゃんが素人いじりの対象にした。
このあたりでクール・ファイブの前川(前川清)さんあたりが登場。
つまりセンスが無い故のいじりのボケで大笑いをとるという。
これは今でも素人いじりは同じ。

 相手をいじることで笑いをとる手法は、現在のいわゆる「ひな壇番組」にも脈々と受け継がれている。萩本以後ではとくに明石家さんまと島田紳助が、この手法を武器に多くの番組を切り回すようになった。(176頁)

『お昼のゴールデンショー』は後に『笑っていいとも!』になる。
萩本の抜けた穴をタモリが埋めていくという。
萩本の欽ドン革命というのはやっぱりすごいことだった。
そして萩本欽一は何をやったか?
まさに革命。
公開収録でお客さんを入れた。
それであろうことかテレビカメラをセットの一番後ろに置いた。
お客さんが前だった。
このために萩本はカメラに注文をつけた。
「望遠レンズを用意してくれ」と言った。
これで望遠がついた。
お客さんの頭を越えてアップにするために。
そしてこの後、萩本さんは俳優勝新太郎がテレビに持ち込んだ初めての手法「ピンマイク」をハリウッドから取り寄せた。
動きが早いから。
ピンマイクで、オーディオの人が竿で追っかけなくてもピンで拾えるという。
そしてその後、テレビのスタジオの舞台そのものを浅くした。
舞台の奥行がなくなることでフォーカスが合いやすい。
だからライブ感が一層盛り上がる。
全く新しいお笑いの革命を萩本欽一は次々とやる。
このあたりから今に繋がるバラエティ番組の源流が始まる。

60年代後半から70年代、萩本欽一という一人の天才児が今までとはまったく違うテレビの笑いを続々と作っていく。
ピンマイクの使用、テレビカメラについた望遠、客を舞台に近づけてその後ろにカメラがいるという舞台中継を思わせるようなライブ感。
そういうお笑いを作ると、今度は新しいタイプのお笑いタレントを必要とした。
だから素人をボケにしてお笑いまで引っ張り出せるという話術を持っていないとバラエティが回せなくなる。
この傾向に乗っかって出てきたトップバッターがタモリ。
タモリに続いてすぐ出てきたのがたけし。
負けじと出てきたのがさんま。
今でいう「お笑いビッグ3」の中でタモリに目をつけたのも実は萩本さん。
萩本さんはすぐにタモリに声をかけて「ちょっと一緒にやらない?」とおっしゃっている。
(本ではそういう話の流れにはなっていない)
ちょっと嫌な言い方だが萩本はタモリをすぐに拾う。

 テレビバラエティで次々と新しい試みを展開した萩本は、こんなことも考えていた。
《あのね、テレビ欄、こう線が引いてあるでしょ。あの八時の線と九時の線が、とれたらいいと思うのね。
(176頁)

 もっとも日本テレビでは、フジテレビより約一〇年も早く、七八年からチャリティ番組『24時間テレビ 愛は地球を救う』の放送が始まっていた。萩本は同番組の初年度から三年間、総合司会を務めた。じつはタモリもこの番組の第一回に出演しており−中略−
 八〇年の『愛は地球を救う』では、タモリは番組宣伝のCMに出演している。その一バージョンでは、「いま、地球上に何百万という飢えた人たちがいるのです。この人たちに君たちは何かをしてあげようという気持ちはないのか」とのセリフに、タモリが「私にはありません」と答えるのだが、当時の彼のポジションがうかがえよう
(177〜178頁)

バラエティ形式とはいえチャリティ番組なのだが、タモリにあえてそのポジションをとらせる。
ここまで不埒なギャグをタモリにやらせる。
賛否両論が日テレの中でもあった。
それを萩本さんは一切聞かなかった。
「いーんじゃないの?」って言いながら。
このギャグがタモリだったらいけると、そのポジションも良いんだと。
決してその「良いことやってるぞ俺たちは」みたいな事を大上段にかざさなくて「この番組興味ありません」とか「愛は地球を救うんですかぁ?」とか平気で言うという。
そのキャパシティのでかさが番組に柔軟性を持たせてやる。
この辺りからタモリという人は急速に自分の居場所を見つけていく。
その知的インテリジェンスの評論家のような人たちに向かって牙をむくお笑いタレント。
この居場所を見つけたタモリはこの芸、つまり文化人をからかうという、ここに一点突破のお笑いエネルギーを持っていく。
タモリが一番最初にギャグにしたのが「僕なんかね、これだけですよこれだけ」。
評論家の竹村健一さんをターゲットにする。
そしてテレビに溢れている文化人たち、つまりインスタントコーヒーの「違いの分かる男」、あるいは「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか」と踊っていた小説家・野坂昭如、中年御三家として注目される永六輔、小沢昭一氏、等々。
あるいは学習院の篠沢教授らインテリ芸能人の出現に対して、タモリは絶好のお笑いターゲットとしてお笑いのレパートリーにする。
とくに秀逸だったのは野坂昭如と寺山修司。
この辺りからタモリは急速に誰よりも早くお笑いの最前線に躍り出る。

タモリは芸の中にはげしく毒を盛り込んでいく。
それはいわゆるインテリ芸能人その人たちを揶揄するという。
萩本さんの影響か、彼はすぐに「オールナイトニッポン」を担当してラジオで自分のしゃべりを作り上げていく。
ラジオというのは、この手の人たちはものすごく大事にした。
やっぱり「ラジオでしゃべれないと」ということで。

 七六年から八三年まで七年間続いたラジオの深夜番組『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)は、デビューからブレイクにいたる時期のタモリにとって、きわめて重要な番組でもあった。(185頁)

そしてこの中でタモリは毒を振りまいていく。
文化人をお笑いのレパートリーにしていたが、この番組の中ではミュージシャンを次々となぎ倒していく。
トップバッターさだまさし、アリス、オフコース。
これらミュージシャンを次々となぎ倒していく。
このさだまさし、アリス、オフコース等をケチョンパンにやるのだが、お笑いのネタでありつつもタモリはここではっきりと自分の主張を聞き手に訴える。
なぜ自分はこれらの人たちが嫌いなのか。
それは彼らが装うからだ。
彼らは裸でやっていない。
明るさを装い、暗さを装う。
そういうものへの激しいレジスタンスなのだ、と彼は言う。
タモリは番組の中でこんなことを言っている。
(本によると「番組の中」ではく『プレイボーイ・インタビュー セレクテッド』)

《重いもの、暗いものでも、自分の根っ子までつながっているならいいんですよ。そうじゃく、重そうなムード、暗そうなポーズだけでしょう。(188頁)

だからただ単にお笑いのネタだけではなくて一種、文明批判と言いうか文化批判があったのだろう。
フォークもお嫌いだったようで『金八』が好きじゃないタモリから結構血祭りにあげられた武田先生。
小説家・五木寛之辺りをラジオ電波にのせて揶揄する。

これに続いたのがたけし。
「村田英雄さんがとっくりのセーターをかぶろうとしたら頭が大きすぎて入らなかった」とか。
飲み屋に行ってボトルを入れるのだが、ボトルという単語を忘れて出てこないので「ボルトを入れてくれ」と頼んだとか。
ありもしないネタを次々と並べてからかう。

タモリはやっぱり直感の人。
これはもう、認めざるを得ない。
頑張って自分の放送で彼の歌をかけ続けたという新人歌手がいる。
(本には歌をかけたという話は出て来ない)

「音楽は意味がないから好き」と言ってはばからないタモリにとって、そんなサザンの登場は頼もしく思われたに違いない。事実、タモリは「勝手にシンドバッド」のリリース前にデモテープを聴かされて、そのメロディにも歌詞にも驚いたという。−中略−桑田圭祐がゲスト出演したときには直接、《歌詞はわかんない、わかんないからこういうのがいいなあっって思ったね》と最初の印象を伝えた。(190〜191頁)

まさしくタモリは意味が無いものを好むという。
毒を吐き続けるのだが、名古屋を笑うという、「地方文化も笑う」というギャグをかまして、名古屋から結構反発を受ける。
タモリは、さだ(さだまさし)さんとかアリス、五木作品を罵倒していて、かなりの反発があったことは事実で、所属のプロダクションの方にも各プロダクションから激しく苦情や反発が舞い込んだ。
タモリは絶対に従わなかった。
この人の頑固さが逆に毒舌の時代を作っていく。
この毒舌の時代に導かれて新しいタレント、ビートたけしという人も急速に伸びていく。
いよいよ彼らが作り始めた新しいお笑いがテレビの真ん中にやってくる。

 漫才ブームは一九八〇年一月に『花王名人劇場』(関西テレビ・フジテレビ系)の枠で第一弾が放送された「激突!漫才新幹線」と、そして同年四月に初回が放送されたTHE MANZAI』(フジテレビ)によって火がついたとされる。(205〜206頁)

ここから第二次の漫才ブームがやってくる。
(番組中で「第一次・第二次漫才ブーム」と言っているのは「お笑い第一世代・第二世代」を指しているようだ)
トップバッターに「やすきよ」(横山やすし・西川きよし)が登場する。
やっさん(横山やすし)はすごかった。
きよしさんがやっと抑えているという。
東京では、これも一種の毒舌でセントルイス(星セント・ルイス)「田園調布に家が建つ」。
そしてツービート。
(「B&B」の誤り)
「モミジまんじゅう」に火が付く。
お笑いのテレビは毒舌ブームの到来であり、ここの若手として紳助・竜介(島田紳助・松本竜介)が加わって、毒舌とヤンチャの時代がやって来る。

タモリの毒舌は一種のスタイルとして後続の目指すべき知的なもの。
タモリはやっぱりどこか知的だった。
タモリの毒は「薬にもなる毒にもなる」という毒だった。
そこが萩本さんを惹きつけたように、もう一つタモリはNHKに目をつけられる。
これがおもしろいところ。
NHKの進出を果たす。

七五年から始まったNHK総合の『ばらえてい テレビファソラシド』(〜一九八二年)にも、当初は単発で、やがてレギュラー出演するようになっていた。(210頁)

(番組では永六輔の力で出演したという内容で紹介されているが、本の中では永六輔は共演者としてしか登場しない)

タモリがサングラスをかけて出演することに対しては当初、視聴者からのクレームが絶えなかった。これについて同番組で共演した永六輔は、タモリにとってサングラスは不可欠なものだと弁護している。(210頁)

 一九八〇年にはNHK特集の『石油・知られざる技術帝国』に出演した。−中略−
 その後もNHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体』(一九八九年)でナビゲーター役を務めたほか
(211頁)

そしてタモリはバラエティのトップタレントになる。
日テレで1981年『今夜は最高!』が始まる。
1982年『笑っていいとも!』がスタート。
そして『タモリ倶楽部』が秋10月からスタートする。
夜やると必ず昼もやるという、昼やると必ず夜もやるという、昼・夜を使い分ける。
特に『笑っていいとも!』のプロデューサー(横澤彪)は、ドキュメント風でコントや会話が噛み合わないライブの勢いで中継する。
フジテレビの上層部の中に「昼間のタモリ」というのは相当反対があったようだ。
そして『笑っていいとも!』のスタート時の関東の視聴率が4.5%。
これはちょっと前の『お昼のゴールデンショー』が良かったからちょっと厳しかった。
今は4.5取れれば立派なものなのだが。
タモリはしかし、番組で起こった偶然を実に巧みに番組の中に取り込んでいく。
この人はインスパイアされる。
TBSのラジオ番組を聞いていて萩本さんの良いところを見ているのだろう。
ラジオ番組で、誰かがゲストに出たら電話を入れといて次に来てもらうっていうのを、テレビでやろうという。
「テレフォンショッキング」
(本によると萩本ではなく『小島一慶の耳コミラインチタイムぴいぷる』の「テレフォン交遊録」)

 初期の同コーナーの合言葉「友達の輪」も番組開始の翌月、一一月一七日にミュージシャンの坂本龍一がゲスト出演した際に偶然生まれたものだった。このとき坂本は日本航空の赤い鶴のマーク(鶴丸)について「あれは『世界に広げよう、友達の輪』という意味なんだね」と言いながら、自ら両腕を使って輪を作ってみせた。これに合わせてタモリも同じポーズをとったところ、観客席から「輪!」という声が一斉に上がる。−中略−ここから毎日、タモリと観客のあいだでは「輪!」というフレーズとポーズがお約束のようにやりとりされるようになる(『犬も歩けばプロデューサー』)。(232〜233頁)

(初期はともかく、客は自発的にやっているのではなくリハーサル時に練習させられるのだが)

 番組名である「いいとも!」も番組内の合言葉として浸透していく。これはタモリと旧知の仲であるテナーサックス奏者の中村誠一の口癖がもとになっている。一説には、何を頼んでも中村が快く「いいとも!」と受けてくれるのをタモリが面白がり、自分でもコンサートツアーで使ってみたら大ウケだったため番組名に採用したのだという。(233〜234頁)

アイドル時代の松本伊代が出演した回では、翌日のゲストの歌手・泰葉に電話をつなげるつもりが間違って一般人宅にかけてしまい、その相手がタモリの本名と同じ「森田さん」であったことからひとしきり盛り上がるということもあった。(233頁)

そのハラハラ・ドキドキ感で、今日はつながるかどうかで、数字がゆっくり上がり始めた。
この辺りはもう、みなさんも観たり観なかったりだろうが、ここからタモリの「笑っていいとも!」のレジェンドが始まる。

2016年05月28日

◆RSP53◆原沢製薬工業◆プラセンプリマ内服液◆13◆

医薬品コーナーでご提供いただきました原沢製薬工業様のプラセンプリマ内服液をご紹介。

【第2類医薬品】プラセンプリマ 内服液 30mL ×5



これを一本いただきました。

疲れが取れない、朝から身体が重くてだるいなどの現代社会に多い疲労や体力低下を改善する滋養強壮保健薬だそうです。

口の中とかノドがイガイガする感じで飲みづらい味。
箱は割と大きいけど中身は案外小さいんで、飲むのがつらいほどの量ではなかったけど。
プラセンタが入っているそうなので、毎日飲むといろいろ効果が出てくるのかも知れないけど、一回飲んだだけではあんまり効果が実感できなかった。
まあ、この手の栄養ドリンクみたいなのって飲んでてきめんに元気!とかってことはないし、そうなるようだったらよっぽど栄養不足なんだろうし。

posted by ひと at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おやつカンパニー ベビースターラーメン丸(塩レモン味)

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ベビースター商品一覧 | おやつカンパニー(-^〇^-)/
レモンのすっぱさが、おいしい!
瀬戸内産レモン果汁を使用した、ラーメン丸です。酸っぱいだけでなく、旨みと酸味のとれたおいしさです。


サンクスで141円のヤツをポイントdeクーポン値引き101円で、+Kクーポンを40ポイント利用。
内容量59g。
5月23日コンビニエンスストア発売。
6月13日からスーパーマーケットでも発売。

円筒形の塊になっているので、箸を使って食べるのに非常に都合がいい。
レモン味玉っていうのが入っていて、レモンの酸っぱい味がする。
変わった味だけどなかなか美味しい。

posted by ひと at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「思いやり予算」は昨年より133億円多い9465億円



このツイートを見るまでそんな話があったのは知らなかった。
確かにほとんど報道されなかったな。
ここのところ某都知事がつるし上げられていて、その飛び火なのか某市長のメイク代が経費だとかで非難されたりしている。
確かに経費などは正しく使われるべきだ。
それが政治家でも政治家じゃなくても。
特に都知事の件は都民が「私たちの税金がっ!」ってお怒りで。
まあ、実際そうなんだけど、米国には垂れ流しでも誰も怒らないってことかな。
私は激おこなのだけど。

posted by ひと at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年2月1〜12日◆『タモリと戦後ニッポン』近藤正高(後編)

これの続きです。

 早稲田大学を除籍になったあとも、モダンジャズ研究会で司会者兼マネージャーとして多忙な日々を送っていた彼は、あまりのカネ回りのよさを不審がられ、親戚のあいだでは「あいつはヤクザになってしまった」などといった噂も流れていたという。父親が亡くなったときも演奏旅行に出かけていて居所がわからず、親戚中から怒られた。あげく、東京にいるとろくな者にならないと福岡に“強制送還”され、そのまま朝日生命に入社させられてしまったと本人は振り返る(91〜92頁)

タモリは保険外交員、ボーリング場の支配人と、職を転々としながら福岡で生活し始める。
呼び戻されてから、この間のタモリの評判がいい。
一日も休まない。
真面目に仕事に取り組む。

早稲田というのは人脈がある。

 ボウリング場で支配人の仕事を立派に務め上げていたタモリだが、日田に赴任して一年半ほど経ったころ、福岡に戻り今度はフルーツパーラーのバーテンダーに転身している。これは高山三夫の長男・博光の頼みを受けてのことだった。
 高山博光も早大OBだが
(99〜100頁)

タモリは中洲のフルーツパーラーを任される。
(番組では「店長」と言っているが本によると「バーテンダー」。しかし店自体を任されているようなので実質店長のような立場だったかと思われる)
そのフルーツパーラーを評判よく店長をおやりになる。
中洲にはある種の音楽の渦巻があった。
夜のネオン街にラテン系の飲み屋では洒落たバンドが歌を歌ってラテンの演奏をやる。
そのラテンのバンドがペドロ&カプリシャス。
高橋(高橋まり)さんはこの後。
ペドロ&カプリシャスがラテンに乗せて着々と実力を。
エレキグループでハプニングス・フォーなどのそうそうたるグループサウンズのトップ・オブ・リーダーになる人たち。
(調べてみたがタモリがフルーツパーラーを任されたのが1973年。ハプニングス・フォーは1972年に解散していることから、年代的には大幅に異なるし、本にはペドロ&カプリシャスもハプニングス・フォー登場しない)

この頃の話を前川清さんから聞いた武田先生。
1970年代、内山田洋とクール・ファイブは博多の飲み屋にオーディションを受けに来た。
しっぽを巻いて帰った。
博多じゃ通用しない。
それぐらい博多のグループはうまかった。
その中でもトップを行っていたのがペドロ&カプリシャス。
こういうラテン系のグループで実力を蓄えたところがあったかと思えば、タモリのフルーツパーラーからバス停にして三つも離れていないもう一つの盛り場、天神。
ここにできた小さなフォーク喫茶「昭和」。
ここにも若造がいっぱい集まってくる。
その若造の中にチューリップ、海援隊、再起を期して立ち上がってオリジナルづくりに励み始めた井上陽水がいる。
お客さんでは予備校生の伊勢正三さんがいて、虎視眈々と「俺もあんなことをやってみたい」と言っているうちに東京にいる南こうせつから「一緒にやらないか」という電報がきて、伊勢正三は夜汽車に乗った。
その頃、鹿児島から出てきた少年、長渕剛も「このままじゃ青春はつまらない。何かやりたい」と言いながら昭和の客席に座っていた。
小学校六年生のチェッカーズのフミヤ(藤井フミヤ)は「一度でいいからお兄さんたちの音楽が聞きたい」と言って昭和のマネージャーから「小学生は来たらつまらんと」と追い返された。
片一方の天神という町にも青春のジャズとは違う新しい音楽の胎動があった。

タモリはこのままフルーツパーラーで収まっておけば、静かないい人生だったのだが、タモリの運命が突然変わる。

 一九七二年の某日、演奏旅行で福岡を訪れた山下洋輔(一九四二〜)と中村誠一(テナーサックス。一九四七〜)・森山威男(ドラムス。一九四五〜)のトリオは、公演が終わったあと、真夜中すぎまで宿泊先のホテル(タカクラホテル福岡)の一室で大騒ぎをしていた。やがて山下がベッドに正座しながら、でたらめな長唄を歌い出す。それにあわせて浴衣姿の中村が籐椅子を鼓のように抱え、ヨォーッカッポンカッポンと言いながら踊り始めた。だがそのうちに籐椅子の底が抜けてしまう。中村はすかさずそれを、虚無僧の編み笠のごとく頭からかぶった。そうやってなおも唄い踊っていると、部屋のドアが開き、知らない男が中腰で踊りながら入ってきたのである。
 男はときどきヨォーなどと言いながら中村のそばまでやってくると、彼の頭から籐椅子を奪い取り、自分がかぶって踊り続けた。我に返った中村は、踊りをやめ、ものすごい勢いでまくしたてる。それも日本語ではなく、得意としていたデタラメな朝鮮語で。だが信じがたいことに、男は中村の三倍の勢いで同じ言葉を返してくるではないか。びっくりした中村はそれならと中国語に切り換えた。しかし相手はその五倍の速さでついてくる。
(110〜111頁)

(番組では、去り際に山下氏がタモリに名を訊ねたと言っているが、本によると訊ねたのは中村氏)
その男は浴衣を脱ぎ、黒縁メガネをかけ、背広を着こみ深々と頭を下げ、一言「タモリです」と言いながら去って行った。
三人にとって強烈な衝撃を与えた。
「ホテルまでなぜあいつは来たのか」と関係者にふったらしい。

渡辺貞夫のバンドにはそのころ、タモリの早稲田大学モダンジャズ研究会の同期でギタリストの増尾好秋、一年先輩でベーシストの鈴木良雄がいたこともあって、タモリはバンドが九州で公演を行うたび顔を出していたという(114頁)

 タモリの芸能界デビューへの道を拓いた伝説のスナック「ジャックの豆の木」は店舗としては二代目にあたる。(121頁)

 当時の山下トリオは毎週、新宿の「ピットイン」に出演しており、それを聴きに来た客が、そのままメンバーと一緒に歌舞伎町の「ジャックの豆の木」に流れるということも起きていた。(122頁)

 タモリと福岡で遭遇したのち、山下たちは「ジャックの豆の木」で会う人ごとに、この“九州の天才”のことを吹聴した。(123頁)

 こうして客から新幹線代を集めて、タモリを福岡から呼び出すことになる。一九七五年の夏のこと。−中略−当時の博多〜東京間の所要時間は最速で六時間五六分、料金は普通車で八七一〇円かかった。(123頁)

(番組ではここからタモリを探し始めた話になっているが、この時点ではすでに連絡がつく状態になっている)

 初めて「ジャック」にやって来たタモリは背広姿でパッとしないサラリーマンのような出で立ちであったという。約束より早く着いてしまった彼は、しばらく一人でカウンターにぽつんと座りながら、黙ってビールを飲んでいたらしい。ママのA子はまさかそれが噂の“九州の天才”だとは気づかなかった。(124頁)

(番組ではこの日に大勢が集ったような説明になっているが、それは後日のタモリの独演会でのこと)

やがてタモリの噂を聞きつけた神戸在住の筒井康隆が上京し、「ジャック」で本格的な独演会が催されることになった。会が開かれたのは、長谷邦夫の著書では七月三〇日とある。
 独演会当日、店内には山下洋輔をはじめ、詩人の奥成達、マンガ家の上村一夫や高信太郎、それから長谷に同伴して赤塚不二夫も顔をそろえていた。
(126頁)

 会が進行するうちに筒井から、中国人のターザンをやってくれとのリクエストも飛び出し、タモリはこれに見事に応じてみせた。しかし筒井の要望はとどまることを知らない。さらに「大河内伝次郎(映画俳優)の中国人ターザンが、宇宙船のなかで酸素漏れに苦しんでいるところをやってくれ」とむちゃくちゃな設定が与えられる。だがこれにもタモリは一瞬たじろぎながらも挑んでみせ、《「およ。うよ。すうしよ。ごよごよごよ」などといいながらノドをカキムシリ、苦悶の表情ものすごく−中略−こうしてリクエストに応えるがままに即興で演じるなかから、「四ヵ国語麻雀」など、のちに「密室芸」と呼ばれることになる初期タモリのレパートリーができあがっていったという。その様子を目の当たりにして、店に来るまでは渋っていた赤塚もいつしか惹きこまれていた。
 すっかりタモリに惚れこんだ赤塚不二夫は、目白にある自分のマンションの部屋に泊まっていけと申し出た。
(126頁)

すっかり人気漫画家赤塚不二夫に気に入られたタモリ。
赤塚はタモリを九州に帰さないために、自分のマンション「カーサ目白」を提供した。
1975年、時代的には戦後30年。
人口の49.4%が30歳以下。
あの頃は若者だらけだった。
エネルギーあふれる日本だった。
ズバリそこに30歳のタモリはいた。
当時、東京に出てきた武田先生は24歳。
タモリは早速この赤塚の好意に甘える。

 赤塚不二夫が上京まもないタモリに貸し与えたカーサ目白は、ひと月の家賃が七五年当時で一七万円という高級マンションだった。(140頁)

現在で換算すると50万円以上。
ここに一人で赤塚は住んでいたが、5〜6本、『天才バカボン』から『おそ松くん』から抱えていた大人気ナンセンス漫画家なので帰る暇がなく、カーサ目白はタモリの独占だった。
当時の赤塚は滅茶苦茶カネを持っていた。
カーサ目白の方にはベンツの450SLCというスポーツタイプが置いてあったが、これもタモリにキーごとプレゼント。

 部屋にはもちろん洋服ダンスもある。そこから赤塚の服を拝借して、何気なく着てみると、サイズがぴったりだった。(141頁)

(番組では赤塚から「服をどれでも着ていいよ」と言われたと言っているが、本によると勝手に着たらしい)

 赤塚には小遣いももらっていた。月に一度は電話があり、「カネあるの?」と訊かれる。そこで「カネないよ」と答えると、「じゃあ取りに来い」と言われ、下落合のフジオ・プロダクションまで受け取りに行くのだ。(140頁)

赤塚は忙しいので、タモリを呼んで「やれ」と言ったらイグアナから何から全部やっていた。
それがタモリの業務だった。
常識では測れない二人の関係が愉快。

(番組ではタモリはこのマンションに妻と暮らしていたという話に入るが、本にはそのような記述はない)

武田先生が驚いた話。
赤塚はサブカルチャーのパトロンだった。
アングラをやっている唐十郎劇団に資金援助をし続けている。
唐十郎や寺山修二は赤塚が来ると「今度の公演には500万円ぐらい出してもらわなきゃできないよ!」と突然言って、赤塚は用意した。
赤塚は徹底して面倒を見ている。
驚くべき人で、70年代のいわゆる新宿サブカルチャーの闇のパトロンは赤塚不二夫で、『天才バカボン』や『おそ松くん』で得たお金はサブカルチャーの文化的同志に全部注ぎ込んだ。
本当にいい人だった。

お嬢さんから聞くところによると、赤塚不二夫は滅茶苦茶な人で、出版社の人と水鉄砲の撃ち合いをする。
パンツ一枚でやる。
忘年会は赤塚は稼ぎ手なので、出版社の偉いさんがくる。
出版社の編集か何かの偉い人を上座に据えておいて、出版社の一番ペーペーの人に真後ろからスリッパで頭を叩かせる。
それで怒ったら赤塚がその偉い人をクビにする。
「ギャグでやってるんだから、わからない人はボク、やりたくない」
赤塚は満州から引き揚げてくる時に引き揚げ船の地獄を見ている。
餓死していく妹をじっと眺めた人。
(調べてみたが、亡くなったのは日本に着いてからのようだ)
あのバカボンのいう「これでいいのだ」は本当に悲痛な時代に抗せず死んでいった人間たちを弔うナンセンス。
意味ばっかりつけられたから、意味のあることが大嫌い。
そういう無念が、こういうタモリみたいな人を愛してしまうという。

 ちょうど夏休みの終わりで、赤塚のもとにはNET(現・テレビ朝日)から子供向けの番組の企画が持ちこまれていた。長谷の前掲書によれば、それは俳優の高島忠夫が司会する番組を「赤塚版の子供向けにして放映したい」との注文で、構成も自由にしてよいとディレクターから一任されていたという。筆者が調べてみたところ、NETではこのころ毎週土曜の正午から一時間、『土曜ショー』という番組が放送され、高島はその司会を務めていた。−中略−『土曜ショー』で「マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」という企画が組まれていたことが確認できる。
 長谷はこの番組の冒頭でタモリを出してしまうことにした。赤塚マンガの人気キャラクターを使ってデタラメな場面を七、八枚描き、それを紙芝居仕立てで、完全なアドリブで演じる、というのがタモリの役回りだった。
−中略−
 番組は生放送、しかもリハーサルなしのぶっつけ本番。だがタモリは真骨頂であるアドリブを発揮し、その紙芝居口演にスタッフ一同はすっかり聞き惚れ、司会の高島にも驚きが走った。
 高島はタモリを高く評価し、当初流す予定だった赤塚のアシスタント総出演のVTRを自らの判断でとりやめ、タモリにほかにも芸を演ってみせてほしいと頼んだ。
(131〜132頁)

 テレビでタモリの芸を初めて見たタレントの黒柳徹子が、すぐさまテレビ局の受付に電話をかけて赤塚を呼び出し「あの人は誰!?」と訊ねたという話は、彼女が司会する『徹子の部屋』(テレビ朝日)でもたびたび語られている。(132〜133頁)

30歳にして、ミスター・タモリは自分の場所をテレビスタジオに見つけた瞬間。
ここに昭和史において「タモリ」が出現する。
この一点から戦後の笑を変えるお笑い現代史のニューエポックが始まる。
それにつけても赤塚不二夫は只者ではない。
この人の身の上は満州からの引き揚げで戦争を背負った人。
『鉄腕アトム』の手塚治虫も累々と焼死体がある大阪の野っぱらを歩いた人。
ちばてつやは中国から引き揚げてくる時に中国の人から石や刃物を投げつけられた。
怖ろしいような戦争の状況を見た人たち。
その人たちが日本に帰ってくると、ものすごい日本の希望の漫画をそれぞれに描き出した。
間違った戦争が間違わなかった人たちを生み出した。
そこの昭和史の底流というのを見つめていくと面白い。
タモリも間違うことを間違わなかった人。

 赤塚にさんざん世話になりながら、タモリはその後も礼を言うことはなかった。−中略−お礼を言ったり言われたりするのを拒んだ、二人の真意はどこにあったのか? そのことは二〇〇八年八月になってようやく、タモリの口から明かされる。それも、赤塚への弔辞という形で。
《私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、いま、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです》
(147〜148頁)

 結果的にこの居候時代は、《俺の人生の中で一番楽しかった、あの一年くらい》と後年タモリに語らしめることになる(140頁)

現代タモリ史はこれでは終わらない。この後様々なライバルたちとのお笑いの葛藤が、そして、「視聴率」という数字で人間の価値を決めてしまうというテレビメディア媒体との激しい戦いが待っている。

2016年2月1〜12日◆『タモリと戦後ニッポン』近藤正高(前編)

今回の本は二回に分けて全部で四週にわたって取り上げられている。

タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)



 本書はタモリの足跡を通して戦後ニッポンの歩みを振り返るというものである。なぜ、タモリを軸としたのか。それはまず何より、彼が一九四五年八月二二日と終戦のちょうど一週間後に生まれ、その半生は戦後史と軌を一にしているからである。(6頁)

十月十日遡ると、父母は日本が大変な時にできちゃった。
その時に父母がいた場所は日本ではなかった。
満州。

森田一義というタモリの本名の由来からもうかがえる。「一義」とは祖父の命名で、日露戦争時には満州軍参謀を務め、のちに陸軍大臣や首相を歴任した田中義一にあやかったものだという。(20頁)

タモリ本人も「いささか母が盛り付けて俺に戦前の話をしてくれた」というようなエクスキューズが入っている。
著者は不思議なタモリの血脈に圧倒される。
森田一族はかつての日本の植民地、中国東北部満州国に家族の根を張っていた。
祖父は鉄道エリート。
満州鉄道のお偉いさん。
満州国は幻の帝国であるが、現代史ではあまりこのあたりは深く教えてくれないが、それだけではない。
森田さんがお勤めの「満鉄」のエリート幹部の中に、かつて武田先生が師とあがめ、頭が上がらない山田洋次監督がいらっしゃる。
それだけではなく、この後に運命的な出会いになる赤塚不二夫さん。
『あしたのジョー』で有名なちばてつやさん。
朝鮮半島の方も日本が侵略して、日本国が占領していたのだが、その朝鮮半島の方には五木寛之さん。

辛子明太子を考案した「ふくや」の創業者・川原俊夫もまた大陸からの引揚者だった。川原は自分の生まれ育った韓国・釜山の市場でよく売られていたメンタイという食品に改良を加えながら辛子明太子をつくりあげたという。(28頁)

博多名物から『青春の門』から『寅さん』から『あしたのジョー』『おそ松くん』、そしてタモリまで、だいたいの根っこがこの幻の植民地、大日本帝国満州国にいたという。
タモリは大戦が終わってから一週間後に生まれたので満州国を知らない。
森田一族の不思議なところ。

タモリの祖父母と両親は《昭和一三年か一四年か、太平洋戦争前に日本に帰ってきてますから、引き揚げ船には乗らないし、一切の苦しい思い出がないんですよ。−中略−神道を信仰していたタモリの祖母がある日拝んでいたら、この満州の地はいまに火の柱が立つとお告げがあり、それで家族を説得して一九三九〜四〇年ぐらいに日本に帰ってきたのだという(19頁)

グズグスいれば、ソ連の侵攻があったので、タモリはこの世に影も形もなくなったという可能性もあるのだが、そのへんの直観に支配され、森田一家は一年前に満州から帰ってきて、福岡の高宮という町に住んで事なきを得た。

かつての幻の帝国、満州国。
そこにたくさんの日本人が住んでいて森田一族も住んでいた。
そこではどんな生活が営まれていたか。
首都が長春。
山田洋次監督が武田先生に語ったところによると、ベッドに入るまで靴を脱いだことがない。
革靴をずっと履いていて、ベッドに入る時にようやく脱ぐ。
レンガ造りの洋館に住み、寒く長い冬にはペチカが赤々と燃えていて、コックが中国人、家庭教師がフランス人、馬蹄がドイツ人。
満鉄の高級幹部の暮らしはすごい。
土曜日になると舞踏会があるので父母は出かけ、自分だけベッドに寝るのですごくさびしかった。
山田監督が夕日を眺めると、線を一本引いただけの地平線に日が沈んでゆく。
赤い夕陽の満州。
教科書を開くと、お寺の鐘がゴーンと鳴って、カラスが鳴いていて、下町があって、電燈に明かりが入るみたいなのがあった。
それを見て「何てちっちゃな風景だろう」と思った。
外国の風景を見たような驚きがあった。
日本に帰ってきてびっくりしたのは「教科書と同じだった」。
山田監督が『寅さん』の中で使うシーンは一種異国の風景だった。
「驚いたことにね、武田くん。5時になったりすると本当に鳴ったんだよ、お寺の鐘がゴーンって。僕はなんだかおとぎ話に帰ってきたみたいでさ」
山田監督の子守のお手伝いさんが日本から来たお嬢さんで、そのお嬢さんに時々父母から許可が出て映画を見に行くのだが、田舎の子守の少女だから幼い山田監督の手を引いて外国映画を見ずに阪東妻三郎やエノケンを見る。
『エノケンの愉快な兵隊さん』といったものを見ながらその人(子守の少女)が笑って、悲しい母子ものがあると涙をポロポロ流す。
山田監督は小さい時から映画を見るより、そのお手伝いさんの泣いている顔、笑っている顔を下からじーっと見ていた。
それがあの人の中のキネマへの旅立ち。
満州育ちの人というのは、そういう子供の頃の環境だった。

戦争に負けた日本で生まれたこのタモリなる少年は福岡の町に育つのだが、何ゆえに悠然とした生活ができたのかは本の中には説明がない。
(と番組では言ってるが、本の中には引き揚げ時に処分した財産で福岡に借家や山林を買って収入を得ていたとある)
タモリはそうとういいところのボン。
福岡はだいたい住んでいるエリアで収入がわかる。
高宮。
名前からして神々しい。
丘の上にある、いわゆる坂の町。
坂に豪邸が点々と並んでいて、○○電力会社の社長とか、今でも有名なサスペンス女流作家がいる。
そこに住んでいたというから相当なおぼっちゃん。
高級住宅街。
一方武田先生は雑餉隈(ざっしょのくま)。
典型的な下町。
高宮は響きとしては「ビバリーヒルズ」。
そういう感じ。
彼はその区画の高宮中学(福岡市立高宮中学校)、高校は筑紫丘(福岡県立筑紫丘高等学校)。
これは福岡の人なら知っているが「バカでは行けない」。
タモリはここから早稲田大学に行くのだから福岡の私学のエリートコース。
国立のエリートコースは福高修猷(福岡県立修猷館高等学校)から京大。

タモリの母親は二人の子供(姉とタモリ)を儲けながらもタモリが幼い頃に離婚し、実家から離れて暮らすようになったからだ。−中略−
 離婚後は父親も家を出たため、タモリら姉弟は祖父母に育てられる。
(30頁)

祖父母も変わった人で、孫である一義に教えたのは勉強ではなく麻雀とゴルフ。
子供の時から遊ぶことをずっと教わっていた。
このあたりから、この人の中に「遊び」というのが一種人生の目標になっていくのだろう。

総理大臣の「田中義一」の名前をひっくり返して「一義」。
この人は運命的に名前をひっくり返す。

早稲田大学の哲学科に入る。
ところが哲学科に入りつつも、森田君はどうしても遊びの方が先行してしまってモダンジャズ研究会に入る。
森田君がゆっくりと「タモリ」という名前になっていく。

 一九六五年三月に筑紫丘高校を卒業後、大学受験に失敗して浪人中だったタモリは、東京オリンピックを福岡の実家で祖父と一緒にテレビで見ていた。(54頁)

 同じ年に早稲田大学の第二文学部史学科に入学したのが女優の吉永小百合である。(55頁)

あるときなど学生食堂でラーメンを食べていたところ、たまたま前の席に吉永が座り、トーストを食べ残して立ち去った。それを持って帰ろうか迷っているうちに食堂のおばさんが片づけてしまったと、タモリはたびたび照れながら語っている。(56頁)

(番組内で食堂のおばさんに追い返されたという話になっているが、本の中にはそのような記述はない。この出来事でファンになったような話もしているが、本によると「きっかけは14歳の時」)

 なお、作家・三島由紀夫が結成していた民兵組織「楯の会」のメンバーだった森田必勝もやはり同い年で、タモリや吉永小百合と同時期に早稲田大学に通っていた。
 森田は六六年に早稲田大学教育学部に入学、その四年後に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて三島とともに自決を遂げた。太平洋戦争末期の四五年七月に生まれた森田の「必勝」という名は、この戦争には勝つべしという願いをこめて父親がつけたものだった。じつは森田の父はもうひとつ、早く平和が戻ることを願って「平和」という名前も考えていたという
(58頁)

 六五年から翌年にかけての早稲田大学での紛争は、このあと全国で巻き起こった学園紛争の端緒とも位置つけられる。その発端は六五年一二月、竣工したばかりの第二学生会館の管理・運営権を求めて一部の学生が運動を起こし、大学当局と対立したことだ。(59頁)

学生の自治を求める運動がキャンパス内に渦巻いていた。
いわゆる70年安保の先駆けとなる私学の学生運動家たちの渦がどこの大学よりも早く渦巻き始めていた。
学費を上げる、上げないという問題もあった。
大学側と学生が激しく対立して、このころはまだまだ火の手としては高くはないが、いわゆる早稲田の全共闘の渦が早くもここで。
この全共闘の渦が始まったキャンパスなのだが、この中に、ものすごくアジ演説がうまい人がいた。

 あるとき、学内の劇団に所属する男子学生が登壇して演説を行った。活動家連中の聞き取れないダミ声とは違い、さすがに発声もちゃんとしており、そのスマートで物馴れたさまに運動組織の幹部が「達者なもんだな。あいつにずっとアジらせろ」と感心するほどだった。その劇団の学生とは誰あろう、のちのニュースキャスター・久米宏である。タモリや宮崎学よりひとつ年上の彼は、当時大学三年生だった。
 ただし、久米自身がのちに語ったところによれば、大学時代は学生運動にはまったくノータッチ
(60頁)

 本名の森田をひっくり返して「タモリ」と呼ばれるようになったのも、モダンジャズ研究会に入ってまもなくのころだ。−中略−モダンジャズ研究会も「ダンモ研」と通称された。−中略−将来はジャズ・ミュージシャンになるつもりでいたが、大学生になりダンモ研に入ってすぐ断念したという。−中略−
 トランペットはダンモ研に入っても一年ぐらい続けていたものの、結局レギュラーにはなれなかった。
−中略−結局タモリは、司会、さらにはマネージャーを兼務することになる。その手腕は主に、全国各地を演奏でまわる度、「ビータ」で発揮された。(73〜74頁)

 ビートたけしは一九六五年に明治大学に入ったものの、二年生になったころから大学にはほとんど行かなくなる。それからというもの新宿界隈ですごすことが多くなり、「びさーる」「ヴィレッジ・ゲート」「ヴィレッジ・ヴァンガード」といったジャズ喫茶でバイトもした。このうちヴィレッジ・ヴァンガードでは早番のボーイとして働いていたが、たけしと入れ違いで遅番勤務していた青年が永山則夫(一九四九〜九七)だったという。それが六七年頃というから、永山が東京はじめ日本各地で一ヵ月足らずのあいだに計四人をピストルで射殺した「一〇八号事件」を起こす一年ほど前のことだ。(84頁)

(番組ではたけしが働いていた店にタモリも行ったように話しているが、たけしが働いていた店に行ったという話はない。番組中「ヴィレッジ・ゲート」と「ヴィレッジ・ヴァンガード」も取り違えて説明している)

 横山やすし(一九四四〜九六)とのコンビで一時代を築いた漫才師の西川きよしも四六年生まれで二人とは同世代にあたる。(63頁)

(西川きよしがこの地域いにいたような話が番組でされているが、年代的に関西にいたものと思われる)

寺山修二らが広げるサブカルチャー、アングラ、演劇、映画はタモリは苦手。
タモリは「無意味ほど価値のあるものはない」ということを言う人だった。
彼はモダンジャズ研究会のマネージャーとなり、先輩の部員を率いてコンサートツアーに出かける。
早稲田は卒業生が主催する地方コンサートの演奏旅行が年に二回あった。

 演奏旅行は夏に二ヵ月、春に一ヵ月という長丁場で、年間を通じて約三〇〇ステージをこなした。移動はもっぱら夜行の鈍行列車。旅行中は列車のなかで寝起きする日々が続く。鈍行には寝台がないので、網棚の上で何度寝たかわからないという−中略−車中で洗濯をして、荷台から荷台にロープを吊るして干すこともよくあった。見かねた車掌から、「通路のとこだけは空けてください。パンツが乗客の顔にあたりますから」と注意されたりもしたとか。(75〜76頁)

この時に退屈でたまらない。
それで何かやれと言われて(本によると自発的にやったようだが)タモリがいたずらを乗ってくる乗客に仕掛けるという「いたずらライブ」が車内で大流行。
その中で一番受けたのが「一人旅する中国人旅行客」。

 やはり初期タモリのレパートリーだった「四ヵ国語麻雀」をはじめとするインチキ外国語芸も、福岡という土地柄から生まれたともいえる。というのも、福岡では地理的な位置から韓国のラジオ放送などが日本のほかの地域以上にクリアな音で受信できたからだ。(39頁)

一人で車両の端のボックスシートに移動し、誰かが来るまで待っている。そのうち向いの席に二人ぐらい座るが、しばらくはじっとしていて、そのあといきなり「ウーチャ シーチェン ターパイヤア」とでたらめな中国語でしゃべり出す。そのときの相手の反応を楽しむのだ。(76頁)

 ステージでも、たまにでたらめな言葉で「イパネマの娘」なんかを歌うことがあった。客にウケるだろうと思ってやったのだが、誰もデタラメだと気づかなかったという。(77頁)

無意味を自分の旗印にし「意味の無いことをやらせたらタモリは面白い」。
しかし、音楽の変化というのは確実にタモリの身辺も波打ちはじめる。

六九年のアメリカ・ウッドストックでの野外ロックフェスティバルの影響から、日本でもロックやフォークのフェスが盛んに行われるようになった。そのなかにあって、ジャズ喫茶という密室で聴くジャズが若者のあいだで魅力を失っていったのは当然かもしれない。(90頁)

ロックが世界の音楽を揺るがすその後に、フォークソングが出てくる。
これもジャズを脇道へ押しやっていく。

2016年05月27日

◆RSP53◆ユニリーバ・ジャパン・カスタマーマーケティング◆サー・トーマス・リプトン ミルクティーパウダーシリーズ ◆12◆

ユニリーバ・ジャパン・カスタマーマーケティング様のサー・トーマス・リプトン ミルクティーパウダーシリーズをご紹介します。

本当においしい紅茶をもっと味わって欲しいと思って、リプトンの創始者のサー・トーマス・リプトンさんは世界中の茶園を旅したそうです。

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サンプルバッグの中には、三種類が一杯分ずつ入ったヤツ。
どれもすごく美味しそうだなと思ったけど「アールグレイ」を飲んでみました。
世界で最も伝統的な紅茶の一つであるアールグレイのロイヤルミルクティーだそうです。
ホットの時は120mlのお湯を注ぐだけで簡単に作れるんだけど、水では溶けづらいようで、アイスの時にはお湯で溶かしてからっていうことなので、面倒臭いからホットで。
お湯を入れてかき混ぜると、紅茶のすっごくいい香り♪
味もとっても高級な感じのミルクティーっていう感じで、すごく美味しい♪



posted by ひと at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆RSP53◆ピジョン◆ピジョン カフェインレス ミルクティ◆11◆

次はピジョン様のピジョン カフェインレス ミルクティをご紹介。

ピジョン カフェインレス ミルクティー 10本入



サンプルバッグにはこれが1箱入っていました。

この商品はなんと、カフェイン量を90%以上もカットしているので、授乳中だったり妊娠中だったりっていう方でも安心して飲めます。
私は授乳も妊娠もしていないけど、コーヒーをガバガバ飲んでしまうので、よくないよな・・・って思いつつもやめられず。
これはカフェインが少なくても、すごく美味しくてありがたい!
しかも鉄や葉酸などいろいろな栄養素も入っているそうです。
牛乳でつくるタイプですが、冷たい牛乳にも溶けて使いやすい!

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こいう感じで入っておりまして、これに牛乳を160〜200ml入れます。
この手のものって、結構甘ったるい感じのものが多いからどうかな?と思って飲んでみたけど、それほど甘ったるくもなく、ほどほどの甘さで飲みやすいし、ちゃんとしたミルクティーらしい味もします。
お手軽なのでオススメです♪

posted by ひと at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆RSP53◆養命酒製造◆食べる前のうるる酢ビューティー◆10◆

次は養命酒製造様の食べる前のうるる酢ビューティーをご紹介。

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前にもリニューアルしていたと思うけど、今回も今年の4月にさらに美味しくなって新登場だそうです。
果汁も増量。
しかも!プライスダウン!!!

養命酒製造 食べる前のうるる酢Beauty アセロラ×キウイ 125ml×18本



サンプルバッグにはこれが1本入っていました。
ってことで冷蔵庫で冷やしてから飲むことに。
酢はあんまり得意じゃないのだが、これはそれなりに酢が入ってるなっていう感じもしないでもないけど、酸っぱすぎたりもしなくて後味も悪くないし飲みやすいし美味しい。
ヒアルロン酸10mg配合(他の商品は5mg)、ビタミンB62.8mg配合、ビタミンC120mg配合。
で、毎回言っているのだけど、この商品いまだに
食物繊維レタス1個分
何度も言うけど、レタスって決して食物繊維が豊富な食品ではない。
日本女性の食物繊維の目標値が18000mgらしい。
で、実際に摂れている分との差が、レタス1個分(4,400mg)ぐらいですよということらしい。
つまりはこれだけ飲んでも必要な食物繊維は全く足りていないということで。
実際、食物繊維をレタスだけで満たそうとすれば毎日3個喰わないとダメなワケで。
喰えねぇよ。って感じですね。

posted by ひと at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月26日

◆RSP53◆森永乳業◆ピノ ソレイユパッション◆9◆

試飲試食の最後はデザート
森永乳業様のピノ ソレイユパッションです。

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一人ひと箱♪
ブースの写真も撮ったんだけど、ひどいピンボケなので載せるのはやめとく。
ブースではこれとは違う種類のピノの試食もさせていただきました。

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中はこんな感じ。
今までのピノにはなかった感じの色合いのパッケージです。
ソレイユ(太陽)を表現した金色トレーに、パッション(情熱)を表現したラメ入り赤ピック。
ひと粒食べると、一瞬で南国気分へ
ってことで。

味は本当にパッションフルーツたっぷり!って感じです。
今までにない感じのピノですね。
美味しかったです。

森永乳業 ピノ 旨み抹茶  24入



posted by ひと at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆RSP53◆明治◆明治ふんわりムースソフトクリーミースム〜ス◆8◆

ではRSPの方に話を戻しまして。
次に登場したのは明治様の明治ふんわりムースソフトクリーミースム〜スです。
明治ふんわりムースソフトクリーミースムースは北海道産の生クリームをたっぷり使用したスプレッドです。ふわふわと柔らかく、塗って食べるだけでなく様々な用途でお楽しみいただけます。
だそうです。
クリーミースム〜ス|株式会社 明治

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ブースはこんな感じでした。
で、「プレーン」と「チョコレート仕立て」の二種類をパンに塗って食べるという。

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まずはプレーンの方から食べてみる。
正直に言います。
マーガリンですね。
次にチョコレートの方。
チョコクリームパンの中身。
どちらも不味いということはないけど、まあ普通の味かな?って感じたんだけど(個人の感想です)、「ふんわり」っていうのもよくわからなかった。
塗り方の問題があるのかも知れないけど、私にはあまり良さが伝わらなかった。


posted by ひと at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | サンプル百貨店 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

森永製菓 ピーナッツチョコレート


ピーナッツチョコレート | チョコレート | 菓子 | 商品情報 | 森永製菓株式会社
ロイヤルナッツセレクション Wロースト製法
香ばしいピーナッツ サクサククリスプ層 コク深いミルクチョコレート
米国産ランナー種ピーナッツの中から、大粒で質の良いものを選びました。


サンクスで108円のヤツをポイントdeクーポン値引き78円で、+Kクーポンを30ポイント利用。
内容量42g。
新発売なのかな?と思ったら2月2日発売って、ずいぶん前に発売済みのヤツ。

一番外側はミルクチョコレート。
その内側にサクサククリスプ層があって、一番中央がピーナッツっていう。
前に似たような感じのヤツあったな。
何だったか忘れたけど。
で、味はまあ、クリスプがサクサクして美味しいピーナッツチョコっていう。
それ以上でもそれ以下でもなく。

posted by ひと at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

亀田製菓 ハッピーターン えだ豆味

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亀田製菓株式会社
「ハッピーターン」の生まれ故郷、新潟県の特産品であるえだ豆のフレーバーが新登場!味付けには、旨みと香り高さが特徴の新潟県産えだ豆のパウダーを使用。えだ豆の甘みと香り、ハッピーターンの甘じょっぱい味わいは相性抜群です。

サンクスで108円のヤツをポイントdeクーポン値引き78円で、+Kクーポンを30ポイント利用。
内容量43g。
43gの方はコンビニで5月23日発売。
それ以外に96gっていうのがあって、そっちは同じ日からスーパーで発売。
クーポンは「パウダー250% ハッピーターン」という商品でも使えるヤツだったんだけど、以前にもそういうのがあって食べたなと思うので(前とは味が違うのかも知れないど)こっちにしてみた。
前に売っていたヤツってのはこれだな。

ハッピーターンも時々期間限定のが発売になるのだが、どいつもこいつも「クソまずいんじゃぁ!(激怒)」ってのばっかりだからなるべく手を出さないようにしていた。
これも正直期待はしていなかった。
結論から申しますと、まあ察しがつくとは思うけど普通のヤツの方が美味しい。
でも、これは甘い系じゃないんでまだマシだな。
新潟県産枝豆のパウダー使用
だそうで、普通のハッピーターンっぽいあまじょっぱい味は控えめな感じ。
っていうか、普通のハッピーターンの方の味が濃くされちゃったから、舌はすでにそっちに慣れてしまっているので薄いように感じてしまうのかも知れないけど。
ハッピーターンっていうより、他のせんべいっぽい感じがした。

亀田製菓 ハッピーターン えだ豆味 96g×6袋



posted by ひと at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする