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2017年08月07日

2017年4月10〜21日◆「ぐずぐず」の理由(後編)

これの続きです。

音がしないことをも音で表現するのである。音のない動作だが、まるでかすかな衣擦れの音でそれと感じるかのように、なにかじっとしておれないような気配が察知されるときも、「そわそわ」「いそいそ」「こそこそ」といったぐあいに[s]の音がよくつかわれる。(98頁)

「ためらい」「あてつけ」「命令」「懇願」をオノマトペで表現する。
「そわそわ」「いそいそ」「こそこそ」
振る舞いのオノマトペ。
「当てつけの非難」もオノマトペである。
「おめおめ」「ずけずけ」「めそめそ」「いじいじ」「だらだら」「ちまちま」「もたもた」「あたふた」。
更に広がり「批判と否定」のオノマトペ。
このオノマトペは人の悪口を言う時に大活躍する。

 じっさい、多くのオノマトペには否定的な意味あいが色濃く含まれている。思いつくままにあげても、「うじうじ」「めそめそ」「ぐずぐず」「どんより」「べろんべろん」、「ぼろぼろ」「だらだら」「でれでれ」「めろめろ」「もたもた」「ばたばた」(101頁)

これは動きなのだが、もうこのオノマトペが出てきた段階で非難しているのは分かる。
「何だかアイツは、来たのはいいんだけどバタバタバタバタしててさ」っていうのは目に浮かぶオノマトペ。

 さらに、オノマトペを含む動詞句から派生した名詞にも否定性は色濃くうかがえる。「きりきり舞い」「のろのろ運転」「よちよち歩き」「ひそひそ話」「びしょ濡れ」「ぶつ切り」「ごちゃ混ぜ」−中略−「どんちゃん騒ぎ」「こそ泥」「がり勉」といった例がその最たるものである。
 こうした否定の強い含みは、オノマトペの動詞化のみならず形容詞化によってもおこえなる。「い」をつければ、「くどい」「のろい」「ぼろい」「とろい」
−中略−「しい」をつければ、「とげとげしい」「たどたどしい」、さらには「けばけばしい」(103頁)

「けばけばしい」という漢字。
クイズ番組に出ていた。
「毳毳しい」
漢字で書くと痒くなる。

 擬音・擬声語は、ドイツ語で「音の絵」といわれる。(92頁)

このオノマトペの豊かさは身体の感覚的な手触りの表現からお気づきの方も多かろうと思うが、これは「子供の感覚」。
これは大人の感覚ではない。
子供の目で見たその感覚がオノマトペになっている。
他の国と比べて日本では幼児の感覚を言葉に残している。
「お母さん、ベトベトしてるー」というやつ。
子供がうまく言語を使え無い時にオノマトペを使って自分の語彙を増やして伝える。
「ずーっと泣いてたから、お顔が涙でベトベトになった」とか、他の国と比べて日本語というのは幼児の感覚を言葉に残している。
ドキッとする。
日本のマンガ、実はアニメ文化を支えているのは豊かな、このオノマトペではないだろうか。
童謡やアニメソングに擬音が多いのは子供の国からそれらがやってきたからだそうだ。
ぽっくりぽっくりあるく(童謡『おうま』)
その意味で日本のオノマトペの真相を民俗学者の柳田国男は

「緑児は言わば無意識の記録掛りでありました」と、忘れがたい言葉を書きつけた。(106頁)

日本人は老人になっても幼児の言葉を使っているという。

日本の言葉の中にこの鷲田さんは「幼児性がある」と。
その幼児性というのは決して悪い事じゃないんだと。
幼児の感性みたいなものを大事に日本人っていうのは体の内側に秘めている。
そういう人種なのではなかろうかと。
こういう人種というのは中国大陸にも朝鮮半島にもいないという。
日本列島、ジャポネシアという諸島。
数々の島からできたこの国独自の国民性ではなかろうかと。

日本人はなぜ幼児の感性、感覚をこれほど濃く言葉にとどめたのであろうかと。
それには日本のオノマトペが内臓感覚から生じたものだからではないだろうかと。
「うきうき」「きびきび」「るんるん」「すごすご」「のこのこ」「よたよた」
人の動作の擬態語であるが、その動きのときのわずかな動作の違いが内臓を通して私たちには分かる。
違いは「内臓感覚」。
「うきうき」も「きびきび」も「るんるん」も、実は外から見た目は全部おんなじ。
だけど使っている筋肉が「うきうき」と「きびきび」と「るんるん」では違う。

今度は内臓の元気の無さで考えるとその違いがわかる。
「すごすご」「のこのこ」「よたよた」
これもやっぱり使っている筋肉が違う。
そういう内臓感覚の差みたいなのがオノマトペで表現されている。
日本人はすぐにわかるが、異国の人にはもう、そう簡単に分からないと思う。

「ひりひり」「びりびり」は違う。
これはおそらく皮膚の傷の痛みの違い。
「ひりひり」は「擦りむいた」とか。
「びりびり」は電気系。
つまり同じ痛みでもオノマトペ一言で使い分ける。
この「ひりひり」と「びりびり」に関しては幼児でさえも日本は使い分ける。

 その解剖学者・三木成夫は、講演録『内臓のはたらきと子どものこころ』(初版一九八二年)のなかで、次のように述べる。口は、内臓前端露出部といえるものであり、「最も古い、最も根づよい、そして最も鋭敏な内臓感覚」がここに表れている。−中略−この臓腑の波動が「大脳皮質にこだま」して、音として分節されたのが言葉である。−中略−解剖学的にいえば、口の内部と周辺では二つの系列の筋肉が交叉しているのであて、顔面の表情金は内臓系の筋肉、起源的には鰓の筋肉からなっているのに対し、舌は、手や足とおなじ体壁系の筋肉からなっている(だから「喉から手が出る」と言う)。(127頁)

表情は実は内臓であり、舌は五本目の手足である。
だから「便秘がちの人の笑顔」というのがある。
ビックリするくらい出た朝は浮かべる笑顔が何か自慢げ。
「何キロ出せば気が済むんだ」みたいな、時々自分に向かって語りかけて、「全部これ俺?」みたいな。
その時に笑顔。
それはやっぱり内臓の調子のよさというのは笑顔に出る。
内臓の悪い時は笑顔はやっぱり人を惹き付けるに足りない。
男は女の子と仲良くなるために飯を喰う。
あれは「何で飯喰うか」というとやっぱりそれではないか。
「相手の内臓を見る」というのが食事にかかっているのではないか。

 言葉も、こうして虫が地中から這いだしてくるように、ひらく。その初発の言葉はmaという音を核にかたちづくられることが多い。(125頁)

英語にはmammalという語もあって、これは哺乳類を意味する。西洋ではお乳にかかわるものをmammaで表現し、日本では食べ物を「まんま」という。(126頁)

全部「M」。
これは「ま」という唇の動きの中に特性が。
子宮に海を持つ女性。
海は「Marine」。

むらむら、むちむち、めらめら、もっこり、萌え、悶え、乱れ、淫ら、股、腿……と、性的な淫猥さを連想させる言葉にもマ行の音はよく用いられる。(126頁)

内臓は、胃袋も腸管も、膀胱も子宮も、ぐねぐねうねり、たえず蠕動しているのだが(107頁)

心拍のようなリズムと分節し難いうねりの響きを「ぐぐぐ・・・」といううねりの響きを内蔵は持っている。
その故に音を重ねるオノマトペが言葉として生じ、人の知覚の始まり「基盤」となるという。
リズムを刻む心臓と内臓のうねり、それがオノマトペに影響するという。
だから「ベチャベチャしてる」とか「ベタベタしてる」とかっていう感覚用語、オノマトペが生まれる。
言葉のスタート「喋る」はおそらく「しゃぶる」から来ているのではないだろうか。
(と三木成夫さんが言っていると番組では言っているが、本にはそういう記述は発見できず)
「舐めまわす。舌で」それが実は「しゃべる」の語源ではないだろうか。
子供は何でも口に持って行く。
これは舐めることでそのものを見ようとする。
脊椎動物は内臓部と体壁部二つに分かれている。
内臓部は体内にあって天体運行と同調。
内臓を動かしているのは星空。
大きな宇宙と連動していると三木さんは言う。
内臓は遠くと共振する不思議な力たここにはあるんだと。
だから魚が川をのぼり、産卵を開始するという秋というのは、天体運動からその時期が決定する。
水谷譲は女性だから「周期」を体の中に持っている。
生理。
それには「月齢」といって月の運行と深く水谷譲は結ばれた臓器をお腹の中に持っている。
内臓には天体の運行を感じるアンテナが秘められている。
生命というのはやっぱりリズムなのだ。
人は成長にともなって、舌から手、皮膚で見るようになり、その後やっと目で見るようになる。
おそらく日本人のオノマトペは内臓の触覚「舐めまわすこと」。
その感度の表現であろうという。

『ホンマでっか!?TV』の先生方は個性的な方が多いのだが、読んでいた本の中で一番惹かれた話。
気が合う合わないというのは「食事」。
心理学の本に書いてあった。
セックスの時間が分かる。
二人で食事する時間の長さが大体、二人がセックスで夢中になっている時間と同じ。

日本語というのは内臓感覚。
だから内臓で理解する。
日本人にとって内臓で理解するということはとても重大なこと。
内臓で理解することを「腑に落ちる」。
「内臓で理解すること」これは了解することであって「頭で理解すること」それよりも上回ることが「腑に落ちること」。
この舌によるオノマトペは日本人特有の味の肌理を伝えるオノマトペを生んだ。
おそらく「あまい」「からい」「にがい」「しょっぱい」以外に味の肌理を伝える言葉を持つ国語は世界でも日本だけではないだろうか。
喉を通過する時の感覚をオノマトペで言うのだからすごい。
「ツルッ」と。
お蕎麦は「ズルズル」と音がするかも知れないが、絶対に「ズルズル」と表現しない。
お蕎麦を食べる時、日本人は「ツルツル」と言う。
そうすると喉に入っていくあの麺の感触が分かる。
更に衣服と体のオノマトペ。
こんなのも日本独特。
着ている服の感覚をオノマトペで表現する。
ちょっと小さい衣服を着た時「キツキツ」「キチキチ」。
英語だと「little bit tired」とか何か言わなければ「a little」「any」とかを使わなければいけないのだろう。
日本では「あ!キチキチ!」とかアルファベットの「K」の音で何か言えば。
それと「肥満」「痩せ」。
これも全部オノマトペで表現する。
「weight over」とか、そんな理屈っぽくない。
「『ぼてっ』として」「『でっぷり』してる」「おいおい、あの子『ムチムチ』してる」
何かワクワクする。
もっと愛嬌のある言い方では「『ぽっちゃり』だよ」。
それから体の比率があまり合っていないことを「『ずんぐり』してる」という。

 肥満を表す英語を見てみると、chubby,fat,heavy,bloatedのように[b][f][v]といった唇子音や、huge,roly-poly,round,stockyのように[o][ʊ][u]といった円唇母音、abdominous,adipose,coporational,dumpy,plumpのように[om][po][mp]といった唇音がかならずといってよいほど含まれていると、田守はまず指摘する。一方、肥満を表現する日本語のオノマトペを見ても、「ぽてっ」「ぷよぷよ」「でぶっ」「でっぷり」「むちむち」「ぽちゃっ」「ぷりぷり」「ずんぐり」といった言葉には、英語とおなじく、[p][b][m]といった唇子音や「お」「う」といった母音のみならず、ほとんどに唇音が連続して含まれている。(173頁)

 逆に、肥満と反対の痩身を意味する語を調べてみると、
gangly,lank,lean,skinny,slender,spindly,thin,twiggyには[p][b][m]といった唇音があまり含まれておらず、おなじく痩身を表す日本語のオノマトペを見ても、「がりがり」「げっそり」「ぎすぎす」「ひょろっ」「すらっ」など、唇母音、唇子音を含むものはほとんどない。
(173頁)

英語は全部「s」で日本語は「s」と「g」の行で英語と共通する。
そういうのは不思議なのがある。
「太陽が『さんさん』と照る」とか。
全部「s」系で始まっているとか。
そのオノマトペが実はこの日本のマンガとかアニメにあるのではないだろうかという。
これはやっぱりハッとする。

オノマトペは内臓から生まれた言葉ではないか。
その上に日本人にはその他にも「からだ言葉」がある。
体が感情を表現している。

「からだ言葉」ということでよく例にあげられるのは、「胸が痛む」「胸が締めつけられる」「胸が張り裂けそうになる」「胸が膨らむ」とか、−中略−「腰が砕ける」「脚が棒になる」とか、「目をかける」「鼻であしらう」(180頁)

「腹を割って話す」とか「腑に落ちる」もそう。
だから「感覚」ではない。
だから中国人の方々、それも漢人の方、それから半島人であるところの朝鮮人の方々。
こういう人たちはユーラシア大陸の本当にしっかりした地盤の上に自分たちの文明、文化を広げた民族。
だからこの人たちを動かすためには強い情動が必要。
それに比べて日本人を動かすのは肌理の細かさ。
発生学「鰓が顔の表情を作る」と言った三木博士はこう言っている。
内臓の響きこそが世界への手触りである。
(本では「もはや響き≠ニ化した内臓表情」となっている)

オノマトペで小さいその子の歩き方を「よちよち」。
「『よちよち』歩いた」という。
そこから何十年の歳月を過ごして老人になると「『よたよた』歩いてた」という。
同じ「よ」でも「ち」と「た」でこれだけの年月の差を表現する。
これは面白い。
やっぱり日本人というのはそういう意味で変わった民族だと思う。
そのことをまず日本人が自覚すること。

さいとう・たかをは『ゴルゴ13』のなかで、高級ライターで火を点けるとき、それを百円ライターの「カチカチ」ではなく「シュボッ」と表現することで差異化したし(236〜237頁)

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これはいかに日本人が手触りの肌理の国民かというのが分かろうと思う。
そういう意味で挙げた中国のコウフン(「興奮」か?)、朝鮮半島の「恨(ハン)」、その対立項で日本人は「肌理」というものを最も大事にしているのではなかろうかと。
そんなことで「アジアは一つではない」と。
それぞれに住む地政学的な条件によって感性が違う。

本には存在への手触り等々一切書いておらず、武田先生の付け足し。
中国、韓国等々の話は全くこの本を読んでも出てこない。
日本のオノマトペの特性やら表現をひたすら現象学的に分析した一冊。
読むうちに中華の人とか半島の人々の感性の違いで語った方が皆さんに分かりやすいかと思いつつ三枚におろした武田先生。

posted by ひと at 14:41| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年4月10〜21日◆「ぐずぐず」の理由(前編)

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)



鷲田清一(わしだ・きよかず)
一九四九年、京都生まれ。

(武田先生と同い年)
大阪大学総学長をへて、大谷大学教授。哲学者。

「日本人とは何者か?」ということを考えているのは日本人だけらしい。
日本人だけが「日本とは?」あるいは「日本人とは何者か?」と考える。

今年、年が明けてからの半島情勢は非常にめまぐるしいものがある。
朝鮮半島は事件が多い。
二つの国が同じ民族なのだが、国が二つに分かれている。
両方ともトップオブリーダーの大騒ぎがある。
片一方の国は「世界中に迷惑をかける」ということがあの国の正義。
もう片一方の国はとにかくひっくり返る。
大統領が途中からいなくなっちゃう。
それで今、また大騒ぎが始まっている。
前から思っていたが、どうも私共は韓国あるいは朝鮮の方々とかなり違うんではないかと。
これは人種どうのではない。
」物を考える手順」が違うのではないだろうか。
韓国の方の整形手術におけるおおらかさというのは、すごく武田先生の肌に合わない。

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり(古代中国の書物・孝経)

「体に何か刺青とか手術痕を付けないのが親孝行の始めである」という。
それとはもう全然違うという。
それは何だろうかと考えた時に、一つ思ったのは半島人、朝鮮半島に住むあの二つの国の人々というのは非常に視覚的民族なのではないかと思い当たった。
そういえば「目で見えるもので訴える」というのはこの半島に住む両国共に共通したところではある。
「俺んところの国は強いんだ!」と言うと大体ロケットを打ち上げて「遠くまで飛ぶぞ」という。
そういうのを見せたがる。
「少女像」も「恨んでるぞ、お前たちのことを!」というので象徴的に少女像といのは胸に刺さる。
大変に南の方には申し訳ないのだが、何十体も作るとその銅像が象徴するものの意味というのが薄れていく。
50体以上もお作りになって、いろんな所に置くというわけなので。
あまりシンボルが増えると、ちょっとパワーがダウンするような気がする。
北の一番偉い方は非常に髪型が視覚的に個性的。
「あそこまで刈り上げなくてもいいんじゃないか」というような。
それから南の方はと言うと高校生を乗せた船が沈みかかっているのに「お肌の手入れを受けていた」というようなスキャンダルが流れて。
これを合わせると非常に視覚的。
これは我々ジャポネシアという島に住んでいるのだが、わりと日本人というのは視覚的に訴えるものが弱い。
半島人の方々が「視覚的文化」だったらば日本人、このジャポネシアに住む人たちは「触覚」ではないか。
つまり「手触り」の国民。
そんなことを考えた時に本屋で目が合った本が鷲田清一『「ぐずぐず」の理由』。
日本人というのが非常に触覚、感覚を大事にする民族で、擬態語「オノマトペ」というものを無闇に発達させてきた民族ではないのかなぁという。

水谷譲にはわかっても、外国の人に話す時は分からない。
「カリカリ」と「ガリガリ」は違う。
微妙なニュアンスが外国の方は「わからない」と言う。
「ギリギリ」と「キリキリ」は違う。
これは明らかに使い分ける。
「もうアイツとの関係も『ギリギリ』だよ」
「いやぁ、胃が『キリキリ』痛んでさ」
かくのごとく日本のオノマトペというのは非常に感覚的。
そういう意味で、この「ぐずぐず」というようなオノマトペから日本人の個性というものを三枚におろせたらというような今週。

『「ぐずぐず」の理由』は読みだすと面白いのだが「伝えるべき何かがある」というのではない。
綿菓子みたいなフワフワした手触りなのだが、読んでいくうちにだんだんそのオノマトペ、日本語の言葉の不思議さみたいなのが染み込んでくるという。

 この点に関連して、九鬼周造が興味深い指摘をしている。
 たとへばは、芳賀矢一氏が指摘していゐるやうに、すべて頭の方に位する尊ぶべきものである。
−中略−また、たとへば耳漏雪崩雨垂五月雨などの間に一見したところで存する偶然性は、すべてこれらの語が「垂れ」に還元される限り、必然的関係として現はれて来る。(15〜16頁)

さらに一例つけくわえて、襦袢とズボンも、音のまったくの偶然的な符号のようにみえるが、じつはそれぞれポルトガル語とスペイン語の語源に関係づければ必然的に帰されてしまうという。(16頁)

ジョウロ(ポルトガル語「jorro」)。
「雨、露の如し」と書いて「如雨露」。
こういうふうにして響きを整える。
これが面白い。

統合失調症を患っている中年の娘と痴呆(認知症)の父とが生活保護を受けつつ二人暮らしをしているケースである。ここで精神科医の春日武彦は、事態が臨界点まで行ってからでなければ、治療の効果は出ないと言う。(18頁)

この時、第三者の積極的な働きかけで解決するケースではないと、ほっとくしかないんだという。
これは「何か事故が起きないうちに」でも「それはほっとこう」と精神科医の先生は言った。
この時に使った言葉が「ぎりぎりまで待ちましょう」。
(という記述はなく「ぎりぎり」の例としてこの事例が取り上げられているのみ)
ぎりぎりを通過しないかぎり、人間の手では事態は動かしてはいけないと。
この「ぎりぎりまで待ちましょう」というのが非常に日本人らしい言葉使いだなと鷲田さんは仰っている。
ボーダーライン上の危うさ、人間としての軋轢、つまづけば怪我をする不安定さ。
そういう限界上の手触りを私達は擬態語で「ぎりぎり」と言う。
良い事がおこるにしろ、悪いことがおこるにしろ、そのフチまで行かないとダメという。

鷲田先生はおっしゃる。
「ぎりぎり」の「ぎ」は舌と上あごを擦れ合わせ、足の裏が地を擦る音をまねたものだ。
(という記述は本には見つからず。足の裏の感覚の話は本の中でこの後に出てくるが「ぎりぎり」の件とは無関係)
日本民族は相撲、能、舞についても足の裏で床を擦る。
擦りつける。
故に皮膚とそれに触れるものの感触が「オノマトペ」言葉になっている。
「ぎりぎり」がそう。
「ずっと徳俵まで押していかれた」という。
後は「ざらざら」「じりじり」「ずるずる」それから「ぞろぞろ」「もぞもぞ」。
これは日本人はすごい。
心理面でもそういうオノマトペがあって、決断のつかない心を「ぐずぐず」という。
なぜこれほど豊かなオノマトペが日本語に生まれたのか?
それは「皮膚の持つ感性であろう」ということ。
人間に関わるものはすぐには答えが出ない。
スカッと噛み切れず、ズルズル人間は生きていくしかない。
「それが人生なのだ」と著者は言う。
おそらくは舌の動き、舌の感覚が創り出した。
日本は舌が言葉を作る。

「な」で始まる動詞というのは、なかなかになまめかしい。
 たとえば、「舐める」「撫でる」「擦る」「なぞえる」「なずむ」というような動詞。皮膚という他者の表面に、遠慮がちに、あるいは執拗に、触れることで、相手の気を惹いたり、相手の官能を探ったり、反応をうかがったりする。
−中略−
 だれかの存在の封印を解くということ、愛撫はそのことを願っている。相手の存在の封印を解くというのは、いいかえると、相手の存在の固さをほぐすこと、ほどくこと、つまりは相手の警戒を解かせるということであり
(69頁)

故に結論として「なめる」「なでる」「なする」「なぞる」。
その結果「なまめく」「なびく」「なだめる」「なぐさめる」「なれあう」。
「な」がバーっと連続で。
これは特に上方言葉は「な」が多い。
あそこは人間が擦れ合っているから。
関西で活躍する芸人さんを見ると分かる。
人間と人間の距離が無闇に近いから友達のように寄ってくる。
東野幸治さんを「何かなれなれしい」と思う武田先生。
これは上方言葉の「な」が頻繁に使われるからこそ、我々は探られつつも固さをほぐされてしまう。
上方言葉の典型。
最初に「なあなあ」と呼びかけ、「なんなん」「なんぼ」「なんで」「なんでいかへんの」。
「なんちゅうこっちゃ」と驚き、人への提案としては「なあなあ、オマエ言うたりぃな」。
「な」を使って同意を促す。
またオノレの弱さで相手の関心を引こうとする動き、これを「なよなよ」と言うが、ちょっとなよってる。
これは「くねくね」と同じで媚態、誘惑の戦略性を関西弁、上方言葉は隠している。
オノマトペはそういえば「な」が多い。
「なんでやねん」「なんちゅうこっちゃ」
これは論理性が全然ない。
ノリ。
「どういうことなの?」と言うと固くなるが「なんちゅうこっちゃ」。
何かそれだけのこと。

人は顔面に走る筋肉で収縮、弛緩をさせて表情を作っている。
その小さな変化を決して人は見逃さない。
特に日本人は小さな収縮、小さな弛緩を見逃さず、その人の小さな顔面の動きでその人の一番奥、深い心、その真相を探ろうとする。
眉毛がわずかだけちょこっと動くと「あ、動揺してる」とか。
日本人にとってそこに浮かんだ表情を偽ることは、その人の心の深さを持つことを証明することになる。
日本人の言葉の中に「顔で笑って心で泣いて」というのがある。
凄い言葉。
顔は笑っている。
でもその人はお腹の中では、心では泣いている。
その偽ることこそが、彼の悲しみの深さを表現する。
武田先生がテレビで一回観たもの。
広島で住宅街の奥からがけ崩れがあって、80いくつのおばあちゃんが死んで、90歳ぐらいのおじいちゃんが生き残って。
インタビューのマイクを向けるとおじいちゃんが笑う。
「昨日までよう笑うておりましたからですな、もう悔いはないと思います」と軽く仰るが、手が小さく震えている。
その時に私達は、このおじいさんの想像もできないほどの深い悲しみを察することができる。
私共は笑顔で悲しみを語る人に胸をつかれて、その人の心の深さを・・・。
心の内側にもう一つ、別の思いを隠している。
その思いこそが本当のためには顔は別の表情を浮かべなければならないという。

芥川龍之介の『手巾(ハンカチ)』

武田先生がとある方とすれ違って、物陰に入ったらその人が遠ざかったものだと思って大きい声で「今、通り過ぎた小さいおじさん、武田鉄矢?」という。
その人とまたエレベーターの前で一緒になったので、会釈しながら「小さいおじさんです」と言いながら。

日本語の素晴らしい語彙表現の広さ。
「にこり」と「にやり」。
「にんまり」と「にこにこ」。
「にやにや」と「にたにた」。
「にやにや」は思わす良い事があって「先回りの笑顔」。
「にたにた」っていうのは道徳的に許されない、何か「隠した思い」みたいなもの。
「にやにや」はやっぱり「将来の設計を考えると思わず上手くいきそうで『にやにや』した」という。
「にたにた」はスケベっぽい感じがする。
「昨日のあの子の胸元が見えた」というような。
「にこり」「にやり」「にんまり」「にこにこ」「にやにや」「にたにた」を全部使い分ける。

武田先生の私論。
この言葉の差異というのは韓国の方にはほとんど拾ってもらえないのではないだろうか。
美容整形の盛んな国は、やっぱり顔をいじるわけだから別の表情を盛りつける。
盛りつけられた表情はその本人の心を浮かべることはない。
美容整形をやって「顔が動かなくなった」と嘆く女優さんと一回すれ違ったことがある武田先生。
我々はそれで商売しているから、顔が動かないというのは困ったものだ。

「にこり」と「にやり」は違うということを分ける日本人の笑顔の読み方というのは凄く深いというか、種類が多い。
だから笑顔は喜びや親しみの表現だけではなくて、悲しみを隠す衣でもあるということが日本ではある。
これらはやっぱり半島人の方には、かなり理解されないことではなかろうかと我々はやっぱり覚悟すべきで、そのことを踏まえて両国の関係を見つめなければならないのではないのか。
そういえば前の大統領もピンチに追い込まれてもすごく落ち着いてらっしゃった。
クールだった。
あの安倍首相の動揺に比べると非常に少ない。
安倍さんははっきり浮かぶ。
質問に対して「失礼じゃないですか!」と言うのだから。
それから◯◯防衛大臣もはっきりわかる。

九州のある都市に大集団の中国観光旅行団が押し寄せた。
これは、その町にとっては人口が減りつつある都市なのでもう大喜び。
その都市が観光スポットNo.1に挙げたのは、その街の中華街。
これはもう特に有名で。
この街の中華街は戦前、上海・福建省の中国人の方が渡ってきて作ったという。
ところが、この戦前から上海・福建省からやってきた中国人の方々の中華街が中華観光客に向かって数か月も経たないうちに店の前に貼り紙を貼った。
これは東京では放送されないのだが、何と貼られたか?
「中国人立ち入り禁止」
それはトイレのマナーが悪いということで。
これは、この街以外に上海と福建省で大問題になった。
「失礼な!」と。
「トイレの使い方が悪いとか、文句ばっかり、サービス業のくせに言いやがって!」
しかも中国の方が怒ったのは「オマエら戦前まで中国人だったじゃねぇか!何が立ち入り禁止だ!」。
これはローカルで大変な話題になった。
何でこの中国人同士の対立が始まったか?
これがまた「オノマトペ」。

戦前のこと、上海や福建省から渡ってきた中国の苦労人の方々が繁盛させた中華街がローカルにあった。
九州は中国大旅行団が押し寄せる島。
お店を経営してらっしゃるのは中国の方だから、ここが中国の方が一番リラックスできる。
そこの街の行政はそこを観光スポットにした。
ところがそこの中華街は店の前に堂々と「中国人立ち入り禁止」と書いた。
これで揉めるだけ揉めて、本国の中国、上海で新聞で取り上げられて大問題になったらしい。
日本で全然報道されていないが。
これがまた切ない話だが、日本の行政機関が県の役人さんが間に入って「何とか考えてくださよ」と中華料理店を説得した。
「何でそんなに中国の観光客の方を嫌うんですか?」と聞いたら「トイレを『べちゃべちゃ』にする」。
ここでもまたオノマトペ。
ところが中国の方は人種的には「漢人」。
漢人の反論はというと「トイレは水で洗い流すとこじゃねぇか」。
向こうのトイレは石造りで、バーン!と水で清掃する所。
石造のトイレの多い中国では便器に水をかけ、外へ洗い流す。
これがトイレの清掃方法。
だからベチャベチャになるのは当然。
ところが日本人(日本で暮らしてらっしゃる中国の方)はこのベチャベチャをものすごく嫌う。
スリッパを脱ぐところまで綺麗な絨毯で、とかしてあるワケだから。
かくのごとくベチャベチャを嫌うが、その他にもオノマトペで「ネチャネチャ」。
「ベチャベチャ」の次に嫌いなのが「ネチャネチャ」。
そして「ネバネバ」している、「ベトベト」している、「ヌルヌル」している。
日本人はこういうものをすごく嫌う。
これはなぜかと言うと、気候から考えて日本は高温多湿だから。
必要以上に湿り気が多いと、細菌の発生を招くことへの恐怖感がある。
ところが漢人の方はと言うと、半分砂漠。
非常に乾いた大地で過ごしてらっしゃる。
だからベチャベチャというのがあまり不愉快ではない。
「わお!湿っぽーい!」みたいな。
結局真ん中に日本の方の行政官が苦労して入って「条件付きで歓迎する」という流れでやっと落ち着いたようだ。
これは「別トイレ」と「別ルーム」。
国のどうのじゃないが、かくのごとく分けるところが最近多い。
「朝食会場、中国の方はこちらへ」という。
それはどうのじゃなく、朝から「ワーッ」と陽気にペチャクチャやるのが大好きな中国の方と、ペチャクチャを嫌うというそういうのの不快の量りが全然違う。
そうやって考えるとやっぱりやむないことかなぁと思う。
湿りっ気が多いことを嫌うオノマトペが、恋人同士の囁き合いだって「何だあんのやろ!ひっついたり離れたり『ベタベタ』しやがって!」とか。
「ベタベタ」を嫌うのだから。
「オマエ英語で言ってみろ!」という。
「べちゃべちゃ」「ぺちゃくちゃ」「ねばねが」「べとべと」「ぬるぬる」
英語も懸命にオノマトペを探している。
このあたり、なかなか「オノマトペ」が面白いところ。
今は「笑顔の違い」、それから「湿りっ気に対する恐怖の度合いの違い」を語ってみた。
「だから韓国の方は」「だから中国の方は」と言っているのではない。
余りにも「アジアは一つ」とまとめてしまう方が危険で。
中国の方と我々は感性が違うんだ、韓国の方とも違うんだっていうことを踏まえて同じところを見つけるという、このセンスというのは大事じゃないかなぁと思う武田先生。

いっぱい不思議を感じる。
中国風ライオン(獅子)を二匹、中華料理店の前に置いてある。
我慢できないのは二匹が同じ顔をしている。
日本は「阿吽」と言って表情が違う。
中国は同じ。
かくのごとく違う。

posted by ひと at 14:34| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする