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2019年01月14日

2018年9月24日〜10月5日◆感情的になるなよ(後編)

これの続きです。

重大なことはまず情動、感情が動くこと。
その「情動」が価値に変化を与える。

先週は印象派の絵に関して。
「キリストを描け」「ギリシャの神話を描け」と西洋絵画が流れてきて。
ところがお茶をフランスか何かに配達する時に緩衝剤、詰め物。
それに浮世絵が入っていた。
お茶を販売する時の「包み紙」だった。
ところがその包み紙を広げて「美しい」と感情を動かしたフランス人がいて、これがパリで大ブームを呼ぶ。
それがジャポニズムのスタート。
ヨーロッパ、とくにフランスの画壇が揺れるほどの衝撃が北斎から始まった。
雨がバーッと降っている中、橋の上を頭を押さえて人が走っている(歌川広重『名所江戸百景・大はし あたけの夕立』 )とか。
紙か何か持った人の紙がビラビラと風に舞っている(葛飾北斎『富嶽三十六景・駿洲江尻』)とか。
本当にそういう意味では「意味がない」。
ところがそれを見たフランスのアーティストたちは「見たまま描いていいんだ、オレたちは」「絵の中に意味なんか無理やりこめるんじゃない」「見たまま描いてその中に感情がこもっていれば、これはアートなんだ」。
ジャポニズムから新しい美術運動が興った、という。
これがこの著者の言葉の通り。
「重大なことはまず感情が動くこと。その感情、情動が価値へ変化を与える。それは大きく価値判断の体系の再編成をしてくれるものだ」という。
高みへ登ろうとする時、情動、感情が動かない限り階段を上ることはできない、という。

この「情動」「感情」というヤツはまた同じ力で人を階段から突き落とすこともあるという。
これは「悲劇的ディレンマ」と呼ばれている。
ある努力をした。
それは懸命な努力であった。
もう今年の夏に、もう本当に。
一生懸命、家を建てた。
ところが突然やってきた。
日本は災害が多い。
嵐、そして火山、爆発等々、大地の揺れ等々で、それが倒壊して壊れてしまった。
そのことで犠牲者が出た。
大変だった。
その「悲劇的ディレンマ」を文学作品として描いたのがウィリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』。

ソフィーの選択 (字幕版)



 ウィリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』のなかで、幼い息子と娘とともにナチスによってアウシュビッツに送り込まれたソフィーは、ガス室行きかどうかの選別を行う親衛隊軍医から、恐るべき選択の「特権」を与えられる。二人の子供のうち、一人は助けてやるから、どちらを助けるかを選べ、というのだ。選べない、とソフィーが泣き叫ぶと、選ばなければ、二人ともガス室に送るぞ、と軍医は選択を迫る。それでも、選べない、とソフィーが言うと、軍医は、二人ともあっちへやれ、と部下に命じる。そのとき、ソフィーはとっさに娘を投げ出して、この子を連れていって、と叫ぶ。(101頁)

これは軍医が考えた悪魔的苦痛の与え方だったという。
しかし、ソフィーは錯乱と極限の苦痛を味わいながらも、サバイバーズ・ギルトに耐えるという。
(番組内で「ギルド」と言ったようだが「ギルト」)
「生きるための罪」というのを背負い込む、ということ。
その悪魔的選択を正気で続けることが彼女が悪魔のような軍医に立ち向かう、ただ一つの選択であったという。
「苦しもう」と。
そう決心した時に彼女の情動がピタリと静まった。
やるかやらないかで悩むよりも、この苦しみを引き受けて苦しむ。
「そういう人生を私は選ぼう」と思った瞬間、彼女の情動は動かなくなった、という。
これはすごい。

65歳から「人生最後の武道修行」だと思って合気道を習っている武田先生。
ちょっと自慢だが二段になった。
真剣に教えてくださる教授方がいらっしゃる。
この合気道は何が面白いかというと言っていることがトンチンカン。
水谷譲の息子も合気道をやっている。
やればやるほど不思議な武道。
そういう意味では問題の多いボクシング、柔道。
アジア大会で韓国の人が怒ってもめていた。
それからさっぱり勝てなかったレスリング。
相手に接触しながら相手をやっつけるという、武道ではないにしても体術の競技がある。
ところが合気道は実践じゃなく「型」修行で見取り稽古。
お師匠さんが見せてくれるその技を、自分がどれほどスムーズにできるかという。
練習場に行くと先生が見本を見せてくれる。
それを同門の人に頭を下げて「お願いします」と言って、四本掛けて四本掛けられてワンセット。
それを許可が出るまで繰り返す、という。
いわゆる「かたち」を稽古する。
ここに不思議な鉄則があって有段者は相手の人を怪我させちゃいけない。
ここが不思議。
勝ち負けがない。
技的には相手の手首を折り肘を割り肩を抜く、という。
武道なので「相手の骨なんか折っちゃうぞ」という技で。
でも稽古の時に先生から無闇に言われるのは「絶対に怪我させるな」「稽古の途中で怪我をさせたら、それは合気道じゃない」。
武田先生の道場はなかなか厳しくて、壁にぶつかったりすると優しい先生が「しっかり見てないからだ!」とか言われてしまう。
ちょっと怖い。
この「相手に怪我をさせない」。
これはどうも合気道をお作りになった植芝盛平さんという大先生がいらっしゃるのだが、この方が「合気道は相手を愛する武道だ」という。
柔道もレスリングもボクシングも全部相手を倒すため。
ところが合気道は敵と仮定するものに対して、手首、腕、肩を逆に取り、打ち負かすポジションを取りながら「傷つけない」という情動を感情をキープしなさい、という。
これはソフィーではないが、かなりのジレンマ。
しかしうちの先生はいいことを言うのだが「このジレンマのうちに、技そのものが柔らかくなるんだ」と。
先生の口真似をすると「強いっていうことは固いことじゃないですよ。強いってのは太いってことじゃないですよ。強いってのは重いってことじゃないですよ。強いってのはね、柔らかいことです。勝てないんですよ、柔らかい人には」と。
「丈夫かもしれんが、嵐が来ると折れたりします。折れない木は何か?柳です。吹かれちゃうんですよ。合気道は押してくる人には押されるんです。引っ張る人には引っ張られるんです。そのわずかな差から生まれてくる技。それが合気道なんです。だから『合気道』なんです。『気』を合わせるんですよ」
そこにこの武道の本質がある、という。
柔らかさはジレンマに自ら飛び込むことによってしか醸成されない。
醸すことはできない。
特に力んでしまうタイプの武田先生はそればかり言われる。
肩から力を抜くのがいかに難しいか。
四年やってもまだ抜けない。
やっぱり「肩から力を抜きなさい」と実際やるとなったら難しい。

いくら償っても、けっして赦しえない悪、許すことが正当にはなりえない悪も存在するだろう。(120頁)

連続殺人とか、お年寄りを、とか。
体の不自由な方を、とかっていう人たちに対して。
我々はその悪に対して「許しがたい」と思ってしまうのだが、「許しがたい」ともう一つ「それでも許さねば」というジレンマにあえて自らを置きましょう、と。
そこでしか柔らかさは醸成されない、醸すことができません、という。
こういうことをこの本の方では言っている。
それで合気道の先生の言っていることを思い出した。
『ソフィーの選択』のソフィー。
ソフィーと軍医の関係は「二人称の道徳」だ。
歪みは権利の偽造からソフィーに殺人について関与させ、ユダヤ人のどちらかを殺す資格を与えて、拒否すればどちらも殺すという矛盾にソフィーを突き落とし苦しませた。
ソフィーは軍人に対し憎しみ、ゲシュタポは憎まれるということによって苦しむソフィーを面白がるのである、と。
残酷なもの。
今もある「残忍な加害者」と「傷の癒えない被害者」という、こういう二人の関係があるとすれば、我々はどうすればいいんだと言うと情動的には「三人称を求めるんだ」。

今年(2018年)もスポーツ界の揉めごとがいくつもあって。
でもジイッと見ると全部配役が似ている。
加害者の人はみんな太っている。
みんな似たようなキャラ。
そういう人たちとの対立があるのだが、その対立を「三人称で眺めていこう」と。
三つの事件とも落とし方が全部同じ。
第三者委員会。
これがこの著者の言うところの「三人称で語りませんか」と。
ここからまた変わったところに問題は入っていく。

人と対立する。
「言った」「言わない」の問題なのだが、著者は二人の関係の二人称の道徳から脱出する。
三人称の道徳にしてしまえ。
客観的な人物をそこに置け、と。

三人称的になってしまった道徳はもはや私たちが実践している道徳とは言えないだろう。(159頁)

この言い切りは何だろうか?

自分の情動を洗練する。
これは不思議な言葉。
武田先生には意味がわからないが本に書いてあったので著者の方は武田先生が読み間違えていたなら抗議のハガキをください。
(本を読んでみたが、それらしい文章が発見できなかったので、ぜひハガキを!)
文章がこうあった。
自分の情動を洗練するためには、自分の心を見つめないことだ。
自分の価値的状況を他人に教えてもらう関係を取り結ぶことである。
(本の中には「自分の情動がどのようなものかを理解することを他人に委託してもかまわないのだろうか。明らかにそうではないだろう」とある)

春から続いた大学構内での揉めごと。
それからボクシングで起こったこと。
それからナショナルトレーニングセンターで起こったこと。
等々あるが。
自分の心を全部言うとものすごい傷つけ合い方になる。
そういうことを著者は言っているのだろうか。
つまり「自分の心のままに語ってはならないんだ」と。
「自分の情動がいかなものかというのは、他人に教えてもらう関係を取り結ぶことが、その対立している人との関係を何とか切り抜ける方法である」という。

感情を情動と呼ぶというこの本の著者の如く、哲学用語というのは時々面白い言葉を使うもので「こんな言葉、本当にあるんだ」と思った武田先生。
今、日本で一番多い労働者。
どんな労働に従事しているかというと「感情労働」。
いわゆる「サービス業」のこと。
哲学で言うと感情労働。
まあ、第三次産業。
武田先生は「芸能」、水谷譲は「メディア」の方の、そういうポジションにいて感情労働をしている。
つまり自分の感情ではなく職業の感情で生計を立てている。
水谷譲は自分の感情ではなく職業の感情で「こんなジジイと話したくもねぇよ」と思いながら「理屈っぽーい!このクソジジイ!」「まだ喋ってるコイツ」。
我慢して「ふんふん。なるほどー」とかという、そういう感情労働。

 今日では、接客業に従事する人たちだけではなく、医師もまた、聖職者や教師などとならんで、感情労働に従事する人とみなされる。(169頁)

自分の情動をそのまま患者に伝えることは職業倫理として許されない。
「あと一か月だね」
その真実を言うか言わないか。
職業倫理として自分の感情に走ることは許されない、という。
告知なら告知でタイミング等々を図らなければならない、という。

有用なサービスであっても、それが感情労働であるかぎり、不適切な情動を抱かなければならないが、そのような情動を抱く必要があるのは、顧客の優越性の承認欲求を満たすためである。(175〜176頁)

「うるせぇ客だなぁ」と腹の中で思いながらも「とんでもございません、お客様」とかと。
だからそのお客が目の前で何か抗議しているのだったら、その優越性に関して自分は感情を抑え込む。
情動を抑えて屈しなければならない。
屈するところから職業が始まる。
そういう意味では「優越性を承認しなければならない」という。

ちょうどこれをやっている時にその手の問題があった。
大韓航空やアシアナ航空の社長や親族は、その社員に対して強く優越性を強制した。
これは大韓航空どころではない。
日本のスポーツ界にも一番偉い方がこの優越性をなさる。

生きるために自分を卑下して、客の優越性を承認しなければならない。(177頁)

ストレス、苦痛を訴える人が非常に多い。
これは自分の情動を不明瞭にすることの苦痛だ、という。
「ワーッ!」と言いたくなることがある。

元キャビンアテンダントの健康社会学者の河合薫さん
CAさんは感情労働者の典型。
ムカッ腹立つこともあるだろう。
コジマ君というスタッフと福岡へ行く武田先生。
コジマ君は態度がデカい。
「新聞いりませんか?」と来る時にケンモホロロの返事をするヤツがいる。
「え?」という。
態度のデカいヤツ。
ちらっとキャビンアテンダントを見る武田先生。
腹の中は「この野郎!」と思っているのではないか。
あるテレビ番組で、話をツッコむお笑いの人がいた。
「お客さんから電話番号もらったりすることないんですか?」
受け取るのは受け取るそうだ。
その場で突っ返したりは絶対しない、という。
だからやっぱり彼らは感情労働で抑えている。
普通の道で会ったら「何するんですか!」と目の前で破られちゃうと思うが、機内ではスチュワーデスの、CAのちゃんと制服を着てらっしゃるから、自分の情動を抑えるのだろうが。
そういう非常にストレスの多い優越性の下に屈服している彼女たち。
あるテレビ番組で、バラエティのツッコみの失礼な質問に答えながら、彼女たちが生き生きと語りだした勤務実態があった。
彼女たちが何が生き生き話しているかというと、CAさんというのは「待機」という任務がある。
「待機」というのを会社から命令されると、彼女たちは制服を着てメイクを済ませて二時間でその飛行機へ搭乗できる宿で待つ。
宿か自宅、住まいで待つ。
「もしかすると」と思ったのだが、その「待機」という緊張が彼女たちの価値的状況を作っているのではないか?
これはあまりふさわしくないかも知れない。
フッとそんな気がした武田先生。
消防士の人がいる。
彼らがジャン!と鳴ったら飛び出して行くが、彼らが最も消防士としてプライドを持っている時間は何か?と思ったら、「待機の時間」だと思う武田先生。
消防署でベッドに横になって「待機」というか眠っている時、ウーン!と鳴ったらブワーッと着替えて鉄柱にぶら下がって下にストーンと。
一種あの「待機」はプライドを保持してくれるのではないか?
「無駄に寝てるんじゃない」という。
寝ている時も「俺たちは準備してるんだ」という。
その緊張というのが、実は職業に対して深い意味を感じさせ、情動を強く刺激しているのではないか?
二時間以内に行ける場所で待機を命じられたCAさんはメイクと制服を着てジイッと待つ。
本を読んでももちろんいいのだが。
でもその時に「仕事が待っているかもしれない」という「待機」というのは一種「張りつめたものを張ったまま、普段通りに過ごす自分」というので全部タガが緩んじゃった人よりも遥かに情動に一本筋が通っていると思う。
「情動」を刺激しているのではないか?
こういうことはもの凄く人間をある意味で動かしているのではないかと思う武田先生の勘。

喜び、充実、やる気、注目などは情動として好ましく、私を弾ませる「正の情動」である、感情である。

悲しみ、憎悪、嫉妬、罪悪感のような好ましくない情動に満ち溢れた人生は、非常に不幸であろう。−中略−好ましくないものは負の情動と呼ばれる。−中略−おおまかに言えば、正の価をもつ情動が多いほど、人生は幸福であり、負の価をもつ情動が多いほど人生は不幸であろう。情動価は人生の幸不幸と深い関係がある。(191〜192頁)

だから正の情動で日々を満たせば人は幸せになれるのか?
そう限らないのが人間なのだ、と。
「先輩の○○さんはあの時も笑顔でおられた」とかっていう、そういうこの「マイナスをプラスに変えていく」という情動がある限り、いつも正の情動で満たされるよりも、時として屈辱的なことが彼女たちの正の情動を刺激するんじゃないか?と

情動哲学者のプリンツ。
情動価値「感情が決めた値段というのは意識では動かせない」という。
(本に登場するのは「情動価」で、プリンツは内的強化子説を主張しているが「感情が決めた値段」といった話ではない)
そう思っちゃったらもう情動は動かない。

ワールドカップでの勝敗を見て感じたこと。
韓国と日本を比べる。
情動に差があるような気がする。
一勝二敗と一勝一敗一引き分け。
これはほとんど韓国と日本は差がない。
ところが帰国した選手団に関して迎え撃つサッカーファンの感情は天地の差があった。
0.5しか違わないが。
韓国は例の飛行場に降りた瞬間に生卵が。
日本は成田に帰った選手団に拍手喝采。
これは情動価値の差。
決勝に進んだ日本がベルギーに敗れた。
これも負けた。
ところが日本人は3対2、一点差で負けたことに関して正の情動で引き受けた。
韓国はというと、韓国はすごい。
2敗の後のドイツ戦で2−0で勝っている。
ドイツは前の大会で優勝したところ。
これを韓国の人たちは負の情動として受け止めて「生卵」になるワケだから。
喝采と生卵の、その出迎え。
ここに両国の情動価値の差があるような気がする。
あの選手を見ると腹が立ったのだろう。
韓国の人は負で捉えたその情動は動かない。

本著は負の価値的あり方を表層する情動能力が実は負けでありながら、正の動機づけとして捉える人間の奇妙さを説明している。

日本人は何で負けを感激するのか?
武田流の解釈。
それは自然災害。
日本列島は本当に時々可哀想になる。
今年(2018年)は9月になってもダラダラ一週間おきに(台風が)来やがって「ずっとまっすぐ行け!」と思ってしまったり。
それが必ず日本に。
天気予報の台風の進路を見ていると、まるで日本は朝鮮半島の人たちのために海に置かれた台風がぶつかってくる「壁」のよう。
台風だけではない。
今年の夏の初めは関西方面で地震もあった。
それから火山活動もあった。
いろんな山から煙が上がって。
自然災害の火、水、大地の不幸。
何と日本は全世界の半分くらいをこの小さなエリアで受けている。
我々はそういう非常に不幸の多いプレートの上に乗っかった列島に宿命として生きている。
感情として負の情動は「日常」。
もうあの天気予報の方の口ぶりを聞いていてもわかるが、不幸を予言することが予報。
あの人たちはいいことは決して言わない。
時々腹が立つ時があるが。
日本人は「不幸が起こる」ということに関して発想が違って「不幸が起こればその次はいいことが起きる」という。
そういう発想を日本人は持っている。
水谷譲もお子さんに体験させたことがある。
お正月に獅子舞がやってくると泣いている子供を捕まえて「噛んでもらいなさい!噛んでもらいなさい!」。
あれが負の情動の予祝。
「獅子に元旦噛まれると、もう噛まれることはない」という。
仮定で獅子に噛まれておくと、本当に噛まれることはない。
つまりすべての出来事は負から始まる。
つまづいた、負けた、屈辱的な目に遭った。
そのことによって日本はその次に勝つ。
正の情動を手に入れた。

たまに「今、幸せすぎて怖い」みたいなことを聞いて、それがわかる水谷譲。
つまりこれは獅子に噛まれることと同じで「不幸を予感することによって、幸せの方角を」。
日本人の発想。
台風が来ても地震が来ても頑張って生きていきましょう。

posted by ひと at 10:44| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年9月24日〜10月5日◆感情的になるなよ(前編)

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味



 本書では基本的に「感情」という言葉ではなく、「情動」という言葉を用いる。−中略−あえて「情動」という言葉を選んだのは、無数の名もなき情動たちをそこに含めたかったからである。(はじめに)

今の世の中、「感情」はあまり値段が高くない。
感情的になってしまって損をこいている。
けつまづく人が何人もいる。
「オレが金メダル獲らせたんやー!」から始まって
ボクシング:山根会長 村田に「生意気だよ!1人でメダルを獲る力ない」TV発言(スポニチ) - 毎日新聞
「彼女、全部嘘言ってるなー」
塚原副会長、宮川の告発を全否定「なぜあんな嘘を言うのか」/体操 - スポーツ - SANSPO.COM(サンスポ)
あとで前言を訂正なさるが。
その感情的な一言をマスメディアがあげつらって、その人を突き落す、という。
これはもう今、メディアはこのやり方を必ずする。
大勢でバーッと囲まれてウワーッと言われたら「全部嘘ですよー!」や「オレが獲らせたんやー!」というのも言ってしまうかもしれない。
「感情」あるいは「感情的」とは、人を過ちに招きよせる誘導灯のような、そういう語られ方。
理性の反対語に情動、感情という言葉があるように思ってください。

人に暴力を振るった。
犯罪に手を染める。
あるいは恋に落ちること。
しばしばそういうことを私たちは「一時の感情に押し流されて」とか「ついカッとなって」などと表現し、ネットの炎上などに見られる集団的熱狂、集団的憎悪など、そういうものに火をつける火力は人間の持つ「感情」である、と。
だから人は感情ではなく理性でふるまわなければ危うい、と。
これが普通の考え方。

 一見、情動を排して、純粋に理性のみに基づいて生きていけば、私たちは過ちのない幸福な人生を送ることができるようにみえる。−中略−しかしじっさいにはそうではないのである。情動がなければ、たとえ理性が健常でもまっとうな人生を送ることはできない。(はじめに)

私たちの理性は情動のお膳立てを必要とし、単独ではほとんど何もできないのである。(はじめに)

実は理性は感情(情動)の補佐役に過ぎない。
こういう哲学。

 VM患者は脳の前頭前野の腹内側部に損傷を負った患者である。彼らは知的な能力には問題がないが、情動が鈍化しており、何事につけてもほとんど情動を抱くことがない。それゆえ、彼らはまさに情動ぬきに理性のみで生きる人と言ってよさそうである。しかし、彼らの人生は悲惨である。彼らは意思決定に大きな問題を抱えており、ごく簡単なことでさえ、あれこれ些末なことを延々と考えるばかりで、なかなか決断できない。(はじめに)

 理性は情動能力を鍛えて、そもそも誤った情動ができるだけ生み出されないようにすることができる。(はじめに)

しかし、私たちを突き動かしているのは「感情」。
感情がまずある。
その感情を頭に一回送って「こうしよう」と決定する。
その最初の感情に自分で気づかない。
ただ、頭の中に「イヤぁ〜」みたいな呻き声みたいなのが「うわーん」と響く。
「人はまず情動」「感情から動く」という。
これはちょっと面白い。

何でこの本に惹かれたのかがわからないが、この手の言葉を捕まえておくと芋づるみたいに「ネタが根で結ばれている」という直感がある武田先生。
このまとめのノートの最初の方に書いている。
「この一冊はあるいは私が知りたいと思っていることと違うかも知れない。しかしとにかく、丁寧に読んで情動を探ろうと思う」

 魅惑感や渇望感などを情動に含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。−中略−ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」とよぶことにしたい。(6頁)

「感情」がある。
その「感情」が価値を呼ぶ。
どういうことかと言うと、楽しければ「もっと楽しみたい」と思う。
「美しい」と自分が感じたならば、その美しさを「なんとか自分の手に」とか。
嫌悪だったら「顔も見たかねぇや!」というような価値的性質を感情は帯びる、と。
これは不思議な物の言い方。
哲学者の人はこういう言い方をする。
「見る」「聞く」「触れる」は感覚器によるが、心で感じて心にたち現れる価値的性質が情動なのである。
見るとか聞くとか触るとかというのは感覚がある。
でも心で感じていることは頭の中に湧くが感覚器はない。
「何か今日、つらいなー」とか「何か今日、うっとうしいなー」とか。
いくら考えても答えが出てこない。
原因、理由はわからない。
カーッとなって怒った時も「何でいつもよりこんなに腹が立つんだろう」という。
「腹の虫が治まらない」ということがある。
自分の内側に他の者がいて、ソイツと自分のコミュニケーションが取れていなくて気分だけが残っている、とか。
女の子が二人歩いている。
「右の子、好みだなー」と思ったとする。
左の子と比べて「何が好みか」は言えない。
「好み」は「好み」だから言えない。
「見る」「聞く」「触れる」に関しては比べられるが「感じること」に関しては感じてしまったまんまで、さっきの「ぼんやりうっとうしい」と同じように、何で好みかもうまく言えない。
そういう広い感情の動きを「情動」と呼ぼう、と言っている。
「情けが動く」と。

 情動には特有の感覚器官がない。(7頁)

しかも喜怒哀楽ばかりではない。
魅惑や渇望という情動も心理に出現させる。
さっき言ったように「好みのタイプ!」という心のざわめきみたいなヤツは心理に現れて自分を突き動かすのだが、それがどこからやってきたのかうまく説明できない、という。

有名な情動のジェームズ=ランゲ説によれば、私たちは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである(9頁)

これは不思議。
つまり理性で捉えて「悲しい」と感じたから泣くのではない。
ハッと気がつくと泣いている。
それでその情動に対して理性が「あれ?オレ悲しいんだ」と。
こういうことは人間にある。
「情動を注意深く見よう」と。

情動に身体的反応の感受が含まれるとしても、それはあくまでも身体的反応の感受であって、事物の価値的性質の感受ではない。(10頁)

若い女の人が泣いている。
「あ、この人は悲しいから泣いてるんだ」と思うと「君は甘いよ」と。
女は悲しくなくても涙を流すことがある。
つまり、泣いてその姿を人に見せるという行動に打って出る時がある。
「アタシ傷ついたの・・・」なんて何回も言われた武田先生。

私たちが目覚めている間中、ずっと情動は生じている。(はじめに)

考えると不思議。
若い女性が頬に涙を流している。
「あ、この人は悲しんでいるんだ」と思いつつも、その涙というのは悲しく見せるための演技ではないかと疑う。
この「疑う」こともまた「情動」「感情」。
結局その涙が「価値的性質」、何のために流され、どんな価値が値打ちがあるのかということを分かった時、涙のみを「悲しい」とイコールで結べない、という。
「泣いたら勝てるかな?」みたいなことはあるんじゃないかと思う水谷譲。
昔、とある女性に教えてもらったことがある武田先生。
女の人は被害者に回り込む。
やっぱり被害者の方が得。

女性という生き物はよく見ていると本当に不思議。
武田先生の恋愛時代の体験。
綺麗な女の人がいる。
仲良くなる。
必ずすっぴんで来る。
化粧をしたその人の顔が好きなのだが。
若い時には「好きだ」というのは目が「闇夜のタヌキ」みたいに光るタイプなので、女の人から読みやすいのだろう。
ちょっと武田先生に興味のある女の人は必ずすっぴんで来る。
それがずっと謎だった。
武田先生の偉い所は若いとき持った疑問をずっと持ち続けているというところ。
女の人は化けるためにメイクをする。
メイクは美しく見せるためではない。
自分を隠すため。
男というのは隠そうとしているものを見たがる。
「絶対に開けないでください」といったら絶対に開ける。
「絶対に見ないでください」といったら絶対に見にいく。
「絶対に触らないでください」といったら触りにいく。
男はそういうもの。
女の人というのは隠すことが本質。
バーッと男が入ってきて「イヤ!」とか言いながら股間と胸に手を当てるから男は「フフフ・・・お嬢さん」とか言う。
でもあれはバッ!と両手を広げてみる。
バァン!と広げる鳥がいる。
あれをやったら男が怯えてバァン!と扉を閉める。
男は隠されているものに関して興味がある。
スカートを「よくあんなもん履きながら風の中、歩けるね?」といつも思う武田先生。
スカートは何に似ているかというと「マジックショーのカーテン」。
手品師が箱に布きれをかぶせる。
「1、2、3」とかと言いながら。
スカートというのはマジックにかぶせた布きれ。
スカートの中はマジック。
男は見たがる。
でもネタは絶対にバラしちゃいけない。
しっかり閉じていないと。
男の情動というのは隠されたものに対して動く。
(著者の)信原さんがしきりにおっしゃっているのは「情動は価値に対して動く」と。
「価値」というのは「この人は好きなタイプだなぁ」とか「この人は嫌いなタイプだなぁ」とか。
情動はそっち。
「その価値に向かって動く」ということ。

人間の感情。
その感情の不思議さみたいなものを。
昨今、感情というのがいろんなところで混乱している。
人間の感情。
情動の混乱。
例えば殺人事件から動機が消えたり、思わず目をそむけたくなるが若いお母さんがわが子を、とか。
老夫婦が殺し合う、とかという。
件数としては日本はすごく平和の方に流れているが「情動」「感情」の掴めない人たちがけっこういる。
そういう人たちに対して、その人が表現できない感情とは、情動とは一体何か?
深く考えないとダメ。
トップニュースの文字だけで世界は割り切れるものではないと近頃思うようになった。

いろんな人がニュース解説をやったり世界のことを説明してくれる。
そんな情報はスマートフォンも含めて、山ほど世の中にあふれている。
でもよく見つめると全然わからない。

「北斎が印象派に与えた影響」という、その手の本も読んでいる武田先生。
例えば葛飾北斎が描いたお相撲さんの一筆書き(「一筆書きというのが何を指しているのかは不明だが『北斎漫画』十一編を指していると思われる)で「お相撲さんが腰に手を当てて休んでいる」とかを印象派の人たちの絵の中に探すとドガのバレー(エドガー・ドガ『踊り子たち、ピンクと緑』)。
あれは腰の角度から全く同じ。
それからお相撲さんがタライのお風呂か何かで体を洗っている。
それが印象派の『たらいで背を洗う女』という。
構図が全く一緒。
それからモネの『ポプラ並木』(クロード・モネ『陽を浴びるポプラ並木』)。
ポプラ並木が並んでいて藁の小積みというかあれが畑の中にたっている。
あれが北斎の農村風景(葛飾北斎『冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷』)と全く同じ。
木が何本も立っていて、という。
それを上野の美術館でやったから見に行った。
(国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」かと思われる)
葛飾北斎とそれから浮世絵。
「ジャポニズム」と言って浮世絵がゴッホなんかにも巨大な影響を与えた。
『ひまわり』とか『アヤメ』とかがある。
それから『タンギー爺さん』は後ろ側にゴッホが浮世絵を描いてる。
すごい影響。
モネもアレだしドガも。
みんな。
何でマネしたのか?
いわゆる彼らの「情動」が「感情」が動いた。
でも何で?
その「価値的意味」。
彼らは何の価値を見出したのか?
考えてみたら本当に不思議。
マネをするというのは、よほど強い感情。
そこから印象派が生まれてきて、あれだけの美術史の大革命になった。
「これ何でだ?」というのが不思議で仕方がない。
北斎の何に惹かれたのか?
セザンヌなんかも白状しないが、そうらしい。
ボォン!と故郷の山を描いたのは北斎の『赤富士』(葛飾北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』)をマネした。
赤富士を見てセザンヌが「スッゲェ!」と思う。
かんざしをいっぱい差した芸者さんの浮世絵を見てゴッホが「スッゲェ!」と思う。
北斎が描いた花の絵を見てゴッホが「オレも花、描こう!」と思う。
何でそう思うのか?
(おそらく「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」へ)奥様とお嬢さんと三人で行った武田先生。
「(印象派の画家たちが)北斎のどこに惹かれたんだ?」と。
富士山が奥側に見えて、波がこうバアッと渦巻いているヤツがある。
あんな波が来たら死んじゃう。
あれはオーバーに描いている。
「あれでひっくり返った」という。
美術の本にも理由は書いていない。
今、『たゆとうけど沈まず』という日本の版画の売買をやった人とゴッホの物語を読んでいるが、それにも出てこない。

たゆたえども沈まず



やたら「ゴッホは浮世絵に惹かれた」ばかりしか書いていない。
「何で惹かれたんだ?」というのが不思議。
びっくりすることを言った武田先生のお譲さん。
「何で北斎のマネしたんだ?」と言ったら(大学で美術を勉強している)お嬢さんが「北斎の絵には意味がないからよ」。
「なるほど」と思った。
「西洋の絵」というのは意味がないとダメ。
例えば女の子を描いて、その女の人が百合の花を持てばマリアになる。
マリアがあって、足元でヘビを踏んでいないといけない、とか。
聖書の意味とかギリシャ神話の意味とかが一枚の絵の中にあるのが「西洋美術」。
だから印象派が描いて大パニックになったのは『草上の昼食』(エドゥアール・マネ)。
公園の片隅でサラリーマンみたいな人と奥さんか恋人か、それが素っ裸で飯を喰っている。
それを見た時にものすごく印象派はいじめられる。
女の人の裸はギリシャ神話の女神を描かなければならない。
それが普通の女の人が裸になっているから。
「印象派!」という悪口。
『印象・日の出』をモネが描く。
あれを罵った批評の言葉が「な〜んだ、印象描いてるだけじゃ〜ん!」。
「意味のない絵を描く人たち」という意味で「印象派」という。
彼らは北斎を見て何が驚いたかといったら「意味がない」。
『赤富士』は山が描いてあるだけ。
それを見てびっくりした。
「何だ。北斎がやってるんだったらオレも故郷の山、描いていいんだ」ということになる。
「ただの風景を描けばいいんだ」「それが絵でいいじゃねぇか」ということ。
ゴッホに至っては北斎が描いた菊の絵を見て「何?花描いていいの?」「ひまわり描こうぜ!」。
「絵に意味はいらないんだ」という。
意味がないということが「情動」「感情を動かすんだ!」という。
だから「麦畑のカラス」というゴッホの絵がある。
真っ黄色の麦畑の中にカラスがバーッ!と。
何の意味も感じない。
でも動く感情だけはどうしようもない。
モネの『睡蓮』。
東洋の花がいっぱい咲いているだけ。
あれはキリスト教で出てくる花ではない。
だが、モネはそれを描いた。
もっとモネのすごいのは「家族」を描いた。
意味はない。
キリスト教的意味合い、ギリシャ神話的意味合いはないが「へぇ、奥さん幸せそうだな」という「情動」が動いた、という。
それが「印象派」という流れを作っていった。
そこから美術が第二のルネサンスで「神を離れて人間の元にやってきた」という。
北斎が与えた影響はデカくて『考える人』の(オーギュスト)ロダン。
ロダンたちもマネをしている。
「ジャポニズム」というのはもの凄いショックだったらしい。
ロートレックも浮世絵の役者絵を見て同じことをやる。
つまり「頭ではないんだ」「感情が動くということが大事なんだ」という。
その「情動が動く」という興奮。
それが印象派から、やがては近代絵画へ流れていくという。
情動が動けばそれは美なんだ、アートなんだ。

価値判断には情動が不可欠である。情動がなければ、世界の価値的なあり方を知ることはできない。(50頁)

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posted by ひと at 10:27| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする