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2020年08月13日

2019年9月30〜10月11日◆磐井の乱(後編)

これの続きです。

古代史を話している。
皆さま方も「古代史」と言われてピンとこないだろうし、興味もないだろうが。
でも武田先生は好き。
自分の生まれたところが北部九州。
九州の福岡県というところで。
そこには古代の匂いがするエリアポイントがあって。
水城とか大野城がある。
春日原(かすがばる)とか白木原(しらきばる)とか。
そういう地名の中を青年期まで生きていた。
武田先生が生まれた町の名前は雑餉隈。
これは大宰府王朝に仕える小間使いの雑掌(ざっしょう)の人たちがたくさん住んでいたとか。
そういう、いわゆる古代がかった地名。
そういうところで自分が生まれた。
大野城というのも、ものすごい歴史的な遺産が残っていて。
野城。
そこの大野城という丘の上てっぺんに行くと真っ黒な米粒が見つかる。
それは千年の時を隔てた米蔵の跡。
それは何のためにかというと朝鮮半島から朝鮮の国が攻めて来る。
その時に大宰府王朝を目指して来るだろうから水城、丘の上にプールを作っておいて下から来たら上から水を落とす。
基山という山があって、そこと大野城を結んで、二つのポイントに兵隊を置いておいて、朝鮮半島を渡って来た敵兵に向かって矢を射かけたり石を投げつけたりする基地を山のてっぺんに。
つまり今で言う尖閣の最前線が福岡市にはいっぱいあった。
武田先生はそういうところで大きくなったものだから「古代史」と聞くとその風景が蘇ってくる。

百済の人がいて、日本のヤマト朝廷に潜り込んで。
「潜り込む」という表現はよくないかもしれないが、ロビイストとして朝鮮半島の人たちの意見を彼らに伝える。
その意見が正し時とひどく間違った時があるのだが。
とにかく百済という国が「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」。
663年だが。
これで百済が消えてなくなって。
難民というか百済を失くした朝鮮半島の人たちを日本に安全のために亡命させる。
彼らのために大和朝廷は近江の地を与えたりしている。
その中でも百済王族でプライドの高い人は「何とかもう一度朝鮮の地に帰りたい」と思う人がいて、強力な政治家にヤマト朝廷の元でなっていく。
この関さんの説の中ですごく面白いのは、正しいかどうかはわからないが。
そう考えると武田先生にとっては日本史がすごくわかりやすい。
親日の朝鮮人が叩きだされた。
今もそう。
「親日の人は出ていけ」とか。
日本に協力した人、そういう企業は「親日企業」という「ブラックレッテルを貼るぞ」とかという「ウェノム嫌い」「倭人嫌い」はもう二千年前から持ってらっしゃる。
だからそういうところでやっつけられた百済。
日本に協力したばかりに、日本を誘い込んだばかりに。
それを我が連合ヤマトは全部引き受けて亡命させている。
その百済系の亡命人の中に日本名に変えた人たちがいて、それが中臣鎌足ではいかと。
百済人ではないか?と。
この人の献策で新羅が攻めてくるかも知れないので、対馬、壱岐、筑紫。
これは武田先生が生まれた町。
そこらあたりに防人を置いて、防衛体制をとろう、と。
ところが本当に国際政治はわからない。
新羅と一緒に唐が攻めて来るとあれほど怯えていたのだが、その唐と新羅が不仲になってしまう。
戦争を開始する。
高句麗、北朝鮮も不仲になって戦闘状態に入ってしまう。

筑紫国造、磐井が反乱を起こしたという。
その磐井の乱から時は流れてこれから話すところは662年以降。
磐井の乱からいつの間にか半島問題に巻き込まれた日本。
連合ヤマトは唐、新羅を相手に白村江の戦いを経て、大敗北を喫する。
それで百済が滅亡する。
その百済の王族たちを日本に保護した。
いわゆる百済系の王族たち。
彼らは朝鮮の人なのだが、やがて日本名を名乗り始めて大和朝廷の政治に絡んでいったのではないか?

『日本書紀』は、中臣鎌足の父母の名をまったく掲げていない。古代史最大の英雄で、『日本書紀』編纂時の権力者・藤原不比等の父が中臣鎌足なのに、なぜ藤原氏の素姓が定かでなはないのか。ボウフラが湧くように、無位無冠の中臣鎌足が忽然と歴史に登場し、有力な皇位継承候補の中大兄皇子と、まるで同等であるかのように振る舞い、蘇我入鹿暗殺現場では、中大兄皇子が自ら蘇我入鹿に斬りつける中、背後で弓を持って高みの見物としゃれ込んでいる。(146頁)

とにかくこの鎌足というのはものすごいヤリ手。
汚れ仕事まで平気でやるという貴族。

筆者は中臣鎌足を百済王子・豊璋(余豊璋)とみる。(145頁)

百済のロビイストは連合ヤマト、ヤマト朝廷に潜り込んで様々な政治を操り始めたと言っている。
この鎌足あたりに反対したのが大伴氏だったり九州南部の隼人族、日向族の海人族。
彼らの天皇に対する忠誠心はものすごく激しい。
それで彼らが天皇という巫祝王、神様に向かって祈ることができる天皇の地位を独自のものにしていく。
本当に珍しいことで、日本は「強い王様」を望まない。
天皇そのものが強健であることは望まない。
ただ巫祝王、祈る王様として豪族をまとめてゆくというのが日本人が、日本が求めた天皇像。
祭祀王の天皇と豪族たちの合議によって政治を回していくという統治システムが古代から日本では適していたし、それがうまくいっていたのだろう。

『日本書紀』に従えば、磐井の子の葛子が糟屋屯倉を献上しただけで、許されたとあり、実際考古学者も、筑紫君らの眠る八女古墳群は岩戸山古墳ののちも継続したことをあきらかにしている。(173頁)

というのは、あんまり徹底してやっつけちゃうと恨みが残って反抗が続く、という。
聖徳太子が言った「和を以て尊しとする」という。
磐井の子らも徹底して滅ぼされなかったということで、連合ヤマトに組み込まれていったという。
日本はまとまりを作り始める。

蘇我氏は8世紀に没落する。
中臣鎌足は中大兄皇子に取り入って中臣という役職名で鎌足が語っていたが、中大兄皇子と仲良くなって名前を変える。
何という名前に変えたか?
藤原姓に変える。
「藤原鎌足」になる。
つまりここからあの藤原氏が始まる。
藤原氏というのは貴族の中で最高の力を持った貴族。
この藤原鎌足が大化の改新から律令国家づくりまで全部やる。
海外の知識を豊富に藤原鎌足は持っていたのだろう。
だから唐のマネをするという律令国家づくりなんかを始めるという。
そのあたり、関さんが「この人の国際感覚は日本人じゃない」という。
そして例の藤原時代を築く。
武田先生の(会社の)社長の名前は「伊藤」と言うが、これは「藤」が付く字は全部藤原氏から来ている。
「伊勢にいた藤原の一族」というので「伊藤」。
「藤原氏を助けた」というので「佐藤」。

今語っているのはどのあたりかと言うと、中大兄皇子即位だから668年ぐらいまで来た。
白村江の戦いから5年ぐらい経ったぐらいか。
そのへんを語っている。
中大兄皇子の子分となった中臣鎌足。
百済からやってきた豊璋という百済の王子様だったのではないか?
そして日本を百済化して、百済人の住みやすいような日本に。
海外のことは詳しいから「乗っ取っちゃおう」。
それで貴族の中で「藤原」という姓を唱えて藤原文化を作る。
この「藤」を選んだところがまた見事。
(野生の藤は)気持ち悪い。
一本の木があったら巻き付く。
その巻き付き方がアマゾンの大蛇みたいな。
幹に喰い込む。
それで木の養分を吸い尽くすというから。
ずばり言うと、藤原鎌足が夢見たのは、天皇家に絡みつく藤の花。
こうやって考えると面白い。
そして自分たちの半島ではできなかった国家づくりを鎌足は始める。
それは藤原一族の栄華。
そして自分たちが住みやすいように大化の改新を起こし、律令国家をつくる。
そして次にやったことが、これがすごい。
朝廷にいた他の豪族たちを追いやる。
藤原鎌足が中大兄大氏、天智天皇に絡みつくことによって奈良から追放した豪族。
蘇我氏を東北へ追いやる。
そして安倍氏。
天皇家に一生懸命仕えた日本の豪族。
これも東北にやられてしまう。
今、総理をやってらっしゃる安倍さんの先祖。
元々ヤマトだったのだが藤原氏に追われて東北へ追いやられた。
そしてこの藤原氏がやったことは蝦夷地征伐。
蝦夷を攻めると言って、東よりの豪族を抑え込む。
それから西の方も全部やられてしまう。
北部九州の筑紫とか奴国とか。
そういうのも全部この藤原氏によってペッタンコにされる。
ところがこの藤原氏の登場によって地方へ追いやられた豪族が心の中で「いつかやっけてやる藤原!」。
これが日本史の原形。
日本史はいつも中央政府があると遠い東か西の別勢力が上って来て天下を獲る。
そのことによって日本史は対流が起きる。
その対流の一番最初のエネルギーは「藤原氏憎し」。

そしてここからが、あれほど巻き付かれながらよく頑張ったと思うが。
藤原氏は娘が生まれると天皇家に入れて、自分たちの血を濃くする。
ところが藤原氏に巫祝王としての天皇は絶対にその座を乗っ取られることはなかった。
そして巫祝王として霊性、スピリチュアルな力を持っていた。
どうしても百済人たちが朝廷を牛耳られなかった。
それは彼らが仏教を操るために教え込もうとしたのだが、天皇は言うことを聞かない。
そして「神仏習合」という日本だけの仏教に切り替えてしまう。
どういうことかと言うと、日本に昔からいた神様が修行にインドまで行って、帰ってきたのが菩薩様とか、どんどん日本風に意訳してしまう。
仏教と神道を合体させる。
仏教は仏教でもこれは「日本教」としか言いようがない。
そのことによって天皇家のみの効力、能力、霊力を天皇家は胸に秘めた。
祟りの神を抑える呪能、能力というのは天皇家の帝しかない。
これは関さんが別の本で、藤原氏もどこかで天皇家を舐めていた。
祈りで何かを動かすという力なんか信じていなかっただろうが、天皇に「ああしましょう」「こうしましょう」といろいろ注文をつけていくうちに、藤原氏の息子四人同時に全員死んでしまうという事件が起きる。
天然痘。
それから藤原氏がやろうとして誰かが邪魔をする。
そいつを左遷する。
菅原道真とかというヤツがいて、藤原氏の言うことを聞かない。
「あ、もういいよ。大宰府行っちゃえ」と言って大宰府にやらせてしまう。
そうしたら疫病が流行る。
それで天皇が「道真、もう怒らないで」と言うまで疫病が殺していく。
それぐらい恐ろしいし、これを祓う力を持っているのは天皇しかいない。

天皇家が神仏習合で仏教と神道を合体させ「日本教」とでもいうべき新しい宗教形態を作ったというのは武田先生の説だろう。
歴史の読み方についてだが、関さんの説が今までくすぶっていたものに再び「焼けぼっくいに」というヤツなのだが、火が点いてしまって、面白くて仕方がない。
朝鮮とヤマト、あるいは邪馬台国との関係というのを昔、すごく興味を持って。
自分がそういう古代史の最前線、筑紫の国に生まれたから。
だが、フッと嫌になったのは、こういうことがあった。
平壌のすぐそばか何かに見つかった遺跡らしいのだが、好太王碑(こうたいおうひ)文というのか、モニュメントが建っていて、そこの「好太王」という高句麗の王様が、どのぐらい立派な人だったかというのを書いてある。
その中に平壌、4世紀391年に倭が攻め込んで、倭と好太王は戦って追い返した、というのが石文に書いてある。
ヤマトが、倭が、それこそウェノムを押し返した。
この石文に関する解釈で、韓国の学者(李進熙)が「倭というのは391年に日本列島から兵隊を集め、船で平壌まで攻め込む兵力を持っていたのか?どう考えてもそんな力は日本にあるはずがない」と疑った。
それで「この碑文は日本人が勝手に捏造したんだ」と。
391年に日本にそんな力があるワケがない。
日本が平壌まで来る力があるハズがない。
これは日本の軍部が戦前、朝鮮に来た時にカンカンカンカーン!と刻んだ、という。
それが歴史的事実として、何十年か通っている。
学説として日本も採用していた。
それが最近になってやっと「それはおかしい」と言い始めた。
(実際にはかなり前から反論はあったようだ)
向こうの学者さんも「まあ無理かな」とかと言い始める。
つまりその手の「侮蔑語で日本を歴史的に見る」という足場があるから、この一つをとって考えてみても、この4世紀、391年。
九州とか例えば出雲から船を出して朝鮮半島、平壌まで行くのは無理かも知れないが、もしかしたら朝鮮半島の釜山のすぐ近くあたりに半島の中に日本という国を持っていたのではないか?
それは伽耶国とか倭館とか。
任那府とかと言われていた。
そこにある程度の軍隊がいた。
それが平壌まで行ったと思えば、そっちのほうが合理的。
それを向こうの方が「日本がこんなところにいるハズがない」という、そういう歴史の取り方ではダメなんじゃないかなぁと。

司馬遼太郎氏は古代史について4世紀、391年。
ヤマトが朝鮮半島の高句麗まで進出し、百済や新羅の国を次々と打ち破ったと記録されているが、それはおそらく事実であろう、と。
そして高句麗によって押し返された。
倭、ヤマトというのはそれぐらいの力を持っていたのではないだろうか?という。
その中に天皇家があったが、天皇家は力だけではない別種の力を持っていたのではないだろうか?ということをおっしゃっている。
それと関さんが縄文からの祈りの力を天皇家は巫祝王として持っていた。
パンデミック、巨大な疫病が流行した時、それを鎮める力を持っているのは日本には天皇しかいなかった。
そういわれるとすごく納得がいく。
京都の祇園祭も博多の博多祇園山笠も、そして小倉にある小倉祇園太鼓も、夏の疫病退治のためのお祭り。
そうやって考えると、その中心に疫病対策として天皇がいるということになると、関さんの説に武田先生が深く頷いたというのはご理解いただけようかなぁというふうに思う。

古代。
2、3世紀〜7世紀。
400年ぐらいを二週間で語っているので、ちょっととっ散らかったりして誠に申し訳ございません。
わかりにくかろうとも思う。
教科書通りのことではなく、こういうことを学校の歴史の時間に教えてくれればまた違うと思う水谷譲。
不思議なもので、教わった方は教科書通りじゃないところしか覚えていない。
この辺は全部寝ていた武田先生。
古田武彦という古代史の大先生がいて、その古田武彦という人は説として間違いであったということもこの人の中にあるのだが、この人の仮説というのが無茶苦茶面白い。
この関さんの今週オススメした『磐井の乱』というのも面白いのだが、一番最初に武田先生を虜にしたのは古田武彦という人で。

我々は国歌として『君が代』を歌う。
君が代というのも不思議な唄。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巖となりて 苔のむすまで
(君が代)

これは古今和歌集の「詠み人知らずの句」なのだが、我が君、君が代は、あなたの時代がいつまでも続きますように。
小さなさざれの石、砕けた石が固まって、大岩になって、コケが生え揃うまで永久(とわ)に続きますように。
よく考えてみると一種のお誕生日の歌。
「ずっとずっと長生きしてね」「ハッピバースデー、トゥーユー」みたいな歌。
日本はハッピーバースデーを国歌にしている。
「石」とか「苔むす」とか、こういうものに美を感じるところから縄文の匂いがする。
関さんの考え方の中ですごく納得したのは縄文人がいた、いわゆる「倭」。
倭がいた。

 渡来人がやってきて水田を造り、稲作をはじめ、あっという間に東に向かって侵略していったというイメージが強かったが、まったく違う図式が見えてきたのだ。先住の縄文人が、稲作を選択し、北部九州で本格的な水田が誕生していったのだ。(65頁)

だから弥生時代、縄文時代とアッサリ線は引けない、という。
一番最初に話したように「ふんどし文化」という、天皇家でさえも学校行事として遠泳の時は赤いふんどしを。
これはどう考えても縄文、海人文化。
これがやっぱり日本の文化の特徴ではないだろうか?
「日本」ということを考える時に、このあたりから古代史が解けていくといいなぁというふうに思ったりした。
この本(『磐井の乱』)をお書きになった関さんは百済系は半島を脱出したのち、藤原鎌足と名を変え、新興国家の新たなる豪族として藤原姓を起こして、天皇家にまるで藤の花のように絡みついた。
この藤原氏が最も恐れたのがパンデミック、大陸から伝わってくる疫病による一族の大量死であった。
4〜8世紀、パンデミックは一種の呪いとされた。
だから都を替えたりしている。
仏教文化を取り入れたのも、おそらくこの巨大なパンデミック、人口の半分が死んでしまうような極端な大流行が日本であったのではないだろうか?
その藤原氏はやがて、平安の世を築く。
このことによって地方の豪族の生き残りを触発し、やがては取って替わって「武士」という武家政治が。
平氏もそうだが鎌倉からバァン!と出てくるという。
この武家が政治を行ったというところから日本は独特の道を、という。
そのあたりが半島の人々と当初島に住む我々日本人は大きく分かれていったのではないだろうか?
アジアは一つで隣の国、韓国、あるいは朝鮮。
だから「我々は」とすぐにまとめない。
私達と朝鮮文化、あるいは韓国、あるいは朝鮮の人たちは、かくも違う文化を持っているんだという。
そういう自覚の中からうまくゆく方法が見つかるのではないだろうか?
似たところを探すよりも、違うところを見つけ合うことによって私たちは、もっといい関係が逆に見つかるような気もする。
そういう意味を込めてあえてお送りした『磐井の乱』。


posted by ひと at 21:51| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年9月30〜10月11日◆磐井の乱(前編)

これの続きです。

(番組冒頭は、前回までの放送の内容に間違いがあったので著者から指摘の手紙と著書を頂いた話)
磐井の乱。

磐井の乱の謎



 継体二十一年(五二七)六月−中略−筑紫国造・筑紫君磐井が、反旗を翻したのだ。(1頁)

なにゆえにその反乱を起こしたかと言うと、朝鮮半島問題。

高句麗、百済、新羅、伽耶の存亡をかけた争いの渦に、巻きこまれた。その中で磐井はヤマト政権の外交政策を批判し、ヤマト政権が手を組んでいた百済ではなく、新羅を選ぶべきだと主張したのである。(1頁)

そのことで連合ヤマトから戦を仕掛けられたのだが、不思議なことに息子が詫びると許している。
磐井は殺されたのだが。

『日本書紀』に従えば、磐井の子の葛子が糟屋屯倉を献上しただけで、許されたとあり、実際考古学者も、筑紫君らの眠る八女古墳群は岩戸山古墳ののちも継続したことをあきらかにしている。(173頁)

反逆者だから徹底してやっつけるかと思いきや、連合ヤマトは何を考えたかと言うと「やっぱり北部九州は怖い」。
こういう時代。
関さんから2〜3か所「これは違ってる」と注意されたが、武田先生の語り口調でしばしお聞きください。
間違ったところはまた第三弾でお詫びしたいと思う。
この関さんのおかげで、昔から古代史が好きだったのだが、やっぱり面白くなった。
ただし、ややこしい。
武田先生のお嬢さんが高校の時に使っていた日本史の年表を持ってきた。
これは便利がいい。
これは出来事だけがザーッと年表で縦に書いてあるもので。
でも書いてあることが相当古い。
だから相当改定されているのだが。
とにかく縦に物事が並べられているというのが武田先生にとって便利がいい。

前回にお話ししたのは、関さんがお書きになった本の前の方までだった。
6世紀に起こった磐井の反乱。
その前にどういう事情があったかと言うと、日本にはいろんな豪族がいて、その豪族たちが連合体を作り始めた。
防衛上の立場から西側が見えやすく東側が逃げやすいという奈良の地が選ばれた、ということ。
この連合ヤマトは奈良桜井の纒向というところにコンベンションセンターを置いて、主に東海、山陰、山陽の豪族たちがそこに集まって、その議長に天皇というポジションを置いた。
十代目の崇神は理由があって天皇の地位をしっかり固めようということになった。
これはこんなことを考えもしなかった。
北部九州がある。
そこは朝鮮半島との交流が盛んで、特に新羅と仲がよくて。
もう片一方の百済、朝鮮半島の左側はヤマトと仲が良かった。
その朝鮮半島から新しい文化とか、特に鉄が入って来る。
これがもうたまらなく魅力的。
とにかく鉄の武器を持っていれば最強の武器になるから。
新羅は何を持っていたかといったら「しら」だから「金」。
そういう鉱物資源に半島は恵まれていた。
それで朝鮮半島から生まれるものがものすごく貴重だったし、それで強力な国もできるのだが、もう一つ。
これは関さんの発想だと思うが病も入ってきた。
これが天然痘。
これは国を開く時に必ず伝染病が入ってくる。
ペリーの時はコレラ。
『JIN-仁-』でやっていた。

JIN-仁- DVD-BOX



とにかく外国から入ってきた病があまりにも悪さをするので、連合ヤマトは何か心のよりどころが欲しかった。
それが天皇ではないか?

いわゆる日韓問題がすごかった。
韓国の大統領も言葉遣いは激しい。
一国の大統領が日本国の首相に向かって「盗人猛々しい」というような表現をお使いになる。
こちらの翻訳がそうなってた。
韓国のこと、あるいは朝鮮半島のことを考えましょう。

昔から、韓国の方、朝鮮の方は日本のことをバカにして、とある隠語で日本人のことを呼ぶ。
前に話したことがあった。
例えば日本のガラの悪い人がアメリカ人を差別的に「ヤンキー」とかというような呼び名で。
韓国あるいは朝鮮では日本人のことを「ウェノム(왜놈、倭놈)」と言う。
これは「倭の野郎」というヤツ。
だから今話している話なのだが、韓国あるいは朝鮮の人が我々を罵倒する時の思いは倭国まで遡る。
金印で威張っている場合ではない。
「なんだ!ハンコ一つ貰ってデカい顔しやがって!盗人猛々しいとは!倭の野郎!」という。
「根性が曲がっている」というような意味で「ウェノム」と言う。
これは向こうの人も血相を変える。
一回だけ試したことがあった。
韓国の子に「俺たちは『ウェノム』だから」「ソレハ言ッテダメ!」と言われた。
それは強烈な言葉なのだが。
倭の特徴というのが、すぐ裸になりたがる。
これを韓国の人はものすごく軽蔑する。
日本人はホテルとか旅館に行って一杯やり始めると袖をまくる。
あれをものすごく軽蔑する。
なぜか?
これがいわゆる「儒礼」儒教にかなった礼儀作法。
いかに正しく服装を崩さず着て。
ところが日本人はリラックスしたら袖まくりはする。
何かもめごとがあって、ケンカにでもなろうものならガバッと脱いでしまう。
高倉健は殴り込みで必ず上を脱ぐ。
向こうの人はあきれ返って野蛮人ウェノムと思っているだろうけれども。
皇室の皇太子でさえも学校行事で遠泳の時、ふんどし一つで泳ぐ。
あれはもう、考えられない。
貴族がふんどし。
ふんどしなんて海賊の恰好。
それが平気。
それだけではない。
国技と言われているスポーツがふんどし(マワシ)一つ。
祭りと言えば北島(三郎)さんも歌ってらっしゃるが。

風雪ながれ旅/北の漁場/まつり



白い褌 ひきしめた
裸若衆に雪が舞う
祭りだ 祭りだ 祭りだ 豊年祭り
(北島三郎『まつり』)

祭りというのは神前で執り行う宗教行事。
その時に裸になる。
それだけではない。
「私は苦労して頑張った」という形容詞がよく使う。
「私は裸一貫からここまでやってきた!」というと日本人は「お〜!あの人は裸一貫だ!」「ロックで言えば矢沢永吉じゃん!」みたいな。
つまり裸になるということに関して隣国である半島の人たちと我々はことほど左様に違う。
向こうから見ると無礼。
裸の付き合いはしてはいけない。
そんなことをするから何回も何回も「慰謝料出せ!」とか「心から謝れ!」とか言われてしまう。
つまり我々は隣国でありながら裸という概念もこれほど違う。
日本は美的。
危機に際した時、ふんどし一つになるというのは自分の勇気を示すこと。
これほど違う半島と日本。
その皇太子でさえもふんどしになる。
何でか?
海人族の血ではないか?
農耕と中華文明で生きてきた半島の人たちに対して、我々ヤマトの人間は遥か海からやって来たという。
だから神話の中にも何人も乙姫様が出てくる。
私たちの体の血の中には海人族の血が混じっている。
それが決定的に文化の質を変えたのではないか?と。

前にお話ししたのは大陸から疫病。
パンデミック。
いわゆる疫病の大流行が襲ってくる。
これは国を開くと必ずそういう病が来る。
それは天然痘に関しては奈良県の連合ヤマトのエリア内で住民の半分が死んだというのだから、いかに恐ろしかったかわかる。
だから何とかして疫病を鎮めて欲しいということで、そこで頼ったのが海人族の血。
天孫族といわれるヤマトの王子はことごとく海人族の娘と結婚する。
天皇家というのは海の血が混じったまとめ役ということで独特の神話、伝説を作り始めた。

 三世紀後半から四世紀にかけて−中略−各地の首長(王)たちが新たな埋葬文化を受け入れ、ゆるやかな連合体が生まれた。これがヤマト建国だ。−中略−ヤマトは北部九州を潰しにかかっていたし(89頁)

何度も何度もヤマトはこの北部九州に「従え」「俺たちの仲間になろう」と言うのだが、北部九州はなかなか言うことを聞かないという。
筑紫には独特の王女がいた。
これが卑弥呼。
この卑弥呼を倒した。
そして奴国、伊都国も従えたのだが、また時が経つとこの奴国、伊都国、筑紫の国あたりが言うことを聞かない。
その一つが磐井の乱で、百済と手を結ぼうというヤマトに対して磐井は「ダメだ」「我々は新羅の方を応援する」という。
つまり朝鮮半島にあった反日勢力と親日勢力の激突。
それが磐井の乱を招いたんだ、と。
これが六世紀のこと。
ちょっとややこしい。
著者の関さんからも「アンタこことここが違うよ」と言われたのだが。
申し訳ないが関さんの御本は読んでいてわかりにくい。
横に年表を置いておかないと時代がどこに行ったのかわからなくなる。
でもなんとかとにかく上手に皆さん方にお話しを聞かせたいなと。
というのはやっぱり面白い。

連合ヤマト。
そのヤマトの国は天皇という「巫祝(ふしゅく)王」。
いわゆる祈りを力に変えるパワーを持った霊力を持った天皇家を作ってゆく。
その時に磐井が反乱を起こす。
これに対してヤマト軍が糸島方面からやってきて、豊前、大分方面から物部の兵が乗り込んで、激戦のうちに磐井を打ち破る、というワケで。
これはいっぱい出来事がある。
任那(番組では何度か「みなま」と言っているが「みまな」)。
これは日本が朝鮮半島に持っていたポリス国家。
小さなエリアを所有していた。
これが新羅に攻め込まれてピンチになった。
537年。
サエキシ(と聞こえたが「大伴連狭手彦」あたりのことか?)百済へ救援に出かける。
百済王が戦死する。
任那日本府が滅ぼされる。
ここは日本府という出先機関、領事館を持っていたのだが、それが562年に滅ぼされる。
海峡を挟んで日本と朝鮮半島の三つの勢力、高句麗、百済、そして新羅と絶えず戦闘状態にあったという。
そういうことが続いたのだろう。
この混乱の極みの中、連合ヤマトが百済対新羅の争いに巻き込まれているうちに高句麗が力を付けて南下を開始する。
これは今で言うとさらにわかりやすい。
韓国が反日と親日に分かれる。
今の状況と同じ。
高句麗というのは北朝鮮だと思ってください。
ワイドショーではないが、朝鮮情勢を語っていた。
辺真一(ピョン・ジンイル)さんは気の毒。
気のいい方なのに。
周りの人から「どうしようもないですねぇ」なんて、自分の祖国に向かって言いたくないだろう。
可愛そうに。
聞くなよそんなこと。
デーブ・スペクターははっきりと「韓国のことをこんなに熱心にニュースにしているのは日本だけですよ。北朝鮮もそんなに報道してないし、中国もほとんど報道してないし、ロシアもそんなに報道してないし。アメリカABC見てもあんまり出てきませんよ」と。
本当におっしゃるとおりかも知れない。
水谷譲の息子も言っていた。
「なんでこんなに韓国のことをやってんの?」と。
「ほっといてあげてもいいんじゃないかなぁ?」とも思ったりするのだが。
しかし申し訳ないが話を聞いていると面白い。
ごめんなさい、韓国の人。
辺さんがおっしゃった名言で、法務大臣の゙國(チョ・グク)さん。
色々問題があるのだろう。
辺さんがたった一言「一番の問題はですね、娘が頭が悪いっていうことですよ」。
本当にそう。
もしかしたらただそれだけのことかも知れない。
みんな大騒ぎをするが、法的問題よりも「娘ができが悪い」というのが。
通信簿まで公表するというようなザマなので。
まあそれはもう向こうに任せておいた方がいいんじゃないか?
でも大変悪いが、向こうの人たちが私たちのことを「このふんどし野郎」と言っても、司馬遼太郎さんがハラを抱えて笑う。
「ふんどし野郎」という侮蔑語を。
そのとおり。
私たちはふんどし民族。
男の戦闘態勢。
締め込みをした方が力が湧いてくる民族なので。
それはそれで別にいい。
何と言われようと。
だから「ウェノム」というのは言い当てている。
そんなふうに思う。

日本はどうも5〜6世紀、多重外交だったという。
朝鮮半島に対して新羅と仲良くする北部九州の国々と、それからその隣の百済と仲良くする連合ヤマト。
二つの外交勢力があった。
相反する外交体制にあったのではないか?
それで、高句麗、百済、新羅に任那とヤマトというので半島で大騒ぎしていたが、わりとスッと収まる。
何で収まったか?
それどころじゃなくなった。
中国に強力な大帝国ができた。
隋ができる。
何となく今と似ている。
それで皇帝の煬帝(ようだい)は半島情勢に乗り出してきた。
何と高句麗を隋がやっつけた。
今で言うと北朝鮮と中国が戦争を開始した。
その隋がぐんぐん半島を降りてくる。
もう連合ヤマト真っ青。
言うことを聞かない北部九州を横に置いておいて「とにかく集まれ」「みんな集まれ」
「隋てのが出てきたぞ」というワケで。
この時にその日本の連合ヤマトの方で力を持ったのが推古天皇。
これは女帝。
そして聖徳太子。
とにかく補佐役に回ってクイーンとプリンスで日本を守る。
とにかく北部九州は放っておこうと。
「お前たちいい。そのかわり他のとこしっかり集まれ」と言って強力に結び付く。
それ故にプリンス聖徳が言った名言が「和を以て貴しとする」という和の精神。
隋が起こったことにより日本を隋に気に入られる国にしなければならない。
それは何か?
仏教。
その仏教導入と共に百済が「仏教なら任せて」。
「お経はこう読む」「仏像はこう造る」というノウハウを教え始めてプリンス聖徳のお気に入りになっていく。
新羅の方もプレゼントを持って連合ヤマトに奈良まで挨拶に来ている。
それは隋が怖いから。
聖徳は推古天皇の補佐をしながら何を思ったかというと「絶対に隋とはケンカすまい」。
ところが北部九州が二重外交だから、しょうもない手紙を隋の煬帝に送っている。
その北部九州が送った文章が「日出る処の天子、日沈む処の天子にこれを送る。つつがなきや(日出處天子致書日沒處天子無恙云云)」。
すごい。
上から目線で。
「日が昇ってくるという勢いのいい我が国。オメェんところには日が沈んでゆく。どうだ、元気かい?」という。
それを見せられた煬帝が呆れかえっちゃって部下に言った名言がこう。
「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ(帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞)」
「わぁ〜コイツらホント馬鹿だなぁ。まあ、無礼にもほどがある。よっ!俺の秘書。二度と持ってくんじゃない。俺んとこ見せに」と呆れかえってしまう。
これで呆れかえってくれたおかげで戦争にはならなかったけれども。
とにかく聖徳は真っ青になりながら、すぐに隋にお勉強。
それで小野妹子が出かける。
だから煬帝も日本が二重外交の国だとある程度知っていた。
そう思うとパアッと解けると思う。
それで小野妹子を派遣したら「OK!OK!」と向こうが言うワケだから。
それで「仏教導入OK。勉強すんのよ」というもので。
それで百済からやって来ていた百済人が一生懸命仏教を日本に教え始めたという。

ところが前にも御柱のところで話した。
どんどん仏教が入ってくると物部がふくれ始めた。
「なに?うち、神道あるけど?」「いや、そんなもんいいじゃないですか。神道なんかいらない。もう仏教勉強しなきゃダメ。国際的になれない」
今で言うと、そのころの仏教というのは「Can you speak English?」 みたいなもの。
ところは物部は自分のところはちゃんと神様を持っているのだから「別に俺、やんなくていいよ」というようなもの。
この対立の中から物部対聖徳太子の対立の構図になってゆく。
連合ヤマトは百済と仲良くして仏教、そして鉄を手に入れたい。
新羅と結びついた磐井の反乱が6世紀。
それはペッチャンコに押しつぶしたのだが、百済系の人々はその頃はたくさんヤマトに紛れ込んでいた。
ところがその中でちょっと至らぬことをする人もいる。
嘘情報を流す百済人が出始めた。
ミスリード。
操る。
そういうことが奈良の地、連合ヤマトのコンベンションセンターで起こり始めた古代。

これは日本史の教科書に載っていない。
こんなことがあった。
日本書紀によれば磐井の死から50年後の583年。
連合ヤマトに出入りしている百済の日羅(にちら)が連合ヤマトに密告をしている。

「百済人が策謀して、三百隻の船で筑紫(九州)の領土を奪おうと思っています。−中略−その時、壱岐や対馬に伏兵を置き、殺してください。要害の地には、固い要塞を築いてください」(189頁)

田中臣は、次のように述べた。
「百済は是反復多き国なり(百済は信用ならない国だ)」
 というのだ。すぐに、約束を違え、道路の距離も欺す人たちだと批判している。
(190頁)

(番組では上記は日羅の言葉と言っているが、本によると蘇我系豪族の田中臣)
古代日本では百済系の人たち、いわゆる半島の人たちが朝廷に潜り込んでロビイストとして活躍しながら、半島情勢を伝えたり仏教を伝えたりしながらも、結構日本を動かしていた、という。
百済の人たちにとっては仏教を教えることによって日本を支配できないかと思ったのだろう。
そんなこともあったのではないか。
それで帝に百済の王族たちは接近していく。
ところが国の中心である天皇というのは力としては大したことがないのだが、神の祈りを力に変えるパワーを持った、霊力を持った代表者として日本をまとめていく。
仏教が入って来る。
その時に独特の仏教を天皇家自らが作り始める。
仏教に完璧に帰依しない。
驚くなかれ、日本の神道と仏教をくっつけてしまう。
よくやった。
時々お祈りをする時に「南無八幡大菩薩」と言う。
とにかくこの神様の奇妙さは「八幡様」という日本にいる神様、それが大菩薩とくっついている。
だから「八幡大菩薩」。
これは日本の至る所で見られるのだが、日本の神と向こうの神様、インドの神様がドッキングする。
「お稲荷さん」もそう。
ハイエナらしい。
死んだ肉でも平気で喰う。
その生命力にあこがれてサンスクリット語で「ダキーニ(荼枳尼)」。
そういう神様になった。
ところがハイエナは日本にはいない。
一番似ているのは狐だった。
そんなふうにして日本独特の仏教にどんどん変えていく。
隋が誕生することによって聖徳太子は連合ヤマトに対して和を呼びかける。
外交を百済に牛耳られた連合ヤマト。
その聖徳太子に対して蘇我氏が対抗し、蘇我馬子が連合ヤマトの実権を握る。
この裏には聖徳太子があまりにも百済のロビイストに偏りすぎて「仏教に熱心である」という反発もあり、蘇我とか他の豪族たちも反発するのだが。
その蘇我入鹿は暗殺されている。
この隋が起こったのでやっと収まりかけていたのだが、その隋が滅びる。
これはいいチャンスかなぁ?と思いきや、何ととんでもないことに新羅が隋が滅んだ後の唐と外交を結ぶ。
つまり半島情勢は今、中国は無口にしているが、やはり後ろ側に必ず中国がいる。
古代から何も図式は変わっていない。
新羅が唐と結んだことで百済は日本にすがりつく。
「一緒に戦ってくれ」と。
それで半島に乗り出して行って連合ヤマトは662年のこと、白村江の戦いで川が血に染まるような大敗北を喫してしまう。
それで百済国はペッタンコに潰されて。
いい人がいっぱいいたのだろう。
連合ヤマトは「百済の人が可愛そうだ」というので大量に亡命する人たちを受け入れている。
百済王族は天皇のすぐ近くに仕える家臣にして。
二千人単位の半島人がヤマトまでやって来たというから、ヤマトは優しいもの。
これで百済の影響が日本から消えたということにならない。
ここからが関さんの説が面白い。

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2019年7月15〜26日◆磐井の乱(後編)

これの続きです。

古代と呼んでもいいと思う。
平安よりはるか前、奈良より遥か前の日本の歴史。
まだ飛鳥にも入っていない西暦527年の6世紀の頃。
筑紫国造「磐井の乱」。
その磐井が反乱を起こした隣町に大宰府政庁がある。

磐井の乱の謎



磐井の乱というのは今で言うと福岡の方はわかると思うが大牟田の辺りだと思う。
武田先生のマネージャーの古里。
岩戸山古墳というのがあって、そこにいってみたくて仕方がなかったが、地元の人で知っている人は誰一人いなかった。
九州はいっぱいあるのだが。
この間、坂本八幡神社に行った。
武田先生は笑いこけてしまった。
そこの土地の70代の人がそこの神社をずっと守ってらっしゃる方。
その方がインタビューに行ったら「毎年ですね、ここの神社はですね、だいたいですね、観光客の人はですね、20人でした」。
1年で(20人)。
「今ですね、一日でですね、この間1万2千人来ました」
すごい。
田んぼの真ん中を延々と。
その梅の宴をやったという場所の真後ろにあるのが大野城という。
山なのだが、その山のてっぺんに野城を築いて、半島から攻め込んでくる中国人を「ここで防ぐぞ」という防衛ラインの一段目だった。
野城はデカい。
真ん中がボコっとえぐれているものだから天然の要害で。
それでいまだにてっぺんに登ると非常食の米のカスが出てくる。
それくらい朝鮮半島情勢はかつて古代は緊迫していた。
遠い遠い昔のことだが、ヤマト朝廷と言わず、まあ連合ヤマト。
日本の様々な豪族が集まって防衛上安全な奈良にコンベンションセンターを建設して、いろんな豪族がそこに集まって「外交はこうしよう」「輸入品はこれにしよう」とか様々決定していた。
議長をやっていた、その特別の議長の席に越前から崇神天皇を迎える。
この崇神天皇が朝鮮半島情勢に関して「我々は朝鮮半島にある百済という国を応援しよう」ということを決定したのだが、言うことを聞かない豪族がいっぱい日本中にいた。
そういうまだ日本が一本に統一されていないもどかしさ。
その崇神さんが百済からいろんなロビイストを迎えて、向こうの文化とか文明を聞く。
もうこのあたりから百済の手によって、仏教がしきりに持ち込まれる。
ところが物部という人たちは「仏教はいらない。俺たちには神道があるじゃないか」という。
そんなこんなしているうちに、一説によるとヤマトに集まった人の半分が死んだという伝染病がヤマトに広がる。
それが天然痘らしい。

天然痘の致死率は、現代でも三割以上なのだから、当時、もし天然痘が流行していたら、人口の半減は、大袈裟な記事ではなかったことになる。(70頁)

その天然痘というのはどうも大陸の病が入ってきたんじゃないか、ということ。

 ヒントは『日本書紀』に隠されている。神武と同一人物と考えられている崇神天皇が、疫病の祟りに追い詰められていたという。人口が半減し、神(三輪山の大物主神)に問いただすと、神の子を探しだして連れてきて神を祀れば、落ち着くだろうというので、その通りにしたというのだ。(70頁)

橿原という地が伝統的に、「西からやってくる脅威に立ち向かう地」であり、崇神は九州から神武を招き寄せ、橿原で疫病を祀らせていたのではないか、というものである。(70頁)

それで議長の崇神は薩摩の阿多(あた)族。
宮崎のウ族の青年を招聘し祀ったという。
(「ウ族」とやらは本と付き合わせても何のことかわからなかった)
これは不思議で、現代でもものすごい死亡率の天然痘が彼らはかからない。
今で言う免疫を持つ部族が九州南部にいた。
それが阿多隼人(あたのはやと)。
そして宮崎の海神(わたつみ)の一族だったのではないだろうか?
そこで生まれた子たちを代々の天皇として祀ることにした。
そうすると天然痘にかからない驚異の体質を持っていたという。
崇神はその子、神武をヤマトへ呼び寄せて神としてまつる。
橿原に別の都、彼のための都を作った、と。
崇神は天皇家を免疫体質にするために、縄文系海人族の姫を天皇家に嫁として入れた。
そういう人たちの系譜を入れたことによって、自分の系譜を十代前まで繰り上げた。
これが神武に始まるヤマトの始まりなのではないか?

古代史のことなのでピンとこないかも知れないが、とにかく西暦6世紀、日本はまだ統一国家としての力が弱く、各豪族がヤマトの地に集まって国政を決定するというヤマト連合と、九州北部には邪馬台国という古代から続く王国があって、外交政策が一本にまとまっていなかった。
一本化がゆっくり進むのだが。
北部九州にある邪馬台国の残党みたいなのが言うことを聞かないというので「やっつけよう」という話になったようだ。
それでこの北部九州にある豪族たちをやっつけるために先頭に立って戦ったのが、ヤマトに行って血を混ぜて免疫体質を持った日向の一族、それから隼人の一族だった。

海幸山幸神話の中で、山幸彦は海神の宮に三年留まり、海神の娘・豊玉姫と結ばれ、故郷の日向に戻っていった。豊玉姫は山幸彦を追って、海岸にたどり着き、子を産む。(54頁)

それで兄さんの海彦(「海幸彦」のことかと思われる)はと言うと、弟の子分になって大和朝廷を盛り上げるという話になる。
海人、海の一族の血をヤマトの天皇家に入れたということは、病を祓う、異国から飛んで来た病気を祓うというパワーになった、というのが古代の伝説で。
天皇家はその伝説を大事にした。
それで二重外交をいつまでもやっていてはイカンということで、ヤマトが日本をまとめようという決心をして、北部九州の一族をやっつけに行く。
その時のヤマトの王子が仲哀天皇。
これがまた本当に悲しい字で。
仲哀。
打倒邪馬台国を目指して。
「邪馬台国」とあえて言っておくが、北部九州の一族を滅ぼすために行くのだが。
どうもなんだかこの人は弱い。
そこでおそらくだが、土地のお嫁さんを貰った。
そのお嫁さんこそはトヨ系。
豊玉姫系の海人の女性で、その人と結婚して子供ができるのだが、これは日本書紀に書いてあるのだが、仲哀さんは「北部九州の一族をやっつけるぞ」と張り切っていたのだが、福岡の香椎という場所まで行って「琴が弾きたい」とか何かおっしゃって琴を弾いてらした。
そうしたら部屋の明かりが消えた。
風か何かだろう。
その香椎の先陣の宮の陣屋の中で真っ暗になったと思ったら、気持ちの悪いことに山辺に鬼火がブワーッと走った。
「不吉だ」というので建内宿禰(たけのうちのすくね)という子分の人が慌てて火を点けたら仲哀さんは死んでいた。
アガサ・クリスティ。
これから戦闘だというのに頭領が死んじゃっているワケで。
ヤマトから送り込んだ仲哀が。
その香椎というところは「かしい」というぐらいだから椎の木がいっぱいあって、これで仲哀天皇を入れる棺桶を作る。
それで建内宿禰が(仲哀天皇が)死んだことを内緒にしていて棺桶を立てる。
仲哀を棺桶の中に納めて立てる。
それで子分を集めて後ろ側に建内宿禰が回り込んだのだろう。
「みな集まってくれてどうもありがとうね。ちょっと風邪ひいて声、変になっちゃってるけど、決行しようと思うんだ」という腹話術をやる。
それでまとめて戦闘を開始した、という。
それで、妊娠した奥さんがいる。
これがすごい。
臨月が近かったのだが「出るな」と言って石でふさいだというから。
神話。
それで鎧を着て熊襲(くまそ)はやっつけるわ、勢い余って船に乗っかって朝鮮半島に攻め込んで新羅をギャフンと言わせて帰って来て、それでお子さんを産んだ、という。
この海人のお姫様の名前が神功皇后(じんぐうこうごう)。
福岡あたりは今頃、声が上がっていると思う。
「出た!神功皇后!」という。
あそこの神社のことごとく祭神がこの神功皇后。
ここから神功伝説が始まるのだが。

『日本書紀』が「神功皇后は邪馬台国の時代の女傑」と明記している。(39頁)

福岡一体はことごとく神功皇后の伝説で神社は生きている。
福岡の方は神功皇后を知ってらっしゃる方が多い。

ハネムーンだったが、旦那さん(仲哀天皇)がそこで死んじゃったという。
(仲哀天皇が亡くなったのは何年も後のようなのでハネムーンではないと思われる)
神功皇后はその後、北部九州を平定して、持てる力で朝鮮半島まで出撃して、朝鮮半島の新羅をやっつけて戻って来て、そこでやっとお子さんを出産なさる。
この産んだお子さんが応神天皇。
十五代天皇になる。
その時に川にへその緒か臍帯を箱に入れて神功皇后が流したらしい。
その箱が流れ着いたところが博多の川の下流、海の近くで、そこにできた神社が筥崎宮(はこざきぐう)。
この時におそらく神功皇后に力を貸したであろう海人族。
海に強い一族が宗像海人。
宗像の一帯の海人族で、彼らはこの神功皇后との繋がりから天照大神の娘の三姉妹が主祭神になった。
全部神功から始まっていく。
神功伝説というのは筑豊にもいっぱいある。
ヤマト代表の仲哀と海人の女性である神功。
その海と陸との血を引く天皇ということで応神天皇が決定していくという。
これは神功皇后の冒険旅行はここでも終わらなくて、ヤマトに行こうとするのだが、ヤマトで百済系の官僚から裏切りにあって、何回もピンチに遭っている。
それをやっつけながらヤマトへたどり着くという。
大阪の住吉神社の主祭神は神功天皇。
それからヤマトに帰ろうかどうかというのをこの神功皇后が占う。
「魚が釣れたらヤマトに帰ろう」とかという占いの仕方をやる。
釣れた時の魚が「鮎」。
だから魚偏に「占」。
この一文字の起こりは神功皇后。
「鮎」は中国では違う漢字を充てる(「香魚」)が、日本ではこの故事になぞらえて鮎は「神功皇后が釣り上げた魚」ということで。
そしてこの人(関裕二さん)はすごいことを言う。
この神功皇后というのが日本史に出てくる台与(とよ)、卑弥呼が死んだ後に女王国のまとめ役として出てくる女霊媒師の名前を台与と。
この台与が本当は神功皇后じゃないか?
「トヨ」というぐらいだから豊玉姫系。
だから南部九州の名前。

邪馬台国を潰した神功皇后(台与)は、「親魏倭王を殺した」と、魏に報告できないために(ヤマト政権が魏を敵に回すことになる)「台与(神功皇后)は卑弥呼の宗女(一族の女)」と魏に報告し、邪馬台国の王に立った。(72頁)

この台与という南九州系の女王の血を引くこの人は「奴国の印鑑とか持ってたんじゃないか」とこの人が、そういうことをおっしゃっているのだが、これもなるほどと頷ける武田先生。

ちょっと耳に挟んだ話。
福岡でものすごく有名な神社で宗像神社がある。
その宗像神社と、すぐ近くに宮地嶽(みやじだけ)神社というのがある。
そこが台与に味方しなかった神社で、台与に力を貸したのが宗像神社じゃないかという説があって。
この宮地嶽神社というのは、この間博多に帰った時にお礼に行った。
何でかと言うと宮地嶽神社にお参りして「私も年、取ったんですが新しいキャラクターでもありましたら、ぜひ仕事でください」と言ってお祈りをした。
珍しく神頼み。
何か月後かに「水戸黄門やりませんか?」と来たものだから。
それで水戸黄門の話が来て。
今年(2019年)コロッケと一緒に博多座でかけた演目が水戸黄門だったのでお礼参りに行った。
今年もまたお祈りしてきたのだが、何かそういう不思議なエネルギーのこもったところで。
この宗像神社と宮地嶽神社はオススメする。
でも何でこれを熱心に話すかというと、両方ともに今、話した神功皇后が一枚絡んでいる両神社。
香椎も箱崎も。
そうやって考えると胸がときめく武田先生。

神功皇后というのは日本史の中では当然のごとくだが「作り話だ」というふうにして否定されている。
やっぱり戦前の皇国史観というのが大きな戦争を起こしたせいで日本神話というのは学者さんたちから軽蔑をされて嘘ということになっているのだが。
福岡を歩くと「何かあった」ということはわかる。
関連する神社が多すぎる。
今は世田谷に住んでいる武田先生。
世田谷神社の一角にもこの神功皇后のお宮さんがある。
これは何であるのかやっとわかった。
神功皇后は戦いの神様なので、かつて軍人さんがいた住宅地には神功皇后がいる。
その神功皇后の一番の子分が建内宿禰という。
神話では爺さん。
ところが遠い昔、美輪明宏さんから武田先生のルーツは建内宿禰と言われた。
美輪さんが何を見てそうおっしゃったのかはわからない。
「あなたの元型、大元は建内宿禰だ」という。
「だからアナタは困ったりなんかすると、必ず女性の背中に隠れるでしょ?」
つまり女の人の背中の方に回り込んで、その人の後ろに立つことによって危機を乗り切る、という。
建内宿禰はそう。
すごく優秀な人らしいのだが、主役は神功皇后。
武田先生も困ったらおっかさんの歌を作ったりしているので。

母に捧げるバラード (Live)



「女の人を押し立てると自分に運が向いてくる」という。
「そういう運命をアナタは生きるのですよ」と言われた。
美輪さんにとんでもない質問で「死んだら坂本龍馬に会えますか?」と聞いた。
そうしたら美輪さんは静かに笑って「会えるも何も同じよ」という謎の言葉を。
坂本も建内宿禰系からやってきた人らしい。
だから元型みたいなのは同じで。
そういう不思議なことを言われたので、そこから建内宿禰というのは忘れられなくなった。

建内宿禰みたいな人を「審神者(さにわ)」という。
「審神者」というのは女祈祷師がいて、何か祈っている時に、横からガードしながらその人が口からこぼす予言を拾い集める人。
何で「さにわ」と言うかというと「にわ」はそういう場所だった。
今、おうちに庭がある。
その庭は「神様にお祈りをする場所」という。
「庭」というのは元々そういう「祈り事をするところ」のことを言うらしい。

とにかく日本書紀において、神功皇后はたちまち新羅を平伏させて金銀宝を持ち帰った。
すごいことに海の鯨までが神功皇后に従ったという伝説があるので、いわゆる海に関する力を神功皇后は持っていたのだろう。
遠征で帰ってきた神功皇后。
慌てふためいたのは百済系の人たち。
百済系のロビイストの人たちが慌てふためいた。
そういうのを神功皇后が全部殺した。
そして応神天皇を真ん中に置いて二重外交はそのまま続き、連合ヤマトを含めて各地の豪族も身分を保たれたまま天皇家の力はゆっくり増していった。
これが墓の形である前方後円墳を日本中に広めた応神のいわゆるゆるやかな「和」、ハーモニーを大事にした政治のおかげではなかったか?という。

著者関裕二さんと武田先生の仮説も混ぜている。
関さんの説は朝鮮半島の弱小国である百済に外交で牛耳られていたヤマト連合。
ヤマト連合とは出雲、淡路、但馬、越の国、吉備など。
それと九州南部の阿多(あた)、薩摩の隼人。
そして日向の宇土族。
これが連合に加わって。
それで北部九州の邪馬台国連合は打倒された。
だが、邪馬台国連合をヤマト連合が吸収することになって日本は天皇を議長にした緩やかな連合国家として出発する。
このへんが古代史の謎を解くカギになるのではなかろうか?というふうに言っている。

武田先生がこの関さんの説で一番驚いたのは崇神天皇の時に天然痘の大流行があって、ヤマトの国民の多くを失ったという悔いが、血を混えて天然痘に対抗しようとするアイデアを生んだ、という。
この発想が面白くて仕方がない。

連合ヤマト。
様々な国が応神という十五代の天皇の緩やかな豪族を圧迫しない二重外交。
問題がありつつも認められるというのが、日本を平和にまとめていたという。
磐井の反乱という、これから語らねばならないことはどういうことかというと、この二重外交がだんだんうまくいかなくなって磐井が反乱を起こしたということ。
この磐井の乱の前までを話したのだが、一番興味深かったのは十代崇神天皇。
この人がヤマトで天然痘が、疫病が大流行して、神様に縋り付いて「解決策を教えてください」と言ったら南の方から天皇家に別の血を入れなさい、と。
それで神武という宗教上の青年を招いて天皇家の初代とし、崇神が初めてなのにその前にさも十代あるがごとく足した。
それで天皇家に祓い清めの力を見つけた。
人々も天皇家が持っている流行病、天然痘に罹らない不思議な血の力を祓い清めの力として認めた。
それが証拠に日本の夏祭りはこの祓い清め。
京都もそうだし祇園祭もそう。
鉾を持って。
あれは病を断ち切っている。
それから博多祇園祭。
山笠。
あれもいわゆる水を撒きながら清める。
そして東北の夏のお祭りも疫病退散。
これが十代崇神から始まったのではないか?
その祓い清めのエネルギーを持っていたのは阿多隼人(あたのはやと)という九州南部の一族たちのパワー、祓いのパワー。
それが天皇家に宿ることにおいて豪族の中でも、とある権威になっていくという。

磐井の乱の起きた時代、朝鮮半島では高句麗が南下し、ところてん式に百済が南に押し出され、伽耶諸国を蹂躙しようとしていたのだ。(97頁)

新羅は押し返す。

白村江の戦いは、百済の救援要請に応じた倭国軍が唐と新羅の連合軍と戦い、木っ端微塵に打ち砕かれ、百済は消滅した。(33頁)

そして唐が攻めてくることを怯える。
それで大宰府の地に水城というお城、防衛ラインを築いて、それでいくつも防衛策を打っておいて。
ところが唐が攻めてこない。
防御ラインをいっぱい作ったのに。
それで日本は唐に対してどうしたか?
仲良くした。
「唐が攻めてくる」といってお城を築いておいて、その片一方で「勉強したいんで勉強させてください」と言いながら遣唐使を送る。
それで唐も無視しない。
これは何でか?
これはまたこの間、現地で聞いて面白かった。
逆に向こうは日本を利用しようとした。
唐から持ちかけられたのは「力合わせて新羅やっつけない?」と言われた。
「新羅滅ぼしちゃおう」と。
言っているうちに高句麗がだんだん力を持ってくるので、日本は静観の立場で持っていた加羅等々の国家を手放してしまう。
でもこれでまだ終わらない。
すごいのは日本の歴代天皇に「もう一回朝鮮半島行きましょう」と誘い続ける人々がいた。
これが百済系の人たち。
百済系の人たちはもう天皇家もお認めになっているが、天皇家に女性が入ったりして、皇統と血が。
この百済系の人たちが日本国籍をとって、何っていう一族になったか?
その百済系の人々の日本姓が「藤原」。
そうすると平安時代がどういう時代だったか?
天皇家に巻き付く藤の花のごとく藤原氏が。
日本中で声が「うわぁぁ〜だからか〜!」という。
驚いていないのは水谷譲だけ。
ここらあたりの面白さ。
神功皇后。
そして百済系の人々が日本の貴族として生きていく。
彼らが呼び寄せた時代が平安時代。
日本史は面白い。
今、朝鮮半島ともなかなかうまくいっていないが、歴史というのはかくのごとく続くワケで、現代の何か足しになればと思いながら語っている『(今朝の)三枚おろし』。
驚いていないのは水谷譲だけ。


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2019年7月15〜26日◆磐井の乱(前編)

「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」の前に、北部九州から韓国の半島に向かってヤマト軍を送り込む時に、筑紫の国で磐井という氏族が反乱を起こしてやっつけられた。
それを「磐井の乱」というのだが。
「ヤマト朝廷の力は強かった」というのでよく。

地方を転々としていた。
武田先生は古代史ファンなのでフッとした謎に入る時がある。
この間、高田純次さんが『じゅん散歩』で立川を歩いておられた。
じゅん散歩|テレビ朝日
立川の諏訪神社に立ち寄られて。
あの方らしくて神主さん、権禰宜(ごんねぎ)さんをからかってらっしゃるのだが。
なんで立川に諏訪がいるのか?
前に御柱のお祭りの話をした時に「諏訪という神社があると、そこは必ず物部という氏族が力を持っていたエリアだ」という。
このあたりの回のことだと思われる)
高田さんだから、そんな古代史に立ち寄ろうはずがない。
「な〜んつっちゃったりなんかして」と言いながら。
地方の神社が持っているそういう歴史はすごく面白い。
でもズバリ言うと「私には」。

地元に帰ってテレビ番組の中で古里を歩いているのだが、「令和」の起源になった坂本八幡神社に行った。
(大伴)旅人くんが梅の咲いている木の下で宴をやったという場所が坂本八幡神社なのだが。
これは「ワンセット」。
令和の語源になった坂本八幡神社とか都府楼とか、大宰府政庁とかという昔の役所。
その役所を守るお城として大野城という山城がある。
この山城とそれから、人が攻めてきた時に堰を切って水攻めにするという水城(みずき)。
これは福岡の人だったらみんな知っている。
水城という防波堤がある。
何でそんなところに水のお城を大宰府政庁を守るために作ったか?
敵はどこから来るか?
海を越えて朝鮮半島あるいは中国から福岡に上陸して戦争が始まった場合は大宰府政庁に向かって突進してくるので、その人たちを防ぐために水城というお城があって、ここに第一波の砦が築かれた。
二番目が久留米の高良山。
三番目が日田。
三段構えで外的を防ぐという防御システムがとられているワケで。

白村江の戦いは、百済の救援要請に応じた倭国軍が唐と新羅の連合軍と戦い、木っ端微塵に打ち砕かれ、百済は消滅した。(33頁)

その後「攻めて来るんじゃないか?」ということで水城というお城が築かれた。
その前後に奇妙な事件があった。
その奇妙な事件が「磐井の乱」。

磐井の乱の謎



福岡県でこのあたりの国道とか道を走ってらっしゃる方は「わぁ!」と、ほんの僅かだけれども喜んでらっしゃると思う。

 継体二十一年(五二七)夏六月、近江毛野臣が六万の軍勢を率いて任那(朝鮮半島最南端。古くは伽耶諸国をひとくくりにして任那と呼んでいた)に赴き、新羅のために攻め滅ぼされた南加羅(洛東江下流域)と喙己呑(慶尚北道慶山)を復興し、任那に合併させようとした。ここに筑紫国造磐井が、密かに反逆を目論んだが、なかなか実行できず隙を窺っていた。新羅はこれを知り、磐井に賄賂を届けて毛野臣の遠征を妨害するように働きかけた。磐井は−中略−近江毛野軍の行く手を遮った。(15頁)

 継体二十二年(五二八)の冬十一月十一日、大将軍物部大連麁鹿火は「賊帥・磐井」と筑紫の御井軍(福岡県久留米市中部と小郡市)で戦った。−中略−ついに磐井は斬られ、境界が定められた。(17頁)

どうもこの福岡県の大野城市、あるいは大宰府あたり、越後八女あたりにかけて磐井という人の巨大な国があったようだ、と。

なぜ磐井は、反旗を翻したのだろう。『日本書紀』は、「それは磐井が新羅から賄賂を受け取っていたから」というが(21頁)

この時の半島情勢はこういうこと。
高句麗があって百済があって新羅があった。
今で言うと北朝鮮があって韓国があるのだが、韓国が真っ二つに別れていて、親大和派と反大和派があった。
それで反大和派が九州の勢力と手を結んでいたという。

「磐井の乱」という朝鮮半島問題に巻き込まれた日本。
これは現代だけの話ではなく1500年前にもすでにあったという。
そんなふうに話せば少し興味を持ってもらえるか?
それに地方に点々と神社があるのだが日本の神社は「神道という宗教だ」という人がいるが、歴史的な何かがあったモニュメント。

今話しているのは西暦500年代だから6世紀の頃。
日本の隣の朝鮮半島には三つの国があった。
一つは高句麗という国があって下に左半分が百済、右半分が新羅という国だった。
百済と新羅の間に小さなポリス国家がある。
そのポリス国家のいくつかが、向こうの方は絶対認めてくださらないが、それは日本の領土だった。
ずばり「日本府」とか「倭館」という地名で呼ばれていた。
もちろん今「更返せ」とか絶対言わないから、向こうの方は警戒してらっしゃる。
『釜山港へ帰れ』という歌が日本でヒットした時に「再びまた攻めてくる可能性あり」と新聞に載ったぐらいで。

釜山港へ帰れ



武田先生は知りもしなかったが、後で聞いて。
領土的野心で言っているのではない。
この日本のポリス国家の所有というのがヤマト朝廷をして深く深く朝鮮半島問題に首を突っ込まざるを得なくなった。
そういう下地があることを覚えておいてください。

今と違うのは親日「日本と仲良くしよう」という新羅。
これは実は北部九州の豪族と手を結んでいた。
これは多分だが、出雲あたりもこの新羅と仲が良かった。

神話のスサノヲが新羅に舞い下りたという話だが、これは伽耶だろう。スサノヲは鉄を求めて朝鮮半島に渡った倭人を神格化したものと思われる(93頁)

ここは鉱物資源には溢れているけれども樹木が少ない、と。
それで樹木のもっと豊かなところに移ろうというので降り直したところが出雲。
それから鳥取とかあのへんはいくつか島を持っている。
島根とか。
あれは朝鮮半島の脇にあったヤツを神々が縄を引っ掛けてこっち側に引き寄せたという「国引き」という神話が残っているくらいで。
それくらい朝鮮半島と深い関係にあった。

武田先生が生まれた町は雑餉隈(ざっしょのっくま)という古代めいた地名なのだが、隣町は白木原(しらきばる)という。
これは繰り返して言うが新羅の人たちの集落があった、といって新羅の人たちがそこに住んでいたという。
福岡市郊外には古墳から新羅製の馬具が見つかったりしている。
つまり九州北部の王様はこの新羅と仲がよく、ヤマトの方にある国は百済と仲が良かった。
百済の王子様が奈良県の方に来たりしていた。
それくらい深い関係にあった。
日本はどっちが本当の政府かわからない。
ヤマトと筑紫の国で外交問題のねじれがあった。
外交がヤマトと筑紫では一本化できていなかった。
こういう古代史的事実があったのではないだろうか?
その5世紀前半の大和朝廷の中で磐井という人が半島に渡ろうとしていたヤマト軍に対して反乱を起こした。
この時の台詞が日本書紀に書いてあるが、これがすごく不思議な言葉で。
これは謎とされてずいぶん論議されたのだが。

 そして磐井は近江毛野臣に対し、次のような無礼な言葉を吐いた。
「今でこそ使者としてやってきたかもしれないが、昔はわがともがらとして、肩を擦り肘を触れ、同じ釜の飯を喰らった仲ではないか(「共器して同に食ひき」同等の立場で結びついていたの意)。
(15頁)

反乱を起こした磐井の方にずる賢い発想があったのではなくて、当然のこととして彼は朝鮮に出兵しようとする6万の兵の前に立ちはだかった、という事実がある。
「オマエたちの言うことなんか聞けない」ということで磐井は物部麁鹿火という武人によって成敗されてしまう。
あるいは北方面に逃げたというような話もあるが、潰された。
古代史において九州の北部は歴史舞台であった。
断固として言うが、邪馬台国は2〜3世紀にかけてこのあたりにあった。
武田先生の説は断言する。
有難いことにこの(筆者の)関裕二さんも河出書房の本の中で「邪馬台国は九州の北部、筑紫か筑後平野にあったんだ」と。
理由としては鉄という輸入品が、ここでは大陸から入りやすいんだ、と。
アジアからの文明の品々が流れ着くところは福岡しかありえない。
漢委奴国王。
倭国王がいたんだ、と。
奴国(なこく)という国があって、そこの王様が「那の津」博多にいたんだということは、これは間違いない。

1500年前、古代史の話をしている。
ヤマト朝廷が朝鮮半島の政治状況に首を突っ込もうとした。
その時にたくさんの兵隊を福岡博多から朝鮮半島に渡そうとした時に、その出兵するヤマト軍に対して邪魔をした筑紫国造。
筑紫の国を任せられた、県知事級の人物磐井が反乱を起こした。
この反乱はなぜゆえにか。
それは今まで大和朝廷が朝鮮半島に乗り出そうとしているのに、県知事級の人が邪魔をした。

日本を代表する政府というのがヤマトだけではなかった。
北部九州の磐井も日本を代表して外交をやっていた。
おそらくこの人は邪馬台国の生き残りの人だったのだろう。
邪馬台国とヤマトが別々の国であったと思った方がいいのではないか。
そのほかにも博多湾沿岸には奴国がある。

「旧奴国」が、弥生時代後期の日本列島を代表する地域として、後漢に朝貢し、「委奴国王」と刻まれた金印を授けられていたことだ。(57頁)

奴国には王様がいた。
この印鑑は1世紀頃。
ということは博多のあたりには、漢字を読める人がいたということ。
印授だからハンコが持っている権力というのも理解できたワケだから一応「国家」の感覚を持っていた。
巨大ではない。
まだ小さい。
その奴国の隣には伊都国(いとこく)という、今は「糸島」という。
AKBの(篠田)麻里子様の出身地が伊都国だから。
糸島の子だから東京の男性と付き合った時に「生まれはどこ?」と訊かれたから胸を張って、福岡でいいところなので「私は糸島です」と言うと「へぇ。じゃ市内にはフェリーで?」と。
島ではない。
これは伊都国という古代国家があったところ。
こういう奴国とか伊都国を纏める統一の代理者として邪馬台国があった。
邪馬台国は漢ではなくその後、魏の方から印綬を貰っていて。
親魏倭王という「倭の王様である」という印鑑を貰っている。

大学生の頃から邪馬台国が面白い武田先生。
この邪馬台国の女王卑弥呼が親魏倭王という称号を貰っている。
「倭」という字はすごく変。
中国は周辺国の民族に対してケモノの字をボンボンあてる。
動物呼ばわりする。
人間は中国人だけ。
回りの周辺民族は全部ケモノの字。
「匈奴(きょうど)」とか「韃靼(だったん)」とか。
「羌」というのは羊の下に人間の足を足して「頭は羊」というような意味なのだろう。
チベット族のことを「羌族(きょうぞく)」と呼んだりする。
人間扱いしない。
「ギン」とか虫を書いたりなんかする。
(「ギン」と聞こえたが、虫偏の「ギン」という字は調べてみたがわからなかった)
「倭」は不思議。
人偏。
なんでわざわざ「人偏」というようなよい文字をくれたのか?
それから横に「委」だが、それは何か?
「女」がいる。
上は「禾編」。
これは豊作の祈りの祭りの衣装を着た女の姿。
だから「倭」というのは女がいて「豊作の踊りを踊っている人間の集団」という意味で。
すごくいい漢字。
これは変な意味ではなくて、中国サイドも王朝を一目置いていた、という。
倭を強い国として。
その倭国に内乱が起きる。
それは卑弥呼が死亡すると権力闘争が始まって、台与(いよ)ていう女王様が出てくるまで内乱が続いたというのが秦のほうの『東夷伝』というような書物に載っている。
日本は文字を持っていないから、その間何があったかわからないが。
この関さんの説ですごく納得がいくのは、日本中様々な豪族がいた。
出雲がいた、吉備がいた、但馬がいた、丹波がいた、淡路がいた、東海、近江、越前、越後、様々な権力集団があって、その人たちが敵から攻められてもいいようにコンベンションセンターを作った。
それがヤマトコンベンションセンター。
奈良に作った。
そこに様々な勢力の人が集まってどうするかを決定した。
「議長がいる」というので、天皇という格別の議長席を用意した、という。
こういう説。
これは相当面白い。
生き生きと蘇る古代史。

古代史は膨大すぎて、話しておかなければならないことが多すぎるので。
ただ、日本各地に様々な地方の豪族がいて、彼らが何とかまとまった意見を一つにするために、ヤマトにコンベンションセンターを作った。
その議長職に就いたのが天皇という一族であったという。
古代史の不思議は一体何か?
今日は向きを少し変えてそこから話す。

初代の天皇は誰か?
神武天皇。
神武天皇はどこから来たかというと日向。
だから神話の始まりは日向。

 天孫降臨神話の中で、高皇産霊尊と天照大神の孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊が日向の高千穂峰−中略−に舞い降り、その末裔の神日本磐余彦尊(神武天皇)が、日向から瀬戸内海を東に向かった……。これが、『日本書紀』の示すヤマト建国、天皇家誕生の物語だった。(50頁)

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という人が降りて、それで海岸線まで出て、子供がだんだん増えていって。
神武の時についに宮崎の海岸から熊野へ行って。
熊野に上陸する。
その時にヤマトへ行く。
ヤマトを日本の中心にするために。
その時に神武を案内してくれたのがヤタガラス。
サッカーのマークで鳥が真ん中にいる。
(日本サッカー協会は日本代表チームのシンホルマークとして、勝利に導く、ボールをゴールに導く神様として「八咫烏(ヤタガラス)」を昭和6年に採用)
サッカーを日本中に広めた人がそこの出身だったのでヤタガラス。
それをマークにした
神武がヤタガラスに導かれてヤマトに入って、様々いた王様を全部追放して彼が初代の天皇になる。

 実在の初代王は第十代崇神天皇と考えられていて(52頁)

(番組ではしばらく「すうじん」と言っているが「すじん」天皇)
でも崇神は何で自分の前に十代もいるという伝説をくっつけたのか?
そして都が違う。
神武は奈良の橿原(かしはら)を都とし、崇神は纒向(まきむく)を都とした。
ここも遺跡が出ている。
二つ都がある。
二つの帝の系譜が別々に事務所を奈良に作った。
それ故に、この橿原と纒向という二つのお宮さんが今でも奈良にあるのではないか?
この崇神という人が朝鮮半島問題については、新羅ではなくて百済を応援していたのではないか?と。
それで、この崇神さんというのは福井県の出身。
「でっちあげ」の中で「著者から指摘があり崇神ではなく継体の間違い」と訂正されている)
福井県に行ったら崇神さんの伝説はもうすごい。
「うちが出した、うちが出した」と言って。
その崇神さんが「百済を一生懸命応援するんだ」「これがヤマトの意思だ」と言うのだが、従う人があまり国内にいない。
それで崇神さんの周りに、政治活動をやる今で言うとロビイストの人たちがどんどん集まって来る。
その中に百済人がいたんじゃないか?
朝鮮半島の人たちが。
「応援してください、百済を」と言い続けたという。
「百済じゃないんだ、新羅だ」という日本の他の豪族たちの意見をこの崇神さんが潰したのではないだろうか?という。
それにつけても崇神さんは、何でわざわざ自分の前に神武という人を迎えて十代を繋いだのか?
関さんの説が面白い。

 ヒントは『日本書紀』に隠されている。神武と同一人物と考えられている崇神天皇が、疫病の祟りに追い詰められていたという。(70頁)

その伝染病にかからない人たちを探したら、薩摩と日向の人がかかっていないという大発見があって、彼らを奈良まで呼んだんじゃないか?
そして彼らの血を天皇系に入れることによってその伝染病をシャットアウトした。
(番組では一貫して「伝染病にかからない遺伝子を持っている人たちを連れて来た」というようなことを言っているが、「でっちあげ」の回で著者から「病は祟りで、その祟りを呪術で抑え込むことのできるパワーを持った者を連れて来たということを書いている」との指摘があった。実際、本を読んでみた限りでは「伝染病にかからない体質の民族である」といった内容は一切ない)
古代史を伝染病で見るなんてことは一回もやったことがない。
この伝染病は一体何かというと天然痘で、大陸からやってきたのではないか?

 稲作文化が伝わったころ、朝鮮半島の疫病が北部九州にもたらされ、恐怖の病が迫ってきたからこそ、奈良盆地の橿原で(71頁)

その伝染病にかからない血を持っていた一族が薩摩と日向の一族だった。
それを天皇家に入れることによって、その病からヤマトを救った。

朝鮮半島問題に関しては、現代もそうだが進展がない。
両国の国民の印象もすごく悪くて。
韓国の方は日本人を80%嫌い。
日本人も80%の人が韓国のことを信用できないと言っている。
本当にうまくいかない。
でもうまくいかないのは今に始まったことではない。
そのうまくいっていないことを前提にして、両国民は考えた方がいいのではなかろうか?

日本人はどこから「日本人」になったか?
「縄文から」と思う水谷譲と武田先生。
普通の人は「弥生」と考える。
弥生人という前方後円墳なんかを作っているところから日本は始まった。
そうなると弥生ということ。
しかも日本は文字を持っていないから、日本の正体というのは歴史の本の中では全部中国の歴史に書かれていたオマケみたいな文章。
そんなふうに思う。
そして稲作の広がり。
北部九州にやってきた朝鮮半島や中国江南地方の人たちが縄文人を追いやる。
そして日本をだんだん。
だから縄文人から日本が始まるというのは、今の日本の学者さんたちの言い方とは違う。

武田先生が住んでいる福岡市内の雑餉隈というところ。
すぐ近くが板付飛行場。
福岡空港。
そこの旧地名が「板付(いたづけ)」という。
子供の頃から「変な名前だなぁ」と思って。
「板」が「付」く。
「博多」というのも変わっている。
板付というのは今、福岡空港がある所なのだが、そこが昔は波打ち際だった。
よく板が流れ着いていたので「板付」。
それで博多湾は延々とした干潟だった。
そこに足が取られないように下駄を履いて歩いて、残った足型が「歯型歯型」「はがたはがた」「はかたはかた」。
それで「博多」。
そういうふうにして古代の響きを込めて町の名前が付いている。
その板付から見つかって日本中が驚いたのが水田の跡。
そこは何と古代人の足型が見つかった、という。
福岡の番組で、そこの板付遺跡には行ったことがある武田先生。
その時、武田先生の家はそこから車で十分ぐらいしかかからないのだが、そこの板付遺跡の館長さんから「武田さんちは家を建て直す時、工事を丁寧にやってください」と。
「何でですか?」と言ったら「お宅のタバコ屋のある辺りはですね、まだ遺跡が出る可能性があるんですよ」と言われた。
「へぇ〜」とかと聞いたのだが。
武田先生の家はそのままなで、その前のナガヌマさんの家がお百姓をやめて家を全部壊して土を掘ったら(遺跡が)出てきたので今、建設が中止になっている。
その時に一番大事なことは、私たちは稲作を持ってきた人が中国の江南人や朝鮮民族だと思っているフシがある。
でもこの関さんは「違う」とおっしゃる。

 われわれは、「縄文人と弥生人は別の存在」と考えがちだが、稲作を選択した縄文人と先住民の社会に融合していった渡来人が弥生人であり、その後、大陸や半島の混乱から逃れた人びとがやってきて、日本列島人が形成されていったと考えるべきなのだ。(66頁)

どう考えてもケンブリッジ飛鳥は日本人。
それと同じことがその時代に起こった。
余りにも簡単に「稲作は向こうから持ってきた」とかと言いすぎる。

それからこれは前に話したことがあるが、釜山の東三洞貝塚という遺跡がある。
これは釜山だから朝鮮半島。
ここから土器が見つかって、その土器のマネをして九州の人間が縄文土器を作ったとされていたのだが、土の分析から縄文土器を向こうに持ち込んでいる。
朝鮮半島の先っぽの方には小型ながら前方後円墳がある。
それは最初、前方後円墳のことを「朝鮮民族がヤマト民族に教えたんだ」と言ったが、前方後円墳は日本の縄文・弥生の文化が作ったお墓の形で。
それが朝鮮半島にあるということは、そこのお墓のところが、かつて日本だったということ。
でももちろん韓国の方は認めていらっしゃらない。
弥生人が縄文人を追い立てて日本を作ったという中国江南からの渡来というのは紀元前2500年。
春秋戦国時代。
中国がものすごい戦争をやっていた時に九州方面に流入してくる中国人がいたのだが、これが日本の歴史を大きく変えたということはないのだ、と。
融合する、混ぜ合わせることによって日本が生まれていった、というふうに考える方がいいのでは?と。

posted by ひと at 21:29| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする