
(番組中、たびたび新刊『人生の教養を高める読書法』が紹介される)

(番組の公式サイトではネタ元の本のタイトルは『語りの日本思想』となっていたが、実際には『「かたり」の日本思想』。ネタ元のリンク先は Kindle版になっていたが、ページ数などは普通の紙の本の方に従った。 Kindle版も同じかも知れないけれども)
この(本の)タイトルに惹かれた武田先生。
なぜなら今、「かたり」で自分の新しい芸ができないかと思って模索中なので。
「三枚おろし講談師版」みたいなヤツをやりたいなと思っているので「かたり」に惹かれたのだが、「かたり」というのがまた独特。
「語って聞かせる」の「かたり」もあるが、詐欺師のことも「かたり」。
「騙りやがったな!」という。
そういう意味で非常に両極のある言葉である故に惹かれる。
この本の中身はというと、その悪い方の「かたり」ではなく、「語り芸」の「かたり」。
能、狂言、そして歌舞伎も「語り芸」である。
そして語り芸の代表的なもので落語、講談。
これは相当歴史は古いのだが、形を変えながら現代まで連綿と継がれているという。
この本の中身そのものは途中から急に難しくなって、ちょっとそこのところは飛ばし飛ばし。
どうぞ著者の方はお許しくださいませ。
理解できるところまで拾ったということで。

この本に惹かれたもう一つの理由が、司馬遼太郎作品に『菜の花の沖』という江戸後期、淡路島の貧農に生まれた嘉兵衛という男。
この男が土を捨て海に生きるという物語があって、北前船の船頭になって一攫千金を狙うという。
この北前船というのが日本経済の大動脈で「商品経済の海に身を投じた」ということで。
この方は後々変遷があり、ロシアの方に拿捕され囚人扱いを受けるのだが、『菜の花の沖』によればこの人が凄い。
2〜3か月でロシア語の基礎編をほとんど覚えたという。
それでたった一人でロシアと交渉に当たる。
今だってロシアとうまく交渉できていない。
ところがこの高田屋嘉兵衛という人物は、たった一人でロシアと日露交渉を単独でやって、両方を丸める。
これは凄い才能。
しかも残っているエピソードだが、この高田屋嘉兵衛がウラジオストクの港を離れる時、港にロシア海軍の水兵さんが全員並んで「ウラー!(「万歳」を意味するロシア語)キャプテン!」。
この人はロシア艦が嵐に遭った時に、ロシアの船を指導して運行させたという。
今も北方領土あたりがうまく交渉に乗ってくれないのは、この手の人材がピタっと止まっているところが無念。
ただ、ゆっくり近づいてきているので必ず日本の領土になると思います。
このロシアと交渉にあった高田屋嘉兵衛という人にどれほどの教養があったかなというと、その中ですごく気になる文句が『菜の花の沖』の中にあって、高田屋嘉兵衛が教養として仕入れたのはおそらく大阪の町で見かけた浄瑠璃ではなかったろうか?
人形浄瑠璃。
「ととさんの名は・・・」というような大衆娯楽。
そういうものを見て教養にしたのではないか?という。
司馬遼太郎さんが言うことだから間違いないと思う。
まあ、文字は書けた、字は読めたにしても、世間、あるいは国際法に則って行動できるほどの知恵を浄瑠璃から学んだとすれば、では一体、人形浄瑠璃というそういう大衆芸能から嘉兵衛は何を学んだのか?
歌舞伎にしてもそうだが娯楽だから。
娯楽の分野の中に外交にも通じる何かがあったのではないだろうか?と思っている時にわかりやすい出来事があった。
能、狂言、歌舞伎、落語とあるが、水谷譲もお好きな歌舞伎。
むやみに最近活躍している。
ドラマもそうだし『愛は地球を救う』の飾りの方も市川家の方が踊ってらっしゃった。
(
市川海老蔵と岸優太(King & Prince)一夜限りのスペシャル歌舞伎を今夜生披露!)
ドラマの方はというと「倍返しだ!」。
申し訳ない。
はっきり言わせてもらう。
金融関係の人であんな顔をした人はいないと思う。
「それは・・・それは・・・それは〜!!!!!!!」
でも謎に挑もう。
なぜあの大評判「ドラマのTBS」。
数々のヒット作を飛ばした、ドラマで日本を動かしてきたTBSのドラマ。
それが復活せんばかりの勢いで『半沢直樹』。

このヒットの原因は何か?
勧善懲悪だったらいくらでもある。
沢口靖子さん「それはおかしい。もう一度調べ直しましょう」とかというヤツ(ドラマ『科捜研の女』シリーズ)も。
「顔芸」ではないかと思う水谷譲。
一番の謎は、あのドラマの監督さんがなぜかしら主要なキャスティングに全て歌舞伎役者を配してあるという、このあたりにヒットの原因が。
歌舞伎から現代を読み解きましょう。
高田屋嘉兵衛という人が、ロシアと交渉をしてうまくいったという外交史。
これは幕末のこと。
日本を担うべき幕府方、松前藩幕府官僚がいっぱいいるのだが、ロシアとの外交交渉を解決する能力はなく、失策を重ねていく。
その中で拿捕された嘉兵衛は数か月で身の回りの世話を焼く少年からロシア語を教わり、日常会話を上達させて極東海軍の司令官に自ら交渉し、拿捕されたロシア側艦長との交換を以て自分を解放しろという交渉に乗り出してこれを成立させるという。
日露外交というのはうまくいかないのだが、たった一つうまくいったのが幕末のこの高田屋嘉兵衛。
そうやって考えると貴重な人材。
「外交問題を解決するためには高田屋嘉兵衛が見ていたという浄瑠璃とか歌舞伎とかを見た方がいいんじゃねぇか」という無茶苦茶な発想から始まった今週ではあるが、浄瑠璃とか歌舞伎の中には国際感覚を掴まえるべき、人間洞察があったのではないか?
この嘉兵衛という方はロシア水兵から慕われたというような人だから人種を超えた説得力を持っていたのだろう。
それが大阪の町で見た浄瑠璃なんかに影響されたとすれば、外交能力に成り得るのではなかろうか?と。
幕府、その当時の官僚は何をやっていたかというと日露が交渉するにあたって部屋に上がる。
その時にロシア側の銃の持ち込みは禁止。
日本側は小刀を差している。
それから畳を積み上げてテーブルの高さにしておいて座布団を敷いて乗ったという。
向こうは椅子に座ってもいい。
ロシア側が「土足で行きたい」。
当たり前だ。
向こうは脱ぐ習慣がないのだから。
それを断固拒否して揉める。
幕官僚というのはその程度の知恵しかない。
それで今もつながる発明品が日本で生まれる。
土足か土足でないかと揉めたので発明された「スリッパ」。
あれはその時に発明された。
だが、幕府官僚で作ったのがスリッパだけというのは考えてみれば情けない。
その高田屋嘉兵衛が自分の人間としての教養を芸能で学んだとすれば「芸能」「日本風の語りの世界」何かあるんじゃなかろうかということで今週取り上げている。
武田先生も一生懸命「能」のところも読んでみた。
能、狂言というのはあんまり弾まない。
「難しそうな気もするしとっつきにくい」と思う水谷譲。
「夢幻能(むげんのう)」という能は現実から離れる。
だから幽霊の物語。
いろいろなものが化けて出てくるのだが。
次元の違うものがそこで遭遇するという「死」を前提にした芸能が「能」。
だから非常にラジオでは語りにくい。
「面白く語れないかな」と武田先生も夢見た。
語りづらい。
語ってもいいのだが、皆さんすぐ退屈なさる。
語りやすいのは何か?というとこれは「歌舞伎」。
歌舞伎は先に言っておくが以外と中身は滅茶苦茶。
そういうと怒られるか。
能狂言は「橋懸(はしがかり)」というあの世とこの世を繋ぐ細い板の廊下があり、そこに登場人物が橋懸からあの世とこの世を結ぶ装置として役者が出てくる。
それで物語がそこに進行する。
能が闇を描こうとするのに対して歌舞伎は光を表現しようとする。
ギラギラしている。
そして歌舞伎が断固として叫んでいることは「人間性肯定」。
生き物を絶対に否定しない。
そして主人公は義理や忠義、人情に苦しむのだが、一本の筋を通す。
「張り」と「粋(いき)」。
この二つをドラマの中心に持ってきて人間を刺激していく。
最も嫌ったのが「ヤボ」。
このヤボの嫌われ方は凄い。
これは吉原で「あの人ヤボ」とウワサが立ったら百万都市の江戸に次の日、全部広がっている。
だから、お侍さんもお金持ちもあんまり無体ができずに花魁という人をどう扱うかが問題だが、無体なことをすると百万都市の瓦版でたちまち江戸中にその人の悪口が広がったというから、吉原は半分くらい『週刊文春』だった。
吉原で評判が上がるとこれが凄い。
江戸中の評判になって、たちまち歌舞伎の材料になったりするという。
その吉原あたりのところから戯作者、脚本家が出てきて筋を書いたという。
大阪の方では近松たちが上方文化ということで浄瑠璃芸能に。
江戸の方はというと歌舞伎、江戸歌舞伎というところが世間の面白いところを繰り広げたという。
人形浄瑠璃と歌舞伎を比較したが、どこが違うか?
浄瑠璃。
これはあくまでもストーリー。
人形浄瑠璃は物語をずっと語る。
ところが歌舞伎は通し狂言は少ない。
歌舞伎は「ええとこ取り」。
受けたところだけやる。
いいとこどり。
客に受けた一幕だけをストーリー全体に関しては「知ってるでしょ?ストーリーは」ということで『あしたのジョー』をラストの「燃えつきた・・・・」あそこだけで終わらせようとするような芸能。

それが歌舞伎。
歌舞伎はかくのごとく、その場面がいかに恰好いいかをみんなで楽しむという。
だから連続性無視。
はっきり言ってストーリーなんかどうでもいい。
だが、そのある場面のあるディティールがいいと、江戸中の評判になる。
典型、これが未だに伝説、レジェンドだが歌舞伎狂言にもあるが落語にもなったという。
中村仲蔵。
長い長い通し狂言の『忠臣蔵』。
その中で「ダレ場」と言って誰がやってもうまくいかない、パッとしない段がある。
それが「定九郎」というテーマに全く関係のないヤツ。
斧定九郎(おのさだくろう)の役なんかやりたがらない。
中村仲蔵がそこをやれと言われて「もっといい役やりてぇなぁ」と思うのだが、一生懸命考えた。
考えて、とある神社に「うまくできますように」とお祈りに行ったら、その目の前をゾクっとするような殺気溢れる浪人者が通った。
ザーッと雨の降る日で、その雨に濡れて前髪から雫が垂れ落ちてギロッと睨む目つきがゾーッとするような男。
これをこの仲蔵「天からのヒントだ!」と思い、斧定九郎を演じるその場面で真っ白けに顔を塗って、それに目鼻を描いて登場する直前に何を思ったかザバーン!と水を浴びた。
そうすると夕立にしこたま濡れた目殺気いっぱいの浪人者が舞台に登場する。
みんなダレ場で飯とか酒とか飲んでいる。
そこに定九郎が現れ、そのあまりの異様なメイクと扮装に「なんだありゃ?」「え?おいおい!あれ定九郎かい?」歌舞伎座にざわめきが。
その仲蔵の工夫が江戸中に広がってダレ場のその場を見るために満員のお客が詰めかけたという。
サザンオールスターズが中島みゆきの歌を歌うようなもの。
縦の糸はあなた(中島みゆき『糸』)
それが落語、更に講談になって中村仲蔵の工夫、そして中村というのが名を上げたという。
これが「かたり」。
知らないことを見てきたように話す。
つまりこの「見取り」といって歌舞伎、ディティールの細かさを拾っていく。
歌舞伎の特徴の一つである見得がそうである。見得が切られるとき、その芝居は「その一齣が一幅の絵の構成をなすような配置をとって瞬間停止」する。(144頁)
卑怯といえば卑怯な手。
セリフのない時、役者は、ひな人形のように横並びにじっと動かないでいる(145頁)
そこをゆっくりやる。
ところがこの手法を日本の映画が取り入れて、人が斬り合うところをスローモーションに落とした。
多分歌舞伎からきている。
あくまでも「かたり」。
歌舞伎の持っているそういう演劇的要素。
スローモーションでゆっくりやっておいて大向こうから「たっぷりと!」と言うともう一回同じことをやる。
猿之助さんを見て呆れかえった。
弁慶をやってらして、花道の手前、七三のところで弁慶が大見得を切る。
見得を切ったと思ったら大向こうから「たっぷりと!たっぷりと!」とかと言われると、またもう一回やり直す。
リアルさゼロ。
それを平気でやる。
でもこのあたりが日本人の神経をもの凄く興奮させる。
見たい場面をゆっくりやっている。
見たい場面を何回もやってくれる。
それとつかみで申し上げた大評判で九月末で終わってしまったが『半沢直樹』。
あれは考えてみたら現代版の中村仲蔵(の斧定九郎)。
あれは見得を切っている。
見得を切れる人が他の分野にいない。
なぜいないか?
恥ずかしい。
リアルな芝居をずっとやってきたら、目ん玉に血の筋を入れてロケで「土下座しろぉ〜!」とやる。
いない。
そのいないところをドラマにしたのがさすがドラマのTBS。
素晴らしい才能。
他の局を褒めているヒマはない。
繰り返し言うが歌舞伎はやっぱり演劇として異様なのだ。
逆の意味でいうとあのお芝居は使えない。
歌舞伎みたいな独り言を言う人はいない。
「ヤツがそっちへ来たというこたぁ〜!」
歌舞伎ファンの方も『半沢直樹』ファンの方も、ここから「いかに歌舞伎が異様か」というのを見てみたいと思う。
成田屋。
『暫』は、時代を平安時代末期、季節を早春、場所を鎌倉鶴岡八幡宮と設定している。−中略−
まず舞台中央に、悪役たることを示す青い隈取をした金冠白衣の清原武衡がいる。これが「ウケ」と呼ばれる悪役の頭目であり、公家悪と呼ばれる妖気さえ漂うような堂々たる姿をしている。正面から見てその左側の壇上に−中略−
武衡の家来たちがいる。−中略−
ここまでは全て悪人である。(144〜145)
やがて花道に鎌倉権五郎影政が姿を現す。景政は、正義の主人公を表す紅隈を施し、髻には力紙を付け、床に届くほどの巨大な袖には市川家の紋「三升」を大きく染め抜いた柿色の素袍を纏う、という異様な姿である。(148頁)
キャスティングは宿命で決まっている。
この『暫』の主役、鎌倉権五郎影政ができる人はただ一人、市川家という歌舞伎の家に生まれた海老蔵という人しかできない。(という事実はない模様)
揚げ幕の奥から「しばーらーくー」と素晴らしい大音声が響いてくる。英雄鎌倉権五郎影政の登場である。(146頁)
英語で言うと「wait」。
「しばらく」と、押しとどめて出てくる。
ここから長ゼリフが始まるのだが、この長ゼリフが物語に全く関係がない。
海老蔵演ずるところの影政は、そのツラネにおいて、ここに「まかりつんでた」自分は「柿の素袍に三升の紋」が目印の「成田不動の申し子」で、「清き流れの市川家」の自分が「筋を通すはおやじ譲り」だといって観客を笑わせる。さらに「おやじの口真似口拍子、ちったあ似たか」と続け(148〜149頁)
アンタ何を言っとる?
「自分が市川家の遺産相続を受ける」ということと、「親父もとっても役が上手でしたけど、それをマネしてる私もだんだん似てきて上手でしょう」。
威張っているだけ。
その後のセリフは笑う。
キャラクターを被って出てきておいて、その自分のところの名家を自慢して「親父も立派だった」という名優の親父を自慢しておいて締めくくりの言葉が
最後に−中略−
「歌舞伎ますますご贔屓のほど、ホホ、敬って申す」と結んで喝采を浴びている。(149頁)
シェイクスピアもこんなことはやらないし、劇団四季だってやらない。
『ライオンキング』で言わない。
崖の上に立って「劇団四季をよろしくぅ〜!」。
言わない。
これが終わらない。
今度は舞台の上に悪党の方が出てくるのだが、悪党の一人が声をかける。
これが決まっている。
影政に向って「どなたかと思ったら、成田屋の海老さま」と声をかける。
芝居として反則のように思えるが(150頁)
楽屋落ち。
身内の話だけでひたすら盛り上がる。
ところが、舞台の方の進行としてはこの突然の正義のヒーローの登場に悪党どもは大混乱しているという。
そして海老蔵の存在によってどんどん押されてゆくという話で。
本舞台の方の悪党どもが海老蔵に命じる。
鯰坊主が「揚げ幕の方へ」と答える。(149頁)
ものすごく重大なことを言っているようだが、出てきたところに「帰れ」と言っているだけ。
現代語で言えば「引っ込め!この野郎!」。
この「帰ぇれ、帰ぇれ」に対して
花道の七三から「揚げ幕の方へ」と頼まれても「イヤダ」と撥ねつけた影政は(157頁)
言った瞬間に大向こうから声が飛ぶ。
「イヨっ!市川!」
『(3年B組)金八先生』でやったら全く受けない。
ところが受ける。
そして権五郎の反逆が始まるという。
今、さんざん話しているが物語は何も進んでいない。
ただお家の自慢とお父さんの自慢をやった後「帰れ」「イヤダ、帰らねぇ」。
それだけ。
コントだったら4行で終わるぐらいの進行速度なのだが、これがやっぱり受けるところが・・・
命令に従わない違勅の罪だと答える武衡−中略−
に、影政は次のように詰め寄る。
「違勅の罪を糺さふなら、先づ差当り将門公、金冠白衣はどこからの、免があつて着さしつた。即位などとは片腹いたし。誰がゆるしたか、それをきゝたい」(158頁)
この権五郎が言っているのは「アンタこそ何だ?身分でもないくせに、そんな宮廷の服なんか着て。まさかアンタそれ帝様からお許しが出たからそれを着ていると言うんじゃなかろうなぁ」といういやがらせを言うと武衡さすがに困って
「サアそれは」
「自儘に着たか」
「サア」
「サア」
「サアサアサアサアサア」
「誰だとおもふ、アヽつがもねへ(トきつと見得)」(158頁)
この「つがもねえ」というセリフは、「団十郎家によって定着」したところの「荒事の詞」であり(159頁)
「つがもない」を「@すじみちがたたない。(158頁)
関東に残っている数少ない江戸弁。
「かったるい」とかと言う。
「かったるい」「かっとばす」
接頭語に「か」が付く。
「かっぽる」
掘ることを強めている。
それで「かっぽれかっぽれ」というのは土木作業をやっている人足の方の囃子言葉。
「掘れ」では響きが悪い。
そこから「かっぽれ」という踊りが始まった。
とにかくここで展開しているのは超人の話。
超人の威力を持つ権五郎。
彼が江戸の町の道理を守るスーパーパワーのいわゆる権現様としてふるまう。
そのことを観客とともに市川家が「どうだ、これが江戸の粋だ」というワケで。
これは面白い。
この間も日テレの『愛は地球(を救う)』で踊ってらした。
あれは悪きものを弾き飛ばすという市川家のスーパーパワーをご披露なさった。
それは代々市川家が背負った宿命。
そしてよくご存じの睨み。
一睨みすると疫病でさえもたじろぐという、あの市川家の睨みをおやりになったワケで。
そうやって考えると娯楽の中に疫病退散まで含めるという。
これは何でか?
市川家というのは弁慶役者。
弁慶をやるとやたら強そうに見える。
それで江戸の人が「市川家の弁慶を見ると風邪をひかない」という評判が立つ。
疫病、流行り病。
その当時、海老蔵が入ったお風呂のお湯を瓶に詰めて歌舞伎座で売った。
いわゆるみんなが求めるワクチン。
ご利益。
当代の歌舞伎役者というのは、そういうスーパーパワーの具現であった、というワケでいかな人気があったか。
この本を読んでいて武田先生が「そうか」と思ったのは、作家の方がおっしゃっているのだが「饗宴性」。
歌舞伎というのはこれなのだ、という。
お酒を一杯飲みながら美味いものをつついてハッと舞台を見ると元気が湧いてくるような名場面をやっているという。
それを役者と一緒に楽しもうという饗宴性が歌舞伎なんだ、という。
(本には「役者と役柄が二重写しになる饗宴性」とあるので、上記の意味ではないようだ)
どこでお弁当を食べるかも全部決まっていた。
本当に丸一日かけての娯楽で楽しめたというワケで。
結局は歌舞伎絶賛になってしまったが、もっともっと変わったという、その歌舞伎の中身をまた尋ねてみたい。