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2021年02月01日

京急急行の「コロナに負けるな!京急沿線商店街号」

相変わらず京急関連の情報を探しまくっているのだけれども、どうにも情報がしっかり入ってこないワケだけれども、それでも一応これは初日から情報は掴んでいたワケです。
にもかかわらず、ご紹介が遅くなったのは、実際に乗って写真を撮ろうってずっと思って日程を確認しまくっていたのにも関わらず、全くタイミングが合わなかったからってことで。
ラッピング電車は毎日何往復もしているのに、何でかちょうど出かけるタイミングには合わないんだよねぇ・・・。
ついにあきらめたので、乗っていないけれどもご紹介。

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動いているヤツを撮影したし、ちょっと距離もあったしで全然撮れていないけれども。

一番詳しい情報はこのあたり↓かな?
京急電鉄ラッピング列車「コロナに負けるな!京急沿線商店街」号 運行中(2月27日(土)まで) | Unique Ota
運行期間:1月25日(月)から2月27日(土)まで
車両:新1000系(赤・白)
京急線だけではなく、都営線、京成線、北総線まで運行します。


京急電鉄 (大手私鉄サイドビュー図鑑01)



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2020年10月26〜11月6日◆語り(後編)

これの続きです。

かたり。
「語り芸」という芸がある。
物事を語っているという。

「かたり」の日本思想 さとりとわらいの力学 (角川選書)



能・狂言のところはくたびれてしまって飛ばし飛ばしだったのだが、歌舞伎のところは圧倒的に・・・
四十代の始めの頃は、割と熱心に見たもので、歌舞伎に関しては「なるほどなぁ」と。
歌舞伎というのはストーリー全体を楽しむのではなくて、部分部分で抜き出して楽しむという、非常に変わった・・・
市川家というのはもっている。
成田屋。
その中で今週は「助六」を取り上げてみようと思う。
これも成田家十八番。
江戸のダンディーというか。

『助六由縁江戸桜』の舞台は吉原の三浦屋で、現行では、花魁たちが桜を愛でているところから始まる。そこに道々酒を勧められて酔った揚巻が現われ、−中略−揚巻に横恋慕する意休が、揚巻に対し助六を盗人だと卑しめつつ助六に逢うなと迫り−中略−揚巻の間夫である助六が下駄の強い響きを伴って花道に現れ(165頁)

「本物の恋人」という意味だろう「間夫(まぶ)」の伊達男・助六が当てつけに啖呵を投げつけるという。
周りの見物衆は全員花魁。
絢爛たる花魁が並んで御覧になるという。
そういう舞台。
これはやっぱり江戸歌舞伎だから江戸の人はもちろん、地方の人も江戸入門ということで見たようだ。
何でかというと助六を見ておくと、(色男だから)江戸でのモテ方が分かる。
いろいろ約束事があって、花魁からキセルを返してもらう。
あれが「付き合いましょう」というきっかけの合図らしい。
この助六はモテるので

 助六が床几に腰掛けると花魁たちからの吸付けたばこが次々と届く。−中略−「煙管の雨がふるようだ」の助六のセリフは(166頁)

モテない悪役、つまり自分が惚れている揚巻にちょっかいを出している男に向かって

足の指に煙管を挟んで意休に差し出す。(167頁)

礼儀知らずもいいところだが、このへんの助六の悪態に江戸の人たちは大喝采を送るという。
いわゆる不良。
それで何か咎められると助六は理屈を言う。

大きな面をする奴は脚であしれえ、無礼咎めをする奴は下駄でぶつ、ぶたれてぎしゃばらば引っこぬいてたたっ切る(167頁)

江戸時代の不良言葉なので難しい。
伊達男の極意を披露した。
助六のセリフの中に

男伊達の極意だ(167頁)

「伊達男」の「伊達」は「伊達藩」の「伊達」。
参勤交代で伊達藩から行列がたどり着く。
何ともはや、皆さん服装の趣味がいい。
仙台伊達藩というのは本当に小粋な人がズラーっと並んでいるので、「伊達からやって来た男」というので「伊達男」という。
何でそんなに伊達男が多かったのかは別の回にご披露する。
これが信長がアジア支配をたくらんで秀吉と家康にそのことを言っていたという話に繋がる。
この話に一枚加わってくるのが伊達政宗。
これがまた長い話になるのでちょっと置いておく。
とにかくそれぐらい伊達藩は景気がよかったという。

助六は嫌味を言う。

大門をぬっと潜るとき、おれの名を手のひらへ三遍書えてなめろ、一生女郎に振らるるという事がねえ。(168頁)

「成田屋!」という声が飛ぶ。
これも一種饗宴のセリフ。
つまり「愉快な名場面をみんなで見てウワーっとみんなで騒ごう」「やんやの喝采」という。
この歌舞伎独特ののり方、のせ方。
特に助六は色彩も美しい。
あの江戸紫、濃紫の使い方が見事。

先週お話した、この助六の中に江戸の自慢の「粋」と「張り」この二つがあって、助六が出てきたのはスーパーヒーローだが、ひそかに芝居小屋における神の登場。
怨霊として、霊として、助六は江戸を守るという使命を市民になり代わってやってくれる、そういうスーパーパワーだった。
このあたり歌舞伎の恰好よさ。

歌舞伎というのは皆さん方に話しやすいのと、『半沢直樹』あたりは歌舞伎の俳優さんばかり。
フジテレビでもやっていた『SUITS』。
ドラマ「SUITS/スーツ」 - フジテレビ
そこにも歌舞伎界の方がおられて、今はもう、歌舞伎の俳優さんは銀行ドラマとか弁護士ドラマに引っ張りだこ。
「何でかくも」という。
ちょっとやっかみも。
今年(2020年)はほとんど役をやっていない武田先生。
こうやって落ちぶれていく。
下り道を歩いている。
何で注目をされるかは現役を名乗る以上は学ぼうとしなければ。
これはやはり「見得」。
はっきり言って普通の劇団の俳優さんだったらできないような大きな見得芝居ができる。
何でかというと歌舞伎にはケレンがある。
外連味(けれんみ)という。
わざと大袈裟にやって気を惹くというようなお芝居。
そういうのが平然とおできになるところがすごい。

それに歌舞伎の人は鍛えられている。
名誉もあるので楽屋話のことなのでお許しいただきたい。
名前は出せないが。
歌舞伎の人はちゃんと遊んでいる。
「ちゃんと遊ぶ」というのが難しい。
コツコツ働いて、いくらかでも稼いで事務所に入れるのが芸能人の務め。
それはわかる。
だが、やはり遊ばないとダメ。
歌舞伎の人は遊んでいる。
スキャンダルになっても「芸の肥やしだから」と、みんながどこかで「まあ、しょうがないか」というのがあると思う水谷譲。
それが自分の好きな遊びばかりではないところが、この梨園の方々の凄いところ。
一回悩みを聞いたことがある武田先生。
彼はもちろん女性が好き。
舞台公演がかかっている時にも「跳ねたらもちろん・・・」というような方。
ところがお父さんから呼ばれて「なんてことだい。情けねぇったらありゃしねぇ。女ばっかり遊んでどうするんだ。え?そんなことじゃあオマエ、助六はできても、あの役とあの役はできないよ」というので男性にもちゃんと・・・
それができないと「あの演目ができない」とお父さんに言われてしまう。
「あの演目」というのが江戸期に夜の世界で流行していたという衆道(しゅうどう)という男性が男性を好きになる、男性が美少年を好きになるという色の道。
幕末のお侍さんたちは勤王の志士もみんな若い時はそうだった。
坂本龍馬は変。
「女しか手ぇ出さない」と結構悪口を言う人がいた。
歴史上の人物で最も変わっている色気の方では龍馬と秀吉。
「女しかダメだった」という。
他の方は西郷さんもイケメンの美少年が好きで。
そういう子を置いていたというようなこと。

これは言ってしまってもいいと思うが、「LGBT」レズ・ゲイ・バイセクシュアル・トランス。
この性のラインを平然と超える世界が歌舞伎。
この性を超えるどころか善悪も超えるところが歌舞伎の妙がある。

エピソードだが五代目菊五郎。
息子が産まれたと聞いた瞬間、その楽屋でつぶやいた一言。
「今度のガキゃぁ、仁木ができる面相か?」
『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の中に悪党で仁木弾正(にっきだんじょう)が出てくる。
あれは花道から青白い顔で、デンデ〜ンデンデ〜ンデンデ〜ンと仁木が出てきて凄味がある悪党。
あの役ができるようなハンサムボーイじゃないとダメだ。
つまり、女にモテる色気と、悪ができる容貌を持っていないとダメだという。
そうでないと歌舞伎役者は務まらない、と。
大悪党で妖気漂う悪人。
しかも姿がよくないと、あの仁木弾正はできない。
その他にも女衒(ぜげん)、女を騙くらかして弄ぶという悪党ができないとダメ。
(『桜姫東文章』の)釣鐘権助(つりがねごんすけ)なんていうのは片岡仁左衛門が得意とした色男のブラック版。
顔で女を弄んで叩き売っちゃうという。
はっきり言えば釣鐘権助なんかができる風貌というのはGACKTとかROLAND。
「(ROLANDのマネで)ボクかボク以外か」
そういうセリフが似合うぐらいの色気がないとダメだ。
つまり、歌舞伎において「悪を演じる」ということは役の厚みを知ること。
その中で『三人吉三(さんにんきちさ)』これは異常。
三人「吉」が付くという半グレの若者が集うのだが、一人の吉三(お嬢吉三)は女装趣味。
女の恰好をしている。
しかも安心した女性を殺してしまう。
そこから始まる。
非常に身分の低い売春婦を殺して、その女が命がけでせしめた百両を握りしめて囁くセリフがもの凄い、という。
ジェンダーを超えて、しかも善悪も超えて悪党の半グレ物語。
坊主の失敗作とお侍の失敗作と役者の失敗作というか、とんでもない半グレの若者がいて、それが路上の夜鷹を殺して百両をまんまとせしめるという。
そして犯行現場も決まっている。
隅田川河口。
佃島のあたり。
夜鷹という女性、夜の商売の方を川の中に突き落としておいて殺したお嬢吉三のつぶやくセリフ。

月も朧に 白魚の
篝(かがり)も霞む 春の空
−中略−
竿の雫か 濡れ手で粟
思いがけなく 手に入る百両


七五調の見事なセリフだが、犯行現場。
今、人を殺したばかりの男がそう言う。
しかも女装。
続けて言う。

西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし


何と「厄払いで人を殺した」という。
しかもこれは節分の夜。

豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ


隅田川、佃島の川辺の犯行現場。
殺人をした女装趣味の半グレの男がこう言う。
「こいつぁ春から 縁起がいいわえ」
強盗殺人の犯行を「春から縁起がいい」と謡うという。
最低な奴ら。
この後、この百両の取り合いとなって浪人崩れの吉三(お坊吉三)が登場し、立ち回りが始まろうとする瞬間に、知恵者の坊主の吉三(和尚吉三)が現われて中に入って「このケンカ、ひとまず俺に預けてくれ」というので、さらなる悪事をたくらんで名を成すという。
これが『三人吉三』。
歌舞伎の演目。
これは生々しい。
お互いの手を切って血を舐めあう。
非常にセクスィーというかゲイの「契り」というか、そういうものを感じさせて。
彼らは三人で死んでいくところでお終いなのだが、この悪は一体何なのか?
こういう悪党は『三人吉三』だけではない。
水谷譲も知っている通り『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』。
これは機動隊を前に大立ち回りを演じ、傘を広げて自分の罪状を全部自分で言う。
中でも水谷譲が言ったのは弁天小僧菊之助という方で、この方も女装趣味の恐喝犯。
女装をして上がり込んで正体がバレると黙秘などしない。
自分で自分の前科を言ってしまう。
バレていないことも喋ってしまう。
弁天小僧菊之助は何と言ったか?
「知らざあ言って 聞かせやしょう」
「吐け!」とか言われないのに。

知らざあ言って 聞かせやしょう
浜の真砂と 五右衛門が
歌に残せし 盗人の
種は尽きねぇ 七里ヶ浜
その白浪の 夜働き
以前を言やぁ 江ノ島で
年季勤めの 児ヶ淵(ちごがふち)


「湘南の砂粒と同じぐらい、悪い人がいくらでもいたんだ」「俺も所詮砂粒よ」
ちょっとサザンオールスターズがかっている。
湘南サウンズ。
「年季勤めの 児ヶ淵」
若い時から男の人に色気を使ったという。

枕捜しも 度重なり
お手長講と 札付きに
とうとう島を 追い出され
それから若衆の 美人局(つつもたせ)


湘南海岸の方で働いていて男の人を口説く男となって、生臭い坊さん相手に男の色気を売ってたかと思ったら、「枕捜しも 度重なり」人が寝ている隙に枕元から銭を持っていって「置き引き」。
置き引きをやって、そこをとうとう追い出されて、「それから若衆の 美人局」というからホストをやりながらというような環境。

似ぬ声色で 小ゆすりかたり
名せぇ由縁(ゆかり)の 弁天小僧
菊之助たぁ 俺がことだ


全部自分から言ってしまう。
これが歌舞伎の解釈ということであれば、歌舞伎というものは人間の捉え方が実に深い。
今のいかな芸能よりも深い。
弁天小僧菊之助。
万引きから置き引き、窃盗、ホストから恐喝。
これをやったということを話してしまう。
何故かくも歌舞伎は悪を描きたがったか?
その他にも歌舞伎が描くのは不倫、心中、殺人、不忠、旦那様を裏切るということ。
「哀れ」は描かない。
能に対し歌舞伎は生々しく「これが人間だ!」という、この悪を以ても人間を描こうとする、このあたりの面白さ。

歌舞伎の人間観。
なぜ歌舞伎はかくも悪を描くのか?
それも男性同士の愛等々。
そういうものを描くのか?
それは歌舞伎というのは人間の生々しさ、それは内に「魔」を秘めているんだ、と。
「自分だけが得をしたい」
この手の人間の手足を汚しながらしか人は生きていけない、という事実を言う。
その悪を正義によって叩き潰される瞬間、歌舞伎は悪の見せ場として侍と同じ道徳「潔さ」保身に走らない。
絢爛として悪の華を咲かせ、悪を謡うところに粋を感じた。
だから悪いことをしたワリには歌舞伎のセリフを言っているとだんだん調子づいていく。
悪の哀れを捉えつつもそこに悪の華を咲かせる潔さ。
それをお芝居で見せた、ということなのだろう。
日本の芸能は能、狂言、落語、講談とあり、その伝統は今も続いている。
すごい伝統。
奇跡のようなもの。

この間、原稿をチェックしたら、自分で書いた文章を面白く読んだのだが、倭人、日本人というのは裸になりたがる。
温泉とか行くと、すぐに男の人は浴衣の袖をまくる。
あれを儒教の国、韓国はすごく軽蔑する。
それどころか頑張ったことを「裸」で例える。
裸一貫。
それは礼儀にかなっていないので韓国の方は軽蔑なさる。
韓国の多くの国民が、北朝鮮も含めて目を背けたのではないか?
それは何か?
アメリカ大統領が来た時に相撲を見せて拍手を送って大統領を迎えたという。
【写真で見る】 大相撲を楽しむトランプ米大統領 現職として初めて - BBCニュース
裸の男たちの闘い。
ケツ丸出し。
それを安倍さんが案内したという。
日本の裸文化というのはそういうもの。
これも歴史と伝統に則るワケで。
年に何回かは皇室とかも御覧になるということだから。
でも韓国の方は寒気がすると思う。
ほとんど全裸に近いワケだから。
かくのごとく文化が違う。
日本の方はというと、この「悪を描く」ということに関してもそのような。

歌舞伎が持っている、あるいは日本の芸能が持っている「人間の本性を舞台にする」という、それがまんざらつかみで話した話から外れていない。
高田屋嘉兵衛の話をした。
あれは日本の芸能から人間の粋とか筋を学んだ。
それが対ロシア外交に当たる時も通用した。
高田屋嘉兵衛という人は当時の倭人でありながら、アイヌの人たちに関してもの凄く親切だった。
それは彼が日本の芸能から学んだのではないか?
いじめるヤツに関してすごく彼は軽蔑したという、そういう道徳観を芸能から得ていた。
日本の芸能・歌舞伎。
この伝統は今も続いていて、その真髄は変わっていない。
「張り」と「粋」「意地」。
そういう東大では教えてくれない人間の生き方なのではないか?
外交の才を育んでくれたのは、実は日本の芸能ではなかったかと。
そのような芸能に武田先生も身を投じたかったのだが、この程度で終わってしまった。
これからの方はぜひ、そのプライドを持って欲しい。

日本の芸能。
能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎、講談、落語。
あるのだが、語り尽くせぬところがあるので歌舞伎にだけ集約させてもらった。

助六の話をしていた。
「助六寿司」という寿司の種類があるが、中においなりさんと巻き寿司が入っている。
いなりの「揚げ」と海苔「巻き」が入っている。
助六の恋人の「揚」「巻」が入っているので、あのお寿司のことを「助六」という。

自分でも大衆演劇の舞台に立ったことがあるが、フッと思ったりする。
何を思ったかというと、奈落の上が花道。
花道の下は奈落。
そうやって考えると「奈落に落ちても、その真上に花道があると思えば」とか。
「花道に立ってもその下に奈落がある」ということにもなる。
その覚悟を持っていないと、本舞台にはたどり着けないという。
初日なんていうのは劇場の方々が何気ない心遣いを見せてくださるのがゾクっとする。
座長の上り口のところにちっちゃな陶器のアリの人形が一個置いてあったりして。
楽屋のおばさんに「このアリの人形は何ですか?」と言ったら「行列ができますように」。
験担ぎ。
楽屋の出入りに必ず一日が柏手で始まる。
そのあたりはゾクっとする。

高等教育も受けていない高田屋嘉兵衛が日本の芸能から様々な人間観を学んで、いわゆる異国との交渉に亘ったというような話から始まった先週。
最後は一つ、上方落語、桂米朝で締めようかと。

『米朝全集』に『まめだ』という新作の落語が載っている。−中略−人がさしている傘の上に載って遊ぶいたずらな豆狸(まめだ)の噺である。下役の歌舞伎役者が帰り道にこれをやられ、腹を立ててトンボを切ると「ギャッ」と声がする。「ざまあみされ」と言い捨てて男は自宅に帰る。と、翌日から、母親の商いである一貝一文の膏薬の勘定が合わなくなる。必ず一銭足りず、代わりに銀杏の葉っぱが一枚交じるようになる。不思議に思っていると、しばらくして、体中に貝殻を付けたまめだの死骸が見つかる。葉っぱは、自分の傷を治そうと、膏薬を求めたまめだがもってきたものだった。−中略−
 親子の者と、お寺の和尚さんとが、じいーっとしばらく埋めたところを見てますと、秋風がさーっと吹いてくる。銀杏の落ち葉が、はらはら、はらはら、はらはら、はらはらと、狸を埋めた上に集まってきます。
「お母さん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」
(249
〜250頁)

(番組では狸が死んだのは寺であるかのように言っているが別の場所。「一文足りない」と言っているが、本によると上記のように「一銭」。「ぎょうさん香典が〜」と言ったのは和尚ではなく膏薬売りの息子である歌舞伎役者)

米朝のいう落語の「文学」性と、落語という「かたり」のかすかな統一が窺えるように思える。(250頁)

嘘には嘘の味わいがあるというところが日本の芸能のすばらしさ。


posted by ひと at 08:56| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月26〜11月6日◆語り(前編)

人生の教養を高める読書法



(番組中、たびたび新刊『人生の教養を高める読書法』が紹介される)

「かたり」の日本思想 さとりとわらいの力学 (角川選書)



(番組の公式サイトではネタ元の本のタイトルは『語りの日本思想』となっていたが、実際には『「かたり」の日本思想』。ネタ元のリンク先は Kindle版になっていたが、ページ数などは普通の紙の本の方に従った。 Kindle版も同じかも知れないけれども)
この(本の)タイトルに惹かれた武田先生。
なぜなら今、「かたり」で自分の新しい芸ができないかと思って模索中なので。
「三枚おろし講談師版」みたいなヤツをやりたいなと思っているので「かたり」に惹かれたのだが、「かたり」というのがまた独特。
「語って聞かせる」の「かたり」もあるが、詐欺師のことも「かたり」。
「騙りやがったな!」という。
そういう意味で非常に両極のある言葉である故に惹かれる。
この本の中身はというと、その悪い方の「かたり」ではなく、「語り芸」の「かたり」。
能、狂言、そして歌舞伎も「語り芸」である。
そして語り芸の代表的なもので落語、講談。
これは相当歴史は古いのだが、形を変えながら現代まで連綿と継がれているという。
この本の中身そのものは途中から急に難しくなって、ちょっとそこのところは飛ばし飛ばし。
どうぞ著者の方はお許しくださいませ。
理解できるところまで拾ったということで。

合本 菜の花の沖【文春e-Books】



この本に惹かれたもう一つの理由が、司馬遼太郎作品に『菜の花の沖』という江戸後期、淡路島の貧農に生まれた嘉兵衛という男。
この男が土を捨て海に生きるという物語があって、北前船の船頭になって一攫千金を狙うという。
この北前船というのが日本経済の大動脈で「商品経済の海に身を投じた」ということで。
この方は後々変遷があり、ロシアの方に拿捕され囚人扱いを受けるのだが、『菜の花の沖』によればこの人が凄い。
2〜3か月でロシア語の基礎編をほとんど覚えたという。
それでたった一人でロシアと交渉に当たる。
今だってロシアとうまく交渉できていない。
ところがこの高田屋嘉兵衛という人物は、たった一人でロシアと日露交渉を単独でやって、両方を丸める。
これは凄い才能。
しかも残っているエピソードだが、この高田屋嘉兵衛がウラジオストクの港を離れる時、港にロシア海軍の水兵さんが全員並んで「ウラー!(「万歳」を意味するロシア語)キャプテン!」。
この人はロシア艦が嵐に遭った時に、ロシアの船を指導して運行させたという。
今も北方領土あたりがうまく交渉に乗ってくれないのは、この手の人材がピタっと止まっているところが無念。
ただ、ゆっくり近づいてきているので必ず日本の領土になると思います。
このロシアと交渉にあった高田屋嘉兵衛という人にどれほどの教養があったかなというと、その中ですごく気になる文句が『菜の花の沖』の中にあって、高田屋嘉兵衛が教養として仕入れたのはおそらく大阪の町で見かけた浄瑠璃ではなかったろうか?
人形浄瑠璃。
「ととさんの名は・・・」というような大衆娯楽。
そういうものを見て教養にしたのではないか?という。
司馬遼太郎さんが言うことだから間違いないと思う。
まあ、文字は書けた、字は読めたにしても、世間、あるいは国際法に則って行動できるほどの知恵を浄瑠璃から学んだとすれば、では一体、人形浄瑠璃というそういう大衆芸能から嘉兵衛は何を学んだのか?
歌舞伎にしてもそうだが娯楽だから。
娯楽の分野の中に外交にも通じる何かがあったのではないだろうか?と思っている時にわかりやすい出来事があった。

能、狂言、歌舞伎、落語とあるが、水谷譲もお好きな歌舞伎。
むやみに最近活躍している。
ドラマもそうだし『愛は地球を救う』の飾りの方も市川家の方が踊ってらっしゃった。
市川海老蔵と岸優太(King & Prince)一夜限りのスペシャル歌舞伎を今夜生披露!
ドラマの方はというと「倍返しだ!」。
申し訳ない。
はっきり言わせてもらう。
金融関係の人であんな顔をした人はいないと思う。
「それは・・・それは・・・それは〜!!!!!!!」
でも謎に挑もう。
なぜあの大評判「ドラマのTBS」。
数々のヒット作を飛ばした、ドラマで日本を動かしてきたTBSのドラマ。
それが復活せんばかりの勢いで『半沢直樹』。

半沢直樹(2020年版) -ディレクターズカット版- DVD-BOX



このヒットの原因は何か?
勧善懲悪だったらいくらでもある。
沢口靖子さん「それはおかしい。もう一度調べ直しましょう」とかというヤツ(ドラマ『科捜研の女』シリーズ)も。
「顔芸」ではないかと思う水谷譲。
一番の謎は、あのドラマの監督さんがなぜかしら主要なキャスティングに全て歌舞伎役者を配してあるという、このあたりにヒットの原因が。
歌舞伎から現代を読み解きましょう。

高田屋嘉兵衛という人が、ロシアと交渉をしてうまくいったという外交史。
これは幕末のこと。
日本を担うべき幕府方、松前藩幕府官僚がいっぱいいるのだが、ロシアとの外交交渉を解決する能力はなく、失策を重ねていく。
その中で拿捕された嘉兵衛は数か月で身の回りの世話を焼く少年からロシア語を教わり、日常会話を上達させて極東海軍の司令官に自ら交渉し、拿捕されたロシア側艦長との交換を以て自分を解放しろという交渉に乗り出してこれを成立させるという。
日露外交というのはうまくいかないのだが、たった一つうまくいったのが幕末のこの高田屋嘉兵衛。
そうやって考えると貴重な人材。
「外交問題を解決するためには高田屋嘉兵衛が見ていたという浄瑠璃とか歌舞伎とかを見た方がいいんじゃねぇか」という無茶苦茶な発想から始まった今週ではあるが、浄瑠璃とか歌舞伎の中には国際感覚を掴まえるべき、人間洞察があったのではないか?
この嘉兵衛という方はロシア水兵から慕われたというような人だから人種を超えた説得力を持っていたのだろう。
それが大阪の町で見た浄瑠璃なんかに影響されたとすれば、外交能力に成り得るのではなかろうか?と。
幕府、その当時の官僚は何をやっていたかというと日露が交渉するにあたって部屋に上がる。
その時にロシア側の銃の持ち込みは禁止。
日本側は小刀を差している。
それから畳を積み上げてテーブルの高さにしておいて座布団を敷いて乗ったという。
向こうは椅子に座ってもいい。
ロシア側が「土足で行きたい」。
当たり前だ。
向こうは脱ぐ習慣がないのだから。
それを断固拒否して揉める。
幕官僚というのはその程度の知恵しかない。
それで今もつながる発明品が日本で生まれる。
土足か土足でないかと揉めたので発明された「スリッパ」。
あれはその時に発明された。
だが、幕府官僚で作ったのがスリッパだけというのは考えてみれば情けない。
その高田屋嘉兵衛が自分の人間としての教養を芸能で学んだとすれば「芸能」「日本風の語りの世界」何かあるんじゃなかろうかということで今週取り上げている。

武田先生も一生懸命「能」のところも読んでみた。
能、狂言というのはあんまり弾まない。
「難しそうな気もするしとっつきにくい」と思う水谷譲。
「夢幻能(むげんのう)」という能は現実から離れる。
だから幽霊の物語。
いろいろなものが化けて出てくるのだが。
次元の違うものがそこで遭遇するという「死」を前提にした芸能が「能」。
だから非常にラジオでは語りにくい。
「面白く語れないかな」と武田先生も夢見た。
語りづらい。
語ってもいいのだが、皆さんすぐ退屈なさる。
語りやすいのは何か?というとこれは「歌舞伎」。
歌舞伎は先に言っておくが以外と中身は滅茶苦茶。
そういうと怒られるか。
能狂言は「橋懸(はしがかり)」というあの世とこの世を繋ぐ細い板の廊下があり、そこに登場人物が橋懸からあの世とこの世を結ぶ装置として役者が出てくる。
それで物語がそこに進行する。
能が闇を描こうとするのに対して歌舞伎は光を表現しようとする。
ギラギラしている。
そして歌舞伎が断固として叫んでいることは「人間性肯定」。
生き物を絶対に否定しない。
そして主人公は義理や忠義、人情に苦しむのだが、一本の筋を通す。
「張り」と「粋(いき)」。
この二つをドラマの中心に持ってきて人間を刺激していく。
最も嫌ったのが「ヤボ」。
このヤボの嫌われ方は凄い。
これは吉原で「あの人ヤボ」とウワサが立ったら百万都市の江戸に次の日、全部広がっている。
だから、お侍さんもお金持ちもあんまり無体ができずに花魁という人をどう扱うかが問題だが、無体なことをすると百万都市の瓦版でたちまち江戸中にその人の悪口が広がったというから、吉原は半分くらい『週刊文春』だった。
吉原で評判が上がるとこれが凄い。
江戸中の評判になって、たちまち歌舞伎の材料になったりするという。
その吉原あたりのところから戯作者、脚本家が出てきて筋を書いたという。
大阪の方では近松たちが上方文化ということで浄瑠璃芸能に。
江戸の方はというと歌舞伎、江戸歌舞伎というところが世間の面白いところを繰り広げたという。

人形浄瑠璃と歌舞伎を比較したが、どこが違うか?
浄瑠璃。
これはあくまでもストーリー。
人形浄瑠璃は物語をずっと語る。
ところが歌舞伎は通し狂言は少ない。
歌舞伎は「ええとこ取り」。
受けたところだけやる。
いいとこどり。
客に受けた一幕だけをストーリー全体に関しては「知ってるでしょ?ストーリーは」ということで『あしたのジョー』をラストの「燃えつきた・・・・」あそこだけで終わらせようとするような芸能。

あしたのジョー(1) (週刊少年マガジンコミックス)



それが歌舞伎。
歌舞伎はかくのごとく、その場面がいかに恰好いいかをみんなで楽しむという。
だから連続性無視。
はっきり言ってストーリーなんかどうでもいい。
だが、そのある場面のあるディティールがいいと、江戸中の評判になる。
典型、これが未だに伝説、レジェンドだが歌舞伎狂言にもあるが落語にもなったという。
中村仲蔵。
長い長い通し狂言の『忠臣蔵』。
その中で「ダレ場」と言って誰がやってもうまくいかない、パッとしない段がある。
それが「定九郎」というテーマに全く関係のないヤツ。
斧定九郎(おのさだくろう)の役なんかやりたがらない。
中村仲蔵がそこをやれと言われて「もっといい役やりてぇなぁ」と思うのだが、一生懸命考えた。
考えて、とある神社に「うまくできますように」とお祈りに行ったら、その目の前をゾクっとするような殺気溢れる浪人者が通った。
ザーッと雨の降る日で、その雨に濡れて前髪から雫が垂れ落ちてギロッと睨む目つきがゾーッとするような男。
これをこの仲蔵「天からのヒントだ!」と思い、斧定九郎を演じるその場面で真っ白けに顔を塗って、それに目鼻を描いて登場する直前に何を思ったかザバーン!と水を浴びた。
そうすると夕立にしこたま濡れた目殺気いっぱいの浪人者が舞台に登場する。
みんなダレ場で飯とか酒とか飲んでいる。
そこに定九郎が現れ、そのあまりの異様なメイクと扮装に「なんだありゃ?」「え?おいおい!あれ定九郎かい?」歌舞伎座にざわめきが。
その仲蔵の工夫が江戸中に広がってダレ場のその場を見るために満員のお客が詰めかけたという。
サザンオールスターズが中島みゆきの歌を歌うようなもの。



縦の糸はあなた(中島みゆき『糸』)
それが落語、更に講談になって中村仲蔵の工夫、そして中村というのが名を上げたという。
これが「かたり」。
知らないことを見てきたように話す。
つまりこの「見取り」といって歌舞伎、ディティールの細かさを拾っていく。

歌舞伎の特徴の一つである見得がそうである。見得が切られるとき、その芝居は「その一齣が一幅の絵の構成をなすような配置をとって瞬間停止」する。(144頁)

卑怯といえば卑怯な手。

セリフのない時、役者は、ひな人形のように横並びにじっと動かないでいる(145頁)

そこをゆっくりやる。
ところがこの手法を日本の映画が取り入れて、人が斬り合うところをスローモーションに落とした。
多分歌舞伎からきている。
あくまでも「かたり」。
歌舞伎の持っているそういう演劇的要素。
スローモーションでゆっくりやっておいて大向こうから「たっぷりと!」と言うともう一回同じことをやる。
猿之助さんを見て呆れかえった。
弁慶をやってらして、花道の手前、七三のところで弁慶が大見得を切る。
見得を切ったと思ったら大向こうから「たっぷりと!たっぷりと!」とかと言われると、またもう一回やり直す。
リアルさゼロ。
それを平気でやる。
でもこのあたりが日本人の神経をもの凄く興奮させる。
見たい場面をゆっくりやっている。
見たい場面を何回もやってくれる。
それとつかみで申し上げた大評判で九月末で終わってしまったが『半沢直樹』。
あれは考えてみたら現代版の中村仲蔵(の斧定九郎)。
あれは見得を切っている。
見得を切れる人が他の分野にいない。
なぜいないか?
恥ずかしい。
リアルな芝居をずっとやってきたら、目ん玉に血の筋を入れてロケで「土下座しろぉ〜!」とやる。
いない。
そのいないところをドラマにしたのがさすがドラマのTBS。
素晴らしい才能。
他の局を褒めているヒマはない。

繰り返し言うが歌舞伎はやっぱり演劇として異様なのだ。
逆の意味でいうとあのお芝居は使えない。
歌舞伎みたいな独り言を言う人はいない。
「ヤツがそっちへ来たというこたぁ〜!」
歌舞伎ファンの方も『半沢直樹』ファンの方も、ここから「いかに歌舞伎が異様か」というのを見てみたいと思う。
成田屋。

『暫』は、時代を平安時代末期、季節を早春、場所を鎌倉鶴岡八幡宮と設定している。−中略−まず舞台中央に、悪役たることを示す青い隈取をした金冠白衣の清原武衡がいる。これが「ウケ」と呼ばれる悪役の頭目であり、公家悪と呼ばれる妖気さえ漂うような堂々たる姿をしている。正面から見てその左側の壇上に−中略−武衡の家来たちがいる。−中略−ここまでは全て悪人である。(144〜145)

 やがて花道に鎌倉権五郎影政が姿を現す。景政は、正義の主人公を表す紅隈を施し、髻には力紙を付け、床に届くほどの巨大な袖には市川家の紋「三升」を大きく染め抜いた柿色の素袍を纏う、という異様な姿である。(148頁)

キャスティングは宿命で決まっている。
この『暫』の主役、鎌倉権五郎影政ができる人はただ一人、市川家という歌舞伎の家に生まれた海老蔵という人しかできない。(という事実はない模様)

揚げ幕の奥から「しばーらーくー」と素晴らしい大音声が響いてくる。英雄鎌倉権五郎影政の登場である。(146頁)

英語で言うと「wait」。
「しばらく」と、押しとどめて出てくる。
ここから長ゼリフが始まるのだが、この長ゼリフが物語に全く関係がない。

海老蔵演ずるところの影政は、そのツラネにおいて、ここに「まかりつんでた」自分は「柿の素袍に三升の紋」が目印の「成田不動の申し子」で、「清き流れの市川家」の自分が「筋を通すはおやじ譲り」だといって観客を笑わせる。さらに「おやじの口真似口拍子、ちったあ似たか」と続け(148〜149頁)

アンタ何を言っとる?
「自分が市川家の遺産相続を受ける」ということと、「親父もとっても役が上手でしたけど、それをマネしてる私もだんだん似てきて上手でしょう」。
威張っているだけ。
その後のセリフは笑う。
キャラクターを被って出てきておいて、その自分のところの名家を自慢して「親父も立派だった」という名優の親父を自慢しておいて締めくくりの言葉が

最後に−中略−「歌舞伎ますますご贔屓のほど、ホホ、敬って申す」と結んで喝采を浴びている。(149頁)

シェイクスピアもこんなことはやらないし、劇団四季だってやらない。
『ライオンキング』で言わない。
崖の上に立って「劇団四季をよろしくぅ〜!」。
言わない。
これが終わらない。
今度は舞台の上に悪党の方が出てくるのだが、悪党の一人が声をかける。
これが決まっている。

影政に向って「どなたかと思ったら、成田屋の海老さま」と声をかける。
 芝居として反則のように思えるが
(150頁)

楽屋落ち。
身内の話だけでひたすら盛り上がる。
ところが、舞台の方の進行としてはこの突然の正義のヒーローの登場に悪党どもは大混乱しているという。
そして海老蔵の存在によってどんどん押されてゆくという話で。
本舞台の方の悪党どもが海老蔵に命じる。

鯰坊主が「揚げ幕の方へ」と答える。(149頁)

ものすごく重大なことを言っているようだが、出てきたところに「帰れ」と言っているだけ。
現代語で言えば「引っ込め!この野郎!」。
この「帰ぇれ、帰ぇれ」に対して

花道の七三から「揚げ幕の方へ」と頼まれても「イヤダ」と撥ねつけた影政は(157頁)

言った瞬間に大向こうから声が飛ぶ。
「イヨっ!市川!」
『(3年B組)金八先生』でやったら全く受けない。
ところが受ける。
そして権五郎の反逆が始まるという。
今、さんざん話しているが物語は何も進んでいない。
ただお家の自慢とお父さんの自慢をやった後「帰れ」「イヤダ、帰らねぇ」。
それだけ。
コントだったら4行で終わるぐらいの進行速度なのだが、これがやっぱり受けるところが・・・

命令に従わない違勅の罪だと答える武衡−中略−に、影政は次のように詰め寄る。
「違勅の罪を糺さふなら、先づ差当り将門公、金冠白衣はどこからの、免があつて着さしつた。即位などとは片腹いたし。誰がゆるしたか、それをきゝたい」
(158頁)

この権五郎が言っているのは「アンタこそ何だ?身分でもないくせに、そんな宮廷の服なんか着て。まさかアンタそれ帝様からお許しが出たからそれを着ていると言うんじゃなかろうなぁ」といういやがらせを言うと武衡さすがに困って

「サアそれは」
「自儘に着たか」
「サア」
「サア」
「サアサアサアサアサア」
「誰だとおもふ、アヽつがもねへ(トきつと見得)」
(158頁)

この「つがもねえ」というセリフは、「団十郎家によって定着」したところの「荒事の詞」であり(159頁)

「つがもない」を「@すじみちがたたない。(158頁)

関東に残っている数少ない江戸弁。
「かったるい」とかと言う。
「かったるい」「かっとばす」
接頭語に「か」が付く。
「かっぽる」
掘ることを強めている。
それで「かっぽれかっぽれ」というのは土木作業をやっている人足の方の囃子言葉。
「掘れ」では響きが悪い。
そこから「かっぽれ」という踊りが始まった。

とにかくここで展開しているのは超人の話。
超人の威力を持つ権五郎。
彼が江戸の町の道理を守るスーパーパワーのいわゆる権現様としてふるまう。
そのことを観客とともに市川家が「どうだ、これが江戸の粋だ」というワケで。
これは面白い。
この間も日テレの『愛は地球(を救う)』で踊ってらした。
あれは悪きものを弾き飛ばすという市川家のスーパーパワーをご披露なさった。
それは代々市川家が背負った宿命。
そしてよくご存じの睨み。
一睨みすると疫病でさえもたじろぐという、あの市川家の睨みをおやりになったワケで。
そうやって考えると娯楽の中に疫病退散まで含めるという。
これは何でか?
市川家というのは弁慶役者。
弁慶をやるとやたら強そうに見える。
それで江戸の人が「市川家の弁慶を見ると風邪をひかない」という評判が立つ。
疫病、流行り病。
その当時、海老蔵が入ったお風呂のお湯を瓶に詰めて歌舞伎座で売った。
いわゆるみんなが求めるワクチン。
ご利益。
当代の歌舞伎役者というのは、そういうスーパーパワーの具現であった、というワケでいかな人気があったか。

この本を読んでいて武田先生が「そうか」と思ったのは、作家の方がおっしゃっているのだが「饗宴性」。
歌舞伎というのはこれなのだ、という。
お酒を一杯飲みながら美味いものをつついてハッと舞台を見ると元気が湧いてくるような名場面をやっているという。
それを役者と一緒に楽しもうという饗宴性が歌舞伎なんだ、という。
(本には「役者と役柄が二重写しになる饗宴性」とあるので、上記の意味ではないようだ)
どこでお弁当を食べるかも全部決まっていた。
本当に丸一日かけての娯楽で楽しめたというワケで。

結局は歌舞伎絶賛になってしまったが、もっともっと変わったという、その歌舞伎の中身をまた尋ねてみたい。



posted by ひと at 08:38| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする