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2021年02月05日

2020年9月7〜18日◆ドナルド・キーン(後編)

これの続きです。

ドナルド・キーンさんの人生を振り返っている。
アメリカのニューヨークに1922年に生まれて、そこで英訳の『源氏物語』を読むことで日本という国に魅せられる。
「日本語勉強したいなぁ」という知的好奇心でそう思っていたら、その国が真珠湾攻撃で戦争状態に入った。
日本語を学ぶためにはどうするかというと、諜報活動の一環として日本語が使えるアメリカ軍人になって、日本語を仕込んで諜報活動、残された書類とか捕虜の尋問から新しい情報を引き出すという兵士になって、活躍するという。
一番最初は最前線基地のハワイにいて、そこで日本語で捕虜に接したり、南の島から大量に見つかる日本兵士の日記等々で次なる日本軍の作戦を予想したりとするような諜報活動をやっておられたのだが

一九四三年の三月、−中略−雪が一面に広がるアッツ島に着きました。アッツ島は日本兵の最初の「玉砕」の地として知られます。アメリカ人は「バンザイ突撃」と呼びました。五月二十八日、島に残っていた千人余りの日本兵がアメリカ兵めがけて突撃を開始しました。(142頁)

そのとき、最後の手榴弾を、なぜアメリカ兵に投げずに、自分の胸に叩きつけたのか。−中略−彼らはこうして集団自決を遂げたのです。捕虜になったのは二十九人だけでした(142頁)

誰も進んで捕虜になった人はいない。
重症で動けなくて捕虜になってしまった。
その29人への尋問がドナルド・キーンさんに命令された。
キーンさんと相棒の方は例のオーティス・ケーリさん。
小樽の小学校に行っていた牧師さんの息子さんで、生き残りの29人の捕虜の尋問は二人がコンビを組んでやったらしい。
このオーティス・ケーリさんというのは相当日本語が上手かったようで、ドナルド・キーンさんの自慢の友達。
「今日の取り調べはこれでお終いです」と言った後、ケーリさんが「アナタ日本のどこで生まれたの?」と訊く。

その中に一人、北海道の小樽出身の人がいて、同じ小樽で少年時代を過ごしたケーリさんが、嬉しそうに懐旧談にふけっていたのを思い出します。(142頁)

次の日から思い出話だけにふける。
それをキーンさんはジーっと見ていて「いいなぁ」と思った。
(このあたりも番組ではかなり脚色されて語られている)
いい話。
これは朝ドラにしないと。
この29人の捕虜を取り調べたと言った。
ケーリさんがそんなふうにして北海道出身の者がいたりすると小樽の昔話か何かをワーッと盛り上がるもので、尋問が終わっての話は取り調べの部屋にはケーリさんと二人しかいないから、しかも日本語でやっているから周りに上官がいても理解できるものはいない。
ドナルド・キーンさんもできる人だからフリートークがやりたくなった。
それである日のこと、29人の捕虜の一人、相当上の人、少尉か何かだったがその人に向かってドナルド・キーンさんが「中学校とか高校で読んだ名作ってありますか?」と訊いたという。
そうすると「芥川は読んでましたねぇ」と。
「ああ・・・龍之介はいいねぇ〜」と言いながら二人で『鼻』とか『芋粥』の話をする。
(このあたりの話も本の内容とは異なっている)
29人の捕虜に、後に戦後日本の社会で作家になったという方が何人もいらっしゃる。
(尋問はアッツ島で捕虜になった29人以外も対象だったので、実際には別の戦地の捕虜も含まれる)
こんなふうにしてキーンさんは文学の話をどうしてもしたかった。
そして日本語のとても上手な相棒、ケーリさん。

 ケーリさんはハワイで捕虜収容所の所長というたいへん大事な任務に就きました。−中略−もう日本には帰れないと悲観する捕虜たちに、何とかして日本に帰る勇気を与えようと心を砕いていました。(53頁)

余談ながら中世の騎士道が戦場にあったようだ。

ドナルド・キーンは日本文学に夢中で、最後はとうとう日本人として亡くなられたという。
アメリカ・ニューヨークに1922年に生まれた方。
武田先生が語っているのは二十代のキーンさんで、その頃のキーンさんはハワイにおられて、日本の兵士たちの捕虜の尋問を行ったり、残された書類から日本軍の動向を探るという情報活動の武官。

 当時わたしたちは、週に一日分の休暇をとることを許されていました。−中略−ハワイ大学で日本文学を勉強することにしたのです。(147頁)

アメリカと日本は戦争をしていて、わたしたちは戦争のためにハワイに滞在している兵士だったわけですが、その戦争中のハワイ大学で、充実した日本文学の授業が行なわれていたのです。(148頁)

これがアメリカの持つ「自由」と「多様性」。
アメリカというのはやっぱりそこが深い。
中国が香港の自由を認めないということにした。
そのことに対してトランプ大統領が「何だオマエの国は」と言ったら黒人の暴動が起きて、大統領が軍隊まで使ってその勢力を「抑えるぞ」と脅かすと中国の人が笑った。
「人のこと言ってる場合じゃない。オマエだってやってるじゃねぇか」と言ったのだが、ここから中国の方が聞いてらしたら覚えておいてください。
黒人の人たちが大騒ぎになって「州兵なんかでカタが付かないんだったら軍隊使うぞ」とトランプさんが言った。
その時に軍の最高トップが「我々は、たとえ大統領の命令であってもアメリカ人を守りはするが、アメリカ人に向かって銃口は向けない」と言った。
大統領の考えであっても、その命令に・・・という。
アメリカはここが凄い。
そういうふうに言ってしまうということは大統領にも反発するということ。
「あなたが間違っていた」と判断した場合は命令には従わない。
まして「アメリカ国民はあなたが『アメリカの名に於いて撃て』というなら我々は撃たない」という。
これはやっぱりアメリカの持っている自由と多様性。
その一端。
日米開戦で血みどろの戦争をやっているのに、パラオのガダルカナルは両軍の兵士の血で血みどろの「オレンジビーチ」。
それぐらいの死闘を日米両国は続けているのに、大学では日本文学が学べる。
この自由が怖い。
キーンさんはこのハワイの大学で芥川龍之介から谷崎潤一郎を読み込んでいる。
キーンさんは谷崎の名文に惚れる。
この時、キーンさんは日本語で日本文学を読んでいる。
この人の日本語能力もグングン上がってくる。

一九四五年の夏、戦争が終わり−中略−わたしはグアムで終戦を迎え、中国の青島を経てアメリカに帰る途中で終戦直後の日本に立ち寄りましたが、焼け野原の東京を見て、わたしも絶望的な印象を持ちました。−中略−この都市が立ち直ることはほとんど不可能だと思われました。この先、日本語の力は役に立たないだろうと思う人がほとんどでした。中国こそは東洋文明の源泉で、近いうちに東アジアにおける強国の座は日本から中国に移るだろうといった考えから、将来性を見込んで中国語に切り替える人もいました。(155頁)

それで「中国語にするか」と。
それでキーンさんは1945年から中国の名作を読む。
ちゃんとブレてらっしゃるところがキーンさんのキーンさんらしいところ。
(番組では日本語学習を辞めて中国語に切り替えたかのような言い方をしているが、この時期、中国語と並行して日本語も学んでいる)

中国語のほうは『紅楼夢』という小説を原文で読む授業を受けました。『紅楼夢』は十八世紀の中頃に書かれた中国の名著として知られる代表的な作品ですから、中国文学を志すなら読まないわけにはいきません。−中略−しばらく読み進めるうちに、わたしは憂鬱になってしまいました。わたしにはこの小説が好きになれないどころか、嫌悪感を催してしまったのです。(157〜158頁)

戦争が終わったのでこの後大学に帰るのだが、日本語ができるといっても職場がないので「ダメだなぁ。日本語話せたって特にもならないから」ということで、友人の勧めもあったし、コロンビア大学の大学院の先生か何かも「これから中国がアジアを支配する」。
(本によるとコロンビア大学で中国語より日本語をやるべきと背中を押されている)
キーンさんは『源氏物語』と比べてしまう。
所詮は文学なんてそんなもの。
肌に合わない。
「何これ?」みたいな。
本を読んでいてだんだん腹が立ってくる。
たいした金額ではないのだが「騙された!」「カネ返せ!」とかという野卑な心になってしまう。
「どうしようかな」と迷う。
「中国はこれから発展するかも知んねぇけど、小説面白くねぇ〜〜〜!」というヤツ。
だったら他の本を読めばよかったのではないかと思う水谷譲。
中国は文化の特徴なのだが、水谷譲が言っているのは「史書」。
歴史のことを書いたヤツは司馬遷『史記』とか、『三国志』もそう。
あれも国家と国家が相争うというような物語だし、つまり『源氏物語』ではない。
敗戦国、三等国家に堕ちた日本。
「どうしようかな」と思っているうちに、その戻ったコロンビア大学で角田先生の元で授業が始まって、その角田先生の教室に行ってしまう。

 角田先生のもとで、わたしたちは多くの作品を読みました。西鶴の「好色五人女」とか、−中略−近松の「国姓爺合戦」も読みました。(162頁)

何かいい。
肌が合う。
近松も西鶴も所詮恋愛。
それも無茶苦茶。
店のカネを使い込んで二人で死んじゃおうとかという、そういう物語。
だが、キーンさんはそっちの方が肌に合う。
それと、このコロンビア大学で日本文学の勉強を受けているうちに怪人物に会う。
エリセーエフという先生に会う。
この先生はあまり教え方は上手ではなかったようだが授業の合間の話が面白かったのだろう。
「この小説を書いたのは誰かわかりますか?」とかドイツ訛りの英語で日本文学をドナルド・キーンさんに教えている。
もう当然知っている。
「はい。夏目漱石です」
このエリセーエフ先生が突然「アタシはネ、昔ネ東京大学でアイツと一緒に昼飯喰っとったん。猫かっとったん。ビール飲むヤツでねぇ」とか夏目漱石を教えていたとかという先生と出会う。
(エリセーエフが夏目漱石と親交があったのは事実のようだが、上記の内容はこの本にはない)
そんなささやかなことがキーンさんの中で迷っていた、「日本が引っ張るなぁ俺を」と思う。
(本によるとエリセーエフにはあまりよい感情は持っていなかったようだし、日本語を学ぶことはこれよりも前に決めている)
その間に芭蕉に会う。
芭蕉はキーンさんは合う。
五七五という17の音しか使わないのに深々としたものを描くという文学。
その次に写実派の(正岡)子規に出会う。
あの絵画のごときショートポエム。

正岡子規の「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」ですが(200頁)

これはよく聞いたら単に「柿を喰ってたら法隆寺の鐘が鳴った」というだけ。
だが、何かいい。
「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」と言ったら何か・・・
ドナルド・キーンさんは行間を感じられる人。
たまらないのだろう。
「つまみたる夢見心地の胡蝶かな」
(与謝蕪村「うつつなきつまみごころの胡蝶かな」を差していると思われる)
これがまた荘子の「胡蝶の夢」に引っ掛かっている。

中国語を学ぼうか、それとも今まで悩んできた日本文学をと揺れる若き日のドナルド・キーンさんの物語。
中国の方の文学には惹かれずに、日本に戻ってくる。
日本文学を学び始めるとキーンさんの肌に合って面白くて仕方がない。
『源氏物語』に始まって夏目漱石、芥川(龍之介)。
キーンさんは何を読んでも面白かったのだろう。
とうとう芭蕉や子規までに傾倒していくという。
日本語に磨きがかかる。
磨きがかかればかかるほど就職口がなくなるという。
やっぱり中国の方が景気がいいから。
キーンさんはやっぱり文学の方に傾倒しやすい体質らしく、子規を知れば、芭蕉を知れば、芥川を知れば、夏目を知れば、とにかく行ってみたくなる。
それはそう。
日本に行ってみようかと思う30代になりたてのドナルド・キーンさん。

一九五三年から二年間、京都大学に留学し、京都で暮らしました。(182頁)

戦後8年の昭和の京都。
下宿暮らし。
まだたった8年しか経っていない。
それでも、京都は戦災にやられていないので鴨川のほとりか何かのいいところを頼み込んで下宿を安くしてもらって、そこで勉強を始める。
これが肌に合って、冷房とかもないだろうし、扇風機もロクにないのだろうが、何かキーンさんは好きでたまらなくなる。
暑くなったら鴨川の花火が上がったとかウチワでパタパタやりながらとか、戦争に負けて貧しい国ながらも、もう既に祇園山笠は始まっている。
コンコンチキチーが流れてきたりすると「おお・・・立派ですねぇ。カーニバルですか?」と言うと「はい。これねぇ千年やっとりますねん」「千年〜〜〜!」とかという。
トントン嘘が出てくる武田先生。
とにかくこの人は無闇に楽しかった。
肌に合う。
そういう人がいるのだろう。
それでこの人は京都大学で二年間勉強する。

「ここはちょっと面白い」と思って書き抜いた武田先生。
1954年のことなので、戦争に負けて9年目に入ったぐらいの時、京都大学経済学部、学者連によるところの「今後の日本経済について」というシンポジウムが開かれた。

わたしが京都大学の学生だったとき、京都大学の経済学者たちと、アメリカ、カナダ、イギリスの学者が集まって日本経済について議論をする会議が開かれるに際して、学生に向けて通訳の募集がありました。興味があったので志願して、この会議の通訳をしました。−中略−
 日本人の学者たちは
−中略−日本の将来に悲観的な展望を語りました。外国人のほうは「いいえ、日本人は細かい仕事が上手ですから、多少高くなっても外国人は買います。大丈夫です」と激励しました。−中略−この会議の議長は、その後有名になった白洲次郎さんでした。彼は完璧なイギリス英語、ブリティッシュ・イングリッシュを話しましたが、彼を含めて日本人はおしなべて「日本はダメだ」という調子の発言ばかりしていたのが印象的でした。(184〜185頁)

ドナルド・キーンさん曰く、この国の人たちの面白いところは、未来予測は頭がいい人ほど暗くする。
その時にキーンさんの胸の中に「この人たちは日本人に生まれながら、日本人のよいところを掴まえるのが下手である」。
そんな思いもどこかにあったからこそ、この人は「ならば俺がメイドイン文学を俺の手で何とか世界に」という思いが。
実はもう一つ小さい話なのだが、いい話が同時期にこの留学の時に起きる。

 わたしの下宿先として、今熊野の奥村さんのお宅にある離れ、「無賓主庵」というすばらしい家屋を(185頁)

下宿先の奥村さんの奥さんに「浴衣が欲しいけれどもどこで買えばいいでしょうか」と訊いたら、奥さんは「浴衣は外で買うものじゃない」と言って、わたしを蔵に連れていってくれました。そこには浴衣の反物がたくさんあって、わたしはトンボの柄だと思ったものを選びました。そしたらそこのおばあさんが「これはトンボじゃないよ、スミスさんの飛行機だよ」と言いました。−中略−それを奥さんが、わたしの浴衣に仕立ててくれました。(183頁)

(番組ではトンボの柄を飛行機に見間違えたと言っているが、本によると上記のように逆)
(浴衣を)作ってもらってウチワ片手に都大路に出るとコンコンチキチーといいながら山鉾か何かが流れていくとキーンさんは『源氏物語』の「あの御所の」「あのにぎわいを」とかと、その日本に酔うことによって、キーンさんは次々に日本の作家たちとも知り合いになっていく。
川端康成、三島由紀夫、大江健三郎、司馬遼太郎。
絢爛たる昭和の文豪たちとすれ違っていく。
この方はアメリカだけではなくイギリスにも飛んで『平家物語』とか能の台本を英訳したりというような日本を外国に向かって紹介するという仕事をずっとなさっている。
「日本というのは凄いんだ」と。
何が凄いか?
物語。
文学といえば文字による「物語」。
謡いによる物語が「能」。
音曲による物語が「歌舞伎」。
絵による物語が「漫画」。
日本人というのはありとあらゆるものを「物語」にしてゆくという。
そこに国民的な歴史を持っているのではないだろうか?
これは言い方がちょっと極端になるが、中国も韓国もベトナム、タイ、あるいはインドまで広げてみても、これほど文学が庶民に浸透している国はない。
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考えてみたら絵による物語。
それがあれだけ売れる。
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経済ドラマ。
だが、描き方はヤクザの抗争史みたい。
「倍返しだ!」
銀行マンはあんな顔をしない。
「ハッハッハッハッ・・・!半沢・・・オマエそこにいたのか!」
そんな信用金庫の人を見たことがない。
大事なのは「物語」。
多少おかしくてもいい。
歌舞伎なんていうのはでたらめ。
これはいつかまたやる。
この前、本を読んでいて感動した。
(「『かたり』の日本思想」という本のことだと思われる。このあとの話に出てくるエピソードはこの本を取り上げた回に登場する)
歌舞伎は物語。
物語だがもうほとんど滅茶苦茶。
『暫』で海老蔵改め団十郎。
まだ襲名をしていないから海老蔵の方がいい。
(市川海老蔵は2020年5月に團十郎を襲名することになっていたので、本来ならこの放送がされた時期には團十郎になっている予定だったが緊急事態宣言を受けて延期)
あの『暫』に「海老蔵」が出てくる。
あれの時にセリフで「アイツ、成田屋の海老蔵だな」というのがある。
ドラマが進行しつつ、やっている役者の楽屋落ちのセリフがもうセリフになっている。
アドリブで受けたから伝統になっている。
日本というのはそういうのを平気でやる。
とにかく物語が生きていればいい。
みんな物語が好き。
キーンさんは教師生活をお辞めになってアメリカにお帰りになる。
だが2011年東日本大震災の日本を見てこの方は慌てて日本に帰ってこられる。
そして日本国籍を取られる。
杉並の方だったかで(北区在住だったようだ)2019年(この放送は2020年なので)去年亡くなられたドナルド・キーンさんだが「どうせ死ぬならわたしは日本人の中で死にたい」という。
そうやって考えるとサムライ。
96歳でお亡くなりになったドナルド・キーンさん。
ご冥福をつくづく祈りたいというふうに思う。

posted by ひと at 10:05| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年9月7〜18日◆ドナルド・キーン(前編)

様々「コロナの揺れ」というのがまだ日本中を振るわせ続けているワケだが、ラジオからの情報は面白い。
ラジオで聞いた話で「なるほど」と思ったのだが、物の名前というのは地方によって内容が変わる。
東京で「キャバクラ」というと「キャバレークラブ」。
キャバレーとクラブが重なったヤツ。
東京都で小池という首長が要求してらっしゃるのは「お客さんが帰った後、消毒
しろ」ということ。
「お客さん毎、消毒しなきゃダメ」というのでテーブルとかホストの方とかギャルズが拭いている。
同じ業種で札幌にも「キャバクラ」があるらしいのだが、中身が違う。
それでクラスターが発生したらしい。
それは何でかというと、東京ルールに従ったばかりに。
と、言うのは札幌ではいろんなところを舐めたりしていいことになっている。
それで、使うたびに全部消毒しなくてはいけないのだが、そこを東京ルールに従ってよく消毒しなかったというのが札幌で発生して、それがクラスターの原因になったのではないかという。
水谷譲も女性なので、全部を消毒するとなると大変。

ドナルド・キーン わたしの日本語修行(新装版)



(番組の公式サイトでは『ドナルド・キーン〜わたしの日本語修業』となっているが「修業」ではなく「修行」。新装版ではない方の本が紹介されていたが、それは現在は販売されていないようなので、番組で取り上げられたものも新装版の方だと思われるし、このブログの引用ページも新装版のもの)

ドナルド・キーン。
「日本を愛してくださった方」と思う水谷譲。
やはり2011年のことを知っているからなおさら。
若い方にご説明する。
ドナルド・キーンさん。
1922年、ニューヨークに生まれたアメリカ人。
日本文学の翻訳者として知られていて、実に穏やかな方。
とにかく日本の文学については紫式部から三島由紀夫まで語る。
他にも安倍公房と親交があり、司馬遼太郎さんなんかもこの人の人柄を深く愛したという。
武田先生もTBSの対談番組でこの人の姿を初めて見かけた。
それはもう結構前のことで40年ぐらい前。
この方はTBS一の切れ者司会者、報道の達人という筑紫哲也という方と対談をやっておられる。
筑紫さんというのは切れ者で前髪をちょっと掻き上げて「え〜日本は・・・」とかという、その口調が実に婦人層に受けた。
この方はドナルド・キーンさんにこうお訊きになった。
「いかがですか?最近の日本は?」
これでもうだいたい察さなければいけない。
どんなふうに筑紫さんが答えて欲しかったか?
「日本ノ若者ニハ呆レマス。『源氏物語』読ミマセン。近松、芭蕉知リマセン。ソウイウ人、日本人ジャアリマセン」
こんなことを言って欲しかった。
ところが、キーンさんは言わない。
「近頃の日本、どうですか?」と問われて何とおっしゃったか?
「オモシロイデスネ〜。安倍公房ハ特ニオモシロイデスネ。『砂の女』トカ傑作短編アリマスケドオモシロイデス。司馬遼太郎オモシロイデスネ。アレダケノ文才ヲ持チナガラ一切外国人ニ受ケヨウトシタ作品ヲ書カナイ彼、オモシロイデスネ」
その後、筑紫さんがいろいろ寄ってたかって聞くのだが、全部外していくという。
それを見たことがある武田先生。
明らかに外していた。
だが、メディアを代表する語り手の人、特にテレビメディアの人はこういう外し方をする。
求めている答えが自分の中にあって質問をされるという。
日本人だったらばその辺を忖度するのだろうけれども、キーンさんは「いかがですか?近頃の日本は」という筑紫哲也さんの日本語を「How about Japan and Japanese」みたいな。
そのトンチンカンな喰い違いが武田先生は武田先生なりに面白かった。
筑紫さんはドナルド・キーンさんに日本の悪口を言って欲しかった。
ところが言わなかった。
他にもドナルド・キーンさんによく集中していた質問。
「捕虜となった日本兵っていうのはみっともなかったそうですね」という質問。
何でかというと、この人は日本軍の捕虜の取り調べをやっている。
そのために日本語を覚えた。
この人は第二次世界大戦(の時に)所属した部隊はハワイ。
そこに真珠湾攻撃の時に人間魚雷でやってきて、魚雷に乗ったまま当たらなかった人とかいる。
そういう人たちから情報を聞き出すために日本語を覚えた人。
捕虜の取り調べ。

日本にいかにしてこのドナルド・キーンなる人が惹かれていったか。

日本軍の捕虜というのは、軍事的秘密をよく正直に話してくれた。
だが、キーンさんは言う。
「決して臆病風に吹かれて秘密を話したのではありません。彼は兵士として少尉、中尉、大尉として捕虜になってもその階級のものであったことをアメリカ軍に示そうとしたのです。おそらく将棋というゲームが象徴しているように」
将棋というのは相手に取られる。
ひっくり返ると自分の軍を攻める兵力になる。
戦国時代からそう。
負けた方は織田なら織田軍の中に入る。
それを「裏切り」と呼ばない。
つまり有能な人物は敵になっても優秀だという。
「そのように捕虜になっても働くのが、それがサムライという、そういう思想があったからではないでしょうか?」という。
「寛容な見方」だと思う水谷譲。
普通だったらボロクソに言うだろうが。
普通は「裏切者」。
どうしてこういう人が生まれたか?
それが不思議。
この人は戦後になっても日本軍の悪口は言わない。
日本軍に相当いけ好かない野郎もいたハズ。
言わない。
それで、ずっと日本文学の大贔屓。

これは不確かなことだが、ドナルド・キーンさんは裏でノーベル文学賞の時に動いたという噂はある。
キーンさんが「東洋にも文学賞をプレゼントすべきだ」。
ノーベル文学賞の人が「東洋に文学ないじゃん!」と言った。
そうしたらキーンさんが「アナタは何も知らない。アナタ『源氏物語』読んだことないでしょ?日本という国の中に『源氏物語』の流れを汲む素晴らしい文学があります」。
それを言ってくれたのではないか?
だからノーベル文学賞の一番最初の候補。
川端康成はもちろん挙がっていた。
谷崎潤一郎。
この二人だったらしい。
日本の文学事情を国際的にもアピールしてくださった方がキーンさんではないか?

どうしてこういうドナルド・キーンなる人が生まれたのか?
この方はニューヨーク貿易商を父に持つという。
貿易商のお父さんの家庭に生まれた。
そういう少年。
中学生になってお父さんのマネをして外国へ行く夢にとりつかれて、フランス語を一生懸命勉強する。
(本によると外国へ行きたいと思ったのは外国の切手から。フランス語を勉強したのはフランスへ行った後)

コロンビア大学に入学しました。わたしは学業優秀で何度か飛び級をしたため、十六歳で大学に入ったのでした。(21頁)

本当に偶然。

 ニューヨークの中心にあるタイムズスクエアに売れ残った本を扱う本屋がありました。ある日そこを通りかかると、The Tale of Genji つまり『源氏物語』の英訳が山積みにされていたのです。二巻セットで四十九セントでした。−中略−それは今ではすっかり有名になったアーサー・ウエーリによる翻訳で、わたしはたちまち夢中になりました。(24頁)

それが日本という国の古典と知る。
この頃の日本というのはどういう国かというと、ドナルド・キーンさんからすると仮想敵国。
日米関係は最悪で、戦争がおっぱじまるんじゃないか?
日本人は天皇を神だと言い張って軍事力を強化し、アジアを支配しようとしている。
それから勝手に太平洋に線を引いて、どんどんその線を拡大するという。
ちょっとどこかの国に似たことを先にやっていた。
第一列島線とか言いながら線を引いていた。
だが、源氏物語英訳版。
そこに天皇が出てくるのだが、日本のニュースで伝わってくる天皇と違う。
『源氏物語』の天皇「ミカド」は同じ意味だと訳してあるのだが、恋ばかりしてラブポエムとか作っている。
「あれぇ〜?」と思う。
キーンさんは少年だからなおさら。
それで、本に書いてある姿とニュースで伝わってくる姿が余りにも違うので「変な国」と思いながら「行ってみたいな」と思うところからキーンさんの心の中に「日本の文学」という種が落ちる。
そして日本という樹木がドナルド・キーンさんの人生の中で葉を茂らせてゆくという物語。

(番組の最初のCMが流れている間の会話の続きで「臭い」についての話が続くが割愛)
誰にとっても少年時代は懐かしいものだが、十代後半の年齢で『源氏物語』を読み、英訳ながら感動したドナルド・キーン少年。
この少年の不思議なところ。
何と、どうせだったら原文で読みたい。
(本によると日本語を学び始めたのはたまたま誘われたから)
めっちゃ頭がいい。
英訳ではなくて日本語で源氏物語が読めたら、もっと深く物語の世界の中に自分は身を沈めることができるんじゃないか?
ところがこの時代、1900年代の真ん中ぐらい。
その時代は「日本という国を知っている」「日本語を知っている、できる」という人が一億で10人ぐらいしかいなかったのではないか?
このドナルド・キーンは日本の『源氏物語』に惹かれて、日本の小学校の教科書を手に入れて、日系人の先生を探して教科書を勉強し始める。
その教科書が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」(第四期国定教科書『小學國語讀本』)というヤツから始まるという。
それで日本語がだんだん面白くなってきた頃に運命。
ドナルド・キーンさんが18歳になったばかり。
1941年12月7日。
コロンビア大学に通っていた彼の耳に聞こえて来たのはパールハーバーが奇襲されたという、日米開戦のニュースだった。
キーンさんはこの不幸に対して何を思ったかというと「チャンスだ!」。
それが、アメリカの青年に対して日本語を勉強して敵国日本の情報を知るための諜報活動「日本語を訳せる兵士になってくれないか?海軍に入ってくれ」という「日本語諜報活動のための兵士になれ」という募集を見つける。
この人は渡りに船だと思ってアメリカ海軍日本語学校に入学する。
コロンビア大学でも抜群の成績なので、アメリカ海軍日本語学校カリフォルニア(州立大学)バークレー校に入学合格する。
ここで日本語を学ぶ。

一九四二年二月、十九歳のときのことです。(35頁)

 当時、ニューヨークからサンフランシスコまでは、列車の旅で最短でも四日ほどかかりました(35頁)

ここのバークレー校で学ぶ。

三十人ほどだったでしょうか。その場で、日本語の力に応じてクラス分けがありました。(35頁)

教師は日系一世の方。
(本によるとほとんどが日系二世。この後も番組ではずっと「日系一世」と言い続けているが、当然日系二世の先生もいた)
日本人の人。
もちろん国籍はアメリカ人だからアメリカなのだが。
能力別に分かれて1クラス6名。
イギリス人の先生から日本史を教わるという。

海軍日本語学校では長沼直兄の書いた『標準日本語讀本』を教科書として使われたのですね。(39頁)

サラリーマンの会話などが盛り込まれている。
ところがこれが凄い。
日本語をやっぱり学ぶとなると大変。
一番キーンさんがしんどかったのは漢字の書き取り。
それも日本語を教えてくれる先生たちは、略字とか簡単字を教えてくれない。

黒板の前に立って先生が「タイワン」というと、わたしたちは「臺灣」と書かなければならないのです。−中略−先生は次の「憂鬱」を書けといいます。(40頁)

それは本当に辛かったらしいが、やる。
キーンさんはそれでも画数の多い漢字を書くのは面白かったという。

 海軍日本語学校では−中略−月曜日から土曜日までは毎日四時間の授業がありました。二時間は読解、一時間は会話、最後の一時間は書き取りです。(39頁)

文字は平仮名、片仮名、漢字、口語体、文語体、行書、楷書。
会話は荒瀬先生という方がいらっしゃって、標準語では済まない。
方言を教える。
キーンさんはそれが面白い。
日本という国は地方都市に行って言葉が変わる。
「わー私はきゃこけしもうた」とか。
福岡県だけでも五つか六つある。
それを荒瀬先生がざっくりではあるが方言まで教えたという。
6名の優秀なキーンさんたちのクラスメイトたちは無我夢中で勉強した。
(本によると各クラスは最大でも6名以下で、キーンが最後に属したクラスは4名)
しかもこの方言を勉強したことが他の通訳官と決定的に分けていく。

日本語修行中である、まだ実践の舞台には立っていないが、やっと二十歳になったばかりのドナルドキーンさん、その後の人生は。

作者の河路由佳さんはキーンさんのことを実に丁寧に調べている。
ちょっと労作すぎて、キーンさんが使った教科書を追い求めて、その教科書にたどり着くまで調べたことの経緯とかがある。
武田先生は読んでいて「どうでもいいな」と思って結構飛ばしたところ。
やっぱり何か人の人生というのは人に会ったりしないと、人に面白く語れない。

この作者の方も書いてらっしゃるが、ドナルド・キーンさんたちに日本語を教えた日系一世の日本人日本語教師たちの熱心さというのは胸が詰まる。
彼らはアメリカの青年たちに日本語を教えながら、敵国になった日本のことを思い出して切なかっただろう。
こういうのを何か朝ドラでやるといい。
ドナルド・キーンさんをやってください。
何か切ない。
逆。
戦争のために日本語を教える。
だから大変。
片仮名、平仮名、漢字、それも簡体字はダメで旧字、古い方の字の難しい字。
「臺灣」とかは旧字は難しい。
「憂鬱」もそう。
そんな字を教えたり、平仮名、片仮名。
口語体、文語体、行書、楷書で書かなければいけないのと、方言があってもう一つ大事なことがあった。
社会的階級による言葉の変化。
丁寧語、謙譲語を覚えないといけない。
特に軍隊だから、丁寧語・尊敬語・謙譲語、天皇だけ言葉遣いが変わる。
天皇陛下に対してだけは全部言葉が変わって、一人の人のために言葉を全部変えるワケだから、そんなのも覚えなくてはいけない、という。
諜報活動とはいえ、日本語を学ぶ彼らの優秀さと熱心さというのは。
だが、キーンさんはその中で実に豊穣な言葉世界、言語世界を日本人は持っているんだということを学ぶ。
休みの日もクラスメイトとは日本語で手紙のやり取りをした。
とにかく暇を惜しんで日本語を勉強して、ハワイから送られてきた押収品の中に田中絹代の映画があったりしたので、映画を見たりした。
この辺も日本映画の特徴を捉えて面白かった。

日本の映画の特徴もわかってきました。たとえば男女の恋人同士が別れるときは、橋の上で別れることが多いということ。(43頁)

こんなふうにして日本語を学びながらキーンさんは敵になった祖国、その悲しみをこらえながら一生懸命教えてくれる一世の日本人たちに胸が熱くなった。
そしてもう一人、友人の中でキーンさんを遥かに抜いて優秀なアメリカ人がいた。

オーティス・ケーリさんで、彼は北海道の小樽で育ちました。(41頁)

お父さんも宣教師として来日しました。ケーリさん自身は小樽生まれで、小樽で小学校に通いました。−中略−軍人として君はどこの人だと訊かれたときは、小樽だとは言いたくても言えませんから、仕方なくマサチューセッツだとか何とか言っていたようですが、ほんとは小樽です(笑)(53頁)

海軍日本学校を十一か月で卒業されて、戦場に向かわれました。−中略−
 一九四一年一月、軍務上急を要するという理由でわたしたちは入学して一年にもならないうちに海軍日本語学校を卒業し、わたしはまずハワイの真珠湾に派遣されました。
−中略−このとき、わたしたちは初めて海軍の軍服を着ることになりました。(138頁)

ハワイには捕虜になった人、そういう日本軍の捕虜収容所があった。
その人たちから軍事秘密を聞き出すのだが、キーンさんが一番嫌いだったのはアメリカ軍の上官。

フェレスト・ビアード−中略−というこの大尉は、海軍について何も知らないわたしたちが軍服を着ることを許されているのが気に入らないようで、わたしたちを苛めました。(138頁)

誰かが、戦車の部位についての日本語のあることば、−中略−それを「足で踏む装置」といった具合に訳したことがありました。大尉はこう訳した男を呼びつけて、次に全員を集合させると、憎々しげに「君たちの中でpedalということばを聞いたことのあるものはいないのか」と言いました。「足で踏む装置」は確かに「ペダル」でよかったわけですが、初めて見る戦車の部位についての日本語を前に、このような翻訳をしたとしても無理のないことでした。(140頁)

ドナルド・キーンさんの運命を変える出来事がこのハワイの捕虜収容所で起きる。

日本文学の紹介者であるドナルド・キーンさんの青春。
とにかく語学兵として日本の捕虜の取り調べ等々にあたっていたドナルド・キーンさん。
そのキーンさんは捕虜の取り調べの方は筆記の方、書く方をやってらしたそうなのだが、そのドナルド・キーンさんに、上官であるフェレスト大尉から「日本兵の日記を読んで日本軍が次にどんな作戦を立てようとしているのかを予測せよ」という難問で、ハワイにいるキーンさんなのだが、南の島々(ガダルカナル、サイパン、グアム)から持ち込まれた日本の兵士の日記をチェックする。
ということは、日記の持ち主は全員戦場で死んだ兵士ということ。
死んだ日本兵の手書きの日記帳をキーンさんは読む。

アメリカでは兵士が日記を書くことは禁じられていました。もし敵の手に渡ったら、知られたくないことが知られてしまう可能性があるからです。しかし日本兵は、新年ごとに日記を支給され、日記を書くことがむしろ務めとされていたのです。(141頁)

手紙等々は全部検閲が入るが、日本陸軍と海軍は日記は検閲をしない。
だから、正直に書いている。
日本兵の日記の記載に関しての細かさというのは凄い。
「昨日友人が何人死んだ」とか「もう戦う弾薬がない」とか「食べ物がないんで〇〇と〇〇の雑草を食べた」とか全部書いてある。
キーンさんはその敗れつつある日本陸軍の低い身分の兵隊さんの日記を読みながら泣く。
まだ悲しい切ない話がある。
アメリカ軍が攻め込んできてジャングルに逃げ込んで餓死していくギリギリまで書いてあるので、その中に「弾薬さえあれば」とか本当に切ない。
だからキーンさんは日記を読みながら敗れていく日本兵が哀れで哀れでたまらなくなる。
そしてキーンさんは気づく。
日本人は日記の中だけはどんな人でももの凄く自由にとっても上手に日記を書く習慣がある。
これはキーンさん曰く、清少納言から伝わる随筆の能力が文字を書ける全ての日本人に宿っている、という。
「撤退四里、弾丸残り少なく、今日、草の根を喰う」とかという、もう涙なしでは読めない。
キーンさんが嗚咽が止まらないという一冊の日記に出会う。

兵士の日記の中には、自分の死を覚悟し、そのあとこれがアメリカ人によって発見されることを見越して、最後のページに英語で伝言が記されていることがありました。戦争が終わったら、これを家族に届けてほしいというのです。(141頁)

その人は英語で書けるほどの能力を持った人。
それが二等兵というランクで死んで行く無念を日記を収集するであろう米兵に託したという。
その時にキーンさんは号泣した。
(本には兵士の等級も号泣したとも書いていないし、このあたりも本の内容から離れて語られている)

戦争中のことですが、わたしはこの伝言どおり、これをこの兵士の家族に渡したいと思いました。それで、もちろん禁じられていた行為ではありますが、これらの日記を机に隠したのです。しかし、机は調べられて日記は没収されてしまいました。(141頁)

月曜日に話した筑紫哲也さんが「日本軍ていうのは酷かったんですよね?キーンさん」に答えるワケがない。
つまり私たちの方が、私たちの国のために戦った兵士たちに関して冷酷であるということ。
しかも、もっと深いものがキーンさんにはある。
それは何かというと、次なる命令がやってくる。
それは戦場へ実際に行って、今、捕虜になってた日本兵への尋問をしろということで、ドナルド・キーンさん。
文学青年。
激戦地、アッツ島へ出張させられる。
そこで捕虜になった日本兵と実際に会う。
私たち戦後世代には知り得ない戦争秘話だが、ドナルド・キーンさんはそういう方だった。

posted by ひと at 09:48| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする