ドナルド・キーンさんの人生を振り返っている。
アメリカのニューヨークに1922年に生まれて、そこで英訳の『源氏物語』を読むことで日本という国に魅せられる。
「日本語勉強したいなぁ」という知的好奇心でそう思っていたら、その国が真珠湾攻撃で戦争状態に入った。
日本語を学ぶためにはどうするかというと、諜報活動の一環として日本語が使えるアメリカ軍人になって、日本語を仕込んで諜報活動、残された書類とか捕虜の尋問から新しい情報を引き出すという兵士になって、活躍するという。
一番最初は最前線基地のハワイにいて、そこで日本語で捕虜に接したり、南の島から大量に見つかる日本兵士の日記等々で次なる日本軍の作戦を予想したりとするような諜報活動をやっておられたのだが
一九四三年の三月、−中略−雪が一面に広がるアッツ島に着きました。アッツ島は日本兵の最初の「玉砕」の地として知られます。アメリカ人は「バンザイ突撃」と呼びました。五月二十八日、島に残っていた千人余りの日本兵がアメリカ兵めがけて突撃を開始しました。(142頁)
そのとき、最後の手榴弾を、なぜアメリカ兵に投げずに、自分の胸に叩きつけたのか。−中略−彼らはこうして集団自決を遂げたのです。捕虜になったのは二十九人だけでした(142頁)
誰も進んで捕虜になった人はいない。
重症で動けなくて捕虜になってしまった。
その29人への尋問がドナルド・キーンさんに命令された。
キーンさんと相棒の方は例のオーティス・ケーリさん。
小樽の小学校に行っていた牧師さんの息子さんで、生き残りの29人の捕虜の尋問は二人がコンビを組んでやったらしい。
このオーティス・ケーリさんというのは相当日本語が上手かったようで、ドナルド・キーンさんの自慢の友達。
「今日の取り調べはこれでお終いです」と言った後、ケーリさんが「アナタ日本のどこで生まれたの?」と訊く。
その中に一人、北海道の小樽出身の人がいて、同じ小樽で少年時代を過ごしたケーリさんが、嬉しそうに懐旧談にふけっていたのを思い出します。(142頁)
次の日から思い出話だけにふける。
それをキーンさんはジーっと見ていて「いいなぁ」と思った。
(このあたりも番組ではかなり脚色されて語られている)
いい話。
これは朝ドラにしないと。
この29人の捕虜を取り調べたと言った。
ケーリさんがそんなふうにして北海道出身の者がいたりすると小樽の昔話か何かをワーッと盛り上がるもので、尋問が終わっての話は取り調べの部屋にはケーリさんと二人しかいないから、しかも日本語でやっているから周りに上官がいても理解できるものはいない。
ドナルド・キーンさんもできる人だからフリートークがやりたくなった。
それである日のこと、29人の捕虜の一人、相当上の人、少尉か何かだったがその人に向かってドナルド・キーンさんが「中学校とか高校で読んだ名作ってありますか?」と訊いたという。
そうすると「芥川は読んでましたねぇ」と。
「ああ・・・龍之介はいいねぇ〜」と言いながら二人で『鼻』とか『芋粥』の話をする。
(このあたりの話も本の内容とは異なっている)
29人の捕虜に、後に戦後日本の社会で作家になったという方が何人もいらっしゃる。
(尋問はアッツ島で捕虜になった29人以外も対象だったので、実際には別の戦地の捕虜も含まれる)
こんなふうにしてキーンさんは文学の話をどうしてもしたかった。
そして日本語のとても上手な相棒、ケーリさん。
ケーリさんはハワイで捕虜収容所の所長というたいへん大事な任務に就きました。−中略−もう日本には帰れないと悲観する捕虜たちに、何とかして日本に帰る勇気を与えようと心を砕いていました。(53頁)
余談ながら中世の騎士道が戦場にあったようだ。
ドナルド・キーンは日本文学に夢中で、最後はとうとう日本人として亡くなられたという。
アメリカ・ニューヨークに1922年に生まれた方。
武田先生が語っているのは二十代のキーンさんで、その頃のキーンさんはハワイにおられて、日本の兵士たちの捕虜の尋問を行ったり、残された書類から日本軍の動向を探るという情報活動の武官。
当時わたしたちは、週に一日分の休暇をとることを許されていました。−中略−ハワイ大学で日本文学を勉強することにしたのです。(147頁)
アメリカと日本は戦争をしていて、わたしたちは戦争のためにハワイに滞在している兵士だったわけですが、その戦争中のハワイ大学で、充実した日本文学の授業が行なわれていたのです。(148頁)
これがアメリカの持つ「自由」と「多様性」。
アメリカというのはやっぱりそこが深い。
中国が香港の自由を認めないということにした。
そのことに対してトランプ大統領が「何だオマエの国は」と言ったら黒人の暴動が起きて、大統領が軍隊まで使ってその勢力を「抑えるぞ」と脅かすと中国の人が笑った。
「人のこと言ってる場合じゃない。オマエだってやってるじゃねぇか」と言ったのだが、ここから中国の方が聞いてらしたら覚えておいてください。
黒人の人たちが大騒ぎになって「州兵なんかでカタが付かないんだったら軍隊使うぞ」とトランプさんが言った。
その時に軍の最高トップが「我々は、たとえ大統領の命令であってもアメリカ人を守りはするが、アメリカ人に向かって銃口は向けない」と言った。
大統領の考えであっても、その命令に・・・という。
アメリカはここが凄い。
そういうふうに言ってしまうということは大統領にも反発するということ。
「あなたが間違っていた」と判断した場合は命令には従わない。
まして「アメリカ国民はあなたが『アメリカの名に於いて撃て』というなら我々は撃たない」という。
これはやっぱりアメリカの持っている自由と多様性。
その一端。
日米開戦で血みどろの戦争をやっているのに、パラオのガダルカナルは両軍の兵士の血で血みどろの「オレンジビーチ」。
それぐらいの死闘を日米両国は続けているのに、大学では日本文学が学べる。
この自由が怖い。
キーンさんはこのハワイの大学で芥川龍之介から谷崎潤一郎を読み込んでいる。
キーンさんは谷崎の名文に惚れる。
この時、キーンさんは日本語で日本文学を読んでいる。
この人の日本語能力もグングン上がってくる。
一九四五年の夏、戦争が終わり−中略−わたしはグアムで終戦を迎え、中国の青島を経てアメリカに帰る途中で終戦直後の日本に立ち寄りましたが、焼け野原の東京を見て、わたしも絶望的な印象を持ちました。−中略−この都市が立ち直ることはほとんど不可能だと思われました。この先、日本語の力は役に立たないだろうと思う人がほとんどでした。中国こそは東洋文明の源泉で、近いうちに東アジアにおける強国の座は日本から中国に移るだろうといった考えから、将来性を見込んで中国語に切り替える人もいました。(155頁)
それで「中国語にするか」と。
それでキーンさんは1945年から中国の名作を読む。
ちゃんとブレてらっしゃるところがキーンさんのキーンさんらしいところ。
(番組では日本語学習を辞めて中国語に切り替えたかのような言い方をしているが、この時期、中国語と並行して日本語も学んでいる)
中国語のほうは『紅楼夢』という小説を原文で読む授業を受けました。『紅楼夢』は十八世紀の中頃に書かれた中国の名著として知られる代表的な作品ですから、中国文学を志すなら読まないわけにはいきません。−中略−しばらく読み進めるうちに、わたしは憂鬱になってしまいました。わたしにはこの小説が好きになれないどころか、嫌悪感を催してしまったのです。(157〜158頁)
戦争が終わったのでこの後大学に帰るのだが、日本語ができるといっても職場がないので「ダメだなぁ。日本語話せたって特にもならないから」ということで、友人の勧めもあったし、コロンビア大学の大学院の先生か何かも「これから中国がアジアを支配する」。
(本によるとコロンビア大学で中国語より日本語をやるべきと背中を押されている)
キーンさんは『源氏物語』と比べてしまう。
所詮は文学なんてそんなもの。
肌に合わない。
「何これ?」みたいな。
本を読んでいてだんだん腹が立ってくる。
たいした金額ではないのだが「騙された!」「カネ返せ!」とかという野卑な心になってしまう。
「どうしようかな」と迷う。
「中国はこれから発展するかも知んねぇけど、小説面白くねぇ〜〜〜!」というヤツ。
だったら他の本を読めばよかったのではないかと思う水谷譲。
中国は文化の特徴なのだが、水谷譲が言っているのは「史書」。
歴史のことを書いたヤツは司馬遷『史記』とか、『三国志』もそう。
あれも国家と国家が相争うというような物語だし、つまり『源氏物語』ではない。
敗戦国、三等国家に堕ちた日本。
「どうしようかな」と思っているうちに、その戻ったコロンビア大学で角田先生の元で授業が始まって、その角田先生の教室に行ってしまう。
角田先生のもとで、わたしたちは多くの作品を読みました。西鶴の「好色五人女」とか、−中略−近松の「国姓爺合戦」も読みました。(162頁)
何かいい。
肌が合う。
近松も西鶴も所詮恋愛。
それも無茶苦茶。
店のカネを使い込んで二人で死んじゃおうとかという、そういう物語。
だが、キーンさんはそっちの方が肌に合う。
それと、このコロンビア大学で日本文学の勉強を受けているうちに怪人物に会う。
エリセーエフという先生に会う。
この先生はあまり教え方は上手ではなかったようだが授業の合間の話が面白かったのだろう。
「この小説を書いたのは誰かわかりますか?」とかドイツ訛りの英語で日本文学をドナルド・キーンさんに教えている。
もう当然知っている。
「はい。夏目漱石です」
このエリセーエフ先生が突然「アタシはネ、昔ネ東京大学でアイツと一緒に昼飯喰っとったん。猫かっとったん。ビール飲むヤツでねぇ」とか夏目漱石を教えていたとかという先生と出会う。
(エリセーエフが夏目漱石と親交があったのは事実のようだが、上記の内容はこの本にはない)
そんなささやかなことがキーンさんの中で迷っていた、「日本が引っ張るなぁ俺を」と思う。
(本によるとエリセーエフにはあまりよい感情は持っていなかったようだし、日本語を学ぶことはこれよりも前に決めている)
その間に芭蕉に会う。
芭蕉はキーンさんは合う。
五七五という17の音しか使わないのに深々としたものを描くという文学。
その次に写実派の(正岡)子規に出会う。
あの絵画のごときショートポエム。
正岡子規の「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」ですが(200頁)
これはよく聞いたら単に「柿を喰ってたら法隆寺の鐘が鳴った」というだけ。
だが、何かいい。
「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」と言ったら何か・・・
ドナルド・キーンさんは行間を感じられる人。
たまらないのだろう。
「つまみたる夢見心地の胡蝶かな」
(与謝蕪村「うつつなきつまみごころの胡蝶かな」を差していると思われる)
これがまた荘子の「胡蝶の夢」に引っ掛かっている。
中国語を学ぼうか、それとも今まで悩んできた日本文学をと揺れる若き日のドナルド・キーンさんの物語。
中国の方の文学には惹かれずに、日本に戻ってくる。
日本文学を学び始めるとキーンさんの肌に合って面白くて仕方がない。
『源氏物語』に始まって夏目漱石、芥川(龍之介)。
キーンさんは何を読んでも面白かったのだろう。
とうとう芭蕉や子規までに傾倒していくという。
日本語に磨きがかかる。
磨きがかかればかかるほど就職口がなくなるという。
やっぱり中国の方が景気がいいから。
キーンさんはやっぱり文学の方に傾倒しやすい体質らしく、子規を知れば、芭蕉を知れば、芥川を知れば、夏目を知れば、とにかく行ってみたくなる。
それはそう。
日本に行ってみようかと思う30代になりたてのドナルド・キーンさん。
一九五三年から二年間、京都大学に留学し、京都で暮らしました。(182頁)
戦後8年の昭和の京都。
下宿暮らし。
まだたった8年しか経っていない。
それでも、京都は戦災にやられていないので鴨川のほとりか何かのいいところを頼み込んで下宿を安くしてもらって、そこで勉強を始める。
これが肌に合って、冷房とかもないだろうし、扇風機もロクにないのだろうが、何かキーンさんは好きでたまらなくなる。
暑くなったら鴨川の花火が上がったとかウチワでパタパタやりながらとか、戦争に負けて貧しい国ながらも、もう既に祇園山笠は始まっている。
コンコンチキチーが流れてきたりすると「おお・・・立派ですねぇ。カーニバルですか?」と言うと「はい。これねぇ千年やっとりますねん」「千年〜〜〜!」とかという。
トントン嘘が出てくる武田先生。
とにかくこの人は無闇に楽しかった。
肌に合う。
そういう人がいるのだろう。
それでこの人は京都大学で二年間勉強する。
「ここはちょっと面白い」と思って書き抜いた武田先生。
1954年のことなので、戦争に負けて9年目に入ったぐらいの時、京都大学経済学部、学者連によるところの「今後の日本経済について」というシンポジウムが開かれた。
わたしが京都大学の学生だったとき、京都大学の経済学者たちと、アメリカ、カナダ、イギリスの学者が集まって日本経済について議論をする会議が開かれるに際して、学生に向けて通訳の募集がありました。興味があったので志願して、この会議の通訳をしました。−中略−
日本人の学者たちは−中略−日本の将来に悲観的な展望を語りました。外国人のほうは「いいえ、日本人は細かい仕事が上手ですから、多少高くなっても外国人は買います。大丈夫です」と激励しました。−中略−この会議の議長は、その後有名になった白洲次郎さんでした。彼は完璧なイギリス英語、ブリティッシュ・イングリッシュを話しましたが、彼を含めて日本人はおしなべて「日本はダメだ」という調子の発言ばかりしていたのが印象的でした。(184〜185頁)
ドナルド・キーンさん曰く、この国の人たちの面白いところは、未来予測は頭がいい人ほど暗くする。
その時にキーンさんの胸の中に「この人たちは日本人に生まれながら、日本人のよいところを掴まえるのが下手である」。
そんな思いもどこかにあったからこそ、この人は「ならば俺がメイドイン文学を俺の手で何とか世界に」という思いが。
実はもう一つ小さい話なのだが、いい話が同時期にこの留学の時に起きる。
わたしの下宿先として、今熊野の奥村さんのお宅にある離れ、「無賓主庵」というすばらしい家屋を(185頁)
下宿先の奥村さんの奥さんに「浴衣が欲しいけれどもどこで買えばいいでしょうか」と訊いたら、奥さんは「浴衣は外で買うものじゃない」と言って、わたしを蔵に連れていってくれました。そこには浴衣の反物がたくさんあって、わたしはトンボの柄だと思ったものを選びました。そしたらそこのおばあさんが「これはトンボじゃないよ、スミスさんの飛行機だよ」と言いました。−中略−それを奥さんが、わたしの浴衣に仕立ててくれました。(183頁)
(番組ではトンボの柄を飛行機に見間違えたと言っているが、本によると上記のように逆)
(浴衣を)作ってもらってウチワ片手に都大路に出るとコンコンチキチーといいながら山鉾か何かが流れていくとキーンさんは『源氏物語』の「あの御所の」「あのにぎわいを」とかと、その日本に酔うことによって、キーンさんは次々に日本の作家たちとも知り合いになっていく。
川端康成、三島由紀夫、大江健三郎、司馬遼太郎。
絢爛たる昭和の文豪たちとすれ違っていく。
この方はアメリカだけではなくイギリスにも飛んで『平家物語』とか能の台本を英訳したりというような日本を外国に向かって紹介するという仕事をずっとなさっている。
「日本というのは凄いんだ」と。
何が凄いか?
物語。
文学といえば文字による「物語」。
謡いによる物語が「能」。
音曲による物語が「歌舞伎」。
絵による物語が「漫画」。
日本人というのはありとあらゆるものを「物語」にしてゆくという。
そこに国民的な歴史を持っているのではないだろうか?
これは言い方がちょっと極端になるが、中国も韓国もベトナム、タイ、あるいはインドまで広げてみても、これほど文学が庶民に浸透している国はない。
『鬼滅の刃』
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考えてみたら絵による物語。
それがあれだけ売れる。
電波による物語『半沢直樹』。
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経済ドラマ。
だが、描き方はヤクザの抗争史みたい。
「倍返しだ!」
銀行マンはあんな顔をしない。
「ハッハッハッハッ・・・!半沢・・・オマエそこにいたのか!」
そんな信用金庫の人を見たことがない。
大事なのは「物語」。
多少おかしくてもいい。
歌舞伎なんていうのはでたらめ。
これはいつかまたやる。
この前、本を読んでいて感動した。
(「『かたり』の日本思想」という本のことだと思われる。このあとの話に出てくるエピソードはこの本を取り上げた回に登場する)
歌舞伎は物語。
物語だがもうほとんど滅茶苦茶。
『暫』で海老蔵改め団十郎。
まだ襲名をしていないから海老蔵の方がいい。
(市川海老蔵は2020年5月に團十郎を襲名することになっていたので、本来ならこの放送がされた時期には團十郎になっている予定だったが緊急事態宣言を受けて延期)
あの『暫』に「海老蔵」が出てくる。
あれの時にセリフで「アイツ、成田屋の海老蔵だな」というのがある。
ドラマが進行しつつ、やっている役者の楽屋落ちのセリフがもうセリフになっている。
アドリブで受けたから伝統になっている。
日本というのはそういうのを平気でやる。
とにかく物語が生きていればいい。
みんな物語が好き。
キーンさんは教師生活をお辞めになってアメリカにお帰りになる。
だが2011年東日本大震災の日本を見てこの方は慌てて日本に帰ってこられる。
そして日本国籍を取られる。
杉並の方だったかで(北区在住だったようだ)2019年(この放送は2020年なので)去年亡くなられたドナルド・キーンさんだが「どうせ死ぬならわたしは日本人の中で死にたい」という。
そうやって考えるとサムライ。
96歳でお亡くなりになったドナルド・キーンさん。
ご冥福をつくづく祈りたいというふうに思う。