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2021年02月15日

2020年10月12〜23日◆つつまれるヒト(後編)

これの続きです。

先週に引き続いての「アフォーダンス理論」。
自分はそう思っていないのに引き出されてゆくという。
そういう人間の心理。
「本当に始めてよかったな」と思うのは始めて六年、合気道を教わっていて、教えてもらいながら、よく意味のわからないというか不思議な表現に接したりする。
相手が自分の手を押えにかかる。
その手に対して自分が反撃をするのだが、具体的な武道の技なので事細かに説明することができないが、相手がかけてきた技をやり返す時に、合気道は絶妙な言い方をする。
それは「相手の腕を栓抜きみたいに開けながら、武田君、逆の手を持ち上げろ」「いや、そんな力んじゃダメよ。自分の親指を吸うような動きを」という。
鬼でもやっつけるようにガーン!と殴るとか、バチーン!と打つとかではない。
「ふわっとやりなさい」とか。
そういう武道に相応しからぬ形容を以て技の力具合を諭してゆく。
最初はそれがすごく不思議で仕方がないし、ピンとこなかったが、ある段階を過ぎると「なるほど」と頷くことがあって、そのアフォーダンス理論というのがそういうことなのかな。

包まれるヒト?“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4)



守備範囲が広くて子供の寝返りから車の運転、飛行機の操縦、スポーツに於ける心理から身障者の方の乗りやすい車イスまで。
その中に演技論もあって、水谷譲が一番興味がある。

ひとまずアフォーダンスによるところの「映画理論」というのにいってみる。
これは青山真治さんという方が書いた映画論。

映画は像(イメージ)ではなく、身振りである。(167頁)

人と違う動作、しぐさ。
「身振り」というと言葉が大きいが「しぐさ」ということなのだろう。
スクリーンに登場してあるキャラクターが物語のためでなく、小さく繰り返す物語とは関係ない身振りによって見る人は物語を感じる。
ちょっと合気道に似ている。
合気道の「やっつけるぞ!」という動きではなくて、「親指を咥える」とか「指の先から水が出るような感じで横へシュッと手を持っていくのよ」とかそういう喩え方をする。
「相手がアナタのことを引っ張っているんだったら、それはもう柳の木の枝のようにゆったりと引っ張られればいいじゃないですか」というような形容の仕方。
これとアフォーダンスというところの青山さんの映画論の中に「人はしぐさである」。
そのしぐさも物語に関係がなければないほど、なおさら人はそこに物語を感じるんです、という。
「しぐさ」ということなのだろう。
スクリーンに登場して、あるキャラクターが繰り返す物語とは関係のない身振りによって見る人は物語を感じる。
これは武田先生は確認したワケではないのだが、興味のある方はどうぞ確認してください。

フォード映画を代表すると言っていいだろう俳優ジョン・ウェインは、フォード以外の監督作品においても〈投げる〉という《身振り》を実践する。しかもそれらにおいても〈投げる〉という《身振り》は、《物語》という「目的」とは無縁に反復されるのだ。ウェインといいえば、カウボーイや職業軍人を演じる彼が、井戸や水道で手を洗ったあと必ずといっていいほど両手を振って水滴を掃いながら振り返り、ジーンズや軍服の太腿で濡れた手を拭きつつ行く手を睨みつけて歩きだすという一連の《身振り》を反復(列挙は避けるが)しているが、−中略−演じるウェイン自身にさえ意識されないかのように複数の監督を横断する《身振り》である。(168頁)

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そこにアメリカ人はダンディズムを感じる。
ハンカチを持っている男は武田先生たちの時代は「軟弱」だった。
『姿三四郎』は腰に手ぬぐいで撫でるだけだったし、小中高校まで、だいたいクラスのカーテンで手を拭いていた武田先生。

姿三四郎



女子から凄く嫌われたのを覚えている。
だが、太陽が乾かすからそれが一番清潔だと思っていた。

細かいことだが、こういうところから「コロナ後」を生きる知恵を何とか探りたいと思う。

 イングリット・バーグマンは、眩暈を起こして倒れそうになる瞬間、口元か額に手を当ててよろける。−中略−ロベルト・ロッセリーニやアルフレッド・ヒッチコックなど演出家の異なる複数の作品でそれを実践している。(168〜169頁)

「美女はクラッとくる」という。

 ルキノ・ヴィスコンティ『熊座の淡き星影』の冒頭近くにおけるクラウディア・カルディナーレの場合には〈髪をかき上げる〉という《身振り》が特権化されている。(169頁)

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食後に戸外に出て実弟と再会するときには、またしても風が吹き荒れ、実弟を抱擁を交わしながらスカーフを取ったカルディナーレの髪は、風に吹かれて靡くことになる。(170頁)

その身振り、しぐさを繰り返すことにより、セリフ以上の何かを伝えようとする。
俳優さんというのは像を描くのではなくて「身振り」「しぐさ」を演じるのだ、という。
そういわれるともう、次々に思い浮かぶ。
日本の俳優さんたちも記憶に残ってるのは「しぐさ」。
渥美清さんは演技の回転。
渥美清さんというのは顔をキャメラに映されている時に半回転して背中を向けておいてキャメラに顔が映っていない背中で驚いた顔を作って「えっ?おじさん死んじゃったのかい?」。
回転。
だから渥美清の演技の凄さというのは半分背中。
「見えていない」ということを「お客さんに見せない」ということを前提にして、その見せなかったシーンでの表情の変化をお客に感じさせる。

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絶世の美女が「とらや」に遊びに来た。
寅さんがたまたま帰ってきて不機嫌なまま、ブスッと背中を向けて上の部屋に行こうとした時に(美女が)「寅さん!」と言うと、もう寅さんの顔が喜び満面の顔で「あいよ」と振り返るという、変わり際を見せないことでお客に見せるという。
勝新太郎さんもそう。
三船敏郎さんもそう。
この名優たちには全員、彼らにしかできない「身振り」があった。
三船さんの怒った時の視線の動かし方なんかそう。
相手をカーッと睨んで「お前達、百姓を仏様だとでも思ってたのかい!」と言いながら一瞬目を逸らす。
戻した時に彼の表情がさらに怒りに震えているという。
そういう身振りの中で像を作っていく。
ちょっと前にお話しした、俳優さんかコメディアンかアイドルかで動きが異なるという。
だからタッチが変わる。
それが上手くゆくドラマと上手くゆかないドラマの差になる。

芝居にとあるタッチがあるテレビドラマがある。
『半沢直樹』もアフォーダンス。

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みんな歌舞伎の人ばかり。
ということは、あの顔芸はどこから来ているか?
「見得」から来ている。
『半沢直樹』に於いては七三、花道の大芝居。
「何を言ってやがる!小悪党!」
そういう「見得を切る芝居」というのが歌舞伎の人は得意。
ある意味で陰影のない、ライト一本を浴びた時のお芝居。
それでタッチが整っている。
『半沢直樹』はみんな同じような顔になる。
「こうなれば・・・倍返しだ!」という。
あれは不自然。
あんな銀行マンがどこにいる。
信用金庫の人があんな恐ろしい顔はしない。
「来たか半沢!ハッハッハッハッハッ・・・」
行内のATMとかがある横で「ハッハッハッハッハッ・・・土下座するんだ!」。
それを花道芝居で見せるから。
だからタッチに流れがあるから、あの大評判になっているのではないか?

ここで面白い実例を見ましょう。
ここからは演技論からちょっと離れてキャメラワークという面白さ。
これも一種アフォーダンスに縛られて行く。

筆者はかつて講師を務めている映画美学校の授業で、実験を試みたことがある。
 授業は、試写室を教室代わりに使って行われたが、まず試写室に集った受講者らをいったん外に出し、再度試写室内のそれぞれの席に戻らせ、その様子を撮影する、というのがこの実験である。席に戻るには
−中略−階段を上がり、通路を通って左右にある縦十数列・横二十列ほどの席に、他の受講者の席の前を通過するなどする。−中略−任意の受講者にデジタルビデオキャメラと三脚を渡し、自分にしかるべき場所と思われるポジションから好きなようにその模様を撮影してもらった。(171頁)

(番組では二台のカメラを使用したように説明しているが、本を読んだ限りではカメラは一台のようだ)

 このとき択ばれた受講者は、スクリーンを背にして右端(つまり空間にとって入口ドアと対角線をなす位置)にキャメラを置いた。なるべく試写室全体がフレームに収まること(それは受講者全員がフレームに収まることも意味するだろう)を念頭に置いたようだった。−中略−残念ながらそこには「通路を通って座席に座る」という予定通りの「行為」より他の運動は生じず、−中略−ただ受講者全員の、照れや困惑といった「心的現実」を浮かべた顔が画面上に《像》として描かれるばかりだった。(171〜172頁)

 そのあと、−中略−キャメラマン・たむらまさきさんに、受講者と同じ条件での撮影をお願いした。−中略−たむらさんがキャメラ・ポジションとして択んだのは、先の受講者とは真逆の位置、すなわち入口ドアの脇にある、階段の上と同じ高さの狭いスペースだった。たむらさんは、そこからまずドアをくぐって階段を昇っていく受講者らを背後から撮影し、半分ほどの受講者が試写室内に入ったあたりからゆっくりとスクリーンへ向けてパン(軸を動かさずにキャメラを左右に回転させる撮影方法。パノラミック撮影の略称)を開始した。そののちに、最後のひとりが席に座る様子をフレームの左端に捉えつつ、白いスクリーンをほぼ完全に捉えたところで、パンを終わらせた。(172頁)

それで両者を比較する。
そうすると圧倒的にプロキャメラマンが撮った方が「さあ、授業が始まるぞ」という印象が残る。
さっき言ったパンで人を舐めておいて、一番端っこの人がそこに座る。
それがラストに見える。
ベルが鳴って教授が入って来るタイミングで座っているように見える。
だから撮影というのはカットが重要な意味を持って、学生さんたちが撮ったのは支離滅裂。
著者が言うが観客は隠されたものを見ようとする。
観客は見えているものは見ない。
人間というのは隠されているものを見ようとするという心理的アフォーダンスに入るという。
そして一番隅っこの女生徒が座るというのでパンが終わってカットがかかった。
それがいかにも、とある動作の終わりがとあるシーンの始まりに繋がりやすいカットになる。
ホラーとかサスペンスでも例えば女の人がいて、後ろに誰もいないのに、カメラワークで「後ろに誰か出てくるんじゃないか」というのがある。
ああいうのが不思議なのだがそういうこと。
山田洋次さんなんかがおやりになる、見事だと思うのは例えば二人の男女がいて、その女の人が去って行く。
その画面の中に男一人しかいないのだが、画角を変えない。
一人しかいないから寄っていけばいいのだが寄ってはいけない。
そのまま撮る。
二人映っていて一人が去る。
去って行く女の背中を映しておいて、キャメラを戻して、同じサイズで一人の男を撮る。
そうすると「去った人」というのがフレームの中に入ってくる。
寄りたくなってしまう。
それが、演出家の腕。
そういう目で黒澤明監督とか山田洋次監督を見ると凄いと思う。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



武田先生が一番驚いたのは『幸福の黄色いハンカチ』に生まれて初めて映画に出た時に、十数年後に気づいて。
あれはずっと黄色が出てこない。
黄色が画面から外してある。
(花田欽也役の)武田先生は白のジャンパーに緑のジーンズを履いていた。
(小川朱美役の)桃井かおりはカーペンターのジーンズ(オーバーオールのことを指すと思われる)と赤いシャツか何かを着ている。
そして車が赤かった(真っ赤なファミリア)。
(島勇作役の)高倉健は黒ずくめで描いてあって、黄色を外してある。
健さんが、夕張の残した奥さんの思い出を話すと、奥の方に黄色い旗が揺れている。
凄い。
武田先生たちが夕張に向かうと追い越し車線の黄色がどんどんキャメラの真ん中に映ってくる。
つまり、あれは山田さんの「黄色いハンカチは上がっていますよ」というのを無意識の中に映像化していく。
ここまで人間の心理を、いわゆるアフォードを見抜くのかと思った時に、演出家というのは凄いと思った。

この本の中で青山真治さんが別の章の中に「顔」という章(「3「顔」の解放)を書いてらして、これは前に話した通り。
コメディアンの人、俳優の人、アイドルの人が混じって芝居をしていると、芝居の質が実は違う。
これは何かというと、これがまた顔。
俳優さんというのは心理を隠そうとする顔をなさる。
コメディアンの人は顔に全部出そうとする。
アイドルの人は一番いい顔をなさろうと努力する。
その顔に於ける表情の出し方のバラつきというのが上手くゆくときとゆかない時がある。
上手くゆかないのは敢えてどれとは言わないが。
「上手くいってるな」と思ったのは『おっさんずラブ』。

劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜



映画版を見て、あれは受ける。
面白い。
あれも言えることは、それぞれが物語の中で持っている心理を画面上で隠そうとするから面白い。

才能ある映画作家たちは、ときとして「顔」を回避する。
 たとえばその顕著な例はロベール・ブレッソンである。ブレッソンはまず、心理を「顔」に表出しようとする俳優を使うことを自らに禁じ、正確な《身振り》と正確な台詞を言うこと以外を許されない、彼自身〈モデル〉と呼ぶ存在を使う。
(177頁)

これは顔に於ける表情というのがそのシーンを台無しにすることがある。

例外的状況以外では「顔」をフレーミングすることをやめる。「その本質において、常に、言語活動の内では把握されない」《身振り》のみで一本の映画を構築することが、ブレッソンの理想的な方法となっていく。(177頁)

だから下手な監督は寄るだけ寄る。
上手い監督はどんどん引いてゆく。
この両方をごったまぜにするのが勝新太郎『座頭市』。
名優が出てくるので驚く。
この間、感動したのが吉永小百合さんが出てきた。
(『新・座頭市T』第14話「雪の別れ路」)
旅芸人で林与一に騙される宿場女郎みたいな役で。
キャメラが寄るわ寄るわ。
だが、はっきり言って、ちょっと安っぽそうなロケでも立派に見える。
やはりそれは勝さんはよくわかっている。
林与一のスケこましから騙されても騙されても尽くす女郎を吉永さんがやる。
一番最後に与一は別の女に殺されるのだが、ひどい男だったから当然な報いで、その与一から貰った櫛を吉永小百合が雪の降りだした空にパーン!と捨てる。
そうするとアッという間に座頭市がその櫛を真っ二つに切る、という。
それを驚き見つめ、涙目の吉永小百合。
黙って背中を向けて「失礼さんでごさいます」と言いながら歩き出す勝新太郎。
バーッと引き。
そこに吹雪の雪がザーッと、崩れ落ちる吉永。
キャメラ寄らない。
寄ると安っぽくなる。
それでもうエンディングロール。
タイトルが上がってくる。
『幸福の黄色いハンカチ』
倍賞が映った。
高倉健が黄色い旗に向かって歩き出した。
大俳優・高倉健と倍賞千恵子の抱擁シーン。
だが、どんどんキャメラは引いていく。
明らかに倍賞は言っている。
「お帰り」
声が聞こえないぐらいキャメラは引いて、引いて引いて引いて見えるのはあの黄色いハンカチの旗の一列だけでエンディングを上げる。
日本人は寄りで泣かない。
引いて泣かせる。
このへんを映画作りの芸術家は知っている。
凄いなと思う。

これは今、語りの手法はアフォーダンス理論。
チコちゃんが「小さい子は何でブロック塀の高いところを歩きたがるの」から始まった。
水谷譲が今言っている「そんなことが想像つくと涙が出てくる」と言った、その心の動き。
「何でか知んないけど泣けちゃうなぁ」っていうこれがアフォーダンス。

生体心理学、アフォーダンスの舞台の広さ。
佐々木正人によるコラムがある。
ここで佐々木は実に興味深いテーマを置いている。
人間というものを見つめた場合、その「生態の面白さ」ということで、食事の食卓の高さについて触れている。
世界中にいろんな動物がいるけれども、食卓がないと飯が喰えないというは人間だけじゃないか、という。
ちょっと話が重なってしまうかも知れないが、東アジアの食事の習慣で独特なのが日本である。
中国、朝鮮・韓国あたりと食事を摂るマナーが違っている。
動物の食事を摂る姿勢、習慣を見ていると、視線の変化である。
これは面白い。
食事を摂る習慣には二つの視線がある。
一つは「肉食の視線」。
もう一つが「草食の視線」。
「肉食の視線」とは遠くにいる生き物を「あっ!シマウマだ。オレ喰うぞ」。
決めたライオンがバーッと追いかけていって喉か何かに噛みついて肉をむさぼる。
肉を喰う時、生き物は肉に視線を合わせる。
そういえば肉を見る。
喰いながらジーっと肉を見る。
魚でも何でもそう。
必ず見る。
口に持ってくる時、肉を見ながら口に入れる。
「お話をしながら肉を自然と持ってくる」というのはない。
一旦絶対、肉に視線を寄せている。
しゃぶしゃぶとかすき焼き。
集中している。
ところがこの「肉食の視線」に対して、もう一つ「草食の視線」というのがある。
ライオンさんがシマウマを食べる時はかぶりついている。
シマウマさんの肉を見詰める。
ゾウさんが草を見る時はどうか?
草食の視線。
口に運ぶ時、見ない。
なぜかというとゾウさんは次に食べる草を見ているから視線は上がっている。

ヒトの食卓には「肉食の視線」と「草食の視線」が共存している。(212頁)

(番組では日本人限定であるかのように言っているが本にはそのようには書かれていない)
これでわかった。
武田先生がポロポロご飯をこぼして何で奥様から怒られるか?
それは簡単。
ご飯は草系が多いから。
目を離している。
野菜が多いから見ない。
昔はちょっと肉が混じっていたらちょっと見ながら食べるのだが、今は口に入れるのは「ナスかキュウリかレンコンか・・・」というので。
イモを喰う時にイモは見ない。
さっきサツマイモをふかしたのをおやつで召し上がって床に落とした武田先生。
「イモか」と思うと見ない。
今まで生まれてきてケンタッキーフライドチキンを落としたことはない。
ちゃんと見ているから。
こうやって考えるとアフォーダンスというのはなかなか面白い。

一番最後に佐々木さんが絶妙なことを言う。
これは何かというと、人は環境からエネルギーを貰っているんだ。
これは環境がくれるエネルギーと自分の持っているエネルギーをかみ合わせて、環境の中に於けるエネルギーを作っていく。
それが人間だ、という。
もの凄くいいことをおっしゃっているなと思って驚いた。
何年か前に神と呼ばれた箱根のランナーたちがいるのを何人か思い出す。
名前も付けたり「山の神」。
よく考えるとすごく不思議。

山の「上がり勾配」も注意を引いたはずだ。なぜこの「傾斜」は同様に鍛えているはずの若者たちのこれほどの能力差をもたらすのか。(213頁)

箱根の坂道が箱根の坂道の神たちに力を与えたから。
彼らは坂道から力を与えられた。
これがアフォーダンス。
ちょっと冷たい言い方になるが、平べったいところで急に勝てなくなる。
そんなランナーが何人もいる。
不思議。
「坂道を上れる」というのは最強の証拠。
ところがこれが平塚あたりの平べったいところになるとあんまりいいタイムが出せないということは、勾配がくれるエネルギーで自分のエネルギーが出るという選手がいること。
これこそが実はアフォーダンスであるという。
そうやって考えると我々は環境に包まれて自分というものを決定しているんだな、と。
こう考えると面白い。

posted by ひと at 17:09| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月12〜23日◆つつまれるヒト(前編)

(公式サイトでは今回のネタ元は『今日から使える行動心理学』ということになっているのだが、実際にネタ元になっているのは別の本)

今日から使える行動心理学 (スッキリわかるシリーズ)



曖昧な表現だが「つつまれるヒト」。
こんなものをまな板の上に乗せた。
これは本のタイトルそのまま。

包まれるヒト〜“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4)



2007年、岩波書店発行のいわゆる生体心理学というようなジャンルの一冊。
これはどういうことが言いたいのか?というと、環境の再発見のため21世紀の人間科学というものを追求しなければならない。
これはざっくり研究分野の名前で言うと、前にも一回触れた武田先生が今、興味を持って仕方がないという「アフォーダンス」。
行動心理学みたいなもの。
この間テレビを見ていたらびっくりした。
アフォーダンスという学問の名前、これが何と驚くなかれNHKのあの人気番組『チコちゃんに叱られる!』に出てきた。
(2020年8月21日放送分「なぜ子どもは縁石の上を歩きたがる?」72分拡大版▽肉じゃが▽夏の怖い話▽お地蔵さん - チコちゃんに叱られる! - NHK
「これはアフォーダンス理論ですね」と解説の先生が言う。
かなり前に武田先生がアフォーダンスは取り上げていた。
自分の興味を持っていることが「チコちゃん」と重なったという喜びがある。
「何で子供はブロックの上を歩きたがるの?」
そういえば、子供は放っておくと段差のある上を歩きたがって、そこを平均台っぽく歩くのが大好き。
これを「何で?」とチコちゃんが訊く。
それがアフォーダンス理論。
この「何で小さい子供はブロックの上を歩きたがるの?」を小さい子供の数年前、その子が幼児だった頃から振り返ると、アフォーダンス理論はすごくわかりやすい。
まず、生まれて人間が最初にやる行動。
「寝返り」からアフォーダンスが始まる。
人間の始まりというものをアフォーダンス理論は寝返りから、この敷いてあるお布団の上で寝返りを打つ場合と、お布団から少しはみ出して畳の上にゴロンと自分が四つん這いになると嬉しい。
一番最初に人間を支配する情熱、心理「回転」。
アフォーダンスはこの回転を中心に人間の行動を考えていく。
天井しか見えなかったものが、一回転すると別世界がある。
それが下の世界。
その寝返りを打った赤ちゃんが四つん這いになる。
これはもの凄い勢いで四つん這いになりたがる。
赤ちゃんは自分の体を回転させるためにブリッジをする。
倒れた亀みたいに頭を。
赤ちゃんは四つん這いになった瞬間に何をやるか?
ハイハイ。
この這っていく時に全神経を集中し、這っている土台の肌理、手触り、感覚を覚える。
這い出すとどうするか?
いろんなものに触れる。
這い続ける。
そしてついに発見する。
這うものの限界を。
「這うものの限界」というのはそこに壁とか遮断する柵がある。
その柵があると次のアフォーダンスに入る。
立とうとする。
そしてついに立つ。
立ったら次のアフォーダンスが始まる。
それが「歩く」。
これはそういう環境に包まれた生き物が、環境と一緒に「寝返りを打つこと」「這うこと」「立って水平なものを見つけたらそれを掴むこと」。
掴んで立ち上がる。
立ち上がった瞬間に今度は下しか見なかった視線が上に上がる。
そうすると全く見たこともない世界が広がっている。
そして歩き出す。

アフォーダンス。
人間が環境を探るために偵察しているうちに、それがいつのまにか立って歩く行為になってしまったので、それは環境と一緒に人間が作った行動。
それは今までは「人間が立った」と言っていた。
だが、「人間が立った」というのは正確な言い方ではなくて「立つような環境が彼(彼女)にあった」。
事の始まりがすべて寝返りを打って回転する。
そこから始まった。
だから「回転する」ということがもの凄く大事。
だからスポーツは回転が入ってくる。
スキーからフィギュアから体操・内村航平まで。
それは「寝返り」の体験。

寝返りを打ってハイハイをした。
ハイハイをして水平のものを発見すると、子供は無意識のうちにこれを掴む。
そして、それを支えにして立ち上がる。
立ち上がると全く違う視界の世界が広がって、今度は立ち上がった視界の果てを求めて歩き出す。
いずれにしても端っこに行きたがる。
これが人間を人間たらしめる二足歩行のスタート。
子供はなぜ、段の高いブロックの上を歩きたがるかというと、これは寝返りの時と同じ。
課題に思える。
宿題に感じてしまう。
ブロック塀を見た瞬間に子供は何を思うかというと、課題として「この上を落ちずに真っ直ぐ歩きたい」と思う。
そうやって自分の能力を高めたいと思う。
そのことに挑戦し、それが達成できた瞬間に「やった!」と。
この出された「環境からの課題」を解いて、「できるようになった自分」を快感とするという。
これは死ぬまで続く。
それが71歳になった武田先生が公園で今、練習しているリップスティックボード。

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あの快感。
できることが、もの凄く気持ちいい。
この「世界を探りたい」という思いがなくなった時に人は本当に老いてしまうのではないか?

アフォーダンス理論は実に細かいことに触れている。
先週、お葉書で「腕に力が入る」という話をした。
(視聴者からの手紙で「力み」についての話があった)
何で力が入るか?
もの凄く短く言うと、そこしか自分が見えないから。
人間は自分の姿を自分で見ることができない。
見つめられる一番の自分は何かというと手。
だから「頑張ってるぞ」と表現したい時は手に力を入れる。
自分で確認できるから。
但し、「腕に力が入っている」ということは自分で納得できるかも知れないが、人はそれで納得しない。

夏の日テレのドラマを見ていたら志村さんの物語をやっていた。
柄本明・川栄李奈・A.B.C-Z 河合郁人・三浦?太「24時間テレビ」志村けんさんの物語に出演決定
番組で志村さんを再現するのだが、ジャニーズの若い俳優さんもいるし、柄本(明)さんみたいなベテランの俳優さんもいるのだが、それに交じってお笑いコンビがいっぱい出る。
その漫才をやっているコメディアンの人の動きと俳優さんの動きとジャニーズさんの動きが違う。
一番ナチュラルに動いているのは柄本。
彼はお芝居の体の動きをする。
「欧米か!」の二人(タカアンドトシ)が出ていた。
肩に力が入っている。
演技に於いて一番難しいのは手をどこに置くか。
ジャッキー・チェンは香港で東洋人なのだが、西洋の俳優さんのアクションスターの動き。
指を差すような。
ちょっとオーバーアクション。
両手の動きからナチュラルさが消える。
そういう人たちの表情がまた、リアルから離れてしまう。
手の動きの大きい人のお芝居は表情も大きくなる。
「おいおい!そんな言い方があるか!志村さん怒ったらどうすんだよ!」
人間はそんなふうに動かない。
そんなふうな動きをやるADがいるワケがない。
何でかというと、アフォーダンスに沿っていない。
「力を入れる」ということを本当に力を入れて表現しようとする。
こういうふうになると映画論になっていくから面白い。
感情を隠そうとするお芝居の中に、もの凄く多量の熱い芝居を感じる。
渥美清の泣いているような笑っているような、決して表情を読ませないという表情を隠そうとする演技の中に表情を感じる。
アフォーダンス理論はかくのごとく様々なものに広がって行くが、ナチュラルに動くということがいかに大変か。

「力み」がなぜ起きるか?
それは「頑張っている」と思うから力んでしまう。
頑張る自分を隠すのである。
これは最近の若い人にはなかなかわかってもらえないようで。
この間『ワイドナショー』で語っていたら東野(幸治)さんから「古い!」と一言。
ワイドナショー - フジテレビ
ただ、人間が歩行、二本足で歩くということに関して、他の動物と決定的に違うのは逆説。
歩くとはどういうことかというと不安定になること。
四つん這いの方が遥かに安定している。
だから、歩くというのは一歩一歩全部揺れているとうことで安定しないこと。
安定しないことが安定してできるようになった時に二足歩行は人間の中に定着していった。
二足歩行から始まって、バランスをどう取っていくか、そのバランスの取り方の上手さが成長することになる。
ということは、子供たちがちょっと高いブロックの上を歩きたがるのはわかる。
早くバランスの取れた大人になれるように。
というのは子供は見ただけで可愛い。
「可愛い」とは「可哀そう」なこと。
子供はバランスが悪い。
頭がデカすぎる。
だが、頭がデカいものを見ると我々は可愛く感じてしまう。
それは「可哀そう」だから。
ちょっと人間は複雑。
だから安定を求める時、人間は敢えて不安定になる。
これが面白い。

ゴルフで畑岡奈紗という女子プロがいるのだが、見ていると面白い。
この人はドライバーで打つ、そのアドレスに入る前にそこの場でずっとジャンプをする。
(ジャンプすることによって)全身を確認できる。

今地面の上で私がぴょんぴょん跳ねたら……。
 そうさ、君は君のからだがどんなかたちかを知ることができる。
(24頁)

ラジオ体操でも小さくジャンプするのがある。
あれは、あれで自分の全身が確認できるから落ち着く。
アフォーダンス。
自分を確認するためにはどうしたらいいか?
もう一つ確認する方法がある。
それは何か?
ジャンプの他に。
その場で一回転すること。
スポーツの中で回転競技というのがいくつもあるのは、実は自分をちゃんと確認しているということの証明でもある。
だから、何回転も回った方が点数が高い。
フィギュアスケートとか体操とか。
あの時にほんのわずかでも肩に力が入ったら転ぶ。
つまり、リラックスして回転できるか、これが問題になってくる。
自分のバランスを確かに持っているかどうか。
しかももっと面白いのは人間はこの前やった竹刀ではないが、長い棒を持たせると必ず振る。
長い棒を持って振りたくなるのは、重さを確認するためには振るのが一番。
だから「振る」という行為は、そのことで知ろうとする人間の意欲。
このへんは面白い。

(水谷譲の)一番下のお子さんは合気道をやっている。
合気道は回転運動。
クルクル回っている。
一番最初の基礎の練習が凄く単純で両腕を振る。
ラジオ体操にも「腰を大〜きく回して〜上体を大〜きく振る運動〜」というのがある。
あれは何かと言ったら肩から力を抜くため。
体を大きく振るためには肩から力を消す。
消すことによって手のひらが敏感になる。
人間は体を振って指をブラブラさせると、指先に神経が行って当たると直ぐわかる。
そういういくつかのアフォーダンスに導かれて「自分の動かし方」を人間は決めている。
そうやって考えると面白い。
ラジオ体操も動きに意味がある。

武田先生の体験なので皆さんにお教えする。
けん玉をやるとよくわかる。
けん玉がどんどん上手になっている武田先生。
三月からやっている。
けん玉、縄跳び、リップスティックボード。
この三本柱を今でもやっている。
今、相当上手。
玉の方を握っておいて、剣の方を空中に回して玉の穴に入れる。
何でそれができるようになったかというのは、肩に力が入っていない。
そこが極意だと思う。
けん玉をやる人で肩に力が入っている人はいない。
上手な人は楽にやっている。
あれは何かというと、自分の都合ではなくて、けん玉の事情に自分を合わせる。
でないと絶対できない。
けん玉というささやかなる道具は「私はけん玉で遊ぶ」のではなく「けん玉が私を遊ぶ」時、上手くいく。
人間は何でも自分でやっているつもりだけれども、実は環境と力を合わせて「私の行動」は決定されてゆく。

アフォーダンス理論。
人間は環境と一緒に自分の行動を決定している。
環境と抱き合わせることによって人間は行動していくのであって、単独で何かをやっていると思ったら大間違いだ、という。

今日のアフォーダンス理論は、日本のどこかにいらっしゃる野村寿子さんという方へのインタビューで始まっている。
(番組では野村さんを「作業療法士」と言っているが、本によると「元作業療法士」)

 佐々木 野村さんは四年前から−中略−脳性麻痺の方のための、オーダーメイドの椅子を作るお仕事をなさっています。その前は−中略−作業療法士をなさっていましたね。(31頁)

 野村 二歳のKくんです。−中略−仰向けで全身つっぱった状態でほとんど動けませんでした。(34頁)

(Kくんの写真は)「ベタッと横になっている幼児」という感じ。

 野村 次に、身体の左右が非対称に歪んでいる方の事例です。たとえば、このRさんの身体は本人から見て右に傾いていますが(41頁)

両者に共通しているのは苦しげ。
彼らにはこの手の椅子しか用意していない。
これをこの作業療法士の人がこの人たちに椅子を作ることによって、椅子だけで変わる。
Kくん、Rさんに野村さんが椅子を作る。
女の子の方(Rさん)は、くの字に体を折って座っていた子が、普通に明るく座っている。
先週から話していることだが、例えば上の写真は両方とも肩、背中に力が入っている。
(番組で「上の写真」と言っているのは本の35・41頁の合っていない椅子に掛けている写真)
そして下の方、作業療法士の人が作った椅子に二人が座ると、非常に楽な感じがする。
(番組で「下の写真」と言っているのは本の40・43頁のオーダーメイドの椅子に掛けている写真)
特に女の子の場合は思う。
一目見て「あ、身障者の子だな」とわかるような上の写真だが、下の写真はすれ違っても・・・
この二つの差異はどこから生まれてきたのか?
これもアフォーダンス理論。
これは面白い。
体で動かない場所が下の方の写真にはある。
上の方の写真はとにかく寝かせなければ・・・というのだが、下の方の写真で生き生きと動いているのは定まった部分がある。
腰が据わっている。
定位、動かない体の部分があるので、体の上の方が動くようになった。
びっくりするぐらい表情の違いを感じる。
痛々しい身体障害者の子が、違う椅子に座っただけで生き生きとした表情になって、周りを見たり、あるいは人に話しかけるような表情になっている。
これは何かというと、苦しそうな表情をしているのは椅子が「転ばないように」を前提に作ってある。
「転ばない」ということを前提に作ると苦しそうに座る。
生き生きと表情がしているのは、実は間違えて前につんのめると倒れる。
倒れる方が表情が生き生きとしている。
不安定の中で安定を見出す。
倒れることが自分の課題になっている。
(このあたりの話は本にはない)
そうすると「倒れないぞ」ということで自分の体を使うことがこの人たちに健康な少年らしい表情を与えていく。

これを見ながら何を考えたか?
ずっと晩飯を喰いながら(奥様から)叱られていた。
手の甲を物差しで叩かれるような声で叱られて。
何でか?
ご飯をこぼす。
それでずっと奥様から怒られる。
「ほらまた!チッ!もうボロボロボロボロこぼしてぇ!」
これはアフォーダンス理論で追及した。
「何で俺はご飯をこぼすのか?」
それはご飯を奥様の横で食べる時に体を硬直させているから。
それでこぼす。
力が入ってしまって。
そうするとこぼす。
こぼさないためにはどうするか?
背筋を伸ばしておいて、肩から力が抜けて自由に使えること。
これがこぼさず食べる方法。

身障の人たちに適合した椅子を作る。
定位、体の一部分をしっかり固定しておく。
ちょうどお尻の形が前後に揺れるようになっている。
この不安定さが実は人間にとってとても自由度を高めてゆくという。
合気道は姿勢の武道で、武田先生はすぐに背中を丸めてしまうが、それを何回も注意されている。
これは何かと言ったら前にお話しした、体の一部分を真っ直ぐに保持することによって肩から力を抜き、手の自由度を高めるという。
そういうアフォーダンスに従うためにはそういう動きがいい。
(水谷譲の合気道をやっているお子さんが)普段はちょっと猫背ぎみ。
だから「合気道をやって何かいい方向に行けばいいな」と思う水谷譲。
絶対いつか悟ると思う。
ベストにその技が効果的に効くためには、やっぱり背筋が伸びていないとダメ。
そういう意味では長い目で見てあげてください。

こういう発想が面白い。
人間は環境の中から自分を決定してゆく。
今まで環境を資源にしてきた。
「石油がありゃあ取りゃあいい」「畑作って喰い物を植えりゃあ高く売れる」「川見りゃあ魚を釣ってとにかく稼ごうぜ」という自然、あるいは環境を資源にしてきた。
だが、今はそうではない。
環境とどう折り合うか。
そういうことを考えると、もっと違う物事の発想が。

ここからさらに面白いことに気が付いた。
それはまたゆっくり話すとして、武田先生がずっと引っ掛かっていた言葉に「ソーシャルディスタンス」。
今はもの凄く叫ばれている。
「ソーシャルディスタンス」と昔はそんなことは言わなかった。
コロナ禍で出来た言葉。
親しみやすい方がいいから握手するアイドルとか、ハグし合う選手たちとかが高く評価されていたのだが、今、「ソーシャルディスタンスを取れ」と言う。
「そんなコロコロ変わっていいのかな?」と思って「ソーシャルディスタンス」を日本語で何と言おうかなと思って考えていた。
日本にあった。
こっちの方が遥かにいい。
間合い。
公園でソーシャルディスタンスの2mに立ったことがある武田先生。
2mの端に立つと同じ構えをする。
刀を構えて正面に置く構えになる。
宮本武蔵と佐々木小次郎みたいに。
あれがちょうど2m。
まさに間合い。
間合いによって生きるか死ぬか。
昔の人たちはとても巧みにソーシャルディスタンスをキープしていた。
べったり寄ってくる人なんかいない。
特にサムライはソーシャルディスタンス用に刀を差している。
それがカチンと当たったりすると大変なことになったワケで。
そうやって考えると、そこにはちゃんと持っている道具でのアフォーダンスがあった。
頬っぺたをチュッチュしたり撫でつけたりするうちにおかしくなってしまって。
西洋かぶれみたいな。
そうやって考えると「間合い」という問題から、いわゆるソーシャルディスタンスを考えていくと、そこにはちゃんとコロナに対抗すべき人間の生き方「アフォーダンス」があった。

人は自分の定位を定め、自分のサイズを確認する。
自分の重心を確認するために回転するのだ。
こうやって考えると面白い。
回転することで名を上げた時代劇スター。
勝新太郎『座頭市』。

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座頭市は回転。
ブルース・リーが勝新太郎さんと共演したかった。
それでカンフーの回転と居合切りの回転でアクション映画を作りたかったらしい。
観たかった。
つまり、回転するものは人を惹き付ける。
そうやって考えると、彼らを支えている「アフォーダンス」回転というのは実に興味深い理屈であるということ。

来週は「演技論」に行ってみようかと思う。
アフォーダンスは運動理論もあるが芸能理論でもある。
考えたら歌舞伎にしろ日本のお祭りにしろ、見せ場は回転。
回転することは興奮する。


posted by ひと at 16:43| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする