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2021年02月26日

2020年11月9〜20日◆コロナと共に(後編)

これの続きです。

コロナと共に人間は生きねばならぬ、という。
若い世代の呼び方も「ロックダウン世代」と呼ぶようにしようなんてアイデアが上がっているワケで。
何かニューヨークのニュースとかロンドンのニュースとかを見ると状況が(日本と比べて)きつい。
日本は抑えている感じはする。
人と人とが接することを「face to face」とか「皮膚感覚」とか言われた言葉が全部消し飛んで「ソーシャルディスタンス」「間合いを取れ」という、そんな時代だから「ロックダウン世代」という言葉も響きは悪いが当たっていないこともないな、という。
先週お話したのは「ソーシャルディスタンス」そんな横文字はやめよう。
家にいることを「ステイホーム」なんて言わない。
「巣ごもり」の方が的確。
このコロナと共に生きる自体。
「ソーシャルディスタンス」のことを武田先生は「間合い」と呼ぼう、と。
しかもこの「間合い」に関しては人からお説教をされることはない。
日本人というのは間合いの民族。
あまり「民族」という言葉は好きではないが。
間合いの民族と言ってもいいぐらい間合いに関してはデリケートである。
お話したのは渋谷のスクランブル交差点。
四方方向から人が流れ混んできて誰一人ぶつからず全員がすれ違うという。
日体大の名物みたいなもの。



「エネルギー」という物理量は、−中略−質量×加速度×距離ということになります。(「間合い」とは何か 14頁)

これを一瞬でやる。
2m以内に入る前にやってしまって、2m入った段階でもう避けている。
目測、暗算で測りだす人が非常にたくさんいらっしゃる。
それから日本人の独特なのだが

物理には「位置エネルギー」という言葉があり、−中略−位置が高ければ高いほど、位置エネルギーは大きくなります。(「間合い」とは何か 15頁)

こういう「位置エネルギー」にも敏感で、高いところからものを言うと「上から抑えつけようとするエネルギー」を感じる。
それが言葉になったのが「あの人の言い方、なんか高飛車!」「アイツ、上から目線なんだよね」。
この視線にしても、ものの言い方にしても、すでに間合いを取って威圧のエネルギーを感じる。
こうやって考えると日本人は「間合い」というものを日常から感じつつ自分というものを守っている。

先週言っていたが生きて行くということは「正しい答えを見つけるのではない。適切な答えを見つける」それが「頭がいいということなんだ」と。
ここにたどり着きたかった。
重大なことは、ぶつからない間合いを感じ取る。
二人称的な間合いを直感で思いつく。
それが大事なんだ。

繰り返しになるが、合気道をやっている。
「俺は強いぞ」と威張っているのではない。
合気道がいろいろなことを教えてくれる。
合気道の基本は簡単。
足を右左互いに出して、右足を前に出したら右手を前に出す。
それで引いた左足を一歩前に踏み出して一回転する。
回転の妙で敵を避ける。
その時に合気道の指導者は言う「指先に力を入れるな。指先に力を入れずに指先に蚊が止まっても感じる能力を持ちなさい。身体感度を上げなさい。そのことがあなた自身を守る武道になります」。
だから、日本の武道は、西洋のスポーツと違って、相手に存分のエネルギーを発散させることを目標にする。
その相手のエネルギーを使う間合いで上手さがある。
故に日本の武道には「相手の不調につけこむ」というようなやり方を「卑怯」と言って喜ばない。
武道には「油断をさせる」「裏をかく」「欺く」そういう戦術用語はない。
そこに達人の境地がある。
相撲。
世界でただ一つの特徴は何か?
スタートを自分たちで決められる。
西洋のスポーツは全部ジャッジする人がいて、スタートの合図はそのジャッジマンがやる。
ホイッスルを吹き、ピストルを撃ち鳴らし、掛け声を掛けて。
日本は違う。
見ていて「難しいだろうな」と子供の頃から思っていた水谷譲。
立ち合い。
だから凄く面白いことは、気が合わないと開始にならない。
敵と気を合わせないのが西洋のスポーツ。
相撲は二人がしっかり同じ気持ちで立たないと成立しない。
ああいうのは面白い。
相撲は両方の足の裏が天井を向いたら負け。
体当たりでビョーン!と相手を向こう側に突き出す。
その両足の裏側が天井を向いていたら負け。
一瞬、瞬間。
だがそれを見抜く。
白鵬の時にあった。
白鵬が負けになった。
足の裏を見せると負けになる。
間合いというもの「立ち合いの間」。
それを大事にする日本のスポーツと言うか興行だが大相撲がある。
立ち合いの間が合わないと開始にならないという。
そのへんが「間合い」。

そして、二人で間合いを作るというものの重大なスポーツ。
これは西洋からやって来たワリには日本人が大好きで人気スポーツの一つ。
野球。
大事なのは間合い。
野球の本質とは何か?ということ。
これがラジオではちょっと説明しにくいのだが、野球の試合進行はというとピッチャーが構えて投げて、投げられた球をバッターボックスのバッターが打つ。
これが野球の攻守になる。
ここのどこに「間合い」があるか?
これは単純に言うと投手はバッター、打とうとする人の間を外すことが名投手。
ボールを曲げたり落としたり横にずらしたり。
バッターはというと、投げられたその球を間合いを読んで遠くへ打つ。

攻撃動作と投球動作はまるで同じ構造をしていることがおわかりいただけると思います。投手が打者側ではない足で立つことと、打者が後ろ足に体重を預けることは、ともに体内に位置エネルギーを溜め込む行為です。次に投手は打者側に踏み出し、着地しますが、一方、打者も投手側に踏み出し、着地します。−中略−着地するや否や、投手は上半身の回旋と腕の振り出しを行い、打者は上半身を回転させながらバットを振り出します。−中略−投球と打撃は、ほぼ同じ原理で成り立っているのです。(「間合い」とは何か 43頁)

これも一種「間合い」。

打者が、投手に比べて、フェーズが一つずつ遅れて開始されているという関係にあることがわかります。まるで輪唱のように、打者は投手の動きを追いかけるのです。(「間合い」とは何か 44頁)

「間合いのズレ」を楽しむのが野球。
こういうのはたまらなく面白い。
間合いを自分で合わせなければ始まらないという相撲。
これも間合い。
投手と打者。
これも打つ、投げる。
この間合いをどう外すか。
それが勝負になってくるという。

それから、芸能に於いてもそう。
演技で要求されるのは「間」。
お芝居をしていて「コイツとは間が合わないな」というのがある。
もう決定的。
名優というのは間が上手。
誰と言っているのではない。
ただ、その人のドラマのお芝居を見ていて「何かこの人は嫌だな」と。
何に「嫌かな」と反応しているかというと「間」が嫌。
一番手に負えないのが自分の間だけでやる人。
やりにくい。
共演者と間を合わせること。
『3年B組金八先生』をやっていて向こうは素人。

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それをもの凄い高い次元のシェイクスピアみたいな芝居を子供の前でやっても間合いが合わない。
「何かあったか?ん?」
下手にやる。
下手さ加減を合わせるところにお芝居の間がある。
だから誰かがもの凄く高い次元でバーン!と出るとみんな付き合わなくてはいけないので、現場はみんなくたびれてしまう。
出てくる人がまずセリフでものを言わない。
まず目でものを言う。
つまり、静かなシーンは静かにやればいいし、騒がしいシーンは騒がしくやればいい。
驚くシーンは驚けばいい。
その方が見やすい。
驚くシーンで驚かない人が時々いる。
「ん・・・ん?何か?」
「何か」じゃねぇよ。
「大変だ」って言ってきてるんだから「大変だ」って顔しろよ。
誰と言っているワケではないが、ドラマだって演劇だって舞台だって「間」。
二人称的身体。
自分を作って相手に見せるのではない。
相手と一緒に自分を作っていく。
どんどん広がる。
ウィズ・コロナの時代。

ソーシャルディスタンスではない「間合い」。
日本の暮らしの中とか文化の中にある、人と人との「間」。
演劇にもあればスポーツにもあるというその「間」「間合い」を三枚におろしている。

例えば「間合い」。
日常会話に於いてもやはり「間合い」。
坂井田瑠衣さんという方がお書きになっているが。
会話に於いて最も重大なのが実は間合いなのである。

 日常会話を、「相手にかかわろうとするエネルギー」−中略−をさまざまなやり方で醸し出し合うことで、互いにとって心地よい間合いを絶えず形成し続けるプロセスである、と捉えてみましょう。(「間合い」とは何か 56頁)

共感とは、相手が見ている事物を相手の立場から捉え、相手が醸し出す訴えを感じ取ろうとすることだといいます。これが、「二人称的かかわり」です。(「間合い」とは何か 68〜69頁)

自分の主張を相手に渡すことではない。
「語りたいけれども上手く語れない」語りにくさへの共感。
言いたいことは何かというと「オマエが喋って私が聞いてる」というポジションではない。
「これ、何て言えばいいのかな?」「そうそうそうそうそう・・・そういうことを語る時、難しいんだよね」という、共感が生まれた時、会話は成立するという。
今度のコロナ報道が一番わかりやすかったのだが、事実を暗く語る方と、その事実の中から「語りにくさを語る」というアナウンサーの人がいた。
これも誰とは言わないが。
その人の声を聞くとほっとする。
それは局アナの人が「こう語りたいんですけども、語りにくいんですよね」という。
マスクをしている群衆がいる。
それに向かって「何人かしてない人もいますね。やっぱり気の緩みか」と責めるテレビ局の中で「たくさんの方が守ってらっしゃいます。お互いに注意したいですね」という、その語りにくそうに語るのを見ていて感じる時、もの凄くその人に共感する。
そして、会話に於いてその会話が順調にいっているなと思うのが、漫才でもそうだが

 会話には、ターンテイキング(順番交替)と呼ばれるシステムが働いています。(「間合い」とは何か 79頁)

それも「間合い」。
今は水谷譲は聞くのに忙しくて声にあまり出さないが、いわゆる「聞いている」というのを全身で表す。

会話の聞き手は、受動的に情報を受信するだけの存在ではなく、話し手の発話を受け止め、さまざまな反応を返す、という重要な役割を担っています。−中略−聞き手は相槌を打ったり、話し手に視線を向けたりします。話し手は、聞き手のそうしたふるまいの裏に、「あなたの話を聞いていますよ」というエネルギーを感じることで、スムーズに話し続けることができるというわけです。(「間合い」とは何か 57頁)

水谷譲も喋る時に、たえず自分がこう言った時に頷く聴取者の人の声が聞こえるがごとく語れた時にレジェンド女子アナになれる。
入社した時に「相手の間を絶対壊しちゃいけない」と言われた水谷譲。
その時は「『間』ってどういうものかな?」とずっと思っていた。
何でもそうだが「はい」という返事でさえも余りにも過剰だと侮辱。
誰とは言わないが、やたら相槌を打つ人がいる。
「ハイハイ。ハイハイハイハイ」
昭和のいる・こいるさんみたいに。

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つまり「はい」という返事でさえも「聞いてない」というふうな返事の仕方がある。
間合いがよくて思わず聞き惚れるというお手本がやはり「寅さん」など。
さくらと寅さんがラストでしみじみ「お兄ちゃん」「え?」という。

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あの時に日本人は心を広げて二人の会話を聞く。
それは聞いている人をあの名優二人が十分に察しながら語るから。
それからもう一つ。
いつも感心するが作品にもよるかも知れないが『となりのトトロ』に於ける宮崎アニメの会話の静けさ。

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あれはいい。
お父さんとお母さんの物言いを絶対に急がせない。
サツキとメイは子供だからテンポアップするのだが。
(サツキ)「何かお父さん、家の中で動いた」
(お父さん)「え?何が動いたのかなぁ?」
確かにどれを見てもお父さん、お母さんはすごく穏やかで静か。
あそこには日本人が最も好む会話の間合いがある。
それが映像、アニメになっても日本人は凄くそこから情感を感じてしまう。
このことを踏まえておいて「コロナと共に」の時代、人と話すスピードと間合いを考えましょう。

「喋り方の間合い」というのでコロナが教えてくれたというか、そういうものがあった。
街で見かけた風景で「コイツの喋り方は『コロナと共にの時代』まずいな」という喋り方がパッとわかるようになる。
それは何かというと、無我夢中で話している若い人の喋り方を見ると「危なぇな」と思う。
イラッとする。
感染のことをすっかり忘れて二人称的間合いを忘れて、自分の興奮だけを夢中。
「あっ!俺!ヤバくてさ!バァッ!」とかと言うと「考えろよ」とかという・・・
それがやっぱり我々にコロナが遠回しに教えていることなのではないかな、と。
接触の間合いというのはやはり学ばないとダメなのではないか?
この時代、知恵を絞る、その絞り方を探って行きたいというふうに思う。

一人でも間合いがある。

居心地というものごとも、実は、空間を構成する様々なモノとの間につくり出す「間合い」の結果であるということを論じたいと思います。(「間合い」とは何か 138頁)

例えば喫茶店に入り居心地のいい席に座る。
居心地のいい、その席はどんな席かというと右手の席が空いており、長いテーブルの先、ガラス窓があって遠くの景色が見える。
武田先生たちはスタジオで今、お送りしているが、今日は豊かなスタジオで、広いところを使わせてもらっているが、そんなふうになっている。
この時に何となく居心地がいい。

視線が外に抜けることで、内側の空間にいながらにして、閉鎖的な鬱屈感が軽減されます。(「間合い」とは何か 138頁)

今、このスタジオもそうだが、武田先生と水谷譲の間にはアクリル板、シールドがある。
「シールド」と言うと『スター・ウォーズ』を思い出して仕方がない。

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (通常版) (字幕版)



そのシールドがあって、お互いツバがかからない2m近い距離がある。
だが居心地がいい。
この「居心地がいい」というのは一人ではない。
この「モノに囲まれている」「他のモノに囲まれて私は居心地がいい」と感じている。
理想を言うと水谷譲と武田先生は向かい合っている。
お互いにシールドがあって、目を逸らすと遠くの浜松町の街が見下ろせる。
窓がある。
あの窓の手前か何かにちょっと綺麗な花が置いてあったりすると、さらに居心地がいい。
何でかというと伝うから。
視線というのは必ず、見るものを伝いながら遠くを見る。
遠くを見るまでにいろんな指標が点々とあると居心地がよくなる。
何かが仲介しているということ。
これがいわゆる二人称的身体というワケ。
視線は手前の風景「近景」から「中景」「遠景」これが三つ繋がるように物が置かれていると安定する。
「居心地がいい」ということでさえも何者かの協力がないと、環境がないとそう感じ取れない。
視線には「巡らす演出」がなければならない。

一人の居心地のよさを追求したのが何かというと、この本はそういうところの指摘が面白かったのだが、茶道。(というのは本の中に発見できず)
茶道は対面に人間を置かない。
茶を点てる人は釜の反対側だから横にいる。
だから、対面しない。
人の視線にさらされない。
そんなふうに人物が配置してあって、近くの壁に掛け軸があったり、花瓶に椿を一輪入れたり、視線をずっと這わせることができる。
そうするといかに狭い空間でも、もの凄く広々感じることができるという、これはもう茶道が持っている「間合い」。
これは名言。

「何だかわからないけど、この店入りにくな」とかということがある水谷譲。
それは「間合い」。
かくのごとく「間合い」というのは重大なもの。
コロナも後半の方になると20〜30代の方の陽性率が高かった。
それはその方々があまり日本の間合いをよく学び取ってらっしゃらなくて、アメリカとかヨーロッパの間合い「ハグ」とか「スキンシップ」とか「シェイクハンド」とか、そういう文化にたっぷり浸り続けたのではないか?
若い方にお説教ではない。
ただ、若い方もちょっと覚えておいて欲しいのだが、どうもコロナというヤツはそこに向かってNoを突き付けたようだ。
前にお話ししたが、芸能に於いて見せるもの、売り物は「間」である。
会話の「間」である。
もう一つ客と芸人の「間(あいだ)」。
その「間合い」も重大な芸だった。
お客さんとの間に「間(ま)」があればある程、輝くもの。
「コロナと共に生きる」ということは芸能界の商品と化した握手だったのだが、少なくともコロナはNoを突き付けたワケで。
「そういうものも見直していくべき」ということ。
そこから考えるとコロナが大きい声で「それは絶対に許さない」と叫んでいるものは明日発表する。

「ソーシャルディスタンス」という言葉。
これでは物事を正確に掴んでいないような。
それで、本屋さんに行って本を探っているうちに「間合い」という武道用語を手にいれて、いろいろ読んでみて「ソーシャルディスタンス」というよりも我々には「間合いを取る」「間合い」じゃないだろうか?ということで、本を読んで三枚におろしてみた。
間合いの取り方。
これが、ただ単に感染症の予防だけではなく、ゴルフも所詮間合い。
それからサッカー、野球、夫婦の在り方も間合い。
考えてみれば我々はソーシャルディスタンスのテクニックを相当やはり忘れている。
喫茶店に座り込むこと、佇み方、それも間合い。
「あおり運転」もそう。
間合いが取れない人。
何てことない間合いを「オレには危険だった」と怒るワケだから、間合いに敏感すぎる病の方。
間合いはありとあらゆるもの。
予告したので先に言っておく。
「握手会も許さない」と言うのだから、一体コロナは何を嫌っているのだろうか?
人と人が密に接触することをNoと言っている
ここからは本にも載っていない武田先生の考え。
コロナが登場することによって粉々に砕け散った人類の計画がある。
それが「一帯一路」ではないか?
「グローバルスタンダート」ではないか?
つまり、「一つの価値観で世界をまとめる」ということにコロナは「許さない」という。
「お互いに儲かるからいいじゃん」というのが、いわゆる「グローバルスタンダード」。
価値を一緒にしておいて、一つの価値観で世界を割り切る。
一帯一路。
中国を中心に世界を結び直すネットワーク。
「No!」
コロナはそれを叫んだ。
コロナがもしテレビ番組を見るとしたら何を見るか?
コロナが「面白いじゃん。オレ好き、こういう番組」。
報道番組は見ない。
日テレの『ケンミンSHOW』ではないか?
秘密のケンミンSHOW極
「へぇ〜。秋田県は芋煮会に牛肉入れるワケか」とか小さなエリア内の違い、そのあることの証明をコロナは「へぇ〜」とかと見るのではないか?
コロナはみんな同じ症状に突き落とすというのは「差異」「個体にはそれぞれの違いがある」ということがコロナは確認すると楽しいのではないか?
これが武田先生のだいたいの結論。

もう一つ。
一週間前、そんなことを喋っていたが「AI」。
正しい答えを知っているコンピューター。
膨大な量の。
それが、世界を支配するという。
コロナ対策でもAIに任せようとさんざん出てきている。
それからもう一つ、自動運転。
一種AI。
この本で一番面白かったところ。
AIが一番苦手にしているところはどこか?
AIが自動運転でできないことがある。
譲り合い。
AIはできない。
正面から来て、どっちかが道を曲がるとする。
その十字路が幅が同じぐらいでどちらが先行していいかわからない。
本線がわかりにくい十字路がある。
時々譲り合う時がある。
あの時に「お先にどうぞ」をやる。
あれが(AIには)読めない。
人間がやるしかない。

現在のAIは間合いを図ることはできません。(「間合い」とは何か 251頁)

譲り合いがAIはできない。
やっぱり難しい。
車をポッと抜いておいて、ある安全な車間に入って、二車線目に戻ってケツのランプを二回パカッパカッと後ろに「サンキュ!」と送る。
あれを「送るかな?」とAIが考えるとするとAIは凄く苦しむと思う。
それと、前に言った勝ちパターンを知れば知るほど、負けないというパターンを消失してしまうAIの限界。
あるいは「負けてもいい」という勝ち方がある。
「よーし!負けてもいいんだ」と思って打つという。
とにかく数で表現できない、この主観を一回忘れることで「間合い」というものを計算できるという。
これをちょっとやはり「ウィズ・コロナ」「コロナと共に」の時代に考えるとなかなか面白いのではないかなと。
理屈っぽい放送ではあったが、ちょっとやってみたかった。
来週はグッとわかりやすく「森の生き物」とかわかりやすいものをやる。

posted by ひと at 10:32| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月9〜20日◆コロナと共に(前編)

(公式サイトでネタ元として紹介されているのは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』の、現在は発売されていないらしい新装版ではない古い方の本)

新装版 アクティブ・マインド: 人間は動きのなかで考える (UPコレクション)



(上記の本からの引用も何か所かあるのだが、ネタ元として紹介されていない『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』から大量に引用されている)

「間合い」とは何か: 二人称的身体論



(因みに、このブログでは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』はページ数などをネタ元で紹介されている新装版ではない方に従った。二冊の本からの引用が登場するので引用箇所はページ数と共に『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』は「アクティブ・マインド」、『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』は「「間合い」とは何か」と表記しておく)

本当ならば「ウィズ(with)コロナ」というのだろうが、武田先生はこの「ウィズ・コロナ」をいろんな方が東京都知事も含めておっしゃるが、耳で「水コロナ」に聞こえる。
何か本当にイボを治療する時の塗り薬みたいな・・・というような響きで聞こえるものだから、敢えて「日本語で語った方が」という。
とにかくコロナという疫病、流行り病と共にこれからは生きて行かねば、ということで、一年ぐらいコロナのことを何かにつけて語ってみようかなと、そんなふうに企画したワケで。

本屋さんに行くと、コロナと共によく本棚に並んでいるのがAI。
その関係が凄い。
AIとはよくわからないがとにかく「人工知能」。
膨大な情報を持つコンピューターがどんどん知識を膨らませて、やがては人類を支配するのではないか?というような予言の書が結構並んでいるのだが、武田先生が手にした本は『アクティブ・マインド』という本で、その本を読みながら凄く考えた。
それをコロナのこの時代と重ね合わせると、どんなことが言えるのかな?というのが今週、来週に渡って語る「コロナと共に」。
まずは『アクティブ・マインド』という本の中から行ってみる。
序章によれば、一体、AIがいっぱい持っているという「知識」とは何であろうか?

「頭のいい人」というのは、頭の中に豊富な「知識」を持っている人のことだ、という考え方もどこか捨てがたい。−中略−
 ところが、
−中略−私たちが日常生活でいろいろなことが「理知的(intelligent)に」できるようになっていることの背後にあるのは、そのほとんどが、−中略−Knowing How(本章では〈やり方・知〉と呼ぶことにしよう)であって、それはさまざまな命題や規則の知識を所有しているKnowing That(〈事柄・知〉と呼ぶことにする)とは根本的に異なっているのだとした。(アクティブ・マインド 2〜3頁)

クイズ番組に最近、東大の(学生が)よく出てくる。
おじいさんだから「勉強しろ!この野郎!」と言いたくなる時がある。
「(クイズ番組に出ている東大生は)めちゃめちゃ頭がいい」と思う水谷譲。
そこをちょっと考えよう。
彼らは頭がいい。
だが、ここではっきりさせなければならないのは、「Knowing」「知識」「頭がいい」とはどういうことなのか?
とりあえずその頭の良さをAIに託してみよう。
AIは頭が抜群にいい。
それは認める。
クイズ番組に東大生が出てくる。
どんなにあがいても、あのAIには勝てない。
AIは知識量が膨大すぎる。
ということは「頭のよさ」はその程度のこと。
そのAIが全く役に立たない場面は何か?
テレビ番組で考えてもわかる。
東大生「AI的頭の良さを持っている人間」が活躍するのは番組としてはクイズ番組。
だが、テレビ番組はクイズ番組だけではない。
報道番組もあれば、ドラマもある。
バラエティもある。
決定的に東大の人はスポーツ中継には役に立たない。
プロ野球に行ってバッターボックスに立って頭の良さでヒットが打てるワケではない。
ということは、その手の頭の良さはスポーツでは全く役に立たないということ。
AIの持っている知識は。
これはなぜそうなるのかというと、スポーツには状況がある。
スポーツでは「正しい答え」ではなくて「適切な行動」が求められる。
三塁に同じチームのヤツがいれば、彼をホームに帰すことが適切な行動。
そんなふうにして、世の中は「正しい答え」というので正解を出すことと「適切な行動」というので答えを出すという、そういう世界もある。
一番大事なことは、世の中全体にとって適切に行動することが最も正しい答え。
野球でも今はAIが活躍していて「次の球種はこれじゃないか」という予想はいくつもしてくれるが、それを状況を見て選ぶのは人間。
つまり、今、コロナと共に求められているのは「状況の中で人間はどう行動しなければならないか」。
「頭のいい行動をとって欲しい」というのが「コロナと共に」の時代で、「正しい答え」はみんなテレビ番組に出てくるコメンテーターの病院の先生が言っている。
だが、五か月も六か月も同じことを言われると人間はくたびれてくる。
「正しい答え」というのは飽きてしまう。
「数が減って来た」と思って喜ぶ。
そうしたらワリとクールに「あ、今日は検査数が少なかったんです」。
わかっているが、とりあえず喜ぼう。
情報番組で人通りの多い通りを映す度に厳しい顔をした司会者が「かなりの油断が見られるようです」。
みんなマスクをしてそれなりに適切に行動している。
そのことを言おう。
誰かが言っていた。
「名言だな」と思ったが、秋の連休なんかがあった時に、100人中90人の人がちゃんとマスクをしている。
それはやっぱり「素晴らしいことなんだ」と。
10人を暗い顔で語らず、「90人はやってますよ」と伝えるのが報道ではないか?
本当にモノは言いようで「AI的モノの言い方」というのは、カチンとくる。
正しいから、なおさら腹が立つというのが人間にはある。

このコロナの時代、共に生きていく知恵をここで絞りましょう。

実は昨日から突然始めた「コロナと共に」は武田先生が前に話した「アフォーダンス研究」の一環。
アフォーダンス。
その環境と人間がどう折り合って行動していくかという心理学。
ご本家の(ジェームズ・J・)ギブソンという人。
この方が「アフォーダンス理論」を考えたのだが、この人が世界をどう見るかというと、「人間が考えて行動するのではない。人間は行動しているうちに考えるのだ」。

今度のコロナ騒動で男の人と女の人の違いがよくわかった。
男はちょっと「踊る阿呆に見る阿呆」みたいな阿呆なところがあって。
男は外に出たがる。
武田先生はいつも出ようとすると(奥様から)「どこウロウロするのよ!」。
だが、ウロウロしないと何も考えられない。
「あ、俺アフォーダンスだ」と思った。
女の人は考えてからウロウロする。
だが、男はウロウロしながら考えている。

それとシモ話になってしまうかもしれないが、つくづく思ったことなのでご報告しておく。
三日に一遍ぐらい(奥様が)「ゴミ箱のゴミを出せ」と凄い声で怒鳴る。
「ゴミ出して!ホラぁ!!!(怒」
それで自分のゴミを出すのだが。
男は自分が使ったチリ紙を必ずポケットに入れる。
チリ紙に限らず、ゴミなど「何でそれ出さないの?」ということがある水谷譲。
男はゴミを出すのはもちろんわかっている。
武田先生はティッシュを入れたまま忘れるクセがあるので洗濯のたびに「またぁ!」と怒られるのだが。
「何でか?」とコロナの時に考えたのだが、そこが男性と女性の心理の違い。
女の人は「決まった日に出す」。
男は「溜めてから出す」。
「一杯溜めてから出す」というのが男にとっては快感。
ゴミも山程溜めてから出したい。
何でもそう。
男はトイレに行くにしても、もう「あわや」というところまで一杯溜めてから行きたがる。
いちいち行かない。
習慣でそれはない。
そういう生理の違いがある。
そんなふうに思ってください。

J・ギブソンのアフォーダンス理論。
人間の心理学として大いに使える。
すごく面白いのは、この人間の行動の差異というのを民族まで拡大すると、またアフォーダンスが成立する。
日本人はお箸を自由に使うことが食事のマナー。
だから、日本人は食器を手にして箸を動かす。
日本人は旅館などに行って飯を喰う時、今度お出かけになったら確認してください。
宿屋の人がご飯を出して置いた時、日本人は食器の場所を変える。
かくのごとく「食器を入れ替える」ということに関して、日本人は平気だ。
マナー違反にはならない。
それは何かというと「箸を自在にふるえる」という。
基本的に日本人の食事の中で、さじ(スプーン)に対する「上から目線」。
スプーンは赤ちゃんに「食べにくいだろうからお箸じゃなくてスプーン、おさじにしましょう」。
赤ちゃんとお年寄り。
つまり箸が自由に使えない人に対しての補助食器としてのスプーン。
日本人はやっぱり箸一本でやりたがる。
そういうことが道具の種類を無闇に増やすという日本人の「工具の文化」に結びついているのではないか?
中華料理はフライパン一個。
あれは一個で作ってしまう。
ちゃんぽんも焼きそばもチャーハンも同じ鍋。
行きつけのちゃんぽん屋のオヤジがそれをやっていて、武田先生はそれを目の前で見たことがある。
だが、日本人は全部を変える。
いろんな種類の鍋やフライパンがある。
日本人の手工芸の最大の特徴は「道具をたくさん持っている」ということ。
このあたり「道具」対「人間」の関係が他の文化圏とは違うというところから話を突っ込む。

これは武田先生のノートに書いてあるのを今回は下敷きにしている。
これは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』。
自分の考えと本に書いてあることを横糸・縦糸で織り込んでいるので、どこがどこまでとは今回はちょっと言い難い。
心というものは誠に不思議なもので、「心は一つである」なんていう、そういう言い方はできない。
だから心を一つにしている国家体制というのは非常に息苦しい。
やはり心はいろいろいっぱいあっていい。
構造からして心は複合体。
脳の中にいくつものエージェンシー群があり、ただ一つの意思に従って行為を為すものではなく、「ある行為」をすると「ある心」が動いていくという。
そういうものであるとJ・ギブソンは言っている。

 リーとアロンソンが「姿勢」の研究の対象としたのは、やっと歩きはじめた一三ヵ月から一六ヵ月齢の乳児である。乳児は、壁が床から切り離され、天井からつりさげられて、前後に容易に動く部屋に母親とともに入った。そして、彼らがちょうど壁の方を向いた時、実験者が乳児の視線の向かっている壁を奥の方向にわずかに押した。−中略−実際には部屋はAのように乳児から遠ざかるように動いた。−中略−八割以上の試行でどの乳児も前の傾く方向に「姿勢」を変化させた。乳児のからだは前方に揺れ、前のめりによろけ、前向きに転んだ。(アクティブ・マインド 97〜98頁)

自分が見ている前面が遠ざかっただけで「箱が前に進んでいる」と錯覚し、つんのめる。
時々駅で上り下りの列車が、その時に隣の列車が出発すると自分が前に進んでいるような気がする。
それと同じことが小さな子供では起きる。
つまり、自分が「進んでいる」「進んでいない」をジャッジしているのは「環境の変化」が「あ、俺は前に進んでる」という感覚をその人に与えている。
この辺が面白い。

ここからはアルトン・ベッカーが「自然について」というエッセーを書いている。
(アルトン・ベッカーの「翻訳を超えて──美学と言語記述」という論文の中で取り上げられているエマソンの『自然について』の一部)

 Crossing a bare common in snow puddles at twilight under a clouded sky,(アクティブ・マインド 200頁)

これは何が言いたいかというと「本を読むことの不思議さ」
水谷譲と武田先生の「読み」がちょっと違う。
水谷譲はよく言う。
アフォーダンス理論の本を読んでいて水谷譲は「武田さんが名言決めたんで、そんないいことが書いてあるんだと思って本を買って読んだら、そんなこと一行も書いてありませんよ」。
それは同じ本を読み方が違う。
その実験を今からやる。

以下の詩を読んでほしい。谷川俊太郎の「いるか」ということば遊びのうたの前半部分である。
  いるかいるか
  いないかいるか
  いないいないいるか
  いつならいるか
  よるならいるか
  またきてみるか
  一度読み終わったら、また読んでほしい。
−中略−さまざまな読み方をしてほしい。−中略−たとえば、「いるかいるか」を一字一字区切ってゆっくりと読むとそれは海のイルカを連想させる。しかし、「いるか」、「いるか」と全体を一単位として速く読むとそれは「居るか?」という音になる。−中略−しかし、どのように読むかによって作品の意味が異なって感じられることは明らかである。(アクティブ・マインド 242〜243頁)

「私(武田先生)には悪いクセがある。ラジオ番組の相手をしている加奈からよく指摘されるのだが、その本を読み、その本が感銘深ければ深いほど、私が最も感動したという文章、あるいは言葉が加奈が探すとその本のどこにもなくなることだ」
どこにも書いていないことを平気で「読んだ」という武田は一体何者なのか?というのは、明日。

武田先生が『(今朝の)三枚おろし』で本を取り上げておろすのだが、(水谷譲が)時々気に入った本があって本屋さんへ行ってその本を読むらしいのだが、武田先生がラジオで語った一番素敵な感銘深い一言が本のどこを探しても載っていない。
これを水谷譲から激しくなじられたことがある。
「全然一言もそんなこと書いてないじゃん!」と思うことがある水谷譲。
だが、武田先生は「書いてあった」と思って喋っている。
つまり武田先生は「行間を読んでいる」と思う水谷譲。
著者が書いてあることを読む人。
それから、著者が伝えようとしていることを推し量って読む人。

 第三の読みの姿勢は、作者を中心に置かない。作者は読者にとっては対話の相手の一人であるにすぎない。(アクティブ・マインド 256頁)

筆者・著者が書かなかったことを読んでしまうという読み方がある。
そこに書いていないのだが、書かれていないことを読んでしまったという読者が武田先生の中にいる。
武田先生の中の「本を読む人」の読み方。
ちゃんと著者が書いてあることを読んだつもりでいるが、武田先生の中の読み手が筆者・著者が「これが言いたかったんだ」というヤツ。
ある意味「演出をしている」ということ。
そういう本との対面の仕方、接し方をしている、という。
今、ものすごくわかりにくい時代で、番組の冒頭でも触れているが科学でコロナ対策をみんなが必死になって考えている。
だが、どこの番組に行ってもコメントがたいしてうまいことを言えなかったのだが「何かコロナの扱い方が違うのではないか?」という、「コロナに対して違う読みをする自分」を自分で励ましているところがある。
それで、本屋さんに行って本を探している。
コロナだけでは寂しいだろうからエボラ出血熱とかいろいろ読んだのだが三枚にはおろせなかった。
だが「コロナは何でこの時代、ここに来たんだろう?」というのが武田先生の謎。
「コロナがどんなウイルスで」とか関係ない。
「何で今来たんだ、オマエは?」というのがコロナに訊きたい。
だから、今大流行しているコロナ用語がある。
ソーシャルディスタンス。
「ソーシャルディスタンスって何だ?」と思う。
「ソーシャルダンス」だったら知っている。
「ソーシャルディスタンス」を日本語で言ってくれないか?
「ウィズ・コロナ」とかと言っても「水コロナ」に聞こえてしまって横文字だとわからない。
水谷譲は(ソーシャルディスタンスを)「社会的距離」「社会的間隔」と訳す。
今は1m。
一番最高時の時は児童遊園地などに貼ってあったのは2m。
「2m」と矢印が書いてある看板がある。
そこに若いのが二人立って向かい合った。
ソーシャルディスタンス2mを取っている。
アフォーダンス。
2mが持っている心理を刺激した2m。
刀を持って向かい合うサムライ。
あれが2m。
「ソーシャルディスタンス」を「間合い」と言えばいい。
「間合いを取ろう」だ。
「間合い」なんて日本人のお手のもの。
日本人は昔から間合いについては武道でさんざん稽古していた。
「それでは・・・間合いが遠い!」とか何とか言ったりなんかして。
『水戸黄門』から『雲霧仁左衛門』から、みんな「間合い」でやっていた。

あの頃映画 「雲霧仁左衛門」 [DVD]



そうすると「間合い」の研究をやればいい。
日本は間合いの名所がある。
日本で間合いの名所。

 外国人が東京にきて驚くことの一つは、渋谷駅前のスクランブル交差点だそうです。大勢の人が一斉に渡り出し、誰もぶつかることなく、実にスムーズに渡り終えます。−中略−渋谷のスクランブル交差点で皆が何気なくこなしていることは、まさに「間合いを形成する」行為に他なりません。(「間合い」とは何か 11頁)

「ソーシャルディスタンス」なんて、渋谷の交差点であんなに鍛えていたではないか?
このコロナの時代に、日本語に置き換えて「間合い」というもので、という。
「ソーシャルディスタンス」とは「間合い」のこと。
では、「間合い」を研究していこう。
コロナ前に社会心理学の本として出された本。

「間合い」とは何か: 二人称的身体論



様々な心理学の先生の論文を集めた本。
序章でこれをおまとめになられた諏訪(正樹)先生が日本人の暮らしの中にある「間合い」、この「間合いのセンスが独特である」ということを語ってらっしゃる。
「間合い」とは対人競技である武道、あるいは対戦競技である野球・サッカーなどに必要な技術である。
(間合いは)必要な技術だった。
別にコロナだからではなく「間合い」は必要。

 外国人が東京にきて驚くことの一つは、渋谷駅前のスクランブル交差点だそうです。大勢の人が一斉に渡り出し、誰もぶつかることなく、実にスムーズに渡り終えます。(「間合い」とは何か 11頁)

日本人はこのようにして「二人称の身体論」。
「私とあなたの距離感は今はこれでいいんだ」という、それを一瞬で決定するという風俗を持つという。
「交差点の雑踏を歩くのに身体論があるか?ちょっと大げさだな」と思われるかも知れないが、2020年からしきりに繰り返されるマナー用語「ソーシャルディスタンス」。
これも日本語に訳せば簡単で「失礼のない相手との距離を置くこと」。
二人称の身体論。
それを応用すればいいだけであって、コロナだからということではない。
間合いをこれほど好む人種はいないのだから。
曖昧な「ソーシャルディスタンス」よりも「間合い」という日本語のうちにコロナと共に生きて行く極意みたいなものがあるんじゃなかろうか?という。
外国の人が渋谷の交差点が不思議でしょうがない。
外国の人はうまくできない。
だからキャメラを持って撮影している。
と、いうことは何でぶつからないのか?
あそこを歩きながら、ぶつからない技術を発揮している。
その技術とは何か?

身体は、眼前に繰り広げられる思い思いの動きの兆候すべてを並列的に知覚し、それらを個々に感じ取るのではなく全体的に眺めた結果、「エネルギーのようなものの粗密場」を、そしてその移り変わりを感じ取っているのではないかと、私は思うのです。(「間合い」とは何か 14頁)

「エネルギーのようなもの」とは何を意味するのか?−中略−身体の大きな人や、大きな物体があなたに向かって猛然と進んできたら、あなたは圧力を感じるでしょう。(「間合い」とは何か 14頁)

そのエネルギーが「危険だな」と思った時、アナタは自然に避ける。
それが外国の人にはわからない。
我々は無意識にやっている。
その「無意識」が向こうの人には「技術」に見える。
日本人はその要領を言葉にはできないが、正面からやってくる全ての人に関してセンサーを巡らせ「スーツケースを引っ張ってるな」「顔つきがおかしい」「昨日遊んだな」と見抜きながら、その人のこっちに向かってくるエネルギー量を仕分けする。
赤から緑になった温度を測るヤツみたいに。
あれで危険を察知すると早目に避ける。
だから一直線に歩く人はいない。
外国の人は一直線に歩く。
歩く時に外国の人は正面だけを見る。
外国の人はそういう顔をしている。
何かやたらと彫りが深くて。
「Yes I can.Yes」
深々とした目で正面を見る。
正面を見れば見るほど周辺、周りを見る視覚が衰える。
日本人は真ん中を見ない。
周辺をぼんやり見ている。
視覚が広くなる。
人混みを歩く時、中央に焦点を持ってこない。
ぼんやりとルーズに眺める。
そのことによって危険なものを抽出し、「ソーシャルディスタンス」2m以内に入る前に避ける。
だからぶつからない。
もう一つ言えることは、スクランブル交差点で日本人は真っ直ぐ歩いていない。
どこかで蛇行している。
外国人は真っ直ぐ歩く。

どこにも焦点を合わさずに全体をぼわんと眺めていると、自然に、どこに疎の領域が存在するかを感じとることができ、そこに足が向き、結果的に軋轢を感じることなく、スイスイと気持ち良く泳ぎきることになるわけです。(「間合い」とは何か 25頁)

「しっかり正面を見る時」と「正面を見ない時」を区別していく。
これは面白い。
もう一つこの本の著者が言っているのは、日本人は対面する人々からのエネルギーのような圧力を探査する能力にあふれている。
これが「スクランブル交差点で日本人がぶつからない」という能力になっている。
この「間合い」の取り方というのがいろんなところに実はある。
その「間合い」の面白さ。


posted by ひと at 10:24| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする