(タイトルが「そもそも」だったり「そもそも話」だったり「そもそもの話」だったりするが、「そもそも」にしておく)
もちろんネタの方は本で、「ストレス脳」アンデシュ・ハンセン。

(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
スウェーデン・ストックホルム出身の精神科医。
新潮新書。
これを読んでいて何を思ったかというと、この方は「そもそも」の話をする人方。
この「そもそも」が面白い。
最近、水谷譲が属しているラジオの世界もそうだし、テレビもそうだが「そもそも」(の話)を余りしない。
何でも結構だが、ある事件が起こった。
今でもワイドショーが大騒ぎをしている。
事件が起こった。
その事件の「経緯」「これからどうなる」「どうすべき」がもの凄い勢いで語られるが、「そもそもそれは何で起こったのか?」ということは余り・・・
「しかもそもそもこれは何がいけないんだっけ?」みたいなこともある水谷譲。
あれはよく考えると不思議。
プーチンという人がウクライナの人に向かって「ナチズム」と言う。
「アンタの方がナチだ」と思うのだが、何であんなに「ナチ」を連発するのか?
ソ連邦で東ヨーロッパ世界を自分のものにしていくというスターリン時代の頃、スターリンの締め付け方が嫌でウクライナの人はナチスドイツに助けを求めたようだ。
それを「ナチ、ナチ」と呼んでいるらしい。
こっち側が嫌いだったら、多少嫌いな人でも飛びついて「やっつけてくれないか」と言いたくなる。
ゼレンスキー大統領の踏ん張りはそのこと。
「もう今度こそ」という。
ウクライナの歴史はまた時を改めてと思うが。
とにかくこのアンデシュ・ハンセンさんがおっしゃる通りで、今の時代、ストレスが多い。
史上最悪のメンタルの時代。
何にすがるか?誰に希望を見つけるか?
芸能界でもそう。
本当に今年(2022年)いろいろ堪えた。
自死する方が出てきたから。
芸能界は何となくヘラヘラ生きているというような連中の世界だと思っていたが、その芸能界でも自殺者がある意味で続出したという。
不安とうつの時代。
私達の脳に降り積もるストレスを我々はいかに振り払うべきか?
ちょっと大きいテーマだが、それを楽しく聞いていただければ嬉しい。
私たちの4人に1人が人生において、うつや強い不安といった精神的な不調を経験します。−中略−
世界中どこでもそうなのです。(5頁)
特に病院が患者を引き取れないという現実が日本にも襲った。
医療が死にかかっているという日本。
我らはこの不安の時代をどう生きればよいのか?
ハンセン氏はこの時代に断定する。
「この時代だからこそ、時代を変えるのではなくて、我々が変わる番だ」と。
それでこの方の面白いところは「そもそもを考えてみようよ」という。
人間というものを紀元前まで遡ろう、と。
狩猟時代や農耕時代、だいたい人間の一生は30歳で終わっていた。
そこから工業化、そしてデジタル化を経て寿命は50歳、70歳、80歳と延びて来た。
しかしそもそも人間はだいたい30歳前後で死ぬのであったと思えば「今生きてるの、別に文句ないだろ?」「長生きだねぇ」ということになる。
死の原因を考えてみよう。
感染症、飢餓、殺人。
今は心疾患、癌、脳疾患。
そもそも幸せでいるようにはできていないのかもしれないのだ。(29頁)
私達はいつでも不安で、いつでも悩む。
そのようにできているのだ。
農耕が広まるまでは地球上に500万人しか存在しなかった人間が、産業革命後の1850年には12億人にまで増えていた。400世代の間に240倍になったわけだ。(28頁)
2020年でだいたい77億(人)程になった。
何でこんなに増えたのか?
まず第一に「死にいつも怯えているから」。
「死にたくないな」と思うからこんなに増えた。
死を恐れてここまで増えたのである。
「死を恐れない」というような人は、今、地球上にいないといってもいいのではないか。
このへんが時代を見る目なのだが、プーチンが夢見ているロシア国民というのは、プーチンが一声「戦争やるぞ」と言ったら「よし!行こう行こう行こう行こう」と手を上げる人がロシア国民だと思った。
それが「戦争やるぞ」と言ったら100万人が逃げた。
わずか人口の1%。
他にロシアの中で「ロシアの名誉の為に死のう」という人達もロシアにはたくさんいるのだろう。
だが、命を繋いだ人は逃げ出した人。
戦場から逃げてゆく人達がずっと命を繋いで今がある。
こういう発想で「そもそも」から人間を見つめてみよう、という。
ストレスがたまりやすい昨今。
本当に生きて行くのが嫌になる時がある。
「しかし待てよ」と、「そもそも考えてみよう」と。
脳の中にはいっぱいストレスが降り積もって、SDGsからLGBT、BTS。
同じアルファベット。
名称一つとっても世の中だんだんわからなくなるということ。
とにかく アンデシュ・ハンセン博士の言い分。
昨日は「戦場から逃げ出す人がいたから人類は生き残ったんですよ」という。
戦争が怖かったり怯えたり。
よく考えてごらんなさい。
そもそもの話をしましょう。
サル同士だって権力闘争があった。
グループごとに別れてサルでも殺し合いをしたであろう。
しかし、サルの中でこっそり仲間が行っちゃったけれど逃げたヤツがいた
そいつらの生き残りが人間じゃないか?
つまり、不安と怯えを感じたサル。
それがずっと命を繋いでいる。
それがこんなに増えてしまった。
77億(人)も増えてしまった。
勇猛果敢なサルは全滅した。
アンデシュ・ハンセン博士は人類をそんなふうに考える。
このサルはなぜ不安と怯えという感情を持ったのか?
それは不安と怯えという感情を持ったサルが生き残る為に。
不安と怯えをちゃんと持てるサルが、不安と怯えを感じるように遺伝子を残した。
進化の過程で精神状態が悪くなるように遺伝子をプログラミングされ、命をつないでいくために心配や不安を感じていなければいけないなんて(29頁)
時々嫌になる時があるが、人間には「感情」というのがある。
感情とは何かというと、不安と怯えを持ってくるもの。
脳がこの感情を使って私達を行動させる。
これは本当になるほどと思う。
あなたの目は1秒間に少なくとも1000万個の情報を脳に送っている。聴覚、触覚、味覚、嗅覚、触覚からも情報が送られてくる。(36頁)
脳はそれをたった一つの考えにする。
そしてそのたった一つの考えを感情にする。
世界のニュースが頭の中にバーッと流れ込む。
それを考えてゆくうちに「戦争は嫌だな」と思う気分になってしまう。
芥川龍之介がとりつかれた「ぼんやりとした不安」という。
それを感情として人間に送り込む。
感情を短絡などと考えてはならない。
感情というのは−中略−
飢餓や感染症、不慮の死を驚くべき確率で避けてきた何万世代もの祖先の囁き声なのだ。(41頁)
アナタは幸せではなかった。
不安でいつも怯えていた。
だから今生きているのです。
これは考える。
武田先生は何かにつけて不安になる。
夜中にトイレに起きたりしてまた再び眠りに入ろうとした時に「ぼんやりとした不安」が。
(具体的な不安ではなく)悪い方へ悪い方へ考える。
持っている預貯金が少ないとか。
預貯金のことが気になるなんて、年寄り独特。
若い時は今より少ない預貯金で眠った。
あの頃「〇〇銀行に12万(円)ある」っていうだけで「来月は生きていける」が希望になれた。
年寄を取ると「預貯金12万」とかになると、「何か安く入れる保険に入っておこうか」とか考え始めると眠れなくなってしまう。
今、武田先生はそれ。
アホみたい。
物音に怯え、将来が不安になり、「連れ合いも老い先迷惑をかけるのではないだろうか?」とか「連れ合いが先に行ったら俺はどうなるんだろうか?」とか「洗濯機のどのスイッチを回せば回転を始めるのだろうか?」とか、本当に考える。
何一つできないから。
それは洗濯をした時(洗濯物を)パンパン!どころではない。
水谷譲も来る。
これは人を選ばない。
来る人には来る。
デビ夫人でも、やっぱり眠れぬ夜があるんじゃないかと。
そういう気がする。
週刊誌の裏に「娘と孫に残したい財産。デビ夫人悩む」とかと書いてあったた。
奥様のお母さんがまだ90歳でお元気だが、武田先生がちょっとテレビに出ないと奥様のところに電話がかかってくる。
奥様とちょっと話し込んで。
「鉄矢さんなぁ、最近、テレビには出よんなはらんが、仕事があらへんとっちゃなかとか」
奥様もいろいろ話すのが面倒臭かったのだろう。
「今テレビに出ないで、他の仕事をやってるから出ないの」とか。
「もうお母さん、そんな心配ばっかりいちいち電話してこないで」とかと言ったら、奥様の里のお母さんというのはなかなか名言を吐く方で「心配すっとが年寄りの仕事たい」。
本当。
年寄りというのはいつも心配している。
水谷譲の親もそう。
こっちが心配したいのに向こうがこっちを心配している。
「心配しなくていいのに」ということばかり。
「亭主と上手くいってないか」とか「孫達は元気なのか」「風邪引いてないか」とか「コロナ大丈夫か」とか「給料はちゃんと貰ってるのか」とかいろいろ。
不安なことばっかり言う。
それは何故かといえば、人間はそんなふうにできている。
我々はいつでも不安に怯えるようにできている。
扁桃体には周囲の危険を察知するという任務がある。(51頁)
扁桃体は「火災報知器の原則」に則って動く。(51〜52頁)
「警戒しろ警戒しろ」というのをボタンをすぐに押してしまう。
ほとんどが誤作動。
ところがこの扁桃体は1000回誤作動を起こしても、その1回で生き延びることができればいいじゃないかというので、すぐに「警戒しろ」というボタンを押してしまう。
外れてもいいからとにかく警戒させること。
アナタが夜、眠れずにどんなに苦しもうが、脳は生きる為だったらば一番嫌だったことを保存する。
だから「トラウマ」とかというが、トラウマは当たり前。
トラウマがあるから警戒する。
だからよいことがたくさんあっても、嫌な思い出を捨てない。
脳は生き延びるために重要だと思う記憶を優先して保存する。とりわけ脅威や危険に関連した記憶を保存するのだ。(61頁)
海外旅行に行って贅沢した(記憶は)全部捨ててしまう。
それでいつまでも覚えているのは水谷譲の場合だと「ご亭主が裏切りを見せた背中」とか。
「嫌な思い出」これだけを取っておく。
武田先生はコンサートの武田先生のお喋りだが、喋り全体を100%とすると80が嫌な思い出。
(悲しいとか辛い思い出)で笑いを取る。
成功した時の話でお客さんを笑わせることはできない。
コンサートに行ってお客さんがガラガラでお客さんが手を繋いでいる。
舞台の上から「寒いか?」と訊いたら「いえ、今誰かが帰りそうになったからです」という。
お互いに客が手を繋ぎ合って引き留めたという話とか。
こうせつさんがステージでこの間話した。
静岡でコンサーをとやったらもうガラガラ。
それでこうせつさんが出て行った。
こうせつさんは度胸がある。
「パンダさんです」「正やんです」で「ボクが南こうせつです。メンバー紹介を終わります。それではお客様、メンバー紹介をお願いします。そちらの方から」と言ったら、その20人いないお客さんが一人ずつ「東区から来ました・・・」。
それで皆で拍手で20人以内だからすぐ終わる。
そんなに時間はかからない。
それでも2〜30分間は楽しくそこで。
あの人はそういう度胸が抜群。
南こうせつというのはそこで踏ん張って、バンドのメンバー紹介が終わった後、お客さんのメンバー紹介をやったという。
3万人とか集めた「吉田拓郎・かぐや姫 ジョイントコンサート」なんていうのは何にも話さない。

聞いていて面白くない。
「見渡す限りお客でした」
嫌な思い出、辛かった思い出。
それが皆と共有できる思い出。
だが、トラウマとして残っている人がいるかも知れない。
それはどうしたらいいか?
余りにも心に深くトラウマとして残っているのならどうするか?
楽しい時に一番辛かった思い出を話す。
アナタが凄く気分がよかったり楽しかったりする時に一番辛かった思い出を話す。
そうするといつの間にか「楽しい」と「苦しい」が入れ替わるようになる。
苦しい思い出が軽くなる。
父が話す「負け戦」の話は重い。
そんな話を聞くと辛くなる。
だが母が時々戦争の話をするのだが「B29が来て爆弾ばバンバン落としよったよ。ほんにアンタ福岡一の大金持ちの家が燃えてくさ、アタシゃ婆さんと二人で見物に行った」という。
あんなことを話していた。
つまり、凄く怖かったろうと思うが、笑いながら話すことによって苦しい辛い思い出の重さを変える。
それが「トラウマから脱出する方法」という。
いろいろ悩み事のある方、我々は不安になるようにできている。
とにかく重大なことは今、不安に陥っているアナタがもしおられるとしたら「それがあるからアナタは生き残る」。
不安・ストレスは人間関係によって引き起こされる。
そう思いがちだが、不安・ストレスは人間の健康にも重大な影響を与えて。
不安・ストレス。
これが免疫系と結びついている。
不安・ストレスがあると、免疫系が警戒態勢に入っているので、私達は病気・疾患そういうものに強い体質になっている。
不安がっているからこそ、免疫系が引っ張り出されて何となく健康で生きている。
薬で不安や怯えがなくなる。
「これは悩んでる人にもってこいだ」と言って売ろうかと思ったらしいのだが、動物実験でサルに打った。
そうしたら平気で毒蛇を懐に入れてしまって噛まれて死ぬようなサルがいっぱい増えた。
本当の話。
つまりヘビを見てギョッとするとか「いるんじゃないの!?」不安がるからこそ、草むらで生き残ってきたサル。
私達がコロナに怯えたり、ヒヤッとしたりという。
でも皆さん、それがあるからこそ生き残ってきた。
そうやって考えると人類の死について、そもそも考えてみましょう。
人類はその半数が400年前、1600年だからザッと徳川家康の頃、人間の半数は成人前に死んでいた。
人間の半数は大人になる前に死んだ。−中略−
20世紀の初頭まで死因のトップ3は肺炎、結核、胃腸炎。どれも感染症だ。(88頁)
それで体も必死になって生き延びる道を探した。
体がこれら感染症で優先したのが子供達の適応であった。
世界中で黒疫病と赤疫病の凄まじいパンデミックが起きたとしよう。子供と70歳以上の高齢者の半分が死ぬ。パンデミックが終息すると、生き延びた子供は全員黒疫病から自分を守る遺伝子をもっている。それがなければ死んでいたのだから。−中略−
つまり私たちの身体と脳は、歴史的に子供の頃に命を奪ってきた要因から生き延びるよう進化したのだ。(89〜90頁)
年を取ると人の家の子を見ても思うが、子供は可愛い。
(合気道の)道場で若先生がお子さんを連れてらっしゃる。
この子が可愛らしい。
思わずその子に向かって「いくつ?」と訊いたら「四歳」とかと言うものだから、武田先生も思わず声が出た。
「いいねぇ〜いっぱい生きられるねぇ〜」
皆、腹を抱えて笑って。
だが事実。
彼等の素晴らしさは何か?
小さい子の素晴らしさ、若い人の素晴らしさは何か?
いっぱい生きられる。
若い人、頑張って。
生きられるのだから。
はっきり言う。
私達はもう倍生きられない。
その半分も難しい。
その半分も難しい。
そんな命。
だから、「若い」という人達に対して、ただそれだけでうらやましがる年寄りでいい。
説教しないで。
ギャルがいたりなんかしても「何だオマエそんな化粧して!」とか言わない。
「いくつ?」「18」「いいねぇ〜いっぱい生きられるねぇ」という。
「ギャル」は死語だと思う水谷譲。
同じことをこの間、東野幸治から言われた。
洒落た言葉を使ったつもりで。
「若い人、何で『壁ドン』で騒ぐんだよ。年寄りなんかパンツ履くたんびに『壁ドン』だよ」と言った瞬間、東野幸治が「『壁ドン』・・・古い表現ですなぁ」。
ここからまたもう一つ問題がある。
ここが、皆さん重層的に考えましょう。
歴史的に感染症が多くの子供の命を奪ってきたことで、私たちはその類の病気に対して強い防衛メカニズムをもつようになった。(92頁)
その為に人類は滅亡を避けて生き残ってここまで増えた。
みんな臆病で不安だから。
それでいい。
その為には不安が必要なのだが、不安が病までに発展する人はどういう人かという、その問題がある。
これは病まで発展するのは人と接しないから。
ちょっとこのへんが匙加減が実に難しいのだが、不安と付き合いながら生き延びる為にどうしたらいいのか?
「炎症」というのは物理的に圧迫されたり、怪我をしたり、毒や細菌、ウイルスによる攻撃など、あらゆる刺激に対して身体が返す答えだ。(103頁)
肥満は歴史的には存在しなかったからかもしれない。(108頁)
「喰い過ぎる」なんていうことが起こったのは、人類の中で考えると、この頃のこと。
この肥満が何で問題かというと
身体はお腹周りの脂肪を見知らぬものと認識し、炎症を起こすことで侵入者、つまり余分な脂肪に闘いを挑むのだ。(108頁)
だから肥満が進むとじっとして動かなくなる。
脳は有利な生存の孤独を激しく嫌う。
何で孤独を嫌うのか?
水谷譲は現代人だが、水谷譲の体はサバンナの頃の記憶を持っている。
水谷譲がまだアフリカの東海岸のどこかにいた頃、その時に水谷譲がサバンナの中で最も警戒したのが他のケモノから喰われること。
それで他のケモノから襲われて喰われる危険性は何から来るかというと孤独から。
一匹だけになると危険。
それで群れの誰かと過ごしているという安心感が安心して眠らせる。
深く眠ることができる。
長く孤独でいると睡眠も途切れがちになる。−中略−
独りで寝ている人は危険が近づいても誰にも教えてもらえない。だから深く眠りすぎず、ずぐ目が覚めることが重要だったのだ。(130頁)
集団で生き残るということを体は感じているのに、孤独になった瞬間、不安という症状に陥る。
アンデシュ・ハンセンさんが面白いことを言う。
人生で人間関係に波風の立つ時期があってもあまり関係ないことだ。それよりも、何かあった時に誰かがいてくれるという認識が大事なのだ。(138頁)
これは考える。
良好でない人間関係だとストレスはたまる。
だが嫌いなヤツとの関係も関係ということで繋がっている。
複雑なもの。
だがこのあたりを名言だと思うようになった武田先生。
やっぱり教えてくれたのが合気道。
合気道の技に「襟取り」という技がある。
向かい合っている二人がいる。
ちょっと足の形とか皆さん忘れてください。
柔道の対面みたいなヤツ。
相手が襟を取ってくる。
そうすると柔道は自分も掴む。
そして投げ合う。
合気道というのは変わっている。
相手が襟を取ってくる。
そうすると襟を取ってきたと思った瞬間にちょっと目くらましの技を使って。
とにかく目の前に手を出せばいい。
人間は本能的に後ろに反るから。
その隙に取った腕の中をくぐる。
そうしてソイツと並ぶ。
その時に指導者から言われるのは「ピッタリと相手と寄り添え」という。
相手は襟を掴んでいるので、そこをくぐってきたので二人は並んでいる。
手を放すと自由になるのだが、襟を掴んでいると、そのくぐった人が一歩前に出ると、その人は前に転ぶしかなくなる。
それを指導者の方が見せてくださって、道場生同士で練習する。
武田先生は何回やっても上手くいかない。
武田先生がくぐると、襟を取ってきたその手が切れてしまう。
何でかというとピタッと寄り添っていないから。
その腕を切ってはいけない。
四段の方がおられて、その人とやっていると技が決まらないので武田先生は素手でその人を押していた。
そうしたらその人が笑い出してしまって「武田さん、卑怯だと思いませんか?」「手で押してますよ」と言う。
その方に「どうしてこんな上手くいかないんでしょうね?」と言ったら「あなたがくぐった時の円が大き過ぎて私から離れてるからです。私とあなたは今、ケンカしてるかも知れないけど、この技をかけたかったらピッタリ寄り添えばいい。それで相手がパッと襟を掴んできた。その掴んだ腕も縁だと思いましょう。その縁に結ばれて技が生まれたんです」と言った時に、このハンセン先生がおっしゃった「例え嫌いな人とでも人間関係になりますよ」という。