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2023年01月09日

2022年9月19〜30日◆清正の城(後編)

これの続きです。

今村翔吾さんの「塞王の楯」という作品。
その中で武田先生は石工の集団、石を加工する集団として「穴太衆(あのうしゅう)」というのを知って、その集団がいかに城壁造りに冴えていたかというのを小説を読んでいるうちに興味がもの凄い勢いで次々と。
この小説の舞台は近江国。
滋賀県。
大津城という琵琶湖湖畔の高台にあるお城なのだが、その外堀、それが空堀りであった。
水が入っていなかった。
そこで石工集団・穴太は琵琶湖の水を低きより高きへ持ち上げて外堀を水で埋めたという奇跡のような工事を当時やっている。
そんなことでその原理を三枚おろしにしようかと思っていろいろ思案していて、自分でゴムホースを買ってきて「今村の言う通りの仕掛けでできるかどうか」というのをやっていたのだが、その前にとあるテレビ番組、旅紀行番組で熊本のとある風景を紹介された。
それが熊本県上益城郡山都町、石造り単一アーチ橋の通潤橋という橋。
これは下の川、緑川系の支流から水を吸い上げて高台まで水を持ち上げるという。
この橋は全長78m、幅が6.3m、高さ20m。
水路の為の橋で欄干等々はない。
実に巨大な石橋。
出来たのは嘉永(7年)、1854年。
黒船がやってくる前の年あたりのこと。
この橋は、読み方を間違えたらごめんなさい。
五老ヶ滝川という川が流れている。
(番組では「ごろうげたき」と言ったが「ごろうがたき」。ということで読み方は間違えている)
そこに水の取り入れ口を置いて水を導管で吸い上げる。
そして通潤橋という石橋を渡して、その先の田畑まで水を吸い上げたという。
そのスケールは導水管は126mに及び、約6km離れた谷底から水を引き上げ、水路の総延長は30km。
潤す大地は100haだから、今でいうところの東京ドームの20倍の広さを水で満たした。
吸い上げる水の量というのはざっとだいたい43200km3
プールでいえば何十、何百杯分。
先週、その話を聞いて通潤橋をネットで調べたた水谷譲。
自分で想像していた以上の大きな橋で、その放水の豪快さにちょっとびっくりした。
これはピラミッドよりも日本人は驚いた方がいい。
この理屈はどうかというと、大気圧を利用したサイフォン原理で、水は高きより低きに流れるという常識があるが、もう一つの水の特徴として水は狭きより広さを求めて走るという法則に従っている。
今は水を吐き出す通潤橋の放水は観光名所になっているが、繰り返し言っておくがこの橋は今でも現役。
今でも使っている。
なぜこうしたか?
川の水を導管に吸い上げる。
導管に吸い上げる時、水の汚れ等々が管を塞ぐ可能性がある。
それで農閑期で水がいらなくなると水を吐き出して下の川に捨てる。
火山灰の大地だから塵が貯まりやすいということで水はもの凄い勢いで出しているものだから、もの凄い勢いで吸い込む。
そうすると塵が吸い上げた水と一緒に流れてゆく。
ものすごい勢いで水を吸い上げていく。
石と石の間から水が漏れる気がする水谷譲。
それを全部塞いである。
継ぎ目、隙間を何と驚くなかれ、漆喰で埋めて漏水を防いだ。
導水管は126mにも及び、6km離れた谷間から水を吸い上げ総延長30kmを走るという。
凄い仕掛け。
水谷譲が凄い勢いで首をひねっているが。
水谷譲の気持ちがわからないでもない。
そんな物理学が江戸時代にあったのか?
これがあった。
日本人は江戸期に相当な知識を持っていたという。
この嘉永年間の終わりの方に日本人はアメリカの方に行っている。
その中に勝海舟がいる。
アメリカ人は機関車の模型を見せている。
そうしたら代表の一人の侍が「原理さえわかれば驚くに価せず」という。
日本には「化学」がなかった。
それで武田先生の個人的な体験だが、大沢たかお君がお医者さんのドラマ(JIN-仁-)をやるので神田方面を歩いた時に古本屋さんから言われたそうだ。

JIN-仁- DVD-BOX



「江戸末期、日本に無かった学問は化学だけだ」
その化学を医学で吸収しようとした。

穴太衆の話をしている。
石工集団。
日本史の内側には隠れているが、考えてみると日本各地にあるお城の城壁等々は、この一団の残した傑作ではなかろうか?と、そんなふうに思うといろんなお城の脇を通る度に穴太衆の幻が見えるような気がする。
今、話しているのは熊本県上益城郡山都町。
ここに通潤橋という農業灌漑用の橋があって、下の川から高い大地の上に水を吸い上げるという。
これは記録がある程度残っていて、石工集団はどこかというと八代の種山石工衆という人達がやったそうで。
施工主は庄屋さんの布田保之助さん。
読み間違えたらまたご注意ください。
(番組では「ぬのたやすのすけ」と言っているが正解は「ふたやすのすけ」)
その方が中心人物になって村の共同体で力を合わせる。
下の川から上へ水を上げる等々の仕掛け。
そういう物理の理解できる人が嘉永年間に熊本の田舎町にいたということ。
考えたら凄いこと。
そして、この「塞王の楯」を読んでいたら、これは物語としては近江の穴太衆という石工集団と鉄砲鍛冶集団の国友衆、この「矛と楯」の戦いを描いている。
あまりり戦いの方には興味がない武田先生。
城壁造りに於いて注目を浴びた穴太衆だが、穴太衆の力量を買って全国から注文が舞い込んだという。
その中に肥後藩、清正のところ。
武田先生の勝手な思いだが、佐敷城(さしきじょう)に相当穴太衆をスカウトしたのではないか。
清正というのは不思議な武将。
土木工事で城造りが抜群に上手かったとあるのだが、彼自身が造るワケではないので、相当優秀なブレインを持っていたという。
そしてもう一つ御縁があって、武田先生には清正のお城以外の遺跡に手で触れたことがある。
馬場楠井手の鼻ぐり(ばばぐすいでのはなぐり)。
これを熊本弁で言うと「ばばんくすでんいどのうしんはなぐり」。
「鼻ぐり」というのは牛が鼻に輪っかを付けている、あのこと。
そして「井手(いで)」というのは水を運ぶ灌漑用水路のことを戦国期は井手と呼んだそうで。
この井手の為の水路が熊本市のすぐそばにある。
何かの御縁だろうか、武田先生はそこに引っ張って行かれて「全国的に有名にしてくださいよ、武田さん」と相談されたことがあって。
だが今、もう有名になりつつある。
タモリさんがまた取り上げた。
#35「水の国・熊本」◆初回放送2016年4月2日◆ - ブラタモリ - NHK
これは遺構として発見されたのが近年。
便利に使われながら忘れられた。
V字型深の深い川がある。
そこを菱餅の半分切ったヤツをはめ込んだみたいな。
水は流れている。
これは灌漑用水路。
V字型の谷がある。
その底を川が流れているのだが、これが全部石、凝灰岩。
これは全体が一枚の石。
石を掘っている。
もの凄く説明しにくい。
これが「馬場楠井手の牛ん鼻ぐり」。
これは発見されたのは平成。
これはどこにあるかというと、熊本・県北。
これは飛行場のすぐ近く。
だから興味のある方は行ってください。
平成3年、1991年夏のこと、台風19号により雑木林がバーッと雪崩れ込み、そのへんの倒木を整備した。
そうすると熊本市に隣接する菊陽町に奇妙な遺構が見つかった。
昔から清正が灌漑用水路を造ったことは知られていた。
その用水路のことを「清正の井手」或いは「清正ん牛ん鼻ぐり」と呼ばれていた。
しかし、本格的な調査はなかった。
この灌漑用水路は白川という大河が流れていて、大地が段丘で一段高くなる。
そこを上流まで遡っていって12km先、そこから水を取って流した。
ところが難工事で取水口から1.6kmの所に岩盤、400mの岩山があることがあり、噴火で出来たヤツ。
火山灰が凝結したもので、凝灰岩。
この400mの岩山をどうするか?
そこで岩盤の80箇所に巨大な穴を穿つ。
数mの間隔で深さは15m。
この穴がV字型をしている。
穴の一番どん底に直径2mの穴を穿ったという。
これは皆さんに説明しにくいので、いっぱい武田先生も考えたのだが「そうめん流し」。
竹の節がある。
あの竹の節が残してある。
そうめん流しほど綺麗に取っていない。
400mの岩盤の中で節が今はもう崩れているのだが、調べると全部で80個あったそうだ。
今は24個残っているそうだ。
これは400年前、加藤清正が造ったということは記録に残っているのでわかっていたが、何でこんな奇妙な仕掛けを造ったのかはわからなかった。
平成にここが発見されて残った24基を本格的に調査しているうちに、何で造ったかがわかって、皆驚いたという。
節があるワケだから順調に流れない。
そうめん流しも節のところでちょっと引っ掛かる。
だが、何でそうめん流しは普通の水道管にしないのか?
上から水を流してそうめんを流したらスーッとウォータースライダーで行くと思う。
ウォータースライダーは真っ直ぐ行く。
アッという間に着くので。
ウォータースライダーだと子供が捕れない可能性がある。
どんぶらっこどんぶらっこ下流に流れていった方がスピードが調節できる。
清正はそれをやった。
今、話している「清正ん牛ん鼻ぐり」という灌漑システムは節ごとがあって、水が上から流れ込んでくる。
そうすると節の中に狭い穴を通過して一発目が入ってくる。
そうすると対流が巻き起こる。
それが通潤橋で話した。
阿蘇山の灰が川の中に混じっている。
灰対策。
そうすると対流が起こると、起これば起こるほどいっつも渦を巻いているので、一節ごと流していく。
80回。
そうすると掃除をする必要がない。
だから清正が造ってから数百年使っても掃除をした人がいないから気づかなかった。
だがちゃんと機能して、平成になって穴の中に入った時に驚く。
それは何に驚いたかというと、川底に亀裂なんかで水が別のところに沁み込まないように全部粘土で塞いであった。
それで縦型の対流が引き起こるように、こういう対流が巻き起こるようにして、そこに灰が積もらない。
現実に農閑期(の水が無い時期)に下に潜ると一切灰がない。
凄い機能。
これはどう考えても、難しい今の学問で言うと流体力学。
だが、(当時から)流体力学を理解する人がいた。
それを灌漑用に。
水谷譲が繰り返すように「何の為に?」というのは確かにそう。
だが、阿蘇で農業をやるからこそこのシステムを考えたとすれば、これは世界で唯一流体力学の灌漑工事。
何となく「凄いな」と思いながらも、武田先生はここの底まで降りながらノミで削った岩壁に手で触ったことがある。
そういう御縁もあって今村さんの書を読みながら、フッとある思い・・・
馬場楠井手の鼻ぐりという灌漑土木工事の模様を語っているのだが、ちょっと興奮気味で。
ラジオでは喋りにくい。
もし興味のある方は是非「馬場楠井手の鼻ぐり」。
教育委員会が懸命に調べた研究論文があるので。
(調べてみたが、番組で紹介しているものと思われるデータは発見できなかった。このあたりが比較的詳しい→「馬場楠井手の鼻ぐり」 は、 これまで詳細な測量調査 - 菊陽町
だが、清正は凄い。
つまり、通潤橋もそうだが掃除のことを考えている。
火山灰大地なので。
土地で生きて行く為にそこだけの土木工事を考えたというところが何か凄い。
武田先生は通潤橋と、この牛ん鼻ぐりだけで立派に熊本だと思う。
本当に凄いなと思う。
火山の灰に対する闘い方も嘆くばかりではない。
後々掃除のことまで考えて。
馬場楠井手の鼻ぐりは数百mに渡って凝灰岩をくりぬく。
そして節を残して底に深さ15mの穴を穿って水を通す。
そうすると掃除をしなくていいという。
この発想。
V字型の穴の中を15mの深さがあって降りて掃除をするのは大変。
だからこの工夫をしたという。
この馬場楠井手の鼻ぐり、それと通潤橋の下の川から上まで水を上げるという灌漑用水路の作り方というのは凄い。
しかし清正は土木人として凄い。
この馬場楠井手の鼻ぐりが好きで、とある雑誌からインタビューを受けた武田先生。
多分国土交通省か何かの道路工事等々をやってらっしゃる方、公共施設を造ってらっしゃる方の関係本なのだが、それの取材の時に今みたいに話した。
「清正の馬場楠井手の鼻ぐりは凄いですよ。歴史に残すべきでご存じですか?」と訊いたら、全員から「それはもう、国土交通省では有名な話です」とか何か言われて。
だから知ってらっしゃる方は知っているのだが。
武田先生はこの村の教育員会の人から「有名にしてください」と頼まれたことがあった。
(馬場楠井手の鼻ぐりのことは)知らなかった水谷譲。
これは本当に凄い。
そして菊陽町教育委員会が2016年に出した馬場楠井手の鼻ぐりの報告書。
平成になって徹底して調べた。
その中で、こういうところに武田先生はゾクッとするのだが、下まで降りて行って川底とかを見たら水漏れがないように粘土で埋めている。
そういう工夫をしていて、削った井戸には掘ったノミの跡がある。
武田先生も手で触ったことがある。
専門家の大先生がおっしゃるには「壁面は水路底からほぼ垂直に立ち上がっており、使用した工具跡が明瞭に残っておる。使用工具や加工方法についてはマツモトタケロウ氏の考察に詳しいが、主に鶴嘴(つるはし)などを用いたと考えられる。強固な岩盤加工には専門の知識と技術が必要である為、石工集団の関与が想定される」。
というと武田先生の頭の中にパーッと走ったのが近江・穴太衆。
恐らく熊本城の石垣も穴太衆の相当腕のいい人達が近江から招かれて、基礎工事をやったのではないか?
しかし偉い。
頼まれもしないのによく勉強する(自画自賛)。
皆さんご愛顧よろしくお願いします。
農閑期は水を抜いてあるので。
関係者がいないと下までは降りられないと思うのだが。
これはタモリさんの他、武田先生も協力しないといけないが、熊本県の巨大な財産。
石工集団の話も面白いが、小説の中でどっちが勝ったのかなと凄く気になる水谷譲。
全く気にならない武田先生。
勝ち負けなんかよりも穴太集団がいたということが胸がときめく。
伊賀と甲賀という忍者の集団がいる。
それでも得意技が全然違う。
伊賀は忍術に近いのだが、甲賀は化学者集団。
それで火薬を作るのが上手かったようだ。
飛竜という技があって、のろしを上げるのだが、あそこは花火で上げていたようだ。
そういう集団の違い。
それから国友というのは鉄砲造りNo.1で、今度チャンスがあったら国友にも触れてみる。
鉄砲というのは呆れるぐらい凄い。
そのあたりもぜひ、またいつかは三枚におろす。

石工集団の近江、穴太衆について語っている。
近江の琵琶湖のほとりに坂本という町があって。
比叡山の登り口。
そこに昔、明智光秀がお城を持っていて坂本城といって、そこから明智の一派が高知まで逃げて行って、それが坂本龍馬の・・・
そのロマンがあるからワクワクする。

明智の紋所。
桔梗。
坂本は桝に互い桔梗。
何か感じる。
(この部分が本放送ではカットされている)

伝説だが何か好き。
その穴太衆に対して鉄砲鍛冶集団で国友衆というのがいる。
国友も紀行番組で見ていてワクワクしてしまって。
未だに鉄砲造りが盛んで。
国友衆の鉄砲というのも凄い。
種子島に鉄砲が着いた。
二年後にもう模造品を造っている。
それでその鉄砲伝来から二十年ちょっとで大鉄砲戦争になっている。
フッと思うことがあるが、信長が生きていたらフィリピンぐらいまで攻めて行っている。
信長というのはそういうタマ。
あれはやっぱり海外制覇を考えていた。
一番最後は何がいいかなと思ったのだが、武田先生の中でどんどん膨らんだ人物。
加藤清正。
これは、水谷譲はピンとこないかも知れないが、熊本に行くと神様。
清正神社という神社がお城の中にある如く、清正は肥後人にとっては神様。
水谷譲はこっち(関東)の人なのでピンとこないだろうが、熊本県の方、申し訳ない。
特に市内の方は扱いにくい。
肥後の人は個性的過ぎる。
「もっこす」という呼び名があるが、人とあまり共同歩調を取りたがらない。
「肥後もっこす」と一点張りで強情を張る。
武田先生の父もそうだった。
昔から。
肥後の方、熊本の方、怒らないで。
昔から言われているのは「肥後は一人一党」。
それで政治家の方も、もの凄く肥後人の扱いには注意なさっている。
それが細川家。
細川家なんていうのは熊本人に対してもの凄く心を使っている。
あそこは政治評論家から大臣まで出したが、それは凄く品良く。
熊本に於いて細川は何を遠慮したかというと清正人気。
細川家は加藤清正にずっと遠慮をしている。
清正が亡くなった後、天下は家康の時代になって、細川の支配地になる。
その時に清正の位牌か何かを掲げて入城したという。
すぐに清正神社を建てたという。
清正を神様扱いにした。
何でか?
熊本県民は清正を見ただけで好きになったという。
まず容姿に於いて、身長1m80(cm)は超えていたという。
当時の馬、木曽駒、やや小型の馬にまたがると両足が地面に付いたという。
だがこれは事実。
もの凄い大男。
しかも兜鎧を着ると、兜は1m80あって、更に高いフランスのシェフみたいな。
だから2m20cmぐらいある。
巨人というのは人を圧倒する。
それで清正を見た時の第一印象が熊本には言語として残る。
言葉として、訛りとして残る。
それが「むしゃぶりんよか〜」。
「カッコイイ」というのを熊本の人は「ハァ〜!むしゃぶりんよか〜!」。
「武者ぶりがいい」
馬に乗って登場した清正の長躯、姿を見て武者の絵姿が余りにも恰好いいので、皆さん膝を打って「ハァ〜!むしゃぶりんよか〜!」。
これが方言で残って綺麗な花嫁さんが出てくると「ハァ〜!むしゃぶりんよかなぁ〜」と言う。
この清正があの灌漑用水、牛の鼻ぐりは必ず肥後の農業の為には役に立つでな」なんて褒めたりなんかすると熊本の人は「いいものを貰った」「拝領拝領」と喜ぶ。
殿より拝領。
かくのごとく熊本には清正が広めた感嘆符が様々に残るという。
そしてイギリスの人が熊本弁を聞きながら英語ではないかと驚いた方言が「おお!ごっと!」。
「大変なことが起こった」というのを熊本弁で「おお!ごっと!」。
今週も声が枯れた。
精一杯語りました。
清正の城。
来週はまた違う話題でご機嫌伺いたいと思う。



2022年9月19〜30日◆清正の城(前編)

とにかく皆さんに喜んでいただきたくて、いろんな話題をとアンテナを張っているのだが、ちょっと歴史ものが続いてしまうかも知れない。
コロナ禍でムキになって調べた。
もちろん刺激は読書、本から貰うのだが、その刺激をいただいた本はというと、これはベストセラーになっている。
今村翔吾、166回直木賞受賞作品「塞王の楯」。

塞王の楯



これは2022年3月に買い求めて読んでいたが、何と550ページにもわたる長編戦国小説で。
コロナの方が全然、新型が出てきてなかなか鎮まらないのと、ウクライナ戦争・プーチン戦争が始まったりなんかして世界が揺れ動くという非常に不安な2022年に「戦国時代のヤツか」と思いながら読み出したのだが、いろんな偶然が重なって「これはやっぱり読もう」と思って読み通して、本当に今村さん、ごめんなさい。
ストーリーを読まなかった。
時代劇の小説なのだが、その中に出てくる「穴太衆(あのうしゅう)」という石工集団がいるので、そこのところだけ読んで。
ごめんなさい今村さん。
「塞王の楯」の結末を知らない。
ちょっとパパッと話してしまう。
武田先生は今村さん(の作品)は「幸村を斬れ」(「幸村を討て」のことか)の方が面白かった。

幸村を討て (単行本)



時代小説はいろいろあるから。
司馬遼太郎さんあたりが信長・秀吉・家康と描いたのだが、この方は戦国時代に生きた職人軍団を取り上げる。
その思い付きが「面白いな」と思って。

これはいくつも思いが重なるのだが、BSの旅番組を見ていたら、琵琶湖湖畔にある町を遠い遠い昔だが信長が比叡山の焼き討ちをやった後、その坂本の町を通りかかった時に、あまりにも石垣が見事なので「誰が組んだか」と訊いたらしい。
そうしたらその坂本の村には穴太(あのう)という一族、集団があって、そこの石工の人達が組んだということで、その石工が非常に優れた技能であるということを見抜いて自分が城を造る時にはここの施工会社に頼もうと思ったというので、安土桃山城を造った。
それからそれを見ていた秀吉が「穴太衆っていうのは上手いな」というので、大坂城、伏見城等々、石を組む時にはこの穴太衆を呼んだという。
それを見ていた家康も「コイツは便利いいな」というので使ったという。
今回の話のネタだが、この滋賀県の坂本に本拠地を置く石工集団、今でいう基礎工事、いわゆる建築会社なのだが。
水谷は譲そういう思いをしたことがないだろうが(武田先生は)結構日本中をウロウロしている。
やはり安土桃山城というのは何かある。
「ここに立ってたら皆ひっくり返ったろうな」という。
安土城をバーッと見上げた瞬間、湖面を渡った風が吹き降りてくる。
それが何か歴史を感じさせる。
それから金華山に信長が建てたお城がある。
岐阜の山のてっぺんに。
金華山のお城。
あそこにこの間登った。
そうしたら、やはり天下を取る。
全部見渡せる。
近畿圏から関東圏から北陸方面から太平洋側まで。
それを岐阜という地で見るとありありとわかる。
そういう城の魅力、いや、石垣の魅力みたいなものにすっかりはまってしまった。
この今村翔吾さんの作品で、彼等の仕事ぶりをいろいろ知ると、ため息が出るというか。
日本は凄く面白くて、各大名が天下を争って戦争をする。
その戦争をする大名たちの必要に応じて職能集団があの都の周辺にできている。
伊賀、甲賀といって、スパイをやる専門の里があったり、お城を造る時に便利な基礎工事を引き受ける穴太という一族がいたり、鉄砲づくり抜群という「国友衆」というのがいる。
水谷譲はびっくりするかも知れないが、国友、鉄砲を造る人がまだいる。
ここの街灯の形が鉄砲の形をしている。
凄く誇り。
この鉄砲技術というのも凄いのだが、今回に関してはこの石工集団、石を組むという基礎工事に特化した琵琶湖・坂本の穴太衆に目を向けてみようかなと思って。
この小説は鉄砲集団が勝つか城・石集団が勝つかというのがラストだが、それを武田先生はご存じない。
武田先生はそんなことはどうでもいい。
その集団がいたということで胸がときめいた。
鉄砲鍛冶の方はまたチャンスがあったら語るのでお待ちください。
今回に関してはこの石工集団、穴太衆というのを三枚におろせればというふうに思っている。
請うご期待。

(武田先生は)職業が半分旅。
最近はちょっと数が減っているが、旅に出かける度に思わず目に付くというか、歴史が好きなので日本のお城。
この間も姫路城を見たが、石垣しか残っていないといっても城跡を見て歩くのが大好き。
松本城が美しいなと思った水谷譲。
石垣が「どうやったらこういうふうに上手くパズルみたいに積んでいくのが不思議だな」と思うことがしょっちゅうある水谷譲。
大坂城に行くとしみじみ思うが「こんなデカい石、よく運んできたな」と思う。
なんせコマツのブルドーザーみたいなのが無いから。
人間の手で運んで来たワケで。
日本のお城は必ず池の向こう側にある。
池を持たないというか、堀を持たないお城は山城とか言って、しかも外堀・内堀が城には(ある)。
「チコちゃん」じゃないが、何でか?
敵に攻められない為なら水は必要なくて掘るだけでいいのではないか?
水ではなくて尖ったもの、画鋲を撒いておけばいい。
(水があるのは)船で石を運ぶ為。
人間では運べない。
あそこに石(垣)を造ろうという時に堀を造るのは石をそこまで運ぶということを考えたら、運ぶ為には水、水運、イカダ。
やがて石垣を組んでいくワケだが、熊本城を出してしまう。
地震で壊れてしまった。
あの時にもの凄く感謝されたのがタモリさんの「ブラタモリ」。
結構タモリさんはお城をブラブラ歩いている。
その時にキャメラでタモリさんと一緒に石垣を撮っているので、地震で崩れた跡を戻す時にその画面が役に立った。
だが、変なことを言うが、あれだけ大事にしているお城だったら「この石はここ」みたいな記録はとってないのかな?と思う。
お城はその手の記録を一切残していない。
敢えて残していない。
何でかというと、そんなのを残して盗まれたら、敵から攻められた時にロシアではないが「軍事上の秘密なんで」というので。
あの石垣は親方が一人いて、親方の直観。
石を持ってきてはめ込んでいく。
親方が立っていて「それここ。それここ。それここ」。
それで組んでいく。
それをやったのが穴太衆団。
だから彼等は殺されなかった。
「石をどうやって組んだか」みたいなことを記録に残しておくと、石を組んだ責任者を時の権力者は殺したハズだという。
それはそうだろう。
城の弱点を知っているワケだから。
それが一切その頭領以外に、誰もその石組の秘密を知るものがいない。
それで穴太衆は代々続いたという。

 石垣を造る時、栗石という拳大の石を敷き詰め、その上に大きな石を載せる。そこに「飼石」という石を噛ませ、巨石と交互に積み上げるのが野面積みの基本的なやり方である。(61頁)

この小石と巨石を噛ませあう。
これが抜群に腕が確かだったのが穴太衆。

 穴太衆には二十を超える「組」があり(24頁)

いわゆる石垣造りに身を挺する石工職人というのが数千人の単位でいた。

 穴太衆の技と聞いて世間は石を積むことだけを連想する。しかし実際はそうではなく、大きく三つの技によって成り立っている。
 まず山方。これは石垣の材料となる石を切り出すことを担っている。
(25頁)

 二つ目は荷方。切り出した石を石積みの現場まで迅速に運ぶ役目である。(26頁)

コロで運んだり、牛に曳かせたり、船で運んだり。
山方、荷方、そしてそれらの石を組む積方。
山方・荷方・積方。
これで穴太衆の一つシステムが出来上がったという。
切り出しに関しては山方がだいたい平均で40名。
だが、山方で切り出すというが、道具は鑿(のみ)と鎚(つち)だけ。
160(人)ぐらいが一組で、名だたる作品としては伏見城がそう。

本丸は南北に約三町(約三百二十七メートル)(115頁)

石垣を造らなければならない。

本丸西側には二の丸、北東に松の丸、東に名護屋丸、南東に山里丸、南に四の丸が置かれ、北は松の丸から続くように四つの曲輪が設けられる。加えて二の丸から南西に三の丸が延び(115頁)

これをだいたい160名で基礎工事をやったというから、昔の人は体力がある。
これが大坂城、或いは熊本城となるともっと巨大な石工集団が必要だったのではなかろうか。
特に石の積み方に関しては殆ど秘伝。
石工の中には「要石(かなめいし)」といって、中心の石をそこに置くという一子相伝の奥義があったらしくて、トップにならない限り、この要石の構成の仕方というのは誰もわからない。

 石垣には「要石」があると言われており、それを抜くと一気に崩落するという。(105頁)

城にはそういうい使い方をしなければいけない時が来る。
最後の決戦となった場合、敵を攻め込ませておいて城壁を敢えて崩す。
この小説の中、大津城が舞台なのだが(実際にそういうことが)ある。
壊れない城壁と壊れる城壁を穴太衆が造ったということが形容してある。
この要石一つを内側から抜くと大崩壊して侵入した敵兵が石雪崩に飲み込まれて死亡させるというような決戦の技術があったと。
からくり。
穴太衆なんていうのはこういう構造学の物理を図面無しで口頭のみで技術として持っていたという。
よくインカの遺跡の石積みを称える内容で、詰まれた石と石の隙間にカミソリの刃が入らないということがあるが、この石積みは日本の城郭には不適。
インカのマネはしないほうがいい。
何でかというと、遊びが少ない積み方。
だから地震等々、日本の「野面積み(のづらづみ)」の場合は、大石を栗石(ぐりいし)という小石で包んで、栗石が動くことによって大石の安定を図るという。
ワクワクする。
方法は野面積みだけではない。
まだ技術はいっぱいあって

一尺(約三十センチメートル)四方ほどの石材が並んでいる。こちらは「打込接」と呼ばれる工法に使う。(232〜233頁)

 切込接とは−中略−石の接着面を徹底的に削って密着させ、隙間を全くなくすというものである。(233頁)

京都のお寺さんなんかで、石垣が正方形に並んでいる。
そういう美的な側面を取ったというヤツもある。

積み方としては「乱積み」と「布積み」の二つに大別される。(234頁)

いくつもの組み方があって、中でも最高の秘伝とされているのは「扇(の勾配)」という積み方で、下から緩い勾配を付けてゆく。
熊本城がそう。
あれをカンだけでやるという。

 横から見ると反り返り、まるで扇を開いたかのような曲線を描く石垣のことをそのように言う。−中略−
 この積み方をするとき、下から三分の二は緩い勾配で直線に詰む。
(294頁)

だから子供は登ってゆける。
体力のある中学生ぐらいだったら。
三分の二まで。

 そして残る上三分の一から−中略−前へ、前へと押し出して勾配をきつくしていくのだ。(294頁)

ボルダリングの選手が登って行く間に足が宙ぶらりんになるという。
その「扇」という野面で宙ぶらりんにさせる。
忍者が入ってこられないように。
これは熊本城など。
そういう積み方。
今村さんがお書きになった「塞王の楯」で興味深かったのは穴太衆の石積みの技というのがいろいろ紹介されていて、どの技も架空の技なんかない。
全部本当にあって残っているヤツなのだが、「石積櫓(いしづみやぐら)」という積み方がある。

豊前国に長岩城という城がある。−中略−そこに石で造られた櫓が存在し(352頁)

円錐の形をしたキャップみたいなヤツ。
あんなふうに石が組んである。

 石の塔の中は空洞になっており、−中略−敢えて設けた隙間、狭間から敵を鉄砲で狙い撃ったのである。(352頁)

だから近代戦に於ける石のトーチカ。
このあたりは面白い。
この石積櫓というのは穴太衆は結構得意で、いろんなお城で相当組んでいたようだ。
武田先生は映画で見て「なるほど」と思って、これも映画の人が調べたのだろう。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」という映画があって

関ヶ原 DVD 通常版



徳川家康が鉄砲で撃ってくると三成が「隠れろ!」と言いながら盾を出す。
孟宗竹を半分に割ってそれを何枚も張り合わせてある。
孟宗竹は鉄砲で撃っても弾く。
何百枚と重ねてある。
だから大きいドラム缶みたいなヤツ。

そして、今村翔吾さんの小説の中で最も驚くべき情景が書いてあるのだが、近江国・大津城。
琵琶湖湖畔の高台にあるお城なのだが、外堀は水が入っていない。
理由は簡単で琵琶湖よりも高いものだから外堀を満たす水を汲み上げるワケにはいかない。
それでこれが面白かった。

 外堀のある札の辻あたりは、湖畔よりも約三丈六尺(約十.八メートル)も高い。(159頁)

(番組では「1.8m」と言っているが本によると10.8)

 外堀正面の距離は実に四町(約四百四十メートル)にも及び、幅は平均すると十五丈(約四十五メートル)。(159頁)

空堀りで6mの深さをもっているのだが、はしごをかけられれば簡単に石垣に取り付かれる、と。
防御の為には何としても水を引き込まなければならない。
外堀の機能を果たせないということで城主は悩む。
穴太衆に「何とかならないか」と。
何せ湖の脇に立つお城の癖に外堀が空堀りで水が入っていないと。
高台にあるものだから。
これをどうするか?

水は高きから低きに流れるもの。それでは水は来ないのでは?(157頁)

穴太衆が考える。

「外堀に沿うようにして暗渠を造る」
 渠とはいわゆる溝のこと。外堀の正面から湖に向け、堀に沿うようにして長い水路を造っていくのだ。湖に到達するとなれば、長さはざっと三町ほどにもなろう。深さは地表から約二尺。
−中略−これだけでは当然ながら水は上がらない。
「堀った渠に木枠を埋め、その上から土を覆いかぶせる」
(160頁)

二尺(約六十センチメートル)とはいえ、長さは三町(約三百二十七メートル)とかなり長いものである。(174頁)

 水中に、囲むように石垣を組んで水を堰き止める。−中略−それでも当然水は隙間から入ってくる。
「石垣で胴木を挟むのさ」
(161頁)

杭や胴木の材質は松が多い。松は水の中にさえあれば、百年経とうとも−中略−腐ることはない。−中略−
 石、胴木、さらにその隙間には粘土を詰めていき隙間を無くす。その上で水を抜き、湖畔に干潟を造る。その干潟に外堀から続く水路を延ばして木枠を埋め、最後に石垣を崩せば、
「水は逆さに流れる」
(162頁)

わかんない。
今村さん、これだけでわかれというのは無理ですよ。
武田先生は実験をやった。
自分の家の風呂を湖面に見立てて洗面器を上げておいて水が上るかどうか。
これは全部確認をしたワケではない。
いろいろ小道具が必要なので
金魚屋さんまで買いにいったりしたのだが。
低きから高きへ流す方法はある。
今だってそういう方法。
だが、戦国時代にその機材はない。
これは穴太衆はやっている。
その大津城という琵琶湖湖畔の外堀を本当に水で満たしている。
ということはできるワケで。
鉄砲集団が勝とうが、そんなことはどうでもいい。
武田先生はどうやって水が入ったかが知りたい。
だがこれは間違いなく上がる。
サイフォンという原理を使うのだが
ちょっと注文を付けるが「絵か何かで説明してよ。お願いだから」。
それで自分でやろうと思って、ゴムホースを買ってきたりした。
だが、尺が短くて全然上手くいかないし。
金魚の水槽を掃除する時によくやった。
下に置いておいて吸い出す。
ちょっと汚い金魚のウンコを飲んでしまったが。
それで水がピューと通じると高く上げても(水が)出る。
それで外に(水を)捨てて、鉢を下に行って掃除するというのをやっていた。
しかしゴムがない時代に「ホースの代りをするものが」と考えると、「今村さん、ちょっと図解でやってよ」と。
ところが、問題を抱えると不思議とその手の問題を解く出来事にぶつかる。
この物語を読んで「ホース買いにいかなきゃな」とかと思っていた。
その時に何と、ある旅の紀行番組でその風景を紹介していた。
川から自動的に水を汲み上げる。
そして高い田畑のところを水で潤し、そこを農地にしたというその風景が今も残っていて、ちゃんと田んぼ・畑両方ともOKという。
まさにそれ。
お城じゃなくて。
これは何と江戸期にこの仕掛けを造った人がいる。
「この仕掛けは一体どうなのかな」と思って調べた。
この風景はどこにあるかというと、今でもその風景が見られる。
熊本県上益城郡山都町。
石垣造りの単一アーチ橋の「通潤橋」という橋が。
通潤橋 - 心も潤す虹の架け橋
これは江戸期、1854年、緑川系の支流から水を引いて水を川から吸い上げて上の畑に。
それで水を行かせる橋を造った。
人間ではない。
水を渡すだけの橋を造った。
全長78m、幅が6.3m、高さ20m、アーチの半径27.6m。
水路の為の橋で欄干等々、手すり等々はない。
これがまた凄い。
農閑期になると橋の真ん中に詮がくっ付いていて、詮を抜くと水がバーッと吹きだす。
水を外に噴き出して虹がかかるという。
昔から何も変わらない。
農閑期になると水を抜いてそこから水をバーッと出していた。
何でせっかく上って来た水をまた元の川に返すのか?
理由は簡単。
そこの通路に塵が貯まる。
特に阿蘇山の灰がいっぱい落ちているので、せっかく通路を造っても掃除をしないと詰まってしまう。
一番怖いのは全長78mの石橋に詰まってしまうことが怖い。
だから、一回捨ててしまう。
そこで捨てて残りは農閑期に人間が手で掃除をする。
それでまた水がいる時はそこに詮をして下から水を汲み上げる。
滅茶苦茶頭がいい。
武田先生はこの通潤橋の仕掛けを知った。
それはまさしく、今村翔吾さんがお書きになった琵琶湖から水を上げて外堀を埋めたという穴太衆の技術と全く同じ。
ここは熊本県。
両方とも言えるのは城主は加藤清正。
加藤清正は別才能があった。
「城造りの名人」と言われた。
熊本城もそう。
清正の城は落ちたことがない。
何を興奮してるんだよ(と自分で自分にツッコミを入れる)。
大津城に水を吸い上げるという水路の工法と、その田畑に水を潤すという土木工事の設備が全く同じシステムを造っているとすれば、この熊本の工事の裏側にいたのは実は穴太衆ではないか?という。
(熱中しすぎて自分でも)小説を書いてしまう。
このあたりで興味を持っていただければうれしい。
清正の城。
この発想を辿っていくと熊本城だけではない。
清正には様々な別の城がある。
それを来週ご紹介したいと思う。