これの続きです。
昭和史の中のテレビ・お笑い・バラエティー。
「全員集合」を担ったドリフターズの面々の歴史を語っている。
1981年2月のこと、仲本工事、志村けんが競馬ノミ行為、賭博法違反で取り調べを受けるというスキャンダルが起きて、二人がテレビに出ることはまかりならない。
しかしリーダーのいかりや長介は「放送しなくても結構だからコントだけはやらせてください。お客さん来ちゃうんだから。そのお客さんを裏切らない為にもやらせてください」「やらせるってどうやればいいんだ」「いや、三人でコントやりますから」「五人でやるのを三人でやる?できるのかい、そんなこと」。
いかりやが怒鳴られているが、そんないかりやのところに電話が掛かってくる。
電話に出ると「萩本欽一です。よければ僕、ドリフに一日入れてもらえませんか?」という。
いかりやさんは「お申し出は有難い。しかしここはとにかく我々だけで乗り切りたいと思います」という。
(このあたりの経緯は本の内容とは異なる)
何と1981年、その入間市民会館での「全員集合」。
2月21日のこと。
仲本、志村を欠いたドリフターズは三人で、高木ブーが走ったという。
走ることのないブーちゃんが走ったという。
三人になった事情もギャグにし、加藤が「今日はやめて、早く帰ろうよ」と言っていかりやから二発殴られると、「ちくしょう、志村がいたら1発ですんだのに!」と笑わせた−中略−
「カラスの勝手でしょ」と「早口ことば」も加藤が志村の代役を務め、会場は拍手喝采の大盛り上がりである。(221頁)
これはいかりやさんは凄い。
出られない仲本工事と志村けんを舞台袖で見せていたという。
「カラスの勝手でしょ」志村のネタを加藤茶がやると、ドーっと子供達が笑う。
その時に志村は思ったという。
志村が出演しなくてもドリフだったら笑いがとれる。
そして仲本工事と志村が出なかったこの回の視聴率が出た。
『全員集合』は四七.六%を記録。(221頁)
ところが時代の変わり目というのは来る。
武田先生も体験しているが。
1980年代に入ると笑いというものの捉え方が変わってきて、笑いをエンターテインメントではなくて、サブカルチャーにしてしまった。
たけし、さんま。
しかもよくぞ考えたもの。
「漫才」と漢字で書かない。
ローマ字で「MANZAI」と表記する漫才ブームが立ち起こる。
一九八〇年四月一日、フジテレビ『火曜ワイドスペシャル』の枠で放送された『THE MANZAI』からはじまった。−中略−
電飾を使ったディスコ風のスタジオセット、小林克也によるDJ調のナレーション、−中略−
出演者はB&Bやツービート、島田紳助・松本竜介など(224頁)
テレビの笑いに新勢力がドリフ、欽ちゃんに続いて台頭してきた。
萩本は移動中の飛行機の中で彼等、B&B、ツービート、紳助・竜介のネタを知る。
そして萩本は思った。
「あっ!すぐダメになっちゃうね」
なぜかというと、日本の笑いというのはネタではダメなんだ。
ネタは一回テレビでやっちゃうともう使えないから。
そんなに新しいネタがポンポンできるワケではないから。
だから芸人というのは次々入れ替わってきたのだが、彼等はネタをやっているから、次はこのネタはやれないからと思って飛行機を降りておうちに帰ったら同じネタをテレビで彼等はやっている。
日本人が同じネタを繰り返しても笑うようになった。
「もみじまんじゅう!もみじまんしゅう!もみじまんじゅう!」(B&B・島田洋七のギャグ)
同じネタを一年間やっても笑う。
萩本は恐らく凝然としたと思う。
「それでは笑いは通用しない」というやり方がもう通用している。
このMANZAIから変わってゆく。
これは芸人が変わったのではなく、客が変わった。
マンザイブームが日本中を席巻していく。(224頁)
同年末、第五回『THE MANZAI』が三二.六%の視聴率を叩き出し、マンザイブームはピークに達した。(225頁)
そしてフジは勢いに乗って、あの伝説番組「オレたちひょうきん族」を始める。
ここでは単独の笑いの主役はいない。
ちょっと言うと、寄ってたかってでコントをやるという。
しかも妙とかリズムとかテンポではない。
全く違う笑い。
ドリフは動きで笑いを取ろうとした。
萩本はハプニングを笑いにした。
ところが「THE MANZAI」のビートたけし、さんまは違った。
彼等は言葉で笑いを取りに行く。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ツービートのビートたけしのギャグ)
聞きようによっては何もおかしくない。
それをお客が笑う。
日本の文化、政治、世間、芸能界。
それを言葉にして笑わせる。
からかったり揶揄したり、上から目線で叱ったり。
漫才師は同世代に向けてネタを発信した。子どもや高齢者が分からなくても構わない。(227頁)
笑わせる技が必要ではなくなって、言葉遊びそのものがサブカルチャーとして彼等をヒーローに仕立ててゆく。
いかりやは自分たちの在り方について、次のように語っていた。
〈僕たちの場合には、僕らの生活の裏を感じさせちゃいけない。(228頁)
『ひょうきん族』は−中略−
出演者の私生活をさらすような内輪ネタも多い。(226頁)
笑いの質の転換からドリフと萩本は旧世代にされてゆくという時代の変遷。
新しい時代。
ビートたけし、タモリ、さんまという笑いの担い手達の登場によってドリフと萩本欽一という二大巨頭だが、旧世代にされてゆく。
ズバリ言って両者共急速に数字を落としてゆく。
そしてドリフのいかりやはビートさん達の活躍を見ながらやる気を失って、志村けんとの不仲説もあり、あれほど熱心に打ち合わせをやる方だったのが打ち合わせに参加しなくなる。
いかりやと二人で飲む機会があった。そのとき、「どうして全員集合から外れたんですか」と聞くと、いかりやは「つまりリズムが違うんだよな」と答えた−中略−
「俺たち、4ビートで育ってるだろ。だから笑いの間も4ビートなんだよな。(234頁)
一九八三年八月十三日、『全員集合』は歴代最低視聴率の九.二%を記録する。(235頁)
番組開始時、三十七歳だったいかりやは五十歳を越え、二十六歳だった加藤も四十歳を越えた。(235頁)
冷静に見れば決して敗北ではないのだがライバルの「ひょうきん族」に対してもだいたい5%ぐらいの差で互角の闘いを続けているのだが、何せ前が凄かったもので。
世の中を巻き込むような流行語やキャラを生み出せなくなった。
『全員集合』は改編期のたびに終了説が浮上し、やれマンネリだのやれパワーダウンだのと書き立てられた。さらには、番組終了と同時にドリフが解散すると報じられ、その原因はいかりやと志村の確執にあるとささやかれた。(236頁)
一九八五年九月二十八日、最後の『全員集合』がはじまった。(239頁)
最終回の視聴率は三四%だった。『全員集合』は十六年間にわたって全八百三回放送され、平均視聴率二七.三%、最高視聴率五〇.五%というテレビ史に燦然と輝く記録を樹立し、幕を閉じた。(240頁)
そしてドリフが解散した後、志村けんの活躍が始まる。
(ドリフターズは解散したわけではない)
一九八六年一月、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタートする(243頁)
いかりやさんは複雑だっただろう。
一九八七年十一月にスタートした『志村けんのだいじょうぶだぁ』(242頁)
毎週生放送の緊張感から解き放たれ、メンバーはしばし思い思いの時間を過ごす。いかりやは気が緩んだからか、とたんに食欲がわき、少し太った。加藤は二ヶ月間、毎晩のように銀座に通い、総額二千万円を飲み代に使った。高木は家族と団欒の時間をもち、毎朝、妻とお揃いのトレーナーを来て、江戸川公園まで散歩に出かけた。(244頁)
その中でたった一人、気を張っていたのが志村けん。
志村けんはこの時、一人になってもの凄く不機嫌だったようだ。
ひたすらコントを考え続けるという。
そういう思いに沈んでいた。
志村はドリフから解放され、自分のコントに夢中になった。
世はまさにバブルの時代である。志村のイメージを具現化するために、今では考えられない巨額の製作費が投じられた。二人を追いかけるヤクザ役のエキストラを三百人集めたり(250頁)
頑張って「ひょうきん族」に向かっていった。
そればかりではない。
一九八六年四月にはじまった『志村けんのバカ殿様』からである。『バカ殿様』はフジテレビ『月曜ドラマランド』の枠で放送され(251頁)
ミュージシャンやお笑いタレントを自分の手で集めて「バカ殿様」コント集団を作る。
これは正直に作家の方、笹山敬輔さんは書いておられるが、この頃の志村けんは不機嫌になってスタッフにもの凄い要求をしたりしている。
急ごしらえの志村組、スタッフとはあまりうまくいっていなかったようだ。
一九八八年に『バカ殿様』の家老役だった東八郎が早逝した際には、代役として伊東四朗や由利徹の名が候補にあがった。だが、志村によれば「そうなるとオレが委縮して好きなことできなくなりそう」という理由で、桑野信義を家臣から昇格させた(253頁)
(番組では家老役の変更は「グレードアップの為」と言っているが本によると上記の通り)
これは武田先生も(出演者の候補に名が挙がっていたが)蹴られて。
志村さんは「もし喰われたらどうする」という恐怖感が凄く強かったという。
伊東四朗、堺正章、彼にとってはやはり・・・
新鋭で出てきた武田鉄矢。
お笑いなんかにすぐ首を突っ込みたがるキャラではあるのだが、一度でも彼等に負けて自分が委縮したら・・・
自分に合わせてくれるタレントのみをチョイスしたという。
とにかくワンマンになった志村けんだで「それじゃあ笑い取れねぇよ!」と言いながらパーン!と台本を投げつけるその顔がスタッフの噂によるといかりやさんにそっくりだったという。
やっといかりやさんの苦悩みたいなものがわかったのだろう。
そしてそのいかりやさんとの共演を一番嫌ったそうだ。
そのくせ、目指す笑いはやっぱりドリフ。
ドリフのあの笑い。
彼が終生追い求めるのはドリフのあのセット。
そしてもう一つ面白いところは、タモリ、たけし、さんまが標榜しているサブカルチャー。
そのカルチャーに近づかない。
「全員集合」が終わった後、志村さんは単独でいろんな番組を
また、或いは一番組みやすい加藤茶さんとの二人の番組とかだが、深夜番組へも進出していく。
彼は深夜番組に出てもコントの笑いで勝負を続けた。
一九九〇年、志村は絶頂期のなかで四十歳を迎えていた。同年十月、フジテレビの土曜八時に『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』−中略−
がはじまった。『ひょうきん族』を打ち破った『加トケン』にウッチャンナンチャンが挑む。それは一九六九年にドリフとコント55号の間で戦端が開かれて以来、断続的に二十年以上続いてきた「土8戦争」の最終戦だった。(260頁)
もともと映画監督志望だった内村光良は、数々の映画やドラマをパロディにしながら、徹底的にコントをつくり込んでいった。−中略−
『やるやら』は『加トケン』に対して真正面から勝負を挑んでいた。(261頁)
内村さんはジャッキー・チェンのものまねが特に上手。
或いはドラマのパロディをやるワケで。
月9ドラマの最高傑作と言われている「101回目のプロポーズ」。
(武田先生は「101回目のプロポーズ」の主演俳優なので「最高傑作」と)自分で言ってしまうところが偉い。
最高傑作と言われている月9ドラマの「101回目のプロポーズ」。
これをパロって、内村が武田を、南原が浅野温子を演じてパロディーにして見せたという。
その映像は今でもYoutubeで見ることができるのだが、やはり面白いと思う水谷譲。
しかもパロる時に同じテレビ局内のドラマ班からロケ場所から小道具から全部貰い受けて同じ場所でやっている。
本物のパロディをやる。
タモリ、たけし、さんまといった第二世代の芸人が様々な番組で共演していたのに対して、志村は孤独だった。(260頁)
飲食の場において、志村はキャスティングを担当するスタッフに声を荒げた。
〈志村さんは数字がとれる女優のブッキングを迫り、『相手の事務所に行って土下座してでも連れて来い』と詰めていました。そして『誰のお陰で食えているんだ』という言葉を浴びせかけたのです。その後、担当者は番組を去って行きました〉(262頁)
孤軍奮闘の志村。
懐かしく語る人達が「特番でもいいからもう一回ドリフやってよ」とかと言っても「お笑いが過去の栄光にすがってどうすんだよ!みじめだろう!」と突っぱねたという。
2000年代に入るとコントは番組自体の作り方が変わって、ダウンタウンとかウッチャンナンチャンとかナイナイがやるように大勢のゲストを毎回迎えていじるというパターンになっていく。
いろんなお笑いの若手を今挙げた。
ウッチャンナンチャン、ダウンタウン、ナイナイとか。
志村さんが唯一ゲストで出演したのは誰の番組か?
ダウンタウン。
ダウンタウンのバラエティー番組だけは志村さんはゲストで顔を並べている。
何だろう。
何故だろう。
他の方にキツイ言葉になるかも知れないが、志村さんは相いれないものがあったのではないか。
話は別の方に乗る。
2001年、凄いことが起こる。
ドリフは大晦日の『第52回NHK紅白歌合戦』に歌手として選出された。−中略−
曲は『ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル』と題したヒットメドレーで(274〜275頁)
ドリフが出て、あの例のメンバーが並んだだけで紅白の会場はどんな歌手よりもウワァーっとおこったという。
(本放送ではここで拍手のSEみたいなのが流れる)
最初にいかりやが力強く口上を述べた。
「日本のみなさん、今年はほんとに、ほんと〜に、ご苦労さま〜」(275頁)
(本放送ではここで「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」が流れる)
そうすると会場がウアァー!と騒いだという。
「日本のみなさん」と語りかけてこれほど似合うコメディアンがほかにいるだろうか。(275頁)
このあたり、この2001年あたりくらいから志村さんの芸能界に於ける動きが変わる。
彼が華やかなテレビセットを夢見ずに「志村魂」という小さな舞台をやり始める。
ここからは武田先生の考え。
はっきり誰と言わない方がいいと思うが、志村さんはどんなに呼んでも絶対に出なかったというバラエティが何本もある。
そのバラエティというのは何で志村さんにとって出演に値しなかったか?
それはコントではないか?
軽妙さかブラック。
このドリフをまとめながら思った。
ドリフの本質は何だろうか?
戦後日本の貧しい暮らしを笑うこと。
豊かな人なんか誰も出てこない。
共同便所のお風呂がなくて貧しい家庭とか、行くだけで何時間もかかる山の分校の子とか。
悲惨。
悲惨というか貧しさが。
志村がやりたかったのはそれではないかと思う。
志村はもっとそれを発展させたかった。
どう発展させるのか?
悲惨を笑いにする。
絶望しかない人達を敢えてコントにする。
「笑いの本当の強靭さはそこにあるんじゃないの」というのが志村が言わなかった言葉ではないか?
それはお父さん。
お父さんは志村にとってもの凄い大きな存在で。
とにかく厳格な、自分がお笑いをやることに関してもお父様は大反対で。
それはもうあのあたりで校長先生までの方だから自分の息子がコメディアンなんて許せなかっただろう。
(本にはコメディアンに反対したという記述はなく、校長の試験を受けようとしている時に事故に遭い、後に休職している)
そのお父さんが志村さんが喰えるようになった時に病に倒れられて半身不随になられた。
(このあたりも本の内容とは異なる)
志村さんの中にあったのは、そのお父さんを笑いにすること。
とても残酷に聞こえるかも知れないが、それが志村さんがお父様に捧げたある思いではないだろうか。
そんな人達も仲間にして笑いを作るということが笑いの役なのではないか?
きれいごとではないからこそ笑いの素晴らしさがある。
ドキッとする。
あの「もしものコント」の中にあるのではないか?
「もしも体の不自由な寿司屋さんがいたら」とか「もしも病気の芸者さんがいたら」とか。
志村さんが匍匐前進してきてお酌をしようとするのだが、倒れてしまう。
申し訳ないが笑ってしまう。
悲惨だが。
寿司屋さんなんか上半身をヒモで吊っている。
それでお客さんが入ってきたら、よせばいいのに柿の種をザルに載せて「ハイ〜!ハイ〜!」と言いながら出そうとする。
それからしわくちゃのお婆ちゃん。
「だいじょうぶだぁ〜」と言うが、ちっとも大丈夫ではない。
その「悲惨を笑いに転化するところに俺達コメディアンの意地があるんじゃないか?
何インテリぶってるんだ?」という。
何かそんなものがあったのではないか?
今では考えられないネタだった。
それを志村さんは「志村魂」と名づけたのではないか?
何と驚くなかれ、水谷譲は「志村魂」を見に行っている。
「志村魂」は水谷譲の息子が小学校低学年の時に「本物の笑いを見せてあげるから」と言って初めて連れて行った舞台だった。
幕が開いて志村さんが津軽三味線を弾かれる。
演奏をし終わった後に志村さんが挨拶をされて、クルッと後ろを向いた時に袴のお尻が全部見えている。
(袴に)丸く穴が空けてあって尻の割れ目が見えている。
何故志村は津軽三味線を選んだのか?
楽器をあれだけ弾き込むには相当練習が必要で、情熱があっただろうと思う。
それは津軽三味線が志村けんの魂をどこか引き寄せたのではないか?
津軽三味線は盲目の貧しい底辺の人達が自分達で見つけた奏法。
弾くのではない。
叩く。
大変言葉が悪いのだが、盲目の人の悲惨な芸道に生きる姿が津軽三味線。
彼のブラックに寄せられる魂が盲目の三味線弾きと重なって悲惨を演じたかったのではないか?
何でここまで志村の気持ちがわかるか?
武田先生がやっていた楽器は津軽三味線。
その津軽の先生(恐らく久保木脩一朗氏)から聞いた話がその話。
「高橋竹山という人はね、吹雪の中で吹いてましたよ。ムシロに座って。これは物乞いですよ。だけど物乞いで客を集める為にはあの音色で弾かないと人は集まらねぇんだ」
武田先生は志村と同じ波長、姿が重なってくる。
昨日はもう無我夢中で志村さんを語った。
お会いしたくて、一緒に仕事もしたくて、でもチャンスのなかった方で。
断られもした。
志村さんはドリフを辞めた後、単独で動物をからかう番組を始めたらたちまち成功するワケだから、この人の力というのは凄い。
「(天才!)志村どうぶつ園」も最初やる時、凄く嫌がった。
「コントをやる人間が犬に喰われるとこ、そんなに見たいの?」とおっしゃった。
動物の無邪気さというのは凄いから。
犬がコケただけでお客さんは笑うのだから。
コントを考えている人間は本当にたまらない。
動物園ものをやったり、小さい舞台で「志村魂」をやったりするのだが、はやりデカい劇場で「志村魂」をかけたかったようだ。
それで夢見ておられたのが涙と笑いのコントドラマをやりたかった。
あの人はそういうところがあったと思う。
貧しい貧しいホームレスの親子をやって、アイスキャンディーを親子で半分ずつ分けるという。
譲り合っていくうちにどんどんキャンディーが小さくなるという。
そういうのをあの方は頑張ってやっておられた。
それから津軽三味線もそうだが、東北の雪降る野辺で盲目の三味線弾きは懸命にゴザのムシロの上で津軽を叩いている。
その志村さんだが、2014年から「志村魂」に本腰を入れ
二〇二〇年、志村は七十歳を迎え、新たな道に進もうとしていた。(293頁)
志村けんに遂に憧れの仕事がやってきた。
これははっきり言って、この人にはそのコンプレックスがきっとあったんだろうと思う。
この人は俳優に弱い。
役者さんに弱い。
これまで役者のオファーを頑なに断ってきたが、−中略−
年末公開の山田洋次監督『キネマの神様』では映画初主演を務める予定だった。(293頁)
張り切っておられたようだ。
それこそ山田洋次という監督さんは、彼が営々と積み重ねてきた何事かを受け止めてくれる巨人だったのではないか?
この年の志村さんは忙しくて
七月に東京オリンピックの聖火ランナーとして東村山市を走ることも内定していた。(293頁)
いくつもの仕事をやりかけて、これからやらねばならないという
二〇二〇年三月二十九日、−中略−
夜半に志村は肺炎のため入院先の病院で永眠した。(293頁)
ひと言言えるとしたら、彼は逃げなかった。
いかな難題も、人生のあらゆるものも笑いにしてやる。
それが「志村魂」であると。
そう言いたかったのだろう。
一番最初の話に戻る。
決して「私はわかってる」なんてうぬぼれるつもりはないが、志村さんが武道館でビートルズを見た。
その時にジョージ・ハリスンがジョン・レノンと一緒にアンプからコードを抜いて、まだボリュームを落とし切っていなかったので「キーン!」という雑音が日本武道館の中に残った。
志村けんはその「キーン!」を聞きながら「イカすなぁ!ビートルズは!最後のノイズまで音楽だよ!」
志村魂というのはノイズを音楽として感じるという。
まあ、コロナとはいえ、よく読み込んだもの。
水谷譲が子供の頃に夢中になって見ていたものの変遷というか流れ、裏話が繋がった。
志村さんが残してゆかれてものもわかる。
「悲惨を笑え」という。
今はそんな時代ではない。
先週もお送りしたが、小さい言葉の上げ足を取るという。
武田先生も喋っていて、結構舞台で上げ足を取られて。
取りやすいのだろう。
だが、武田先生もそう。
悲惨を笑いにするのが好き。
武田先生の舞台でのMCは全部悲惨な思い出話。
「お客さんが入らなかった」というのが一番ウケるところで。
後は高校で頭の悪い同級生がいて「本能寺を焼いたのは誰か?」と聞かれて、ソイツが「俺じゃありません!」と反抗したという。
それはみんな悲惨な話。
振られた話とか。
悲惨な話を笑いにする時に最もエネルギーがいるから挑んでみたくなる。
そんなもの、ルンルンの恋人がケタケタ女の子が笑ってるというような笑いは面白くない。
その一点だけ、彼とは山ほど語り合うことがあったのではないか?という。
昨日お話した、体が不自由だったお父様。
それを逆に笑いにしてお父さんを理解したかったというので、あの「もしものコーナー」で「もしも体が弱い芸者さんがいたら」とかという、そこを思いついたのではないか?
これは武田先生の勝手な発想だが。
だが、志村けんという笑いの作り手のクリエイティブの真ん中に「悲惨であることさえ笑うんだ」という「それが人間じゃないか」という、強い生きる活力みたいなものを感じる。
二週にお届けし、前編を繋げると一ヶ月分になる、四週分になるというドリフだったが、ここに語り納めたいと思う。