これの続きです。
いろんな認識の世界の中で「暗黙知」という知識があって、これは言葉になって表に出てくるワケではないが、不思議と人間は言葉以上にこの「言葉にならない言葉」を知っているという。
その中で「わざ言葉」「わざ言語」というのがあって、技を伝える時だけに役に立つという。
武道修行でいうところのお師匠様からの一言。
噛み締めると深い意味があるという。
禅宗の言葉でカンフーのブルース・リーなんかそう。
彼が使っているのは禅宗のお坊さんの言葉。
ブルース・リーが教えを請いに来た少年に向かって「私を見るな」、虚空を指差して「私の指差すものを見なさい」という。
こういうのが禅宗の言葉。
その禅宗の言葉の中で「弟子の用意ができたので、師匠の私がやってきた」。
弟子は一生懸命悟りに向かって修行している。
師匠はわかる。
「『悟りそうだな』と本人が自覚した時に傍にいるのが師匠だ」という。
これはいい。
何かそういうこと。
スポーツ選手がよく言う「悩んだ時のあの人のあの一言」という。
それは本人は偶然に起こったと思っているかも知れないが、そうではなくて二人が巻き起こした偶然。
わざ言葉。
合気道で武田先生は力むと必ず言われる。
「柳の木になりなさい」
こういう謎の言葉。
「わざ言語」「わざ言葉」というのは。
このわざ言葉こそが人間の体を動かす言葉遣いなのだということ。
柏野さんが習得したかったのは、カーブの投げ方でした。最初は桑田の言葉を参考にボールを回転させようとしていたのですが、どうしてもうまく回転がかからない。桑田のイメージが、柏野さんにはうまくはまらなかったのです。
そんなとき、研究所にやってきたあるプロ野球選手がアドバイスをくれました。それは「ボールを親指と人差し指ではさんで、手首をロックしたまま、指の間からボールを上に抜く感じで投げてください」というもの。−中略−
ところが、やってみると、それなりにうまくできた。(95〜96頁)
柏野さんの中には、「ひねってるっていうイメージがない」のに、結果的にトップスピン的なものがかかる。(96頁)
桑田の「わざ言葉」はダメで、別の人の「わざ言葉」が彼にはピッタリだった。
だからその「ピッタリの言葉」に遭わないとダメで、さっき言った禅宗のお坊さんとお弟子さんの関係で「弟子の用意ができたから、師匠の私がやってきた」。
「そういう人に出会わない限り、その謎は解けませんよ」と。
大事なことはいつも探していないとダメなんだ。
探索が無ければ獲得はできない。
客観的、或いは科学的な取り組みの言葉や数値等では個人的暗黙知はできない。
暗黙知は科学を認めない。
野球を取り上げてはいるが、「たかが野球」でさえも「されど野球」で。
野球というものは不思議なものをいっぱい含んでいる。
桑田の不思議な言葉なのだが、ピッチャーがボールを投げ込む時、これは完全に自動化されている。
ピッチングフォームというのはレールの上に置いてある列車みたいなもの。
ボタンを押すと走り出すという。
全く考えない。
全部体に任せる。
バッターボックスにいる野球の敵に対して「勝てる」とか「打たれる」とかそういうのが体から脳に連絡が行くと投げた瞬間に打ちやすいボールになったりする。
考えてはいけない。
自分が何か行動する為には、頭を介入させるとダメで、「敵は狙ってる」とか敵のことを考えるとダメになってしまう。
凄く面白いなと思ったのは、敵が立っていないともの凄く投げにくい。
ピッチャーは
そういうものらしい
敵が立っているとのりやすい。
敵がいないともの凄く投げにくい。
バッターボックスに次、打つかもしれないヤツが立っていると、そのことを込みで体を動かそうと思う。
それに妙に「アイツ狙ってるな」とか「今、ボーッとしてるぞ」とか「いたらん詮索はやめなさい」という。
とにかく体に感覚を任せてしまった方が体の使い方は上手くいって、体は心を通り過ぎて勝手にゆく。
無茶苦茶面白い。
世の中にはたくさん面白い方がおられて、面白いことを今、ラボ、実験室でやってらっしゃる方がいる。
脳の研究者である小池英樹さんという方がおられる。
この方は幻肢痛の時にお名前が出た方なのだが「テクノロジーがいかに脳を騙すか、そして納得させるか」これを今、科学でなさっているという。
これがなかなか面白くて新しく広がるバーチャルの世界。
この方が人間の環境の中から能力を引き出すというテクノロジーの開発に夢中で。
「できる」を目指す時、「だます」を利用する。
小池さんは、影がもつこの中間的な性質を生かして、初心者用のゴルフ練習システムを開発しました。−中略−
プレイヤーの頭上には太陽の代わりにプロジェクタが設置され、足元には本物の影の代わりにプロジェクタから出力された影が、すなわち小池さんが「バーチャルシャドウ」と呼ぶ人工的な影が投影されています。
バーチャルシャドウは、本物の影と同じように、プレイヤーの動きに連動して動きます−中略−
クラブを握って構えれば、地面にのびるバーチャルシャドウも同じように構えを作る。そのままクラブを後ろにテイクバックすれば、バーチャルシャドウも同じように影のクラブをテイクバックする。プレイしている本人にとってそれは「自分の影」に感じられますが、実際にはそれはあくまでプロジェクタから投影される合成された映像です。−中略−
カラフルなバーチャルシャドウに重ねるようにして、「お手本」を示すバーチャルシャドウも白線で表示されるのです。「お手本」は、事前に記録しておいたプロのスイングの情報から、そのつどのプレイヤーの姿勢にあったものが呼び出されて提示されたもの。つまり、自分が動くと、それに対応したバーチャルシャドウと、お手本の白線という、二つの「影」がついてくるのです。(150〜151頁)
これはできることを目指す体に脳を騙すという。
これは何にでも応用が利くから凄い。
卓球。
あれほどのスピードで飛び交うボールを、何で卓球選手は打ち返せるのか?
謎。
あれは打つ人のシルエット。
シルエットでボールがどこに来るかを見抜く。
相手のシルエットがある。
そこに白線を描く。
そのふちどりした影の形でどこにくるかわかる。
敵の姿の形でどんなボールが来るかを予測できるようになるのが強い選手。
ボールなんか見ていては卓球はできない。
最近日本は強くなってきた。
この機械を使っているのではないか?
これは最初のけん玉と同じ。
練習者はVRのヘッドセットを装着します。その状態で相手役の上級者がボールを打つ動作をすると、練習者が見ているバーチャル空間の中で、向こうからボールが飛んでくるように見えます。(141頁)
小池さんの「スピンポン」も、プロローグでふれた「けん玉できた!VR」と同じように、球の動きをスローモーションにすることができるのです。(143頁)
このスローモーション環境で練習を繰り返したのち、現実空間のスピードに戻ると、確かに、できなかったことができるようになっています。(144頁)
これを、体に障害を持つ人のリハビリの訓練なんかに。
影が先に歩くので、自分の足元の影を追いかけていくうちに両足が無いとか片足しか無いという方が義足を付けて同じスピードで歩けるようになるという。
それが平行棒に行ってずっとわたっているよりも、遥かに有効になる。
この前、何を思ったかというと頭で考えることが人間の行動の邪魔になっているということ。
これが面白い。
これはよくわからないのだが、工学と医学の間で人間の体を扱う牛場潤一さんという方が研究なさっているのだが
牛場さんはある実験をしました。目の前のターゲットを人差し指で指差す。このシンプルなタスクを行なうように被験者には言い、そこにちょっとした「いたずら」をしかけたのです。
まず被験者にはヘッドマウントディスプレイ(HMD)をつけてもらいます。つけると、何もつけずに見たときとほぼ同じ視界が広がっています。手をのばせば自分の手が見えるし、ターゲットもさっきと同じところにあるように見える。−中略−
牛場さんがしかけた「いたずら」とは、本来より1度右側の世界を被験者に見せること。被験者からすると、まっすぐ手をだしたつもりでも、左に1度ずれたところから手が出てきたように見えることになります−中略−
。この状態で、被験者はターゲットを指差すように命じられます。−中略−
一回に1度ずつのずらしを、たとえば四〇回繰り返したとしましょう。当然、最初と最後では40度視野がずれていることになります。自分の体に対して40度右にあるものが、HMDの中では自分の正面に見えることになる。−中略−
四〇回に分けてずらしていくと、人はそのズレを意識することがありません。そしていつのまにか、現実空間とは40度左にずれた位置に見えるバーチャル空間のターゲットを見ながら、現実空間のターゲットに向けて指を出す、というはたから見ると奇妙な動きを、当たり前のようにやってしまうのです。(163〜165頁)
その環境で自分の思ったとおりの体の動かし方ができるように、自分の頭の中のプログラムを更新、メンテナンスしていくんです。そういう機構が本人の意識していないところで絶えず動いています。(166頁)
学習は環境依存的だ、ということを意味します。(169頁)
わかりにくいが大事なことを含んでいるような気がする。
ストーン!とわかるところと、わかりにくいところが伊藤亜紗さんの本には、はっきりいってある。
このあたり、伊藤さんごめんなさい。
わかりにくい。
武田先生の読解力がないのかも知れない。
こんな実験があった。
これはわかりやすかった。
D・R・ゴッデンとA・D・バドリーによるもので、実験の内容は、大学のダイビング部の学生一八人に対する暗記のテストでした。ポイントは、暗記テストを約六メートルの海の中と陸上の両方で行ったこと。海の中で覚えた言葉のリストを、そのまま海の中でテストした場合と陸上にあがってからテストした場合、あるいはその逆で、陸上で置覚えた言葉のリストを、そのまま陸上でテストした場合と海の中に潜ってテストした場合のスコアを比較したのです。−中略−
海中で覚えた単語は海中のほうが、陸上で覚えた単語は陸上のほうが、スコアがよかったのです(170頁)
つまり、環境が変わると、覚えた単語をうまく思い出せなくなってしまうのです。(170頁)
「これを覚えるんだ」そういう脳の使い方をすると能力が落ちる。
これは俳優をやってテレビドラマなんかを仕事にしていると本当に思う。
まず台本を覚える。
覚える為に覚えるのではなくて、台本の中の芯を一本探す。
「話がこんなふうになってってこういう言葉で」という。
それで覚えるのだが、一回、町内一周でもいいから散歩に行かないとダメ。
或いは時間を置かないと。
一回消す。
書いて消して書いて消して。
書きっぱなしにしていると黒板の字を読むような、ものの言い方になる。
一回消す。
消してその言葉を探すところから始まる。
それが俳優さんの表情になる。
「あの後、田崎さんどうしたんですか?」「え?俺・・・?俺はね・・・」とこの間がお芝居になる。
ほんの僅か時間をかける。
探すという間がないとセリフはリアリティーを含まない。
「覚えてきました」という顔をしたらダメ。
そういう方がいるので教えてあげたいと思う水谷譲。
一番いいのは「用意」の声がかかった時に全部消すという。
これがそういう実験。
実験でいうと大げさになってしまうが、陸で覚えたことを水で試す、水で覚えたことを陸で試す。
そうすると成績が、同じ本人でも大きく違う。
記憶というのは学習にしろ運動にしろ、上手くゆくと脳でフラッシュがたかれる。
脳の内部の深いところに基底核っていう部分があるんですけど、そこが報酬を感じるとドーパミンを出すんです。−中略−
運動がうまくいくと運動を支配している領域に、さっきの運動の仕方を固定させるような、そういう脳内麻薬みたいな薬理的な作用が起きるんですね。だからうまくいくとフラッシュがたかれてちょっと現像されるみたいなことが起こる。またうまくいくとまたフラッシュがたかれてちょっと現像される。そうやって多重露光されていく感じなので、どんどんどんどん像が濃くなっていく。(176頁)
変な言い方だが、長ゼリフは癖になる。
それはやっぱり覚えにくいセリフを克服したという、その快感は凄い。
武田先生は向田邦子原作で「せい子宙太郎」という水曜劇場の家庭劇・ホームドラマをやっている時、目の前で見たのだが森光子という人が半ページ(分の長さの)セリフを一人でモノローグで語る。
人間の幸せについて。
感動したことがあった。
20行ぐらいあるセリフを上手にお芝居なさる森光子さんを見て、「凄い人だ」と思った。
加藤治子さんと森光子さんの芝居で森光子さんが家族の幸せについて語る。
それを森光子さんが「凍った池の金魚のように」とおっしゃった。
小さい池があって、冬の朝、金魚が小さな池の底に群れている。
「奥さん、アタシねぇ、その時にその金魚見ながら思ったんですよ。まるで火鉢の火みたいだって。家族って寒い時、身を寄せ合う。だから温かいんじゃあないですかねぇ」という。
その時に「凄いなぁ」と思ったが、その後の人生でその三倍ぐらいのヤツを言えと言われるとは思いもしなかった。
その時のセリフも覚えている。
記憶。
学習にしろ運動にしろ。
上手くいくと脳でフラッシュがたかれる。
フラッシュの度に基底核からドーパミンという快楽物質が放出されて、そのフラッシュで照らされた部分が濃くなっていくことによって記憶が深まるという報酬系の。
だから何度も何度も取り出して思い出していかないと、だんだん薄れて消えてゆくという。
それが記憶。
これとは逆の記憶というのもある。
今、お話したドーパミンを出すヤツが「報酬系」だったらば「罰系」というのがある。
罰系に関しては小脳が運動に関与します。(179頁)
罰系っていうのはうまくいかなかったときに、痛みとかお金、罰金とかですごくがっかりさせるっていう感じです。脳のメカニズムとしては、小脳とかで、誤差、「エラーなんだ」ということを処理してその運動を抑制したり計画をチューニングし直すみたいな作用があって、運動をストップする方向に小脳が作用する感じなんですよね。(179頁)
それから不愉快を相手に与える。
そういうことをすると脳に「不快」という信号がバーッと。
となりで細かく口出ししてくるトレーナー、といったところでしょうか。(179頁)
不快なのだが、この罰系で学習すると記憶は長く深く定着するそうだ。
人間は上手くいかない。
だから「ニコニコ笑ってやりましょう」とかというスポーツの捉え方もいいのだが、罰がないと記憶が消えてしまう。
そういうコーチの方が多い気がする水谷譲。
出た番組の話題が「スポーツを楽しくやろう運動」というのがあちこちで興っていて、「小学生の全国大会は辞めよう」「日本一なんか競わせるもんじゃない、子供に」という。
格闘技の凄く強い那須川天心君がいて、天心君が軽く「いや、やらなきゃダメですよ」。
「今、コーチもガーン!と殴ったり暴力はダメだよね」と言ったら天心君は「いや、殴らないと覚えませんよ」とかと。
その時にスタジオでいる全員、何も言えなくなった。
やはり本物から言われると返す言葉がない。
この罰系の記憶が深く定着する典型的な見本が自転車。
自転車は一回乗れたらもう忘れない。
あれは転んだから。
何度も転んだという記憶が体を動かす。
こういう「脳」とか「体」とかというものの違い方が・・・
今、また別の本を読んでいる。
ちょっとこれは上手くいくといいが、70歳も半ばを過ぎた体を生きる知恵(「老いの整理学」)と、若い方達がこれから生きる知恵(「20代で得た知見」)。
その本を二冊持ってきて両方並べてみようと思って。
その中で一個だけ今日紹介するが、20歳の若者に贈るある作家さんの言葉の中に「知らないことを学ぼうとする時に感情は使うな」と書いてある。
知らないことを勉強している時に「何でできないんだ、オマエは」とかとカチーンとくる。
「その時にカチンとくるようではダメだ」と書いてある。
その時の感情は必要ないという。
今、ちょっと奥さんから家事を仕込まれているが上手くいかない武田先生。
それでカチンとくることがある。
それではいけない。
75歳前後の皆さん。
これから80、90と生きていこうと思っている皆さん。
それではいけない。
感情を使ってはいけない。
本当に申し訳ないが、よその家の青年から叱られたら平気で「ハイ」と言えるのに、自分ちの子から言われるともの凄く腹が立つのは・・・でもよくない。
武田先生の武道修行の中で実りがあるとすれば、若い人から批判されることで、心が成長した。
やはり若い人みたいに動かない。
時々、手取り足取り押さえられたりすると、面目というのが丸潰れみたいな瞬間がある。
恥をかくというか。
だが、恥をかくというのは感情を使うことが学びで間違っている。
「下手である」というのは恥をかくしかない。
今、体と脳の関係に関してテクノロジー、機械が発明されていて、どんどん進化しているという。
だから早くそうなればいいと思うが、車なんかに応用されて事故を起こさない車はできないか。
この「体はゆく」伊藤亜紗さん文藝春秋刊で「できるを科学する〈テクノロジー×身体〉(本の副題)」の最後の章を飾った、これは面白いなと思った。
(最後の章ではない)
どう面白いと思ったかを皆さんに説明できるかどうか。
実験参加者に与えられる課題は「しっぽをふる」。−中略−
実験は、協力型ゲームのような形式で行われます。一〇人程度のプレイヤー(実験参加者)がひとつの部屋に集まり、全員が頭にBMIをかぶった状態で、それぞれ自分用のタッチパネルディスプレイを前にして座っています−中略−
。ディスプレイの画面にはカラフルなおさるのしっぽのアニメーションが。実は事前に、頭のてっぺんの領域の特定の周波数の振幅が増えたらしっぽが特定の方向に動く、というようにマッピングされています。(180〜181頁)
当然、すぐにはできるようになりません。−中略−
まったく手がかりのないところから、とりあえずいろいろ試すことで、正解にたどり着かなければならない。(183頁)
そうすると10人ぐらいでやっているとしっぽを動かすようになる。
そのしっぽを動かす要領「首をちょっと振ると動く」或いは「足をウンと踏ん張ると動いたよ」といったことを教え合いながらやっていくと全員しっぽが振れるようになる。
一種の超能力でものを動かすみたいな。
これら10人のプレイヤーは体で動かしているワケではない。
脳を決められたやり方で活動させることができたら、その脳波をBMIがキャッチして、ディスプレイの画面内でしっぽが動くようになっているのです。(181頁)
それを集団でやると学習効果は一人の時より何倍も上がる。
何を一体意味しているのか、何を目指しているのかちょっとわかりにくい。
皆が脳のどこかの部分を使っているということ。
10人全員同じような領域に赤い火が灯っている。
これは武道修行の中であった。
片足立ちをする。
あの時に片足立ちをしてゆっくり飛行機の形に前倒しに倒れていく。
あの時に「自分の尻に架空のしっぽがあって、近くの枝に巻き付けてください」。
それでしっぽがあって巻き付いたらそんなにグラつかない。
これを明確にイメージを持つと本当に揺れなくなる。
だからイメージがあるのと無いのとを比べてみてください。
四股を踏む。
結構フラフラする。
それはやり方。
お相撲さんは何をやっているかというと、一番最初に体を倒す。
倒すことによって足を上げてゆくという。
そうしたら安定する。
「体のどこを最初に動かすかどうか」「何をイメージするか」で体はそれを意識しない時より遥かに・・・
スポーツ全般に言えることは、イメージを持っている人が強いということ。
かくのごとくイメージというのが体を操作するならば、何かの障害の方がおられたにしても、VRから全身の動きとかイメージを貰うことによって新しい世界に突入するという。
体はできる。
脳ができないといっても、体はできるかも知れないという可能性をいつも信じましょうという二週間だった。