この間の話からする。
あるニュースバラエティー番組に出ていて、例の人気者が司会をやっているという。
(2月19日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」を指していると思われる)
その時に(武田先生は)全然いいことを言えなくて。
カンニング竹山さんとか兼近さん(EXITの兼近大樹)なんかがおられて、彼等は上手いことを言う。
社会全体の。
武田先生なんかはもう全然ダメなのだが。
その番組のゲストに格闘家の那須川天心が出てきた。
空手をやっていてその後キックボクサー、総合格闘技をやって、これからボクサーになる。
武田先生がジーッと彼を見ていて思ったのは肌が綺麗。
それが謎で、そのあたりから始まっている。
最近、スポーツ選手でアメリカに行ってアメリカの人気者になった選手はいっぱいいる。
彼等と王(貞治)・長嶋(茂雄)は何が違うのかなと。
一個だけ思っているのは「今の子達は肌、綺麗な」と思うようになった。
もちろんこれは、王さん、長嶋さんの肌が汚いという意味ではない。
何かツルンとした感じがある思う水谷譲。
次々と名前を挙げていく。
例えば大谷翔平、ダルビッシュ(有)、それから格闘技の天心君、羽生結弦。
ツルンとしている。
それが「日本人を進化させているのではないか」と、そう思った。
人口が少なくなりつつあるかも知れないが、日本人の若い人の中で何か進化が起こっているという。
その進化は何だろうと思った時に「皮膚」と「肌」ではないか?
そういう直感。
そんなことでウロウロしていたら手に入ったのが山口創さん(著)。
桜美林大学の教授さんで、臨床発達(心理)士。
この方がお書きになった「人は皮膚から癒される」という草思社文庫。
(この本は四六判と文庫判が出版されているが、上記のように「草思社文庫」と言っていて番組で扱ったのは文庫判のようなので、ページ数等も文庫判のものとする)
この本にに出会って。
この方はどういうことを言っておられるかというと、人の感覚には目、耳、聴、そして後は触覚&味覚がある。
こういうものをより合わせて我々は外界を知っている、外界の情報を取り込んでいる。
山口さんがおっしゃっているのは、その中でも皮膚から入ってくる情報は脳の扁桃体や前頭葉と結びついて、もの凄く重大だ。
皮膚というのは集中すると脳の機能が停止する。
自分の皮膚、肌のセンサーの感度をMAXに上げると脳が停止する。
(脳が停止すると)感覚だけになってしまう。
これはもう本当に朝から申し訳ない。
非常にわかりやすく言うと、男女が全裸で抱き合う。
これは何かというと「触る」ということ「触っている」ということに敏感になるという。
皮膚にはもちろん体温調節という仕事があるのだが、ここからが面白いところ。
皮膚には感情が直結しているという。
「皮膚には感情が直結している」というのは本当に面白い。
ズバリ言うが、嫌いなヤツが肩に触ると、もの凄い嫌悪を示す女性がいる。
もう生理的なもの。
だがそれは、もうどうしようもない。
頭で「この人は上司だ」とか言ったところで、「置かれた手」というのが我慢できない。
「セクハラよ!」となる。
だが、セクハラのスタートは皮膚なのではないか?
日本人の世間の言葉の中で、前にも言ったが「肌が合わない」。
これは脳で考えても仕方がない。
それから逆の意味で言うと「肌が合う」。
朝から何だが、恋愛をする場合どうしてもこの二人は裸で抱き合わないとそれが確認が取れないという。
これを基本にして山口さんが非常に面白い皮膚の話を展開なさっている。
皮膚には4種類の触覚の受容器があり(33頁)
まとめると、ポケットの中に500円玉、100円玉、10円玉、1円玉、5円玉が入っている。
それを指先は見ないで探れる。
これはやっぱり皮膚の中に四種類のセンサーが入っていて、質感を感じるもの、形を感じるもの、温度を感じるもの、全部入っている。
この山口先生の面白いのは「5番目がある」とおっしゃる。
皮膚にはもう一つ、性質の異なる触覚の受容器があることがわかってきた。それはC触覚繊維と呼ばれ、神経線維の末端が枝分かれして皮膚に入り込んで「触れた触覚が気持ち悪い」といった感情と関わる神経線維である。(34頁)
つまり、このあたりと、現代の世界に飛び出していって充分通用する若者たちの活躍ぶりを皮膚と肌と重ねてみようじゃないかというのが今回の試み。
「人は皮膚から癒される」山口創さん。
桜美林大学教授で、この方が書いた皮膚のお話が武田先生は凄く面白くて。
この山口教授がおっしゃっているのは、人間には受容器、皮膚の中に四種類の受容器・センサーがある、と。
その4種類が一番たくさんあるところが指先と唇。
だからやっぱり人間はキスしたがる生き物。
本能。
この山口先生の面白いところは、その四種類以外に5番目の受容器があって、それがC触覚繊維といわれるセンサーである。
このC触覚は何かというと、
秒速3〜10cm(ピークは5cm)ほどの速度で動く刺激に対してもっとも興奮する。(34頁)
撫でられるのは気持ちいい。
それはC触覚繊維が「ほっとしよう」とか「気持ちいいね」とかという信号を脳に送る。
C触覚繊維の興奮は脳内ではセロトニン神経を活性化させることもわかっている。だから抑うつや不安の高い人にゆっくりした速度でマッサージをしてあげると、脳内でセロトニンがつくられて症状が軽くなるのだ。(34頁)
母親が子どもの痛みを「痛いの痛いのとんでけー」とさすると痛みが軽くなる。(17頁)
そうするとセロトニンというホルモンが出て、抑うつ、不安を抑えこむ。
母親の胎内にいる胎児にもC触覚繊維はあり、それは羊水によるうぶ毛の振動によって刺激される。−中略−
自己の意識などと関係があるため、これらが刺激されることで自己の意識やコミュニケーションに関わる社会脳が発達するというわけだ。(35〜36頁)
情動・共感・自尊感情、自分のことを大事に思う感情。
そういうものをC触覚繊維が支えている。
もう皆さんもお気づきだが、毛の生えているところと毛が生えていないところがある。
何で毛が生えているかというと、温度を逃がす為。
汗をかくと、水分が昇っていく。
昇っていくと乾きやすいという。
指の関節のところに毛が生えたりするのもそう。
「何でこんなところに」と思っていた水谷譲。
それと、てのひらと唇には毛が生えない。
東アフリカの草原で立ち上がったサルは、何で毛を脱ぎ捨てたのだろう?
これはもう本当に不思議で、いわゆる衣服を脱ぐようなもの。
犬や猫だってみんな毛皮を着こんでいるのに、人間だけ脱いでしまった。
これはやっぱりどこかで、皮膚というものをセンサーで使おうと決心したからだろう。
そうやって考えると進化というのは何か面白いなと思う。
話を進める。
皮膚で感じる感性は決して快・不快だけのことだけではない。
人は解決が困難な事態に遭遇したり、その解決のために恐怖や不安などの感情をコントロールしたりしなければならないとき、信頼できる他者がそばにいるだけで、彼らに問題の解決や感情のコントロールの一端を担ってくれることを期待する。(45頁)
それも皮膚。
人間がもの凄い恐怖に晒される。
その「何とかこの不安な気持ちと戦わねば」と思う時に皮膚で友達を探す。
ウクライナで家が焼けてしまった奥さんを隣の奥さんがギューと抱きしめる。
大きな地震があって何も無くなったという人が泣き崩れている時に背中を撫でる人がいる。
そういう接触することによって「この人は信頼できる」と泣けるようになる。
もうウクライナの方がわかりやすいのだが、バンバンロケット砲を撃たれる。
だがそこに兵隊さんがやってきて「大丈夫奥さん。俺ら守るから!」とかと言う。
この時に不安とか恐怖を「外注化」、その人に委託できる。
それが集団全体を強くする唯一の方法だ、という。
これは心理用語が決まっていて「ミケランジェロ現象」というそうだ。
人の脳は親しい他者を、あたかも自分の一部であるかのように感じている。これを自己膨張理論という。−中略−
自分と相手の皮膚の境界の一部が融合している状態である。−中略−
これを−中略−
「ミケランジェロ現象」と呼んだ。ミケランジェロは、「彫刻は石を掘り出してつくるのではなく、石の中にもともと眠っている」と述べた。(46頁)
自分が今、辛い時に他人と一緒になって自分を膨らませていく。
それで本当に人間は強くなる。
共有していく数が多ければ多いほど楽になるし自分が広がっていくと思う水谷譲。
これは皆さん、ちょっと異様と思われるかも知れないが、例えばラグビーの盛り上がり。
WBCの盛り上がり。
あれは皮膚感覚。
(ここから3月15日放送分なのだが、この回はポッドキャストでは流れた部分がところどころカットされて放送されている。面倒だからいちいちどの部分かとかは書かない)
この皮膚感覚というのは何かというと、難しい課題を脳ではなく感情で解く力が皮膚にはある。
視覚、聴覚、ここに皮膚の感性が参加すると異なる方角を向いていても同じ目標を目指すことが可能だという。
恐らくこれは愛国心とかというヤツだと思う。
今はそういう意味で注目を浴びているエリアがあるが、まさしく彼等は皮膚感覚で自分達の国を守ろうとなさっているのだろう。
「皮膚の交流は重大である」
これは覚えておいてください。
人間が自分の中にアイデンティティを持つという共同注意の為の他者。
これは皮膚を介することなく繋がることはできない。
今、やっておられる方はごめんなさい。
こういうことを言っておられる。
近年ではSNSの普及によって−中略−
そこでは境界としての皮膚の感覚を介さずに、直接的に情報が目から脳にインプットされる。(69頁)
便利過ぎるコミュニケーションの手段として視覚・聴覚、これがもの凄く重大視されているけれども、それのみになったら人間は皮膚で物事を考えるという能力が無くなってしまう。
映像や音声のみで皮膚の感性が今、無視されている。
私達は例えば天気であれ、集団の気分であれ、皮膚で感じるもので、「時代の風が冷たいなぁ」とか「時代の流れが速い」とかというのは、世界を「流体」「水のように流れているもの」として感じる。
実際の人体の実に60%は液体であり、人間自身の境界である皮膚も流体のイメージの方がむしろ近いことになる。(74頁)
流れで感じるという皮膚感覚がもの凄く重大だという。
皮膚は全身を包んでいる。
重大なのは皮膚は心理を宿すという。
これはドキッとする。
英語では皮膚はskin≠フ一語である。(81頁)
ところが日本人は「皮膚」と「肌」を使い分ける。
ちゃんと使い分けているが、自分で意識していない。
自分の足の裏とか自分の基盤を支えるものを「皮膚」という。
そこに心理が入ってくると「肌」と呼ぶようになる。
「肌」はやはりスピリッツとかマインドがこもる。
こんなふうにして日本人というのは呼び名を変えた。
てのひら、足の裏など、生存の基盤を支えるものは肌とは呼ばない。
肌には心理・直感・スピリッツが宿る。
「肌が合わない」−中略−
「肌で感じる」−中略−
「ひと肌脱ぐ」−中略−
「職人肌」(80頁)
その人の気質とか人生を貫くその人の生き方、それを「肌」と呼んだという。
ところが外国は他者との境界線、自己の外側「out of rim」。
それを「skin」一語のみ。
だから日本人は「肌」と「皮膚」を持っている。
「皮膚」はある意味では西洋型、これはskinと同じで個人主義という意味で。
アメリカ社会に於いて人種を分けて、いつも騒動を起こしているのは「皮膚の色で人を分ける」という。
日本では集団も肌が決定するが、著者はここで日本人の集団主義というのは「肌」であるという。
先生はこんなことをおっしゃっている。
社会学者の濱口惠俊は、日本人の人間関係の特徴について、−中略−
各人が互いに仕事上の職分を超えて協力し合い、それを通じて組織の目標の達成をはかり、それが翻って自分の欲求を満たして、集団としての充実につながるのが「日本的集団主義」なのだという。(83頁)
異国は、西洋はどうか。
これは中国もそうだと思うが、個人というのは「個人」。
全体は関係ない。
これはもっとやかりやすく武田先生がいい言葉を見付けた。
西洋は「レゴ」。
あれが中国とかアメリカとか、西洋に於ける個人。
組み合わせによってロボットになったり恐竜になったりする。
ところが日本人は違う。
日本人は「ジグソーパズルのワンピース」。
だから「ワンピース」はヒットする。
つまり、レゴは一個でも「黄色いレゴ」「緑のレゴ」「赤いレゴ」「この形のレゴ」。
それが個人。
それが組み合わせによって。
だが、日本人の場合はジグソーパズルのワンピースだから、全体があって、そこにはまり込む個人。
一個だと何だかわからない。
だから「自分は一体何者か?」というのを日本人が考える時に「全体の中のどこの部分だ」ということを考える。
それが重要とか重要じゃないとかじゃなくて「全体の中の自分はあそこで、それを富士山のてっぺんの絵を自分は持ってる」とかというのが個人の生きがい。
これは上手い。
これは自分で必死になって考えた。
このあたりから日本人の集団の在り方というのを考えてみましょう。
日本人はジグソーパズルのワンピース。
全体像の中で個人を捉える。
そういう発想が日本の文化の中にあるのではないだろうか?
これはある意味では否定的な意味合いでは戦時、第二次大戦中。
日本軍国主義が野蛮なサムライ主義だったワケだが、ちょっと違う転用の仕方をするとサッカーでは「サムライジャパン」となると、スペインは破ってしまうわ、ドイツは破ってしまうわ、そのジグソーパズルのワンピースがレゴグループの人達を撃退する
この相互に信頼して助け合う価値観を「間人主義」というのだ。(84頁)
そこで武田先生が言うのは最近のいわゆるスポーツ選手、スポーツアスリート達の世界での活躍。
大谷翔平、ダルビッシュ。
メジャーリーグにもまだいっぱいいる。
敢えて二人だけ挙げておく。
羽生結弦。
サッカーに戻る。
堂安(律)、田中碧、前田大然。
ウインタースポーツ、平野歩夢。
それからアーバンスポーツ・都市型のスポーツで西矢椛(もみじ)、四十住さくら。
そういう方々は非常に優れたアスリートで、パッコンパッコン金メダルを獲る。
武田先生が中学生の頃にやっていた東京オリンピック。
もうあれだけの(メダルの)個数で精一杯だったのに、遥かに凌駕する勢いで。
もちろん種目もいろいろ増えた。
それは一体何か?というと「皮膚だ」「肌だ」といって乾布摩擦ばっかりやっていた。
乾布摩擦で強くなると信じていた。
ところが今、乾布摩擦をやっているアスリートなどいはしない。
そこで武田先生が思ったのは「日本人がこれだけ強いというのは、肌が敏感なせいではないだろうか?」「本当の意味で皮膚が強い強いせいではないだろうか?」。
ここから武田先生のアレ。
(山口)先生はこんなことを書いていないから。
肌が美容とか容貌ではなくて、感覚器としてセンサー、物事を感じるセンサーとして優れたものを持っているのではなかろうか?
「間人主義」の日本。
世界の見方も間人主義。
米国の心理学者リチャード・ニスベットは、日本人と米国人に、アニメの魚が泳いでいるシーンを見せ−中略−
何が見えたか答えてもらった。すると米国人はまず大きな魚に注目して話し始めたのに対して、日本人はまず背景とシーンの全体について語り、大きな魚にはたいして注意を払わなかったという。(92頁)
この「全体を見る」というが日本人の中にある「場の空気を読む」。
こういうところに日本人の感性があるのではないだろうか?
日本だと「空気が読めない」と言うが、海外ではそういう単語がない。
個人は肌から入ってきた「場の空気」をどう理解していくかというと、場の空気を触覚で表現する。
「サラサラしてる」とか「ツルツルしてる」とか「ゴツゴツしてる」とか「ゴワゴワしてる」とか、そういうことを場の空気を触覚で感じ取る。
だから、日本の優れたアスリートは触覚のセンスが優れているのではなかろうか?
これが武田先生の意見。
西洋のカップと異なり、日本の漆器などの湯飲みには把手がついていない。それは意図的に把手をつけないことで、中身の温度も手で味わってもらう意図があるという。その微細な感触は、文豪谷崎潤一郎の小説『陰翳礼讃』の中にも見事に叙述されている。(96頁)
「ぬくもりも味のうち」とか。
やはり紙コップは嫌。
ドラマがまもなく終わるが、それに出ていて若いスタッフと一緒に不気味なエグい番組を。
その中で誰かと武田先生が対立する役か何かで。
その若い監督さんが「正面に立って言って貰えませんか」と言う。
その時に武田先生が「ウソだ」。
元々ドラマというのは嘘なのだが「そこまで嘘をやったらやり過ぎだよ」と言った。
日本人は何かを論争する時にお互い顔を向け合わない。
ちょっと皮肉っぽく「アンタ洋画の見過ぎだよ」と言った。
「俺達は横並びでお互いを語り合う。対面しない。そういう文化なんだよ。アンタも映像作家を目指して一生懸命勉強してるんだったら、昔の作品で小津安二郎とか見てごらん。見つめ合ったりしないよ。プロポーズする時に、相手をジーッと見てるなんていうことは、日本人で在り得ない。寅さん見てごらんよ。博がさくらに惚れて告白する時に、とんでもない方角見ながら『アナタのことが好きだ』と言う。それが日本人じゃないの?」という。
「ドラマは嘘をつくるんだけど、俺達は日本人の嘘をつくらねばならない」と言ったら「なるほど」とかと言ってくれたので、その後彼が言ってきて「小津安二郎と山田洋次を見てみます」と言ったので無駄ではなかったなと。
これは皆さん申し訳ありません。
そう思う。
目を合わせないということが、どれほど逞しく二人は結びつくかという。
この本の山口教授がそのことをお書きになっていたので、凄く嬉しかった。
こういう話を若い監督さんにしてあげればよかったのかな。
それは欧米と日本では子供の抱き方が違う。
水谷譲は相当アメリカンナイズされておられるから、子供は胸で抱えた。
いわゆる「抱っこ紐」。
欧米にはない日本の育児の伝統に「おんぶ」がある。(103頁)
これは何かというと、前で抱いてしまうと母の顔しか見えない。
だからずっと母の表情を見ることになる。
ところが日本は昔から「おんぶ」という習慣があって、背中に子供がいて、子供の視線は180度見渡せる。
フランス人、アメリカ人がおんぶをしているところを見たことがない水谷譲。
おんぶというのは赤ん坊の視線の自由度を高める。
おんぶをされたら何を見てもいい。
そのくせ、肌はぴったり背中にくっついているという安堵感があってお互いを見つめ合ってお互いを知るのではなくて、親子が違うものを見てお互いを結び合わせるという。
映画の作法から入ったが、皆さんどうお思いになります?
「アンタは古いよ」とおっしゃる方はどうぞ近頃の恋愛映画がテレビでやっているのがある。
あれを見てそこが引っかかる。
見つめ合わない。
絶対嘘。
自分のプロポーズだってよく考えたら、相手が背中を向いた瞬間に言っている。
一番大事なことを言う時、相手を見ない。
それが「日本人のコミュニケーションの取り方ではないだろうか?」という。
日本人のリアリティーはそこにあるのではないか。
ドラマは嘘をつくってゆくのだが、その嘘をつくる時の作法としてその民族のリアリティーを込めるという。
それをすっ飛ばしてしまうと甲斐がないような気がする。
日本人の感性の中で全体のバランスを見る。
それが日本人の特性になっているのではなかろうか?
責任感・正義感というのは個人が持っているものではない。
「間人主義」
全体が持っているもの。
それと自分を結び付けてつくっていくという。
それが日本人の特性になっているのではなかろうか。
この「全体を見る」というのがワリとボロクソに言う方もいらっしゃるかも知れないが、日本人の中にある「場の空気を読む」、そういう感覚のセンサー、感じ方というのはもの凄く大事で。
何で皮膚にこだわったか?
最近優しくなでられりしていない寂しさが武田先生の中にあるのではないかと思う水谷譲。
そうかも知れない。
私達は撫でられるチャンスがどんどん少なくなっている。
たまに撫でられると、内視鏡の検査をした時にトントントンと看護師さんやってもらうと「ありがとう」と思いながら安心する水谷譲。
それだけでも嬉しい。
それは撫でられるチャンスがどんどん遠のいてゆく老いの身であるが故に、皮膚と肌で感じたことをもう一回取り出して、スキン、皮膚や肌への枯渇というか、そういうものがあるのかも知れないなと思ったりする。
来週、相当山口先生の説を離れて武田先生が自説を披露する。
これはちゃんと言うので。
(山口)先生のお考えではないのだが、先生の話を聞いているうちに「あ!あれがそうでこれがそうだ」と思ったことがある。
それを披露していく。