これはもちろん元ネタがある。
いい本。
晶文社、(著者は)樋口直美さん。
この人の前の著作をさばこうかなと思っていた一冊が「誤作動する脳」。
(番組の中で紹介している話が、『「できる」と「できない」の間の人』の中にないものが多数あるので、この本からの引用も含まれているかも知れない)
読んでいて面白かったのだが、それのみだったもので「(今朝の)三枚におろし」が辛くて手が出なかった。
そういうのがある。
出会い方というのがあるので。
ところがこの本は包丁の入り方がいいとスーッと切れるという、もの凄くよくわかる。
この樋口さんの著作は『「できる」と「できない」の間の人』。
暮らしの中にできることとできないことがあるという。
そういう方。
樋口直美さん。
50歳のとき、「うつ病ではなくレビー小体型認知症(レビー小体病)だった」と医師に言われた。(5〜6頁)
脳の障害は様々ある。
脳はどこを悪くするかで機能障害がいろんなところに病態として現れるという複雑。
このレビー小体型認知症というのは幻覚、嗅覚障害、自律神経の失調に苦しむ。
レビー小体型認知症、そういう病を、脳の方の障害を持った方がお書きになったエッセー集。
その悪戦苦闘が書いてあるのだが、読んでいるうちに不思議な気分になってゆく。
病のその世界が本当に、読んでいたら面白いというか、何かいろんなことを考えさせる。
この方の書かれた文章。
ひどく納得させられた一文。
コロナ禍、大変な時期があった。
皆さんも三年間お過ごしになったでしょうけど。
老介護の現場で老人との接触が厳しく規制された。
ビデオ電話を使ったオンライン面会をあちこちで試み始めた。−中略−
介護現場もギリギリの人数で仕事をしていて余裕がない。介護されている人たちが日常的にパソコンやタブレットに触れられる介護施設もほぼなかったと思う。(25〜26頁)
不安になり泣いて電話をかけてくる認知症の母に「お母さんテレビつけて」と伝え、それぞれ電話を片手に違う場所で同じ番組を見る。料理番組を見て「美味しそうね」と言い合い、動物番組を見て「可愛いね」と言い合う。オンラインで通話ができない親にもできるし、精神安定にもなってお勧めと知人が紹介。(27頁)
この人はこういうコロナ禍でもいわゆるオンライン面会ってありますよというのをSNSに上げたらしい。
このツイート(投稿)は、−中略−
(2022年2月時点で、102万人に読まれている)(29頁)
いいことをおっしゃる。
私たちが求めているのは、顔でもなく、会話でもなく、ただ一緒にいてくつろげる、柔らかな空気なのかも知れない。(30頁)
だから「コミュニケーションコミュニケーション」とかと言うが、そこに何気ない当たり前の会話があれば「今日は暑いね」「ホント、今日は暑いね〜」「いやぁ〜もう今、いい風が吹くよ」「そうだ。風が気持ちよく吹く季節になった」。
そういう会話があれば人間というのは落ち着くものである、と。
つまりこの手のアイデアというのは「病を持った人の発想の方が素晴らしいのではないか?」という。
だから世界というのは、世間というのは「できる」という人と「できない」という人が織り交ざっていないと進んでいかないんですよねぇという。
とてもアナログな方法だがちゃんと共有できると思う水谷譲。
最近、現代、昨日も何か金髪の人、お笑いの芸人さんが「一緒に学ぼう」という番組をとある局でやっておられて、あの中で言っていたが、オンラインでの会話というのは感情が動かないから殆ど頭に残らない。
(
「カズレーザーと学ぶ。」を指していると思われる)
オンライン会議も余り頭に残らないことが多かった気がする水谷譲。
武田先生もオンラインで出演したが、何を喋ったか。
テレビの中にオンラインで自分が登場するというのは何だか残したその足跡というか、爪が深く入らなくて。
そしてこの方、この著者の樋口さんはおっしゃっているのだが、コロナパンデミックの混乱というのは、認知症の人にとっては本当に大変な時代だったとおっしゃっている。
どの人も症状を悪化させたのではないだろうか?という指摘があるぐらい。
樋口さんの『「できる」と「できない」の間の人』。
時間の感覚の消失、これがいわゆる認知症とかレビー小体型認知症の人の特徴。
だからいつも認知症のチェックで「今日は何年何月何日ですか?」と訊くところから始まる。
ところがコロナパンデミックの混乱の時、著者が嬉しかった。
三年間のコロナ規制というのは家庭の中にいて、家人と共に日々を過ごすと本当にそうだが曜日の感覚が全くなくなって。
このレビー小体型認知症という病と、症状と同じだから。
「今日、日曜だっけ?ああ、日曜か」みたいな。
もう息苦しさがなくなって。
これは病にならないと気づかないが、樋口さんはおっしゃっている。
時間というものを掴まえていることが正常なのだ。
感覚を掴まえられなくなったら、もうそれは認知症の病態と同じなのだ。
「無人島で一人で暮らしていたら、『性格』は存在しない」と昔、本で読んで、びっくりしたことがある。時間もまったく同じだった。無人島に「時間」はない。(36頁)
想像もつかないが、そのレビー小体の方に障害があると、著者の時間感覚というのは伸び縮みするそうだ。
近い昨日が遠くて思い出せない。
お年を召した方はだいたいそう。
古い記憶が、身体の感覚と一緒になってリアルに蘇るということも起こるようになった。(38〜39頁)
そういう時間感覚の遠近感が変わる。
正常とは何であるかというと遠いものはおぼろに見えて近くのものははっきり見える。
これは何を意味しているかというと時間の感覚が一本の軸上にズラーッと並んでいる。
ところが脳の方に障害があると遠くが近くに見えたり近くが遠くに見えたりするという。
レビー小体型認知症では、−中略−
自律神経が障害されるために、立ちくらみや湿疹、体温調節の困難、−中略−
多種多様な体調不良が起こりやすい。(84頁)
幻視、錯覚もある。
黒いバッグが黒猫に見えたり、ベランダに干してある夫のシャツが、そのシャツを着た男に見えて、一瞬心臓が止まりそうになる。これは錯覚。一種の見間違え−中略−
どちらも本物にしか見えないので(102頁)
だからレビー小体型認知症という病名をいただく前はもう悲鳴を上げていた。
ところが人間というのは凄い。
そんな幻視、錯覚など、もうすっかり慣れている。最初に見てから20年、頻繁に見るようになってから10年近く。もう長いつきあいだ。
今は、あっても当たり前のものとして、大事なく共存している。(102〜103頁)
だからフッと見たら、ベランダに知らない男がこっちを見て笑っている。
じーっと見ていて「あ〜幻視だなぁ」と思って。
ちょっと間を置いて見るといなくなる。
カーテンのシワが苦悶の女の表情に見えたりという、そういうことは普通の人間にもある。
レビー小体型認知症の幻視、錯視、それから音に関しても聞こえていないのに聞こえるという。
樋口さんがそういう誤作動というのは「あれ?」と思う。
「私と同じように猫が見えたりベランダに知らない人が立ってたりって、そんなことを文章にした作家さんっていなかったかな?」
その人の文章を挙げてみる。
皆さん全員知っている人。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。(宮沢賢治『注文の多い料理店』序)
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。(宮沢賢治『注文の多い料理店』序)
これはレビー小体型認知症の症状にそっくり。
宮沢賢治。
風が吹いてくると、風に飛ぶガラスのマントを着た少年が見える。
夜空を見上げると星空をSLが走っている。
この樋口さんがおっしゃった「もしかすると宮沢賢治ってレビー小体、認知症の病の人だったんではないだろうか?」という。
そうすると樋口さんのギクリとする一言。
「もしかすると病は才能かも知れない」
レビー小体型認知症という病を持っておられる樋口直美さん。
その樋口さんの方から「宮沢賢治の持っている空想力はレビー小体型認知症という病によく似てるんですよ」という。
ゴーと風が吹くとその風の中に空飛ぶ少年が現われて「どうどどどどう」と言いながら飛んで行ったり、汽笛が鳴ったなと思って星空を見上げたらSLが空中を飛んでいるとか。
想像だけでは書けない世界、変なリアリティもあると思う水谷譲。
宮沢賢治はそのリアリティがもの凄く生々しい。
「本当に見たんじゃないか」と思うような文章。
風の又三郎。
一郎が道に迷い込んで断崖絶壁の方角に。
そうしたら風がゴウと吹いて草むらが揺れるのだが、草むらが声を発する。
風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。(宮沢賢治『風の又三郎』)
雲が出てきたなと思ったらパチパチパチ・・・
風がドウと吹いたらあの転校生の三郎が草むらに立っている。
ジーッと天空を見上げて。
そのへんが余りにもリアル過ぎて怖くなる。
こういう幻視、幻聴の作家さん達はもしかすると、こういう病を持っていたのではないだろうか?
芥川龍之介の河童とかを見ると、何か見たこともない河童が目の前にいて「オマエら人間とは・・・」とかと語りかけてくるような凄みを感じる。
樋口さんがおっしゃるのだが「こんな病の私がこんなことを言うのは何ですけど、病の中には才能と呼べるものもあるんじゃないですか?私はレビー小体認知症という病ですが、病の中に才能と呼んでもいいものがあるかも知れませんから病でひとくくりにしないでください」という。
「土を触ると体が整えられる」と、昔、鍼灸の名人から伺った。(95頁)
歳を重ねると陶器を造ったり、農作業をされたりという人が多いと思う水谷譲。
もの凄く恋しいと思う武田先生。
老人というのは土に接近していくもの。
だから霊園に行って石を見ていたら落ち着いたというのは・・・
とにかく樋口さんの大事な話を続ける。
そのことを聞いたもので、(樋口さんは)自分は病ながらプランターで小さな家庭菜園を始めた。
そうすると病もあるのかも知れないが、植物が声をかけてくる。
(本によると声そのものが幻聴のように聞こえるという話ではない)
「喉が渇いたよ」「ちょっと暑いよ」「今日は元気だよ」−中略−
「日陰の方がいいな」。プランターや植木鉢から毎日話しかけてくる。(97頁)
樋口さんはそういう体験をしながら、植物と会話ができる能力なんていうのも、それは病かも知れないが、病でなくそういう才能というのはあるのかも知れない。
先日、家庭菜園をAIが指導するというニュースを観た。水やりも肥料をやるタイミングも、すべてAIが判断して教えてくれるという。(96頁)
この樋口さんは断固としておっしゃっている。
「植物には人間との会話が必要なんです」
その情感は温度ではなくて「暑いね」「今日は寒いね」「日差しがまぶしいね」というそういう会話がならない限り成立しないんだ」と
生命と生命というのは。
とおっしゃっている。
そのあたり、私達は考えましょう。
染色と機織りで人間国宝となった志村ふくみさんが−中略−
「新月に仕込み、満月に染めると美しく染め上がることを見つけた。(100頁)
これはもちろん体験で得たことなので「科学的ではないかも知れないが、でも、染め物はやはり、自然と足並みを揃えない限りいい作品はつくれませんよ」という
1本の草や樹の向こうには、宇宙がある。(100頁)
人とは違うリズムで生き物たちもそのリズムの中で生きている。
そこに繋がらない限り、上手く会話できない。
病というのはまことに不思議なことにその植物と会話するとか、自然と会話するという能力のスイッチになってくれるという。
だから、認知症というのはもしかして、命の夜に満ち欠ける月かも知れないという。
これはなかなかいい言葉。
こんな言い方は本当に失礼なのだが、病というのがいろいろ教えてくれるものがあるということで。
樋口直美さんの『「できる」と「できない」の間の人』。
「脳は時間をさかのぼる」という副題が付いている。
その脳にまつわる不思議なお話をしている。
この樋口さんはレビー小体型認知症という病で、アルツハイマーはアミロイドβという脳に詰まるタンパク質がある。
これが脳の血管の中に溜まると認知症という記憶障害等々が始まる、性格も変わってしまうということなのだが。
ではレビー小体型認知症とは何が違うの?
これは血管の間に詰まるものが違う。
「レビー小体」:α(アルファ)-シヌクレインを主とするたんぱく質が、集まったもの。脳だけでなく全身の神経細胞に溜まる。「レビー小体」の蓄積によって起こると考えられている病気の総称が、レビー小体病(パーキンソン病、レビー小体型認知症、他を含む)。−中略−
「レビー小体型認知症では、視覚を司る後頭葉の血流が低下するために幻視が現れる」と説明されることが多い。(111頁)
脳のどこにタンパク質が詰まるかで病態が変わる。
とても不思議な病態というか、病を引き起こすそうで
がんが脳に転移した人を二度見舞ったことがある。
「あなたのことは、覚えていないけど、あなたが持っているその動物の柄の布カバンは、見覚えがある」と言われた。(137頁)
本人を忘れても、その人が持っていたカバンが記憶としてあるのでその人と認知できる。
「認知症になると家族の顔も忘れる」とよくいうが、私は疑っている。顔認識機能がうまく働くなっていて(原文ママ)
、「不一致」と、脳が誤って判断している可能性がある。(137頁)
例えば息子がいる。
息子の顔に見えない。
だから「自分の息子じゃない」と思いつつも、なぜか「息子」と呼ぶ人がいる。
一体どこでわかっているのか?
それは、どうも小さい時の顔を覚えているらしい。
小さい時にその子のことを「なっちゃん」と呼んでいた。
なっちゃんも老人になった。
それでも「なっちゃん」と呼び続けると顔は忘れても、「なっちゃん」で振り返るその子は小学生の時の顔で思い出す。
成人した顔の記憶と子供の時の記憶と別場所にあるらしい。
だから、顔認識機能がストップして身内かどうかもわからない認知症というのも「そう簡単にはくくれませんよ」という。
別個の本だが、アメリカの患者さんの中で脳の病の中で、自分の奥様だけが麦わら帽子に見えるという人がいた。
とにかく奥さんが入ってくると大きい麦わら帽子が入ってくる。
麦わら帽子が入ってきたら、それは奥さんだから「奥さん」と呼ぶ。
だから最初はなかなかおっしゃらなかったらしい。
ちょっといろいろあって「本当のこと言うと、アンタのことは麦わら帽子に見える」。
だから妄想とか理解力低下とか、そんな言葉で簡単にいわゆる認知の問題、脳の世界のことを断定するけれども、成長した子供の顔は忘れても幼児の頃の記憶は脳の別場所にちゃんと保存されているという。
それから、幼い頃にそう呼んでいたという呼び名で名乗るとその扉が自動的に開くという。
だからそういうところをきちんと使い分けた方がいいのではないだろうか?
不思議な世界だと思う水谷譲。
来週の分まで言ってしまうと、身と心があるとすると「身の中に心がある」「心の中に身がある」、そんなものではない。
武田先生が今、一番興味を持っているのは、大好きな大学の哲学の先生もおっしゃっているのだが、人間はやはり我が体の中にもの凄く不思議な世界がまだあって発見されていない。
それを発見する為には歳を取るしかない。
若いうちはダメ。
自分が使っている部分が自分だと思っているから。
歳を取って使えない部分が出てくると使えない自分に他者を感じつつ、それも自分。
今凄くいいことをおっしゃっていると思う水谷譲。
今日はノートに書き記した方のネタを使っている。
新聞の切り抜き等々もあるし
本の印象、それから印象から自分が「こう考えるんだ」みたいな。
その切り抜きの中でこんな歌はどうですか?
短歌。
百歳の母とふたりで車椅子なさけないのか幸せなのかこの作者自身は84歳だそうで、百歳の母親と車椅子で二人で散歩しているという。
これはジャッジしなくていいじゃないですか?
「情けなくて幸せ」なのだという。
それから短歌の中でドキッとしたヤツ。
いささかの疑ひも持たず口あけてわれの与ふる薬を飲む夫「老いては妻に従え」と言うが、すっかり妻を信頼しきって、ただ口を開けて女房が入れてくれる薬を飲み下すという。
「何だ、いつでも殺せるな」という。
でも、これも幸せ。
薬か毒かわからないようなヤツを奥さんに飲ませてもらうという幸せもある。
だんだんそういう心境になってきた。
レビー小体型認知症を紹介している。
でも、病の本は面白い。
ごめんなさいね、病気の方。
ただ、やっぱり病の方が積極的にこうやって本を残してゆくということは、日本の重大な財産。
その人にしかわからない。
だから自分の病を何も内側に捉えることはない。
書いて残しておいてください。
そこから人間に関する、或いは、医学的な意味合いでも重大な発見があるかも知れないので。
漁村の習慣でいたく感動したのだが、小さな漁村があって、父母を失うという子供が出てくる。
そういう子が出た場合は、その村の共同体でその子の面倒を見る。
特別の学問とかはさせられないが、漁村なので船に乗せて漁師としての手伝いをさせて仕込んでいく。
そういうことを「えびすさん」と呼んだらしい。
何か福祉政策とかと言うと堅苦しいのだが、貧しい子とか食事がきちんと行き渡らない子に後に幸せを持って帰ってくる「えびすさん」という呼び名を
病、レビー小体型認知症という認知症を患っている著者だが、しかし「がんばる」とか「がんばらない」とか、「できる」「できない」とかいろいろあるかも知れない。
でも「何が幸せなのかジャッジするのはやめましょう」という。
その不幸になったばっかりに幸せになるという人がいる。
「その幸せを継いだばっかりに不幸になった人が何人もいるんですよ」
いっぱいいる。
お母様かお父様の跡を継ぐ勢いで芸能という世界に入ってきて、一体何人の人が躓きましたか?
何人も見てきた。
有名な俳優さんのバカ坊ちゃん。
この樋口さんがとても励まされるというアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉をご紹介しましょう。
主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え(156頁)
変えられないものはある。
できないことはある。
だから「できない」ということを静かに引き受けるという心でありたい。
「これはできる」と思ったら、その「できる」をどこまでも成長させる勇気、そして「できる」「できない」を見分ける知恵を、英知を私に授けてください。
忍耐や努力では開かない扉もある。
一番大事なことは何か?
これはやっぱり強烈な樋口さんからのメッセージ。
このレビー小体型認知症という病と樋口さんの言葉を噛み締めましょう。
「みっともなくていい。『生きてゆこう』そう思うこと。これが一番大事なことなんですよ」
それからもう一つ。
内田樹師範の名言。
樋口さんのも好きだが内田先輩の言葉も大好き。
「一番大事なのは生命活動の中心にあるもの、それが大事なんだ。生命活動の中心にあるものは何だ?『生きていく力』じゃないか?」
ちょっと力んでしまったが、そういうことを思わせてくれる樋口さんのいい書物。
こういう方がいると病についてもいろいろやっぱり深く物事を考えるようになる。
来週は樋口さんから始まって次の病の方に。
来週はその次の病の方を紹介しつつ。
というワケで来週も引き続き「できる」「できない」の問題を考えていこうと思う。