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2023年11月18日

2023年9月25日〜10月6日◆できる・できない(後編)

これの続きです。

『「できる」と「できない」の間の人』というタイトル。
(著者は)樋口直美さん。
昭文社。
この方の本を取り上げている。
彼女自身はレビー小体型認知症という幻覚が見えたり幻聴がしたりという、そういう脳の病を抱えておられるのだが、その自分の病と付き合いながら「病の中にも才能と呼べるようなものもあるのではないだろうか」という、冷たい水の中に砂金を見つけるような一冊。
そしておっしゃっているのが「こうあるべき」とか「正しい」ということはこういうことだとか自己責任だとかいろんなことがあるが、「命にとって一番大事なことはみっともなくてもいい。生きてゆこうとそう決意した命」という
内田樹先生がおっしゃっている。
「一番大事なのは生命活動の中心にあるもの。そう『生きる力』。それをどう励ますかなんだ」という。
力強い言葉。

「認知症」といってもその原因となる病気は、60種類以上ある。一番患者数が多い病気がアルツハイマー型認知症、次に多いのがレビー小体型認知症ということになっていて(161頁)

とにかくその原因は一つではない。
全ての認知症のスタートは物忘れ。
ものだったらいいのだが重篤になると生きていることさえも忘れてしまうという病態まであるということ。
これは凄いことに老いても若くてもなる人がいるという。
この著者の樋口さんなんかもそう。
若いうちにレビー小体型認知症と言われている。
現代と昔を比較してみましょう。

100歳は、−中略−1963年には全国で153人だったようだ(162頁)

戦争が終わって15年ぐらい。
昭和の真っ盛りの頃。
それはやはり長寿長寿ともてはやされたものだ。
ところが現代は

100歳は、−中略−8万6千人もいる(162頁)

そんな時代。
我々が生きているのは
もう長寿というのは奇跡でもなんでもなくなったという

1962年の平均寿命を調べると、66歳だ。(163頁)

もうお年寄りが少ないものだから「ボケた」とか「モウロクしたねぇ」とかという乱暴な言葉にできたのだが、もう今はできない。

日本の90歳以上の女性の認知症有病率は71.8%。(169頁)

認知症の最大の困ったところはとどのつまりは人間関係。
人に対して反応できなくなる。
認知症に於いて重大なのは何かというと「居場所があるかどうか」。
昔は認知症になっても居場所がいっぱいあった。
居場所がある。
家の中にいればよかった。
「ボケ」とか「モウロクした」とか言うが、そのことは病気ではなかった。
その一例として昔なんか婆さんとか爺さんがボケたことを言うと「天声語使い始めた」という。
天の声を使い始めた。
つまり爺ちゃんとか婆ちゃんはもう、だんだん死ぬのが迫ってきたので天での会話を現世に持ち込むようになったという。
「天声語、天声語」と言っていた。
だからモウロクとかボケというのはちっとも不吉なことではない。
もう「当然だ」という受け取り方があった、
ところが最近はやっぱり人間関係、対人関係に於いて症状の一つなのが物が無くなると「取られた」と怒る。
そのことあたりが人間関係を波立たせるワケだが。
「取られた」という人は初めから無かったという事態が想定できない。
だからどうしても結論は「アンタが盗んだんだろう」なんて言いながら嫁さんに喰ってかかるものだからトラブルがという。
暴言がある。
暴力、暴れたりなんかなさる。
それから幻覚がある、妄想がある、そして徘徊がある。
これがやっぱり「異常、異常」ということでひとくくりにされる。
でも、間違いなく言えることは百歳まで生きればほとんどの人は認知症になる。
軽度を横に置いておいて。
老いの先に待っているのはその姿。
それは命のゴールの証。
一番重大な共通点は死に対する恐怖感がゼロ。
幻覚とか幻聴とかということをしきりに言っているが、そのほかにもまだまだ脳には不思議な側面がある。
認知症の問題点は脳を調べると「これが主な原因である」と断定できないという。
脳の部位によって全く違う症状が出たりなんかするものだから特定できない。
一つの理屈で脳を説明することは不可能。
脳の中にあるのはもしかすると様々な扉。
それが脳の中にあるのではないだろうか?
その中の一つに宮沢賢治のイーハトーブに通じるような
それから芥川龍之介のように架空世界と現実世界を比べるというような「河童」の世界に招いたりという
いずれも脳の扉。
どの扉に辿り着くかで不思議な世界というのが変わってゆくという。
失礼な言い方ながら病の人の文章というのはまことに興味深いもの。

今日からご紹介する方は別の病の方。
前に一回取り上げたことがある。
潰瘍性大腸炎。
この病のすさまじさは何かというと、腹痛、血便、下痢で。
最も鬱陶しいであろうことだが、下痢が自分で制御できない、コントロールできない。
成人男子でありつつ、便を漏らしてしまうという粗相の屈辱に耐えなければ生活できないという。
それから食事も自由に摂れない。
だからサラリーマンで「メシでも喰おうや」というのが社交の第一段階。
でも、世間のものを食べると下痢がいつ始まるかという
頭木弘樹さん、創元社から出ている「自分疲れ」。

自分疲れ: ココロとカラダのあいだ (シリーズ「あいだで考える」)



これもなかなかの興味深い本。
この方の文章の中で前にご紹介したヤツ(「食べること 出すこと」の回のことを指していると思われる)で一番切なかったのは病院に行く。
診察を受けているその隙間に下痢をしてしまう。
これは凄く切ない。
自分で自覚できない。
サラサラと水のように肛門から糞便をしてしまって。
発見した看護婦さんにモップを差し出された屈辱。
この時この方は二十歳だから。
この病は辛かったろうなと思う。
頭木さんがおっしゃるのに、この潰瘍性大腸炎というのは悪化と軽快、普通の人の生活ができるという、それを繰り返す。
だから軽快になった時に「治った」という実感がある。
ところがまた元に戻ってくる落胆というのがもの凄く不快らしい。
さっぱり従ってくれない体に対して心の自分が疲れてしまうという。
その本のタイトルが「自分疲れ」。
このタイトル「自分疲れ」。
表題はまことに説得力がある。
著者はその書物の中でこんなことを言っている。

 健康なとき、人はほとんど体を意識しない。
 胃が痛くなって、初めて胃を意識するように、不調になって初めて、その臓器の存在を意識する。
 つまり、体についていちばんよく知っているのは、体に問題が起きた人なのだ。
(9頁)

武田先生はその典型。
内臓が丈夫なばっかりに。
胃なんか意識したことがない。
だから心臓もそう。
(二尖弁が発見された時に体調の変化は)何もない。
日常の生活は無理でも何でもできる。
現実に無理をしていた。
昼夜二回公演の大衆演劇の舞台とかで四十数ステージとかというのを二十日間ぐらいでやっていたから。
これはもう一日の労働時間は十数時間を超えている。
そんな暮らしをしても心臓に異常を感じることはない。
お医者さんから言われた時は「オーバーだな〜」とかと思っていた。
ちょっと鼻風邪を引いた。
それが風邪なのかインフルエンザなのか。
ドラマをやっている最中だったというので、スタッフの一人が「インフルエンザじゃないっていう証明だけ欲しいんですよ」と言ってロケ地の先の市民病院にいやがる武田先生を引っ張っていった。
そうしたら若いお医者さんだった。
聴診器を胸に当てながら「心臓に異常ありません?」という。
若い医者だが凄く耳のいい人というか、腕のいい・・・
その心臓の鼓動だけでポンプが送り出した血がどこかの弁で逆流している音が心音として聞こえた。
それで「半年に一回必ずテストを受けてくれ」ということになって、心臓の様子を記録する機械を付けたり。
一番最後は麻酔をかけてチューブを入れて覗くという。
泊まり込みでやったのだが。
あの不安な日々・・・
そこでわかってよかったと思う水谷譲。
わからないままだったらどうなっていたかという。
それで半年に一回行くうちにお医者さんがわかりやすく信号の色で説明してくれる。
黄色点滅から始まった。
「黄色点滅ですよ」
だから「徐行」。
その次が「黄色」。
それで「赤点滅」と言われた。
「命に関わるんでどっかで決心してくれ」という。
そのお医者さんも、もの凄くいい方で「私が信用できなかったらセカンドオピニオンで訪ねてください」と。
そうしたら「うちの病院に腕のいいのがおりますんで、その彼に相談してください」と。
この執刀医の先生がよかった。
感謝している。
疑問は「自覚症状も何にもないのに、何で『手術しないと死にますよ』なんて言われるんですか?」と。
そうしたらそのお医者さんは「心臓はねぇ、武田さんに似てるんですよ。頑張り屋さんなんです。弱音を吐かないんです。吐いてくれるといいんですけどねぇ」と言われた時に「いいかぁ。この人に付いて行こう」と思ってそれで手術を受ける決心をという。
十数年前の出来事だが、本当に健康な時に臓器なんか一切気にしない。
この方の言う通りだが、この頭木さんの潰瘍性大腸炎による気づきをご紹介していこうと思う。

病の方のご本。
頭木弘樹さん「自分疲れ」。
この方は潰瘍性大腸炎。
人というものを理解する為に人は人を身と心に分けた。
著者はそう言っている。
その二つの重なりを「私」と呼ぶことにした。
ところが心を頭脳として体との関係を考えても奇怪なことが起こる。
それがこの番組ではよく取り上げている「幻肢」。

「幻肢」とは、事故や病気などで手や足を切断した人が、まだ手や足があるように感じる現象のことだ。当人の感覚としては、手や足がちゃんと存在していて、動かすことができたり、痛みを感じたりするのだ。(38頁)

著者は「面白い体験」と言っては何だが、興味深い体験をこの本の中で紹介してある。
この幻肢というのは腕とか足ばかりではないんだ、と。
内臓にもあるんだ、と。

私は−中略−大腸を手術して摘出している。大腸がなくなると、どんな感じなのかなと思っていたが、手術後も変化がなかった。なんかごろごろしたり、大腸があるような感じがした。−中略−「もしかすると、大腸の幻肢かも!」と思いあたった。(39頁)

作家の内田春菊が、肛門での幻肢の体験をエッセイに書いていた。病気のため「肛門を閉じてしまい、左わき腹にストーマ(人工肛門)を増設しました」「が、手術が終わってしばらくした頃、もとの肛門部分が、お腹をこわした時のようにしくしく痛みだしました。−中略−「主治医に相談したところ、−中略−それは幻肢痛ですね。なくした腕や足が痛むという話があるでしょう。それと同じで、なくした肛門があるかのように傷むんです』(38〜39頁)

こういう幻視の痛みというのが内臓でも起こり得るという。
もの凄く乱暴に言えば「心と体は一致していないぞ」。
心と体がずれている。
それが「私」という事実なんだ、という。
だけど心にとって体はなければ困るし、体がないと心の不快という感情も湧き起らない。
どんなふうに考えればいいのだろうか。
考えてみれば心臓、肝臓、腎臓。
呼び名があるように、心もまた、呼び方が変わる。

心を指す言葉はたくさんある。
「意識」「魂」「精神」「頭」「脳」……
これらは同じことなのか?
それとも別のものを指しているのか?
(68頁)

「大和魂」だと突撃しそうだが、「大和心」だとお茶でもたてそうだ。(69頁)

今言ったのは覚えておいてください。
闘う時は「大和魂」とか「開拓者魂」とか。
ズルしない、正々堂々と戦う精神。
それから「アイツは頭がいい」とか「いや、彼切れるねぇとかというのは「頭」。
医学的には「脳」。
かくのごとく心の中にも様々な呼び名で呼ばないとピタッと納得できない心臓、肝臓、腎臓のような部分があるのではないだろうか?
基本的には全部「脳」だと思う水谷譲。
考えたり何だりするワケで。
人を好きになるのも脳。
それで心臓がドキドキする。
(脳と心臓が)結ばれている。
ところが何年か付き合ううちに全然ドキドキしなくなる。
あれは何なのだろう?
何十年も一緒に住んでいると「何だコイツは?」と思ったりするという。
ドキドキどころではない
「何でコイツと一緒になったんだろう?」なんて考えてしまう人間になってしまう。
それは一体何なのだろう?
武田先生はいつも思うのだが、日本の結婚式は上手くできているなと思うのだが、結婚する時に親族が打ち揃う。
それではっきり言って自分の惚れたその女はこんなに美しいのに「これが親戚?」みたいな。
「いいの当たった」とかと思う。
そうすると何十年か暮らしているとあの美しかった女房が、或いは格好良かった亭主がグングンその親戚になる。
一種若さが見せた幻覚みたいにして、その人の血脈を歳を取れば取るほど見せてくれる。
だからやはり結婚というのは凄く頭がしっかりした人はできない。
やはり勢いがないとダメ。
考えたら結婚というのは実は恐ろしいこと。
幻なのかも知れないと思う水谷譲。
やはり相手を誤解しないと、「この子は永遠にこの顔のまんまだ」とかと思わないととてもとても踏み切れるものではないという。
ちょっと話をもったいぶったが、興味深い症状・病態を皆さんにご報告する。

こんなことが世の中にある。
こっちの方がよっぽど不思議。
この本の70ページに「意識」という章がある。
(そんな章はない)
ここで頭木さんが報告しているのは事故などで頭を強く打った人の体験談。

『交通事故で頭を強打したらどうなるか?』(大和ハジメ、KADOKAWA)という、著者が実際に体験したことを描いているノンフィクション・コミックエッセイだ。
 著者はトラックとぶつかって、体のケガは軽症だったが、脳に損傷を受け、意識不明となる。
 そして、36日が経過し、「病院で目が覚めた」。
 彼はそう感じた。そのとき、初めて意識が戻ったと。
 しかし、じつは事故から14日目には、すでに意識が戻り、会話をしていたのだ。食事もし、リハビリもし、囲碁もし、ピアノも弾いていた。
(71頁) 

交通事故で頭を強打したらどうなるか?



「私は私を動かしている」というのは、この人にとっては事実ではない。
つまり人間は「意識=私」というのだが、彼の中の違う部分が先に目を覚まして、生命活動を開始し、趣味や娯楽に遊びリハビリも開始しているのだが、36日目に目覚めた今までを思い出させる「私」が目を覚ました時、その14日目に目を覚ました「私」がどこにもいない。
これは、重大なことなので警戒して言葉を使わなければならないのだが、まずは「不思議な出来事」でいいだろう。
しかし、こう考えたらどうでしょう?

「私の中」に脳という器官が存在するのではない
「脳」の一部の機能として私が存在するに過ぎないのだ
(72頁)

「意識=私」ではない。
「私」の中にいるのは一人ではない。

この「三枚おろし」でも取り上げたが三木成夫(みきしげお)という人間の生命進化を研究した学者さんがいらっしゃる。

人間の顔は、元は魚の鰓(えら)だそうだ−中略−人間では、元は鰓の筋肉だったものが、顔を覆い、表情筋になったのだ)。(74頁)

「台所でお魚をおろす時、このはらわたを出すでしょう。これが『内臓系』です」「そして残った食べる部分が『体壁系』です」(75頁)

これと同じように、生き物には「内」と「外」があるのではないか?
これは三木成夫さんという方がおっしゃっている。

「内臓系の中心に心臓が、体壁系の中枢に頭脳がそれぞれ位する」(ちなみに、死には「脳死」と「心臓死」があるが、それぞれ体壁系の死、内臓系の死ということになる)。(75頁)

だからこの頭を強く打った方の出来事というのは、先に内臓系が目を覚ました。
最初に内臓系が目を覚まして、その次に筋肉系が目を覚まして全部の記憶を・・・
これはまた話が出てくるが合気道というのはそういうことを教えてくれる。
「あなたはそんなふうに動きなさい。そしたら体はこう動きますから」
つまり「あなたがそう動けば体はそこからこう動く」という。
このへんが武道とよく似ている。
ちょっと合気道と混じってしまったが言いたかったことはそういうこと。

三木成夫さんという解剖学者で生命進化を研究なさった方。
もうお亡くなりになっているが、この方がおっしゃった名言をこの潰瘍性大腸炎の頭木弘樹さんが紹介しておられる。

切れるあたま≠ニはいうが、切れるこころ≠ニはいわない。また温かいこころ≠ヘあっても温かいあたま≠ヘない。つまり前者の「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する──一言でいえば、あたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。(76頁)

内臓とこころ (河出文庫)



「あたま」に住む「私」と内臓に住む「私」とは違うようである。
どうも「私」の中には様々な「私」が住んでいると思いましょうよ。
「切れるあたま」と言うが「切れるこころ」とは言わない。
「温かいこころ」はあるが「温かいあたま」はない。
これは人間、どこかで気づいているのだろう。
「いろんな側面があるぞ」という。

100歳の女性のこんなエピソードが載っている。
お婆さんは夜中になると2〜3歳の幼児になった。
「おかあさ〜ん、おかあさ〜ん」と今にも泣きだしそうな甘えた声を上げる。(中略)
−中略−
 夜勤者は22歳の女性。彼女はお母さん的対応をとった。
「どうしたの、フミちゃん」
 お婆さんは、「ああ、お母さん来てくれた!」と大喜びし、彼女の首に抱き付いた。そして、こうささやいた。
「お母さん、入れ歯がないの」
 このとき、この100歳の女性は、2歳でもあり100歳でもあったわけだ。
(84〜85頁)

すべての世代の「わたし」が生き続けているのではないだろうか。(85頁)

シンクロと自由 (シリーズ ケアをひらく)



考えさせられる文章。
頭木さんは食事や排便の苦痛を本の中で訴えている。
この病と共に生きねばならない苦痛を報告し、自分に疲れるのだが正直にそれを告白する。
そうすると少し自分が元気になるような。
武田先生も加齢の途上にあって時々歳を取っていく自分を暗く振り返ることがある。
加齢と共に暗くなる部分がある。
「でもね」と頭木さんがおっしゃって「私達は年齢を積み上げることによって年齢の分だけ心豊かにしてるから腹くくりましょうや」と。
著者は終わりにこんなことを言う。

「弱いロボット」をつくっている人がいる。
 そばにいる人が手助けをしてあげないといけないロボットだ。
 たとえば〈ゴミ箱ロボット〉は、自分ではゴミがひろえなくて、ヨタヨタしている。
−中略−
 ロボットがなんでもやってくれるのではなく、人のやさしさや能力を引き出すのだ。
 その弱いロボットをつくっている豊橋技術科学大学の岡田美智男教授
(148頁)

弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)



何かが上手くできない。
そのロボットを見ると人間は体が動く。
だからある意味でこれはリハビリに使える。
ヨタヨタ歩いているロボットを先にやらせておいて、足のリハビリをやっている老人を歩かせると、そのヨタヨタロボットを支え始めるというような。

岡田美智男教授が、インタビューで、自分の著書について「読んでくださる方が新たな解釈をつけ加えてくれて、はじめて完結するような『弱い本』なのだと思った」と語っていた−中略−
 私はいつもこの「弱い本」をめざしている。
(148頁)

弱い本の書き手のほうがたくさんの人々を励ますんではないだろうか?
この頭木さんの考えを受けると、私達が加齢と共に体が弱くなって、ヨタヨタの弱いロボットになってゆくのは、そのヨタヨタの中に希望を見付けなさいという摂理があるのではないだろうか?という。

名古屋の松坂屋がある。
あれはどんな歴史がある会社か?
信長の家来に伊藤蘭丸という人がいて。
信長は自分が可愛がっているお小姓の少年達に全部同じ名前を付けた。
それが「蘭丸」。
だから「森蘭丸」「伊藤蘭丸」「早川蘭丸」。
同じ名前で三人「蘭丸」。
ところが本能寺の変があって、森蘭丸は殿の為に闘って死んでしまう。
伊藤蘭丸君はその場にいなかったか、早川蘭丸君と一緒に逃げたか。
それで逃げた先が三重の松坂だった。
そこでこの蘭丸君は侍を辞めてしまった。
それで呉服屋を始めた。
それで名古屋に本店を出す。
それで名前を「松坂屋」にした。
武田先生はこんなふうにして歴史の裏側に沈んでいったとか、弱いものが強いものになるのではないか?という。

というワケで「病」二本のお話だった。



2023年9月25日〜10月6日◆できる・できない(前編)

これはもちろん元ネタがある。
いい本。

「できる」と「できない」の間の人



晶文社、(著者は)樋口直美さん。
この人の前の著作をさばこうかなと思っていた一冊が「誤作動する脳」。

誤作動する脳 (シリーズ ケアをひらく)



(番組の中で紹介している話が、『「できる」と「できない」の間の人』の中にないものが多数あるので、この本からの引用も含まれているかも知れない)
読んでいて面白かったのだが、それのみだったもので「(今朝の)三枚におろし」が辛くて手が出なかった。
そういうのがある。
出会い方というのがあるので。
ところがこの本は包丁の入り方がいいとスーッと切れるという、もの凄くよくわかる。
この樋口さんの著作は『「できる」と「できない」の間の人』。
暮らしの中にできることとできないことがあるという。
そういう方。
樋口直美さん。

50歳のとき、「うつ病ではなくレビー小体型認知症(レビー小体病)だった」と医師に言われた。(5〜6頁)

脳の障害は様々ある。
脳はどこを悪くするかで機能障害がいろんなところに病態として現れるという複雑。
このレビー小体型認知症というのは幻覚、嗅覚障害、自律神経の失調に苦しむ。
レビー小体型認知症、そういう病を、脳の方の障害を持った方がお書きになったエッセー集。
その悪戦苦闘が書いてあるのだが、読んでいるうちに不思議な気分になってゆく。
病のその世界が本当に、読んでいたら面白いというか、何かいろんなことを考えさせる。
この方の書かれた文章。
ひどく納得させられた一文。
コロナ禍、大変な時期があった。
皆さんも三年間お過ごしになったでしょうけど。
老介護の現場で老人との接触が厳しく規制された。

ビデオ電話を使ったオンライン面会をあちこちで試み始めた。−中略−介護現場もギリギリの人数で仕事をしていて余裕がない。介護されている人たちが日常的にパソコンやタブレットに触れられる介護施設もほぼなかったと思う。(25〜26頁)

 不安になり泣いて電話をかけてくる認知症の母に「お母さんテレビつけて」と伝え、それぞれ電話を片手に違う場所で同じ番組を見る。料理番組を見て「美味しそうね」と言い合い、動物番組を見て「可愛いね」と言い合う。オンラインで通話ができない親にもできるし、精神安定にもなってお勧めと知人が紹介。(27頁)

この人はこういうコロナ禍でもいわゆるオンライン面会ってありますよというのをSNSに上げたらしい。



 このツイート(投稿)は、−中略−(2022年2月時点で、102万人に読まれている)(29頁)

いいことをおっしゃる。

私たちが求めているのは、顔でもなく、会話でもなく、ただ一緒にいてくつろげる、柔らかな空気なのかも知れない。(30頁)

だから「コミュニケーションコミュニケーション」とかと言うが、そこに何気ない当たり前の会話があれば「今日は暑いね」「ホント、今日は暑いね〜」「いやぁ〜もう今、いい風が吹くよ」「そうだ。風が気持ちよく吹く季節になった」。
そういう会話があれば人間というのは落ち着くものである、と。
つまりこの手のアイデアというのは「病を持った人の発想の方が素晴らしいのではないか?」という。
だから世界というのは、世間というのは「できる」という人と「できない」という人が織り交ざっていないと進んでいかないんですよねぇという。
とてもアナログな方法だがちゃんと共有できると思う水谷譲。
最近、現代、昨日も何か金髪の人、お笑いの芸人さんが「一緒に学ぼう」という番組をとある局でやっておられて、あの中で言っていたが、オンラインでの会話というのは感情が動かないから殆ど頭に残らない。
「カズレーザーと学ぶ。」を指していると思われる)
オンライン会議も余り頭に残らないことが多かった気がする水谷譲。
武田先生もオンラインで出演したが、何を喋ったか。
テレビの中にオンラインで自分が登場するというのは何だか残したその足跡というか、爪が深く入らなくて。
そしてこの方、この著者の樋口さんはおっしゃっているのだが、コロナパンデミックの混乱というのは、認知症の人にとっては本当に大変な時代だったとおっしゃっている。
どの人も症状を悪化させたのではないだろうか?という指摘があるぐらい。

樋口さんの『「できる」と「できない」の間の人』。
時間の感覚の消失、これがいわゆる認知症とかレビー小体型認知症の人の特徴。
だからいつも認知症のチェックで「今日は何年何月何日ですか?」と訊くところから始まる。
ところがコロナパンデミックの混乱の時、著者が嬉しかった。
三年間のコロナ規制というのは家庭の中にいて、家人と共に日々を過ごすと本当にそうだが曜日の感覚が全くなくなって。
このレビー小体型認知症という病と、症状と同じだから。
「今日、日曜だっけ?ああ、日曜か」みたいな。
もう息苦しさがなくなって。
これは病にならないと気づかないが、樋口さんはおっしゃっている。
時間というものを掴まえていることが正常なのだ。
感覚を掴まえられなくなったら、もうそれは認知症の病態と同じなのだ。

「無人島で一人で暮らしていたら、『性格』は存在しない」と昔、本で読んで、びっくりしたことがある。時間もまったく同じだった。無人島に「時間」はない。(36頁)

想像もつかないが、そのレビー小体の方に障害があると、著者の時間感覚というのは伸び縮みするそうだ。
近い昨日が遠くて思い出せない。
お年を召した方はだいたいそう。

古い記憶が、身体の感覚と一緒になってリアルに蘇るということも起こるようになった。(38〜39頁)

そういう時間感覚の遠近感が変わる。
正常とは何であるかというと遠いものはおぼろに見えて近くのものははっきり見える。
これは何を意味しているかというと時間の感覚が一本の軸上にズラーッと並んでいる。
ところが脳の方に障害があると遠くが近くに見えたり近くが遠くに見えたりするという。

レビー小体型認知症では、−中略−自律神経が障害されるために、立ちくらみや湿疹、体温調節の困難、−中略−多種多様な体調不良が起こりやすい。(84頁)

幻視、錯覚もある。

 黒いバッグが黒猫に見えたり、ベランダに干してある夫のシャツが、そのシャツを着た男に見えて、一瞬心臓が止まりそうになる。これは錯覚。一種の見間違え−中略−
 どちらも本物にしか見えないので
(102頁)

だからレビー小体型認知症という病名をいただく前はもう悲鳴を上げていた。
ところが人間というのは凄い。

そんな幻視、錯覚など、もうすっかり慣れている。最初に見てから20年、頻繁に見るようになってから10年近く。もう長いつきあいだ。
 今は、あっても当たり前のものとして、大事なく共存している。
(102〜103頁)

だからフッと見たら、ベランダに知らない男がこっちを見て笑っている。
じーっと見ていて「あ〜幻視だなぁ」と思って。
ちょっと間を置いて見るといなくなる。
カーテンのシワが苦悶の女の表情に見えたりという、そういうことは普通の人間にもある。
レビー小体型認知症の幻視、錯視、それから音に関しても聞こえていないのに聞こえるという。
樋口さんがそういう誤作動というのは「あれ?」と思う。
「私と同じように猫が見えたりベランダに知らない人が立ってたりって、そんなことを文章にした作家さんっていなかったかな?」
その人の文章を挙げてみる。
皆さん全員知っている人。

 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。(宮沢賢治『注文の多い料理店』序)

 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。(宮沢賢治『注文の多い料理店』序)

これはレビー小体型認知症の症状にそっくり。
宮沢賢治。
風が吹いてくると、風に飛ぶガラスのマントを着た少年が見える。
夜空を見上げると星空をSLが走っている。
この樋口さんがおっしゃった「もしかすると宮沢賢治ってレビー小体、認知症の病の人だったんではないだろうか?」という。
そうすると樋口さんのギクリとする一言。
「もしかすると病は才能かも知れない」

レビー小体型認知症という病を持っておられる樋口直美さん。
その樋口さんの方から「宮沢賢治の持っている空想力はレビー小体型認知症という病によく似てるんですよ」という。
ゴーと風が吹くとその風の中に空飛ぶ少年が現われて「どうどどどどう」と言いながら飛んで行ったり、汽笛が鳴ったなと思って星空を見上げたらSLが空中を飛んでいるとか。
想像だけでは書けない世界、変なリアリティもあると思う水谷譲。
宮沢賢治はそのリアリティがもの凄く生々しい。
「本当に見たんじゃないか」と思うような文章。
風の又三郎。
一郎が道に迷い込んで断崖絶壁の方角に。
そうしたら風がゴウと吹いて草むらが揺れるのだが、草むらが声を発する。

 風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。
(宮沢賢治『風の又三郎』)

雲が出てきたなと思ったらパチパチパチ・・・
風がドウと吹いたらあの転校生の三郎が草むらに立っている。
ジーッと天空を見上げて。
そのへんが余りにもリアル過ぎて怖くなる。
こういう幻視、幻聴の作家さん達はもしかすると、こういう病を持っていたのではないだろうか?
芥川龍之介の河童とかを見ると、何か見たこともない河童が目の前にいて「オマエら人間とは・・・」とかと語りかけてくるような凄みを感じる。

河童



樋口さんがおっしゃるのだが「こんな病の私がこんなことを言うのは何ですけど、病の中には才能と呼べるものもあるんじゃないですか?私はレビー小体認知症という病ですが、病の中に才能と呼んでもいいものがあるかも知れませんから病でひとくくりにしないでください」という。

「土を触ると体が整えられる」と、昔、鍼灸の名人から伺った。(95頁)

歳を重ねると陶器を造ったり、農作業をされたりという人が多いと思う水谷譲。
もの凄く恋しいと思う武田先生。
老人というのは土に接近していくもの。
だから霊園に行って石を見ていたら落ち着いたというのは・・・
とにかく樋口さんの大事な話を続ける。
そのことを聞いたもので、(樋口さんは)自分は病ながらプランターで小さな家庭菜園を始めた。
そうすると病もあるのかも知れないが、植物が声をかけてくる。
(本によると声そのものが幻聴のように聞こえるという話ではない)

「喉が渇いたよ」「ちょっと暑いよ」「今日は元気だよ」−中略−「日陰の方がいいな」。プランターや植木鉢から毎日話しかけてくる。(97頁)

樋口さんはそういう体験をしながら、植物と会話ができる能力なんていうのも、それは病かも知れないが、病でなくそういう才能というのはあるのかも知れない。

 先日、家庭菜園をAIが指導するというニュースを観た。水やりも肥料をやるタイミングも、すべてAIが判断して教えてくれるという。(96頁)

この樋口さんは断固としておっしゃっている。
「植物には人間との会話が必要なんです」
その情感は温度ではなくて「暑いね」「今日は寒いね」「日差しがまぶしいね」というそういう会話がならない限り成立しないんだ」と
生命と生命というのは。
とおっしゃっている。
そのあたり、私達は考えましょう。

 染色と機織りで人間国宝となった志村ふくみさんが−中略−
「新月に仕込み、満月に染めると美しく染め上がることを見つけた。
(100頁)

これはもちろん体験で得たことなので「科学的ではないかも知れないが、でも、染め物はやはり、自然と足並みを揃えない限りいい作品はつくれませんよ」という

1本の草や樹の向こうには、宇宙がある。(100頁)

人とは違うリズムで生き物たちもそのリズムの中で生きている。
そこに繋がらない限り、上手く会話できない。
病というのはまことに不思議なことにその植物と会話するとか、自然と会話するという能力のスイッチになってくれるという。
だから、認知症というのはもしかして、命の夜に満ち欠ける月かも知れないという。
これはなかなかいい言葉。
こんな言い方は本当に失礼なのだが、病というのがいろいろ教えてくれるものがあるということで。

樋口直美さんの『「できる」と「できない」の間の人』。
「脳は時間をさかのぼる」という副題が付いている。
その脳にまつわる不思議なお話をしている。
この樋口さんはレビー小体型認知症という病で、アルツハイマーはアミロイドβという脳に詰まるタンパク質がある。
これが脳の血管の中に溜まると認知症という記憶障害等々が始まる、性格も変わってしまうということなのだが。
ではレビー小体型認知症とは何が違うの?
これは血管の間に詰まるものが違う。

「レビー小体」:α(アルファ)-シヌクレインを主とするたんぱく質が、集まったもの。脳だけでなく全身の神経細胞に溜まる。「レビー小体」の蓄積によって起こると考えられている病気の総称が、レビー小体病(パーキンソン病、レビー小体型認知症、他を含む)。−中略−
「レビー小体型認知症では、視覚を司る後頭葉の血流が低下するために幻視が現れる」と説明されることが多い。
(111頁)

脳のどこにタンパク質が詰まるかで病態が変わる。
とても不思議な病態というか、病を引き起こすそうで

 がんが脳に転移した人を二度見舞ったことがある。
「あなたのことは、覚えていないけど、あなたが持っているその動物の柄の布カバンは、見覚えがある」と言われた。
(137頁)

本人を忘れても、その人が持っていたカバンが記憶としてあるのでその人と認知できる。

「認知症になると家族の顔も忘れる」とよくいうが、私は疑っている。顔認識機能がうまく働くなっていて(原文ママ)、「不一致」と、脳が誤って判断している可能性がある。(137頁)

例えば息子がいる。
息子の顔に見えない。
だから「自分の息子じゃない」と思いつつも、なぜか「息子」と呼ぶ人がいる。
一体どこでわかっているのか?
それは、どうも小さい時の顔を覚えているらしい。
小さい時にその子のことを「なっちゃん」と呼んでいた。
なっちゃんも老人になった。
それでも「なっちゃん」と呼び続けると顔は忘れても、「なっちゃん」で振り返るその子は小学生の時の顔で思い出す。
成人した顔の記憶と子供の時の記憶と別場所にあるらしい。
だから、顔認識機能がストップして身内かどうかもわからない認知症というのも「そう簡単にはくくれませんよ」という。
別個の本だが、アメリカの患者さんの中で脳の病の中で、自分の奥様だけが麦わら帽子に見えるという人がいた。
とにかく奥さんが入ってくると大きい麦わら帽子が入ってくる。
麦わら帽子が入ってきたら、それは奥さんだから「奥さん」と呼ぶ。
だから最初はなかなかおっしゃらなかったらしい。
ちょっといろいろあって「本当のこと言うと、アンタのことは麦わら帽子に見える」。
だから妄想とか理解力低下とか、そんな言葉で簡単にいわゆる認知の問題、脳の世界のことを断定するけれども、成長した子供の顔は忘れても幼児の頃の記憶は脳の別場所にちゃんと保存されているという。
それから、幼い頃にそう呼んでいたという呼び名で名乗るとその扉が自動的に開くという。
だからそういうところをきちんと使い分けた方がいいのではないだろうか?
不思議な世界だと思う水谷譲。

来週の分まで言ってしまうと、身と心があるとすると「身の中に心がある」「心の中に身がある」、そんなものではない。
武田先生が今、一番興味を持っているのは、大好きな大学の哲学の先生もおっしゃっているのだが、人間はやはり我が体の中にもの凄く不思議な世界がまだあって発見されていない。
それを発見する為には歳を取るしかない。
若いうちはダメ。
自分が使っている部分が自分だと思っているから。
歳を取って使えない部分が出てくると使えない自分に他者を感じつつ、それも自分。
今凄くいいことをおっしゃっていると思う水谷譲。

今日はノートに書き記した方のネタを使っている。
新聞の切り抜き等々もあるし
本の印象、それから印象から自分が「こう考えるんだ」みたいな。
その切り抜きの中でこんな歌はどうですか?
短歌。

百歳の母とふたりで車椅子なさけないのか幸せなのか

老いて歌おう 全国版第17集 (心豊かに歌うふれあい短歌集)



この作者自身は84歳だそうで、百歳の母親と車椅子で二人で散歩しているという。
これはジャッジしなくていいじゃないですか?
「情けなくて幸せ」なのだという。
それから短歌の中でドキッとしたヤツ。

いささかの疑ひも持たず口あけてわれの与ふる薬を飲む夫

「老いては妻に従え」と言うが、すっかり妻を信頼しきって、ただ口を開けて女房が入れてくれる薬を飲み下すという。
「何だ、いつでも殺せるな」という。
でも、これも幸せ。
薬か毒かわからないようなヤツを奥さんに飲ませてもらうという幸せもある。
だんだんそういう心境になってきた。

レビー小体型認知症を紹介している。
でも、病の本は面白い。
ごめんなさいね、病気の方。
ただ、やっぱり病の方が積極的にこうやって本を残してゆくということは、日本の重大な財産。
その人にしかわからない。
だから自分の病を何も内側に捉えることはない。
書いて残しておいてください。
そこから人間に関する、或いは、医学的な意味合いでも重大な発見があるかも知れないので。

漁村の習慣でいたく感動したのだが、小さな漁村があって、父母を失うという子供が出てくる。
そういう子が出た場合は、その村の共同体でその子の面倒を見る。
特別の学問とかはさせられないが、漁村なので船に乗せて漁師としての手伝いをさせて仕込んでいく。
そういうことを「えびすさん」と呼んだらしい。
何か福祉政策とかと言うと堅苦しいのだが、貧しい子とか食事がきちんと行き渡らない子に後に幸せを持って帰ってくる「えびすさん」という呼び名を

病、レビー小体型認知症という認知症を患っている著者だが、しかし「がんばる」とか「がんばらない」とか、「できる」「できない」とかいろいろあるかも知れない。
でも「何が幸せなのかジャッジするのはやめましょう」という。
その不幸になったばっかりに幸せになるという人がいる。
「その幸せを継いだばっかりに不幸になった人が何人もいるんですよ」
いっぱいいる。
お母様かお父様の跡を継ぐ勢いで芸能という世界に入ってきて、一体何人の人が躓きましたか?
何人も見てきた。
有名な俳優さんのバカ坊ちゃん。

この樋口さんがとても励まされるというアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉をご紹介しましょう。

 主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと
 変えられるものを変える勇気と
 その両者を見分ける英知を我に与え給え
(156頁)

変えられないものはある。
できないことはある。
だから「できない」ということを静かに引き受けるという心でありたい。
「これはできる」と思ったら、その「できる」をどこまでも成長させる勇気、そして「できる」「できない」を見分ける知恵を、英知を私に授けてください。
忍耐や努力では開かない扉もある。
一番大事なことは何か?
これはやっぱり強烈な樋口さんからのメッセージ。
このレビー小体型認知症という病と樋口さんの言葉を噛み締めましょう。
「みっともなくていい。『生きてゆこう』そう思うこと。これが一番大事なことなんですよ」
それからもう一つ。
内田樹師範の名言。
樋口さんのも好きだが内田先輩の言葉も大好き。
「一番大事なのは生命活動の中心にあるもの、それが大事なんだ。生命活動の中心にあるものは何だ?『生きていく力』じゃないか?」
ちょっと力んでしまったが、そういうことを思わせてくれる樋口さんのいい書物。
こういう方がいると病についてもいろいろやっぱり深く物事を考えるようになる。

来週は樋口さんから始まって次の病の方に。
来週はその次の病の方を紹介しつつ。
というワケで来週も引き続き「できる」「できない」の問題を考えていこうと思う。