(
1月23〜27日にも「まとまらない話」というお題で同じ本を扱ったことがある。今回はその続きということでもないようなのでタイトルをどうしようかと思ったのだが、区別する為に前回は「まとまらない話I」、今回を「まとまらない話II」としておく)
まな板の上に置いたのが「まとまらない話」。
この方は1980年、東京生まれの方。
荒井裕樹さん。
柏書房から出しておられる「まとまらない言葉を生きる」という本。
二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論(256頁)
この本の推薦文に
強くて安全な言葉を使えば、
簡単に見落とすことができる。(本の帯)
という一文があって、これはドキッとする。
強くて安全な言葉を使えば、いろんなものをどんどん見落として生きていける。
皆、短くてインパクトのある言葉を探す。
ところが、そのインパクトのある強い言葉を使うと、話がまとまるのだが深くならない、という。
これは何にギクッとしたかというと、これがいわゆるニュースバラエティー番組に出る時のコツ。
安全で強い言葉。
これを使えば、また雇ってもらえる。
最近凄いのは、まとまらない話をしたりなんかすると炎上してしまう。
武田先生は典型的で、もう狙っている人がおられて「死ねジジイ」とか「老害」とか。
「言葉を切り取るな!」と絶叫しながら番組を去って行った方もおられたが。
でも強くて安全な言葉「それは悪いんじゃない?だからみんな考えようよ」こういう言葉遣い。
これでワリとひな壇でお足をいただけるという。
そういうことがある。
一歩まかり間違って「俺はついていけ無ぇなぁ」(という発言に対して)「オマエ、ついてこなくていいよ」とかと。
これはちょっと身に覚えがある。
言葉は時代と共に重さが変わってくるので。
こんなことがあった。
事件があって「その事件について語って下さい」という依頼。
どんな事件かというと、ディスクジョッキーか何かで踊り場か何かで喋っている方、その方が日本に登場してもの凄い人気で、ちょっと露出の多い服を着ておられて。
サービス精神いっぱいだったのだろう。
舞台を降りた後、観客に寄っていって握手をし始めた。
そのもう水着同然のような姿だったもので、脚立を立てて客席に近付こうとしたら、その方の体に握手を求める2〜3の手のひらが触れて、その人が激怒なさった。
「生まれてこの方、こんな恥ずかしい目に遭ったことがない」等々の発言をなさって「誰が触ったのか」という。
(
DJ SODA「日本で受けたセクハラ、これほど恥かしいと思ったのは初めて」放送で心境を初告白 | Joongang Ilbo | 中央日報)
これは一つわからないのは、ライブの時に客席に接近するというのは非常に危険。
これはもう体験するとわかるが、盛り上がった会場はやはり手を引っ張ったり後先のことを考えなくなるから。
「観客に向かってダイブ」なんていうのをやっていたが、あんな危ないことはやってはいけない。
それで「武田さんどう思います?」と番組のディレクターから訊かれたものだから、昭和の人間なものだから思わず「踊り子さんには触らないでください」という古い言葉を言ったらその若い女性のディレクターが喜ぶの何の。
「いい言葉ですね!『踊り子さんに触らないでください』」
ナイトショーか何かでフェニックスの恰好をしたりなんかしている踊り子さんには「触ってはいけない」という不文律があった。
そんなことをしようものなら低い声のお兄さんに「踊り子さんには触らないでください」と言われてギクッとしたもの。
最近、そういうマナーをこの人達は知らないんだ。
そうしたら武田先生のスタッフのイトウちゃんが心配して「『踊り子さん』っていう表現がちょっと誤解をされるんじゃないか?」。
そこで本番が始まった時に、武田先生が「衣装を着ている人は人間じゃないんだ、妖精なんだ。そうでしょ?妖精には触っちゃいけない。この世の者ではないという接し方をするのが。つまり『踊り子さん』ダンサーには触ってはいけない。この世の者ではないワケですから。そういうマナーがわからないのか」ということで話した。
そんなふうに言い逃れたのだが、こちらの喋り手の方の話というのは誰にも聞いてもらえない。
もう「間違った間違った」とか「失礼だ失礼だ」とか「あのアーティストをオマエは『踊り子』と呼ぶのか」とか、そういうことでこられると返す言葉がなくなる。
荒井裕樹という人は、テレビ番組に於ける強くて安全な言葉遣い。
これが実は「言葉の力をどんどん弱めてるんじゃないか?」という。
例えば「盗むな!」という正しさ、強くて安全な言葉がある。
だが人間に「盗む」という情熱がないと発展していかない。
物を盗んじゃいけないが、芸を盗まないヤツは馬鹿。
つまり「強くて安全な言葉」だけ使っていると、ちょっと裏返しの危険な言葉というのが人間をある窮地から救い出す「救命胴衣の言葉としての言葉」というパワーを無くすのではないだろうか?という
荒井さんのこの考え方は、こちらが胸を押されるところがあって、今週一週間、そんな話をしてみる。
まとまらない話、「まとめてたまるか」という勢いでまとめたいと思う。
私達が招き寄せたIT社会。
ソーシャルネットワークのこの世界。
これは世界に重大な影響を与えた。
ネット等々には片隅の密やかな話もあるのだが、そこで注目される為には自分なりの正義を叫ぶ為、私の恨み
憎悪・侮蔑・暴力・差別に加担する言葉がやけに目につくようになってきた。(5頁)
そういうものを敢えてソーシャルネットワークに乗せて注目を集めるという。
「一億総活躍」「女性活用(→女性活躍→女性が輝く)」「人づくり革命」(9頁)
政治もそうだが安全な言葉を組み合わせて後から言質を取られない「オマエ!こんなこと言ってたな!」なんて言われないように、ひたすら寛容表現のみにこだわる。
わかりやすい言葉を組み合わせていいことを言うのだが中身は全く無いという、そういうことをやっていくと「そういう言葉があふれていませんか?そんなのはすっからかんの言葉じゃありませんか?」。
この荒井裕樹さんという人は厳しいこと、立派なことをおっしゃる。
「言葉が壊されつつある」(11頁)
この指摘はハッとする。
ラジオもテレビもそうだが、言葉を介して社会を映し、社会へ還流させてゆく。
それがマスメディアという世界。
パーソナルメディアの告発、言うのは簡単に対して、言えば言うほど息苦しくなる言葉を喉に詰めて黙らせられているという。
「そういう話し手になっちゃっていいの?」という。
確かにそう。
今のこの時代、反対側から反撃してこない、時代全体が弱い人にどんどん向かってゆくという。
こういうのがやはりある。
この間ステージで喋っていて、もの凄い熱心に拍手をしてくださったのだが、お母さん方が「子育てに自信がない。どうして子供って親の思い通りに育たないんでしょうね?」という不安を抱えられている。
その時に武田先生は「子育てってそうですよ」と言った。
親の言う通りに子は育たない。
それが子育て。
親の言う通りに子は育たない。
それでも育てるから「親」。
武田先生は典型的。
自分のことだからそういうふうに考えるようになったのだが。
母親も武田先生を育て上げてガッカリしたろうなと思って。
もちろん芸能界でそこそこ喰っていけるようになったからホッともしただろうが。
彼女が武田先生に望んだのは「福岡県の先生になること」。
それで苦労して福岡教育大学に入れて四年間月謝を払ったら仲間と二人誘ってのぼせ上って「この先、あの子はどうなるんだろう」と何にも言わなかったが不安だったのだろう。
そうしたら映画に出演してそこの引き合いから荒川の土手を歩く学校の先生役で、それが大きな反響を呼んで役者というところにも腰を降ろせるようになって、そのあたりで母親は「やれやれ」と思っただろう。
でも母親は気づいたハズで、冗談でも言っていたらしいが「福岡県の先生にする為に一生懸命月謝を収めたのに、あの子はテレビで先生しよります」と言ったらしい。
かくのごとく親の思い通りにならない。
「だからお母さん、お母さんだってそうよ。お母さんだって、あなたのお母さんが思った通りに育ってないのよ。でもうちの母親見てよ。『母ちゃん。フォークシンガーになって一年間だけ歌ば歌いたか』と言ったら俺の方を振り向かず『一年だけぞ』と、背中で指一本出した。あの時に母親は何か全て自分の夢が崩れてゆくというのを体験したんだろうと思う。『フォークシンガーで芸能人になる』なんて確率は1%。考えたら、あんな博多のイモ兄ちゃん。それでも東京に行くってきかない子に向かって『一年だけぞ』と念を押して1%の確率に彼女なりに希望を持って送り出したという。たまたま可能性が膨らんだからいいが。でも1%の確率しかないのに『ああ、アンタよかたい!行ってこい!』とその一言が言えるのはお母さん、親しかおりませんよ」
絶対失敗するというのを「よかたい。思い切ってやってごらん」と言うのは親しかいない。
他人は「オマエ馬鹿か?」と言う。
そこのところに言葉というのがある。
かつては精神病と言って統合失調症というが、そういう心の病に対して偏見の強かった時代、1970年代
当時、「心を病む」ことは、「その人が弱い・おかしい」で片づけられていた。心を病んだ人は、とにかく薬を飲ませておくか、長期入院させておけば「問題は解決した」と考えられていた。(28頁)
ところがお医者さんの中でこんなことを言う人が出てきた。
心を病んだ人達に対して
ある視点からすればいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたい正常なのです。(28頁)
「世の中のおかしさを無理やり上から押さえられた時におかしくなったというのは、それは正常な反応じゃないか」と、こういう反論をした人がいて著者は感動している。
ある人の「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても「生きようとする意欲」が湧かない社会になる。ぼくは、そんな社会を次の世代には引き継ぎたくない。(29頁)
「人を励ます言葉」というと、どんなフレーズを思いつくだろうか。
ワークショップで出てくる不動のトップ3は「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」。−中略−
でも、よくよく考えると、「がんばれ」と「負けるな」は、人を叱りつける時にも使う。「叱咤激励」という四字熟語があるように、日本語では「叱咤」と「激励」はコインの表裏の関係にある。(34〜35頁)
三つ目の「大丈夫」もよく考えると何も励ましていない。
励ます言葉とはコインの裏表で、弱さを責める言葉でもある。
そう簡単にまとめられるものではないのだ、という。
精神疾患に関してもそういう人達は「希望」という言葉でさえもプレッシャーになる。
「希望はあるんですか?」とか言うと「ある」「なし」を問うだけで落ち込んだり、それから興奮したりする。
だからそういう場合はどうするかというと「新しい言葉を造るしかないんだ」という。
〈希待〉とは、〈人間の善性や自己治癒力〉を信じ、その〈可能性〉を〈無条件〉に信頼しようという姿勢のこと。(56頁)
人生は待たなければならないこともある。
そっちの方が多い。
悩みを取り去る鎮痛剤のような言葉ではなくて、「今、悩んでいいよ」というような寄り沿う言葉、敢えて「まとまらない」ということが苦しんでいる患者さんを励ます最も強い言葉になるのではないでしょうか?という。
武田先生もそう思うが、メディアの現場にいて「励ます言葉というのを何とか作り続けねばならない」というふうに思っている。
例えば武田先生が街を歩いていてファンの方が「あ!鉄矢さん!頑張ってください!」と簡単に言われる。
「頑張る」って何なんだろう?と思ってしまうのではないかと思う水谷譲。
前はいちいち口答えをしていた武田先生。
「頑張ってください」
「もう頑張ってますから」
あれは向こうの方も適当にまとめて話しておられるだけで、決して言葉の意味ではないのだが、そういう人に口答えしていた。
最近はやっと武田先生も少し世の中を鑑みるようになって。
この間ちょっと武田先生もショックだったが、吉幾三をゲストに迎えてテレビ番組で語り合うという時間があったのだが(吉幾三さんと)ガラが似ていると思う武田先生。
向こうも言っていた。
「俺は、アンタ見てるとよ、何か俺に似てんだよな」という。
生き様が似ている。
苦し紛れにコミックソングを作る。
それでコミックソングを作って「コミックシンガー」と言われると反発してもの凄く重いシリアスな・・・
テレビも無え ラジオも無え
車もそれほど走って無え−中略−
俺らこんな村いやだ(俺ら東京さ行くだ)
「酒よ・・・酒よ・・・♪」(酒よ)
「追いかけて・・・雪國♪」(雪國)
とかと、「オマエ、どうしたんだ」というぐらい演歌に傾斜していく。
あれが武田先生に似ている。
「J・O・D・・・♪」(海援隊「JODAN JODAN」)
「あんたが大将♪」(海援隊「あんたが大将」)
「贈る言葉♪」(海援隊「贈る言葉」)とかと「オマエは何者なんだ?」という。
そういう意味で「まとまらない自分」をまとめる為にはどうしても歌が必要で。
つまらないことでアイツ(吉幾三さん)と話が弾んだのは「人間て死んでいく時の最期の言葉って面白いよな」みたいなことを話した。
壮絶なことを。
そうしたらアイツが「俺んちのおっかさんも凄かったんだ」。
(吉幾三さんのお母さんは)9人産んだ。
(臨終の場で)「お母さん!大丈夫!?」とかと皆で声をかけて。
「お母さん、いい一生だったかい?」と吉が泣きながら訊いたらお母さんが「忙しくてパンツ履く暇がなかった」と。
申し訳ない。
これはラジオでは使いたくなかったネタを使ってしまった。
二〇一六年七月二六日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、凄惨な殺傷事件が起きました(86頁)
もう騒然となった。
この犯人は障害者を殺害し、傷つけた。
本当に狂気。
まだあの表情が浮かんでくるが、テレビキャメラを向けられるとこの男はヘラヘラ笑っていた。
犯行前後に発していた「障害者は生きている意味がない」という主旨の主張(90頁)
「だから殺してもいいんだ」というようなことを平気で言うという。
この男の発言というのは酷いことを言うということで報道されたワケだが、聞けば聞くほど言葉が乱暴になるが「ムナクソ悪い」というか、「こんなヤツの言ってることテレビで流すなよ」と言いたくなるような気がする。
最近のテレビはこういうふうにしてムナクソの悪くなるようなことを、あったことをとにかく報道したがる。
余計な話を差しはさむがキャメラに映っているからって「これ、流さなくていいじゃん」というニュースがいっぱいある。
よく視聴者提供ということでやっている。
テレビというのは写っていなければ成立しないので、映っているものを何でも流す。
そして言ったことをそのまま流すという。
このことに関して荒井さんがおっしゃっている。
「侮辱の言葉を平気で言って自分を目立たせようというのがSNS等々で随分増えてきたので、テレビメディア、ラジオメディアも平気になってるんじゃないだろうか?」
SNSは言論空間であると同時に生活空間でもあります。あのような言葉が生活圏に存在すること、またそうした生活に違和感がなくなってしまうことに、私は恐怖を覚えます。−中略−
「障害者は生きる意味がない」という言葉を批判しようとすると、ともすると、反論する側に「障害者が生きる意味」の立証責任があるように錯覚してしまうことがあります。(91頁)
このディベート然とした物言いだが、この会話のいやらしさは「障害者が生きる意味に答えない。だからダメなんだ。だから俺がこんなことしでかしたんだ」という言い訳に使われる。
私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありませんし、社会に対してそれを論証しなければならない義務も負っていません。(92頁)
「生きる意味」は個人のもの、私のもので、オマエにいちいち答える必要はない。
ところがコイツは相手に答えねばならない責務でもあるように問いを立てている。
そしてコイツはディベートに勝った気でいる。
この手のことはある。
テレビ討論会でこんな事件があった。
とある少年がテレビ討論会で大人達に問いを発した。
「なぜ人を殺してはいけないんですか?」
これは「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いに答えなければならないという立場に大人を追い込む。
「こんな少年がいましたよ」ということで「この質問に大人はいかに答えるでしょう?」とテレビメディアはこの出来事を報道した。
でも、この著者の荒井さん(の本を)読みながら「アンタのおっしゃる通りだ」と思ったのだが、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」それは人に訊くことでじゃないんだ。
問うことが間違っている。
「そんなことを訊く馬鹿がどこにいるんだ!?」というヤツ。
だからこの少年は誰にも答えてもらえないという目に遭わせないとダメ。
誰かが答えるとコイツは次々に物事を訊いていく。
「じゃあどうだ?じゃあどうだ?」
「問うことが間違っている」ということ。
これは総理大臣もお勤めになった方の発言。
「ロシアのプーチンだけを批判して、多くのウクライナ人を苦しめているゼレンスキーを叱らないというのはどういうことだ?答えなさい。ロシアを批判しているあなた方、答えなさい。ロシアのプーチンだけを批判して、多くのウクライナ人を苦しめてるゼレンスキーを何故叱らない」
(
森元首相がゼレンスキー氏を批判 | ロイター)
それを聞いた時、本当に腹立たしかった水谷譲。
「この人、何言ってんだ?」という。
元総理がそういうことをおっしゃった。
荒井裕樹さん、著者は「質問自体が間違えている」という。
そんなことは問うことではない。
これはハッとすること。
胸に溜まっていたものがスーッと洗い流されるような「まとまらない話」をとにかくまとめようとして、問い自体が間違っているというような問いを立ててはなりませんよ、という。
面白い作家さんというか。
荒井さんという方。
いわゆる障害者の文化論を論じておられる。
障害者の方が高い文化を持つとその国の文化の水準がグッと上がるという。
この障害者に対しての扱いというのがその国の文化の水準を決定するのではないだろうか?という。
この人の本を読みながら「ああ、そうだな」と思ったことがあったのでこれを付け足したのだろう。
ここからが武田説。
ワールドカップサッカー。
バスケットとかラグビー等々あるが、国際的な戦い。
そういう番組があって。
そのスポーツを知っている人と、あんまり知らない人をひな壇に並べる。
それで司会者、番組を回す人は知らない子にもふるという。
するとその子達が訊く。
「何勝何敗で勝つんですか?」
「どっちが勝つか」という質問にいく。
「スポーツ番組を盛り上げる為にいろどりの愛らしい人気者が必要かも知れないが『いろどり』は『色』です。喋らせてはいけません」と武田先生は言っている。
そのスポーツに関してよく知らないのだが、その番組に呼ばれたゲストアイドルが「アタシ、野球よくわかんないんですけど勝つんですか?ジャパンは?」
そんな質問を許していいのか?という。
本当にいる。
たまに素朴な疑問としていい質問を投げかけてくれる人もいるが「勝つんですか?」と言われても誰も答えられないと思う水谷譲。
誰も答えられるワケがない。
そういう子を出してはダメ。
そっとしておかなければ。
こういうのを凄く武田先生は気になった。
この本を読みながら社会問題を扱うことの難しさを武田先生は考えたのだろう。
こんなことを付け足して書いている。
この本は2021年、本屋に並んだ本で、若いこの著者も「保活」に苦しんだ出来事を報告している。
「保活」というのは「子どもを保育園に入れるための活動」のこと。(60頁)
「ダイバーシティ」「多様化の社会」と言われる中で仕事と子育てを両立する為に女性達、その母親達の苦悩というのは凄かったんだ、という。
ところが2020年12月に大変なことが起きる。
何が起きたか?
静岡の保育園等々で、一歳児に対する保母(保育士)による暴力行為が発見された。
(
園児に暴言、宙づり、暗い倉庫に閉じ込め…裾野市の3保育士が不適切行為 園は把握も市へ報告せず:東京新聞 TOKYO Web)
それでこの時は三人の写真がテレビニュースで晒された。
三人の容貌はどうかというと、実に慈愛に満ちた保母さんらしい顔をした三人の女性達の笑顔が映った。
その笑顔の写真しかなかったのだろう。
これをきっかけにして保母さんたちによる子供への暴行みたいなのが富山でも「不適当な保育」というので告発されて、更に富山でおこったら別の町でもあったという。
(
子どもへの虐待防止「内部告発など受ける窓口設置・ゆとりを保育現場に」保護者団体が国に要望書:東京新聞 TOKYO Web)
この時の「保育園って何なんだ?」という。
この人はそういうふうに書いている。
働く女性のプライドを支えたしっかりした保育園。
ところがその保育園で、子供に全く理不尽な暴行が行なわれているというのが日本の保育園に次から次へと見つかった。
では「保育園問題って何だ?」という。
何でこの時期に保育園のあの優し気な保母さん達が、預かった子に理不尽な暴力をふるったんだ?
それを調べないと。
「何かストレスがあったのではないか」と思う水谷譲。
何によるストレスか?
これはやはり預けていったお母さん達に対する感情があったのではないか?
嫉妬。
幼児に対しての暴力、罵り。
「鬼」という言葉が付いていいほどの激しい何かが流れた。
それも一個の保育園だけではない。
次々と。
ということは共通の問題点がそこにあったのではないか?
そこまで迫るのがこの問題に対する処し方ではないか?
話をまとめようとするから「鬼」でくくってしまうという。
そういうことに関してもっと考えなければならないのではないだろうか?という。
余計なことではあるが、やはり私達はまとまらない話をまとめる為にも、新しい言葉を次々作っていかなくてはならない。
日本人はそういうのはセンスがいい。
コロナが明けた。
その時の四文字熟語「遠客再来」。
遠くからお客が遥々とやってくるという。
東日本震災、大変な目に遭ったかもしれないけど「頑張ってください」と言った時に「頑張る」を「顔が晴れる」と書いて「顔晴れ東北」という新しいセンスのいい言葉を作ったではないですか。
いずれにしても「希待」と共に生きていきたい。
「まとまらない話を思い出してみると、隠されたものが見えてきますよ」という今週。