この本は実は去年の秋口ぐらいの頃に見つけて読んだという一冊。
本のタイトルは「謝罪論」
(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
テレビで連日、謝罪するというシーンがやたらワイドショーなんぞで取り上げられたという時期もあったものだから、そのワイドショーのシーンなんかを見ていた時に本屋で見つけた本。
「謝罪論」柏書房で古田徹也さんという方の著。
タイトルを使わせてもらう。
「謝罪論 謝るとは何をすることなのか」
謝り方が上手い人と下手な人がいると思う水谷譲。
壇上に数名の人が並び「申し訳ありませんでした!」深々と頭を下げる。
すると凄まじい数のフラッシュが焚かれて壇上の謝罪者全員が引き絵の中に納まる。
歴史に残る謝罪会見のシーンというのもあって。
水谷譲が覚えているのは「ささやき女将」。
昭和・平成・令和というのはこの「謝罪」というのがワイドショーの中心的な話題。
繰り返される謝罪だが、一体「謝罪」とは何なのか?
何をすれば謝ったことになるのか?
今週もまた意欲作。
「三枚おろし」だから、いとも簡単に「あの謝罪会見は…」なんてそんなことは言わない。
謝罪とは一体何か?
アナタの人生に於ける初めての謝罪。
生まれて初めての謝罪。
本当に小さい頃に親に怒られて「ごめんなさい」と何かあったのは覚えている水谷譲。
これはちょうど裏表。
人生の中で「はじめてのおつかい」をする頃に、初めての謝罪をしている筈。
謝罪を親からしつけられたワケで。
何かしでかした、やらかした。
ケーキを床へ落とした、ジュースをテーブルに広げた。
そういう過失があって親から「『ごめんなさい』は!?『ごめんなさい』は!?」。
ここから謝罪人生が始まる。
ここで親たちが謝罪に関してしつけることは何かというと言い方「『ごめんなさい』は!?」と言われて「ごめんなさい」。
「『ごめんなさい』って言えば『ごめんなさい』したことにはならないのよ!心から『ごめんなさい』って言いなさい」と「心」が出てくる。
「『ごめんなさい』は!?」「ごめんなさい」「違うでしょ!」「ごめんなさい」「違うでしょ!」
考えてみたらこの初めての謝罪から「ごめんなさい」の言い方というのを一つ間違えると大変なことになるということを学ぶ。
振り返ると謝罪というのが人生でアナタを鍛えてゆく。
話が脱線するが、子供の絵本で今「ピンチ」が絵本になっている。
(「大ピンチずかん」のことだと思われる)
子供がいわゆる「ごめんなさい」をしなければならないという、そういうシーンだけを取り上げた絵本がある。
その絵本はいい絵本。
それはテーブルの上に牛乳をこぼしてしまう。
それでその男の子がこぼしたから「飲めばいいんだ」というので、そのこぼした牛乳を口で吸おうとする。
その瞬間にコップに入れた牛乳を倒してしまうという。
その一枚の絵が何かジンとくる。
とにかく我が人生をこうやって振り返ると、いろんな皆さん「ごめんなさい」があったと思うが人生は「ごめんなさい」と共に…
非常に興味深いと思うのだが、日本社会でいわゆる社会人になってからだが、謝罪は半分「男の仕事」とされているようなところがあって。
日本社会は性差別等々、いろいろ問題があるようだが謝罪に関しては、ひたすら男が出てきて謝らない限り…
問題になったのは、あの料亭の食材事件の時でも社長さんたるべき息子さんが謝っておられる最中に女将がささやいた、と。
「頭ン中真っ白、頭ン中真っ白になった、頭ン中真っ白になったと言わんかい」
(
船場吉兆偽装問題 「マザコン会見」の一部始終: J-CAST ニュース【全文表示】)
懐かしい。
謝罪というのはいくつかの体裁を重ねなければならない。
謝罪の体裁。
まず気落ちしている。
思い煩っている。
そして顔を上げた瞬間、心細い表情。
困り抜き、立ち居振る舞いが自信なさげにふるまう。
こういういくつかの態度を取らないと謝罪にはならない。
これがちょっとでも自信ありげなふるまいになると「違うでしょ」というのがもう矢玉のように世間のあちこちから飛んでくる。
更に糾弾されることになる。
謝罪の基本はある意味で被害者、更に告発者の赦しの下に身を置くことであり、どうやれば完成するのか?終了するのか?
「謝罪」というのは人間を作る重大なきっかけになる。
それでは「謝罪とは何か?」を考えていきましょう。
「申し訳ありません」「お詫びします」という謝罪。
これは「事実確認的発話」というそうだ。
自分の認識や心境についての事実確認的な発話であることもありうるのだ。(17頁)
それはその事実を認めるという行為。
「申し訳ありません。お詫びします」と言うと「私は何かをしでかした、やらかしてしまった」という事実を認める発言行為になる。
この事実を認めることによって、行為遂行「この後に埋め合わせをする行動を私は起こします」と宣誓することが謝罪のスタート。
この「謝罪論」(という本、著者は)古田徹也さんという方だが、本当に細かく攻めてこられる。
これも言われてハッと気が付く。
「世の中には軽い謝罪と重い謝罪があるぞ」と。
「軽い謝罪」とは
混み合う電車のなかで、−中略−
電車が揺れて、私は思わずよろめき、隣に立っている人の足を軽く踏んでしまう。(23頁)
この時に用いられる謝罪の言葉「失礼」「ああ、どうもすみません」、それから短く「どうも」という言葉で済むもので、謝罪の言葉そのものが日常会話に溢れている。
「すみません」これは人を呼ぶ時も使う。
その人を呼ぶ時の「すみません」もあるが、人から何かお土産を貰った瞬間も「すみません」。
人に多少なりとも負担などをかけること(あるいは、すでにかけてしまったこと)の認識を含み、相手に対して恐縮する思いや、相手を気遣う思いを示す言葉として、呼びかけや感謝の場面においても「すみません」が使用されるようになったと思われる。(41頁)
外国の人がもの凄く不思議がるのが「どうも」。
「どうも」は凄く不思議に聞こえるようだ。
「どうも」は感謝の時も使う。
何にでも使う。
ビールを注がれて「ああ!どうもどうもどうも」。
こんなふうにして日本の日常会話の中では軽い謝罪の言葉が儀礼的に使われるという。
これが重い謝罪になるともう「失礼」「どうも」「すみません」では済まなくなる。
重い謝罪の場合、人間関係に於いて人は社会に一定の持ち場を持っている。
社会人、学生、子供、独身、男性、女性、芸能人、プロスポーツ選手等がその時、過失によって誰かに謝罪せねばならない時、重い謝罪の場合は「すみません」では済まない。
なぜならその「お詫びします」の一言で責任、誠意、赦しを被害者に宣誓することで「『すいません』ではすみません」という。
ここに言葉遣いの難しさがある。
謝罪は、被害者の精神的な損害を修復するだけではなく、加害者と被害者の間の人間関係を修復ないしメンテナンスする、という機能も果たしうると言える。(71頁)
何の為に謝罪するかというと「この後、あなたとの関係を回復したい」その為の謝罪。
一番重大なことは被害者の尊厳、自尊心、そういうものを回復すること。
自己の存在の価値を肯定する、その肯定を回復するところまでお詫びし続けなければならない。
相手が無くした自分に対する肯定感を回復する。
その回復する力を持っている人は誰か?
それは謝っている人しかいない。
「俺が悪かった」というヤツ。
浮気をした時の謝罪とか。
「俺が悪かった」
「悪かった」では済まないと思う水谷譲。
謝ればいいというものではない。
「警察はいらない」とか、いろんなけなし方がある。
被害者の尊厳や自尊心の回復に資することがありうる。(96頁)
難しいもの。
自然災害であれ、過失による事故や意図的な犯罪であれ、突然の災難に巻き込まれて重大な損失を被った当事者は、往々にして、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと問う。(84頁)
これはよく裁判なんかでも被害者の方がおっしゃる。
「何でそんな目に遭ったのか?」という理由が欲しいという。
加害者に求められる。
それは「意味が知りたい」とかではなくて、自分の中でその不幸になった理由を自分に納得させない限り自分を回復できない。
これは皆さん申し訳ない。
いろんな謝罪の例があるのだが、生々しいのは(この「今朝の三枚おろし」は)朝の番組なので取り上げない。
抽象論でいくと思うが勘弁してください。
「ああ、そういえば」と皆さんの頭の中であの謝罪、この謝罪をいろいろ重ねながら聞いていただくと、「謝罪の本質」みたいなのが見えてくると思う。
そのへん、お付き合い願いたいと思う。
「責任」にあたる英語の言葉が、応答や説明の可能性ないし能力を原義とするresponsibiliryやaccountabilityであることを思い出すまでもなく、自分が被害を与えた相手を気遣い、相手のために何かをしようとするのであれば、相手が知りたいと切に願うことに極力応答しようとする意志を人は働かせるはずである。(85〜86頁)
世の中には「報復」「制裁」「処罰」としての謝罪もある。
つまり「やり返す」という。
そうしないと「謝罪していると認めないぞ」という。
この報復や制裁や処罰という謝罪を要求する。
その中で一番多いのが「土下座の要求」。
これは日本社会の中では往々にしてある。
テレビドラマ『半沢直樹』の最終話−中略−
において、主人公の半沢は、−中略−
その場で土下座をするように迫る。(92頁)
この場合はもう「謝罪」というのが完璧に「制裁」「報復」「復讐」になっている。
現実として土下座で済む謝罪はない。
土下座したからといって謝罪したことにはならない。
謝罪とは赦しか刑罰を終止符にする。
「もうあなたは許してあげよう」というのでエンド。
或いは「あなたは禁固百年」とかという刑罰になった場合はそれで謝罪は成立して終止符が打たれる。
応報刑論の−中略−
悪行(=犯罪という作用)に対して悪果(=刑罰という反作用)を返すことで、犯罪により生じた不均衡を正し、正義を修復する(100頁)
(番組では「ホウフク刑」と言っているように聞こえたが、本によると「応報刑」)
「社会に対してこのようなことをやってはならない」「こんな目に遭うぞ」という警告の為にこういう刑罰。
実はこれが「謝罪」。
被害者と加害者をはじめとする当事者が直接会って和解−中略−
を目指すメディエーション(madiation:調停、仲裁)のプロセスを重視している。(112頁)
外国との揉めも事や何かで、全然動かないという問題もある。
日韓問題がそう。
一番問題なのは何かというと、日韓の間にメディエーター、仲介者がいない。
感情的に納得のいかない人が韓国サイドの方におられて、なかなか和解が成立しない。
一番の問題は日韓共通の仲介者の不在。
原発事故や公害問題等が長引くのは、謝罪はあっても「こういうふうに原発事故に対処したんですけど」と言うが「だったらその前に何で原発をここに作ったんだ」とかということになると立場が違うと謝罪の意味がなくなる。
このあたりが難しい。
この「謝罪論」をまとめている時にテレビで見たニュースでちょっと気になったもので、それを走り書きしている。
これは昨年の暮れのこと、アメ横に立ち飲み酒場があって、そこに何台か監視カメラが付いている。
それで非常に自由なアメ横の立ち飲み酒場で、店員の方はお金を徴収するレジの方にしかいない。
後、みんなお酒を貰ったら各所のテーブルに散らばって呑んでいる。
ところが、出口に近いものだからカネを払わずに、人混みに紛れて逃げたヤツがいる。
それを今、監視カメラがあるので、それで映っている。
それでテレビ局が取り上げて「こんなセコい犯罪やってるヤツがいますよ」というのを夕方のニュースで流した。
昨今、皆さんもお気づきだろうと思うが、あちこちに監視のカメラがあるので、この手の犯人の行動が報道で流れやすくなっている。
よく無人の野菜売り場から持っていってしまう人とかも全部撮られたりして流されている。
テレビ時代というのは目に映るものがあればネタになるので。
これは武田先生がもの凄く記憶に残ったのは無銭飲食をしてスッと逃げたヤツがいる。
態度も堂々としているので、何というか横着な若者二人。
テレビメディアの人が経営者、若旦那に「腹立つでしょう」か何か言ったら、旦那がゲタゲタ笑いながら「警察に訴えたりなんかし無ぇからよ、早く払いに来い」と、それでお終い。
その「謝罪を求める」という気持ちがもの凄く太っ腹な人で。
余りにもセコい話なので。
何百円の話。
それを大事にしないでアメ横の下町らしく「警察に言ったりしねぇから、早く払いに来い」と。
恐らく顔もしっかりわかっていて、もしかしたら逃げた二人は常連さんかも知れないという。
「謝罪が無言のうちに成立する社会というのはいいな」と思ってパッと貼り付けた。
謝罪というのはかくのごとく、求める人の態度如何にとっては本当に軽く明るい話題になったりする。
理屈っぽくいく。
謝罪論。
哲学者ウィトゲンシュタインは「謝罪というものはゲームに似ている」とその書にかいている。
(このあたりの説明は本の内容とは異なる)
「ゲーム」と呼ばれるものすべてに共通する特徴(=ゲームの本質と呼びうるようなもの)を見出すことはできない。にもかかわらず、−中略−
「ゲーム」という言葉で括られる一個のまとまりを見て取ることができるのである。(137頁)
種々の事物同士の家族的類似性によって緩やかに重なり合い、輪郭づけられる。そしてそれは、謝罪という概念についても同様である。(138頁)
「謝罪は、−中略−
人間関係を修復するという目的を達成するための行為である」(148頁)
武田先生はアメ横の飲み屋さんの話をしたが、その人はこの「人間関係の修復」を信じておられる。
「謝りに来りゃぁ許してやるよ」と「云百円のことだよ、云百円払えよ。それで何も無ぇからよ」みたいな。
謝罪というものがそこに成立する為には「この関係を修復したい」という強い情熱がなければならない。
謝罪だけをうまくやって切り抜けようとしたり、解決しようとする。
そうすると打算とか戦略はすぐに見透かされてバレてしまう。
英語の「regret」という言葉は、−中略−
(1)ある出来事について残念に思うという意味と、(2)その出来事の生起に深くかかわる自分の行為を後悔するという意味の、二種類の意味をもちうる。(174頁)
ある男性が、仕事でトラックを走らせているとしよう。彼はずっと完璧な安全運転をしていたのだが、道路脇の茂みから急に飛び出してきた子どもと衝突してしまう。−中略−
その子どもは数時間後に病院でなくなってしまった。−中略−
子どもが飛び出すことをトラック運転手が予見することは不可能だったし、衝突を回避することも不可能だった。それゆえ、彼は誰にも非難されず、罪にも問われなかった。(170〜171頁)
ドライバーは、「自分がもっと注意して運転していれば、事故を避けることができたのに……」という風に後悔する。(175頁)
これを「regret」という。
(本によるとこれは「agent-regret」として「regret」とは区別している)
ここで重大なのは例えばこの子が死亡した場合、ドライバーは法的な罪を負わず許されたにしても、彼はその子の親立に謝罪をする、赦しを請う。
この場合、最も重大なのは「心情を伝えたか伝えなかったか」という。
ここから話はどんどんまた難しい方に行ってしまう。
謝罪というのは千変万化。
いろんなケースがある。
イスラエルとパレスチナの場合、これは本当に困ったことだが「先祖が被った損害を子孫が負え」といわれていること。
「三千年前ぐらいはここは俺ん家だった。ちょっと留守してる間に土地取られたんだから返せ!」という。
そういう先祖の被った損害とか、そういうものが21世紀に問題になっている。
これが意外と世界で今、頻発している。
だから物事を今日という次元だけで解決できない。
問題にも時間的な深さがあるという。
その中で、どこかで世界基準を作らないとダメだという、そういう動きが今、あるそうだ。
歴史的補償の要求を、以下の四種類に大別している
(1)過去のある時点で不正に奪われた土地、貴重な芸術作品、神聖な事物について、その所有者の子孫が返還を要求すること。
(2)奴隷や植民地の住民といった搾取の被害者の子孫が、祖先の手から奪われたのと同様の価値を有するものを要求すること。
(3)暴力や拘束など、被害者に危害を加える行為がなされたことに対して、被害者当人やその子孫に対し、金銭等の物質的な補償を行うよう要求すること。
(4)不正を犯した者に対して歴史をありのままに記録し、歴史的な不正の責任を認めるよう要求すること。(203〜204頁)
(番組では国際法で定められているような説明をしているが、デイヴィッド・ミラーによる分類。この後も「国際法」という言葉が番組内で何度も使われるが、本の中にはそういった言及はない)
この四つの、時間がすっかり経ってしまった謝罪問題について求められるのは難度が高い。
徴用工問題が韓国でまた問題になっているようだ。
また日本の責任を裁判所が認めたようだ。
国と国の(謝罪は)難しいと思う水谷譲。
でも、ここで少しスッキリする意味で、「国際的にどうなのか」という引き絵の中でこの国際的な問題を、様々な紛争地での問題を考えていこうというふうに思う。
浅くて深い、深くて浅いという当番組。
懸命に語っていたが、だんだん水谷譲から目の輝きが失われていって「…んだ屁理屈かよ」みたいな。
この本は「何とか面白はもの凄く丁寧に謝罪を哲学的に分析なさっているので。
本当に申し訳ない。
ずっと読んでいるのだが話が展開しない。
ワリと吹雪道みたいにグルグル同じところを回る。
だからなるべく一周したら別のところに行くようにしてアレしている。
そうすると謝罪の難度、難しさというのが…
(本には具体例は)無い。
それは真似しようと思った。
それで皆さんにちょっとお願いして、いろんな会見を、或いは国際問題を連想しながら聞いていただければ。
日韓というのが非常にわかりやすいので敢えて。
ちょっとそこの浅い喋りっぷりでまことに申し訳ないが。
歴史認識問題とか、ウクライナもそう。
あれは歴史問題。
もうプーチンさんはきかない。
「うちのもんだ。うちのもんだ」と言って。
それからどこかでやるつもりでいるのだがパレスチナ問題もそうで。
ちょっと今回は話を脱線させるが、あそこは国際的な紛争がもの凄く多いところで。
問題の始まりは三千年前。
旧約聖書に書かれている、あそこに昔ユダヤの人達の王国があった。
それがイスラエルの民が世界中に飛び散った後にアラブ系の人が住み付いたという、三千年の時を超えてなので大変。
それはイスラエルの人からすると「いや、もともとここは俺のもんだ」というのがあるだろうが、アラブの人にとっては「何百年もここに住んでいて突然『出ていけ』というのは何だ?」という。
それに割って入れる国なんてそんなにない。
イスラエル問題、中東問題は遠い問題。
でもこれは昔、そのユダヤの人達の王国があって、浮沈を繰り返している。
消えて無くなったりまた生まれたりという。
それで十ぐらいの部族がいて、それが世界中に散ってしまうのだが、東の方に行ったきり帰ってこない部族が一つあって、それが日本人じゃないかという説があって。
そういうことも込みで何かこうアラブ問題、イスラエル問題をこの「(今朝の)三枚おろし」でやってみようかと思って。
三千年前の話を一回してみようかなと思う。
何回説明を聞いてもなかなか理解ができない水谷譲。
だから宗教とか歴史、そういうものが絡むと人類というのはもの凄くややこしくて謝罪が成立しない。
「謝罪が成立しない」ということがいかに大変かというのを、その戦争が未だに謝罪が成立せずに戦争が続いているワケで実に重大。
領土、歴史、宗教、差別。
これが絡むと人類は謝罪によって解決しようなどという知恵が全く無くなるようで、仲介者がいないと話し合いすらないという。
謝罪というのは決してこれは恥ずかしいことではない。
ただしそれはやはり苦しいこと。
「謝罪する」ということ、それが人間が賢くなるたった一つの道のような気がする。
やはりそれは人生で体験しなければならない学び。
それが謝罪。
イスラエルの人もガザの人も聞いてください。
プーチンさんも聞いてください。
「謝らないことが強いことではない。強いとは自分が弱いということを認めていることなんだ」という。
よく「謝ったら負けだからね」みたいに言うことがあるが、それは間違い。
それは間違った教育。
弱さを認めるところに強さがある。
弱さを認めない人。
それは強情なだけ。
もう絶対謝らない人に「何で謝らないんだろう」といつも不思議に思う水谷譲。
その人達は「謝ることが弱いことだ」と思っている。
違う。
「謝ること」というのはやはり強いこと。
謝罪。
その一点を考えて来週もまたご披露したいと思う。
繰り返すが、日本での謝罪会見等々の例は挙げない。
あくまでも広い見地で「謝罪」という行為というのを考えていこうと思う。