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2024年08月21日

2024年4月29日〜5月10日◆Why Study Japan?(後編)

これの続きです。

「アメリカは非常に男性的価値観の強い国である」ということで先週は終わった。
だからスラングみたいなものもいわゆる「男の子用」にできているという。
例えば「ギャングスター」というような意味は「カッコいいヤツ」だ。

スポーツチームの名前としては、「戦闘士」を意味するFighters、Chargers、Knights−中略−だけでなく、「強盗団・襲撃隊」などの犯罪集団を指す−中略−Vikingsなどもよく使われる。(131頁)

考えてみれば「ニューヨーク・ヤンキース」と言う。
「ヤンキース」だから大変アメリカの方に失礼だが「アメ公」とかという意味。
何せ「ヤンキー」だから。
日本で言うと「ジャップ」という。
「日本ハムファイターズジャップ」とかとそういうのと同じだから。
それで水谷譲が「ウソ!」と叫んだのが大谷のいる「ドジャース」。
スラングで「いかさま野郎」という。
いい意味ではないということ。
だからいい意味なんか付けてはいけない。
そういうのはシャレっ気がない。
疑う方がいらっしゃると思うので、繰り返し言っておくが「ドジャー」はスラングで「いかさま野郎」。
これはどういうアレかというと「dodge」。
これが別の競技で言うと「ドッジボール(dodgeball)」。
飛んでくるボールを避ける・よけるという「ドッジ」。
この「避ける・よける」が「言い逃れする」というスラングに転じて、ごまかすという「いかさま野郎」という。
それが「ドジャース」という。
こういうアメリカ、男性社会に対して日本文学はまことに女性的。
日本は「困った時の女頼み」というか。
揉めたら揉めたで卑弥呼を持ち出して連合国家を造ったりするし。
アメリカというのは男性社会なのだが、アメリカのちょっとしたアキレス腱があるのだがそれは何か?
異文化を必要としている。
アメリカという国はよその国から流れ込んでくる文化がないと呼吸できない。
そういう国だと思う。
アメリカのハリウッドで西部劇もので大ヒットした「荒野の七人」

荒野の七人



ユル・ブリンナー主演で、ティーブ・マックイーンとかが出て来る。
もうそれは錚々たるガンマン、いわゆるドラマの主役たちが七人出て来る。
日本の「七人の侍」のアメリカ版。

七人の侍



「セブンス・サムライ」という異文化が流れてこないと西部劇の「荒野の七人」ができなかった。
「スター・ウォーズ」もそう。
チャンバラだから
チャンバラの後、スター・ウォーズは何になったかというと「ドラゴンボールZ」になる。
そういう流れ。
最後の方は手から光線ばかり出している。
あれは「かめはめ波」。
あの大作家がお作りになった「かめはめ波」というのは流行る。
日本人は手から光線を出すのは好き。
ウルトラマンも「シュワッチ!」と言いながら出してしまう。
あれは何かというと「気を出す」という。
気で相手をやっつける。
それの視覚版が「かめはめ波」だったり「スペシウム光線」だったりするという。
そういうものをアメリカは異国から貰ってアメリカ化するところにアメリカが・・・
その典型例がゴジラ。
ゴジラはアメリカで当たった。
でも結局、その成功の全てを横からかっさらったのが「ゴジラ-1.0」。

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ゴジラが登場するその前の物語、エピソード1をゴジラでやった。
フェイク、デマ、偏見、差別、そういうものを避ける為に必要なのは一貫した物語、ストーリー。
ストーリーという文化。
歴史も神話も宗教も政治も音楽も実はこれは全てストーリー。
人間が深く記憶する為に脳は「エピソード記憶」といって物語だったらよく覚えるという。
その為に人間にはどうしても物語が必要なのだが、この21世紀に入ってからの世界は何かというと各国バラバラの物語が暴れ回っている。
まずはロシアの物語。
とにかく「ウクライナは自分のもんだ」と言い張るというロシア主義の物語。
プーチンは凄いことを言う。
「世界にロシアがある。ということはロシアのいない世界に何の意味もない」
だから世界は、ロシアが無ければ原爆で滅んでもいいんだ。
「ここまで言うか」という。
それからアメリカ、トランプさん。
「もう一度偉大な国へ」
充分偉大だよ、知ってるよ、そんなことは教わらなくても。
それからアジアの屈指の大国・中国。
「台湾私のものです」「南シナのあの海、あれ全部私どものもんです」
それからイスラエル
「三千年前からここはウチのもんでした」
これは物語なのだが、この彼等の持っている物語は現代社会に合わなくなってきている。
今、世界は何を求めているか?
新しい物語。
それはどこにあるか?
もしかすると、この国(日本)にあるかも知れないというのがインバウンドが増えている理由ではないかと思ったりする。

反面教師で、いい人が見つかった。
この方もアメリカの方。
クリストファー・ローウィという方でカーネギーメロン大学。
金持ちでメロン喰ってる人がいるというような大学。
カーネギーメロン大学で教鞭を執っておられる方。
(カーネギーメロン大学現代語学部助教授)
この方も日本に猛烈な面白さを感じたという。
この方は非常にマニアック。
日本文学を研究する彼、エッセーで日本のことに関してこんなことを言っている。

 身も蓋もない言い方だけれども、日本の表記体系は、変だ。3つの異なる文字体系(漢字・平仮名・片仮名)が常に同時に使われているだけでなく−中略−もう1つのすごい特色は、−中略−「行間注釈」と呼ばれるもののおかげで、頭注や脚注に頼らずに、同じ文の中で言葉に注釈をつけることができるという点だ。(107頁)

あれは世界にないのか?
でも海外の文献にもある気がする水谷譲。
これをクリストファーさんは「変だ」とおっしゃる。
だからもしかしたら司馬遼太郎の時代小説なんかを挙げておられるのかなと。
この行間注釈、司馬遼太郎の作品では違う言い方をしていて「閑話休題」と言って登場人物の話をしていたら別の話を入れたりする。
そのことを言っているんじゃないかな?と思って。
(本の中に登場する「行間注釈」は漢字や熟語に標準的ではない振り仮名を付ける行為のみを指しているようだ)
例えば今でも覚えているが「竜馬がゆく」。

竜馬がゆく(一) (文春文庫)



岩崎弥太郎という土佐・高知の低い身分の侍が出て来る。
それが竜馬と絡む。
それでいつも兄貴分の竜馬にコテンパンにやられている憎めない岩崎弥太郎なのだが竜馬が「土佐を愛する、愛さない」の論争をしている時に岩崎に「おまん、土佐の為に死ねるがか?」と言う。
「死ねるワケないだろう」という意味で訊いたら、岩崎が「いや、俺は死ねる!土佐藩の為にビョウドウ号の為にいつでも死ねる。ハクショウキの為ならば命を懸けるが土佐武士よ」という。
(このあたり、正確な音とか表記がわかりませんでした)
ハクショウキというのは土佐藩の柏の葉っぱが三枚に連なっているのがハクショウキと言って土佐藩、山内家の家紋。
その「柏の葉っぱ三枚の為に死ねる」といった岩崎なのだが、突然司馬さんが話をポンと横道に逸れて「実はこのハクショウキの紋所こそ後に岩崎が起こす大きな海上貿易会社の三菱のマークになった原案である。山内家の紋章が三菱のマークになった」。
それをポコンと入れてくる。
もう「これが三菱?」みたいな。
横にある電化製品のそのマークの始まりが「竜馬がゆく」の中に出て来る。
司馬さんの文章は現代とジョイントする。
それがもう胸がワクワクする。
そういう突然物語を中断してまで現代の痕跡をまぜたりするという、そういうことをやることが著者に許されているという。
このクリストファーさんは日本の小説の異様さを挙げてゆかれる。
これは司馬作品に於いてちょっと話が出たので続けてゆくが、司馬さんがよくおやりになる文章の書き方で「おまんそれでも武士おとこか」。
日本ではそういうことをやる。
北島三郎さんが歌った「函館の女」と書いて「ひと」と読ませる。
作者の意図で漢字の読み方を変えるという。
「本気」と書いて「マジ」と読むと思う水谷譲。
「そういうのは世界にありませんぜ」という。
その面白さというか、このクリストファーさんは書き方が上手。
「それを何で日本の人は当たり前だと思ってんの?そんな文学を持ってる国は無いですよ」という。
彼、クリスは世界の表記・文字について関心が高い才能の人で、難解な文章を解き明かしていくのがゲームのように楽しかった。
(この後の話は本の内容とはかなり異なる)
だからこの人は暇な時はエジプトのヒエログリフを解いて遊んでいた。
ヒエログリフより面白かったのが日本の文学作品。
それでこの人は早稲田とか仙台の教育大学なんかで学ぶうちに「やってみろよ」と言われたのが中学校に於ける漢文の先生。
僅か二年程の日本の留学で日本の近代文学を楽しむ程の語学力を獲得したクリスは日本語を学びつつも中国の唐の時代の詩を学んだという。
クリストファーさんは漢詩は楽勝。
この人は語学の天才なので。
漢字の意味なんてたちまち理解できたのだろう。
もう一つ漢文が楽勝だったのは英語の並びが同じ。
ところが彼が日本の書き下し文を見た時に引っ繰り返る。
(番組中に何度か「読み下し文」と言っているが、本に従って全て「書き下し文」に統一しておく)
どう引っ繰り返ったか。
この人が一番びっくりしたのは何かというと日本の書き下し文。
何で驚くかというと奇妙な記号を用いて、原文を読まない。
漢文を中国語で読まなかった。
レ点とか、記号で「これは先に読む」とか「ここはひっくり返す」とか、よくもまあそんなことをやったもんだ」というのが・・・
あんなことをやっているのは日本だけ。
一番の不思議は「何で日本語で中国語を読んだのか?」。
しかも奇妙な記号を作って。
レ点、一点、二点、上点、下点。
これだけある。
このクリスさんが驚いたのは「これじゃあ曲芸じゃないか?」と
クルクル回して。
大事なことはその本文のテキストを書き直すとかということではなくて、そのものを日本の国語にしたことだという。

書き下し分は、しばしば書き下す人の主観に左右されるため、同一の白文から、複数の正しい書き下し文が生まれることがある、ということ。(109〜110頁)

例えばわかりやすいヤツを持って来たのだが
「少年老い易く学成り難し」
勉強した。
これは漢字の順番で言うと「少年易老難學難成」。
これを入れ替えて「少年老い易く学成り難し」と、こう読む。
ここからある意味で漢字解釈というのは本家の中国から離れてしまう。
つまり漢文を書き下すことに於いてはもの凄い自由が認められるワケだから
例えばこれは唐の詩人が読んだ名句だが「人生足別離」(唐代の詩人于武陵の「勧酒」)この五文字の一行がある。
「別離は人生の常である」という淋しさ、やりきれなさを詠っているのだが、これを昭和の作家井伏鱒二は何と書き下したか?
「サヨナラだけが人生だ」
これは漢文から。
こんなふうに読み下し、書き下ろしたワケで。
「別離は人生の常である」というのと「サヨナラだけが人生だ」。
まるでシャンソンのようなタッチになる。
こういう書き下す読み方の自由度が文学の中にある。
「それも正解、これも正解」という
漢詩を日本人独特の工夫で日本の文芸に改編した。
それでクリスさんが最も驚いたのが

ある日、腹ペコの僕は、東京にいて、まあまあ有名なラーメン・チェーンの、−中略−季節限定メニューを見ていた。−中略−僕の目が釘付けになったのは、−中略−カウンターの後ろに貼られたポスターの紙幅一杯に書かれた文字の列だった:「旬を!〈˄˄〉たの!しむ。こころ温まる」。
−中略−絵文字に平仮名の注釈をつけるという技は、それまで見たことが無いものだったからだが(110頁)

日本人は漢字、平仮名、片仮名、アルファベット、絵文字まで使うのか!?という。
(海外にはそういうのが)あるワケがない。
矢印等々、一方通行等々は国際基準で決まっているが、トイレのマークから何から。
(絵文字を読ませるとしたら)日本人のマネをしている。
たまに「あなた」という「you」をただのアルファベットの「U」とかそういうのはあるが、絵文字を(読ませるというのは)無いと思う水谷譲。
それが彼にとっての驚きは中華屋さんのメニューで壁に貼ってあったという。
それを我々はみんな読んでいる。
「あ〜じゃあ冷やし中華いこうかな〜」「冷麺いこうかな」なんて見ている。
この絵文字でさえもいわゆる言語習慣の中に取り込んでしまうというところに、彼はピーンときて「これか!日本の漫画文化は」と。
漫画文化というのはこの絵文字を使った物語の描き方なんだという。
これを言われてみると確かにそう。
やはり「鬼滅の刃」とかを見ていると鬼のヤツらは只者ではない。
悪そうな顔をしている。
漫画文化の底辺にあるのは平仮名・片仮名・絵文字文化の並んだ漫画表現。
そういうものが日本人のいわゆる「読み」のセンスの中、「リーディング」の中にあるという。
これほど幅広い読書世界を持っている国はザラには無い
不思議な国、日本の旅、続けましょう。

異国の人の目になって日本を眺めてみる。
自分が当たり前のように触れて来たことが「そうか凄いこと我々はやってるんだなぁ」と今、思っている水谷譲。
四つぐらいの言語を自在に織り交ぜて伝言を残したりメッセージを送ったりしているワケで。
クリスさんの驚きはそればかりではない。
この人は井上ひさしさんの「吉里吉里人」。

吉里吉里人(上中下) 合本版



同書は、−中略−吉里吉里と呼ばれる架空の村に住む、貧しい住民たちの生活と、吉里吉里人による日本からの独立宣言を描いた小説だ。(117頁)

これは東京の文化を日本の文化と同一している日本人に対する反論で。
「『日本の文化は東京の文化』違うよ」
井上さんはそれを言いたかった
井上さんは日本というのと東京というのを全然別物。
日本には田舎がある。
武田先生もそう。
田舎者。
でもそのことが日本の証。
それで中央集権化に抗う井上さんの想いがこの中にあって。
周辺を「田舎」としてそういう風潮に反論を申しているという。
東北弁を公用語として標準語へ反論するという手法が取られている。
この井上さんの文章がクリスさんはラーメン屋で見たメニューほど仰天という。
物語の中で吉里吉里国へやってくる東京人を何と表現したか。

吉里吉里人としとば識別するんでがすと。(115頁)

これは方言。
漢字を書いておいて、それをわざわざ方言のルビを打って「そであるもの」と「そでないもの」という。
それで吉里吉里人と東京人を分けた。
井上さんが言いたかったのは「地方と東京って別世界なんだ」「別個の言語世界を持ってるんだ」。
武田先生は断固博多。
「それを主張するところに日本の面白さがある」という
これはクリスさんよく気が付いた。
日本人が作った漢字というのは中国では通用しない。
「飛行場」のことを日本では「空港」。
いい響き。
空の港。
中国では「飛行場」のことは何と言うかというと「机场」。
「机」の「場」所。
日本は「空」の「港」。
中国は内陸部が深いので港を見たことのない人がいる。
故に飛行場で一番先にやることは搭乗手続きなので、「カウンターでチケットやります」というので机の場所。
(6月24日の番組内で「搭乗手続きに必要な机という意味ではない」という訂正があった)
「手紙」というのは日本では「レター」だが、中国ではトイレの紙のことを「手紙」と書く。
手で扱うから。
かくのごとく全然違ってきてしまった。
「漢字を生んだと称する中国と、この距離の遠さが」という。
横山悠太さん(の小説を)ちょっと読んだ。
あまり深くご説明できないのだが、この横山悠太という方は中国の血も入っておられる方らしくて、この方が「吾輩ハ猫ニナル」という作品を書いておられて、この方の文章が最高。

吾輩ハ猫ニナル



漢字の書き方が日本と中国の使い方で書かれている。
まあ読みにくいの何の。
それぐらい小説世界を描く時に漢字を用いて、それも中国の書き方の漢字で書くと、もうワケわかんなくなる。
中国で使う漢字と、日本で使う漢字はそれほど距離が離れてしまったぞという。
その面白さがある。
日本の漢字の読み方は漢字が入って来た時の中国の人の読み方、あるいは唐の時代の漢字の読み方。
それをまだちゃんとやる。
「生」という字も「生(い)きる」、から「福生(ふっさ)」から「ふ」(「芝生」など)から「羽生(はにゅう)」から「羽生(はぶ)」まで一文字の読み方が200通りぐらいあると言っていた。
つまり全部読み方を取っている。
「日本には首都圏がある。でもそれと同時に地方があるぞ」ということに最近のインバウンドの異国の人が気付いた。
その「日本の地方」に最初に気付いた人は誰か?
もう一回繰り返す
やっぱりこの人。
ドナルド・キーン。
ドナルド・キーンにまつわる施設がある
彼の記念館がある
新潟・柏崎市にドナルド・キーンがアメリカで使っていた書斎がそのままある。
ドナルド・キーンがニューヨーク・マンハッタン、アッパー・イースト・サイドのアパートに住んでいた時の書斎、それがそのまま長岡、柏崎にあるそうだ。

2007年、柏崎の海岸17キロ沖で発生した、マグニチュード6.6の中越沖地震である。−中略−1000人以上の怪我人と−中略−惨事となった。そして、その数週間後、柏崎市役所の−中略−電話が鳴った。−中略−電話をかけてきたのは、米国コロンビア大学名誉教授・日本文学の大権威のドナルド・キーン博士で、そのキーン博士が14世紀に即身仏となった、弘知法印という巧妙なお坊さんの伝記を基にした、江戸時代の説教浄瑠璃の復活上演を柏崎で行いたい、と申し出てきたのだから。その『弘知法印御伝記』という古浄瑠璃は、1685年(貞享2)以来上演されていない幻の作品で、しかも弘知法印のミイラ化した遺体が、柏崎から車で40分の新潟県長岡市の寺に安置されているというのが、柏崎での復活上演という提案の説明だった。(137頁)

長年行方不明だった、『弘知法印御伝記』の絵入り浄瑠璃本が、大英博物館で発見された(138頁)

誰も知らなかった。
「ミイラがある」ぐらいはぼんやり知っていたので、どんな坊さんか浄瑠璃になったかとか全く知らない。
ところが、米コロンビア大学の大学教授が「素晴らしい人です」と言うから、しかもイギリスから台本を取り寄せて日本で上演する浄瑠璃の一派はキーンさんの知り合いでいるからという。
誰も知らなかったことをキーンさんが知っていたという。
これはロバート・ケネディを思い出す。
ロバート・ケネディというアメリカの大統領の弟がやってきて訊かれる
「日本で何か尊敬する人がいますか?」と言ったらロバート・ケネディが「米沢藩の上杉鷹山です。彼は素晴らしい言葉残しました。『為せば成る、為さねば成らぬ何事も』」。
そうしたら国会議員が終わったら一斉に勉強に走ったという。
ロバート・ケネディさんが知っていたので上杉鷹山はいきなり値打ちが上がる。
同じこと。
「外国人が騒ぐぐらい凄い人なんだ」というので

上演会は現実のものとなった。この、被災2年目を迎えようとしていた柏崎での大イベントは、地方メディアだけでなく、全国の新聞・テレビ・雑誌などで絶賛された。(138頁)

地元柏崎に本社を置くお菓子会社がもの凄く感謝した。
ドナルド・キーンさんがやってくれたのでそのお菓子会社が凄く感動してドナルド・キーンさんを文化的に懸賞したいというので

キーンのアパートをニューヨークから柏崎へ移築する計画が、着々と進んでいた。−中略−総計2500点以上のアイテムが柏崎に空輸され、それらがひとつひとつ、マンハッタンのキーン宅を厳密に再現すべく、「新居」に再配置されたのだ。(138頁)

(番組ではキーンが亡くなってから移築と言っているが、「ドナルド・キーン・センター柏崎」の開館は2013年でキーンは2019年没)
いい話。

この一大事業に要する莫大な費用は、スーパーのお菓子売り場でおなじみの、ブルボン社の寄付によって賄われた。柏崎に本社を置くブルボンは、1923年の関東大震災直後に設立された製菓会社で、その使命は、自然災害などの非常時に非常食として活躍する、高栄養・高品質のビスケットを製造することであった。関東大震災という、近代日本でも異例の大災害を背景とした同社の成り立ちを考えると、キーンが中部沖地震・東北大震災という、2つの天災を契機として起こした行動と文化的貢献に、彼らが賛同し、援助を買って出てくれたのも、納得がいくことかもしれない。(138頁)

今でも「ドナルド・キーン・センター柏崎」はやっているので是非覗きに行ってください。
ドナルド・キーン・センター柏崎 | ドナルド・キーン・センター柏崎の公式サイトです
これは恐らくキーンさんがアメリカの学生達に教えた言葉ではないかと思うのだが、この著者も書いておられるが「雨足」。
「伊豆の踊り子」なんかであった。

伊豆の踊子 (角川文庫)



道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。(川端康成「伊豆の踊子」)

こんな言葉を持っているのは日本のローカルだけだ。
(本によると古典中国語から派生した言葉とのことなので日本限定ではないと思われる)
だって雨に足がある。
それが自分のところに近寄ってくる音が聞こえるので「雨足」。
そうやって考えるとこれは江戸で生まれた言葉ではない。
峠道のある田舎で生まれた言葉。
つまりキーンさんが夢中になったのはローカルが持っている豊かな日本言語の世界。

『枕草子』と言えば、−中略−フィンランド出身のミア・カンキマキ氏が『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を日本で刊行し、話題となった。この本には、−中略−清少納言という人物を、親しみを込めて「セイ」と呼び、深く理解しようとする著者の姿が描かれている。(103頁)

清少納言を求めて、フィンランドから京都へ



これは本当にこぼれ話。

上半身が馬の姿をした馬人の島、女性ばかりの女護島、小人の住む小さ子島など、様々な島を旅するという話である。『ガリバー旅行記』との類似性は以前から注目されていたが、スウィフトが日本の絵入り本を目にしていた可能性があることから、『御曹司嶋渡り』から『ガリバー旅行記』への、より直接的な影響が検討されはじめているのだ。(104頁)

世界の物語は影響し合う。

2024年4月29日〜5月10日◆Why Study Japan?(前編)

まな板の上は「Why Study Japan?」。
「なんで日本なんか勉強すんの?」
そういう意味。
「WHY JAPANESE」というのがあったが。
あれと同じ。
「Why Study Japan?」

なんで日本研究するの?



これは新聞の書評欄に載っていた本で文学通信という出版社から出ている。
まあ、読み出すと一気。
理由は簡単。
これは「最近インバウンドのお客さんが何でこんなに日本、増えてんのか?」。
日本は「極東」。
「東の果て」という意味で。
武田先生の大好きな哲学者、フランス哲学の内田樹先生はこの日本のことを論ずる本のタイトルを「日本辺境論」とした。

日本辺境論 (新潮新書 336)



ここは辺境。
しかも世界史に登場したのは明治維新から40年ぐらいかかって、その後はもう惨憺たる戦争で大日本帝国という看板を降ろした国。
「そんな国に何で来るんだ?君たちは」と。
見どころはいっぱいあると思う水谷譲。
京都、清水寺、広島、秋の宮島、見に行きたいのではないかと思う。
水谷譲が新しいからそんなことを言う。
「二百三高地」という映画。

二百三高地



さだまさし君が主題歌を歌って

海は死にますか 山は死にますか(さだまさし「防人の詩」)

山も海も死なない。
あのラストシーンで夏目雅子が明治の女を演じていて、小学校の生徒に(先生役の)夏目雅子が教えた言葉が「美しい日本」。
それを書いた夏目雅子を見ながら吹き出しそうになった武田先生。
「どこが美しいんだ?肥溜めだらけの日本」
そんなふうに思った。
世代間。
ここから話さなければならないのでなるべく早く話すがお付き合いのほど。

この本を何で読みたかったのか?
「Why Study Japan?」
「何で日本、アナタ研究すんの?そんな面白い?この国が。面白いもんなんか無いよ」というのが武田先生の少年期・青年期・中年期にあった思い。
ところが昨今、水谷譲が言う通り、日本が変わった。
三月中旬だったが、ちょっと大阪の外れの町で歌を歌うことになって、そこまで行った。
奈良に近いその街へ。
帰ってくる新幹線、何と大阪の駅で柿の葉弁当を買うのに三十分並ぶ。
もう満杯。
その半分が驚くなかれインバウンド、外国の方。
武田先生達世代は戦後っ子として「民主主義の子」ということで育てられた団塊の世代。
だからやたら学校に話し合いが多かった。
クラス会とか朝の学級会、それから夕方、お別れの学級会等でお互いに討論するというのが流行った。
民主主義のルール、議長の元に話し合いをするというのは、父母がやったことが無い。
武田先生達が教えられたのは「思想的に正しいことは生きて行く上でとても大事なことだ」という。
「日本は間違った戦争から大敗北を経験したんだ。だから親の世代からすると敗北の無念を埋める為には勝者アメリカをマネすること」
そこから日本は始まった。
1950年代に子供時代を迎える。
武田先生達はどんな教育を受けたかというと豊かで景気がいいのはアメリカ。
思想的に正しい考えで国創りが行なわれているのがソ連、今でいうロシア、そして北朝鮮。
知的で政治制度がとっても優れているのはヨーロッパ。
それが教科書に書かれている内容で、基本的にはそういう教育。
北朝鮮映画とかを見ていた。
学校で見せる「北朝鮮がどんなに素晴らしい国か」。
「チョンリマ」
(1964年8月末に封切りされた『チョンリマ(千里馬) 社会主義朝鮮の記録』のことを指していると思われる)
タイトルも覚えている。
北朝鮮の政治情勢を描いている。
凄くみんなまとまっていてニコニコ笑っていて。
マスゲームをする人達の。
赤いマフラーをなびかせて北朝鮮の小学生達が元気いっぱい、金様の歌を歌いながら学校に行くという登校風景を描いたり、私有財産が無いからみんな争わない。
ニコニコ笑っている。
日本の外交官が書いた本で小学校時代にベストセラーになった本で「醜い日本人」

新版 醜い日本人 日本の沖縄意識 (岩波現代文庫 社会 14)



そういう思春期や青年期を体験していたら、アメリカがベトナムで凄い戦争を始めているという映像が流れ始める。
それが70年代。
日本は経済で見ると「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた。
ところがジャパン・アズ・ナンバーワンと言われながら「エコノミックアニマル」
「カネ儲けする為には24時間戦うジャパニーズ」とか「奴らはウサギ小屋に住んでいる」とか。
世界からまた見下される日本で。
ずっとそれで生きてきたら、これほどのお客さんが外国からやってきて「これは一体何なんだ?」という。

「Why Study Japan?/なんで日本研究するの?」
その一冊に出会ってもう無我夢中で読んだ次第。
これはもうひとえにインバウンドのお客さんの多さ。
外国のお客さんは本当にそこらじゅうにいる。
よっぽど来たくて来ておられるのだろう。
「インバウンド」と称する異国の旅人。
日本に溢れている。
「何でこんなにお客さんが増えたんです?」
誰も教えてくれない。
メディアも追いかけている人はいないだろう。
何でか?
「お土産は何買った」とか「何食べたか」とか、そればっかり訊いて回って根本のことを訊いていない。
時々変わったインバウンドの人に遭遇する。
大阪・堺の街でで遭遇した。
包丁を買いに来ている。
「堺でいい包丁売ってる」なんて誰が広めたのか?
それと泉岳寺に中東の人が来ている。
赤穂浪士の墓参り。
「赤穂浪士は侍のお手本だ」というので見に来たがる人がいるという。
他にも北海道には「雪質がいい」というスイスの人とかがいる。
(雪質は)スイスの方がいい。
何で武田先生が憧れたのか?
トニー・ザイラーとかというので。
「白銀は招くよ」
何で今、北海道が招いているのか?
北陸まで新幹線が走った。
どっと行っている。
季節もいいし。
神宮外苑の銀杏並木が色付いた時に外国の方ばかりだったと思う水谷譲。
そんなものは(日本でなくても)いくらでもある。
映画で「第三の男」で最後、ポプラ並木を女が・・・

第三の男(日本語吹替版)



あれは武田先生は憧れた。
それでダダダダダ〜ンダダ〜ン♪という。



神宮外苑はマネ。
それを見に来る人がいるという。
それから大阪城で巡り合った、葉っぱを落とす銀杏を見ながら感動しているインド人。
親子連れが嬉しそうに銀杏を見ている
子供がテンションが上がってしまっている。
何が珍しい?
でもふと考えたら「本国に帰って葉っぱを落とす木なんかないんだ」と思って。
ドイツ人で遭遇したのは信州のサルが入る温泉。
あそこにフランクフルトから来たドイツ人が、風呂に入っているサルを見ている。
サルが風呂に入っているだけ。

この本に遭遇して驚いたのはヨーロッパだけを取り上げるが、ヨーロッパ全体でアジアのことを研究しているという国があるんだそうだ。
中国、韓国を研究すべき機関を持っている。
20か所ある。
日本の勉強をしている国。
120か所。
大変申し訳ない。
嫌味な言い方になるが、中国や韓国を勉強したいという人よりも、六倍も多いということ。
「Why Study Japan?」
観光もあるだろうが、どうも観光だけでは来ていないという。
武田先生はこの本を読みながら日本を勉強しておれられる方を知った。

一番最初の方をご紹介しましょう。
シュミット堀佐知さん。
長い名前だが

 私は1997年にアメリカに移住し、2000年に帰化した「アメリカ人」で(14頁)

この方は結構アメリカ文化に馴染めずに苦しまれた、鬱病になった。
この方は興味あることは何かというと日本の古典文学。
源氏物語にも言えることだが、平安期の日本の文学はアメリカでは全く役に立たない。
アメリカから見れば平安の日本文学の作品なんていうのは全く理解できない世界を描いた文学。
アメリカの特徴。
アメリカの言葉はインド・ヨーロッパ語族で、キリスト教であって、それもプロテスタントで異性、男女間で家庭を持つ。
そして社会の中心は白人男性。
それから外れた人は、はじいてしまうのがアメリカ文化。
憲法の中で武装することが認められている。
コロナ・パンデミックに対してもマスク、ワクチン等は個人の自由。
したくなければしないでいい。
「選択の自由がある」というのがアメリカ。
アメリカという国というのは、全て正義も含めて個人に任されているという。
そんな国の中でこのシュミットさんは得意分野が平安のいわゆる文学である。
紫式部、清少納言。
それでシュミットさんはアメリカの大学で教え始める。
一体このシュミットさんはどうやって平安期の文学をアメリカの若い男女に伝えようとしたのか?
このあたりから日本研究「Why Study Japan?」続けていきたいと思う。

アメリカというこの国は自由と平等が売り物だが平等はあまり得意ではなくて人種による差別があるので、平等はなかなか難しい。
ただし自由であるというのはアメリカのやはり大事な看板。
だから犯人もやはり逃げる。
車でよく逃げ回っている。
「バカなヤツだなぁ」と思うが必死になって逃げている。
「犯罪者にも自由がある」という、そういうのが徹底しているのだろう。
そして白人の男性でプロテスタント。
そういうことがアメリカ人の中枢・真ん中を成している。
もう一つアメリカの特徴は、俗っぽい言葉だがアメリカは敵がいないとまとまらない国。
今、アメリカ人が好む敵は中国。
このあたりはトランプさんの報道を見ているとよくわかる。
この人はもう典型的で「とにかく敵を作る」という。
選挙に勝つ為だったらば共和党・民主党で敵対するし、マイノリティ・白人という対立。
労働者とエリート、都市と地方という対立を激化させて人数の多い方に味方するというのがトランプさんのやり方。
対立、それがトランプさんの一番好むところだろう。
こういうアメリカに対して、このシュミットさんが教える古典の中の日本はというと異世界。
まずは一夫多妻。
奥さんが何人いてもいい。
それから夫の通い婚。
夫が通って来る。
男女に関してはもの凄くルーズ。
これは本当に日本の文化の特徴で、性にルーズ。
古典の中にある。
「とりかへばや物語」

とりかへばや物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫 A 3-3 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)



女の子を男の子として育て、男の子を女の子として育てるという物語が平安時代にある。
持っている子供の特性、その子がやりたいことをやらせていくうちに女の子が男の子になりたがって、男の子が女の子になりたがるという。
アメリカから見るとルーズということなのだろう。
平安が一番特徴的なのは、強いというのは野蛮。
弱い事、悲しいこと、これが美しい。
「いとをかし」
正しいかどうかは重大ではない。
潔いかどうか?
それを「美」としたという。
美的でなければならない。
こういう日本独特の平安の文学の文化をどうやってアメリカの若い子に教えるかという。
これをシュミット堀佐知さんというのは頑張られた。
特別講師という職を得て日本の古典を教えるという仕事をするのだが、この方は日本の古典を「What」な情報ではなく、「How」これで教えていく。

『蜻蛉日記』の中で、道綱母−中略−が、夫・兼家に「病気で心細いからお見舞いに来て」という内容の手紙をもらうシーンである。平安貴族の夫婦は基本的に別居しており、夫が複数の妻のもとに通って来ていた。妻が夫に呼ばれたからと言って、のこのこ出かけて行くと、「召人」という「お手つきの女房」並みの扱いになってしまう。だから道綱母の女房たちは「奥様、だめです!」と諭すのである。−中略−道綱母は女房たちの制止を振り切って、兼家のもとに駆け付ける。(127頁)

「この物語から何を学びますか?」という。
そうしたらジョンとかラリーは「アメリカとは全然違う」という。
そのことだけでもシュミット堀佐知さんは「いい勉強じゃないか」。
世界はアメリカが持っている道理・理屈・倫理、この一尋ではないんだ。
自分達の持っている「What」な情報よりも「How」いかに受け止めるか、それが重大なんだ。
そうやってみると日本って面白いんじゃないの?という
このシュミットさんというのはいいことを言う。
「人間の理想はわかってるんだ。清く正しく美しく生きることでしょ?でも清く正しく美しくは世の中変える力は無い」
これは名言。
インバウンド、なぜ日本にやってくるのか?
その奥の奥にある何かを三枚おろしで訪ね歩きましょう。

文学は清く正しく美しいものを教える芸術ではない。
文学というのは清くなく正しくなく美しくない。
それを描く。
それに耐えること。
それを許すこと。
それで真理・正義を教えていくんだという。
その通り。

最近また歎異抄を読んでいて、親鸞が言った「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と。
「善人?極楽行けますよ。いや、悪人こそ行けるんですよ」
人間は間違うんだ。
間違うから人間なんだよ。
それで、このシュミット堀さんが担当している学生さん達から見れば、(日本人は)「よくあんなとこ住んでるな」というようなものだろう。
周りを見ると隣はロシア。
その隣は中国。
その隣は北朝鮮。
最も危険な国で、それにすぐ近く。
横でボンボンロケットを撃っている。
日本は多少ボーッとしていないと生きられない。
あんまり気を張り詰めていると。
向こうから見ると「危ねぇとこ住んでんな」というようなもの。
アメリカなんていうものは、嫌な国の中国とは遠いし、爆弾を撃ってきたにしても、ロケットを撃ってきたにしても撃ち返せる時間が(ある)。
日本は無い。
撃たれたらもうみんなで死ぬしかない。
そのどっちが撃ってくるかわからない。
ロシアが撃ってくるかも知れないし、北朝鮮が撃って来るかも中国が撃ってくるかも。
そんなところに住んでいる。
こんなに幸せに。
「平和ボケ」と言われるが、ちょっとそのぐらいじゃないと毎日過ごしていけないかも知れないと思う水谷譲。
アメリカはというと、敵の国から遠くて観光に来いと言ったらいっぱい名所がある。
ニューヨーク、それからワシントンだけではない。
ロスもあればサンフランシスコ、フロリダ、ボストン、ニューヨーク。
大西洋を渡れば世界の文明ヨーロッパ。
西ヨーロッパが広がっている。
そんないいとこに住んでいる方達が日本にやってきて長期滞在している。
これは一体何なのか?
普通ヨーロッパを旅したらパリ、ロンドン、イタリア・ミラノ・ローマと行く。
お決まり。
日本は違う。
日本は狭いエリア。
何でこんな狭いところに来るのか?
昨今のインバウンドの方達の最大の特徴はローカルに出ていくこと。
一番最初に申し上げたが、大阪の堺の町に包丁を買いにきたヨーロッパ人がいるのだから。
ちょっとした温泉街にも(インバウンドが)いると思う水谷譲。
彼等はローカルを発見して「日本は面白い」と言っている。
日本のローカルは面白いらしい。
最近の流行りで体験型の旅行が多い。
農業を体験したり何だりしているが、それもローカル。
日本は都会の首都圏みたいなところともう一個、千差万別のローカルを持っているというところが、彼等異国の人達を惹きつける。

さあここで考えよう。
日本のインバウンドの旅人の第一号。
ドナルド・キーンさん。
(ドナルド・キーンに関しては以前、この番組で詳しく紹介されている。2024年2月5〜16日◆ドナルド・キーン
あの方はもちろん東京を知っておられたのだが、京都で日本を勉強する。
もう一回繰り返すが、ドナルド・キーンさんの一番最初の驚きは「源氏物語」。
平安の文学の最高峰、源氏物語を読んでドナルド・キーンという青年は引っ繰り返る。
光源氏というのがヒーローでありつつ、戦闘シーンが物語に一か所も出てこない。
ただひたすらに恋をして別れる度に泣いている。
確かに「何でそんなにモテるの?」という男の人のタイプだと思う水谷譲。
そのくせ、ちっとも恋をエンジョイしない。
それに源氏物語の中に小さな引っ掛けがある
源氏物語には地名が出て来る。
その地名と物語の流れがシンクロしている。
光源氏が恋に悩む。
悩んでいるその町は「宇治」。
ウジウジ悩んでいる。
希望を見つけるのは「明石」。
光が見えた「あかし」。
それで旅をするのだが、そこから心機一転頑張ろうと思う地名は「吉野」。
運が「よしの」。
こんなふうにして地名を引っ掛けつつ物語の舞台にしてゆく。
ドナルド・キーンは膝を打って「何て巧妙なんだ!日本は」という。
だから「うし」「鬱陶しい」。
こんなふうにして日本はローカルに目を向けると物語の奥行がいっぺんに深くなるという。
ドナルド・キーンというのは巨人。
また来週、キーンさんの話が出て来る。
裏話にびっくりする。
ドナルド・キーンは日本のローカルに眠っている文化の深さに驚いた。
この人は何せニューヨークと京都を往復なさっている。
だから文明の差を体感なさったのではないだろうか?
キーンさんはそういう言葉では残してはおられないが、シュミットさん、アメリカの国籍の方なのだが、結婚なさってアメリカ人になったという方。
この方が平安の古典文学が好きで、それを大学で講師として教えてゆく。
そのうちに生徒達が日本文化に興味を持つようになった。
「アメリカの仕方とは全く違う世界の割り切り方を日本は持っているのではないだろうか?」という。
アメリカというのは一体何かというと、これはシュミット堀佐知さんが感じられたアメリカ。
まずはアメリカは性に対して革新的でオープンである。
ジメジメと隠したりしない。
特にニューヨーカー、ニューヨークに住んでいる人間は、性のオープンに対して胸を張って。
武田先生もニューヨークでロケをやったことがある。
エッチな話を聞いたことがある。
「美女のいけす」という。
どこかで食事をしていると窓が開くので見ると向こうが水槽。
そこに綺麗なお姉さんが泳いでいる。
それを値段を付けて買うというようなお店があるとか。
そういうのを聞いたことがある。
武田先生は「不適切な時代」を生きていた。
一つだけはっきりしていることは、ニューヨーカーの性に関してもアメリカ全土もそうだが男性的。
性の割り切りは男性。
性を支配するのは男性であり、性に積極的な女性をもの凄く卑しく見下ろすという。

アメリカ社会は暴力という、男性性を付与された反社会行為に対して、概ね寛容であり、しばしばそれを「勇敢さ」「正義」「強さ」「カッコよさ」などと関連付け、美化する。(130頁)

映画・テレビ番組・ビデオゲームなどでは、戦闘・爆発・爆破シーンは「カッコいいもの」として描かれ(130頁)

バーン!と何かガスタンクみたいなものが爆発して、その前をシルエットが飛んでいるという、よくありがちな。
必ずあれをやりたがる。
つまり破壊というのはアメリカにとってはクライマックスの象徴。
面白いことに本当にそうなのだろう。

赤ちゃんの裸体も、アメリカではタブーである。(130頁)

日本はゴロゴロ出て来る。
パンツ一枚でも「全裸」。
日本ではオムツだけとかがある。
それが赤ちゃんの証拠。
アメリカは
ヒヨコを乗っけて
「お母さんから生まれてきたの」というのがある。



あれはアメリカではダメ。
家族そろってテレビを見る日曜夜八時。
ここはアメリカでは明るく楽しいホームドラマ。
夜八時は戦争、流血等々は描かない。
日本は逆。
これだけ平和な国で大河ドラマではだいたい夜の八時は戦国ドラマ。
大阪城は燃えるわ淀君は死んでいくわという。
今回の光の君(「光る君へ」
これは無いか。
NHKのもの凄く変わったドラマ。
でもこのドラマでも物語は殺されたお母さんのところから始まった。
武田先生もそんなに詳しく見ているワケではないが、でも殺人から物語を始めないと歴史物語にならないというのが日本のドラマの面白いところ。

アメリカ英語の全語彙の中で最も侮辱的な罵倒語は、女性器を指す言葉の1つである。(130頁)

これは映画でさんざんやっているから皆さんもご存じだろうと思う。

くだけた会話の中で、「殺す・殴る・蹴る・破壊する・虐殺する」などの動詞は「大成功する」を意味する。面接の感触がよかったらI killed that interview!≠ネどと表現するのである。「暴力団員」を指すgangsterは「めちゃくちゃカッコいい人」。(130頁)