「アメリカは非常に男性的価値観の強い国である」ということで先週は終わった。
だからスラングみたいなものもいわゆる「男の子用」にできているという。
例えば「ギャングスター」というような意味は「カッコいいヤツ」だ。
スポーツチームの名前としては、「戦闘士」を意味するFighters、Chargers、Knights−中略−だけでなく、「強盗団・襲撃隊」などの犯罪集団を指す−中略−Vikingsなどもよく使われる。(131頁)
考えてみれば「ニューヨーク・ヤンキース」と言う。
「ヤンキース」だから大変アメリカの方に失礼だが「アメ公」とかという意味。
何せ「ヤンキー」だから。
日本で言うと「ジャップ」という。
「日本ハムファイターズジャップ」とかとそういうのと同じだから。
それで水谷譲が「ウソ!」と叫んだのが大谷のいる「ドジャース」。
スラングで「いかさま野郎」という。
いい意味ではないということ。
だからいい意味なんか付けてはいけない。
そういうのはシャレっ気がない。
疑う方がいらっしゃると思うので、繰り返し言っておくが「ドジャー」はスラングで「いかさま野郎」。
これはどういうアレかというと「dodge」。
これが別の競技で言うと「ドッジボール(dodgeball)」。
飛んでくるボールを避ける・よけるという「ドッジ」。
この「避ける・よける」が「言い逃れする」というスラングに転じて、ごまかすという「いかさま野郎」という。
それが「ドジャース」という。
こういうアメリカ、男性社会に対して日本文学はまことに女性的。
日本は「困った時の女頼み」というか。
揉めたら揉めたで卑弥呼を持ち出して連合国家を造ったりするし。
アメリカというのは男性社会なのだが、アメリカのちょっとしたアキレス腱があるのだがそれは何か?
異文化を必要としている。
アメリカという国はよその国から流れ込んでくる文化がないと呼吸できない。
そういう国だと思う。
アメリカのハリウッドで西部劇もので大ヒットした「荒野の七人」
ユル・ブリンナー主演で、ティーブ・マックイーンとかが出て来る。
もうそれは錚々たるガンマン、いわゆるドラマの主役たちが七人出て来る。
日本の「七人の侍」のアメリカ版。
「セブンス・サムライ」という異文化が流れてこないと西部劇の「荒野の七人」ができなかった。
「スター・ウォーズ」もそう。
チャンバラだから
チャンバラの後、スター・ウォーズは何になったかというと「ドラゴンボールZ」になる。
そういう流れ。
最後の方は手から光線ばかり出している。
あれは「かめはめ波」。
あの大作家がお作りになった「かめはめ波」というのは流行る。
日本人は手から光線を出すのは好き。
ウルトラマンも「シュワッチ!」と言いながら出してしまう。
あれは何かというと「気を出す」という。
気で相手をやっつける。
それの視覚版が「かめはめ波」だったり「スペシウム光線」だったりするという。
そういうものをアメリカは異国から貰ってアメリカ化するところにアメリカが・・・
その典型例がゴジラ。
ゴジラはアメリカで当たった。
でも結局、その成功の全てを横からかっさらったのが「ゴジラ-1.0」。
ゴジラが登場するその前の物語、エピソード1をゴジラでやった。
フェイク、デマ、偏見、差別、そういうものを避ける為に必要なのは一貫した物語、ストーリー。
ストーリーという文化。
歴史も神話も宗教も政治も音楽も実はこれは全てストーリー。
人間が深く記憶する為に脳は「エピソード記憶」といって物語だったらよく覚えるという。
その為に人間にはどうしても物語が必要なのだが、この21世紀に入ってからの世界は何かというと各国バラバラの物語が暴れ回っている。
まずはロシアの物語。
とにかく「ウクライナは自分のもんだ」と言い張るというロシア主義の物語。
プーチンは凄いことを言う。
「世界にロシアがある。ということはロシアのいない世界に何の意味もない」
だから世界は、ロシアが無ければ原爆で滅んでもいいんだ。
「ここまで言うか」という。
それからアメリカ、トランプさん。
「もう一度偉大な国へ」
充分偉大だよ、知ってるよ、そんなことは教わらなくても。
それからアジアの屈指の大国・中国。
「台湾私のものです」「南シナのあの海、あれ全部私どものもんです」
それからイスラエル
「三千年前からここはウチのもんでした」
これは物語なのだが、この彼等の持っている物語は現代社会に合わなくなってきている。
今、世界は何を求めているか?
新しい物語。
それはどこにあるか?
もしかすると、この国(日本)にあるかも知れないというのがインバウンドが増えている理由ではないかと思ったりする。
反面教師で、いい人が見つかった。
この方もアメリカの方。
クリストファー・ローウィという方でカーネギーメロン大学。
金持ちでメロン喰ってる人がいるというような大学。
カーネギーメロン大学で教鞭を執っておられる方。
(カーネギーメロン大学現代語学部助教授)
この方も日本に猛烈な面白さを感じたという。
この方は非常にマニアック。
日本文学を研究する彼、エッセーで日本のことに関してこんなことを言っている。
身も蓋もない言い方だけれども、日本の表記体系は、変だ。3つの異なる文字体系(漢字・平仮名・片仮名)が常に同時に使われているだけでなく−中略−もう1つのすごい特色は、−中略−「行間注釈」と呼ばれるもののおかげで、頭注や脚注に頼らずに、同じ文の中で言葉に注釈をつけることができるという点だ。(107頁)
あれは世界にないのか?
でも海外の文献にもある気がする水谷譲。
これをクリストファーさんは「変だ」とおっしゃる。
だからもしかしたら司馬遼太郎の時代小説なんかを挙げておられるのかなと。
この行間注釈、司馬遼太郎の作品では違う言い方をしていて「閑話休題」と言って登場人物の話をしていたら別の話を入れたりする。
そのことを言っているんじゃないかな?と思って。
(本の中に登場する「行間注釈」は漢字や熟語に標準的ではない振り仮名を付ける行為のみを指しているようだ)
例えば今でも覚えているが「竜馬がゆく」。
岩崎弥太郎という土佐・高知の低い身分の侍が出て来る。
それが竜馬と絡む。
それでいつも兄貴分の竜馬にコテンパンにやられている憎めない岩崎弥太郎なのだが竜馬が「土佐を愛する、愛さない」の論争をしている時に岩崎に「お前、土佐の為に死ねるがか?」と言う。
「死ねるワケないだろう」という意味で訊いたら、岩崎が「いや、俺は死ねる!土佐藩の為にビョウドウ号の為にいつでも死ねる。ハクショウキの為ならば命を懸けるが土佐武士よ」という。
(このあたり、正確な音とか表記がわかりませんでした)
ハクショウキというのは土佐藩の柏の葉っぱが三枚に連なっているのがハクショウキと言って土佐藩、山内家の家紋。
その「柏の葉っぱ三枚の為に死ねる」といった岩崎なのだが、突然司馬さんが話をポンと横道に逸れて「実はこのハクショウキの紋所こそ後に岩崎が起こす大きな海上貿易会社の三菱のマークになった原案である。山内家の紋章が三菱のマークになった」。
それをポコンと入れてくる。
もう「これが三菱?」みたいな。
横にある電化製品のそのマークの始まりが「竜馬がゆく」の中に出て来る。
司馬さんの文章は現代とジョイントする。
それがもう胸がワクワクする。
そういう突然物語を中断してまで現代の痕跡をまぜたりするという、そういうことをやることが著者に許されているという。
このクリストファーさんは日本の小説の異様さを挙げてゆかれる。
これは司馬作品に於いてちょっと話が出たので続けてゆくが、司馬さんがよくおやりになる文章の書き方で「お前それでも武士か」。
日本ではそういうことをやる。
北島三郎さんが歌った「函館の女」と書いて「ひと」と読ませる。
作者の意図で漢字の読み方を変えるという。
「本気」と書いて「マジ」と読むと思う水谷譲。
「そういうのは世界にありませんぜ」という。
その面白さというか、このクリストファーさんは書き方が上手。
「それを何で日本の人は当たり前だと思ってんの?そんな文学を持ってる国は無いですよ」という。
彼、クリスは世界の表記・文字について関心が高い才能の人で、難解な文章を解き明かしていくのがゲームのように楽しかった。
(この後の話は本の内容とはかなり異なる)
だからこの人は暇な時はエジプトのヒエログリフを解いて遊んでいた。
ヒエログリフより面白かったのが日本の文学作品。
それでこの人は早稲田とか仙台の教育大学なんかで学ぶうちに「やってみろよ」と言われたのが中学校に於ける漢文の先生。
僅か二年程の日本の留学で日本の近代文学を楽しむ程の語学力を獲得したクリスは日本語を学びつつも中国の唐の時代の詩を学んだという。
クリストファーさんは漢詩は楽勝。
この人は語学の天才なので。
漢字の意味なんてたちまち理解できたのだろう。
もう一つ漢文が楽勝だったのは英語の並びが同じ。
ところが彼が日本の書き下し文を見た時に引っ繰り返る。
(番組中に何度か「読み下し文」と言っているが、本に従って全て「書き下し文」に統一しておく)
どう引っ繰り返ったか。
この人が一番びっくりしたのは何かというと日本の書き下し文。
何で驚くかというと奇妙な記号を用いて、原文を読まない。
漢文を中国語で読まなかった。
レ点とか、記号で「これは先に読む」とか「ここはひっくり返す」とか、よくもまあそんなことをやったもんだ」というのが・・・
あんなことをやっているのは日本だけ。
一番の不思議は「何で日本語で中国語を読んだのか?」。
しかも奇妙な記号を作って。
レ点、一点、二点、上点、下点。
これだけある。
このクリスさんが驚いたのは「これじゃあ曲芸じゃないか?」と
クルクル回して。
大事なことはその本文のテキストを書き直すとかということではなくて、そのものを日本の国語にしたことだという。
書き下し分は、しばしば書き下す人の主観に左右されるため、同一の白文から、複数の正しい書き下し文が生まれることがある、ということ。(109〜110頁)
例えばわかりやすいヤツを持って来たのだが
「少年老い易く学成り難し」
勉強した。
これは漢字の順番で言うと「少年易老難學難成」。
これを入れ替えて「少年老い易く学成り難し」と、こう読む。
ここからある意味で漢字解釈というのは本家の中国から離れてしまう。
つまり漢文を書き下すことに於いてはもの凄い自由が認められるワケだから
例えばこれは唐の詩人が読んだ名句だが「人生足別離」(唐代の詩人于武陵の「勧酒」)この五文字の一行がある。
「別離は人生の常である」という淋しさ、やりきれなさを詠っているのだが、これを昭和の作家井伏鱒二は何と書き下したか?
「サヨナラだけが人生だ」
これは漢文から。
こんなふうに読み下し、書き下ろしたワケで。
「別離は人生の常である」というのと「サヨナラだけが人生だ」。
まるでシャンソンのようなタッチになる。
こういう書き下す読み方の自由度が文学の中にある。
「それも正解、これも正解」という
漢詩を日本人独特の工夫で日本の文芸に改編した。
それでクリスさんが最も驚いたのが
ある日、腹ペコの僕は、東京にいて、まあまあ有名なラーメン・チェーンの、−中略−季節限定メニューを見ていた。−中略−僕の目が釘付けになったのは、−中略−カウンターの後ろに貼られたポスターの紙幅一杯に書かれた文字の列だった:「旬を!〈˄˄〉!しむ。♡温まる」。
−中略−絵文字に平仮名の注釈をつけるという技は、それまで見たことが無いものだったからだが(110頁)
日本人は漢字、平仮名、片仮名、アルファベット、絵文字まで使うのか!?という。
(海外にはそういうのが)あるワケがない。
矢印等々、一方通行等々は国際基準で決まっているが、トイレのマークから何から。
(絵文字を読ませるとしたら)日本人のマネをしている。
たまに「あなた」という「you」をただのアルファベットの「U」とかそういうのはあるが、絵文字を(読ませるというのは)無いと思う水谷譲。
それが彼にとっての驚きは中華屋さんのメニューで壁に貼ってあったという。
それを我々はみんな読んでいる。
「あ〜じゃあ冷やし中華いこうかな〜」「冷麺いこうかな」なんて見ている。
この絵文字でさえもいわゆる言語習慣の中に取り込んでしまうというところに、彼はピーンときて「これか!日本の漫画文化は」と。
漫画文化というのはこの絵文字を使った物語の描き方なんだという。
これを言われてみると確かにそう。
やはり「鬼滅の刃」とかを見ていると鬼のヤツらは只者ではない。
悪そうな顔をしている。
漫画文化の底辺にあるのは平仮名・片仮名・絵文字文化の並んだ漫画表現。
そういうものが日本人のいわゆる「読み」のセンスの中、「リーディング」の中にあるという。
これほど幅広い読書世界を持っている国はザラには無い
不思議な国、日本の旅、続けましょう。
異国の人の目になって日本を眺めてみる。
自分が当たり前のように触れて来たことが「そうか凄いこと我々はやってるんだなぁ」と今、思っている水谷譲。
四つぐらいの言語を自在に織り交ぜて伝言を残したりメッセージを送ったりしているワケで。
クリスさんの驚きはそればかりではない。
この人は井上ひさしさんの「吉里吉里人」。
同書は、−中略−吉里吉里と呼ばれる架空の村に住む、貧しい住民たちの生活と、吉里吉里人による日本からの独立宣言を描いた小説だ。(117頁)
これは東京の文化を日本の文化と同一している日本人に対する反論で。
「『日本の文化は東京の文化』違うよ」
井上さんはそれを言いたかった
井上さんは日本というのと東京というのを全然別物。
日本には田舎がある。
武田先生もそう。
田舎者。
でもそのことが日本の証。
それで中央集権化に抗う井上さんの想いがこの中にあって。
周辺を「田舎」としてそういう風潮に反論を申しているという。
東北弁を公用語として標準語へ反論するという手法が取られている。
この井上さんの文章がクリスさんはラーメン屋で見たメニューほど仰天という。
物語の中で吉里吉里国へやってくる東京人を何と表現したか。
吉里吉里人と非吉里吉里人ば識別するんでがすと。(115頁)
これは方言。
漢字を書いておいて、それをわざわざ方言のルビを打って「そであるもの」と「そでないもの」という。
それで吉里吉里人と東京人を分けた。
井上さんが言いたかったのは「地方と東京って別世界なんだ」「別個の言語世界を持ってるんだ」。
武田先生は断固博多。
「それを主張するところに日本の面白さがある」という
これはクリスさんよく気が付いた。
日本人が作った漢字というのは中国では通用しない。
「飛行場」のことを日本では「空港」。
いい響き。
空の港。
中国では「飛行場」のことは何と言うかというと「机场」。
「机」の「場」所。
日本は「空」の「港」。
中国は内陸部が深いので港を見たことのない人がいる。
故に飛行場で一番先にやることは搭乗手続きなので、「カウンターでチケットやります」というので机の場所。
(6月24日の番組内で「搭乗手続きに必要な机という意味ではない」という訂正があった)
「手紙」というのは日本では「レター」だが、中国ではトイレの紙のことを「手紙」と書く。
手で扱うから。
かくのごとく全然違ってきてしまった。
「漢字を生んだと称する中国と、この距離の遠さが」という。
横山悠太さん(の小説を)ちょっと読んだ。
あまり深くご説明できないのだが、この横山悠太という方は中国の血も入っておられる方らしくて、この方が「吾輩ハ猫ニナル」という作品を書いておられて、この方の文章が最高。
漢字の書き方が日本と中国の使い方で書かれている。
まあ読みにくいの何の。
それぐらい小説世界を描く時に漢字を用いて、それも中国の書き方の漢字で書くと、もうワケわかんなくなる。
中国で使う漢字と、日本で使う漢字はそれほど距離が離れてしまったぞという。
その面白さがある。
日本の漢字の読み方は漢字が入って来た時の中国の人の読み方、あるいは唐の時代の漢字の読み方。
それをまだちゃんとやる。
「生」という字も「生(い)きる」、から「福生(ふっさ)」から「ふ」(「芝生」など)から「羽生(はにゅう)」から「羽生(はぶ)」まで一文字の読み方が200通りぐらいあると言っていた。
つまり全部読み方を取っている。
「日本には首都圏がある。でもそれと同時に地方があるぞ」ということに最近のインバウンドの異国の人が気付いた。
その「日本の地方」に最初に気付いた人は誰か?
もう一回繰り返す
やっぱりこの人。
ドナルド・キーン。
ドナルド・キーンにまつわる施設がある
彼の記念館がある
新潟・柏崎市にドナルド・キーンがアメリカで使っていた書斎がそのままある。
ドナルド・キーンがニューヨーク・マンハッタン、アッパー・イースト・サイドのアパートに住んでいた時の書斎、それがそのまま長岡、柏崎にあるそうだ。
2007年、柏崎の海岸17キロ沖で発生した、マグニチュード6.6の中越沖地震である。−中略−1000人以上の怪我人と−中略−惨事となった。そして、その数週間後、柏崎市役所の−中略−電話が鳴った。−中略−電話をかけてきたのは、米国コロンビア大学名誉教授・日本文学の大権威のドナルド・キーン博士で、そのキーン博士が14世紀に即身仏となった、弘知法印という巧妙なお坊さんの伝記を基にした、江戸時代の説教浄瑠璃の復活上演を柏崎で行いたい、と申し出てきたのだから。その『弘知法印御伝記』という古浄瑠璃は、1685年(貞享2)以来上演されていない幻の作品で、しかも弘知法印のミイラ化した遺体が、柏崎から車で40分の新潟県長岡市の寺に安置されているというのが、柏崎での復活上演という提案の説明だった。(137頁)
長年行方不明だった、『弘知法印御伝記』の絵入り浄瑠璃本が、大英博物館で発見された(138頁)
誰も知らなかった。
「ミイラがある」ぐらいはぼんやり知っていたので、どんな坊さんか浄瑠璃になったかとか全く知らない。
ところが、米コロンビア大学の大学教授が「素晴らしい人です」と言うから、しかもイギリスから台本を取り寄せて日本で上演する浄瑠璃の一派はキーンさんの知り合いでいるからという。
誰も知らなかったことをキーンさんが知っていたという。
これはロバート・ケネディを思い出す。
ロバート・ケネディというアメリカの大統領の弟がやってきて訊かれる
「日本で何か尊敬する人がいますか?」と言ったらロバート・ケネディが「米沢藩の上杉鷹山です。彼は素晴らしい言葉残しました。『為せば成る、為さねば成らぬ何事も』」。
そうしたら国会議員が終わったら一斉に勉強に走ったという。
ロバート・ケネディさんが知っていたので上杉鷹山はいきなり値打ちが上がる。
同じこと。
「外国人が騒ぐぐらい凄い人なんだ」というので
上演会は現実のものとなった。この、被災2年目を迎えようとしていた柏崎での大イベントは、地方メディアだけでなく、全国の新聞・テレビ・雑誌などで絶賛された。(138頁)
地元柏崎に本社を置くお菓子会社がもの凄く感謝した。
ドナルド・キーンさんがやってくれたのでそのお菓子会社が凄く感動してドナルド・キーンさんを文化的に懸賞したいというので
キーンのアパートをニューヨークから柏崎へ移築する計画が、着々と進んでいた。−中略−総計2500点以上のアイテムが柏崎に空輸され、それらがひとつひとつ、マンハッタンのキーン宅を厳密に再現すべく、「新居」に再配置されたのだ。(138頁)
(番組ではキーンが亡くなってから移築と言っているが、「ドナルド・キーン・センター柏崎」の開館は2013年でキーンは2019年没)
いい話。
この一大事業に要する莫大な費用は、スーパーのお菓子売り場でおなじみの、ブルボン社の寄付によって賄われた。柏崎に本社を置くブルボンは、1923年の関東大震災直後に設立された製菓会社で、その使命は、自然災害などの非常時に非常食として活躍する、高栄養・高品質のビスケットを製造することであった。関東大震災という、近代日本でも異例の大災害を背景とした同社の成り立ちを考えると、キーンが中部沖地震・東北大震災という、2つの天災を契機として起こした行動と文化的貢献に、彼らが賛同し、援助を買って出てくれたのも、納得がいくことかもしれない。(138頁)
今でも「ドナルド・キーン・センター柏崎」はやっているので是非覗きに行ってください。
(ドナルド・キーン・センター柏崎 | ドナルド・キーン・センター柏崎の公式サイトです)
これは恐らくキーンさんがアメリカの学生達に教えた言葉ではないかと思うのだが、この著者も書いておられるが「雨足」。
「伊豆の踊り子」なんかであった。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。(川端康成「伊豆の踊子」)
こんな言葉を持っているのは日本のローカルだけだ。
(本によると古典中国語から派生した言葉とのことなので日本限定ではないと思われる)
だって雨に足がある。
それが自分のところに近寄ってくる音が聞こえるので「雨足」。
そうやって考えるとこれは江戸で生まれた言葉ではない。
峠道のある田舎で生まれた言葉。
つまりキーンさんが夢中になったのはローカルが持っている豊かな日本言語の世界。
『枕草子』と言えば、−中略−フィンランド出身のミア・カンキマキ氏が『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を日本で刊行し、話題となった。この本には、−中略−清少納言という人物を、親しみを込めて「セイ」と呼び、深く理解しようとする著者の姿が描かれている。(103頁)
これは本当にこぼれ話。
上半身が馬の姿をした馬人の島、女性ばかりの女護島、小人の住む小さ子島など、様々な島を旅するという話である。『ガリバー旅行記』との類似性は以前から注目されていたが、スウィフトが日本の絵入り本を目にしていた可能性があることから、『御曹司嶋渡り』から『ガリバー旅行記』への、より直接的な影響が検討されはじめているのだ。(104頁)
世界の物語は影響し合う。