カテゴリ

2024年10月02日

はつか大根の芽が出た

9月29日に植えたタネ。

IMG_20241002_063624.jpg

かぶせておいたビニール袋をはずしてみたら結構芽が出ていたので、日に当てることに。
まだ新しいタネだからってこともあるんだろうけれども、結構たくさん芽が出た。
もうちょっと育ったら間引きせんとな。
これには防虫ネット等はかぶせないので、当然いろんな虫が付いてしまうワケだけれども、マヴァンプとやらを撒いて対策。
根菜類に使っていいのかどうかは知らないけれども。

ハイポネックスジャパン 虫を予防するマグァンプD アブラムシ 200g



posted by ひと at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ガーデニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

横浜駅のポケモンカードスタンド

横浜駅にポケモンカードスタンド設置! | お知らせ | 京浜急行電鉄(KEIKYU)
京浜急行電鉄株式会社(本社:横浜市西区、取締役社長:川俣 幸宏、以下 京急電鉄)および株式会社京急ストア(本社:横浜市西区、社長:小泉 雅彦、以下 京急ストア)は、2024年8月20日(火)から、京急電鉄の横浜駅上りホーム北側に、「ポケモンカードスタンド」を設置しました。

8月20日だから、もう随分経過しているワケだが。
京急のホームの北側なんて頻繁に行っているハズなのに見た記憶がないなぁ・・・なんて思って行ってみましたら!
私がいつも行っていたのは逆側だったな。
横浜駅の西口にばかり用があったので、いつも利用しているのは真逆の出口だった。
ということで、勘違いをしていたせいで無駄に歩きつつ目的の場所へ。

IMG_6577.JPG

ここって前は京急の何かがあったよなぁ。
何だったかな?

IMG_6582.JPG

スマートホンで写真を撮るのに未だに慣れていないということで。
指が写り込んでしまった。

IMG_6587.JPG

ポケモンカード【激レア10パック詰め合わせ】 福袋 ギフトラッピング付【入手困難なパック確定封入】【オリパ】



posted by ひと at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会う(後編)

これの続きです。

先週に続いて「ヒト、犬に会う」。
人と犬の出会い。
半分ぐらいは想像するしかないが、太古の昔、オオカミであることをやめたイヌという種類、サルであることをやめヒトになった、その人と犬が出会った。
それを語っている。

言っておくが非難とかしているワケではない。
食文化だからいろいろあっていいのだが、インドシナ半島から中国、朝鮮半島に関しては犬を食べるという食習慣があって、それは習慣だからそういうのがある。
不思議なことに日本では極端な飢饉を除いて、食習慣としてこの習慣が定着しなかった。
それどころではない。

犬の眷属が「おおかみ(大神)」と呼ばれて尊ばれていた(49頁)

縄文がまた出て来るが、どうも縄文人は犬に神を感じた。
それも非常に高い次元の神で「大神」という。
考えてみればこの縄文の名残だろうか神社には狛犬というヤツがいて守っているワケで、神の代表者、それが狛犬なワケで。
それから日本の古代史に残っているが青森、亀ヶ岡・三内丸山(遺跡)等々では子供が死ぬと子供が寂しがらないように、或いはあの世への道を間違えないように犬に先導させるという意味合いで子供の亡骸のすぐ横に一体揃った犬の骨があったという。
これは食で食べたのではなくて、犬を番犬代わりにして殺して埋めたのではないだろうか?
埴輪から犬も出ているし。
これはアジアの習慣である。
犬に守ってもらうという。
だから漢字なんかも「家」という字を書く。
うかんむり(宀)の下の「豕」は犬の亡骸。
これは犬を埋めた時の姿。
特に人間の骨と犬を一緒に埋めると悪いものを退けるというパワーになって、にんべん(イ)の横に犬を書くと「伏」。
「そこに伏せて彼等は家を守っている」という一文字。
面白いもの。
犬というのは漢字のあちこちに姿を現している。

 イヌの家畜化過程で食用があったことは確かだが、すぐにイヌの超能力に気がつく人物もいて、防衛と狩猟の両面で使うようになったと考えるほうが合理的である。−中略−犬の持つ超能力を人間がどれほど引き出したかが、家畜化の鍵となる。それは、他の家畜にはまったく見られない犬の特質である。(116頁)

何でそうなったかというと、武田先生は思うのだが、中国大陸を横断してシベリア方面から行っておいて、カムチャッカ半島経由で北からずっと回り込んで住み着いたのが縄文人だとすると、ずっと犬と一緒に旅している。
それで日本列島に住み着いても森が近い、林が近い、山が近いということで鳥獣の被害が昔からあった。
だから食用なんかにはとてもできない。
共生して犬にケモノを早目に探知してもらうというのは命を守る行動の一つだったワケで。

 現在の犬の品種の中でもっとも古い形質をもつのは、コンゴ(アフリカ)のバセンジーなどで(116頁)

オオカミから分かれたばかりの犬。
バセンジーの姿形はオオカミに近いということかと思う水谷譲。
そうかも知れない。

これらに次ぐのがアキタやシバなどの日本固有種(116頁)

だから私達は古代から付き合っていた犬が、今でも世田谷とか杉並を歩いているという。
紀州犬もそう。
あれは古代犬だから。
猟をやる人達が鍛え上げて作った犬種だから。
犬がいなければ日本のように自然が近いところでは生きていけないんだという。
犬の不思議な能力を日本人は頑なに信じている。
これはまた繰り返しになるが、そういうものが今、インバウンドで外国からのお客様を集めているのではないか?
一番繁華街の百万人単位で人が出入りしているような渋谷という街には犬の銅像があるのだから。
あそこで海外の人がみんな写真を撮っている。
犬が銅像になっているなんていうのは、それは考えられないだろう。
犬は歌舞伎にも登場する。
「里見八犬伝」
犬に関してはたくさんの能力を人間は感じている。

彼を「超能力者」と呼びたくなる私の気持ちは分かっていただけるかもしれない。
 その犬の超能力の一端は、よく知られている嗅覚や聴覚、味覚である。
(124頁)

犬の嗅覚の凄いところは、その臭いから恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、これも犬は臭いでわかっている。
犬の能力の凄いところは鼻で嗅ぎ当てた恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、味覚等々を仲間の犬に伝えることができるという。
仲間の犬に伝えることができるということは、人間に伝えようとしている。
犬は人間と話して生きているつもりでいるもので、オオカミの能力を捨てて人と生きる為に犬になった。
オオカミの能力の代わりを得たのが人を救う能力。

 犬が人を救う能力を持つことは、セントバーナード犬の例でもよく知られている。 スイスとイタリアを結ぶ山道は、モンブランの−中略−救助犬バリーは生涯に四〇人を救った(129〜130頁)

 ある人物が大学への就職挨拶を兼ねて、ジャーナリストで大学教授のジョン・フランクリンの自宅を訪れた時、彼の愛犬スタンダード・プードルのチャーリーはその男が最初の挨拶をするや否や、居間の奥に引き下がって、遠くから油断なくその男をずっと観察しつづけたという。−中略−
 フランクリンは初対面の「気の良い人物」の前でチャーリーのこの行動が理解できず、ばつの悪い思いをしたが、その男は大学に入るや否やフランクリンの敵となり、冷戦を繰りひろげることになった。そうなってからはじめて、フランクリンはチャーリーの最初の出会いの時の行動の意味に気づかされた。そして、フランクリンはひとつの決定的な教訓を得た。
「いつも、犬の意見を聞け」
(142〜143頁)

これは私達が失った能力。
私達はいつの間にか感情よりも理性を優先させる人物になってしまった。
いろんな人生での決断があるけれども、それを全て頭で考えるようになってしまった。

大脳辺縁系の命じることを人間は前脳で理解できなくてはいけない。(143頁)

本能というようなもの、それは情動中枢にあるものであって、そういうもので一切考えない。
私達は命を懸けて戦ったという経験をすっかり忘れて頭で考えるようになった。
知的判断、それが最高の判断だと思っている。
しかしよく考えてみよう。

「知性的判断」は、生死がかかる最後の土壇場で常に「逃げ出す理由」を探すが、「本能」は立ち向かうべき時もあることを示す。(145頁)

「この三行、武田鉄矢ギクリとする」と書いている。
私達はなるほど、最近は本能を殆ど使っていない。

人間はあまりに多数の偏見によって自己の人格を形づくっている(言語、人種、民族、出自、家柄、財産、学歴、社会的地位などなど)ので、そのバイアスからしか事柄を判断できない。(143頁)

そういうものは客観性を持たない妄想なのだ。
犬はそういうものを一切持たない。
その人の体から流れてくる「とてもいい臭い」か「とても嫌な臭い」を嗅ぎ分ける。
犬は本質を見ているということだと思う水谷譲。
犬にはそういう能力があるのではないか?

 (犬は)すべて実際的な目的のために、一瞬から一瞬へと生きているから、彼(チャーリー)は不死なのだ。
(フランクリン原著
(146頁)

「生きるか死ぬか」の内省の果てに「生きるか眠るか」に行き着く。つまり、死ぬのは眠るのと同じだという思想である。(146〜147頁)

『ハムレット』の有名な「生きるか死ぬか」という台詞は−中略−死への恐怖が色濃く表現されている。(146頁)

新訳 ハムレット 増補改訂版 (角川文庫)



犬はハムレットのように悩まない。
犬は死と言うものはわかっていない。
だから眠りと同じ。
現実にそう。
私達は毎晩毎晩「死ぬ練習を」しているようなもので、死とは眠りの延長。
しかも自覚はできない。
犬は「生きる」か「眠る」かだから。
だから犬は生きている限り永遠。
死がない。
これは面白い。
このあたり、ちょっと犬から深い話に入っていきましょう。

人の心の根本にあるもともとの気分とでもいったもので、ヨーロッパ人の場合は「死(gone)」への恐怖」である。(148頁)

だから映画に於いて物語は全部それ。
やっぱり西洋の映画を支配している広がり方は「死ぬことの恐怖」。
武田先生は「人間は初期設定されていて死の恐怖というのが欧米人にはあるんだ」というのは凄く納得したのだが、これは間違いないと思うが、この本の中に犬のことを書きながら日本人の初期設定は何だ?という。
人種によってその初期設定が変わっているのではないだろうか?
死ではないのではないか?
死より怖いものがある。
これは武田先生はギクッとした。

日本人の場合は、「おくれることへの恐怖」だろうか? 子どもなら学校の、大人なら会社での他人との競争、同調その他どんな場面にでも「おくれる」、「遅れる」、「後れる」ことに恐怖を感じる。(148頁)

アメリカンジョークの中で、そういうジョークがあった。
飛行機が墜落してもう飛行機から飛び降りるしか助かる方法がない。
落下傘が開くかどうかわからないが、飛行機のスタッフが次々いろんな人を送りこんで行く。
アメリカ人には「素敵なご婦人がアナタを見てますよ」と言うと(落下傘が)開くかどうかわからなくても飛び降りる。
日本人には何て言うかというと「仲間はみんな行っちゃいましたよ」と言うと飛び降りる。
(「沈没船ジョーク」のことかと思われる。沈没しかけた船に乗り合わせる様々な国の人たちに、海に飛び込むよう船長が説得を行う。アメリカ人に 「飛び込めばあなたはヒーローになれます」日本人に 「皆さん飛び込んでます」)
その民族の違いによってラストの行動の仕方も変わってゆく。
その中で唐突に、島さんが書いた文章だと思うのだが「どうも日本人は遅れることへの恐怖心が死より勝っているんじゃないだろうか?」という。
その今はもう想像しかないが、昔若い人達に特攻隊を命じたりなんかするとみんな競って前に出たという。
あれは「一歩遅れる」ということへの恐怖心が死を急いだのではないだろうかと言われているし、忠臣蔵でも討ち入りをさんざん迷う志士もいる。
結局仲間達は行ってしまって彼は遅れるという。
そこでさめざめと泣く。
ここで武田先生の中年期から今のいわゆる後期高齢者になろうという20〜30年の悪夢を思い出した。
30年間同じ夢を見る。
夢の中身は何かというと全部「遅れる」。
受験場に遅れそうになる。
遅刻。
それから海外旅行をしようとしているのにゲートが見付からず飛行機に遅れる。
水谷譲もよく昼、ニュースを読まなければならないのに、浜松町ではなくて四谷にいて間に合わないとか、そんな(夢)ばかり見る。
遅れる。
死ぬ悪夢なんか見ない。
日本人は「遅れること」に対する恐怖の初期設定がなされているのではないだろうか?という。

人類というのは初期設定がなされているという。
初期設定の中に犬もいるのではないか?とおっしゃっているのが島泰三さん。
だからエイヤワディ川のほとりで子供を守ってくれた犬を抱きしめたアナタ。
それが時を挟んで「今もその犬と暮らしている」という犬との関係が繰り返されているのではないか?という。
もちろん犬の種類も変わって、もう「ケモノから守ってくれる」という犬ではないかも知れないが、朝、犬と散歩をなさっているご婦人を見ると、本当に何か人生の一端を懸けてらっしゃるような。
また飼っている犬を散歩をなさって世間話をしている奥様方がいる。
もう殆ど犬の言葉を自分で喋っている。
知り合いの犬に会ったら犬が思っていることを全部言葉にできる婦人の不思議な力がある。
「チャーちゃん。暑くなりました。ハァハァしちゃうよね〜」とかと言うと「まぁ、は・や・お・き、エ・ラ・い。ママの言うことちゃんと聞いて」とかと犬の気持ちを語る方。
でもあれは逆の目で見ると犬がご婦人を操っている可能性もある。
特に女の人はその能力に長けていて声音を変えてまで犬を演じてらっしゃる方が。
「怒ってるの?」とか(と言っているのを)よく見る水谷譲。
あれは実は日本人の心の中に初期設定された犬との関係が現われているのではないだろうか?
興味深いのは、もし夢を見るのだったらこれから犬に注目。
(夢の中に)犬が出て来る。
その時の犬が助けてくれる役回りに入る。
そういう意味で遠い遠い昔のことだが、犬の残像みたいなものが焼き付いているのではなかろうか?という。

人と犬との歴史、物語。
もう一度整理しましょう。
一万六千年前、シベリアと日本列島は歩いて渡れた。
寒冷期に当たって氷のせいで、ベーリング海峡も津軽海峡も繋がっている。
津軽海峡なんかで歴史に残っているが深さは膝ぐらいまでしかなかった。
だからジャブジャブ歩いて渡れた。
その渡る時に横に柴犬がいたという。
アフリカを出発してズンダランド、そしてインドシナ半島エイヤワディ川の河畔で犬と人は出会った。
ここから人と犬は長い旅に出て、縄文人、その人種はシベリアを経由して北海道から青森に入ったという。
これらの人々は旅の途中で様々な知恵を磨いていて、特に縄文に関しては土器を作って煮炊きした。
縄文人である彼等は栗やヒエ、更には魚、イノシシ、シカなどを調理し、この採取生活に最も協力し、共に戦ってくれたのは犬である。
狩りの協力者として犬というのは人間の仲間であった、という。
犬という種類に進化したイヌはデンプン質も食べることができた。
これはオオカミはできない。
オオカミは消化酵素マルターゼを持っていないので、デンプン質が取れない。
これを犬は獲得しているので人間の喰うものは全部付き合えたという。
日本に残っている犬種、紀州犬にしろ秋田犬にしろ柴犬にしろ、全部これは猟犬、猟の為の犬。
犬が持っている本能とは何かというと、獲物に対して自分の体重を計算する能力。

捕食者側の体重の合計が獲物の体重をこえた時、その大型の草食獣を捕まえることができる。−中略−石井さんのイノシシ犬が体重六〇kgのイノシシを倒すには、五頭以上の犬(体重一五kg程度)が必要となる。(134頁)

相手よりほんの僅かでも体重を重くする頭数が集まらないとチームプレイに打って出ない。
これを一瞬で計算するという。
これはオオカミの本能らしい。
オオカミも「シカを喰おう」と思った瞬間に計算するようだ。
「四頭以上必要だ」とか。

そしてこれは今でも散歩の途中で皆さんお気づきになっていると思うが犬と人が歩いていて、主従の関係が上手くいっている犬と人間の関係が上手くいっているペア共通の行動がある。
それは犬の方に特にあるのだが、歩きながら主人の顔を見上げている。
これが上手くいっている証拠。
一万六千年前から続く犬の習性。
飼い主を引っ張るような感じでグイグイ行く犬は上手く行っていない。
あれはオオカミの性格が強く出ている。
もう犬を飼ってらっしゃる方はお気づきだろうと思うが、犬は家族内に順番を付ける。
それでいつもエサをくれる奥さんがボス犬だとすると、夜遅くしか帰ってこない亭主は三番手か四番手のオオカミの群れで考える。
飼い主を引っ張る犬というのは飼い主を二番手に見ている。
そうすると自分がリーダーなので、一番最初にお話しをした武道を教えてくださる先生が子供の時、シェパードを飼っていて「コイツは犬だからいいよな」と思ってジーッと見ていると犬が切なそうな顔をして「『俺がどれだけオマエの面倒見てるのかまだ気付いてないのか』と、そういう目だったんですよ」という。
それが順位の中で犬は生きているから。
このへんが面白い。
さっきもスタッフと話していて盛り上がったのだが、犬というものは主人が指差すと指を見ないで指差したものを見る。
猫は「あれだよ」と指を指すと指を見るので「バカだねぇ」と思う水谷譲。
これは既にコミュニケーションの成立で会話と同じ。
ご主人がボールを投げる。
投げるところまで犬はご主人を見ている。
それでご主人がボールの方角を指すと「『あれを取ってこい』っておっしゃるんですね」と理解する。
この理解が動物の中で最高に勘がいい。

 チンパンジーたちは、人の視線や指さしの意味をまったく理解できないと言われている(155頁)

だから彼(犬)は言葉を使っていなくても会話している。
それが面白いところ。
だから主従の関係がしっかりしていないとダメで、だから命懸けで戦える。
最も顕著な例が秋田犬で、これは映画にもなったが「HACHI」の中で名場面があって。

HACHI 約束の犬(字幕版)



このあたり犬は目を表情だけで言葉無く会話しているという。

遠い昔、一万五千年も前のことだが、我らはインドシナ半島の川沿いの小さなエリアで人として犬として出会った。
そして一万五千年を旅してきた。
その「旅をした」という体験が犬と人を結んでいる。

ここで著者は「二分心」という脳の仕組みを紹介している。
ウェルニッケという名前の領域が脳の部分であって、このウェルニッケという分野に犬が住んでいる。
そう言ってもいいのではないか?
(本の中では「二分心」と犬とは特に関連付けられて語られない)
何か迷ったりすると話し合う。
そういう構造に人間の頭がなっている。
「二分心」
遠い昔に人間の心の中に住み着いた犬がいるということを忘れないというワケで。

最後の章でこんなことを紹介している。
(最後の章ではなく第四章。この後の話も本の内容とは異なる部分がある)
清水さんという方でイノシシ猟のできる犬を育てることをこの人も目指しておられる。
この人は一切鉄砲は使わない。
犬に頼む。
イノシシの足に噛みつき動きを押さえ、この方は猟銃を持たずにナイフだけで首を斬るという猟をなさっている。
使っている犬は洋犬・ピットブル。
攻撃的でしかも人間には友好、従順、忠実。
そして頑固だそうだ。

「アサキチ」は−中略−生まれて初めて見た親子づれのイノシシの子どもにかみつき、自分とほとんど同じ体重のイノシシを咥えた、という。
 この名犬を群れのリーダー「先犬はないぬ」として、イノシシの単独猟が完成した。
(203頁)

それで数頭で足に噛みつきイノシシを弱らせていくという。
アサキチは仲間さえいれば100kgのイノシシにも向かってゆくという犬らしい。
この清水さんもそうだし、一番最初にお話しした方もそうなのだが、この本の著者の島泰三さんも同じことを言っておられるが、昔の日本の村落、村では村全体で犬を飼っていた。
エサやりは村全体でやって、犬を飼う。
犬は夜間、放つ。
そうするとケモノが近づいてくると吠える。
そのことで村を守っていたのではないだろうか?
今はその犬と一緒に生きてゆくという知恵がちょっと人間の方が衰えてしまって、犬からの厄災を避ける為にも安全が優先されて犬をペット扱いにする。
でも犬はあの野生が生きているという。
それから人間の暮らしを脅かすであろうクマ、シカ、イノシシ、サル、そういうものに対しては彼等は必ず目覚めてくれる。

危険だからダメなのか?
やっぱり武田先生はオオカミだと思う。
オオカミさえいれば、もっとバランスがよくなる。
オオカミを見てごらん。
惚れ惚れする。
オオカミはいい顔をしている。
犬とオオカミのハイブリッドという犬種があって、これがいい顔をしている。
人間にはやっぱりもの凄く従順だそうだ。
それをやっぱり鳥獣被害の点では、村でお飼いになるというのは、もの凄く専守防衛になり得るではないかなと思う。
何か変な言い方だが、こうなったらもう縄文人の知恵を学んで犬に頼むことが一番だと思う。

 日本列島に犬とともにシベリア経由で入ってきたわれらが祖先は、東アジアで最初にオオカミ南下亜種イヌに出会った、アフリカから東進してきたホモ・サピエンスの最初の一員だった。−中略−同伴者として氷期の極大期の過酷な条件を生き抜くためには、犬への淘汰圧は厳しいものだった。(205頁)

犬の直感は襲って来るケモノ、或いは天変地異、そういうものに対して殆ど神のような予感を駆使するという。
オオカミの末裔という位置にいた、決してペットではなかった犬。
その犬を村や町内の公共財、公共のものとして飼うというのは提案としてどうであろうか?
ぜひ都知事にも考えていただきたい。
ぜひ頑張ってください。
緑のたぬき。
ちょっと都知事のことを好きになった武田先生。
揶揄した方がいたらしい。
「今度の選挙は赤いきつねと緑のたぬきの戦いだと言ってる人がいますよ」
そう言われた都知事。
「私、緑のたぬき好きなんです」とおっしゃった。

緑のたぬき マルちゃん 緑のまめたぬき天そば 東 45g×12個



「玉子入れると美味しいですよ」とかと武田先生の社長と同じことを言った。
「赤いきつねと緑のたぬき」小池氏が都知事選の対立構図示すフレーズにXで言及「私は卵を…」 - 社会 : 日刊スポーツ
そういう意味合いでは「グリーンのマフラーを巻いているたぬき」の知恵を以て犬を飼う。
そんなので鳥獣被害を退けられれば(「小池」ならぬ)「大きな池」になることができるのではなかろうかと期待したい。



2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会う(前編)

(番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

まな板の上は「ヒト、犬に会う」。
(「犬と出会う」と言ったが多分「犬に会う」)
今年の夏の初めのことなのだが、合気道を教わっているのだが道場に行って、その合気道の若い指導者を「若先生」と呼んでいる。
若先生が突然思い出話で飼っていたシェパードの話をなさって、若先生が小学生時分、散歩に出た。
くたびれてどこかの川べりの土手の上で犬と一緒に座り込んでぼんやり休んでいた。
飼っていた犬はシェパード。
子供としてとてもその犬を愛しておられたらしいのだが、シェパードの顔を見ながら思ったそうだ。
「オマエは犬だからいいよなぁ。宿題は無ぇし、合気道の練習をお父さんからやれって言われることもなくて、飯ばっかり喰って長いベロ出してりゃ一日が終わるからオマエいいよなぁ」と犬にそう思ったか言葉がこぼれたかも知れない。
その瞬間、そのシェパードが若先生の顔を見つめてベロを横に出したまんま深いため息をついたという。
それが若先生には犬に思えなかったという。
人間の表情そっくりだったという。
その時にそのシェパードがもし言葉が話せたら「だからオマエは子供なんだ。俺が夜中にどんなに苦労してるか知らないだろ?オマエが寝相悪くゴロンゴロンゴロンゴロン転がって寝てる時、俺は物音聞いたら『あっ!不審の者』とかっていってパッと目覚ましたりなんかしてんだぜ。一日だって気を抜いたことは無ぇぜ。だって俺はシェパードだもん」。
それで若先生はそこからちょっといささか強引だったが(話を)合気道に持っていって「ご家族にね『こんな暑いのに何が合気道だ』って言われてる方もいらっしゃるかも知れませんが、いつか役に立つ、いつか家族を守れる手段になるんじゃないかと思って、今日も合気道の練習に励みましょう。まずは押さえ技、一教から」。
そこから(合気道の稽古に)入った。
武田先生はその話が凄く印象に残って。
武田先生自身も犬好きだが、YouTubeなんかでパンチラとか何かそういうのを見るのだが、YouTubeで一番多いのは「飼っていた犬のご報告」というのがある。
不思議なのは「赤ちゃんと犬」「幼児と犬」という組み合わせで、その時に犬の表情を見ていると殆ど人間と変わりない。
散歩を嫌がる柴犬とか、お風呂が嫌らしくてお父さんの声で「おい、入るぞ」と言うと顔をそむける。
台所に立っている奥様の足首のところから鼻と目を出して、お風呂をあきらめるお父さんを待っているという。
可愛い。
その他にも赤ん坊が泣きだすとあやす犬とか。
(赤ん坊が)ワーンと泣くと(犬が)ワォ〜ン!と鳴く。
それで赤ちゃんが泣きやむという。
人間の解釈でそれは「子守をしてくれる」というのだが、本当に子守してるんじゃ無ぇかなと。
それでバッタリ本屋さんで目が合ったのが(著者は)島泰三さん。
講談社選書メチエ「ヒト、犬に会う」。

ヒト、犬に会う 言葉と論理の始原へ (講談社選書メチエ 705)



それはどんな出来事がそこにあったのだろうか?という。
最初の前提を言っておくが、人と犬の関係は利害関係だけではないぞ、と。
もっと深い出来事で人と犬は繋がっているんだ。
というのは、犬は殆ど間違いない定説だがオオカミから犬になったらしい。

イヌが家畜化されて脳容量を二〇%減らし、同時にヒトも脳容量を一〇%減らしたことの意味を問い詰めた。その結果「犬に作用した力が同時に人間に作用しないわけはない。−中略−それぞれが相手を変えたのだ」(4頁)

(番組では犬が20%で人間が10%と言っているが、本によると上記のように逆)
だから犬に出会っていなかったら人はサルから人になれなかった、という。

こんな奇妙な仕事をなさっている人がいる。
著者はその人を紹介しておられる。

 豊後と日向の国境に、その人の終の棲家があった。−中略−
 この人里離れた世界で、石井さんはイノシシ猟用の犬を創ることに専念してきた。
(14頁)

今回出動するのは七頭。うち二頭は一歳少々の見習い犬である。主導する一頭にはGPS発信器の装備をつける。−中略−
 犬の準備をおえてから、銃を取り出す。
−中略−石井さんは短刀でイノシシのトドメを刺してきた。銃でも数十cmの至近距離で撃つ。(16頁)

凄い。
紀州犬。
もの凄く旦那さん思いというか、人間との約束を守る犬で、仕えるご主人は一人という。
それで五頭一組でイノシシを追う。
追う時にリーダーがジャッジするらしい。
何をジャッジするかというと深い谷に逃げ込んだイノシシに関しては、そこでイノシシを倒しても、この後やってきた旦那が谷を降りてとどめを刺すというのも狭い谷間では旦那も大変。
しかもその後担いでイノシシを持って上げなければならない。
どうするかというと、リーダー犬が谷にいるヤツは上に追い上げるそうだ。
それを徹底して仕込む。
そして殺すのにふさわしい広さのあるエリアを選ぶ。
それで何をやるか?
イノシシの前足を噛むそうだ。
前足を噛み砕く。
それで動けなくなったらリーダー犬が人間を呼ぶ。
ウォ〜〜ン!と吠えて旦那がやってきて、犬に当たらない為に30cmの至近距離ぐらいで撃って眉間一発だけ。
或いはもう完璧に動けないとわかったら特性のナイフを出して頸動脈を切るという。
そして血抜きをそこでやって担いで帰る。
ひどい時にはイノシシは100kgを超える。
だからやはり道具が無いとダメなので。
やはり凄いのは、犬が全部そこまでリードしてイノシシを狩る
リーダーにはGPSが付いているので、だいたいわかる。
それから見習い犬が二匹いるワケだが、そいつらは犬笛で呼び集めるという。

『和犬は点で追う』ということです。洋犬は、獲物の臭跡を追跡するので、鼻を地面につけてフンフンいって臭いの痕を線で追うけれど、彼らはそうではない。見ているでしょう。臭いだけでなく、和犬は耳と目も使ってイノシシを点で追う。(18〜19頁)

だからリーダー犬がいて、バーッと下から谷底から捕まえ易い平場の峰の上まで追い上げるとすると、その追い上げているリーダーの犬を見たらどこのポイントかを察して先に噛むヤツが隠れる。
それでイノシシが上がってきたらもういきなり首根っこにという。
首根っこを払おうとしたところに前足を他の犬が噛むという。
調教する人も凄いと思う水谷譲。
これほどの大がかりなアレなのだが、鳥獣被害で困ってらっしゃる方は夢見ることになると思うが、これは本によるとこの難度の高いイノシシ猟を犬達は一時間でやるそうだ。
今、依頼の方が殺到しているという。
この紀州犬をここまで仕込むと何でも使える。
クマ、サル、シカ、そういうものから、今はもう市町村を守る為にこの犬というのはこれから絶大なる力を持つのではなかろうかと。
期待したい。
これは石井さんは頑張っていい犬を育てて欲しい。

犬の歴史にここから入っていく。
犬というヤツがどのようにして人に会ったかという。

 イヌは一万五〇〇〇年前頃に、他の家畜にほとんど五〇〇〇年間も先駆けて家畜化された。(24頁)

人間と共生し始めたのはトップバッター。
犬の起源はオオカミかジャッカルか?と言われていたが、研究が進んでどうも犬というのはオオカミの亜種らしい。
オオカミからの流れの生き物。
オオカミと犬は違う。
どこが違うかはまた後で発表する。
このオオカミと違うところがまた重大。

 オオカミとイヌの共通祖先は一〇〇万年前頃に確立したが、それはネアンデルタールとヒトの共通祖先の時代だった。(〜頁)

オオカミは時速60キロで走れる。
最大、一日70キロ移動できて、10キロ泳ぐことができるという。
これがオオカミ。
ヒトはどうかというと人はオオカミ程の牙というような武器は何も持っていない。
直立歩行で、これはいつ滅んでもいいようなサルだった。
ところがここでサルの特徴を捨ててしまう。
それが脱毛。
「何で毛を捨ててしまったのかな」というのが武田先生の不思議だったのだが。
この本を読んで「この説が正しいんだろうな」と思ったのだが、全身から毛を抜いたのは汗の調節の為のようだ。
毛が生えていると温度を調節するというのは難しい。
それで毛を抜いてしまって汗の調節が可能になったという
この汗の調節が可能になったことによって長距離を歩くこと、或いは走ることができるようになったという。
それで汗の調節ができるので、しつこく獲物をずっと追いかけていく。
それで穴ぼこか何かに落としておいて、みんなで石か何かで殺すというような。
最後はマンモスまで殺してしまうワケだから。
それはやはり毛を抜いたというのは凄い。
サルからヒトに変化した人間と、オオカミから変化したイヌという生き物、共通点は何かというとしつこい狩りをする。
オオカミもそう。
「送りオオカミ」とか。
送りオオカミはずっとくたびれるまで付けていく。
だからその手の男のことを「送りオオカミ」と言うのだが、オオカミはそういう狩りをやる生き物。
それで人になりつつあるヒトとオオカミから犬になりつつあるイヌというのがしつこい狩りをするというので共通項があったのだが、大きな歴史的大事件に巻き込まれてゆく。

地球規模での寒冷気候に突入した。七万年前からの寒冷期はきびしく、−中略−五万年前頃にはユーラシア大陸と北アメリカ大陸を隔てていたベーリング海峡が陸橋になり、−中略−この陸橋は、マンモスやカリブーなど草食獣とそれを追うオオカミたちなどの捕食者も移動するルートとなり(69頁)

ところが寒くて寒くてたまらない。
そこでアフリカからやってきたサルから進んだ人も、ヨーロッパの山脈で生まれたオオカミという種類も寒いものだから、この島泰三という人は面白いことを言う。
だんだん生き物が住めるエリアが狭まってきて、ある一点ぐらいの狭さになったという。
居住空間がない
それで寒いものだから赤道近くに集まる。
そこは一か所だけらしいが、生き物で溢れかえってしまう。
この発想は面白い。
引き金がある。

 この寒冷気候の引き金になったと考えられるのは、七万年前に大爆発を起こしたスマトラ島のトバ火山で(70頁)

イタリア半島中部でカンパニアン・イグニンブライト噴火−中略−と呼ばれる−中略−巨大噴火があった。(70頁)

日本の九州南部で姶良カルデラ大噴火−中略−があり(70頁)

噴煙に覆われて太陽が射さないものだから、また人間の、或いは生き物の住める場所が狭くなってしまった。
だから生き物という生き物は地球上のある一点に集まった。
この発想は面白い。
旧約聖書のいうノアの方舟というのは実在したんじゃないか?という。
地球のとある一点に生命圏があった。
その中に生き物が入ってきた。
その場所を著者である島泰三さんはインドシナ半島に求めた。
ここの一点、その川沿いに生き物が住んだたという。
インドシナ半島が突き出ているのだが、その丁度首根っこのところに川が流れている。
長大な川。
これは中国の奥地の方から流れていて、ここに生き物が終結したという。

オオカミの南下集団(イヌ)は、凍りついたヒマラヤ山脈とチベット高原の外縁を回りこみ、雲南省とシャン高原を経由して、エイヤワディ川流域の草原地帯に狩場を発見した。(76頁)

 同じ頃、ヒトもエイヤワディ川の流域で村を作った。(76頁)

とにかく一本の川のほとりに地球上の全ての生き物が集まったという時代があったことをイメージしてください。

水谷譲がこういう性格の人。
「それは著者の仮説ですよね」
実際どうなのかなと思う水谷譲。
仮説だろう。
でもこの仮説はもの凄くイメージしやすい。
別個の本だったが、人類というのは一番最初に数を減らして、二万人ぐらいの時があった。
人と呼べる生き物が二万人しか生きられなかったという状況が地球上にあったという。
武田先生はそれがここなのではないかと思ったので、この仮説を疑わないでどんどん読んでしまったのだが。
とにかくここ。
エイヤワディ川の流域。
(番組内で「エイヤワディ川」を「ヤワディ川」と言っている箇所があるが、全て「エイヤワディ川」に統一しておく)
この一本だけに生き物がバーッと集まってきた。
これは赤道の近くで他の寒冷地に比べて暖かいというのと、この川の恵み、様々な生き物が生きていることができたという。

 その川岸には、生活に必要なものはすべて揃っていた。イモ類、果樹、イノシシやシカやウサギやサル類、魚もエビやカニも貝類も、きれいな水もあった。(75〜76頁)

だから食物連鎖が成立した。
ここだけで喰っていけたワケで。
特に悪食のサルである人間はデンプン質は摂れるわ、魚は摂れるわ、動物の肉も摂れるワケで。
何冊も本を読んできたので印象的な文章が武田先生の場合は次々と連続発火する。
岡潔という数学者が、シンガポールを旅しているうちに、懐かしさで泣きそうになったという。
(以前この番組で取り上げた「春宵十話」の話だと思われる。武田鉄矢・今朝の三枚おろし(12月1〜10日)◆『春宵十話』『春風夏雨』岡潔

春宵十話 (角川ソフィア文庫)



岡潔の直感。
数学者の人が「俺達は一回ここ通ったな」と言っていて。
南に行くとそういう光景にバッタリ出会う。
例えばハワイで何か息をいっぱい吸い込んで昼寝か何かして昼寝からパッと目が覚めた時にもの凄く懐かしい。
懐かしいというか「ここが私の居場所だ」と思う水谷譲。
恐らくシンガポールのどこかのアレで空とか山を見ているうちに岡さんという数学教師は「俺、一回ここ歩いたことあるわ」「俺は覚えてないけど、俺の遺伝子が覚えている」というような言い方を。
そういうアジア的懐かしさ。
それがこの(エイヤワディ川の)ほとりにあった。
ここではケダモノはケダモノを喰い、ケダモノは魚を喰い、魚はエビを喰い、エビは植物性のプランクトンを喰いという完璧な食物連鎖が成立した。
だから誰も喰い物に困らないという不思議な生命の循環が。
この循環の時にこの島さんのイメージはいい。

 ある日、彼らヒトとイヌが出会った。(76頁)

その出会った時は人はサルに近く、犬はオオカミに近かった。
ところが、何となく惹かれた。
当時は犬とサルだから「犬猿の仲」。
だから出会ったサルとオオカミはそれぞれの特徴を10%ずつ捨てた。
10%をサルが捨てたら人間になった。
オオカミが10%捨てたら犬になった。
捨てたもの同士。
ここでもの凄い進化が起こる。
これは進化というか退化といっていいかわからないが、オオカミは肉しか喰わない。
ところがオオカミを少し捨てたら犬はイモが喰えるようになった。

 イヌのゲノムからオオカミにはないデンプン質の消化能力が発見された(108頁)

 これらの犬の消化能力は、初期のオオカミ亜種のイヌとヒトとの関係が決定的な段階を通り抜けたことを示している。−中略−ヒトが定住して食べるようになったデンプン質の食物を共有できることこそ、イヌがヒト社会の一員となる決定的要件だった。(108頁)

それでサル(恐らく「イヌ」と言いたかったものと思われる)とヒトは出会うのだが、ここが武田先生のイメージ。
最初に穀物が喰えるようになった犬が出会った人はどんな人か?
子供ではないか?
大人の人間に出会わずに、人間の子供に最初の犬が接近した。
その子供はオオカミの亜種とは知らずに犬を呼んだ。
危ない。
ところがどこかのヤツがイモを渡したのではないか?
そうするとそれを喰いながら「コイツ、イモくれるんだ」という。
そこに言葉が両者の間で成立したというところから、犬と人との付き合いが生まれたのではないだろうかという仮説。
オオカミであるところの犬が人間に接近する。
その人間の中でも特に子供とのコミュニケーションの中に犬達は希望を見つけた。
犬はやはり表情がある。
それは犬の方も、人間を見ながら思っているのではないか?
「あらぁ、コイツ表情あるなぁ」という。
武田先生はそう思う。
向こうも向こうで見ている。
一番最初に若先生の話をした。
犬のことをやや上から目線で「オマエはいいなぁ。勉強しなくていいし、合気道の練習も無ぇから」と言ったらシェパードの犬がジーッと横目で見て下を向いたという。
ここで著者の島さんは「犬というものと人というものの共生生活が始まった」という。
長い長い付き合いになった。
犬の起源というのは様々世界中にあって、そういう話、ああいう話があるが、武田先生にとってはこのエイヤワディ川の話のような、このインドシナ半島の一本の川のほとりというのが納得がいく。
このエイヤワディ川のほとりから文明が立ち起こっていく。
それはだんだん天候が治まってくる。
縄文海進とかと言って、氷が溶けてゆっくり海が広がっていくという過程で、地球がだんだん生き物に優しい環境を世界中に広げ始めると、一か所に集中していた人達が次々に旅立って行く。
恐らくこのことも踏まえてこの人はエイヤワディ川が犬と人とを出合わせた場所ではないかとおっしゃっている。
ここには両方ある。
イモの話をしたが、ここはイモだけではない。
サトウキビも原種があった。
ここには小麦の原種がある。
米の原種がある。
デンプン質なんかではもう殆どのタネが。
サトウキビは強烈で「噛めば甘い」というのはもの凄く人類の体格を良くする。
ここから人類は世界に広がっていく。
その時に麦の苗を握りしめて西に行った人達がメソポタミア文明を興す。
米を握りしめて東へ行っていた人達が黄河文明を興す。
これが面白さ。
恐らくこの両方の原種みたいなものがこの川のほとりにはあったのだろう。
というワケで、西に行く人と東へ行く人がこの川のほとりで世界中に広がっていったという。

まずは西へ行った人達、メソポタミア文明を興した人達から話を片付けていく。
この人達は麦の穂から小麦を作り始めた。
乾燥した大地があるので、そこで小麦を。
小麦の一番便利なところは、倉庫に保存できる。
これは文明。
ところが困ったことにこの西へ行った人達、もう犬はいらない。
平野が、広いところが小麦栽培にはもってこいなので。
ケモノに突然森の中で襲われるということがないから、もう暮らしに犬は余り必要としなかった
だが、倉庫を作ったら大変。
ねずみ(の害)。
「参ったなぁ」といったら猫を見つけた。
それでペルシャ猫とかという、倉庫を守る為の猫文化が発達したという。
(元々はペルシャ猫が倉庫を守っていたかどうかは)知らない。
エジプトでもどこでも必ず、犬より猫が神様の顔をして出てくる。
あれはやはり猫文化というのは「小麦の倉庫を守る為」というのがあったのではないか?

今度は東に行った人達はどうしたか?
黄河文明を興す。
この人達は広い水田を見つける。
それでエイヤワディ川のほとりと全く同じように。
稲作は私達はやっているが、あれは古里を思い出させて騙している。
米を作るということは古里を思い出させること。
田植えをする。
あれこそエイヤワディ川の川岸。
「ホラホラホラホラ、エイヤワディ川よ」と言いながら農業をやっている人は植えていく。
そうすると稲の方は「懐かしいな。エイヤワディ川だ」とかと言って大きくなる。
そうすると当然雨期。
どんどん上に伸びないと水に浸かってしまうから、それで背丈を伸ばす。
人間が切りやすいところまで出たら水を抜いてしまう。
そうしたら稲のヤツは「あ!乾期だ」と思って実を実らせようと思ったのがコシヒカリになる。
つまり稲の中の遺伝子がそれを覚えている。
だから日本の稲は茎が短い。
あれがインドに行くと洪水が多いものだから二倍、三倍になってしまう。
その土地の気候。
でも彼等に「エイヤワディ川のほとりに住んでますよ」と夢を見させることが稲作りの基本。
だから季節は二つ。
雨期と乾期。
それを体験させる。

ここから日本で独自に発展した犬文化というのを振り返ってみて。
時間いっぱい。
いいところで終わって申し訳ない。
犬を連れてお散歩をなさっている方も聞いてください。