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2024年10月06日

ローソンストア100 ザ・クラッカー

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ザ・クラッカー | オリジナル商品 | 商品・おトク情報 | ローソンストア100〜献立応援コンビニへ。〜
便利な分包タイプのシンプルな横長サイズのクラッカーです。ほんのり塩味がきいているので、そのまま食べても、チーズなどを乗せても楽しめます。

発売日不明。
本体価格100円(税込108円)。
販売地域全国。
内容量48g(3枚×9袋)。
1枚(標準5.5g)当たりエネルギー24kcal。
原産国名中国。
輸入者株式会社ハッピーポケット。

公式のインスタグラムに9月20日に新発売ってことで紹介されているので、そのあたりに発売になったと思う。

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透明なトレイの中に入っている。
これも結構しっかりした感じのトレイだな。

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どっちがタテかヨコかわからんけれども、タテが9cmでヨコが4cmちょっとぐらい。
「横長サイズのクラッカー」ってことは、長い方がヨコか。
薄い長方形のヤツが一袋に3枚入っているということで。
味はまあ普通にクラッカーだなって感じなのだけれども、「ほんのり塩味」は感じない。
何かを乗せて喰うならいいだろうけれども、これだけを食べるのであれば塩味が全然足りないな。

ヤマザキビスケット ルヴァンクラシカル6P 36枚×5個



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2024年7月22〜8月2日◆バイリンガル(後編)

これの続きです。

「バイリンガル」
言葉の問題。
自分の国の言葉が使える、これだけで十分なのだが「バイリンガル」、もう一か国別の国の言葉が自在に話せる、或いは「マルチリンガル」、たくさんの国の言葉が話せるという。
言葉のみを見つめると世界には日本語では置き換えが不可能な表現というものがあって、もちろん日本語もそういう言葉がある。
「もののあわれ」とかというのはとても訳しにくい。

韓国語では器や袋に何かを入れるとき、「ぴったり」入っているか「ゆったり」入っているかで使う単語が異なる。(165頁)

キムチを瓶に詰めたりする文化からきているのかと思う水谷譲。
「詰め物に対する厳密さ」みたいなものを認めて。
日本だと山盛りというのはサービスなのだが、中国ではそれが当然で、或いは「山盛り」と「擦り切り」、それをちゃんと言葉で表現するという。

英語で「いとこ」を表す単語は「cousin」しか存在しないが、中国語では8つもある。母方か父方か、男か女か、自分より年上か年下かで分類しているからだ。(165頁)

ただ、困ったことに今は中国はおじ・おばがいないという一人っ子政策なので。
言葉だけ残って内実が伴わないという。

言語・言葉というのは深く人間の心理に根差している。
これはもう先週もお話したが。

 中国語と英語のバイリンガルを対象に、ギャンブルにおける意思決定に関する研究を行った。ポジティブなフィードバックと金銭的な利益(すばらしい! プラス10ドルだ!)を経験した後と、ネガティブなフィードバックと金銭的な損失(最低だ! マイナス3ドルだ!)を経験した後で、それぞれの被験者がどのような意思決定をするかを観察する。
 その結果、母語以外でフィードバックを受けたほうが「賭けに出る」という意思決定が減り
(172頁)

今言ったように母国語の場合は非常に大胆になってしまう。
第二言語で語る時は非常に慎重になるという意味で、その習慣が日本にも根付いて、例えば歯医者さんとか病院の外科医などは治療の最中、専門用語で語るという。
カルテなんか開く時「次のクランケ呼んで」とか。
歯医者さんで「10点10点」とか。
あれはいわゆる「言語を変える」ということの方がクールになれるので。
外科手術なんかでその国の言葉で話されると意識がある時に嫌。
武田先生は心臓に欠陥があったので腕の血管からずっと細いチューブを入れてそれを覗きに行くという。
難しかったのだろう。
若い方がやってくださったのだが、横で指導なさっているのが老教官の方。
その人が全部日本語でおっしゃる。
「ビビらずドーンと行けよぉ!」
嫌だった。
「ドーンと行け。ドーンと行け」と言うのが凄く嫌で。
さすがに主治医にポロっとこぼしたことがあった。
「『ドーンと』はやめてください」
そいう時にはやはり専門用語を使ってもらうと、こっちも・・・

同じ言葉でも著者は「インフルエンサー」、影響を与える人の言葉の力を振り返っている。
いい話があって、その典型でジョン・F・ケネディの話を。
ジョン・F・ケネディはソ連邦がベルリンの真ん中に壁を建てると言い始めた時に激怒して「そんなことは許されない。人類に対する冒涜だ」とソ連邦を叱った。
そのベルリンの壁の向こう側にいたのが今のプーチンさんだが、ケネディの演説を聞いただろう。

 冷戦時代のもっとも有名なスピーチの1つで、ジョン・F・ケネディはドイツ語で「Ich bin ein Berliner」と言った。これは「私はベルリン市民だ」という意味であり、ベルリンの人達との連帯、アメリカと西ヨーロッパとの結びつき、そしてベルリンの壁建設に反対する姿勢を伝える役割を果たしている。(188頁)

英語で喋っておきながら、たった一言ドイツ語が入ったという。
これはベルリン市民に強烈な自由主義の素晴らしさを伝えたという一語。

言語・言葉。
政治家の方にとってもとても大事で、プーチンさんはウクライナの子をもっていってロシア語で教育するというのに熱心で。

 政治家は、聴衆に合わせて話し方を変えている。たとえばバラク・オバマ元大統領は、黒人に向かって語りかけるときと、白人に向かって語りかけるときで話し方を変えていた。(188頁)

同じ米語でもそれぐらい違う。

 インドでも同じようなことがあり、チョコレートのような贅沢品の広告ではヒンディー語よりも英語を使うほうが効果的で、洗剤のような日用品の広告では英語よりもヒンディー語のほうが効果的になる。(191頁)

これは日本も同じ。
日本も高級品はワリと英語でやる。
イメージが。
綺麗なアナウンサーの方が「beautiful」みたいな。

これはアメリカの人。
面白い。
日本語というのは難度が高く、その言葉がその意味を持たないということが大きい。

 日本の文化では、空気を読めるかどうかが死活問題になることもある。なぜなら多くの場合、相手の言葉だけで相手の本心を知るのは不可能だからだ。交渉術を教えるコースの中には、日本人の「かもしれない」は、英語の「絶対にない」と同じ意味だと教えているところもある。(205頁)

それから「前向きに検討します」というのは前向きではない。
「考えてみます」という返事は「あまり考えたくない」という意思表示だという。
このへんは痛痒い指摘。

実に当たり前の話だが、これは指摘されてハッと気が付いた。
「例えば」と著者は言う。
結婚式の招待状。

 いくつかの国(たとえばモルドバ)では、結婚式に招待され、はるばるアメリカから大西洋をわたって出席する場合、結婚式だけで終わらないことが多い。たいていは、式の前の晩と当日の晩の宿、滞在中の食事、そして実際の結婚式とそれに続くディナーとパーティまで、すべてホストが提供してくれる。−中略−オランダで結婚式に招待されると、招待に含まれるのは本当に結婚式そのものだけだ。式の後のディナーやパーティは含まれず、それぞれに別の招待状が用意されている。(205〜206頁)

 中国の場合、結婚式の招待状は、式典、ディナー、パーティなど、結婚式に関連するすべての行事への招待を意味する。アメリカでは、式典とパーティを分け、それぞれの時間を明記するのが普通だが(206頁)

結婚式の招待状というものは、−中略−それが意味するところはさまざまだということだ。(206頁)

アメリカにあって英語が公用語ではあるが、移民の国であるが故にフランス語、ドイツ語、オランダ語等も許されている。
また、アフリカ系アメリカ人によって訛りもあり、その訛りが相当地域差でありますよ、と。
そして陸軍と海軍では言葉遣いが変わる。
中国では公用共通語、これは北京で使われている言葉。

マンダリンと広東語の違いは、たとえばお互いに意思の疎通が可能なデンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語の違いよりもずっと大きく(209頁)

東北弁と鹿児島弁以上の違いがある。
これはロシアとウクライナ語もそうで、ある意味でお互い分からないように話す傾向があるのではないだろうか?
これは武田先生の説だが、とにかくウクライナの人をロシア人にしたがるプーチンさんと、ロシア人になりたくないというウクライナ人の戦いが未だに続いているという。
ロシアでプーチンさんが凄くいろいろ頑張っておられるが、武田先生は不思議で仕方がないのだが、司馬さんの本から学んだのだが、ロシアの人は「あなた方はアジア人ですか?」と訊くともの凄く怒る。
ロシアの人は凄くアジア人が嫌い。
日本人とか中国人が嫌い。
でも一番今、仲がいい国は中国なのだが。
何で嫌いか?
ジンギス・ハンにやられた。
ジンギス・ハンに奴隷同然に使われたので大嫌い。
アジア人のことを「タタール」と呼んだ。
「タタール人」という。
間宮海峡がある。
ロシアの人は日本人と差をつけるために「タタール海峡」と呼んでいる。
「ここから先は野蛮人しか住んでいない」という意味で「タタール海峡」。
それで肉を喰う時もドロドロした「タタールソース」をかける。
それが「タルタルソース」。
「タルタル」というのは「タタール人のソース」という意味で。
これは武田先生の発見だが、ウクライナは「ウクライナコサック」といって、馬に乗るのがとても上手な一群の兵士がいた。
このコサックは実は何をプライドにしているかというと「俺達はジンギス・ハンの末裔だ」と言っている。
そのへんはどうもアジア観がロシア人とウクライナ人では違うそうで。
プーチンさんはただひたすらヨーロッパに於けるロシアの地位を上げたいという。
だからヨーロッパを従えることが、彼のスターリン以来の夢。

アメリカにまいりましょう。

 現在、アメリカでは350種を超える言語や方言が話されている。(215頁)

アメリカ人というのはそういう意味では最も耳のいい国民。
どんな訛りがあろうとも何とか解釈してくれるという。
一説によると「バガボンド」

バガボンド コミック 1-37巻セット (モ-ニングKC)



あれを熊本弁と言う人がいる。
「バカモンが!」という。
いとも簡単にアジア人の言葉を吸収できるアメリカの言語世界。
早口で喋るアメリカ人のお喋りなんか聞いていると何を言っているかわからない。

この本では面白い実験をしている。

英語話者を対象に日本語の対義語のペアを見せ、それを英語に翻訳した単語のペアからどちらがどちらの意味になるか推測してもらった−中略−
 たとえば、日本語の「heiwa(平和)」と「tatakai(戦い)」というペアを見て、それから「peace」と「war」というペアを見た英語話者は、偶然の結果と思われるよりも高い確率で、「平和」は英語で「peace」であり、「戦い」は英語で「war」だと推測することができた。
(245頁)

(番組では音を聞かせたという説明になっているが、本を読んだ限りでは見た目を問うたようだ。音声を聞かせたのは別の実験)

こんなふうにして25組の対義語に挑んでもらうという。
アメリカ人の耳で言葉の響きの勘を試すという。
日本語の他にフランス語、中国語、これはもちろんマンダリン、そしてポーランド、ルーマニア、ロシア、タイ、スペイン、ウクライナでこのゲームをやった。

 正答率がもっとも低かったのはマンダリン−中略−、日本語−中略−、ロシア語で、タイ語−中略−、ポーランド語−中略−、ウクライナ語−中略−がそれに続く。正答率がもっとも高かったのはルーマニア語(74パーセント)、フランス語(79パーセント)、スペイン語(81パーセント)だ。(246頁)

つまりアメリカ英語に響きがよく似たトップがスペイン語。
似ていないのが中国、日本、ロシアの国語ということ。
面白い実験。
音・象徴としてイメージを喚起しにくいのが中国、日本、ロシアで、日本語はまことに微妙な立場であるという。
中国では飛行場のことを「机の場(机场)」と書いて、それで「飛行場」と読む。
何で「机の場」かというと中国では「机」と書いて、これは機械の「機」と読むそうで。
機械の「機」を簡単にしていったら「机」の感じになったということだと思う水谷譲。
同じ漢字でも解釈が日本と中国では違ったという。
漢字で「手紙」と書くと中国の人は「トイレットペーパー」だと思う。
それほど違うもの。
もう仮想敵国になっているアメリカなのだが、漢字で書くと

中国語で「アメリカ」は「美国」だ。(250頁)

どんなに憎くても「美しい国」と書くワケで、自らが当てた「美」の文字がまぶしいのではないだろうか?という。
日本に当てたのは「小さい日本」と書いて「小日」と「日の出の方角の小さな国」というのが日本のイメージなのだろう。

中国語の「嫉妒(嫉妬)」や「奴隶(奴隷)」は、どちらも「女」という意味をあらわす文字が含まれている。(250頁)

これが意味の中にイメージを植え付けてしまう。

日本語の非常に興味深いことに、音に関しては豊かなオノマトペを持っている。
「太陽がサンサンと照る」「風がブローブロー、ビュウビュウ吹く」「アイツはスイスイ泳げるよ」と。
それから「ほら、そこ見てご覧。綺麗な石がティンクルティンクル、キラキラ光っている」。
音、象徴としてはオノマトペの方が国際標準に近い。
こういうのを昔、武田先生は無茶苦茶面白かった時があった。
「わたつみ」と海のことを「ワタ」という。
それは「water」ではないか?と。
水が「ワタ」。
これは武田先生の推論。
もう脱線。
許して下さい。
「面白いな」と思ったのは、この日本語というのがオノマトペをとても豊かに持っていることが、マンガになりやすいのではないだろうか?という。
オノマトペの心地よい音の発音は表情、それから心理みたいなものを的確に言い当てる表現がある。
「びっくりする」「どっきりする」
これはやっぱり言葉と同じように表情がもう既に言葉が持っているという。
マンガで描く時は「びっくり」と「どっきり」は表情が違う。
これがアニメで描くとコマ数になる。
「びっくり」はコマ数がいらない。
でも「どっきり」はコマ数がいる。
そういう意味ではこのオノマトペを持っていることというのがマンガ文化、世界共通の言語が達成できたのではないだろうか?と。

この本は読めば読むほどどんどん難しくなって。
著者は音・象徴、形・象徴。
そういうものに数学がある、と。
だから言語の後ろ側には数学があるんだというふうにおっしゃっている。

たとえ昆虫でも、数を数えたり、大きな数を認識したりする能力があるという。−中略−たとえばミツバチは位置が特定できるような目印をかぞえることができ、アリは自分の歩数を数えることができる。(297頁)

 カラスはかなり高度な数学能力を持つことで知られていて、たとえばゼロの概念を理解している。(297頁)

ある種のカエルは、数を頼りに求愛の儀式を行う。中米原産のトゥンガラガエルは、メスをめぐって他のオスと争うときに鳴き声を使う。1匹のオスが、鳴いたあとに短い音を一回出すと、もう1匹のオスは短い音を2回出して対抗する。すると最初のオスが短い音を3回出し、もう1匹のオスはそれを受けて短い音を4回出す。その競争が、どちらかの息が切れるまで続くのだ。−中略−トゥンガラガエルは音の回数をかぞえることができる。(298頁)

だから夏場の田んぼはやかましい。
そういうこと。
無駄に鳴いているワケではなくて、「この人は何回もよく鳴くな」と思うと「アンタを求める欲求が強い」という。
同じ子の名前をずっと叫び続ける。

かおるちゃん おそくなって ごめんね(美樹克彦「花はおそかった」)

というようなもの。

花はおそかった



これがマンガ・アニメの中にもこの数学があって「ギクッと驚く」と「びっくり驚く」は描くコマ数が違うという。
「ギク」は一瞬で、コマ数が少ない程「ギク」の感じが。
「ビックリ」は仰天するワケで、ゆっくり持ち上がるようにコマ数を多く使うという。
そういう意味では言語の後ろ側に数学があるのではないか?という。

 聴覚の研究で使われるような、きわめて敏感なマイクを耳に近づければ、耳が発している音を拾うことができる。この音は「耳音響放射」と呼ばれ、現代の科学が直面する謎の1つだ。(325頁)

これは一体どういうことか?
はっきりとはまだわからないワケだが。
音をより聞く為に、一定の音を出していた方が音が聞きやすい。
そういう音響放射みたいなものを出している。
前に「60歳のトリセツ」か何かで黒川先生だったかの本で脳が人間の寿命を実は知ってるんじゃないかという。
脳自体も持っているらしい。
このあたりに出て来た話)
だから自分の体には別の何かがいつもあるというふうに思っておられるといいのではないだろうか?
とにかく人間というのは不思議なもの。

このこういう小さいエピソードが凄く気になって。
この本の中に紹介してあった。

前向性健忘症(外傷や精神的トラウマを受けた時点を起点として、それ以降に新しく記憶することができなくなる症状)の女性の治療にあたっていた。
 その女性は、子ども時代のことや、大人になってからのことも覚えているが、新しく記憶することができない。
−中略−たとえ毎日彼の診察を受けていたとしても、彼に会ったことも思い出せない。
 ある日、クラパレードは手のひらにピンを隠し、彼女がやってくるとそのまま握手をした。彼女は手にピンが刺さるのを感じた。その翌日診察室を訪れた彼女は、クラパレードと握手することを拒否した。もちろん彼に会ったことも、前日に握手したときにピンで刺されたことも覚えていないが、それでもいつもしていた握手を拒否し、その理由を本人は説明できなかった。
 つまり、彼女の顕在意識の中に手をピンで刺された記憶はないが、それでも記憶はたしかに存在しているということだ。
(80〜81頁)

(番組では複数回ピンを刺したように説明しているが、本によると上記のように一回)
そして先週申し上げたが、ある女性が記憶の始まっていない時に養女としてアメリカの里親に預けられた。
どこの国、どこの街の他全く里親には知らせず、その子ももちろんわかるハズもない。
里親から人生を始めたのだが、その女性は英語を話すアメリカ人として成長。
ところが大きくなった後、その事情を知って自分の本当のルーツはヨーロッパである。
自分はどこの国の人間だったのかを知りたくなってお願いしたらその大学が彼女にヨーロッパ圏の言葉をいろいろ教えた。
彼女が一番学習スピードが上がった国語は何と驚くなかれウクライナ語で、彼女はウクライナ人だったということが判明したという。
持って生まれた言語に対する感性というのは、生まれ育ったその場所で既に決まっているのではないだろうか?という。
世界の支配者で言うとロシアのプーチンさんが、とにかく子供にロシア語を叩きこみたがるのもそういう理由。
それから習近平さんがもの凄く中国統一に燃えておられる。
これは何かというと「言葉」。
北京の公用語が新疆、四川、それから南の方の江南では通じない。
この「通じない」という苛立ちが習さんにはあって、だから共産党で中国をまとめるしかないという。
そうしないと中国は三国志や春秋戦国時代のように国が割れてしまうという恐怖感が、習近平さんにはあるのではないだろうか?という。

言葉を見つめてみたが、著者は最後にこんなことを言っている。
全世界は高度の世界である。
或いは記号、符号。

DNAも−中略−4つのヌクレオチドで構成された言語で書かれている。アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、−中略−チミン(T)(329頁)

これが二重のらせんのテープに刻まれていて遺伝子を伝えることによって生き物を生み出している。
生き物というのは考えてみると一冊の本なのだ、という。

言葉というものを取り出して、とりあえずいろいろさばいてみたワケだが。
面白い情報もあれば退屈だった情報もあろうかと思うが、最後の方、解説で (この本の監修の)今井むつみ教授という方が締めくくりでこんな話を話しておられる。
異国で買い物をするんだったら翻訳はチャットGPTで十分だ。
しかし深い技術や文化、思想を解く時、人間が言葉を解かなければならない。
言葉を武器にして民族の差を付けようとしたり、言葉で人を支配しようとしたり、或いは人の不安に言葉でつけこもうとする、そういう人を操るものとか犯罪者がいることは事実だ。
しかし多文化こそ我らが未来である。
そのためにはバイリンガル、マルチリンガルであること、言語を自由に操ること。
危険なことかも知れないけれども私達に待っている未来なのだ。

水原一平氏というバイリンガル。
非常に器用にアメリカ英語社会の中で生きていた彼が、なぜ大谷翔平という主役に対して凄まじい金額を騙し取ったのか?
その根っこは一体どこにあるんだろうか?というのをずっと考えている。
彼は英語ができなければ・・・
賭け事はやられたんだと思うが、そんな大きな犯罪にはならなかったのかな?と思う水谷譲。
あの水原一平氏、バイリンガルであった、英語が堪能であった彼は、その預かった鍵を持ちながら博打という扉を開けてしまったという。
一平氏の犯罪を整理すると、彼の英語の全ては大谷翔平の野球の為の言葉。
彼が自分の為に使う英語はバクチの為であった、と。
大谷の野球を支えながら大谷を騙す為の日本語が使われた。
水原氏は考えてみれば凄く不思議な立場。
英語の質問を日本語で大谷に渡し、大谷が発した日本語を英語にして記者達に渡すという。
それが彼の仕事だった。
でも水原一平氏の声を聞いたことが全く無い。
彼は英語と日本語という世界に住みながら、彼の声はメディアでは一切流れていない。
彼の声が求められたのは裁判所に出入りする時に日本のマスコミ、まあアメリカもいたけれども、ワーとマイクを突き付けられて「何か一言」。
裁判所に行って初めて声を求められる。
水原氏の悲劇とはバイリンガルでありながら声を持たない。
バクチの方にのめり込んでいった、というのは何かありそうで。
かなり大きいネタなので、またもう一回やりましょう。
それは別個の本を読んでいた時に、賭け事に対する依存症の人達の病態を説明したヤツがあって。
(「みんな政治でバカになる」にを指していると思われる。本の中に「依存症者は意思が弱いのではなく、『他者に依存してはいけない!』という考えを強く持っている」とある)

みんな政治でバカになる



みんな「やめろ」と言う。
「バカなことするな」と言う。
何でそんな病態になったのかというのは「自分で解決しよう」と思うからだという。
依存症の人というのは他者に甘えるということができない。
でも人に頼らないとできないことというのはある。
人間、産まれてきた時がそうだし、死んでいく時がそう。
「産まれる」「死んでゆく」は他者にゆだねないとできない行動。
それを自分でやろうとする。
それが依存症。
かなり哲学的なオチになってしまった。
でも一人の人間が三十億近いお金をバクチに突っ込むというのは、よほどその人間としての闇が深くないとできない行動だと思う。
これは決して彼の不幸とか、線をバサッと引いて「あの人は悪い人だから」なんて武田先生はもともと言う気はない。
何かの依存症になりそうな瞬間は武田先生の人生の中で何度もあった。
何とかクリアして生きてきた。
それはもしかすると武田先生の意思とかではなくて、ただ単に運がよかっただけかも知れない。
そんなふうにして思うと、何か人ごとではなくて、我がうちに隠し持っている何かの闇を皆さんと共に語り合ううちに、その深い闇から脱出できる術が見つかるかもしれないという。
水原氏も何か手はあったのかも知れないと思う水谷譲。
「日本人でしょう」とマイクを突き付けた人がいたが、きちんとした意見の中で「そういう言い方はないでしょう」「日本人で揺さぶるのはずるいよ」という言い方があったがその通りだと思う。
片一方の天才は余りにも明るい活躍の世界にいるので、犯罪者となった彼のことも我々はどこかで日本人として彼の心情を測ろうというふうに思う。
まだまだ続く回だが、来週はまた別のネタでお会いしたいと思う。


posted by ひと at 15:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年7月22〜8月2日◆バイリンガル(前編)

まな板の上、「バイリンガル」が乗っている。
元ネタはある。
「言語の力」、(原題は)「The Power of Language」。
角川書店から出ていて(著者は)ビオリカ・マリアンさん。

言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?



この本の腰帯にはこんな宣伝文句が載っている。

「ChatGPTの翻訳はますます巧みになっていくだろう。そんな時代に、外国語を学習する意味は何か」

こういう一文。
もう本当に訳せるようになった。
旅行先で看板とかにスマホを向けただけですぐその文字を訳してくれるから便利は便利だと思う水谷譲。

ではバイリンガル、他の国の言葉が使えるというのは果たしてこれから意味があるのだろうか?という。
武田先生もこの本を読みながらまた、日記を英語で書いていた。
しばらくやめていたのだが、この本を読んでいるうちにやはり老化対策も含めて続けてみようと思って。
それは何でかというと前にお話しした通り。
他愛のない日常生活、同じことの繰り返しなのだが、英語で書くと別の世界の出来事のように思えてくる。
その「バイリンガルの面白さ故に日記は英語で書く」これをもう一回復活させようと思ったワケで。
バイリンガルと言うが、もうバイリンガルだけではなく世界には「マルチリンガル」、三か国語、四か国語を話せるなんていう人がいらっしゃるワケで。
バイリンガル、つまり英語が自由自在に使えたら。
バイリンガルに憧れる水谷譲。
テレビのタレントさんでもいらっしゃる。
外国からお客様が来ても顔色一つ変えずに番組で。
あんなのを横で見ていて「いいな」と思うワケだが
この本を読み始めたら、この作家のビオリカさん。
まずはバイリンガルであること、或いはマルチリンガルであることについては絶賛から始まっている。
やはり言葉、他の国の言葉ができるというのは素晴らしいこと。

例えば文法で言うとそれは代名詞。
「わたし」「あなた」「彼」「彼女」という言葉だが、「橋」という名詞がある。
これは代名詞で日本語だったら「それ」とか「あれ」でいいのだが、異国ではこれを「彼」とか「彼女」とかで言ったりする。
そのこと。
橋の代名詞に性で表現するという。

ドイツ語では、「橋」の代名詞は「彼女」で(14頁)

ルーマニア語では、−中略−単数なら男性で、複数なら女性なのだ。(14頁)

無生物の対象に対し文法で性を与えるという。
そういう言語の中のあるイメージがあるのだろう。
「橋」で思い出したが、青春の頃だが、今、思い出すのは「明日に架ける橋」がある。
あの中に英語の歌詞で

Sail on silver girl,(サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」)

(本放送ではここで「明日に架ける橋」が流れる)



それは最初の訳文はその通りだった。
「漕ぎ出そう、銀色の少女よ」という。
「何で銀色の少女なんだ」「変だな」と思ったのを覚えている。
何のことはない。
船のことを英語は「girl」「銀色の乙女」。
そういえば船なんかはそう。
「処女航海」と言う。
そうやって考えると言葉の中にある文化というのを覚えないと言葉は喋れないワケだから。
世界を見てみましょう。

ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカの多くの国では、生まれたときから複数の言語に触れながら育ち、−中略−ルクセンブルク、ノルウェー、エストニアでは、人口の90パーセント以上がバイリンガルかマルチリンガルだ。−中略−ヨーロッパ全体で見ると、人口のおよそ3分の2が少なくとも2カ国語を話し−中略−、そしてカナダは人口の約半数がバイリンガルだ。−中略−EUの場合、高等教育を受けた人の80パーセント以上が2つ以上の言語に通じているという。(28頁)

(番組内で言われた数値は本の内容とはかなり異なる)
何かベルギーの人だったか四か国というのがいた。
どんな頭をしているのか本当に不思議。
フランスで知り合いになったパトリックというのが英語と日本語とフランス語だった。
そういう多国籍の人達がゴロゴロいる。
ただ、いくつもの国の言葉が話せるというのは心理実験でもちょっと変わったことがあって。

誰も見ていないところでサイコロを振り(出た数字は本人だけが見ることができる)、その数字を報告する。数字が大きくなるほど、もらえる報酬も増えることになっている。−中略−実際は、母語を使っているときのほうが、外国語を使っているときに比べ、数字の5か6を報告する確率が高くなり、1か2と報告する確率が低くなる。(38〜39頁)

第二言語を話しているときのほうが正直になるとまでいえるかも知れない。(39頁)

これは全然理由は(本には)書いていないのだが
日本語しか話せない人が集まって英語で仕事をやったりする。
それは武田先生も体験したことがあるが、インスタント麺を両手で持つヤツか何かで向こうに行く。
(東洋水産のCM撮影時の話かと思われる)
それでさんざんやる。
それはもう仕出しの人は全部ロスの俳優さんだから。
それで監督さんもアメリカの人で。
そっちの方がキャメラを回しやすいから。
アメリカのコマーシャル監督を雇う。
それでやった。
それで(撮影が)全部終わる。
そうすると日本人だけ深夜に集まる。
それで小さい声で「どうですアイツ?」と言う。
「ハーイ!ハワユー!」「アイムファインセンキュー!」と言っていた広告代理店の人が「笑ゥせぇるすまん」みたいな顔をして

笑ゥせぇるすまん (1) (中公文庫 コミック版 ふ 2-48)



「どうです?今度の監督。武田さんの意見聞きたいなぁ。アタシねぇ、ちょっと今、疑問符」とか、朝、スタッフ全員と会った時のアレと全然違う話を日本語でし始める。

この本は難しい。
この本は一つの単語が英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語で次々と音を変えて行くということを紹介しているのだが、武田先生がわかるのが英語がやっとでスペイン語とかドイツ語とか書かれても何を書いているのか全然わからない。
だからその部分は説明できなくてすみません。
著者の方にも悪いと思うが、勘弁していただきたいと思う。

チャットGPTなんかと俳句の「プレバト!!」(夏井)いつき先生と、例えばチャットGPTが俳句を作れるだろう。
でも何が変わってくるか?
圧倒的に夏井先生が上手いことは間違いない。
GPTの最大の欠点は体が無いから。
時々(「プレバト!!」に)出させてもらっているから、下手くそながら一生懸命作るのだが、この(「今朝の三枚おろし」の)勉強をしながら、そっち(「プレバト!!」)の勉強もしていたのだが。
「夏」という季語でどんな句を作るか。
これは日本の素人の方。
海の家で一句作った。
「天丼のかくも雑なり海の家」
これはいい。
「見えてくる」というのはどうしようもない。
見たことはないのだが見えてくるという。
人間の感性というのは凄い。
それから「留守守るタオル一枚砂日傘」。
(正しくは「留守を守る」のようだ)
浜辺にパラソルが。
そこにデッキが置いてあって、何と誰もいない。
海に行ってしまったのだろう。
留守を守っているものがいる。
タオル一枚。
見えて来る。
「留守守るタオル一枚砂日傘」
何か海風の臭いが吹き抜けていくような句。
私達はかくのごとくわずか17文字で夏の情景を次々に歌にできる。
チャットGPTはどんな句を作るかわからないので紹介できないが、これはこれは人間に勝てるワケがないというワケで。

脱線ながら時間の表現。

英語の話者は、時間について話すとき、−中略−「距離」のメタファーのほうをより多く使うようだ。(85頁)

「Long, Long Ago」
距離。
日本人はまた凄いことに時間の表し方で「わび」「さび」というのがある。
「わび」というのは質素なのだが、「さび」というのは物の劣化。
言語で物が劣化していく時間というのを表現するワケだから。
典型は何かというと「金継ぎ」「鋳掛(いかけ)」。
割れた茶碗、穴の空いた鍋等々を修理して使うことなのだが、日本の価値観は「金継ぎ」「鋳掛」こっちの方が新品より値が高い。
それは時間が過ぎているという。
それは消耗しているワケだからボロになっているのだが、それを「美しい」というという。
ここに日本の美意識があるワケで。
これはやっぱり日本語を相当使いこなさないと理解できない。

武田先生が「感性違うなぁ」と思ったのだが、アメリカ育ちの日本人の女の子と一緒に桜を見に行った。
彼女が満開の桜を見て「ポップコーンみたい」と言った。
武田先生はついていけなかった。
桜がポップコーンに見えたことはない。
このあたり、その言葉の中にたくさんの文化というものも住んでいるようで、そのあたり明日から語ってゆきたいと思う。

言葉に関する人間の心理の実例。

「ダブルフラッシュ錯覚」とは、何かが1回出現(フラッシュ)するときに、短い音を2回聞くと、それが2回出現したように見えるという現象だ。(90頁)

(番組内では「ダブルフラッシュ錯覚」を条件反射のような内容で説明しているので本の内容とは異なる)
これが武田先生の勘だが、恐らく一目ぼれの原理。
前に話した。
一目ぼれは二度目が一目惚れ。
一回見た。
「好きなタイプじゃないな」と思った。
それで目をそらしたのだが、目をそらした瞬間に何かの音が聞こえてもう一度見た。
その時に「好きなタイプだ」という。
一度「二重線でその人を消した」ということがその人を際立させるきっかけになる。
水谷譲はこのあたりを相当疑っていると思う。
「その人を見た。その後にその人を誰かが呼ぶというその声を聞いた」ということはその人の名前が分かった、その人がいた。
誰かが「ハナちゃーん」と言ったらその人が「はい」と返事をした。
「あの子の名前はハナコか」
歩き始めて「ハナコ・・・ハナコ・・・ハナコ」と言っているうちに好きにっていく。
これはあり得る。
これが恐らくダブルフラッシュ現象を説明する、最もわかりやすい例え話ではないかなと。
好きだからその人の名をつぶやいたのではない。
つぶやくうちにその人のことが好きになってしまったのだ、と。

錯覚というのは心理の中にいっぱい住んでいて

 共感覚とは、ある知覚による経験が、別の知覚による経験が引き起こすという現象だ。たとえば、ある音を聞くと必ずある色が見えたり、ある生理的な感覚が起こったりするという現象だ。(91頁)

それから音楽を聞くとそれが味になって感じられる。
バイリンガルやマルチリンガルの人も言語と結び付いているある「共感覚」、別の感覚があるのではないか?という。
だから汚い言葉を使うと逆になってしまう。
面白いなと思ったのだが、罵倒しているYouTubeがある。
汚い言葉を使いたがる人というのがある。
「経産省なんていうのはクソなんだよクソ!」とかと。
この人達はなぜ汚い言葉を使うのか?

 言語は痛覚にまで影響を与えることもある。汚い言葉を使うと、冷たい氷水に手を入れていられる時間が長くなる。−中略−汚い言葉を使うことで−中略−痛みを感じる閾値が変化したからだろう。(94頁)

だから人から傷つけられたくないと思うと汚い言葉を使う。
痛みについて怯えている人は汚い言葉を使って自分の感覚を自分で麻痺させる。
水谷譲が今、頭に浮かんでいるコメンテーターの方もそういう感じがある。
汚い言葉を使われて、人が入れないぐらいの言葉数の多さでワーッと言う。
それはもう自分で壁を作ってらっしゃるんだろうなと思う水谷譲。
それは「痛みに鈍感になりたい」という願望が汚い言葉を使わせる。
汚い言葉を使いたがる人は痛みについて怯えている人。
そういう人は世間にいるが「あ、怯えているんだな」という証拠だと思ってください。
自らの怯えが汚い言葉で自分を守るという。
そうやって見方が変わるので。

☆高齢者の方へ
運動は肉体を変えます。
同様に新しい言葉を学び使うと脳の活動を変えることができます。
脳の活動を変えると脳の構造そのものを変える力があるんです。
時々は婆さんのことを「ダーリン」と呼んでみましょうよ。

婆さんは「ハニー」ではないかと思う水谷譲。
爺さんが「ダーリン」。
でも急にそう呼ばれたらちょっと怖いと思う水谷譲。
面白いのではないかと思う武田先生。

バイリンガルの脳は、前頭部の灰白質が普通よりも分厚くなっていることがわかってきた。
 灰白質はニューロンの細胞体が集まる場所であり
(106頁)

 灰白質の量と、白質の統合度は年齢とともに低下するが、複数の言語を話すことによって、その低下を遅らせることができる。私たちの脳は、自らを再組成し、ニューロン同士の新しいつながりを生成するという驚くべき能力を、経験とともに身につけてきた。(107頁)

だから同じ言葉ばかり使うから老害になってしまうのだろう。
斬新な言葉を高齢者の方は武田先生も含めてどんどん使いましょう。
「ダーリン」でも「ハニー」でもいいじゃないですか。
新しい婆さんの呼び方を考えると、その分だけアナタの脳、頭の中には代謝が生まれる。
そういう現象のこと、脳内代謝が盛んになるということは何かというと、脳内の新しいニューロンの流れが作れる。
新しい流れが作れると「エピジェネティクス」という、遺伝子そのものが変わる。
(この後も番組内では遺伝子自体が変化するような表現をしているが、あくまで「遺伝子の発現」が変化する)
新しい言葉の話。

 エピジェネティクスとは、遺伝子そのものの変化ではなく、遺伝子の発現が変化する仕組みを研究する学問分野のことだ。(109頁)

武田先生も「年取ってから遺伝子が変わるなんてあんのかな?」と思っていたのだが、この人の説を読んでいるとありそう。

 エピジェネティクスの変化が変化前の状態に戻るのは、たとえば喫煙者だった人がタバコをやめた場合などだ。喫煙者のDNAは、−中略−ある種の病気の遺伝子が「オン」になる可能性が高くなる。禁煙し、そのままタバコを吸わずにいると、DNAのメチル化レベルが上昇し、いずれ非喫煙者と同等のレベルになる。(110頁)

人間の実験では確認できない。

 母ミジンコが捕食者に襲われた経験があると、その子どもはトゲのヘルメットをかぶって生まれてくる。−中略−母ミジンコの経験によって、子ミジンコが持つ遺伝子の発現が変化する。これがエピジェネティクスの変化であり(110頁)

そしてこの現象が見られるのはミジンコだけではない。自然界に自生するラディッシュも、親となるラッディッシュが蝶の幼虫に葉を食われたかで遺伝子の発現に変化が起こる。(111頁)

植物の毒というのはいっぱい実例がある。
シマウマが草を喰うのでその草が怒ってしまって、毒を持ち始めてしまってシマウマを殆ど殺してしまったとか。

エピジェネティクスの研究者の間では、このような現象は「−中略−(母親を噛むと、娘と戦うことになる)」と呼ばれている。(111頁)

親の代の経験は子供の世代に影響するということで、いくつもの偶然を経て環境に適応するのではなく、一発で適応するという。
そういう非常に直線的な進化の方法もあるという。
ただしエピジェネティクスは今もまだ研究中で、二百年ちょっとということで、まだそれ程の大木には育っていない。
ただし親の環境、体験、食事、言語、これは子供の遺伝子に大きな影響を与える。
マルチリンガルの子は明らかに脳の構造、細胞レベルに於ける化学物質変化、これが親からいろんな形質を貰っているようで、物事をいくつにも種類に分けて考えることができるという。

これは余りピンとこないかも知れないが、日本人の脳がもの凄く独特なのはこれは外国の大学教授、マリアンさんが発見なさったことだが、これは分かりやすく言う。
日本人は西暦で世界史を覚え、日本史は年号で覚える。
そういうところはある。
世界の歴史は西暦で言えるのだが、自分の個人的な思い出は昭和で、年号で語るという。
「昭和30年、お富さん」とか何かそういう。

お富さん



それは西暦に直せない。
「昭和30年・・・俺、6歳。あ、『お富さん』『おーい中村君』」とか出て来る。

おーい中村君



大変申し訳ないが、我々は「昭和何年」と言ってもらうと出てくる。
令和で言われると全然出てこない。
「令和元年」と言われると「え〜?」と4とか5を引いて一生懸命自分で計算しなおさないと思い出さない。

TJは、生みの親と養親の間でほとんど、あるいはまったく情報が共有されない「クローズド・アダプション」というシステムを通して養子になった。3歳で里子に出され、−中略−最終的にあるアメリカ人家族に引き取られて別の州に移った。−中略−
 彼女は英語を話すアメリカ人の女性として成長した。
−中略−自分の言語の歴史を解明し、ルーツについてもっと知りたいと思ったからだ。−中略−昔知っていたが今は忘れてしまった言語を再学習するスピードと、まったく知らない言語を新しく学習するスピードを比較するという形で行われる。習得が早ければ、たとえ本人は覚えていなくても、幼少期にその言語を話していたということがわかる。−中略−その結果、TJが幼いころに話していた言語は、ロシア語かウクライナ語だろうということがわかった。(332〜333頁)

(番組内では生後まもなく養子に出されたような説明をしているが、本によると上記のように3歳)
つまりさっき言った「『親の持っている形質』というのは体の中にきちんと住んでいるんです」という。
(3歳までの言語を探った話なので、当然そういう内容ではない)
このへんは面白いもの。

DCCS課題があげられる。−中略−
 この課題では、さまざまな基準でカードを並び替えることが求められる。たとえば、ボートが描かれたカードと、ウサギが描かれたカードがあるとしよう。カードは赤か青のどちらかに塗られている。このカードを「色」を基準に並び変えるとしたら、赤いボートと赤いウサギが同じグループになり、青いボートと青いウサギが同じグループになる。「何」が描かれているかを基準に並び変えると、赤いボートと青いボートが同じグループになり、赤いウサギと青いウサギが同じグループになる。
「何」を基準に分類するときは「色」は無視しなければならず、反対に「色」を基準に分類するときは「何」を無視することになる。
−中略−バイリンガルの子どもはこの種の切り替えタスクが得意なことが多く(126〜127頁)

 バイリンガルは日常的に言語を切り替え、そのときに使っていない言語からの干渉を無視するという訓練を行っているので、脳が鍛えられ、より効率的なコントロールシステムを発達させることができる。(139頁)

言語処理だけでなく、試行全般にとっても重要な意味を持つ。試行全般に含まれるのは、記憶、意思決定、他者との関係などの能力だ。(142〜143頁)

それもモノリンガルの人よりはバイリンガルの人の方が決断が早い、と。

 H2Oという化学式で表される物質が、温度によって液体の水にも、固体の氷にも、気体の水蒸気にもなるのと同じように、1人の人間も使う言語によって違うバージョンの自分になれるということだ。(146頁)

不思議なバイリンガル、マルチリンガルの人の個性を語りましょう。

 中国語と英語のバイリンガルを対象にした研究では、参加者が中国語で回答すると、自分について語るときにより集団を重視し、−中略−外国語で話すと、社会の規範や迷信からより自由になるとともに(146頁)

中国語で中国のことを言う時は「私達」になる。
英語で中国を語る時は「私は」になるという。
母国語で話す時は個人の表現が小さく抑えられる。

それから英語で街頭インタビューをやっている。
あれは手足を動かしている。
普通に考えて英語を喋る人は身振り手振りは大きいというイメージはある水谷譲。
あれは言語の中にその力がある。
水谷譲は英語はダメだが、たまに面白おかしく「OH!」とかやって肩をすくめたり、手振り身振りは大きくなる。
何かやる時は英語で愚痴を言う時はその仕草が出ている。
「Oh, no!」「Oh, my god!」とか「Oops!」

バイリンガルは言語を切り替えるときに、非言語コミュニケーションやボディランゲージも切り替えているらしいということだ。(149頁)

言葉の中にその人の人格を変える何かがある、と。
これは武田先生が奥様から指摘されたのだが、奥様が武田先生の横にいていつも思っていたのだろう。
「福岡県人というのは福岡人と会った時に、ホント態度違う」と言う。
福岡とわかった瞬間に全部言語は博多弁に切り替える。
「『しぇ』の発音が向こうに戻っているな」と思った瞬間に「オマエどこの生まれや?」という。
これでまた第三者が入ってきたらピタっとやめて標準語に戻るのだが、その切り替えの早さ。
それから福岡県人にしかわからない独特の標準語のフレーズの使い回し。
「と、思うとですよ」とか。
何かある。
タモリさん(の言葉遣いを)聞くともう近所のおじさんを思い出して仕方がないというような、そういう意味で福岡のいわゆる方言というのは身に沁みている。
鹿児島に行くと、あの人達は徹底して鹿児島弁で話す。
仲間内だけで。
全くわからない。
これは関西人になると変わる。
関西弁で話すことを、他の都道府県人がやってきてもやめない。
全てのものを大阪弁で表現しようとする。
関西の方、気を悪くしないでください
ただ、武田先生はそれが面白くて仕方がない。
世界の観光地で関西の人、大阪の人にすれ違うと、その大阪の表現が出て来る。
エッフェル塔を見ながら横で「何や、通天閣の方がマシやん」とか、メコン川を見ながら「大淀川には勝てんがな」とか。
そういう風景も全部大阪に切り替えていくという。
このあたり、言葉というものがその人を変えていくということはおわかりになると思う。