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2024年11月06日

JALの「クラスJ」に乗ってみた

アタシったらぁ、貧乏じゃないですかぁ〜?
ということで今まで飛行機は何十回(既に百回を超えているかも知れず)も乗っているのだけれども、一番安い席にしか乗ったことがなかった。
で、チケットの都合で確か千円ぐらいしか変わらなかったんじゃないかと思うが、たいして変わらないなら一度乗ってみるかということで何と!
お高い「クラスJ」とやらに。

JAL | クラス J(機内サービス)

行きはこれで帰りはいつもの安いヤツ。
帰りのチケットは差額が結構あったんでやめておいた。

IMG_6671.JPG

最初の印象は「思ったほどは広くないなぁ〜」だったのだけれども、帰りに普通の席に座ったら「狭っ!」って感じになったので、かなり広さは違うな。
幅ももちろん広いが、シートとシートの前後の間隔もかなり広く取ってある。
普通の安い席は前後の間も詰まっているので、私は問題なく広々と座っているが、ちょっと体が大きいとか脚が長いなんていう人だとかなり厳しいサイズ。

IMG_6741.JPG

こっちは帰りに乗った普通のヤツ。

座席の大きさや間隔以外に違ったのはテーブルの大きさとか隣の席との間の部分の幅とか。
後はシートの横のスイッチ類がすげぇ大量に付いていた。
どれが何のスイッチなのかがわからないので、説明書はないかと思って探したが見つからず。
だから大量にあっても何も使えもしないという。

IMG_6673.JPG

クラスJだけに付いていたものの中で一番意味不明だったチューブみたいなヤツ。
これが全部の座席に付いている。
結局最後まで何だったのかがわからなかったけれども、検索すれば出て来るかな?と思ったが出てこないな。
何に使うものなんだろう?
しつこく調べてみたら判明。
読書灯。
でも使い方の説明も無いしな。
読書をする気もなかったってのもあるけれども読書灯を含め、各種設備のわかりやすい説明の紙とか用しておいて欲しい。
それが無理なら全席にモニターが付いているのだから、モニターの中に説明の動画みたいなのを入れ込んでおいて欲しい。
そういうものもあるのかな?と思っていろいろいじってみたが見つからなかった。

ドリンクサービスなどが異なるっていう情報もあったが、気づかないだけだったのかも知れないが、いつも通りの飲み物があっただけ。
別段菓子が出て来るワケでもなく。

行きも帰りも機内サービスのwi-fiを使ったのだけれども、これがかなりの低速で。
全然開かないサイトもあったぐらいなので、無いよりマシかなっていう程度の代物だった。

他に違うかなと思った点は民度かな。
これは飛行機の側の話ではないけれども、空港に到着して以降の客の動きっていうか。
別に安い席の客も騒ぐワケでもなければ、シートベルト着用サインが消える前に立ちあがったりとかってことも一切無かったのだけれども、出る時に若干の「我先」感みたいな。

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posted by ひと at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる(後編)

これの続きです。

凄いタイトルだが、これは綿野恵太さんという方がお書きになった「みんな政治でバカになる」という。
この方が元々間違いやすい人間が政治という答えが出しにくい分野で答えを出していくうちに間違えてしまう。
だから「バカの二乗」なんだ
政治というものというのはバカの二乗の人達、そういう人達が語り合っているんだという。
非常に武田先生としても取り上げにくい。
なぜかというともうラジオ番組はことごとくこの政治の話が出て来る。
いろんな方にご迷惑をかけてしまうという。
でもラジオなんか聞いていると、もの凄くファイトを燃やして政治を語る人がいる。
この間も、この放送局(文化放送)で凄い人がいた。
「いろんなところで政治的に正しいことを言うから、いろんな人からいじめられて、私の話を聞いてくれるのは、この局のアナタだけです」なんていうことをおっしゃっていたが。

政治というのが上手くいっていない。
そういうことにしておきましょう。
武田先生はジャッジできない。
そういう知恵がないので。
だが、民主主義というのがちょっとお年を召してきた。
老化した民主主義となっているというのが現状ではなかろうか。
これは皆さん、認めてくださるというふうに思う。
その民主主義を若返らせよう。
どう若返らせるのか?
やっぱり制度をいじる必要がある。
曰く民政議会で両方とも選挙で選ぶ。
これは無理があるんじゃないの?

民主主義の危機を解決するために選挙制議院と抽選制議院という二院制議会を提案している(任期は一〜三年、報酬はなるべく高いのが「ベスト」だという)(136頁)

議員数、或いは議会の日数を短くして効率的に行ないましょう。
そしてその報酬として、抽選で選ばれた人に今と同程度の金額の面倒を見るという。
必ずや職場復帰が叶うような立場で。
そうすると二世議員とかというのがいなくなってしまう。
こっちのほうがよくないですか?
政治家になることを商売にしてしまう人がいるというのがこの国の民主主義を年を取らせてしまったのではないか?
政治家になった瞬間にまた変わってしまう人もいると思う水谷譲。
それが「半分抽選で決まる」というのは、これは「意外と面白いこと起きるんじゃ無ぇの?」と思う。
いい仕事をする人も出て来ると思う水谷譲。
悪い人がたまってしまうか、いい人が出てくるかも知れないという可能性にかけるか。

アテナイの民主主義においても専門性が求められる「財政」と「軍事」の要職は選挙で選ばれたが(137頁)

原子力なんかもそうだが、みなさんももう7月から体験なさっているが、やっぱりクーラーがないとやっていられない。
そういうことは「電力」ということが問題になる。
電力というものは財政の問題と、もう一つ核開発の問題も抱えている。
3分の1くらいは、やはり安定した電力供給というところでは核、原発発電というのはとても大事だ。
それにどうも外交を見ても日本の方が核を持っている。
いつでもアメリカが横にいてくれて核をお借りするというワケにもいかないので。
「核を持て」と言っているのではないのだが。
核という技術に関しては平和利用を含めて「私どもは勉強してますよ」という、そういう態度、そういう静かな脅しは持っていないとダメなのではないか?
そういう意味合いで財政と軍事についてはちゃんとした毎日のお勉強を重ねた人々が選挙によって選ばれるという。

第二次大戦後の自由主義諸国においては多くの人々が経済成長の分け前にあずかったため、「民主制資本主義」が定着した。(138頁)

日本とドイツは戦争が負けた方が景気がよくなってしまった。
どのくらい豊かな財産を民主制資本主義が生みだしたかは、やはり我が身で体験している。
しかし、その民主主義も80年経つと分け前が充分に世界に分配できなくなった。
儲けを貰うんだったら、財を欲しがっている国からすると、専制覇権主義の方がカネがいい。
インドネシアなんかがそう。
デビ夫人がやってきた国だが。
あそこはやはり日本と中国を両天秤にかけて、どちらかに安く新幹線を作らせようとして、結局材料費とか全部持ってくれるという中国に縋り付いた。
それでインドネシアの高速鉄道は中国製になったのだが、これが何だかさっぱりお客が集まらないらしい。
中国の言うことを聞いて作ったのはいいのだが、もの凄く駅が遠い。
駅が遠いから駅まで行くのが大変だから、お客さんが集まらない。
そのへんは日本がちゃんと計算してあげていたのだが、やはりお金をいっぱいくれる中国の方がよかったのでインドネシアはいってしまったのだが、今頃になって中国は急に「カネ返して」と言い始めた。
それで血相を変えているらしいのだが。
やはりそれはちょっと分配率が落ちたことで専制主義の国が作られたのだろうが、このへんがやはり何年か経つとコロッと変わってしまうという。
「バカの二乗」というのは人間に付いて回る。

年を取ってしまった我らが民主主義。
戦後も数十年経つとあの元気のよかった民主主義、パワーダウンはアメリカに始まって日本もそう。
アメリカでは民主主義に関してかなり疑いが出ていて、カリスマを求めてトランプなんていう人が。
このアメリカに対抗する中国、ロシア、或いは北朝鮮等々は専制主義。
だから国民を管理体制に置いて議会をいちいち通しているともうパワーダウンしてしまう。
それでアメリカでポピュリズム、人気者が天下を取るという。
その典型がトランプ元大統領。
この人は何かというと合理的無知と反外国バイアス。
景気のいいことをおっしゃるのだが「アメリカを再び偉大な国に」とおっしゃるのだが「どうやれば偉大になるのか」「偉大とは何か」そんなことは一切喋らない。
ただひたすら「アメリカをもう一度偉大な国にするんだ」と、それしかおっしゃらない。
そして偉大な国にする為にはどうかというと、アメリカの足を引っ張る外国をみんなやっつける。
「どこの国か?」というと、トランプさんは一番最初に中国を挙げるのだが、いつの間にか日本もそれに入るかも知れない。
とにかく「アメリカが苦しんでいるのはみんな外国のせいだ」という論理。
これがもの凄くわかりやすい。
単純なストーリーだからわかりやすい。
それでポピュリズムという人気に訴えることで専制覇権主義の国と対抗していく。
政治的な手腕とか力量ではない。
人気だけ。
この「人気」で我が身を支えて選挙民を自分に惹きつけるという。
これが今、日本にも流行している。
選挙をやるとポピュリズム、メディア受けする人がいる。
胸には缶バッジを付けて決まり文句なんかを胸に刻んで電信柱にベタベタそのステッカーを貼ったり。
誰と言っているワケではない。
それから「私を支持する人は緑を身に着けて」なんか言いながら。
誰と言っているワケではない。
いわゆる主張ではない。
ポピュリズム。
人気のファッションとかマスコットとか、そういうものを動員して人気を集めようとしている。

ポピュリズムが大衆の政治への無力感や疎外感を利用した「部族主義」であることだ。(147頁)

「私を支持するという部族」を作りたい。
とにかく敵を倒すこと。
それが政治的なスローガンで。
日本に於いてもそうだし、アメリカのトランプさんなんかもやり方は同じ。
ポピュリズムの真ん中にあるのは怒り。
「あいつは許せない」それだけ。
貧富の差、所得の高望み、民族、人種、階級対立のように見せかけて、とにかく「許せない」それを政治的なテーマとすり替えてゆくという。
他者の苦しみを語っているのだが、それは自分が正義を叫ぶ為の道具に過ぎないという。
そういう論理ではなかろうか?
このへん、この著者はもの凄くしつこい。
これを分かりやすくすると、これにハマる政治家の人の名前をどんどん挙げていけばいい。
武田先生はちょっと「(今朝の)三枚おろし」には小骨になるので(政治家の名前を)全部抜いてしまった。
だから理屈だけ。
だからRのステッカーを貼るとか緑のマフラーとかも個人で言っているのではない。
「そういう人がいた?いたかな?よく覚えてない」
トランプさんだけはちょっとわかりやすいので。
トランプさんはそういうのを堂々となさっているから、だから取り上げているだけ。
ポピュリズムの代表だから。
だからプーチンや習近平を語るが如くトランプさんも語っているワケで。
この綿野さんが細かいところは全部挙げている。
例えば、もう嘘ばっかりつく経済学者。
でもそれは武田先生は言えない。
それを聞いて本が読みたくなった水谷譲。
これはなかなか見事で。
だから綿野さんはそのへんは正面から木刀を振り下ろしている。
だが、ちょっとそれはこの放送では偏ることもあるので小骨は全部抜いてしまった。
それで綿野さんが凄くおっしゃっているのは、総まとめにそのバカの二乗で政治を語る人達の底の浅さをこういう例で語っておられる。

ナチスの強制収容所の近くに住んでいた女性が、ユダヤ人への残虐行為を目の当たりにして、「そのような非人道的な行為はすぐにやめてください。さもなければ、誰も現場を目にすることのない別の場所でやってください」という抗議の手紙を書いたという(160頁)

綿野さんは「これと同じことが政治を語る人の中にいるのではないか?なぜ勇気を持って最初の一行だけにとどめておかなかったんだ」という、そのこと。

政治を語る時に賢い選択ができない。
綿野恵太さんの「みんな政治でバカになる」晶文社、この本を取り上げている。
「政治を批判する人」も批判しておられる。
とにかくインターネットによって解き放たれた個人のサイト、SNSなど、バカの二乗を振り回している人がいっぱいいる。
このことを著者は子細にあぶりだしている。
これはもう当「(今朝の)三枚おろし」では一切触れない。
申し訳ございません、著者の方。
著者が激しく嫌っているのは、知っているつもりで政治批判をし、政治を批判することで自分をインテリと思い込むというような、そんな人達の有様を。
この、政治を語ることによって「頭のいい私」を表現したがる人、というのはステレオタイプの話をしているんだ、と。
そういう人達が政治を語ることが政治を歪めることになっているんだ、という怒り。
政治を語ることの難しさは政治の世界で起こった出来事を語ればいいというものではない。
それが何を意味しているのかを貫いて教えて欲しいのだが、これはちょっと綿野さんが書いてらっしゃる文章とは違うのかも知れないが、綿野さんの文章を読みながら自分でこう読んでいいのかな?と思って読んでしまったのだが。
政治を語る人で、自分の頭のよさを振り回したがる人達は、一言一言を熟語の意味合いを全く浅く判断するという。
例えば「自己責任」。
自己責任ということに関しては哲学がなければならないが、自分の知恵を振り回している人は浅く解釈する。

俗に「てめえのケツはてめえで拭け」という言い方がよくされる。−中略−「自己責任」を意味する。(36頁)

その解釈は身も蓋も無い。
武田先生は(もっと深い意味があると)思う。
「自己責任」というのは「てめえのケツはてめえで拭け」だけではないと思う。
例えば「自己」これは何であるか?
「自己」は「てめえのケツ」のことではない。
「ケツ」も含まれるかも知れないと思う水谷譲。
だが水谷譲が「自己」と名乗る為にはもう一人、人間が必要。
哲学。
言葉が生まれるというのは、「一義に解釈しない」という意味だから。
一人を語る時でも一人だけで話が済むことではない。
自己は他者がいての「自己」。
自己は他者と知り合うことによって自己を確認する。
水谷譲が「誰かを好きになる」ということは相手が必要なように、自己というのはそういう自己ではないか?
では次に残りの二文字の「責任」とは何だろう?
それも更に深い意味があるのではないか?
それを簡単に一つの意味だけに解釈し、自分の考えを振り回すという。
それを綿野さんは懐かしい言葉だがキツイ言葉で「エセインテリ」。
(本の中には「エセインテリ」という言葉は登場しない。全て「亜インテリ」)
エセインテリは懐かしい。
ここに武田先生の弁。
「このあたり、相当なページを割いてエセインテリを語っておられますが私のバカさについての考察をする為で、ここらあたり相当なページを飛ばしました」
綿野さんごめんなさい。
武田先生も読んだのだが、武田先生の感想。
「長すぎて疲れました」という。
エセインテリのバカな人の例をずっと挙げられると、ごめんなさい綿野さん。
読んでいるだけで疲れてしまう。
それは武田先生の読書の体力なのだが。
武田先生はもの凄く弱い。
水谷譲は言った。
「てめえのケツはてめえで拭け」「ケツは自己の一部分ではないか?」と
鋭いことをおっしゃったのだが、それは水谷譲が言葉に凄く敏感な頭のよさを持ってらっしゃるのだが。
武田先生はこの一言が凄く好きなのだが綿野恵太というちょっと皮肉もいっぱい込められるような文章の書き手の方なのだが、この人が哲学者・千葉雅也さんの指摘を紹介なさっている。
武田先生は自己に関して今、説明をしつこく粘った。
これはただ単に水谷譲から言わせると、話を引っ張っているだけかも知れない。

哲学者の千葉雅也は「深く勉強するというのは、ノリが悪くなること」と指摘している(205頁)

勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫)



「即答できる人の知恵にあんまりビビらない方がいいよ」という。
武田先生は書いている。
「深く勉強するということはノリが悪くなること、と千葉さんが指摘なさっている。この一言ハッとしますねぇ」
「ノリが悪い」というのは、現代、凄く大事なことで、少し皆さん、自分の意見を早目に言い過ぎるという。

著者だが第六章まで進んだらこのあたりぐらいからグングンと文章は明瞭にスマートになっていく。
著者は言う。
いささか武田先生の意訳、武田先生の訳だから少し言葉の盛り付けが極端かも知れないが。

数多くの社会実験の失敗が示すように、私たちの「遺伝的な傾向」からかけ離れすぎた政治は失敗する可能性が高い。(225頁)

理想が高すぎる政治は失敗する。
「全ての人民を幸せにする為に身分を同じにしよう」という共産主義、これは上手くいかなかった。
第一次世界大戦後、ドイツはワイマールという共和国を作った。
ワイマール憲法は民主度が凄い。
民主主義のお手本みたいな制度で、「LGBTと共に生きていく」というジェンダーフリーを謳ったのも初めてだろう。
だからそういう保証もワイマール憲法で守られた。
騙し合うことのない、或いは競い合うことのない性がそこにあり、「性の快感は全て平等」ということは憲法で保証された。
理想を求めて進み出した。
これが数年でダメになる
このドイツで第一次大戦後にできた人間の自由を求める理想のワイマール憲法が崩れていった。
ヒトラーが登場する。
人々は今まで認められた自由も全部捨てた。
「人種なんか平等」だとあれ程叫んでいたドイツ人が、ゲルマン民族最優秀で劣等民族を殺そうという。
そしてこの時ドイツ人は「自由なんかいらない」と言った。
「ヒトラー総統が喜ぶんだったら、我々は自由はいらない」
そのことを書いた哲学者がいた。

人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。(101頁)

不自由は気持ちがいいそうだ。
「へぇ」だ。
それは人間につきまとう永遠の歪み。
そういうバイアスが人間にはかかりやすい。
だから政治に託して思わなければならないのは、我々はそれほど立派な生き物ではないんだ。
賢くもないし、はっきり言ってずるいし、だからそのことを踏まえて我々は人間にとって快適な社会を作ろうではないか。
か弱く非力な人間。
それを従えて大きな強い国家を創る英雄とか皇帝とか大統領とかそんな人を求めるのはやめましょうや。
武田先生はそう思う。

この綿野さんというのは微妙な言葉の世界に入って行く。
ここからはもう哲学。

シニカルな政治態度からの「折り返し」がポイントなのである。(225頁)

「皮肉な口調で政治を語るな」という。
もう一つ、「無責任に政治なんて俺達がやる必要無いんだよ。やりたがってる酔狂なヤツに任せておけばいいんだよ」。
そういうことを皮肉っぽく割り切る人がいるが「やはりそれではダメなんだ」という。
私達はおろかであるし、そのおろかである、バカであるが故にちょっと世界をシニカルな目で片頬を上げながら、からかうようにして眺めるという悪いクセがある。
それではダメだ。
政治を語るんだったらシニカルとバカの間を突こう。

 バカの居直りでもなく、シニカルに嗤う冷笑主義でもない。重要なのはその「あいだ」である。その「あいだ」とは「ドヂ」な存在である。(240頁)

さあ考えてみよう。
シニカルとは何か?
これは皮肉屋。
シニカルとは何か?
エセインテリ。
賢いふりをして政治を語れば頭がよくなったと思っている。

「亜インテリ」は「いっぱしのインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない。政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。(179頁)

インテリ気取りで「受け売り」の知識をひけらかし(179頁)

自分でその意見を作ったと思い込んでいる。
野菜とかお米を作ってはいない。
横に移しているだけなのに、自分がさも作ったようにふるまってるだけなんだ。
こういう人は生産者じゃないんだよ、と。
だから人の意見を拾って、人をやっつける為にその人の意見を使っているんだ、という。
シニカルな人達の目的は何か?

「敵」を論破するための「ツール」でしかない。(182頁)

この人達は人をやっつける。
何かこういろんな理屈を言っているが、喰いもので言えばジャンクフードだ。
スピードだけ。
煮込む時間、焼く時間、そんなのちっとも気にしてない。
こんなジャンキーな人と付き合ってはいけない。

今日はバカの説明だが、エセインテリというのは人を論破することが趣味でその為に人の意見をいつも作り直しているという。
だからこの人には自分の意見がない。
「だから人の悪口が言えるんだ」と言っておいた後、著者はバカの説明に入る。
バカとは何か?
バカとは一つしか覚えていない。

「定型化」=「ワンパターン化」した言説を、「バカのひとつ覚え」のように繰り返すのである。(183〜185頁)

「国に帰れよ」「アメリカのポチ」「恥ずかしくないのか?」
こういう人を傷つける言葉を一つ覚えていてそれを繰り返すという。
武田先生はびっくりしたのだが、大谷(翔平)さんの春先の問題が起こった時に、大谷さんを凄く批判したワイドショーの司会者がいた。
この人はこういうことを言うとヤベェなと思ったのだが「人がね、億単位のカネを使い込んでるのに気づかないってあります?私ね、どうもそのあたり信じられない、私的に」と言った人がいた。
この人は「私の感性」で大谷を語っている。
だから「大谷の気持ちはわからない」とおっしゃる。
時々そういう人はいる。
ゴルフの中継とか見ていると「何で左打っちゃったですかねぇ?」
「それ、アンタのレベルでしょ?」
マスターズで戦っていて「何で左へ行っちゃったんでしょう」。
それから大谷の批判も結構だが、「私は理解できないな」。
その人は締め言葉でそうおっしゃった。
「理解でき無ぇよ」なんて「アンタ、バッターボックスに立ったこともないし、何もかも違う」。
やはりバットを握ったことも無いようなヤツが、或いは30台、バーディーを取ったことのないヤツが。
そういうこと。
こういうのは一種「バカの一つ覚え」。
「私には理解できないな」
すぐバカを言ってしまう。
そしてもう一つ、この著者はエセインテリとバカを広く具体的な事例と人物で丁寧に挙げておられるが、ここではそういう骨は全部外している。
美味しいところの肉だけをおろしているので勘弁してください。
このエセインテリとバカの特徴。
「これが世に言うエセインテリか」「あ、コイツバカだ」という時に、尺度がある。
エセインテリとバカの特徴。
共通してたった一つ。
テンポがいい。
これがエセインテリとバカの特徴。
ノリがよいのでポンポン人の悪口が言える人。
悪口がリズムに溢れているので、他の人が割り込もうとしても割り込みにくい。
そしてドヂ。

なぜ知識人は「ドヂ」なのか。それは本来の「テンポ」から「ズレ」た存在だからである。(243頁)

自分で考えるリズムを持っている。
そのリズムを懸命に探す。
だからリズムに乗らない。

私たちには「無意識かつ反射的に相手を模倣してしまう傾向」がある。(230頁)

内田樹さんはそういう「模倣したくなる人」のことを「整った人」と言う。
人間は「整った人」をマネしてしまう。
どういう人が整った人か?
武道に於ける高段者。
その人達は見ていて美しいので、その人のことをマネしたくなる。
偽物はどうかというと、整ったふりをする人。
この人が整っているかどうかは、どうか皆さん、リズムとセンスでわかってください。
世界の指導者を見比べると、リズムとセンス、わかるでしょ?
ちょっとここは(アメリカからは)遠いので悪口を言ってしまう。
トランプさんはリズム感が悪い。
あの爺ちゃんが壇上に登場する時に軽くツイストを踊るが、あれは相当(リズム感は)悪い。
あのトランプさんは。
それと指を立てすぎ。
だがこれだけはどうしようもなく見た目から言ったのだが、武田先生はそう思う。
ドヂな人間になろうということ。
ドヂというのは、今あるリズムに乗らない。
そして確かな文化を手渡そうとする人達。
そういう人達がセンスとリズムを持っている。
ドヂな人達は日本の昔話にはいっぱいいる。
その人達は素敵な仕事を残した人。
どんな人か?
かぐや姫、金太郎、桃太郎のお爺さんとお婆さん。
あの人達がドヂな人の見本。
生活は貧しかったかも知れないが子孫に素敵な文化を残した。

(今回の番組は)よくできた。
自分でうっとりしてしまった。
これから秋口に向かって(10月27日に衆議院議員総選挙があるので)政治の話題が増えていくと思うので、敢えて政治というものを語る意味でこの一冊を取り上げてみた。
(著者は)綿野恵太さん、晶文社「みんな政治でバカになる」。


2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる(前編)

(番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

まな板の上はなかなかショッキングなタイトル。
「みんな政治でバカになる」
これは武田先生も「ちょっと酷いタイトルだな」と思ったのだが、読むと著者の方は懸命に政治というもののこれからを悩んでおられる方で、あえて「政治に携わるとバカになるんだ」と。
これはなかなか大変なタイトルで、そんなことを言ったらまたラジオ番組なんか政治を語る人ばっかりだから、その人達に向かって「バカになる」と言っているようで、本当にそのあたり発言に気を付けながら進めたいと思うのだが。
著者の方はというと綿野恵太さんという方。
晶文社から出ている。
「みんな政治でバカになる」

みんな政治でバカになる



私たちには人間本性上「バカ」な言動をとってしまう傾向がある。(4頁)

ほとんどの人が政治について無知=バカであるのは事実である。−中略−私たちは単に愚かなのではない。「環境」によって政治的無知=バカになっている。(12頁)

繰り返しになるが「環境がバカにする」というのは言うことが中途で変わること。
「監視カメラを付ける」と言った時に、当初メディアも含めて一般市民は「監視するとは何事か」と反対議論が浮かび上がった。
「渋谷に監視カメラがあるなんて寒気する」とか「自由の権利は何?」とかと(言って)いた。
ところが(監視カメラを)付けて泥棒が見つかるとみんな「あそこつけなきゃダメよ!監視カメラ!」とかと。
それどころではない。
車に前と後ろに着けているのだから。
「いやぁ保険楽だもん。あれがあるから」とか。
「ほら、ついこの間言っていた自由はどうなんだよ?守らなきゃいけない個人の権利があるんでしょ?」
でもこれだけ変わる。
「環境」によって主張が変わる。
それが無知とドッキングしている。
人間という生き物は認知バイアス、バイアス、歪みを持っている。
言うことが変わる、環境によって変わる。
「自由はどうの」とか「個人的権利は」とか言っておいて、泥棒が捕まると「あそこも付けろよ」という話になる。

 私たちは「人間本性」によるバカ(認知バイアス)と「環境」によるバカ(政治的無知)という「バカの二乗」というべき状態にある。(81頁)

では人間の認知バイアスというものがどのくらいバカかというと「見てくれ世界を」と綿野さんは言う。

 なぜフェイクニュースや陰謀論が後を絶たないのか。それは私たちがバカだからだ。(4頁)

それで「政治のことについて発言する人はみんなバカである」という本だからこの後も、そういう方がいっぱい出て来る。
それで誰がどうのと言わない。
だから武田先生のバカさを。
武田先生は前から言っているように政治的に本当に無知。
何が楽しくてやっているのかもよくわからないし。
もう一回繰り返す。
「私のバカ」
一体このバカさ加減がどこから来ているのかをこの綿野さんの本で追及しよう、と。
だから武田先生個人のバカの二乗にお付き合いください。
決してアナタのことを言っているワケではありませんから。
妙に抗議の手紙をよこしたりするのはやめてください。

二〇二〇年のアメリカ大統領選で民主党のジョー・バイデンが共和党のドナルド・トランプに勝利した。トランプは選挙に不正があったとして票の再集計を求め、その翌年にはトランプの勝利を信じる支持者たちが国会議事堂を襲撃し、多数の死傷者を出した。ドナルド・トランプが小児性愛者の秘密結社と闘うヒーローだという「Qアノン」と呼ばれる陰謀論が流行した。(3〜4頁)

「Qアノン」
これはトランプ支持者の中で信じられていることで、トランプさん以外、アメリカの政治に携わっているのはもうズバリ言うと(仮面ライダーに出て来る)ショッカー。
「イー!」という人間モドキという。
それの代表がバイデンさん。
こういうふうにして自分が正しいという一人の人が出て来ると他がみんな悪い人に見えてしまう。
「認知バイアス」「歪み」、「わたしら」と「あいつら」。
この二つの集団に分けて世界を見る。
その「あいつら」が許せない。
こういうバイアス、心理がある。

このような傾向は「部族主義」と呼ばれる。(10頁)

国民とか市民ではなく「部族」。

昨日お話したのは人間はもともと認知バイアス、何か物事を考えたり決心する時にバイアス、歪みが発生するのだ、と。
その上に政治というのは十年先のことを考える為に今、決断するようなもので、十年先はすっかり答えが入れ替わっているかも知れないという。
今、結論を出すワケだが、元々バイアス、歪みがある考え方しかできない。
人々はみんなバカの二乗で生きているという。
そのバイアスの一つが部族主義。
「あいつら」と「われわれ」と集団の色分けを考えて「われわれ」を増やして「あいつら」を減らそうとするという。
これを著者は「部族主義」と呼んでいる。
「我々のことは知っている。でもあいつらのことは勉強しなくていいんだ」という。
これはアメリカの人、すみません。
でも調査によると、トランプさんの支持者の大半が中国・韓国・日本を(地図上で)指差せる人があまりいないという。
それからこれはかなりの確率らしいのだが、ニューヨークで調査をやったのだが、大半のアメリカ人がイスラエルの場所が指差せない。

ワシントン・ポスト紙の調査によると、ウクライナの位置を地図上で示すことができたのは、六人中一人しかいなかった(10頁)

我々だってウクライナはそんなに知らなかった。
今回のことがあって、どのくらいの大きさでここにあってというふうに改めて思った水谷譲。
世界地図の中で「この国はここだ」と指差しができない。
無知なんだ、と。
でも彼ら曰く「アメリカをもう一度偉大な国にしなければならない」。
ここはもう、トランプ支持者全員共通している。
「偉大な国にする為には中国、韓国、日本がどこにあるか、イスラエルがどこ、ウクライナがどこ、そんなこと知らなくていいんだ。アメリカさえ偉大な国になればいいんだ」
こういうこと。
クリミア半島とかロシア侵攻の前には知らなかった。

二〇一四年にロシアがウクライナのクリミア半島に侵攻した(10頁)

2014年にロシアがクリミア半島を侵略したことさえ武田先生は知らなかった。
ガザ地区。
死者の数がある一定数を超えた時にその悲惨を知るワケで。

つまりそういう意味合いで武田先生の政治的無知は「バカの二乗」である。
著者はここから様々な考え方を重ねていく。
実は綿野さんは哲学者。

戦後日本の中に生まれた「大衆」達がいる。
市民とは呼べない。
「大衆」
政治家さんから「大衆のみなさん!」と言われる。
「大衆と呼ばれる筋合いじゃ無ぇよ」と思う時があるが、とにかく「大衆」。
読むんだったら「週刊大衆」。

週刊大衆 2024年11月11日・18日号[雑誌]



武田先生は仕方がない。
大衆だが。
「大衆」というのは一体何かというと進化の途中で、集団の生存率の高さを知り、文化を遺伝的に受け渡す人々。
それを「大衆」と呼ぶ。
先例としたトランプ支持者。
これは典型的なアメリカの「部族」。
「アメリカ国民」ではない。
アメリカの部族、大衆。
彼らは直感システム、素早い判断とハロー効果、何回も繰り返される言葉で洗脳された、覚え込んだ人達で。
彼らが願っていることは何か?
トランプ支持者が狙っているのはどういうことか?
「世界の平和」「台湾の安全」何にも関係無い。
トランプ支持者は、そんなことは何一つ考えていない。
何を考えているか?
「富の分配が自分のところにいっぱい来るように」
本に書いてあることというよりは武田先生の独自見解。
でも当たり前。
富の分配、分け前が少しでも自分のところに多く来るということを願うことは生き方としては間違っていない。
水谷譲も自分はそうありたいと思う。
だから水谷譲も二乗とまでは言わないがバカの種類。
そのくせ、自分のところの富の分配が少しでも多いことを祈りつつも「ダメよ岸田じゃ。今、日本は」とか「株ばっかり高くなってて実感ないもの」とか。
実は気にしているのは「富の分配が自分のところに来ない」ということに不満を持っているクセに「あの経済学者あてになんない、あの人」とかと・・・
これを綿野さんは「みんな政治を語ることによってバカになってんじゃ無ぇの?」。
「今のこの暮らし向きがよくならないのは政治が悪いんだよ」という人は多いということだと思う水谷譲。
「それで何か変わる?」ということを言っている。
人々はみんな富の分配が自分のところに一円でも多くなることを実は願っているだけ。
では武田先生は何か?
老後のことしか考えていない。
武田先生如きは政治でバカになるどころか、だんだん年を取って自分の老後しか考えないという「老害」というバカになりつつある。
老害は何が老害か?
自分の道徳を無闇に大事にする。
それが文化だと思っている。
故に他者、他の文化と比べてどれほど優れているかを主張したがる。
武田先生達世代がバカなのは他者と向き合う能力が無いくせに、他者に無関心でいられない。
だから排除に結びつく。
今「老害」と言われている老人達のやっかいなところは青春の時はマルクス共産主義を夢見た。
「分配を正しくやろう」とあの時も叫んでいた。
その時は大衆ではなく「階級闘争だ」と言った。
今はこの老人達はどうなったかというと今、お国自慢で戦っている。
「ケンミンSHOW」(秘密のケンミンSHOW極
部族主義。
茨木と栃木、どっちが田舎か?
そんなことはどうでもいい。
だがそれが番組となるほど、いわゆる討論するにはもってこいの面白いところで、あれも一種の政治ミーティングと同じ。
それぞれの群れによって他の集団に打ち勝つこと、それがたまらない喜びとなる。
これは芸能界にもあって「部族主義」。
例えば「たけし軍団」。
あれは(北野)たけしさん中心の部族。
吉本興業。
あれは吉本興業を中心とする吉本部族。
そして今、日の出の勢い、サザンオールスターズのアミューズ部族。
これらはみんな道徳、礼節を持っている。
吉本興業のタレントさんと一緒の時は必ず吉本の人は自分達の文化である楽屋挨拶というのを来る。
アミューズさんもアミューズ部族。
ここは前室の差し入れが豪華。
それからたけし軍団は大将が来た時、たけしさん「殿」が来た時の送り迎えが綺麗に整列して見送るという美徳を持っている。
これは部族主義のよい面で、そういう礼儀作法を持っている。
武田先生は「博多部族」。
博多部族は特徴がある。
これはこの間カンニング竹山とも確認したが、自民党の森さんとか二階さんの悪口は言う。
「森さんがさぁ、オリンピックさぁ・・・」「二階さんもいい加減にしないとさぁ」とかは言うが麻生さんの悪口は言わない。
あれが部族主義。
なぜか?
麻生さんは福岡。
麻生セメント。
巨大な会社をやっておられる。
文化事業なんかよくやっている。
娯楽施設から市民会館からいろんなものを、麻生さんは自分のところのセメントで作っている。
武田先生もこの間、セメント業界からの対談の申し込みがあったが、すぐ引き受けた。
後ろ側に麻生さんの臭いがする。
これはやはり本能的に言いにくい。
これは武田先生の中に飼っているバイアス、歪み。
それは二階さんや森さんの方が悪口がいいやすい。
こんなふうにして大衆というのは歪みを持っているんだ、と。
ところが令和の今、大衆というのはもう好まれない。
令和の今、国民、市民のことを何というか?
「消費者」
大衆も日本に於ける消費者も西洋が持っている「市民」とは違う。
日本の大衆、或いは消費者は部族の人達。
「自分達」「われわれ」という小さな集団の決まり事を持っている。

 さまざまな人々が集まり、自由闊達に意見を交わす。かつてインターネットは、私たちが「他者」と出会い、対話を重ねる場として空想された。−中略−
 しかし、twitterやFacebookなどのSNSを見ればわかるように、私たちは同じ考えを持つもの同士で集まる傾向がある。
−中略−インターネットは私たちが見たいものしか見せないのである。−中略−私たちは同じ価値観を共有する集団=「部族」へとバラバラになる。(72頁)

インターネットが「集団分極化」を引き起こすことを指摘してきた−中略−「集団分極化」とは、同じ考えを持つものが議論すると、極端な考えの方に先鋭化する現象である。(73頁)

「バカの二乗」である私。
功利主義に弱く、部族として道徳的直感を平気で引っ込める。
森元総理や二階議員の悪口は言う。
だが麻生さんの批判はできるだけ避けたい。
なぜならば古里が福岡だから。
中国の管理・監視社会を厳しく批判する。
カメラが人を見張る社会は気味が悪い。
ただ、武田先生なんかはそうだが、世田谷に防犯カメラをもっと付けて欲しい。
水谷譲ももっと付いてもいいなと思う。
最初に抵抗したのは何だったのか?
不思議。
こういう、人間が途中でコロッと変わるというのはあり得ること。
中国はちゃんとそういうことを見越しているから偉い。
敢えて「偉い」と言った方がいい。

 中国のアリババグループが開発した「セサミクレジット」という「信用スコア」が知られている−中略−税金の支払いやSNSの履歴などの個人情報を収集し、AIが信用度を数値化し、スコアが高ければ低金利でローンが組めたりレンタルサービス利用時の前払い金が不要になったりと、さまざまな恩恵を受けられる。中国で進展する管理監視社会化はしばしば中国共産党の独裁体制に結びつけられ、人びとを抑圧するテクノロジーとして描かれる。(87頁)

これはもう誰でも中国人になりたい。
そうやって全部、官民一体の監視体制。
ポイントぐらい付けないと誰が言いたくもないおべんちゃらを言うか。
ポイントがバンバン入ってくるから、そのポイントがたまると喰いものが安くなるわ、とにかく凄く特典が貰える。
それで中国の人達が本当に偉いのは「多少の犠牲があるから私は幸せになれる」という。
これは納得すれば凄くいいこと。
少数の犠牲者はみんなの幸せのタネ。
これが監視体制の・・・
この素晴らしいアリババグループのセサミクレジットが徹底したのは武漢からのパンデミック。
この時に「コロナが広がる」という脅威につけこんで都市封鎖。
「誰が破ったかを密告しなさい」でセサミポイントが貰える。
それは密告をバンバンする。
少数の犠牲者がみんなの幸せのタネになる。
これで習近平・共産党体制は不落の籠城戦を敷いたという。
これは増々ポイントは高くつくような時代になってしまうのではないか。
これはいいこと書いておられる
綿野さんの「みんな政治でバカになる」。
中国では、はっきり言えば自由はいらない。
それよりも物が貰える方がいい。
これはある意味で、もの凄くクールに言えば立派な市民感情だ、と。
「自由なんかいらないよ、そんなの。なんぼでも灯ってればいいんだ監視カメラなんか。監視カメラがいっぱい付いてた方が我々は自由に行動できる。市民的な公共性、そんなものは衰退していいんだ。最大多数が最大の幸せになるべきで少数の犠牲は当然である」という綿野さんの推論。
長い歴史を振り返ってみると、誰か偉い王様がいて、皇帝がいて、主席がいて、大統領がいて、全部決めていくと一個間違った方に行ってしまうと大変なことになってしまうと気づいたイギリス人がいた。
18世紀のこと。
この人達が王様一人よりも集団で賢い選択をした方がいいんじゃないかというので選挙と議会、政党が生まれた。
これはやはりグッドアイディアだった。
でも18世紀、イギリスで生まれた民主主義資本制度というのは採用しなかった国があって、それが中国とロシア。
その二か国をマネしたのが北朝鮮で。
まあそれでもやはり王様がいて命令を出した方が、議会なんか通さなくていいから、何をするにしても早いワケで。
皇帝ではないが、小さな集団で国を作っていく。
こっちの方が国を動かす時、もの凄く便利がいいという。
では民主主義はどうだというと、時間がかかり過ぎる。
だから純益を綺麗に分配できなくなった矛盾が今の議会制民主主義なのだ。
この戦いが今の世界だ、という。
綿野さんはここが鋭い。
ではどうなるんだ?これから我々は。
皇帝とか王様とか、たった一人の大統領とか、一人の頭に任せておくと間違えたらエライことになるぞというので、18世紀、イギリスがシステムを発明した。
それは一人じゃなくて議会で討論して結論を出すという。
時間がかかるのだがここでいろんなアイディアが出てイギリスの成功というのは大きかった。
イギリス議会が次々と新しい制度を出していって、何と19世紀には七つの海を全て支配し、イギリスが世界を牛耳った。
それくらい豊かな富を集めてイギリス国民に分配したという。
ところが時間が経つとこのイギリスのシステムもだんだん上手くいかなくなって、選挙で政治家を選ぶというのもまどろっこしいし、無関心というのが増えて一票がどんどん軽くなっていく。
例えば日本の民主主義で考えましょう。

たとえば、二〇二〇年の東京都知事選挙の有権者数は一一二九万二二九人であった。もし東京都民であれば、あなたの意見は一一二九万二二九分の一に過ぎないわけである。投票しようがしまいが、結果は変わらない。(11頁)

(番組では1129万2290人と言ったが、本によると1129万229人)
この間もそうだが、候補者は何十人もおられたが、どの人が政治家にふさわしいのかなかなか決めるのが難しい。
「こんな人出てきちゃっていいの?」という人もたくさんいたと思う水谷譲。
学祭のイベントみたいだった。
大学のイベントみたいで。
政見放送もとんでもない人が学芸会みたいなことをやっている人もいたが。
一番いいのは全員を集めて討論をやらせること。
討論もできないような人は、もうその人達はどのぐらいの値打ちかわかるワケで。
武田先生の独自見解だが、政治家を誰か「この人がいい」と選ぶ時に、一人の人物がいる。
この人がふさわしいかどうか討論する。
それでその討論を見聞きしているうちに「この人がいいんじゃないか」というのがだんだん決まるのではないだろうか。
誰が政治家にふさわしいか。

「討論型世論調査」は通常の世論調査とおなじく無作為抽出で一〇〇〇〜三〇〇〇人を選び、そのなかから討論の参加者を二〇〇〜四〇〇人選ぶ。テーマについての必要な情報が提供され、参加者は三日間討論をおこなう。(134頁)

選挙管理委員会は、その人達にはちゃんとギャランティを出す。
そうするとある程度の察しはつくのではないだろうか?
私達はとにかく政治的な無知を乗り越える為に政治を中継してくれる何かを作り出さなければならない。
それから日当を払おう。
東京都の都議会の議員さんがいる。
あれも選挙で選んでいた。
選挙と選挙と言っても一票にすると1129万分の1になってしまう。
東京都の議会の人達が小池さんと討論しながら東京の政治を決めていくとする。
この時に半分を抽選。
あまりにも選挙に頼り過ぎるというのが一票をどんどん軽くしている。
抽選で選ばれて東京都議会議員が明日からのアナタの仕事になる。
それをできない人もいる。
水谷譲は毎日の文化放送の仕事があるので。
(都議会議員の数は)127人だそうだ。
その半分、60人を抽選で。
60人の人は結構いい収入になると思う。
多分水谷譲の今の給料よりいいのではないか?
それでそういうことにしておいて上司にかけあう。
「任期の期間中、二年間だけ、私いなくなります」
今、産休等々のシステムを励まそうと言っている時代、或いは女性議員を増やさないといけないと言われているこの国に於いて抽選で議員を選ぶというのはいい。
きちんと生活の面倒を見るということで都議会の議員さん、127人のうちの半分は選挙は関係ない。
議会を開く時間を夕方なら夕方に決めてお昼間お仕事OKとか。
バッチリの副収入。
これが武田先生の意見。
ただし一個だけ問題は少し本式に勉強しないとわからない勉強もあるので、さあそれはどうするか?なのだが、それは来週の続きということにする。

ゆっくりパワーダウンしていく民主主義だが、何とか喝を入れてこの制度を守らねばというアイディア。