これの続きです。
凄いタイトルだが、これは綿野恵太さんという方がお書きになった「みんな政治でバカになる」という。
この方が元々間違いやすい人間が政治という答えが出しにくい分野で答えを出していくうちに間違えてしまう。
だから「バカの二乗」なんだ
政治というものというのはバカの二乗の人達、そういう人達が語り合っているんだという。
非常に武田先生としても取り上げにくい。
なぜかというともうラジオ番組はことごとくこの政治の話が出て来る。
いろんな方にご迷惑をかけてしまうという。
でもラジオなんか聞いていると、もの凄くファイトを燃やして政治を語る人がいる。
この間も、この放送局(文化放送)で凄い人がいた。
「いろんなところで政治的に正しいことを言うから、いろんな人からいじめられて、私の話を聞いてくれるのは、この局のアナタだけです」なんていうことをおっしゃっていたが。
政治というのが上手くいっていない。
そういうことにしておきましょう。
武田先生はジャッジできない。
そういう知恵がないので。
だが、民主主義というのがちょっとお年を召してきた。
老化した民主主義となっているというのが現状ではなかろうか。
これは皆さん、認めてくださるというふうに思う。
その民主主義を若返らせよう。
どう若返らせるのか?
やっぱり制度をいじる必要がある。
曰く民政議会で両方とも選挙で選ぶ。
これは無理があるんじゃないの?
民主主義の危機を解決するために選挙制議院と抽選制議院という二院制議会を提案している(任期は一〜三年、報酬はなるべく高いのが「ベスト」だという)(136頁)
議員数、或いは議会の日数を短くして効率的に行ないましょう。
そしてその報酬として、抽選で選ばれた人に今と同程度の金額の面倒を見るという。
必ずや職場復帰が叶うような立場で。
そうすると二世議員とかというのがいなくなってしまう。
こっちのほうがよくないですか?
政治家になることを商売にしてしまう人がいるというのがこの国の民主主義を年を取らせてしまったのではないか?
政治家になった瞬間にまた変わってしまう人もいると思う水谷譲。
それが「半分抽選で決まる」というのは、これは「意外と面白いこと起きるんじゃ無ぇの?」と思う。
いい仕事をする人も出て来ると思う水谷譲。
悪い人がたまってしまうか、いい人が出てくるかも知れないという可能性にかけるか。
アテナイの民主主義においても専門性が求められる「財政」と「軍事」の要職は選挙で選ばれたが(137頁)
原子力なんかもそうだが、みなさんももう7月から体験なさっているが、やっぱりクーラーがないとやっていられない。
そういうことは「電力」ということが問題になる。
電力というものは財政の問題と、もう一つ核開発の問題も抱えている。
3分の1くらいは、やはり安定した電力供給というところでは核、原発発電というのはとても大事だ。
それにどうも外交を見ても日本の方が核を持っている。
いつでもアメリカが横にいてくれて核をお借りするというワケにもいかないので。
「核を持て」と言っているのではないのだが。
核という技術に関しては平和利用を含めて「私どもは勉強してますよ」という、そういう態度、そういう静かな脅しは持っていないとダメなのではないか?
そういう意味合いで財政と軍事についてはちゃんとした毎日のお勉強を重ねた人々が選挙によって選ばれるという。
第二次大戦後の自由主義諸国においては多くの人々が経済成長の分け前にあずかったため、「民主制資本主義」が定着した。(138頁)
日本とドイツは戦争が負けた方が景気がよくなってしまった。
どのくらい豊かな財産を民主制資本主義が生みだしたかは、やはり我が身で体験している。
しかし、その民主主義も80年経つと分け前が充分に世界に分配できなくなった。
儲けを貰うんだったら、財を欲しがっている国からすると、専制覇権主義の方がカネがいい。
インドネシアなんかがそう。
デビ夫人がやってきた国だが。
あそこはやはり日本と中国を両天秤にかけて、どちらかに安く新幹線を作らせようとして、結局材料費とか全部持ってくれるという中国に縋り付いた。
それでインドネシアの高速鉄道は中国製になったのだが、これが何だかさっぱりお客が集まらないらしい。
中国の言うことを聞いて作ったのはいいのだが、もの凄く駅が遠い。
駅が遠いから駅まで行くのが大変だから、お客さんが集まらない。
そのへんは日本がちゃんと計算してあげていたのだが、やはりお金をいっぱいくれる中国の方がよかったのでインドネシアはいってしまったのだが、今頃になって中国は急に「カネ返して」と言い始めた。
それで血相を変えているらしいのだが。
やはりそれはちょっと分配率が落ちたことで専制主義の国が作られたのだろうが、このへんがやはり何年か経つとコロッと変わってしまうという。
「バカの二乗」というのは人間に付いて回る。
年を取ってしまった我らが民主主義。
戦後も数十年経つとあの元気のよかった民主主義、パワーダウンはアメリカに始まって日本もそう。
アメリカでは民主主義に関してかなり疑いが出ていて、カリスマを求めてトランプなんていう人が。
このアメリカに対抗する中国、ロシア、或いは北朝鮮等々は専制主義。
だから国民を管理体制に置いて議会をいちいち通しているともうパワーダウンしてしまう。
それでアメリカでポピュリズム、人気者が天下を取るという。
その典型がトランプ元大統領。
この人は何かというと合理的無知と反外国バイアス。
景気のいいことをおっしゃるのだが「アメリカを再び偉大な国に」とおっしゃるのだが「どうやれば偉大になるのか」「偉大とは何か」そんなことは一切喋らない。
ただひたすら「アメリカをもう一度偉大な国にするんだ」と、それしかおっしゃらない。
そして偉大な国にする為にはどうかというと、アメリカの足を引っ張る外国をみんなやっつける。
「どこの国か?」というと、トランプさんは一番最初に中国を挙げるのだが、いつの間にか日本もそれに入るかも知れない。
とにかく「アメリカが苦しんでいるのはみんな外国のせいだ」という論理。
これがもの凄くわかりやすい。
単純なストーリーだからわかりやすい。
それでポピュリズムという人気に訴えることで専制覇権主義の国と対抗していく。
政治的な手腕とか力量ではない。
人気だけ。
この「人気」で我が身を支えて選挙民を自分に惹きつけるという。
これが今、日本にも流行している。
選挙をやるとポピュリズム、メディア受けする人がいる。
胸には缶バッジを付けて決まり文句なんかを胸に刻んで電信柱にベタベタそのステッカーを貼ったり。
誰と言っているワケではない。
それから「私を支持する人は緑を身に着けて」なんか言いながら。
誰と言っているワケではない。
いわゆる主張ではない。
ポピュリズム。
人気のファッションとかマスコットとか、そういうものを動員して人気を集めようとしている。
ポピュリズムが大衆の政治への無力感や疎外感を利用した「部族主義」であることだ。(147頁)
「私を支持するという部族」を作りたい。
とにかく敵を倒すこと。
それが政治的なスローガンで。
日本に於いてもそうだし、アメリカのトランプさんなんかもやり方は同じ。
ポピュリズムの真ん中にあるのは怒り。
「あいつは許せない」それだけ。
貧富の差、所得の高望み、民族、人種、階級対立のように見せかけて、とにかく「許せない」それを政治的なテーマとすり替えてゆくという。
他者の苦しみを語っているのだが、それは自分が正義を叫ぶ為の道具に過ぎないという。
そういう論理ではなかろうか?
このへん、この著者はもの凄くしつこい。
これを分かりやすくすると、これにハマる政治家の人の名前をどんどん挙げていけばいい。
武田先生はちょっと「(今朝の)三枚おろし」には小骨になるので(政治家の名前を)全部抜いてしまった。
だから理屈だけ。
だからRのステッカーを貼るとか緑のマフラーとかも個人で言っているのではない。
「そういう人がいた?いたかな?よく覚えてない」
トランプさんだけはちょっとわかりやすいので。
トランプさんはそういうのを堂々となさっているから、だから取り上げているだけ。
ポピュリズムの代表だから。
だからプーチンや習近平を語るが如くトランプさんも語っているワケで。
この綿野さんが細かいところは全部挙げている。
例えば、もう嘘ばっかりつく経済学者。
でもそれは武田先生は言えない。
それを聞いて本が読みたくなった水谷譲。
これはなかなか見事で。
だから綿野さんはそのへんは正面から木刀を振り下ろしている。
だが、ちょっとそれはこの放送では偏ることもあるので小骨は全部抜いてしまった。
それで綿野さんが凄くおっしゃっているのは、総まとめにそのバカの二乗で政治を語る人達の底の浅さをこういう例で語っておられる。
ナチスの強制収容所の近くに住んでいた女性が、ユダヤ人への残虐行為を目の当たりにして、「そのような非人道的な行為はすぐにやめてください。さもなければ、誰も現場を目にすることのない別の場所でやってください」という抗議の手紙を書いたという(160頁)
綿野さんは「これと同じことが政治を語る人の中にいるのではないか?なぜ勇気を持って最初の一行だけにとどめておかなかったんだ」という、そのこと。
政治を語る時に賢い選択ができない。
綿野恵太さんの「みんな政治でバカになる」晶文社、この本を取り上げている。
「政治を批判する人」も批判しておられる。
とにかくインターネットによって解き放たれた個人のサイト、SNSなど、バカの二乗を振り回している人がいっぱいいる。
このことを著者は子細にあぶりだしている。
これはもう当「(今朝の)三枚おろし」では一切触れない。
申し訳ございません、著者の方。
著者が激しく嫌っているのは、知っているつもりで政治批判をし、政治を批判することで自分をインテリと思い込むというような、そんな人達の有様を。
この、政治を語ることによって「頭のいい私」を表現したがる人、というのはステレオタイプの話をしているんだ、と。
そういう人達が政治を語ることが政治を歪めることになっているんだ、という怒り。
政治を語ることの難しさは政治の世界で起こった出来事を語ればいいというものではない。
それが何を意味しているのかを貫いて教えて欲しいのだが、これはちょっと綿野さんが書いてらっしゃる文章とは違うのかも知れないが、綿野さんの文章を読みながら自分でこう読んでいいのかな?と思って読んでしまったのだが。
政治を語る人で、自分の頭のよさを振り回したがる人達は、一言一言を熟語の意味合いを全く浅く判断するという。
例えば「自己責任」。
自己責任ということに関しては哲学がなければならないが、自分の知恵を振り回している人は浅く解釈する。
俗に「てめえのケツはてめえで拭け」という言い方がよくされる。−中略−
「自己責任」を意味する。(36頁)
その解釈は身も蓋も無い。
武田先生は(もっと深い意味があると)思う。
「自己責任」というのは「てめえのケツはてめえで拭け」だけではないと思う。
例えば「自己」これは何であるか?
「自己」は「てめえのケツ」のことではない。
「ケツ」も含まれるかも知れないと思う水谷譲。
だが水谷譲が「自己」と名乗る為にはもう一人、人間が必要。
哲学。
言葉が生まれるというのは、「一義に解釈しない」という意味だから。
一人を語る時でも一人だけで話が済むことではない。
自己は他者がいての「自己」。
自己は他者と知り合うことによって自己を確認する。
水谷譲が「誰かを好きになる」ということは相手が必要なように、自己というのはそういう自己ではないか?
では次に残りの二文字の「責任」とは何だろう?
それも更に深い意味があるのではないか?
それを簡単に一つの意味だけに解釈し、自分の考えを振り回すという。
それを綿野さんは懐かしい言葉だがキツイ言葉で「エセインテリ」。
(本の中には「エセインテリ」という言葉は登場しない。全て「亜インテリ」)
エセインテリは懐かしい。
ここに武田先生の弁。
「このあたり、相当なページを割いてエセインテリを語っておられますが私のバカさについての考察をする為で、ここらあたり相当なページを飛ばしました」
綿野さんごめんなさい。
武田先生も読んだのだが、武田先生の感想。
「長すぎて疲れました」という。
エセインテリのバカな人の例をずっと挙げられると、ごめんなさい綿野さん。
読んでいるだけで疲れてしまう。
それは武田先生の読書の体力なのだが。
武田先生はもの凄く弱い。
水谷譲は言った。
「てめえのケツはてめえで拭け」「ケツは自己の一部分ではないか?」と
鋭いことをおっしゃったのだが、それは水谷譲が言葉に凄く敏感な頭のよさを持ってらっしゃるのだが。
武田先生はこの一言が凄く好きなのだが綿野恵太というちょっと皮肉もいっぱい込められるような文章の書き手の方なのだが、この人が哲学者・千葉雅也さんの指摘を紹介なさっている。
武田先生は自己に関して今、説明をしつこく粘った。
これはただ単に水谷譲から言わせると、話を引っ張っているだけかも知れない。
哲学者の千葉雅也は「深く勉強するというのは、ノリが悪くなること」と指摘している(205頁)
「即答できる人の知恵にあんまりビビらない方がいいよ」という。
武田先生は書いている。
「深く勉強するということはノリが悪くなること、と千葉さんが指摘なさっている。この一言ハッとしますねぇ」
「ノリが悪い」というのは、現代、凄く大事なことで、少し皆さん、自分の意見を早目に言い過ぎるという。
著者だが第六章まで進んだらこのあたりぐらいからグングンと文章は明瞭にスマートになっていく。
著者は言う。
いささか武田先生の意訳、武田先生の訳だから少し言葉の盛り付けが極端かも知れないが。
数多くの社会実験の失敗が示すように、私たちの「遺伝的な傾向」からかけ離れすぎた政治は失敗する可能性が高い。(225頁)
理想が高すぎる政治は失敗する。
「全ての人民を幸せにする為に身分を同じにしよう」という共産主義、これは上手くいかなかった。
第一次世界大戦後、ドイツはワイマールという共和国を作った。
ワイマール憲法は民主度が凄い。
民主主義のお手本みたいな制度で、「LGBTと共に生きていく」というジェンダーフリーを謳ったのも初めてだろう。
だからそういう保証もワイマール憲法で守られた。
騙し合うことのない、或いは競い合うことのない性がそこにあり、「性の快感は全て平等」ということは憲法で保証された。
理想を求めて進み出した。
これが数年でダメになる
このドイツで第一次大戦後にできた人間の自由を求める理想のワイマール憲法が崩れていった。
ヒトラーが登場する。
人々は今まで認められた自由も全部捨てた。
「人種なんか平等」だとあれ程叫んでいたドイツ人が、ゲルマン民族最優秀で劣等民族を殺そうという。
そしてこの時ドイツ人は「自由なんかいらない」と言った。
「ヒトラー総統が喜ぶんだったら、我々は自由はいらない」
そのことを書いた哲学者がいた。
人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。(101頁)
不自由は気持ちがいいそうだ。
「へぇ」だ。
それは人間につきまとう永遠の歪み。
そういうバイアスが人間にはかかりやすい。
だから政治に託して思わなければならないのは、我々はそれほど立派な生き物ではないんだ。
賢くもないし、はっきり言ってずるいし、だからそのことを踏まえて我々は人間にとって快適な社会を作ろうではないか。
か弱く非力な人間。
それを従えて大きな強い国家を創る英雄とか皇帝とか大統領とかそんな人を求めるのはやめましょうや。
武田先生はそう思う。
この綿野さんというのは微妙な言葉の世界に入って行く。
ここからはもう哲学。
シニカルな政治態度からの「折り返し」がポイントなのである。(225頁)
「皮肉な口調で政治を語るな」という。
もう一つ、「無責任に政治なんて俺達がやる必要無いんだよ。やりたがってる酔狂なヤツに任せておけばいいんだよ」。
そういうことを皮肉っぽく割り切る人がいるが「やはりそれではダメなんだ」という。
私達はおろかであるし、そのおろかである、バカであるが故にちょっと世界をシニカルな目で片頬を上げながら、からかうようにして眺めるという悪いクセがある。
それではダメだ。
政治を語るんだったらシニカルとバカの間を突こう。
バカの居直りでもなく、シニカルに嗤う冷笑主義でもない。重要なのはその「あいだ」である。その「あいだ」とは「ドヂ」な存在である。(240頁)
さあ考えてみよう。
シニカルとは何か?
これは皮肉屋。
シニカルとは何か?
エセインテリ。
賢いふりをして政治を語れば頭がよくなったと思っている。
「亜インテリ」は「いっぱしのインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない。政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。(179頁)
インテリ気取りで「受け売り」の知識をひけらかし(179頁)
自分でその意見を作ったと思い込んでいる。
野菜とかお米を作ってはいない。
横に移しているだけなのに、自分がさも作ったようにふるまってるだけなんだ。
こういう人は生産者じゃないんだよ、と。
だから人の意見を拾って、人をやっつける為にその人の意見を使っているんだ、という。
シニカルな人達の目的は何か?
「敵」を論破するための「ツール」でしかない。(182頁)
この人達は人をやっつける。
何かこういろんな理屈を言っているが、喰いもので言えばジャンクフードだ。
スピードだけ。
煮込む時間、焼く時間、そんなのちっとも気にしてない。
こんなジャンキーな人と付き合ってはいけない。
今日はバカの説明だが、エセインテリというのは人を論破することが趣味でその為に人の意見をいつも作り直しているという。
だからこの人には自分の意見がない。
「だから人の悪口が言えるんだ」と言っておいた後、著者はバカの説明に入る。
バカとは何か?
バカとは一つしか覚えていない。
「定型化」=「ワンパターン化」した言説を、「バカのひとつ覚え」のように繰り返すのである。(183〜185頁)
「国に帰れよ」「アメリカのポチ」「恥ずかしくないのか?」
こういう人を傷つける言葉を一つ覚えていてそれを繰り返すという。
武田先生はびっくりしたのだが、大谷(翔平)さんの春先の問題が起こった時に、大谷さんを凄く批判したワイドショーの司会者がいた。
この人はこういうことを言うとヤベェなと思ったのだが「人がね、億単位のカネを使い込んでるのに気づかないってあります?私ね、どうもそのあたり信じられない、私的に」と言った人がいた。
この人は「私の感性」で大谷を語っている。
だから「大谷の気持ちはわからない」とおっしゃる。
時々そういう人はいる。
ゴルフの中継とか見ていると「何で左打っちゃったですかねぇ?」
「それ、アンタのレベルでしょ?」
マスターズで戦っていて「何で左へ行っちゃったんでしょう」。
それから大谷の批判も結構だが、「私は理解できないな」。
その人は締め言葉でそうおっしゃった。
「理解でき無ぇよ」なんて「アンタ、バッターボックスに立ったこともないし、何もかも違う」。
やはりバットを握ったことも無いようなヤツが、或いは30台、バーディーを取ったことのないヤツが。
そういうこと。
こういうのは一種「バカの一つ覚え」。
「私には理解できないな」
すぐバカを言ってしまう。
そしてもう一つ、この著者はエセインテリとバカを広く具体的な事例と人物で丁寧に挙げておられるが、ここではそういう骨は全部外している。
美味しいところの肉だけをおろしているので勘弁してください。
このエセインテリとバカの特徴。
「これが世に言うエセインテリか」「あ、コイツバカだ」という時に、尺度がある。
エセインテリとバカの特徴。
共通してたった一つ。
テンポがいい。
これがエセインテリとバカの特徴。
ノリがよいのでポンポン人の悪口が言える人。
悪口がリズムに溢れているので、他の人が割り込もうとしても割り込みにくい。
そしてドヂ。
なぜ知識人は「ドヂ」なのか。それは本来の「テンポ」から「ズレ」た存在だからである。(243頁)
自分で考えるリズムを持っている。
そのリズムを懸命に探す。
だからリズムに乗らない。
私たちには「無意識かつ反射的に相手を模倣してしまう傾向」がある。(230頁)
内田樹さんはそういう「模倣したくなる人」のことを「整った人」と言う。
人間は「整った人」をマネしてしまう。
どういう人が整った人か?
武道に於ける高段者。
その人達は見ていて美しいので、その人のことをマネしたくなる。
偽物はどうかというと、整ったふりをする人。
この人が整っているかどうかは、どうか皆さん、リズムとセンスでわかってください。
世界の指導者を見比べると、リズムとセンス、わかるでしょ?
ちょっとここは(アメリカからは)遠いので悪口を言ってしまう。
トランプさんはリズム感が悪い。
あの爺ちゃんが壇上に登場する時に軽くツイストを踊るが、あれは相当(リズム感は)悪い。
あのトランプさんは。
それと指を立てすぎ。
だがこれだけはどうしようもなく見た目から言ったのだが、武田先生はそう思う。
ドヂな人間になろうということ。
ドヂというのは、今あるリズムに乗らない。
そして確かな文化を手渡そうとする人達。
そういう人達がセンスとリズムを持っている。
ドヂな人達は日本の昔話にはいっぱいいる。
その人達は素敵な仕事を残した人。
どんな人か?
かぐや姫、金太郎、桃太郎のお爺さんとお婆さん。
あの人達がドヂな人の見本。
生活は貧しかったかも知れないが子孫に素敵な文化を残した。
(今回の番組は)よくできた。
自分でうっとりしてしまった。
これから秋口に向かって(10月27日に衆議院議員総選挙があるので)政治の話題が増えていくと思うので、敢えて政治というものを語る意味でこの一冊を取り上げてみた。
(著者は)綿野恵太さん、晶文社「みんな政治でバカになる」。