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2024年11月10日

亀田製菓 北海道限定 ハッピーターン スープカレー風味

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北海道限定 34g ハッピーターン スープカレー風味|アジカル株式会社 - 亀田製菓(株)グループ
北海道の味として道内外で人気のスープカレー。和風ダシをベースにチキンと野菜の旨みを利かせ程よいスパイスで食べやすい味わいに仕上げました。北海道産たまねぎから作ったパウダーを使用しています。

セイコーマートで180円(税込)で購入。
内容量34g。
1袋当りエネルギー185kcal。

袋の大きさはタテが20cmで横が13cmぐらい。
北海道限定っていう商品だから仕方がないんだろうけれども、普通のデカい袋のハッピーターンと変わらん値段で、たったの34gってのはちょっと厳しい。

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中身の大きさは普通のと同じかな?
長さが7cmで幅が2.5cmぐらい。

スープカレー風味ってことだからカレー味だろうなとは思ったが、思った以上にしっかり辛さもあるカレーの味。
辛すぎて喰いづらいみたいなことでもなく、なかなか美味しいと思う。
ただ、これを食べても普通のカレーの味なんだかスープカレーの味なんだか違いはわからなかったけれども。
別段「わぁ♥スープカレーっぽ〜い」って感じはしなかった。
まあ、カレーもスープカレーも味なんて店によってバラバラだしな。

ハッピーターン スープカレー味 34g 【4個セット】北海道 限定 ご当地 お菓子 お土産 小袋 アジカル カレー



posted by ひと at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年9月30〜10月11日◆我動く故に我思う(後編)

これの続きです。

「アフォーダンス理論」なのだが、「環境から影響を受けて人間は人間らしくなったんだ」というこの理屈が何となく武田先生は惹き付けられた。
人間の体もそんなふうにできているそうで、私達はその環境から学んで体を作った。
その体が心を作った、とそう言う。

では「人間の体についてみてみましょう」というワケだが、人間というのは骨というものがあって、その骨に中心棒がない。
中心の棒が無くてバラバラの骨が筋肉・筋(すじ)で結ばれていて

 筋は、−中略−ゴムのように伸び縮みしている。運動に使われる横紋筋も、骨を「引く」ことはできるが、柔らかいので「押す」ことはできない。力を伝えるために弾性素材を用いる場合、引く力は不安定であり、それで骨を特定の軌道上を正確に動かすようなことは困難である。(100頁)

この「引く力」しかないというのが人間に力を出させるパワーというか、技をいくつもこさえた。
この間、YouTubeで格闘技に入ってしまった。
合気道のお手本か何かを見ていたらYouTubeが気を利かせて格闘技ばかり並べる。
その中で沖縄空手とキックボクシングの対戦を見せる。
それの対戦を見ていて沖縄の○○空手を習った人がやたらと強い。
(普通の空手とは)違うように見えた。
動きがブルース・リーっぽいというのか。
詠春拳(えいしゅんけん)とかという中国独特の拳法があるのだが、それに似て。
沖縄空手もいっぱいあるようだ。
だからどれがどれだかわからないが、その中で解説の人が思わず言った「彼のやっている沖縄空手の流派は夫婦(みょうと)手という特有の体の使い方がありましてね」と。
アッパーカットで敵を殴っていると思ってください。
普通ボクシングはアッパーカットと片一方の腕でガーン!とかち揚げる。
その人は丸くかち揚げる。
例えば左右一個一個バラバラにしないで、腕を丸い円にしておいて左右に振っていく。
アッパーカットもそれを縦にしておいて・・・
上からやったら下からもやるという。
常に両腕が円を描いている状態でアッパーとかフックのパンチがあったりする。
その動きが独特で強い。
これが何でかというと左右の両手を同時に動かすことによってパワーアップするそうだ。
皆さんもちょっとやってみて下さい。
武田先生も今ちょっと試していて、左右バラバラに使わない、一緒に使う。
それを「夫婦手」「女房と亭主が一緒に行動している」という。
「何かに似てるな」と思ったらゴルフのスイングに似ている。
「ゴルフは沖縄空手でいうところの夫婦手なのか」と思って。
そういえばそんなふうにも名選手の動きは見える。
体を捻じり上げるアップとダウンからフォロースルーまで一瞬のうちに両手が回転していく。
こうなると力学の世界だと思う水谷譲。
それでアフォーダンス理論というのはそういう力学がある。
今言った「夫婦手」もそうだが「引く力」のパワーアップなのだ。
夫婦手は右手で殴りに行くということは左手が右手を引くということ。
そうすると体にこめられた「引く力」というのを存分に使えるという。
この夫婦手の方法で今度は弓を引く。
弓は右手と左手、別々の動きをする。
右手で引いたら左手は押す。
ここで弓で的を狙う時の初心者と熟練者の違いは何か?

初心者の場合には、一つの関節での動きは、他の関節にそのまま伝わり、結果として全身の動揺を大きくしている。一方、熟練者では、たとえば手首での垂直方向へのぐらつきが肩での拮抗する方向への動きによって相殺されるというように、特定の関節群の動揺が他の多数の関節群の動きに「吸収」され、結果として手首の動揺が小さくなる。(102頁)

これがアフォーダンス能力なのだという。

手先の揺れを少なくするために、もう一つの技を獲得している。それは視覚のスキルである。運動スキルが向上すると周囲の「見え方」が変わる、それが、「視野(注意)が広がる」こととして体験されると述べる熟練者は多い。(106頁)

こういう例え方もある。
これはトランポリンの選手、あれは模様で判断するそうだ。
トランポリンの選手は真っ直ぐにピョンピョン飛び上がる。
あの時は世界全体を縦縞にする。
その縦縞をなぞる。
そうすると真っ直ぐ上昇している。
自分を円筒形の筒の中に入れる。
それから捻りをてっぺんで得て回転して降りてくる。
あの時は世界を横縞にする。
自分の世界を縞模様にしてしまう。
それで回転して世界を作り変えるという。
こういうのは面白い。
円筒形の筒の中にいる。
そこに自分が真ん中に立っていて円筒形の中で上下する。
今度は「右に回転する」「左に回転する」は、らせんで落ちていく。
そういう模様で世界を捉えるという。
こういうふうにして、世界の見え方が変わることによって自分の動きを決めるという。
これは普通の人間にもあって、それが錯覚。
自分が列車に乗って横の列車が動くと自分の列車が動いたように思ってしまう。
洗車をする時に自分の車が動いているように見えるが実は動いていない、プルプルと掃除機の方が動いていると思う水谷譲。
それを支配しているのがまさしくアフォーダンス理論。

壁全体が床から切り離され、前後左右に揺らすことのできる部屋に参加者が入る。参加者が壁を見たときをみはからって、壁をほんのわずか数cm動かす。すると参加者の姿勢が変化する。−中略−参加者の姿勢は壁の微妙な動きに同調するように動く。−中略−壁が遠ざかる方向に動いたとき、乳児は前に倒れ、乳児のほうに迫るように動いたときには後ろに倒れることが多かった。(107〜108頁)

そういうのもいわゆる「アフォードしなければならない」という体の命令に言うことを聞いてしまう。
昔、遊園地にビックリハウスというのがあったと思う水谷譲。
あれもきっとそう。
ここを支配しているのがいわゆる「アフォード」「環境が変わるからオマエは変わる」という。
そして赤ちゃんがハイハイから立ち上がって歩き出す。
この歩き出す時に赤ちゃんには歩く筋肉は一切無い。
この間まで這っていたワケだから。
ところが一回立ち上がると歩こうとする。
それは赤ちゃんに何が起こったかというと、環境が赤ちゃんに対して「歩け」とアフォードして歩行させる。
わかりにくいかも知れないが、例えると操り人形。
これは上から吊られている。
だから操り人形は歩いているように見える。
では赤ちゃんが歩くことはどういうことかというと、下から吊られているという。
重力。
赤ちゃんが立ち上がった。
筋力は何も持っていない。
でも、尻を落とせば座ってしまう。
でも尻を上げている。
そして感じているのは下から引っ張られている。
そして立っている。
歩く。
歩くと出した足の方から急激に重力が彼を引っ張ってくる。
だからそちら側に体重を乗せて次の足を出すという。
操り人形は上から吊られ、赤ちゃんは下から吊られて歩くことを覚える。
こうやって環境の中に適応する自分を見つけてゆくという。
その時に赤ちゃんに何が一体課題として与えられるか?というのを(武田先生は)日付まで書いてある。

2024年6月12日
(武田先生が行っている合気道の道場の)オザキ五段と道場で脱力の話になった。
道場の先輩で段位が上の、技術的に凄いところに行っている人で、師範も勤まるという方がおっしゃった。
「赤ちゃんというのは歩く為の筋肉を持っていないのに、環境にアフォードされて歩こうとするという。この時、赤ちゃんを支配しているのは重力である。重力は命令する。赤ちゃんに何を命令しているかというと『脱力せよ』。全身から脱力する。脱力して次の足を出す。そうすると歩行に向いてくる。そこに力が加わるとすぐに倒れる」

「アフォーダンス理論」なんていうのに触れていると、人間の根本を考える。
この本だが「新版 アフォーダンス」(著者は)佐々木正人さん、岩波(科学)ライブラリー。

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)



この「アフォーダンス理論」というのは面白い本。
そんなことを言うのは何だが、合気道をやっておいてよかった。
いつも叱られる。
「武田さん、ほら、また力入ってますよ。脱力脱力」と。
「脱力」の意味がわからなくて。
「力を抜く」というのは考えたら難しい。
ただ、上手い人を見ていると「あ、脱力してるな、この人」というのはわかる。
ゴルフファンが一人スタジオで退屈そうな顔をしているので、つまんない話ですいませんでした。
ゴルフの話をするとカッと目を開く人なので話してしまうが。
8月ぐらいだったか、本当にこんな、か弱い子が、川崎春花だったか箱根という非常にキツめのゴルフ場で戦っている。
この人がパットが上手い。
カッポンカッポン入れる。
この人のストローク、パターを見ていると力が入っていないのがわかる。
例の夫婦手。
パターのフォームが夫婦手になっている。
右手でも打っていない、左手でも打っていない。
両手で輪をキープしながら打っている。
その時に小さい動作の中に、もの凄い鍛錬とか、もの凄い覚悟とか奥義みたいなものを感じた。
だから「小さい動きって大事だな」と。
でもその小さい動きに関して肩を叩いてくれたのは合気道という武道で。
これは敵がいない武道なのでオリンピックの種目でもないのだが、でも武道が持っている何事かを考えるにはもってこいの武道だな、と。
オザキ五段に「脱力が難しい」と言ったら「一番最初に、でも我々は脱力から始まったんですよ」とオザキ先輩が言ったので「どういう意味ですか?」と言ったら「ハイハイしてた赤ちゃんが立ち上がって歩く筋肉持っていないのに一歩、二歩歩くというのは脱力のパワーですよ」。
下から引く重力に身を任すという、そういうもの凄く大胆不敵なことができるという。
我々は意思を持って歩こうとする。
歩行の一番重大なことは「重力に身を任せる」という。
「その次に大事なことは何でしょうね?」と言ったら「中心線を真っ直ぐ持つことです」。
この中心線がまた西洋の「気を付け」と違う。
「体幹」でもいいかも知れない。
「正中線がしっかりしている」「真っ直ぐ前を向いている」という。
赤ん坊は斜めに歩いたりしない。
一歩、二歩、三歩と上手くいく時は正中線が真ん中で。
武田先生は正中線が歪んでいて真っ直ぐ立てない。
下手くそな柔道をやっていたから、弱いから腰を引いてしまう。
オリンピックでもそう。
真っ直ぐ正中線を広げて相手を取るという人はいない。
みんな横。
外国はもう柔道というのはローマ字の「JUDO」だから真っ直ぐなんて一人もいない。
正面を向いているのは日本選手だけ。
何で横を向くか?
あれは投げられない為。
「そんな度胸ではダメだ」と柔道は言っている。
合気道はそう。
「絶えず相手に対して真っ直ぐ向きなさい」という。
でも真っ直ぐ向くと投げられてしまう。
知っている。
武田先生は何回も投げられた。
「よし、来い」と言って何遍投げられたか。
それで歪む。
斜に構えてしまう。
斜に構えると、うちの指導者は厳しい。
「正中線歪んでます。力入ってますよ」と言う。
「脱力」「正中線」
何だ?
それをバッタリ両方見た。
それが「柔」を歌っている美空ひばりが出てくる。



美空ひばりが姿三四郎の恰好をして歌っている。
姿三四郎の恰好をしているから袴の結び目が分かるのだが、真っ直ぐ前を向いている。
それでマイクが垂直に立っている例の古い時代のヤツ。
それとブレない。
彼女の顔が正中線からわずかに横に振るだけ。
もう一つ、呼吸が違う。
あの袴を履いている帯、これが息をする為に上下しない。
腹式の深いヤツ。
特殊な呼吸法がある。
吸っていないのに吐き続ける。
その時に袴を履いているとその声が出しやすいらしい。
恐らく袴が彼女に特有の呼吸法をさせている。
ベルトではない。
ベルトと帯は違う。
これはやるとわかるが、帯を結ぶと腹が前に出る。
その時に骨盤が少し後ろに反りくり返って腹が付き出る。
優勝した横綱が優勝カップを抱いて記念写真に収まるあのお腹。
この時に美空ひばりは真っ直ぐ正中線を客席に向ける。
袴の帯の結び目が正面のマイクと重なって左右にブレない。

ちょっと話が横道に逸れたが、人間の基本を考えてゆくとアフォーダンス理論というのは大浮上してくる。
脱力の難しさ、そのことを話しているうちに、いつの間にか美空ひばりさんの歌い方みたいなところまで行ってしまったのだが元に戻す。

人間の基本的な動きの中に「体が貯えた知恵」というのがある。
それが我々は思い出せない。
例えば生まれたばかりの赤ちゃんを見てみよう。
これはアフォーダンス。
典型的に環境から学ぼうとしている。

 新生児は誕生後ほどなくミルクを吸い、嚥下(飲みこむ)する。二つの運動リズムは協調している。「吸う」と「飲む」の協調が安全な栄養摂取をもたらしている。(113頁)

ミルクを吸う時、通常は舌の先端が下がり、後端が上がる。舌がちょうどこの「しなるムチ」のような状態の時に、口蓋の奥が広く開き、ミルクが食道へと押し出されるなら誤嚥は起こらない。(113頁)

無意識にそれをやっている。
でも分解するとこれくらい難度が高い。
この「吸う」「飲む」は二拍子である。

このリズムの獲得に問題をもつ一部の早産児や運動障害児では、誤嚥が起こり重篤な肺炎につながることもある。(113頁)

赤ちゃんにとって誤嚥というのは命の危険だが、年寄りにとってもそう。
このへんもパッと頭にひらめいたのだが、赤ちゃんと年寄りは似てくる。
武田先生はそういうふうに読んでしまった。
誤嚥ということを警戒する為に、母親が「吸う」「飲む」の二拍子を体を叩いて赤ちゃんに教えること。
トントン。
あのミルクを飲ませながらトントンと叩くのは「吸う・飲む、吸う・飲む・・・」。
そのリズムに乗って赤ちゃんは「吸う」「飲む」を繰り返す。
だからお母さんの手のひらはそのリズムを知っている。
これぞまさしくアフォーダンス理論。
こういうアフォードされることによって体が学習していく。
そういうふうに考えないと、人間というものは理解できないという。

この本を読みながら「俺が今、脱力に関してこんなに興味を持ったのは何か?」。
年を取ったから。
つまり赤ちゃんと同じ課題を与えられているという。
これから先、きっと「脱力する」という能力が年を取ってからもの凄く重大になる。
それは二拍子で、もう一度ものを噛むとか飲み込むとかやらないと、若い人間をきどって喰いながら喋ったり、言いかけておいて飲み込もうとしたりという二つ動作を重ねようとした時に・・・
飲みながら顔を向けたりするとむせると思う水谷譲。
ということは、これから学ぶべきは「赤ちゃんの時に授けられた、体が覚えた知恵をもう一度なぞらないと年取ってはいけないよ」という。
なぜ躓くかというと力が入っているから。
そうやって考えると「生まれたばかり」と「老い先」というのは非常に形が似てくるるぞ、と。
そんなふうにして自分に言い聞かせるとアフォーダンス理論というのがぐっと身近に迫ってくるような気がする。
そしてこれから先、「脱力する」という能力が年取ってからもの凄く重大になる。
ゴルフにしてもそうだと思う水谷譲。
柔道もそう。
一瞬に脱力をどう使うか?
全部力が入っていたら、相手の技にかかってしまう。
ローマ字の「JUDO」と漢字の「柔道」が今、こんがらがってしまっていて、どうもローマ字のJUDOの方がオリンピックでは武器になり得るのだが、でも私達はオリンピックでメダルを獲る為の柔道を「柔(やわら)」とは呼ばなかった。
「柔」は「柔かい道」。
美空ひばりが「柔」という歌を歌っていた。

勝つと思うな 思えば負けよ(「柔」美空ひばり)

メダルを獲るなんてどこも柔は目指してないぞ。
(この歌の)二番が凄い。
人は人なり、迷いもする。
メダルも欲しくなるだろう。
でも人は人なり、迷いもあるけれども、そんな自分を捨てると自分という限界を超えてゆくことができますよ、という。
ここから学びましょう。

人間の手の骨格は、27本の小さな骨から構成されている。指と手根骨部分(手のひらの骨)だけでも15の関節があり、そこの自由度は20である。−中略−腕には、関節が7、筋が26、各筋ごとに運動ユニットが約100あると言われる。したがって、筋のレベルだけで2600の自由度がある。(99頁)

これに肘、肩が付いているワケだから、動かし方は2600×300で78万通りの動かし方ができる。
これでピアノ演奏なんかをやるから「なるほど」。
考えたら演奏というのがいかに凄いか。
これを動かしているのがアフォーダンス。
「環境から与えられて」という。
ちょっと武田先生も根拠がよくわからないのだが、人間が部分で作られているという。

それで水谷譲に見せたかったもの。
水谷譲の為に組み立てた。
これはテンセグリティ構造。

テンセグリティ テーブル テンセグリティ構造 反重力テーブルモデル テンセグリティモデル 反重力テーブルオーナメント バランスゲーム テンセグリティ テンセグリティ構造 装飾品 物理学 教育玩具 科学実験 テーブル置物 科学教育 室内装飾 卓上装飾



テンセグリメントといって中心の棒がない。
直径10cmぐらいの丸い板が上と下にある。
それを繋いでいるのが四本の鎖と一本のゴム。
上から斜めに出ている柱と下から斜めに出ている柱をゴムが繋いでいる。
これはどういう力加減かというと、下の丸い板に釘付けられた柱は、相棒の木の杭を上げようとしている。
上げようとする柱と、今度は逆に上にくっついていて下げようとする柱がゴムで結ばれている。
そうすると中心の棒はないのに、物を乗せる台ができるという。
柱がない。
これが何を意味しているかというと、さっき言った肩。
肩というのは、背中の骨と繋がってない。
筋肉というゴムで結ばれている。
そのことによって自在に動くことが可能。
だから脱臼すると思う水谷譲。
柱があると固定されてしまって折れてしまったらお終いだが、これで自在に動くことが可能。
不安定に見えるが実は安定している。
これは「テンセグリティ構造」といって近代建築なんかにも今、取り入れられているという。
バラバラな部品を筋肉の筋を思わせる糸で結んでゆく。
そうすると全く違う構造の建物ができる。

一番最後に佐々木さんが面白いロボットの話を。
これは架空ではない。

 1988年の段階で「研究所をうろつき回り、ドアの開いた部屋を見つけて入り、机の上から空き缶を回収し、それを物置場にもって行く」ことを目標とする14層からなるクリーチャーが動いていた。−中略−
 クリーチャーは、
−中略−火星での鉱物探索用ロボットとして開発された。従来型のロボットが、地形や自己位置の同定、目標までの経路プランの計算のために、数時間をかけて1mを進むのがやっとだったのに対して、クリーチャーは人間の歩行とほぼ同じ速度でサンプルの収集を行うことができた。21世紀になって、クリーチャーの開発者らは会社を設立し、家庭用掃除ロボット「ルンバ」を制作した。ルンバでは「壁伝いに動く」、「障害物にぶつかったら移動角度をランダムに変更して、そこから脱する」、「段差を検知して、転倒や落下する前に方向を変える」などの多層モジュールが並列し、競合し、結果として部屋の中を動き回り、ほこりや小さなごみをかき出して吸い込み、一定時間掃除をすると充電器(「ホーム」)を探して戻る。(116〜117頁)

ルンバ コンボ j5 ロボット掃除機 アイロボット(iRobot) 掃除機掛けと水拭き掃除が一度で完了 水拭き 両用 マッピング 薄型&静音設計 強力吸引 自動充電 Wi-Fi接続 Alexa対応 カーペット 畳 j517860 【充電が全自動】



(番組内で話された「NASAの人が定年退職になったので、クリーチャーをお掃除ロボットにした」という話は本の中には出てこない)
そうやって考えると皆さんにお話ししているアフォーダンス理論というのがルンバになったとも思えば「愉快であろうなぁ」というふうに思う。
というワケで語り尽くしたアフォーダンス理論。


2024年9月30〜10月11日◆我動く故に我思う(前編)

(かなり後になるまでネタ元の書籍の紹介をしないが、今回は「新版 アフォーダンス」)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)



(番組の最初の方は、以前ネタ元に使った「なぜ世界はそう見えるのか」という本に載っている話。
2024年2月19日〜3月1日◆なぜ世界はそう見えるのか

なぜ世界はそう見えるのか:主観と知覚の科学



ちょっと小難しいタイトルを付けてしまったが「我動く故に我思う」。
デカルトの有名なセリフ「我思う故に我在り」。
「人間は考えるんだ」「それ故に私はあるんだ」と。
ところが昨今、この説が揺れ始めた。
いや、「我思う」じゃないんだ、と「我動く」だから「我思う」なんだ。
この説は本能的に正しいと思ってしまった。
これは「アフォーダンス理論」。
「アフォーダンス理論」とかと言うと、何だか阿波踊りの踊り方みたいで。
だがそういう意味ではなくて、どうも人間は頭で考えて世界を見ているのではなくて世界を見ているうちに「私」を思うようになったという。
そんな考え方が武田先生は好きなのだが、「それは科学的に正しいよ」と言ってくださる方がおられて。
その人がJ・ギブソン。
(番組の中で「ギブソン」と言ったり「ギブスン」と言ったりしているようだが、本に従って全て「ギブソン」に統一する)
フォークシンガーだったら(有名なギターブランド名の)「ギブソン」だから好きになる。。
ちょとダジャレだが。
そのギブソン博士の説、アフォーダンス理論に惹かれてしまった。

ギブソン博士の方々が調べた結果。
荷物を友達と二人で上げている。
棚上げしている。
棚上げしている時に二人が話している内容をよく聞くと明るい話題が多い。
仕事は大変なのにも関わらず。
今度は棚下ろしで物をおろしている時。
二人の話しをよく聞いていると暗い話が多い。
「体がそう動く時、心もそう動く」という。
これはピンとくるスポーツのシーン。
サッカー。
先制点を入れられるとキャプテンが絶叫「下向くな!下向くな!」。
「下を向くな」と言う。
「反撃に出る時に下を向くと体が応じない」という。
こういう人間の見方というのは面白い。
人間というのは「体がそう動けば心もそう動く」という。
本能でやっていること。
この「本能」が調べていくと凄い。
このJ・ギブソンという博士は徹底してそのことを調べる。
体がいかに人間を作っていくか。
つまり体が人間を作ったんだ。
人間が体を作ったんじゃない。

二足歩行からして考えてみよう。
赤ちゃんはまず天井を見ているけれど、やがて寝返りを打って今度はハイハイをするようになる。

要は赤ちゃんが端から落ちてしまいそうに見えるテーブルである−中略−。テーブル上に透明で分厚いガラス板を載せるが、テーブルの天板が尽きたあとの空間にも、ガラス板だけが突き出しているようにする。(「なぜ世界はそう見えるのか」35頁)

ジョニー坊や−中略−をテーブルの中央の、断崖のすぐ手前に載せる。ジョニーの両側には深く落ち込んだ視覚的断崖のあるガラス板(深い側)と、残りの天板部分(浅い側)との二つが広がっている。こうしておいて母親が、最初は断崖の向こうの深い側から、次はテーブルの天板がある浅い側からジョニーを呼ぶのである。−中略−二七人の乳児全員が、少なくとも一度は嬉しそうに浅い側を這っていったが、勇気を奮って見かけ上の穴に這い出していったのは、わずか三人にとどまった。(「なぜ世界はそう見えるのか」36〜37頁)

全く教えられていないのに「落ちる」という恐怖感を、生まれながらに持っている。
つまり「体が知っているんだ」と。
やがては掴み立ちして立ち上がる。
立ち上がってよせばいいのに、一歩、歩こうとする。
歴史的な瞬間。
あれはよく考えると凄く不思議。
這えばいい。
立って歩いた練習をしていない。
それが立ち上がった瞬間に歩こうとする。
何でだろう?
これをJ・ギブソンという人が「それは赤ちゃんに何者かが歩かせようとしているんだ」という。
歩かせようとしている者は何者だ?
「地面だ」という。
地面が歩かせようとしている、という。
これがアフォーダンス理論。

「我動く故に我思う」
知能を持ったAIロボットを作ったという例え話から今回は始める。
アフォーダンス理論。

 1台のロボットがいた。仮にロボットTと名づけておこう。ある日ロボットTは、唯一のエネルギー源である予備バッテリーのしまってある部屋に、何者かが時限爆弾を仕掛け、それがまもなく爆発するようにセットされていることを知った。このような危機的状況を知った場合には「部屋からバッテリーを取り出す」ようにプログラムされていたロボットTは、部屋に入り、バッテリーをそれが乗っているワゴンごと持ち出した。ところがなんと、ワゴンの上にはバッテリーとともに爆弾も乗っていた。部屋の外で、ロボットIはバッテリーと一緒に爆発した。−中略−
 最初の失敗を分析した設計者は、
−中略−行為の直接の結果だけでなく、その結果、環境に副次的に起こることについても推論できるように、ロボットTのプログラムを書き換えた。ロボットUが誕生した。
 さて、ロボットUはプログラムに従って「部屋からバッテリーを取り出す」ために、いち早くバッテリーのある部屋に向かい、ワゴンの前で推論をはじめた。
−中略−ワゴンを持ち出すことにともなって環境に起こる副次的結果について考えつづけた。その間に、部屋のどこかで爆弾が破裂した。
 設計者はこの失敗から、行為にともなう副次的な結果のすべてについて推論していると、時間がいくらあっても足りないことに気づいた。そこで一つのアイデアを思い付いた。「そうだ! ロボットに、目的としている行為に関係している結果と、無関係な結果との区別を教えてやり、関係のないことは無視するようにすればよいのだ」と。ロボットVが完成した。
 同じ状況にこの最新のロボットを置いてみた。ところがロボットVは全然動かない。ロボットVに「何をしているのか」と尋ねてみた。ロボットVは答えた。「黙って! ぼくはこれからやろうとしていることに関係のないことを見つけて、それを無視するのにいそがしいんだ。関係のないことは限りなくあるんだ……」。
 最新のロボットVが動きだす前に、部屋のどこかで爆発音がした。
(2〜4頁)

「完璧なロボットを作るということがいかに難しいか」ということは、私達はそんな難しいことを簡単にやっている。
何でそれが簡単にできるかというと、私そのものが考えているのではなくて、環境が私を動かす、と。
その「環境」とは何か?

 たとえば、「2次元の網膜像からなぜ3次元が近くされるのか」という、古くから哲学者たちを悩ませた大問題がある。(8頁)

ところが武田先生は水谷譲を見ると同時に水谷譲の後ろ側の窓の向こう側の景色も一緒に見ている。
つまり奥行がある。
この「奥行」とは一体何だ?

平面上にある2点の距離と、二つの点それぞれから遠くにある対象までの角度を計測し、それらの値を利用して対象である3点目の位置を算定する「幾何計算(三角測量)」をする機構が「こころ」の動きにあるとすれば簡単に説明できるだろう、とデカルトは考えた。(8頁)

「だから心の知性は凄い」と言った。
だから心を作るとすれば膨大なプログラムが必要になる。
私達はそれを楽々やっている。
一体、心は何をどう動かして操っているんだろう?
心を操っているのが実は環境ではないか?という。

ロボットで考えると人間は凄い。
人工知能を仕込んだロボットがある。
そのロボットに「客に向かって紅茶を運べ」と命じる。
「紅茶を運べ」と言うとロボットが一番最初にやったことは(中に入った紅茶から)カップを引き剥がすこと。
だから紅茶をまず捨ててしまうところから始める。
カップをまず切り離さないと紅茶は運べないから。
その上に「カップと紅茶を分けてはいけない」と指示しないとロボットは動かない。
ところがここで困ったことは、それで届けられたとしても飲み終わった後「カップを持ってこい。後片付けするぞ」という「洗う」とかと言わずに「後片付けするから」と入力すると途中でコップを捨てる可能性がある。
だがこれを物心ついた子供は、教えられなくてもちゃんとやる。
「お茶持ってって」と言ったらお茶だけを手のひらに乗せようとする子はいない。
ロボットがやるとすると膨大なプログラムが必要なのに、子供は物心がついたらできる。
それは何でか?
最初の一歩と同じ。
彼女、或いは彼を動かしているのは、彼の意思とかではなくて「環境」。
環境が彼を動かしている、彼女を動かしている。
だからロボットより遥かに賢いことができる。
私達は環境に対してそのように見る本能がある。
そこが人間の知能の面白いところで。
小っちゃな赤ちゃんに向かってママが「あれ取ってちょうだい」と言ったらその子は指を見ないで差したものを見る。
猫は指を見ると思う水谷譲。

武田先生の暮らしの中でそのシーンを見たことがあるが、東京にお住みの方は思い出される方がいらっしゃると思う。
東名高速道路に向かう三軒茶屋手前の道。
首都高速道路というのは不思議なものでアップダウンがわかりにくい。
実はゆったりと登っているのだが、その手前が下っているものだから、傾斜が車で走っているとわからずに、下っているつもりでブレーキを踏まれる。
次々に踏むもので渋滞してしまう。
そこで高速道路を管理する人が何を考えたかというと、その下っているように見えるところに明りの点滅を付けて次々に灯っていく。
そうするとそれは、流れを連想させて思わずアクセルを踏んでしまう。
それで渋滞がなくなるという。
そういう仕掛け。
(「エスコートライト」と呼ばれる誘導灯)
これが何をしろと言われているのか、環境の中から意味を見出していく。
ママがいて赤ちゃんがいて、ママが何かを指差すと小さい頃は指先を見てしまうが、指差すといつの頃か、一年も経たない、何か月かで指差している指の先の方を見るようになる。
これは指示。
凄く面白いことに生き物でできるのは人間とチンパンジー。
もの凄く高等なアフォーダンス。
あらゆる風景の中から「自分はどうすればいいのか」という意味を見つけていく。

 たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。−中略−メロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルの「秩序」である。(14頁)

「見ることの不思議さ」だが、とにかく人間は意味を見つけようとする。
例えば点がある、線がある。
そういうものを見ると「意味があるんじゃないか」と見てしまう。
そうするとこれが文字になる。
文字とはアフォーダンス。
そして見続けると意味が変わってくる。
「ゲシュタルト崩壊」
じっと見ていると違うものに見えてくるという。
例えば「虎」という漢字を一つか二つだったら「虎」と書ける。
ところがこれを千ぐらい続けて書くと(混乱してくる)。
こういうのを「ゲシュタルト崩壊」と言って。
感覚は目や耳や皮膚が主人公ではなく生き物の感覚であって、生き物の感覚そのものは別のものが操っているという。
見ることが網膜に写った映像では説明できない。
当たり前の視覚。
実はその「当たり前」の中にもの凄く重大な何かが隠れているのではないか?
そのことに気が付いたアメリカの博士がジェームズ・ギブソン。

「こんなことをやられてしまうともう勝てるワケが無ぇな」と思うのだが、このJ・ギブソンという人がどこからこういう研究を始めたかというと、1940年、日本とアメリカが戦争に入った瞬間に優秀なパイロットを作る為の適性テストをやりたい」と空軍が言い出した。
(本によると1942年)

 パイロット、ナヴィゲーター、爆撃手などの候補者となる、すぐれた「空間能力」を持つものを選抜することが、従軍した「ギブソン大尉」に与えられた任務だった。(23頁)

ここからアフォーダンス理論が始まった。

 着陸のときに「どこを見るか」は非常に重要である。着陸時には、滑走路の見えがパイロットに向かって「流れて」くる。流れが湧き出る中心が着陸の「照準」になり、流れの速さやその変化はそこに向かう飛行機の速度と加速度を示している。(33頁)

今度は上昇する時は重要なのは飛んでいる空間の変化から自分は今、空中のどのへんにいるか、見るということは変化する風景を見ている。
変化する風景の中から自分を見る。
風景の中のキメ、勾配、面、配列、光。
そういうものが次々に彼をアフォードしていく。
考えてみると凄いこと。

「奥行」とは何であろうか?

 ギブソンは、薄いプラスティック板を切って大きな正方形にしたプレートをたくさん用意した。板の色は白か黒の2色で、すべての正方形板の中心に直径約30cmの穴をあけた。プラスティック板は、−中略−約5cm間隔で、白と黒の順に交互に置かれた。(39頁)

板の列のまん中の30cmの穴の連なりをのぞきこんでみると、思いがけないものが見えた。−中略−白黒のストライプのある長い「トンネル」が見えたのである(39〜40頁)

でもそれはトンネルではない。
板の穴。
そこにトンネルを見てしまうというのが視覚のアフォード。

トンネルが見えるかどうかは、配列する板の枚数、つまり並べたプレートの密度によっていた。5m間に7枚の板を並べる条件ではただ板が並べて置かれていることが見えるだけで、「トンネル」には見えない。同じ幅に36枚を並べると、だれにでもトンネルが見えた。(40頁)

では他の生き物はどうなっているか?
J・ギブソンさんはすぐに動物を調べた。
動物の目というのは特色がある。

頭の両側にあるウマの目は、それぞれが215度の視野を持ち、視野は両眼で大きく重なっている。ヤギやウサギなどの草食動物でも同じである。この「パノラマ眼」とよばれている眼がとらえている世界は、一つの像には結ばない。(42頁)

これはやはり敏感になる。

各眼に二つずつ、両眼を合わせると四つの「中心窩−中略−」をもつ鳥がいる。さらに、飛行中に水平線の鮮明な視野を得るためなのだろう、両眼を横断する「細長い帯状中心窩」をもつ鳥もいる。(42頁)

「なるほどな」と思う。
だから上手く飛べる。
でも「水平が入って見える」というのは鳥がそう言ったのか?と思う水谷譲。
これは工学的に分析、分解したのだろう。
動物ごとに目ん玉が違うワケだから、トンボなんていうのは目ん玉が飛び出しているワケだから。
だからトンボになったら全然違う世界が見えてくるというふうに思った方がよくて。
ハエは複眼。
あれはマルチキャメラと同じで。
後ろが見えるヤツもいたりんなんかする。

眼の上半分を水面上に出し、水面の上下の両方にいつも注意を向けている「ヨツメウオ」では、眼の解剖学的構造や機能も左右ではなく、上下に分かれている。(43頁)

これは、とどのつまりは進化論。
我々人間というのはどうかというと、目に関して言うと手元を凄く大事にした。
手元をよく見る為に首は上下左右に動くようになるし、光の濃度に過敏で風景の「明るい・暗い」の中から奥行をパッと見つけ出すという能力がある。
見ることは視覚・聴覚・触覚などの情報、これを全部集めて見ているのだという。
このへんが生き物の面白いところ。
そう考えると賢いと思う水谷譲。

もっともっと不思議な話が続くのだが、ちょっと余計なことも書いているので。
6月15日の日付があるが、香川高松で鼎談をして大好きな哲学者の内田(樹)先生と釈(徹宗)先生。
浄土真宗系のお坊さん。
武田先生と三人で。
その時にこぼれ話だが、武田先生は内田先生の理論を聞いていると芸能界で生き抜く知恵を授けられているような。
内田先生は不思議だったらしくて。
「私のどこが芸能人の知恵になるんですか?」
そういうことを言われて
あまり上手い、いい返事ができなかったのだが。
(でも芸能人の知恵に)なる。
こういう「アフォーダンス理論」みたいなことも、教えてもらったのは内田先生。
武田先生がこんなことを自分で見つける能力なんかない。
ただ、新しい理屈として内田先生が「アフォーダンス理論」というのをしきりに本の中に書いておられて、それで「面白いな」と思うようになったのだが。
やはり辿っていくと、アフォーダンス理論というのは本当に面白い。
それは演技などにも関係してくるものなのかと思う水谷譲。

数m先の部屋の壁に鉄棒をスライドで投影して上下に動かした。そして、どの位置なら「脚だけで登れる」段の高さかを観察者に判断させた。平均身長約160cm、190cmの二つのグループで、ぎりぎり「登れる」バーの高さは、観察者の股下長の0.88倍だった。(68頁)

股下の長さが0.88倍以上だと飛びつく、以下だと飛びつかない。
(番組では「飛びつく」か否かという話になっているが本によると「脚だけで登れる」か否か)
(飛びつくことができないので)「凄いんだぜ。体操選手が飛びついて回っちゃうんだぜ」と説明したがる武田先生。
「よくやったよあの子は、金さすが」と言いながら。
股下の長さがたっぷりある、0.88倍以上ある人は飛びつく。
つまり自分の体が何をするかを、その人が思うよりも先に決定してしまう。
例えばトム・クルーズ。
「スパイ大作戦」

ミッション:インポッシブル/ ローグネイション (字幕版)



ビルの谷間に爆発物があって、ファっとトム・クルーズがビルの谷間に身を潜めて爆風を逃れる。
あれも瞬時。
これも実は環境が決定することであって、その隙間に自分の体が入れるかどうか、これはもう本能的に動くそうで

肩幅の1.3倍を境界として、それより狭いすき間は「からだを回さなければ通過できない」ところと知覚されていることがわかった。(69頁)

提示されるバーを「くぐる」か「またぐ」かについて大学生に聞くと、答えは知覚者の脚の長さの1.07倍のところを境界にして変わる。1.07倍よりも低いバーは「またぐ」、それよりも高いバーは「くぐる」行為が妥当だと見える。(69頁)

行為の性質は環境に導かれて行動する。

次の例は皆さんもやってみてください。
武田先生はズバリだったので驚いた。
こういうことがあるから「アフォーダンス理論て面白いな」と。

 頭をこの本から少し上げて、前の机の上を見ていただきたい。机の端にあるペン立てには手先が届くだろうか。そのペン立ては、イスの背もたれに背をつけたままの姿勢では「届かない」と知覚されるかも知れない。しかし腰を曲げて背をイスから離して上体を最大限倒せば「届く」と知覚されるかもしれない。とすればその届くという知覚には、読者の手の長さと腰部の柔軟性を合わせた身体感覚が加味されていることになる。(70頁)

(ここから水谷譲に対して本の上記の箇所を実証する実験が行われるが、本の内容とはかなり異なる)

かくのごとく、人間は殆ど直感に任せて環境からアフォードされているという。

ある種のカエルは、前方のすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと、そこに向かってジャンプしていかない。カマキリは、獲物である他の動物が、自分の前肢の長さとその先端にある鎌状の前肢の幅で捕まえることのできるサイズの範囲内に入るときだけ捕獲動作を開始する。(68頁)

それをカエルもカマキリも一瞬のうちにジャッジしていくという。
ジャッジできなかったカエルはどうなった?
死んでしまった。
広げた以上の獲物を狙ったカマキリは逆に喰い殺された。
こういうふうにして「環境の中の自分」というのを見つけていったものが今のあなたです、と。

体が知っている不思議な知恵、そういうものを勉強していけたら面白いなと思って語っているが、まだまだ話は続いて、この続きはまた来週のまな板の上で。