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2024年11月14日

2024年9月27日◆おまけの話

(9月16日からの「いないいないばあ」の最終日なのだが、一日だけ別の本を取り上げてタイトルも異なるので、この日の分だけを掲載する)
(今回も番組内の説明と本の内容はかなり異なる)

(著者は)高橋源一郎。
朝日新書だが、この人が凄いタイトルの一冊を出されていて「一億三千万人のための『歎異抄』」という。

一億三千万人のための『歎異抄』 (朝日新書)



歎異抄。
これは一種宗教の秘伝書。
それをわかりやすい現代語で書かれていて、それが凄く武田先生には面白かったので「取り上げようかなぁ」と思っていた。
高橋源一郎さんがどういう解釈をされるのかが興味深い水谷譲。
高橋源一郎さんは、西洋の哲学者のロラン・バルトなんかと比較して、鎌倉時代に親鸞という人が宗教の基本姿勢を決めた。
(本の中で取り上げられているのは「ロラン・バルト」ではなく「カール・バルト」)
宗教の基本姿勢とは何かというと、仏と一対一で向かい合うことだ。
だから「一人にならないとダメですよ」という。
そういう発想を親鸞さんは持ったのだ、と。

カール・バルトが痛烈な批判を行った。その主旨は、「信仰とは神との一対一の契約であり(170頁)

親鸞は微妙に違う。
親鸞が言っているのは

「非僧非俗」−中略−
「非僧」、「僧侶」ではないもの。
「非俗」、「俗人」ではないもの。
(167頁)

お坊さんでもないし、立派な生き方をしている、善人の人でもない。
そうなることが阿弥陀仏、仏と向かい合うことだ、という。
高橋さんの説明がゾクッとしたのだが、親鸞が言いたかったのは何かというと

正しそうなものには気をつけた方がいいのだ。(173頁)

世の中で「私は正しいんだ」という人がいたら、ついていくなよ、という。
鎌倉時代なのだが、親鸞はこの非僧非俗の一語の中に「正しい」というものは例えば「だから間違ったものと戦争しよう」とか「正しいことの為にいつも戦う意思がある」。
そういう人はもの凄く人を不幸にする可能性があるんだ、という。
「善人」とは何かというと、とにかくいいことをずっとしているので「俺はいいことしてるぞ」という自覚がある。
「こういう人が躓くと一番悪いんだ」と言っている。
ラジオでも(そういう人が)周りにいるのですごくわかると思う水谷譲。
では親鸞はどんな人になれと言っているのかというと「私は間違えました」という人が一番いいんだという。
「私は間違えました」と罪の告白をする人の前に、いわゆる仏、阿弥陀仏が登場するんだ。
阿弥陀仏は「私は間違えました」と言う人の為にじっと待っておられる、という。
だから「間違えているものになりましょうよ」という。
そこでその武田先生の主張なのだが、では、芸能人とは?
ここにきてしまう。
芸能人というのは「間違えた人」。
武田先生はそう思う。
つまり芸能人になった人は、まず誰かを裏切っている。
父を裏切り、母を裏切り、兄を裏切り、姉を裏切り。
母が晩年によく言っていたが「鉄矢はバカやけん。福岡の先生にしようと思うてわたしゃ一生懸命大学にやりました。気がついたらアレは根っからバカやけん、テレビで今、先生しよります」という。
多少、母の興奮があったのかも知れないが、でも彼女は武田先生を福岡県の先生にする為に・・・
そうしたら海援隊を作って家を出てしまって、それで一発だけ当たったのはいいが、その後は鳴かず飛ばずで大騒ぎをして「だから言わんこっちゃない」というセリフが母は喉元まで出かかった。
「喰うや喰わずになって泣き言言いやがって」という。
「ここで弱音吐いてどげんするか」ともう一回たたき出したら今度は帰ってきたら「母ちゃん、俺は映画に出る」。

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それで幸運で。
でも母に対しては武田先生は間違ったことは事実。
父親も殴りつけたかったようだ。
「お前は自分で美空ひばりになれると思うとりゃせんか」と言ったのを覚えている。
息子の鉄矢は美空ひばりになれるはずがない。
「私は間違えました」という、そこに芸能人の本質があるとすれば、「間違える」ということに関して芸能人は全力を上げよう。
「正しいことをやっていると思うなよ、芸能人」という。
「オマエは間違えるという業(ごう)を選んだんだ。もうそこをゆくしかないんだよ」という。
芸能を選んだこと自体、業を生きるということで。
恋愛も全部業。
恋愛というのはとんでもない業。
同じ女の人。
それを「あの人じゃなきゃダメ」とかと言うのだから、わがままにもほどがある。
誰でもいいというわけではないと思う水谷譲。
でも基本的には誰でもいいはず。
トンボとか蝶々は言わない。
「あの紋が気に入らない」とか「触覚が嫌いなの」とかぐずぐずぐずぐず・・・
「うるさい!」という。

話がとんでもなくなったが
「正しそうなものには気をつけろ」
それが親鸞の教えであった。
この続きはまたチャンスがありましたら。