先週はとても大きな問題を提出して。
かつてニホンザル、ゴリラ、チンパンジー、様々なサルが。
あれと同じで人間もホモ・エレクトス、ホモ・フローレシエンス、ホモ・デニソワンなどいろんな種類別があった。
それが現生人類、今の私達のみが生き残って、他はみんな死に絶えた。
では何で我々は生き残ったのか?
弱肉強食説というのがあって「喰っちゃったんじゃないか?」と。
もういっぱい説があったのだが、どれもぴったりこない。
そこでこんな実験をやった人がいるそうだ。
ここで話は一九五八年の春にさかのぼる。モスクワ大学で生物学を学ぶリュドミラ・トルートは、ドミトリー・ベリャーエフ教授の部屋のドアをノックした。動物学と遺伝学を専門とするベリャーエフは、野心的な研究を計画しており、そのための助手を探していた。(89頁)
彼らが解こうとしていたのは、どうすれば、どう猛な捕食動物をフレンドリーなペットに変えられるか、というシンプルな謎だった。−中略−家畜にはいくつか注目すべき類似点があることを指摘していた。まず、それらは野生の先祖より体が小さい、また、脳と歯も野生の祖先より小さく、多くの場合、耳は垂れ、尾はくるりと巻き上がり、−中略−生涯にわたって幼く、可愛らしく見えることだ。
これは長年ベリャーエフを悩ませてきた謎だった。なぜ家畜化された動物は、そのように見えるのだろう。(90頁)
そしてベリャーエフは、−中略−人間を怖がらない個体だけを交配させて、野生の動物を、飼いならされたペットのように変えるのだ。最初に試す動物として、ギンギツネを選んだ。(90頁)
選択交配の四世代目で、キツネはしっぽを振り始めた。(91頁)
耳は垂れ、しっぽは丸くカールし(92頁)
人間を見ると寄ってくるキツネ。
「ひと懐っこいキツネほど、ストレス・ホルモンの分泌が少なく、セロトニン(幸せホルモン)とオキシトシン(愛情ホルモン)の分泌が多いのです」(93頁)
この家畜化できたキツネというのはどういう風貌かというと愛嬌があり人懐っこい。
発生生物学の用語を使えば、幼形成熟(おとなになっても幼体の特徴を保つこと)した。簡単に言えば、子どものようになったのである。(94頁)
これはいわゆる今、女性が好む、水谷譲なんかが求めている「小顔の子」。
全体的に丸っこくて歯が小さいという。
脳は小さく、頭蓋骨は小さくて、いわゆる小顔で、耳は垂れ、尾も丸く、共通項があるのだが家畜化された生き物は目に愛嬌があって、目がパッチリしているという。
沖縄の安室ちゃん。
安室ちゃんがいわゆる進化系。
「家畜化」と言う言葉を悪い意味にとらないでください。
これは人懐っこくて雰囲気全体に子供の特徴を持っている。
それがいわゆる家畜化には必要で
ドミトリー・ベリャーエフは、人間は飼いならされた類人猿だと言っているのだ。−中略−人間の進化は、「フレンドリーな人ほど生き残りやすい」というルールの上に成り立っていた、というのが彼の主張だ。(93頁)
今の女性アイドルの方はそういう感じが多いと思う水谷譲。
みんな人懐っこい。
それで様々な人間の種類がいる時に、現生人類はこの「人懐っこそうな顔」というのが生き残りの原因になったのではないか?
これがまさしく希望の人類史。
つまり「愛される」ということが生き残りの戦略に成り得るという。
我々は「少年の顔をした大人」に弱いし、今もそうだが「少女の顔をした成熟した女性」に弱い。
武田先生も成人週刊誌に連載を持っているから言うが、若いお嬢さん方の魅力的な水着とか半裸のカラーグラビア。
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あれは「一体何かな?」と思ったらそれ。
幼形成熟。
肉体そのものは40、50の女性を思わせつつ、顔は少女の風貌というのに男性は弱い。
ここで一人の男、つまり幼形成熟のネオテニーの見本のような男が頭の中に思い浮かぶ。
アメリカの野球界で最もギャラの高い人(大谷翔平)。
あれは大人ではない。
(顔は)少年。
あの彼が、あのゴツいメジャーリーグの世界で、敵地からも好かれるような人気選手になったのは幼形成熟、東洋系の少年が持つ純真さが30(歳)の彼の顔にあるから。
そう思うと彼のそのいわゆる天文学的な800億円とかいうギャランティもわからないでもないし、メジャーリーグの選手を見るとゴツい。
恐ろしい。
はっきりいって大谷選手は怖くない。
しかも選んだ奥様がいい。
あれはもうバスケット少女。
あの二人は誰も何も言えないと思う水谷譲。
大谷の周りには金髪のいい女とかもいただろうに、そっちに行かなくて彼女を射止めたというのはまるで少年と少女のような。
しかも耳の垂れた犬を飼っているという。
これがまた「よく言うことを聞くんだ」という。
そうやって考えると幼形成熟説はまんざらでもない。
「我々は人懐っこい風貌をしているから生き残ったのではないだろうか?」という。
私達は集団で暮らす命、そういう命をデザインされている生き物。
そのためには自分の集団を愛するホルモン、オキシトシンとセロトニン、「愛情と幸せのホルモン」を体内の中にたくさん蓄えている。
他にいろんな人類もいただろうが、私達、現生人類が最もたくさんオキシトシンとセロトニンを与えられた種だったのではないだろうか。
最大の欠点は何か?
これはこの本の著者が言っている実に鋭いところだが。
このオキシトシンとセロトニンが多ければ多いほど愛情と幸せをきちんと知っているという、そいういうホルモンが多ければ多いほど他の集団に対して残酷になる。
やはり自分とこの集団がかわいらしいから。
しかしルトガーというこの著者は、希望を説く。
『暴力の人類史』である。(110頁)
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二一か所の遺跡で見つかった骨の中で、暴力による死の兆候を示すものの比率は? 一五パーセント。今も狩猟採取の生活を続ける八つの部族における暴力による死の比率は? 一四パーセント。二つの大戦を含む二〇世紀全体での暴力による死の比率は? 三パーセント。現在のその比率は?
一パーセント。(111頁)
確実に減っている。
希望はある。
番組冒頭からこんなことを言うのも何だが、もし通学途中でこの番組を聞いている若い人がいたら、短い時間だから今日は最後まで聞いていってね。
そんな話をしたいと思う。
この本の著者ルトガーさん、オランダ人の方。
人間について徹底して調べている。
この人は戦場に行って兵士にインタビューしている。
一九四三年一一月二二日の夜半、太平洋のギルバート諸島のブタリタリ環礁−中略−では、−中略−米軍と日本軍との戦闘が始まった。米軍の攻撃は計画通りに進んでいたが、奇妙なことが起きた。
大佐で歴史家のサミュエル・マーシャルは、陸軍公認の戦史家として従軍していた。(112頁)
日が落ちると日本軍が奇襲攻撃を仕掛けてきた。−中略−日本軍は人数こそ少なかったが、米軍の戦列を崩すことにほぼ成功した。
翌日、マーシャルは、何が悪かったのかと考えた。(112頁)
兵士全員を集めて、グループに分け、自由に話すことを求めたのである。−中略−こうしてマーシャルが知ったのは、驚くべき事実だった。
昨晩、ほとんどの兵士は一度も発砲していなかったのだ。(112〜113頁)
アメリカ軍で上官から「撃て!」と命令されて真っ暗闇の中でそういう命令が下ったのだが、突っ込んでくる日本兵に向かって銃を撃った人がいなかった。
これ。
マーシャル大佐は、最初は太平洋戦線で、次にヨーロッパの戦場で、兵士たちとのグループ・インタビューを重ねるにつれて、戦場で銃を撃ったことのある兵士は全体の一五〜二五パーセントしかいないことを知った。−中略−「彼らが撃ったのは、わたしや他の上官が見ている時だけだった」(113頁)
理由は一つ。
普段は意識していないが、人を殺すことに抵抗があり、自分の意志で人を殺そうとはしない」(114頁)
これは今もウクライナの戦線あたりではある話ではないか。
このマーシャルさんの説はアメリカ国防省が躍起になって否定したそうだ。
「そんなことがあるか!」
ところがマーシャルさんが言いだすと他の大佐や中佐も加わって「俺んとこもそうなんだよ」と言い始めた。
戦場に於ける銃撃戦は凄い。
何であの撃ち合うイメージなのか?
これをルトガーさんは「ハリウッド映画の影響だ」という。
確かに今、思い浮かぶ光景というのは映画の光景だから、リアルな戦場は見ていないからわからないと思う水谷譲。
ニュースでも「ウクライナ戦争を撮影しろ」と言ったら大砲を撃っているところを撮りに行く。
ところが意外と静かで撃ち合わないという。
戦場に於ける銃撃戦のイメージは半分ぐらいハリウッド映画によって作られたイメージではないだろうか?
この後、若い人、聞いて。
学校に行ったら友達に話して。
ハリウッド映画によって作り上げられた暴力のイメージと現実の暴力は、ポルノと現実のセックスが違うのと同じくらい違う。(119頁)
これはごめんなさい。
ハッとした。
アダルトビデオとか見ると信じてしまう。
十代の時「はっはぁ〜!こうなってんのか」とか思った。
それをお手本にする方も多いんじゃないかと思う水谷譲。
それはそんなふうに思う。
このルトガーさんがはっきりおっしゃっているのは「戦場に於ける銃撃戦とポルノ映画のセックスシーンは現実には殆ど無い」。
それは長い人生を振り返って、あれは無い。
それをやはり十代の時は信じた。
「はっはぁ〜!」「あそことあそこを責めるのか」という。
こういうことで「人類の本能、殺人の本能とか、性の本能とかというのもメディアの誇張が入ってますよ」という。
ルトガーはそのことをメディアリテラシーというのか、メディアを読む力で持っておかないとダメで、若い諸君に言いたいのは「アダルトビデオなんかで見かけるシーンは君の人生に殆ど起きません。そのことを覚えておこう」。
人類というのは本当に面白いもので「強さ」「賢さ」「狡さ」とかいっぱい人類の特徴が。
「それゆえに生き残った」と言うが、人類史の中でルトガーが確認したのは「人類が生き残ったのは人懐っこいから」。
「人懐っこい」というはどういうことか?
これは若者、聞いてくれよ。
これはルトガーが叫んでいることだが、それは「協力します」と顔に書いてある人が「人懐っこい」。
「何に関しても協力しますよ」という顔をした子。
今、我々に要求されていることはこういうことで、この間も深夜の討論会で「トランプ外交に石破で大丈夫か」というのを激論するのでおっしゃっていたが、武田先生は石破さんの中に愛嬌を感じる。
あの人の微笑みは何だか石仏みたいな笑顔でいい。
「石仏」というのも何だが。
頑張って欲しい。
人の容貌はけなすより褒めてあげよう。
人間の中にあるもので希望を見つけようという。
仮に文明が始まってから今日までの年月を一日に置き換えてみれば、二三時四五分まで、人々は実に惨めな暮らしを送っていた。(150頁)
(番組では11時55分と言っているが、どこから出てきた数字なのかは不明)
その中で人類はとてつもない残酷なこともやったワケで、アウシュビッツ、ホロコースト、そして専制者による悲劇が続いていて。
だから人間というのは天使ではない。
「天使ではないから悪魔なんだ」という方もおられる。
こんな実験。
科学はいくつもの悪の証拠を実験で提出している。
一九七一年八月−中略−その日の午後、若い犯罪者たち(本当は無実の学生たち)は、スタンフォード大学の四二〇号棟の石の階段を降りて、心理学部の地下室へ向かった。「スタンフォード郡監獄」という表示が彼らを迎える。階段の下で彼らを待っていたのは、九人の学生からなる別の集団で、全員が看守の制服を着て、−中略−ほんの数日で、スタンフォード監獄実験は制御不能に陥るのだ。(183頁)
これは「人間の心の中に悪魔があるからだ」という結論。
スタンフォード監獄実験よりさらに有名な心理学実験があり、−中略−スタンレー・ミルグラムだ。−中略−一般人五〇〇人を募集する、と書かれていた。−中略−被験者は二人一組になり、くじを引いて、一人は「先生」役、もう一人は「生徒」役になる。先生は大きな装置の前に座るよう指示され、それは電気ショック発生器だと教わる。−中略−生徒は隣の部屋で椅子に縛られており、声だけが先生に聞こえるようになっている。こうして記憶テストが始まるが、生徒が答えを間違えると、先生は研究スタッフの指示通りにスイッチを押して、生徒に電気ショックを与えなければならない。(204〜205頁)
電気ショックは一五ボルトという弱い電圧から始まる。(205頁)
その裁量は先生に全て委ねられていて、450ボルトまでの威力があるそうで、450というのは命の危険があるから相当不味い。
被験者の六五パーセントが電圧を上げ、ついには最大となる四五〇ボルトの電気ショックを生徒に与えたのだ。−中略−見知らぬ人を感電死させてもかまわないと思ったのである。(205〜206頁)
ミルグラムは−中略−最初からこの研究を、ホロコーストの究極の説明として発表した。−中略−人間は命令に無批判に従う動物だ、と彼は言う。(206頁)
「ミルグラムの実験」というので、これは人間の残酷さを示す実験として非常に有名で。
これが面白い。
2017年のことだが、著者ルトガーはこの実験が信じられなかった。
ルトガーはしつこい。
実験に参加した500人を探し求めて詳しく実験の中身を聞いたそうだ。
この人は人間のいわゆる希望に対して執念の人。
このミルグラムの電気ショック心理実験は今でも取り上げられて、人間の心理の奥底に潜む残酷さの証明実験に使われるのだが、何と驚くなかれミルグラムはこの実験を始める前に台本があったそうだ。
そして電気は入っていなかった。
先生役で死を意味する450ボルト以上上げた人も500人の中にいた。
(最大が450ボルトなので、それ以上上げることはできないと思われる)
ところがこれは横にいたミルグラムが「上げれば。上げれば」と指示したという。
電流が本当は入っていないということを直感した人もいたし、直感できなかった人もいるのだが、直感できなかった人は「ミルグラムさんからそう言われたから上げた」。
やらせみたいなことだと思う水谷譲。
そしてプラス450まで上げた人はギャラを貰ってすぐに帰れた。
それだったら武田先生だってすぐ450にする。
ギャラが何ドルか(一時間につき4ドル)貰えるワケで。
この450を一発で上げてさっさと帰る人もいたというので、人間の残酷さとは全く関係のない実験がミルグラムの電圧実験。
スタンフォード実験も追試者を集めると、こういう結果にしたいという旨が博士から伝えられていた。
こういうのを考えると人間の残酷さというのを、すぐにナチスを持ち出して例えて考えるのはあまりよくないぜ、と。
そしてこのルトガーはさらにナチのアイヒマンの裁判記録を丁寧に調べる。
元ナチス親衛隊中佐(218頁)
大量虐殺。
アイヒマンとかいう人は600万人ぐらい殺しているワケで
アドルフ・ヒトラーか上官の誰かからの明確な指示がなければ、私は何もしなかった」と、アイヒマンは法廷で証言した。−中略−同じ嘘を、後に無数のナチス党員が繰り返すことになる。「わたしはただ命令に従っただけだ」と。(219頁)
公式の命令はめったに出されなかったので、ヒトラーの信奉者たちは自らの創造性に頼らざるを得なかった。彼らはただ指導者に従うのではなく、総統の精神に沿う行動をして「ヒトラーに近づこうと努めた」(220頁)
ミルグラムの被験者と同じく、自分は善を行っていると確信していたので、悪を行ったのだ。(219頁)
この人(著者のルトガー)は徹底して個別の問題を扱っている。
事実というものを見つめ直すと違うものがどんどん浮き出てくるぞ、という。
その事件の一つ一つを書いてあるものだから、ページ数がもの凄く必要。
一九六四年三月一三日、午前三時一五分。キャサリン・スーザン・ジェノヴィーズは−中略−オースティン・ストリートの、地下鉄の駅にほど近いパーキングに車を停めた。−中略−
誰もがキティと呼ぶ彼女は、−中略−二八歳、−中略−アパートへ急いで戻るところだった。(230頁)
三時一九分、夜の街に叫び声が響いた。−中略−
暴漢はいったん姿を消したが、また戻ってきた。男は再びキティを刺した。−中略−
誰も出てこない。−中略−近隣の数十人は、−中略−窓から眺めるだけだ。−中略−
男が再度、戻ってきた。キティは自分のアパートの建物のすぐ内側にある階段の下に横たわっていた。−中略−
男はキティを何度も刺した。
三時五〇分、警察署に最初の通報があった。−中略−二分以内に警官が到着したが、もはや手遅れだった。(230〜2301頁)
三月二七日、−中略−ニューヨーク・タイムズ紙の一面には「殺人を目撃した三七人は警察を呼ばなかった」の見出しが掲げられた。記事はこう始まる。「クイーンズ地区キューガーデンの遵法精神に富む立派な市民三八人は、三〇分以上にわたって、殺人犯が女性を三度襲うのを見ていた」。そして記事は、キティは今も生きていたかも知れない、と語る。刑事の一人が言うように、「通報の電話がありさえすれば」。(231頁)
国内のメディアはニューヨーク・タイムズをきっかけとして目撃者38人を罵倒する。
牧師は、アメリカ社会は「イエスを十字架にかけた人々と同じくらい病んでいる」と語った。(232頁)
日本、イランを含む世界各国で、キティの死は大々的に報じられた。ソ連の新聞、イズベスチヤはこの事件は資本主義の「ジャングルにおけるモラルの欠如」の証拠だと記した。(232頁)
この事件を説明する時に最も応用されたのが、昨日も言ったスタンフォード大学の監獄実験とか電気ショック事件だそうだ。
「ほら、見てごらん。人間の心なんざ、悪なんだよ」という。
この実験がこの事件を挟んで、世界中で有名になったという。
著者は凄いことにこのメディアの報道した悪についてもう一度自分で調べ直している。
この著者は凄い。
社会心理学者の人達と一緒にこの事件をもう一度調べ直すと違う側面が見えてくる。
窓を開いた住人達。
その駐車場が見下ろせた人達の38人は全員その物音と気配、ただならぬ様子を「これは不味いな」と思って。
だから誰かが警察に電話をすればよかったのだが、何と38人の人が同時に「誰かが電話してる」と思ってしまった。
もの凄い悲劇なのだが、これがただ一人の人が聞いていたら直ぐに警察に電話している。
しかし38人が窓を開けて見下ろしているので、「誰かが電話しているハズだ」と。
それで、38人が誰一人とも電話しなかったという事実を作り出している。
彼女の夫は警察に通報しようとしたが、彼女は夫を引き留めた。「通報の電話はもう三〇本以上、かかっているはずよ」と言って。(235頁)
その奥さんがさめざめと泣いて「ああ・・・しとけばよかった」と言う。
(という話は本の中には無い)
被験者は大学生で、閉めきった部屋に一人で座り、同年代の学生数人とインターコムで学生生活についておしゃべりするよう指示される。−中略−まもなく、誰かがうめき始める。−中略−この叫びを聞いたのは自分だけだと思った被験者は、廊下に駆け出した。−中略−しかし、最初に、近くの部屋に他に五人の学生がいると説明され、その五人も叫び声を聞いていると思い込んだ被験者では、六二パーセントしか行動を起こさなかった。これが傍観者効果だ。(234〜235頁)
それは何かというと「あんな大きな声だもの、誰かが行っている」。
これは人間性とは全く関係がなく、著者ルトガーは「隣人を信じられる」と主張している。
ホッブスの人間闘争進化論、ダーウィンの自然淘汰、ドーキンスの利己的遺伝子、アダム・スミスのホモ・エコノミクス「カネのことを考えることで生き残った」と、人間の性善説を激しく否定する理論とされているけれども、人間は経済を離れて、利己的遺伝子を離れて、弱肉強食を離れて、闘争進化論を離れて性善の「善」を持っている。
「そう信じようではありませんか」とルトガーは説く。
これが上巻。
下巻の方はまた折を見て、来週はまた別のネタで。