(今回は
以前放送された「希望の歴史」の続きの内容となる。前回も今回もタイトルは「希望の歴史」なので、それぞれのネタ本に従って「上巻」「下巻」としておく)
上巻をお送りしたばっかりという感じだが「希望の歴史」下巻の方に入りたいと思う。
「これは善だ」「これは悪だ」
「我々は善悪で行動を決定しているが、ちょっとその考え方、あんまり急ぐのやめた方がいいぜ」というルトガー・ブレグマンさんがお書きになった「希望の歴史」、文藝春秋社刊。

(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
歴史の中で「悪だ」と思われていることがあるが、よく見つめると実はそれが「善」だったりするという。
文藝春秋はいい本を出す。
「善悪はそう簡単に決められるものではない」というご本。
ルトガーさん。
アメリカの研究者。
下巻の方はというと「権力はいかにして腐敗するか」。
ここから始まる。
(下巻は「共感はいかにして人の目を塞ぐか」から始まり、「権力はいかにして腐敗するか」は二番目)
この本はもの凄く丁寧で膨大。
だから申し訳ありませんが、皆さんにご報告というか、「(今朝の)三枚におろし」で語るのは武田先生の興味のあるところだけを切り取って出しているので、どうぞ御容赦のほどよろしくお願いいたします。
これは下巻の40ページから続く章だったのだが「権力はいかに(して)腐敗するか」「権力というのは非常に腐敗しやすいものなのだ」と。
一五一三年の冬、一人の落ちぶれた官吏が、パブで長い夜を過ごした後、小論の執筆に取り掛かった。(40頁)
「こうやりゃ間違いないんだ。バカ野郎!」「てやんでぇ」というようなもの。
何で江戸っ子なのかがわからない水谷譲。
後にその官吏、すなわちマキャヴェッリは、その小論を『君主論』と名づけた。(40頁)
彼は次のように記している。権力を得たければ、つかみとらなければならない。図太くなれ。原則やモラルに縛られる必要はない。(41頁)
この1513年の前後の頃に日本では、ちょっと暴君と見間違えるような織田信長が生まれいてる。
それで、戦国時代がこれでようやく終わる為の始まりが信長から始まるという。
「君主論」というのはそういう意味では見事に世界情勢を言い当てたという一冊になっているワケで、「善悪には縛られない。権謀術数に長け、目的の為に手段を選ばない。そういう君主がいいんだ」という。
ある意味ではちょっと皮肉な言い方だが、現代がまさしくそういう時代で。
暴君と言えるような人が国のまとまりを作るという。
権力を手に入れて維持するには、厚かましく嘘をつき、人を騙さなければならないのだろうか。(41頁)
「ちょっとした気まぐれ」とマキャヴェッリが呼ぶこの小論は後に、西洋史上、最も影響力を持つ著作の一つになる。『君主論』は、皇帝カール五世、ルイ一四世、スターリン書記長のベッドサイドに置かれた。ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクも、チャーチルもムッソリーニもヒトラーも同書を持っていた。ワーテルローで敗北を喫した直後のナポレオンの馬車の中にもあった。(41頁)
この系譜はザーッと今も習近平、トランプさんに続くワケで。
悪の使い方こそが「マキャヴェリズム」と呼ばれるもので、今も権力はこれを目指している。
だから「君主論」というのはプーチンさんなんかは熱心に読んでいるのだろう。
「なるほど〜」とかという感じで勉強なさっているのだろう。
ケルトナーは、人が権力を得るとどうなるかについても研究した。−中略−
「クッキーモンスター研究」だ。『セサミストリート』に登場する毛むくじゃらの青いマペット、クッキーモンスターにちなんでの命名である。−中略−
被験者を三人ずつのグループにして、ランダムに選んだ一人をリーダーに指名した。そして全員を退屈な作業に取り組ませた。まもなく実験助手が、「皆さんでどうぞ」と、五枚のクッキーを乗せた皿を持ってきた。どのグループも最後の一枚を皿に残した(マナーの黄金律だ)。しかし、ほぼすべてのグループで四枚目のクッキーはリーダーが食べた。さらに、ケルトナーが指導する博士課程の学生は、リーダーたちの食べ方がだらしないことに気づいた。−中略−
これらの「クッキーモンスター」たちは、往々にして口を開いたまま、大きな音を立てて食べ、シャツにこぼすことも多かった。(42〜43頁)

(番組では四人グループということになっているが、本によると上記のように三人)
自分がリーダーに選ばれたら「最後の一枚はみんなでわけようね」とならないのかと思う水谷譲。
クッキーモンスター実験ではならなかった。
かくのごとく人間の奥底に眠っている「特別な人間になった」という思いが高圧的な上から目線の態度になってしまうという。
「こういうのが人間の実態にあるんだぞ」とルトガーが教えてくれる。
実験は更に続く。
このあたりから水谷譲には興味を持ってもらおうと思うが
次なる、権力というものに乗っかった人間の心理の変化。
これはアメリカの方が書いた本だが
ケルトナーらのチームが行った別の研究では、高級車の心理的影響を調べた。第一グループの被験者は、古びた三菱車かフォード・ピント(小型車)の運転を課せられた。横断歩道を渡ろうとする歩行者を見かけると、彼らは皆、法に従って一時停止した。
しかし第二グループの被験者は、素敵なメルセデスを与えられた。今回、四五パーセントの人は、歩行者のために一時停止しなかった。そして車が高価になればなるほど、運転マナーは乱暴になった。(43〜44頁)
ここからルトガーさんの面白いところ。
それで「世界の権力者達の行動と表情を観察しよう」という。
様々な政治家が世界にはおられる。
政治家の中で強い権力を持っている人。
プーチンさん、トランプさん、習近平さん。
そのあたりを皆さん、イメージしてください。
権力者はあまりミラーリングをしない。(44頁)
共感において重要な役割を果たす精神プロセス「ミラーリング」(他者の行動や態度を無意識に模倣すること)(44頁)
誰かが笑うと思わず笑っている。
誰かがあくびをするとあくびに誘われてしまう。
こういうふうにして「集団との繋がり」というものが表情に出るという。
これが絶対的な権力者になればなるほど殆ど出ない。
強い権力を持っている人は場の雰囲気で笑ったりしない。
その表情は他者に対して否定的。
それが権力者の特徴である。
そういえばやはり読みにくい。
トランプさんとか。
「腹の中では何を考えてらっしゃるんだろうな」的な表情だと思う水谷譲。
世界の政治家の中で最も表情が少ないのは習近平さんだろう。
それからトランプさんは、もの凄く人々が笑顔で拍手を送っているのに、彼のみが怒った顔で「アメリカを偉大にする」とか。
ましてプーチンさんはあくびが移るような顔をしていない。
そんなふうにして考えると、このルトガーさんの指摘がわかるような気がする。
権力の無い人はどういうことかというと、もの凄く公平を好む。
だから食べ物が手に入ると「分けようとする」という本能がある。
ところが権力を持つと変わる。
わずか三歳の子どもでも、ケーキを平等に分けようとするし(49頁)
これは人間の特徴で言われてみれば思い当たる。
類人猿、チンパンジー等々がそうだが、人間に一番近いと言われるボノボというサルには見られる傾向だが「食事の奪い合いをしない」という。
チンパンジーなんか食べ物の取り合いをする。
ところが人間はしない。
「人が喰ってるもん横から取るヤツ」というのはよっぽどのこと。
それはマナーとして守っているワケで。
食事の奪い合いをしないということと、それからズバリ言うと「食事をしている人に声をかけるのも失礼だ」というマナーを持っている。
公平に分け合うこと、それが人の本能である。
本能に根差した感覚に反した時、「マナーに違反したな」と思った時は口ごもったり、人間の最大の特徴は赤面する。
赤面というのがもの凄く人間的な行為として大事。
だから漢字でも意味深。
「耳」の横に「心」を書いて「恥」だから。
ほっぺたを赤くする「恥じ入る」というのは人間の最大の特徴。
権力を握る人々にも、同じ傾向がみられる。−中略−
つまり彼らは赤面しないのだ。(44頁)
言われてみれば赤面している権力者は見たことがない水谷譲。
トランプさん、プーチンさん。
あの人は屁をこいても全然恥ずかしそうな顔をしないような、そんな感じが。
ごめんなさいね、プーチンさん。
例が悪くて。
そういう恥じらいみたいなもの。
恥じらいがあるところが人間らしさなのだが、権力を手にすると恥じらいを消してしまうという。
この奥の方に眠る権力とは何か?
ルトガーさんのこれは文書にあった言葉だが興味深いのは「専制独裁者は赤面しない」「彼らは羞恥心が無いことで生き残って来た例外の人々である」。
診断可能な社会病質者は、一般の人々では一パーセントしかいない(59頁)
だから「赤面しない」というのは独裁者になるかどうかのテストになるという。
赤面した瞬間にもうその人の偉さは無くなってしまうから、厚顔無恥でいてくれないとと思う水谷譲。
高校の友だちに「急所を攻めるのはやめてください」と言ったヤツがいた。
「オマエみたいなバカを『厚顔無恥』と言うったい。わかっとっとかイトウ」「先生!急所を攻めるのはやめてください」
イトウ君はあの時、顔が真っ赤だった。
睾丸を鞭で攻めているのが想像できたのだろう。
ここからルトガーさんの逆説に満ち満ちた希望の見つけ方が始まる。
V.E.フランクルさん。
この方は文明的な人。
アウシュビッツまで行ったという。
この方が本の中でこういうことを掲げてある。
「それゆえわたしたちはある意味、理想主義者でなければならないが、それは、そうなって初めて、真の現実主義者になれるからだ」
ヴィクトール・フランクル(72頁)
「理想主義者でなければ現実主義者にはなれないよ」こうおっしゃっている。
一体に人を疑うことと人を信じること、どちらが人生で役に立つでだろうか?
「人を信じること」だと思う水谷譲。
V.E.フランクルさんは、人生をそう喝破なさった。
政治家にも同じことを求められるという。
政治を批判する人も「人を信じる」ということで現実を知らなければならない。
ルトガーさんはそれをわかりやすく、こんなふうに説明する。
友情を取り上げよう。もしあなたがある人を疑っていたら、その人に嫌われるような振る舞いをするはずだ。友情や愛や忠誠心といったものは、わたしたちがそれらを信じる「からこそ」真実になる。ジェイムズは、信じていたことが後に誤りだとわかることもある、としながらも、「希望の末の欺瞞」の方が「恐れの末の欺瞞」より好ましい、と主張した。(75頁)
現実を変える力となるのは疑うことではない。
信じることなんだ。
これはちょっと「武田が明るいこと言っとるな」とお思いの方もいらっしゃるだろうし、武田先生もなかなかそこまでの達観はできないが、最近YouTubeなんかで人の悪口が凄い。
あれは気が滅入ってくる。
「ある組織体の裏側はこうなっている」とか、もの凄い暗いことが書いてある。
危険な言葉が飛び交って。
「こんなこと書いていいのかな」というようなことが書いてある。
でもそのYouTubeから何も力は出てこない。
新学期が始まった時、スプルース小学校の教師たちは、ローゼンタール博士という高名な科学者が、自校の児童を対象として知能テストを行うことを知らされた。この「習得度想定テスト」は、今後一年で最も成績が伸びる児童を割り出すためのテストだと説明された。
実を言うとそれはごく普通の知能テストで(77頁)
全部偽物。
そんなのわかるワケがない。
そういうテストをやったそうだ。
「一年後、この子が伸びるかそれとも成績が落ちていくかを今ジャッジできるという知能テストです」ということでやった。
その心理学者がその結果を教師に渡した。
教師は悪い人ではないのだろう。
教師たちは「成績が伸びる」と言われた子どもたちに、より多くの関心を寄せ、より多くの励ましと称賛を与え、結果として子どもが自分をどう見るかを変えた。−中略−
知能指数は、一年で平均二七ポイントも上昇した。(78頁)
反対に「あんたは下がる」と言った子は本当に下がった。
ローゼンタールは自分の発見を「ピグマリオン効果」と名づけた。−中略−
わたしたちが抱く信念は、真実であっても想像であっても、同様に命が吹き込まれ、世界に変化をもたらす。(78頁)
彼は二〇人の孤児を二つのグループに分け、一方のグループには、きみたちは上手にはっきり話すことができる、と語り、もう一方のグループには、きみたちは将来どもるようになる、と語った。−中略−
数人の孤児に生涯続く発音障害を残した。(79〜80頁)
ピグマリオン効果の裏面はゴーレム効果と呼ばれる。(79頁)
今の社会はこのゴーレム効果を試す人が多くて、とにかく一回後ろから突き飛ばして落としてみるという感じ。
まあそういうのが好きな人がいるのだろうが、突き落とすのが好きな人はどんな人生になってしまうのだろう?
武田先生がどっちを信じるかというと、ごめんなさいね皆さん。
ピグマリオン効果を信じる。
何でかというと、実は武田先生にも確かにピグマリオン効果があった。。
ピグマリオン効果について我が人生を振り返って、武田先生はまさしくこれだった
27歳の時に本当に三流のフォークシンガーで喰い詰め直前までいっていたのに、一本の映画「幸福の黄色いハンカチ」に抜擢されて武田先生は俳優の道を歩き出す。

そこで凄い人、高倉健さんとか渥美清さんに会って。
初めて役者の世界を、芝居の世界を見るワケだが。
何よりも最大の出来事は山田洋二監督という演出家に出会ったこと。
本当に忘れないが、この監督さんから「ここが上手くいかないんだよ。君ならどうするね?」と、そう依頼を受けて、「自分がみっともない男で、強くなりたいから柔道をやって、足が短くなった」というそんな話を映画の中でアドリブでやったら、そのシーンが終わった後だが「君にはセリフをつくる不思議な才能がある」。
これは生涯忘れない。
親もそんなことを一回も言ったことがなかった。
親も気づいてくれないのに人様から、しかも大変な映画の監督さんから「セリフをつくる能力がある」と褒められたその一言がピグマリオン効果になって。
それから5〜6年後には台本を書いていたから。
それでテレビのレギュラーが入ってきたら、頼まれもしないのに40分アドリブでやったり。
「オマエさ、極端だろ」というようなものだが、人間はきっとなる。
それはいい結果だと思う水谷譲。
だからこのルトガーさんあたりの本を読んでいると、そのへんの自分が交錯していく。
だからピグマリオン効果はどこかで信じている。
激しく否定する人よりも、とりあえず褒めてくれた人の言葉をいつまでも覚えているタイプというのは。
褒めて伸びるタイプだと思う水谷譲。
それから親戚のおばさんから言われた「鉄矢は大器晩成やけん」というのが。
「大器晩成」というのが大好きだった。
もう頭の悪い子の唯一の希望「大器晩成」。
だから龍馬が好きになった。
坂本龍馬は子供の時「知的な才能が無い」と。
「坂本のよばいたれ」とか、「おねしょばっかりしている」とか「愚鈍」とかさんざん罵倒される。
「常識が無い」とか。
それが小学校6年ぐらいから剣道場に通い始めたら人変わりしたという。
それで17〜18(歳)ぐらいになると剣の才能が芽生えてきて、いっぱしの男としての風格を持つようになったという。
その愚鈍の部分がもの凄く惹き付けられた。
「俺も龍馬になるぞ」という。
ピグマリオン効果というのは確かにあるような気がする。
第13章「内なるモチベーションの力」。
二〇世紀の二つの主要なイデオロギーである資本主義と共産主義が、この人間観を共有していたことだ。資本主義者も共産主義者も、人を行動させるには二つの方法しかない、それはニンジンと棍棒だ、と語る。資本主義者がニンジン(つまり、金)に頼る一方、共産主義者は主に棍棒(つまり、罰)に頼った。(88頁)
「外因性インセンティブ・バイアス」と呼ぶ。つまり、人にやる気を起こさせるには報酬を与えるしかないと、わたしたちは決めつけているのだ。(88頁)
資本主義の基盤になっているのは、この冷笑的な人間観だ。(88頁)
それからこの間テレビで仕入れた言葉だが、最近の若い人はあんなことを言う。
政治家が人民を操るコツ「サーカスとパン」。
サーカスと喰い物を与えていると人民はついてくるという。
それを「サーカスとパン」というそうだ。
この国の全ての政党は同じことしか言わない。
「あなたの時給と休憩時間を増やそう」これが現代の政治家の主張である、と。
そしてわたしたちは幾度となく、他の人は自分のことしか考えていないと決めつける。つまり、目の前に報酬がなければ、人はだらだら過ごすのを好む、と思い込んでいるのだ。(93頁)
それが政治家の人間観であるという。
しかしこれはルトガー曰く、人間をつかみそこなってるんじゃないか?
私達には人間について新しいリアリズムを今、書き直す時なんだ。
そんなもので人間は動いてないよ。
高い収入のニンジンがなければ人は上手くいかない。
そんなふうに思っているけれども、そうか?
上手くいってるとこだってあるぞ。
我々が今、新しい人間観をつかむ為に、「人間はこういうものだ」と見つける為に必要なものは収入が十分でないにも関わらずやりたくなるという仕事をやっている人。
そういう人を見つめることなんだ。
そこに新しい人間のリアリズムがある。
これはハッとする。
まずは子供の世界を見てみよう。
子供にとって教育される場所の学校に待っているのは監視と成績の順位である。
この二つが子供達にとって飴か鞭かということになっている。
しかし急いで大人になること、それがいいことのように言っているがそんなことはないぞ。
しっかり遊ばないといい大人にならない。
まずはしっかり遊ぼう。
遊ぶとは一体どういうことか?
ここからまたルトガーが細かに入っていく。
興味ある方、明日も聞いてね
「しっかり子供は遊ばないと立派な子供にはならないぞ」「遊びが子供を作ってゆくんだ」という。
これは思い当たる
おっしゃる通りだと思う水谷譲。
「遊び」とは何かというとルールがある
それからそのルールを当たり前だが守ること。
基本的に遊びのルールは自分の内側に眠っている勇気を奮い起し、仲間達に親切で結び合い、違反には正直に告白するという。
これは前にもお話した少年マガジンのルール。
「鉄腕アトム」にしろ「ジャングル大帝」にしろ「鉄人28号」にしろ、皆、この少年の遊びのルールを守った。
その遊びのルールとは「勇気」「正直」「親切」。
この三つを守って遊ぶという。
だから我々の少年時代のヒーローは勇気に溢れ、正直で親切という。
「タイガーマスク」とかそう。
一番最後はみなしごの子達につくして、最後は死んでゆく。
かわいそうに。
交通事故で死んでゆくのだが、タイガーマスクであることを隠す為に彼はマスクを捨てる。
そして別の人間として死んでいき、「タイガーはどこかで生きている」というレジェンドを残すという。
そういうラスト。
最後は交通事故で死ぬ。
その時に薄れゆく意識の中で胸ポケットに入っているタイガーのマスクをドブ川に捨てる。
そうすると「伊達(直人)」で死んでいける。
タイガーは生き残るという。
これは泣ける。
初めてニュースで聞いた時、武田先生は泣いてしまった。
みなしごの方ばかりが集団で暮らしている施設の前にランドセルが置いてあって「タイガーマスクより」と書いてある。
(
ランドセル寄付の「タイガーマスク」張本人が語る...「子供時代は偏見にさらされていた」(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース)
たまらない。
つまり「勇気」「正直」「親切」。
これが遊びの徳目だったが、遊びもどんどん広がって守るべき徳目も変わってきて少年ジャンプの徳目「友情」「努力」「勝利」。
これが少年ヒーローの目指すべき徳目になる。
だからこの「友情」「努力」「勝利」で「鬼滅の刃」「ワンピース」「進撃の巨人」「呪術回戦」等々のストーリーが展開していく。
「スラムダンク」とかみんなそう。
集団劇。
「友情」「努力」「勝利」
これを子供達は体験しないとダメなんだ。
だから読み間違えてしまって悪い方につるんだりなんかしてしまって。
闇バイトなんか友達と一緒に参加したりなんかして。
「ルールをしっかり守る」という、これが遊びにとって大事なんだ、という。
武田先生はまだしつこくゴルフなんかやっているのだが、遊び飽きない爺さん達が朝早く打ちっぱなしに行くと同じぐらいの年齢の人が、舌打ちをしながら練習をしている。
まだゴルフ場から魂が帰ってこない。
ゴルフで試されるのもやはり「勇気」「正直」「親切」。
あれは嘘をつくと面白くもなんともない。
一打ごまかしたりなんかすると。
ルールを一本通さないと遊びは面白くない。
「なんでもやっていい遊び」というのは面白くない。
そうやって考えていくと子供にとって「遊ぶ」ということがどれほど大人になる為のよい勉強か、ということ。
その例としてルトガーはいじめを例に挙げている。
「いじめは同じ場所、同じ条件で発生する歪んだ狂気である」と。
だいたい同じような場所、条件でいじめが発生するそうだ。
・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。
・すべての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。−中略−
・権威者に課される、明確で形式張ったルールのシステムがある。(117頁)
こういう条件が続くといじめが発生するそうだ。
このような場所は日本の社会のどこにでもある。
まずは「学校」
その究極の例は刑務所で、そこにいじめがはびこっている。−中略−
老人ホームなど他の場所でも見られる。(117頁)
ではいじめの場所・条件を突き崩す為に何をすればよいか。
これが実に簡単で、もう一度泥んこになって遊ぶ子供と同じ環境になればいいんだ、と。
自由を与え、ある年代と様々な能力を持つ子供達がそこに混じり、そしてしっかりしたコーチとプレーリーダーが支援する場所。
そこで子供達はよく学ぶという。
これはやはりそのルールのしっかりした「遊び」とその場所、そこで子供は最もよく学ぶというのは大人も同じこと。
そんなふうにして考えると、このルトガーさんが言っておられる「希望のある場所」というのはそういうところだなというふうに思う。
ルトガーさんの面白いところは、今まで私達が「これが人間に関する定説だ」と思うことをひっくり返していくところにある。
権力に憧れて、人を上から目線で突き動かしたいという欲望はそれは誰の胸の中にもあるのだが、しっかりした遊びをやった子供というのはそれを乗り越えてゆける、という。
遊びの中で自分を鍛えるということが、自分を作っていくということが、いかに大事かというルトガーさんのこの説に従って、さあ我々が信じ切っているこの世界の中、どう変えていけばいいのか?
その希望の源、歴史を訪ねたいと思う。
同じタイトルでまた来週頑張りたいと思う。