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2012年06月24日

自閉症だったわたしへ


「アスペルガー症候群のわたし」が「自閉症だったわたしへ」を読んだわけだが、何か参考になるような内容かなと思って読んでみた。
まずタイトルが?って感じ。
外国の人が書いたものだから、原題は全然違うワケだが(因みに原題は「NOWHERE NOWHERE」)、「自閉症だった」って過去形なのがおかしいんじゃないかと思ったり。
だって、今も「自閉症」なワケだし。
「だった」だともう治ってしまったみたいじゃん。
そういう誤解をする人はいないと思いますが、自閉症は治りませんので念のため。

この本の著者のドナ・ウィリアムズさんと私では、障害の内容が違うし、障害とは別に性格みたいなものもあるから「私とピッタリ!」みたいな内容ではないワケです。
でも、なんとなくわかるかなぁって感じの部分もあったりはする。
健常者が読むとどんな感じがするんだろう?と思うけど。

この人と私が共通しているなと思うのは、適切な「療育」とやらを受けずに、自力で無理やり「世の中」に合わせる方法を獲得していっているってことかな。

もっともよいと思われる育ち方は、小さい頃から周囲に理解されて、障害に応じた対応をしてもらって「世の中」でうまくやっていけるテクニックみたいなものを獲得するっていうのだと思うのだ。
私もこの人も、周囲からは全く理解されず、特に母親からは理不尽な扱いを受け(私の受けた扱いなど、この人に比べれば屁でもないが)、苦しみながらも試行錯誤を繰り返して、一人で何とかやっていけるようにしたのだ。
で、前者(理解ある周囲)と、後者(理解ない周囲)以外にもう一つのパターンがあって、それが大部分の人じゃないかと思うんだけど、あくまで私の想像。
実際にそういう人に会ったりしたこともないんで(自分以外のアスペルガーの人には会ったこともないし)間違っているかもしれないけど。
で、私の想像した「多くの発達障害の人」がどんな感じかというと、障害があるっていうことは認知されていないので、適切な療育などは受けていないんだけど、周囲の人の「やさしさ」みたいなもののせいで「周囲に合わせるテクニック」みたいなものを構築しそこなっちゃったっていう。
だから、学校まではよくても、社会人になったら人間関係でむちゃくちゃに。みたいな。
大量に発達障害の人の体験談みたいなのが書いてある本を読んだけど、私にあまり参考にならないものばかりなのって、私はすでに自力でいろんなものを獲得してしまっているからでは?と思うのだ。

私の周囲の人が優しくない人ばっかりだったっていう意味ではない。
確かに主観的にはそうだけど、実際にそうだったかどうかということはまた別なのだ。
障害者自身の外見とか雰囲気とか、そういったものが非常に大きな意味を持つと思う。
まったく同じような障害を持っている人が二人いたとする。
どちらも発達障害で、相手の表情から気持ちを読み取ったりもできないし、健常者から見て奇妙な言動があったりする。
で、片一方は小柄でかわいらしく、か弱い外見。
もう一方は大柄でかわいげがなく、とても頑丈そうに見える。
となると、同じことをしても、当然前者の方に対応が甘くなると思うのだ。
意識的にも無意識的にも。
で、残念ながら私は後者だったワケです。
幸運にも?いじめられていてもその事実にあまり気づかなかったりってことはあったけど、クラスメイトたちは面倒なことは私におしつけておけば、誰からも苦情が来ないっていうのがわかっていたし、私は誰にどう助けを求めればいいのかもわからなかったから、私を犠牲にしておけば万事うまくいくという、今考えたら残酷なことを平然としてくれていた。
そういう「誰も助けてくれない」状況の中で、必死に周囲の状況を判断しながら、何とかやり過ごす「マニュアル」みたいなものを自分の中に積み上げていったのだ。

この本の「エピローグ」の中の一文。
わたしに物を受け取らせるには、ありがとうなどの返事や反応をいっさい期待せずに、ただその物を、わたしの近くに置いてくださればいい。何らかの反応を期待されているとわかると、その義務と責任ばかりに気を取られて、品物の方には気持ちがいかなくなってしまうからだ。

私は子供の頃には、他人から何かをしてもらって「礼を言う」という、普通の人なら「そんなの当たり前でしょ?」って行動がまったくできなかった。
当然のことながら周囲から非難を浴びるので「どうやら私のやり方はまずいらしい」と考えて、周囲の人がどうやるのかを観察して、私なりに真似をしていたワケです。
でも、あくまでも「真似」であって、うわべだけなので「タイミング」「声のトーン」「その場にふさわしい言葉」などがわからん。
だから、礼を言わなければならない状況に遭遇すると緊張が走ります。
ドナ・ウィリアムズさんの言葉を借りれば「その義務と責任ばかりに気を取られて、品物の方には気持ちがいかなくなってしまう」っていう状況でしょうか。
たとえ私が前から欲しかったものをいただいたなんていう「喜ばしい」状況であっても、それに対して礼を言わなければならないという事実は、私をひどく追い詰めます。
心から喜んでいるような余裕はありません。
「最適のタイミング」で「その場に合った声のトーン」で「その場にふさわしい言葉を選んで」速やかに礼を言わなければなりません。
当然、うまくいかなかったこともあります。
どうやらタイミングがおかしかったらしく、その場にいた全員が笑い出したことがあったり。
でも、全部がうまくいったとしても、それがいいことなのかどうか?
うまくいった時は、相手が私のことを「普通の人」であると感じるでしょう。
それが私にとってはどれほどハードルの高い行為かということは相手には伝わらない。

「相手に礼を言う」っていう、おそらく健常者にとってはなんということのないと思われる行為一つとっても、私はこれだけ考えまくってやっています。
考えながら無理やりやっているので、何かの拍子に気が逸れたりすると、うっかりやらなかったりってことは今でもあります。
私にとって「日常」っていうのは、こういった「考えながら手さぐりでやる」ことの連続なのですよ。

私が最近、とても頻繁に考えていることは「無理をして健常者のようにふるまう」のがいいのか悪いのかってこと。
いままでずっと「無理をして健常者のようにふるまう」ってことをやってきたけど、そのこと自体が「相手に正直ではない」みたいな罪悪感というか、相手に申し訳ないような気がしていた。
かといって、障害者丸出しでいれば「わがまま」「空気が読めない」「常識がない」なんて叩かれるのも目に見えている。
すぐに相手との関係が悪くなってしまう。

ドナ・ウィリアムズさんは取材を受ける時には事前に注意書きのようなものを渡すそうな。
そうやって「相手からも歩み寄ってもらう」というようなことって必要なのかも。

今まで発達障害の関係の本をたくさん読んで、昔のつらかったことが思い出されて、役には立たないのに、すごくつらい気分になったのだが、そういう意味では苦痛が少ない本だと思う。
ものすごくつらい内容ばっかりなんだけど、外国での出来事だからかな?
理由はわからんけど、自分のつらい思い出が引っ張り出されることはなかった。
私も兄からさんざんバカにされて「コジキチガイ(乞食+気違い)」という、今にして思えば適切な表現で呼ばれたりもしたので、つらくなってもおかしくないような内容なんだけど、何でだろう?

posted by ひと at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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