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2014年12月06日

武田鉄矢・今朝の三枚おろし(8月11〜22日)◆『街場の共同体論』内田樹・『森を見る力』橘川幸夫(後編)

これの続きです。

 戦後日本が生産力を向上させ、斬新な商品を次々と登場させたのは、単に勤勉な日本人の無我夢中な労働生産性だけによるものではない。背景には、企業の商品企画室と外部のマーケティング調査会社や広告代理店との協力なコラボレーションがあった。消費者の量的なニーズを探るのも、消費者の質的マインドを理解するのも、マーケティング調査会社の役割が大きかった。日本の消費者は世界一注文の多い消費者であり、そうした過酷なマーケットに新製品を投入するのは、極めてクリエイティブな行為であった。
 マーケティング調査が廃れてきたのは、80年代のバブル終焉あたりからである。
−中略−「何を売るか」よりも「どう売るか」「どう利益を確保するか」が企業の最大のテーマになった。(森を見る力・78〜80頁)

かつて日本企業が中国に進出する時に、徹底的に中国人マインドを調査した。
韓国に進出する時も韓国人の消費者マインドを研究して行った。
家電メーカーは「性能のいいものを作れば売れるんだ」ということで頑張ってきたが、やがて市場を独占する韓国家電にしてやられた。

しかし、いい例がある。
武田先生が、その会社の人と直に話したこと。
ベトナムでのバイクの販売で、日本は中国に遅れを取った。
日本製は値段が高いので売上が伸びなかった。
ベトナムはチャイナバイクが独占していた。
しかし、ゆっくりとホンダが逆転する。
やがて中国のバイクが問題になる。
粗悪品が非常に多かった。
武田先生がベトナムの人から聞いた話。
チャイナバイクの粗悪品ぶりがハンパない。
左折した瞬間にハンドルが抜けた。
時速60kmになった瞬間にきれいに前輪が飛ぶ。
死者が相次いだ。
それでも安いので中国製のバイクは売れ続けるのだが、ホンダはその時何をしたか?
普通だったら安い製品で逆転しようとする。
ホンダはしなかった。
その時ホンダがやったのは「ヘルメットをかぶりましょう運動」。
ビタ一文、自分のところの製品は負けずに、日本の中古ヘルメットを向こうに持って行って無料で配り始めた。
そうしたら、ヘルメットを被っていたおかげで車輪が抜けても生き残る人がいて「もう抜けるのはいやだ、タイヤが飛ぶのはイヤだ」ということで、何年か働いてホンダを買い始めたら、ハンドルは抜けないわ車輪は飛ばないわ。
今はホンダは有料にはなったが、安いヘルメットを販売し、ベトナムのホーチミンやハノイのお巡りさんたちを説得して、積極ヘルメット作戦を展開。
ベトナムでテレビを見ると「ヘルメットをかぶりましょう運動」ばかりやっている。
その後ろのスポンサーがホンダ。
ホンダは今、ベトナムの一流大学の憧れの企業の第一位となった。
ヘルメットを普及させるということがホンダのすごいところ。

日本人はフェイスtoフェイスの対面式の能力が高い。
アジアでNo.1。
お・も・て・な・し
接客業に関する日本人の質の高さを世界中が知っている。

「つかみ取り」「詰め放題」があまりお好きではない武田先生と加奈譲。
心配になる武田先生。
野菜詰め放題で、ビニール袋にとうもろこしを何十本も詰め込んだ老人。
あの老人があの歯で全部食べるのに何か月かかるか?ということを考えると、ちょっとあの詰め込んだ本数を食べきるのは・・・。
もう一点、あのとうもろこしを作った生産者の方が、詰め込まれるとうもろこしを見て切なく思われるのではないか。
大量消費の資本主義というのは煮詰めると、ああいう姿と重なってしまう。
橘川氏が批判したのは、そういう世相に対して、作り手も買い手も商品を挟んで志を持ってという。

 礼節を重んじるためにわざわざ武道を迂回するというのは、僕はおかしいと思います。−中略−みんな道着を着用して、道場の出入りでは正面に礼をし、稽古の相手にも必ず礼をする。それは人格的なものに対する敬意という以上に、そこに顕現してくる「巨大な力」に対する、一種宗教的な畏怖の思いの表れなんです。(街場の共同体論・72頁)

今、全国の学校で柔道をやらなければならない。
文科省の方が「武道をやると礼儀正しくなるから」。
それを内田氏が「武道で頭を下げるのは宗教的な意味合いで下げるのであって、礼節のためではない」。

 ですから、道場で子供たちが礼をしている相手は先生じゃないんです。先生を通じて「巨大な自然の力」「野生の力」に対して礼をしている。−中略−超越的なものに対する畏敬の念が、あらゆる礼節の基本なんです。−中略−
 神殿や本尊に向かって合掌しているとき、人は耳を澄ましているんです。
−中略−それでももしかすると神仏から何かのメッセージが送られてくるかもしれないと思って、つい耳を澄ませてしまう。
 それが「礼」の基本姿勢なんです。人間たちの住む世界とは別の世界からのシグナルを聴き取ろうとする構えのことです。だから、「礼」と「祈り」は身体のかたちが似ているんです。
(街場の共同体論・73〜74頁)

天皇皇后両陛下が津波のおこった海に対してお二人そろって、同じ角度で許しを請うがごとく、また二度とふたたびこのような苦しみをこの地域の人たちに与えぬよう、深々と頭を下げていたあのおじぎ、礼は祈り。
人は祈りがあるから礼をする。

武田先生が合気道を見学しに行ったら、武道はやたらと礼をする。
合気道は護身術。
頭を下げる練習をしておくと、トラブルに巻き込まれない。
あれだけ頭を簡単にスッといい感じでタイミングよく下げられると、人間は手を出せない。
実はおじぎこそ最大の護身術。
危ない目に遭う人は態度がデカい。

物に対する礼儀。
おご馳走様の両手を合わせるという礼こそが、生産者への一種祈り。
与えてくれた万物に対する礼でもある。

「何を作るか」ではなく「どう売るか」にメーカーがシフトして、スケールメリット、お金でツラをひっぱたくようなやり方で他を潰すことに今、夢中になっている。

 「何を作るか」ではなく「何を買うか」を基準に、人間の値踏みをするようになった。−中略−
 労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。
 ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が、最も賢い働き方だということになる
(街場の共同体論・98頁)

消費者は絶対に最低価格で商品を購入しなければならない。(街場の共同体論・100頁)

数か月で偏差値アップする予備校など、「努力が少なくて、いかに多くの報酬を受け取るか」の競い合いになる。
全て費用対効果が決定するグローバリズムが出現するする。

 費用対効果を競い合っているうちに、その集団では成員全員がお互いの足を引っ張り合うようになりました。子供たちは遅くとも中等教育の段階に至ると、自分のまわりの生徒たちの知的成長を阻害することにつねに努力するようになります。(街場の共同体論・101〜102頁)

己の成長にお金をかけるよりも、ライバルたちがバカのままでいる方が効果が大きい。

 一度電車の中で、中学生や高校生たちがおしゃべりしているのを、こっそり立ち聞きしてみてください。−中略−それによって話を聞いている友人たちの次の試験の点数が一点も上がらないトピックだけに限定されています。(街場の共同体論・102頁)

敵を賢くしないこと。
それが自分の点数を上げることだ。
だからライバルである友がバカのままでいるように、話題を絞り込む。

 テレビが登場してから、あっというまに世界を制覇し、テレビ業界は、長くメディアの点かを握っていた。大衆の心理を自在にコントロール出来て、新しい商品をベストセラーにすることも、政治的な方向性を誘導することも出来た。−中略−しかしそれが崩れつつある。インターネット登場以降の社会的なメディア構造の変化は、新聞社が世論を形成できなくなってきた、ということに大きな意味がある。(森を見る力・187〜188頁)

インターネットは強力で、たった一人がn人に対して影響力を及ぼすことができる。
また、自分を隠すこともできるので、汚れた禁止用語で個人を深々と傷つけることもできる。
そういう世の中の流れの中に今、日本がいるのではないか。
このITの80年代から新しい階層が日本に生まれた。
パーソナル。
個人という階層。

2012年4月23日のオリコンによる「CDシングルデイリーランキング」は、ベスト3のB'zの曲が693枚という、過去最悪の数字になった。(森を見る力・196頁)

つまり商品としてCDの意味が消えつつある。
この順位は昔だったら150番台。
武田先生にとっての「デイリー」は枚数。
現在はダウンロード。
道具の変化。
デジタル音源のビッグデータの中からダウンロードする。
かつていた販売員、プロモーター、キャンペーン、この芸能の世界、CDを売り上げるという世界にはたくさんの人々がいたが、商品を取り囲む人数が直販型になっているので、仲介業者がいない。
ややこしくなくていいかもしれないが、その分だけ仕事は減る。

ゴジラの監督(ギャレス・エドワーズ監督を指していると思われる)がインタビューで言っていた言葉。
「私はゴジラの映画ばかり見ていたので、どの映画も必ず始まる前は丸い文字が出て、漢字が二つ書いてあって、キラキラするのが映画の始まりだと思った。」
東宝映画しか見ていない。
ゴジラがフィリピンで生まれた悪い放射能怪獣を殴る。
日本の映画館では館内で大拍手。
一番最後、ゴジラは全てを解決して、ちゃんと日本の方角に向かって泳ぎだす。
故郷を知っているみたい。

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かつて質を証明したのは「量」であった。
大量に売れるもの、大量に必要とされるもの、大拍手、長蛇の列、そういうものが実は「量」に支えられていた。
「量」がいるから「質」がいいんだとみんな思っていた。

それは「量への信仰」が揺らいできたということだ。
「量への信仰」は、やがていつかは崩壊する。それは人口には限りがあり地球には限りがあるからだ。「限り」を意識した瞬間に「量への信仰」は、根本が揺らいでしまう。
(森を見る力・215頁)

あまりにも「量」を信じていると、ちょっとアンタおかしくなるよ。
世界を動かし続けた「量」の時代は確実に今、終わりつつある。
量の時代は「個」だけでも生きていけた。
老後。
こないだまで「おひとりさまの老後」。
ある程度の銭さえ持っていれば安心して老後が過ごせるぞ。
間違いないのは一人でも生きられると昔、言い切る人がいたが全く嘘だとわかった。
やっぱり一人では生きられない。
人間は最後はネットワークの中でしか生きられなくなる。

 昔オイディプスは、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物とは何か?」というスフィンクスの問いに、「人間」と正解しましたが、それが人間についての、ある意味では根源的な定義なのです。(街場の共同体論・120頁)

「ひとりでも生きていける」と言い切れるのは実は二本足で立っている時。
ところが人間は老人になれば杖をついて三本の足になる生き物。
人間が二本足で歩けるという時間は限られた時間。
これからは個人というものを解いてゆく。
そうしないと生きていけない。

 コミュニケーション失調からの回復のいちばん基本的な方法は、いったん口をつぐむこと、いったん自分の立場を「かっこにいれる」ことです。−中略−
 コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、身を乗り出す他にありません。
−中略−相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションは、そこで息を吹き返す可能性があります。(街場の共同体論・172〜173頁)

武田先生がラジオのしゃべり手で「この人のラジオの喋りはいい喋り方をしているな」と感じる何人かに共通している事柄。
聞いている人に対する敬意がある。
「知性に対する敬意」は大事。

 海水の生命体が大気の生命体に変容するためには、根本的な変革が必要であった。それは、海水の中の生命体が、自らの内部に「海」を持つということであった。私たちの体内は、体液や血液といった、海で満たされている。(森を見る力・206頁)

私たちは海から陸へ上がったような世界の大変革が明日起きるかも知れない。

 私たちは共同体という海から、どこへ脱出しようとしているのか。それは、情報という大気の環境の中へである。(森を見る力・207頁)

自分の体の中に「共同体の情報」を取り込む。
(このあたり、本の内容とはちょっとズレている感じがする)
そういう感覚とか感性持っていないとダメだ。
そして、そのためにはどうするか?
人は何かしら生産に関与しないと生きていけなくなる。
仕事がなくなる恐怖。
休みが続くと不安になる。

朝の散歩に出かけた武田先生。
ビニール袋にゴミを二、三個入れて、環境保全に努めた。

商品を単に右から左に流して流通マージンを徴収するという考え方は近代で終焉すると思う。つまり、これからの社会においては、人は何かしらの「生産」に関与しないと生きていけなくなるのではないか。(森を見る力・213頁)

もはや「中間マージン」はなく川のように上流の生産から中流の流通で広々と人を養った経済市場は消え失せた。
もういきなり上流から海という消費世界に結び付けられた。
消費のみの老後は、実は人々をますますみじめにするのではないか?
年金が全てを支配して消費だけの一日。
それは、かえってみじめなのではないか。
パイロット不足はついに、65歳以上の人々を現役として認めた。
今度はいよいよ65歳以上でも身体検査を受けて健康であればパイロットとして本採用をする。
それぐらいパイロットが不足している。
収入が減ってもかまわないから65歳以上のパイロットがもう現実世界に。
第二の陸地に上陸する生き物の進化なのではないか。

「逆定年制」というのを考えたらどうだろう。

通常、企業組織は、ある年齢になったら、退職して退職金を支払う。これを逆にして、ある年齢に達しないと仕事につけない業種を国が決めるというものである。(森を見る力・310頁)

(武田先生は流通システムの変化の話と、人間が「働かないとつらい」という話をまぜて語っているが、本の中ではそれぞれ別に書かれていると思う)

毎日街角に立って、小学生を送り迎えする決まったお爺ちゃんが地域社会に一人か二人いるということでどれほど安全かというのは、杉並で変な男が刃物を振り回した時、いつも旗を持っている爺ちゃんが旗で叩き返した。
立っているだけで子の安全を守れるということがある。
これから老人は日本に山ほどいるのだから労働力として生かす。
練馬・小学生切りつけ!現場の交通誘導員「車下りたときから顔つき異常」 : J-CASTテレビウォッチ←この事件のことを言っていると思われる)

「静脈産業」というテーマも晩年の大きなテーマであった。戦後社会は、生産でも情報でも動脈産業として成長を遂げ、日本を豊にしたが、その先に必要となってくるのは静脈産業であると騙っていた。(森を見る力・316頁) 

静脈産業をある年齢以上の人がやったらどうだろうか。
動脈は若い人たちに。
そういう二極で日本全体を考えたらどうだろうか?
(武田先生は「動脈産業を老人、動脈産業を若い人」というふうに受け取ったようだが、本の中ではそういう区分ではなく「企業が静脈としての貢献を計算しておくべき」というような話になっている)

福祉と農業を結び付けて知的障害の人を集めて農業団体を作っている人がいる。
(佐伯康人氏のことを言っていると思われる)
佐伯さんはご自分のお子さんが知的障害者。
地域の知的障害のある人を集めて農業をやっている。

この記事へのコメント
初めまして。
今朝の三枚おろしを偶然聞いてからおもしろくて聞いているのですが、たまに聞き逃して残念に思っていました。
そこでネットだったらどなたかまとめているのでは?と思い探してここを見つけました。
丁寧にまとめてあって興味深いです。
おかげで大学のレポートが進みそうです。
ありがとうございました。
Posted by える at 2017年09月12日 23:48
コメントありがとうございます。
お役に立てて何よりです。
この番組はポッドキャストでも提供されているのですが、時間が経つともうダウンロードできないのが難点ですね。
もっと長期にわたって聞ける仕様だと有難いのですが。
Posted by ひと at 2017年09月13日 19:43
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