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2015年12月27日

2015年12月7〜18日◆『父という病』岡田尊司(前編)

時々「家族にとって必要ではないのではないか」と自分のことを思ってしまう武田先生。
ヘンリー・フォンダの『黄昏』をDVDで見て泣けた武田先生。

黄昏 [DVD]



ヘンリー・フォンダが役立たずのくせに頑固で、娘のジェーン・フォンダが帰ってくるんだけど、命令ばっかりする父親に反発して、再婚相手の血のつながらない孫がいて「そうとうおじいちゃんなんでしょ?あなた」「死ぬの怖い?」と訊く孫で、フェンリー・フォンダがオタオタしながら再び人間の関係を。
おばあちゃん役のキャサリーン・ヘップバーンがいい。
『黄昏』のフェンリー・フォンダを見ていると老いが他人事じゃないと感じ、考え込んでしまう。

(051)父という病 (ポプラ新書)



(私は新書の方を読んだのだが、新書じゃない方も出ているので、番組で扱っているものとはページ数などが違っているかも知れない)
本の腰帯の大文字「父親って必要ですか」。

夏場のこと、喉が渇いていたのでガリガリ君のブルーがどうしても食べたくなって三軒茶屋のコンビニに入った武田先生。
血糖値が高くて本当は食べてはいけないのだが。
そのコンビニで見かけた二十代後半のお母さん。
66歳の武田先生が見て、かぶりつきたくなるようないい女。
ノースリーブの太い二の腕。
男の子のお母さん。
肩に乗せんばかりの肩幅。
全盛期の小谷実可子のよう。
肌は小麦色で、口紅は真っ赤。
小さな男の子にキリンさんのお母さんのように覗きこむようにして「アイス食べる?」。
思わず「食べる!」と答えそうになる武田先生。
母でもないのに、なついていきたくなるぐらい。
後ろからみているとフトモモにすがりつきたくなるぐらい。
そういう圧倒すべき肉体を持った女性を見た後、先日の秋口にたくましいお母さんを見て、近くの公園を走っている足が止まって、見とれて動けなかった。
ガッチリとした輪郭、シルエットをお持ちの女性がノックバットをやってらっしゃる。
この方のノックバットの振り方。
運動をやっていた武田先生が肩から腰を見ると、相当若い頃、運動をやっていた体形なのがわかる。
44〜46歳ぐらい。
男の子三人相手にノックバットで野球のキャッチの指導をなさっている。
男の子三人は小学校の低学年、中学年、高学年。
2、3、6というような男の子三人が低学年から手前に三人縦に並べてゴロからフライまでやる。
その時のお母さんのノックバットしながらの檄にうっとりとする。
コンビニで出会ったお母さんも、何に圧倒されるかというと、この方々は子供らを自分の体から産んだこと。
女性の力、あの雄姿というのは、男親にはありえないのだ。
男親は王(貞治)であろうが長嶋(茂雄)であろうが高橋由伸であろうが、てめぇで子供を産んでジャイアンツの選手にして鍛えることはできない。
このお母さん方みたいな方々を見ているうちに「男親って本当に必要なのか?世の中、女だけで充分回るんじゃないか」という自信のなさがこの本を手に取らせた。

果たして「父は病」なのか?

母が男たちを産み、男としての命を与えている。
男としての力を母が授けている。
今でもかろうじて父である武田先生。
その光景に圧倒された。

生物学の定説。
「男」という種はすでに絶滅にさしかかっている。
Y染色体はどんどん小さくなっていっている。
遠い将来、男はいなくなる。

 母親役の存在がいなければ、子どもはまともに育たないどころか、成長さえも止まってしまい、生命さえも危険になるということは、夥しいデータが裏付けた揺るぎない事実だ。このことは、人間だけでなく、すべての哺乳類に当てはまる生物学的な事実でもある。これは、すべての哺乳類が、オキシトシン・システムという同じ愛着の仕組みを共有するためだ。
 では、父親についてはどうか。
 まず、生物学的な観点から言うと、母子と生活を共にし、子育てに父親がかかわる種は、哺乳類全体の三%程度とされ
(12頁)

イクメンが当たり前だと思ったら大間違い。
哺乳類の世界にイクメンなんていない。
「おしめは私が替えましょう」とか「お風呂は私が入れております」というシロナガスクジラはいない。

 採取狩猟生活では、母子だけで暮らすことにあまり不都合はないが、農耕生活になると、高度の組織化された社会的協力や蓄積された富をめぐる集団間の組織的な戦闘が起きるようになり、社会の掟やルールに沿った行動様式を身に着ける必要が強まった。(13頁)

農耕によって父は「家」という単位のリーダーで、教育者で精神的支柱だった。
その象徴が今は変わりつつある。
今はますます男はいらなくなった。

 平成二二年の犯罪統計から、少年犯罪のピークである十五歳で見ると、実父母がそろっている家庭が約六割だったのに対し、実母だけの家庭は三割を占めた。−中略−父親のみの家庭の占める割合は、母親のみの家庭の約四分の一で、それを考慮すると、そのリスクは、さらに二・五倍程度の上昇を示すと推測される。(16頁)

そういう意味では(父親は)やや役に立つ。
父親というのは象徴的な存在。

 二十世紀の初め、フロイトが精神分析を創始してから半世紀近く、その中心にあったのは父親だった。フロイトがエディプス・コンプレックスを発見したのは、フロイト自身の自己分析によってだ。(17頁)

エディプス・コンプレックスというものが、全ての男の子の中にあるのではないか?
それは父に対する一種反抗心という無意識を持っている。
フロイトは激しい言葉で「男の子は成長するにしたがって母親を取られまいとして、夢の中で、あるいは譬えとして一回父親を殺さなければならない」。

「お父さん」というのが西洋のシンボルでは「ドラゴン」になる。
向こうの騎士は龍退治をやる。
あれはお父さんをやっつけて嫁さんを手に入れる。
子供は龍をやっつける物語が好き。
テレビゲームの『ドラゴンクエスト』。
あのドラゴンの後ろ側には父親がかくれている。
父親はやっつけなければならない敵なのだが、やっつけた後に父親の象徴であるドラゴンを子分にしたら少年たちは遥かな旅に出る。
ドラゴン、龍というのはとても大事なシンボル。
父親の象徴でもあるが、男の子が一人前に育つために、寄り添うべき存在でもある。

父という存在が人間の中で複雑なものになっていく。
そのなる過程としてフロイトという心理学者が言ったようにエディプス・コンプレックス。
子供というのは、特に男の子は一旦父親を殺して、しのいで、乗り越えて自分の中にある「男」というものを確立しなければならない。
一度父を倒さなければならない。
男の子は必ず通過する。
現実にぶつかる場合もある。
酔っぱらった武田先生のお父様が「柔道を教えてやる」と軍隊で習った柔道で。
当時柔道部だった武田先生。
酔っぱらった親父など簡単。
投げ飛ばした。
「抑え込んでみろ」というから抑え込んだら一歩も動けなくなった。
父が「まいった」をした。
次の日から父がものすごくおとなしくなった。
アメリカで言うところのキャッチボール。
息子のボールが取れなくなった父親。
そういうものの中にフロイトが言うところの「父親殺し」。
そういうものが誰の人生の中にもある。
個人によってはものすごく大きくなることがある。

フロイトへの回帰を主張したフランスの精神分析医ジャック・ラカンだった。ラカンは枠組みを与える父親の機能を「父の名」と読んだ。−中略−「父の名」とは、象徴的な意味での掟であり法だ。(20頁)

そういうふうに解すると、あるわけのわからない物語がパッとわかったりする。

進撃の巨人(18) (講談社コミックス)



あの城壁の向こう側に立っている巨人は「父」。
少年たちが戦いを挑んでいる。
そうやって考えるとあの物語も非常にシュールな物語。

『アナと雪の女王』
姿を現すことはないが、女王が使う、何でも凍らせるという魔法は「父」。
父親的なものがああいう魔法を彼女に。
彼女はそれを乗り越えなければ、あの魔法の力から逃れることができない。
人生の障害の障害になったり。
障害は壁にはなっているが守られている。
私を守ってくれるのだが、娘が外に出ていこうとする時には最大の障害になる。

父親としては自動扉だった武田先生。

フューリー [DVD]



ブラッド・ピットの傑作。
これは戦車一台の五人の戦士が三百人のドイツ兵と戦闘を開始して一人だけ助かって四人死んだ。
倫理もなく正義も何もない。
そこにある五人の男たちの掟。
その掟とは何か?
父を守る。
そんなふうにして物語の中にあるものを置きかえていくと・・・。

父とは母とは全く異質なもので、母と比べると貧弱なものである。

フランスでの調査では、労働者の父親が子どもの世話にかける時間は、一日平均六分だった。アメリカでも、母親の四分の一か五分の一の時間しか、父親は子どもにかかわっていなかった。(22〜23頁)

父と母は役割が違う。
子供の側にいるのは母親がいい。
誕生時から三年間はお母さんと一緒にいるという環境が一番いいのであって、会社にそのまま連れて行ってもOKというような環境がいいと武田先生は思う。
「三年間抱っこし放題」は言葉づかいが問題になったが、間違ってはいない。

父親は、何でも遊びにして面白がろうとした。一方、母親は何でもルーチンワークにして、それに根気よく取り組み、また、取り組ませようとした。−中略−母親は型通りの遊びやおもちゃを使った遊びを好み、父親は体を使った遊びや型にはまらない、独自の遊びを好んだ。(23頁)

 いずれにしても、量においても質においても、父親が母親の代わりをすることは、そう容易なことではなさそうだった。(24頁)

「父親とは、外界から子どものもとにやってくる最初の他者」と言ったのは、あるイタリアの精神分析医だ。その言葉通り、母親と半ば融合した乳飲み子にとって、父の登場かなりだしぬけで、脈絡のないものだ。(28頁)

父は母と子の関係の中にある、価値や意味とは全く違う世界観をもたらすものでなければならない。

奥様と一緒になって子育てをしていると、子育ての時にお父さんとお母さんの意見が一致するのはあまりよくないような気がする武田先生。
迷いながらしか大人になれないんだから、なるべく迷うようにしてあげるのが父母の違いのつとめではないか?
子供から訊かれたら違うことを教えてやろうと思っていたのだが、母親の言うことを聞いてしまって訊いてこなかった。

父親の存在そのものというのは、やっぱり母とは全然違うもことを持ってくる。
ここに宗教がある。
「お母さん」から宗教は生まれていない。
仏教にしても、イスラム教にしても、キリスト教にしてもユダヤ教にしても、神道における神話にしても、女性世界の理屈ではない。
マリアがあんなに我が子イエスを心配しているのに、振り切ってイエスは十字架に行ってしまう。
ブッダだってお母さんが泣きながら「出家やめて!」と止める。
女のルールに従わないで出家してしまう。
男の間のルールみたいなもの、掟みたいなものを「神」と読んだりしている。
名画にもなっている旧約聖書アブラハムの書。


(同じお題でいろんな画家が描いているが、これかな?)

[まことの]神はアブラハムを試みられた。そして彼に,「アブラハムよ」と言われた。それに対し彼は,「はい,私はここにおります!」と言った。すると,続いてこう言われた。「どうか,あなたの子,あなたの深く愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に旅をし,そこにおいて,わたしがあなたに指定する一つの山の上で,これを焼燔の捧げ物としてささげるように」。それでアブラハムは朝早く起き,自分のろばに鞍を置き,従者二人と息子のイサクを伴った。−中略−ついに彼らは[まことの]神が指定された場所に着いた。それでアブラハムはそこに祭壇を築き,まきを並べ,息子イサクの手と足を縛って,祭壇の上,そのまきの上に寝かせた。次いでアブラハムは手を伸ばし,屠殺用の短刀を取り,自分の子を殺そうとした。ところが,エホバのみ使いが天から彼に呼びかけて,「アブラハム,アブラハムよ!」と言った。それに対して彼は,「はい,私はここにおります!」と答えた。すると[み使い]はさらに言った,「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。(旧約聖書:創世記22章)

男の理屈。
その神様の試しによって旧約の神はアブラハムを認めてあげる。
女の理屈ではない。

ウツの地にヨブという名の人がいた。その人はとがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れていた。−中略−そして,使者がヨブのところに来て,言った,「牛がすき返し,雌ろばはその傍らで草を食べていましたが,そのとき,シバ人が襲ってきて,これを奪い,従者たちを剣の刃に掛けて討ち倒しました。−中略−「あなたのご子息や娘さんたちは,長子であるそのご兄弟の家で食べたり,ぶどう酒を飲んだりしておられました。すると,どうでしょう,荒野の地方から大風が吹いて来て,家の四隅を打ったため,それが若い人たちの上に倒れて,皆さまは死なれました。−中略−そこでサタンはエホバのみ前から出て行き,ヨブの足の裏から頭のてっぺんまで悪性のはれ物で彼を打った。それで彼は自分のために土器のかけらを取り,それで身をかいた。そして彼は灰の中に座っていた。ついに,その妻は彼に言った,「あなたはなおも自分の忠誠を堅く保っているのですか。神をのろって死になさい!」 −中略−そこでエホバは風あらしの中からヨブに答えて言われた,「 −中略−わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。 −中略−だれがその度量衡を定めたのか。もしあなたが知っているのなら。 あるいは,だれが測り綱をその上に張り伸ばしたのか。その受け台は何の中に埋められたのか。 あるいは,だれがその隅石を据えたのか。明けの星が共々に喜びにあふれて叫び, 神の子たちがみな称賛の叫びを上げはじめたときに。 また,[だれが]扉で海をふさいだのか。 (旧約聖書:ヨブ記)

「生まれて無いヤツがガタガタ言うな!」
(聖書の中にはそんなことは書いていないが)
つまりここにあるルールというのは「父の名において」。
男は自分たちのルールを作っていかなければ気が済まない。
人間の脳内ホルモンの中にはバソプレシン(アルギニン・バソプレシン)とかオキシトシンというものがある。
そういう脳内ホルモンで父親らしく、母親らしくできる。
女性、男性というのは決定的な違いが老いになると現れる。
いかに男性、女性が老いで変化していくか。

男はお父さんになっておじいちゃんになって縮んでいくのだが、これは動物で例えると不完全変態。
例えばヤゴがトンボになるようなもので、トンボとヤゴの口のところは同じ。
ところが娘から母になって母からおばあちゃんになるが完全変態でイモムシが蝶々になるように全部変わる。
おじいちゃんは縮んでおじいちゃんになるが、おばあちゃんは時としておじいちゃんになる。

子供を育てるのは難しい。

 二十世紀最大の画家のひとりパブロ・ピカソの父親ホセは、息子同様、絵画に熱い情熱を捧げ−中略−出生時の仮死状態が影響したのか、甘やかされ過ぎたことが拍車をかけたのか、その点は不明だが、パブロは成長するにつれ、行動や学習の問題を顕著に表し始めた。まったく落ち着きがなく、衝動的で、やりたいことだけをやり、わがままの言い放題だった。ただ、唯一の例外は絵を描くことで、まだ言葉も喋れないうちから、それとわかる絵を描き、切り絵を作った。
 三歳のとき、妹が生まれ、母親の愛情を奪われてから、パブロは父親にべったりになった。
(57〜59頁)

(番組では父親にべったりになった理由は「母親が嫌っていたから」というような説明だったが、本にはそのようには書いていない)

それ以外の憂さ晴らしといえば、闘牛ごっこと称して、野良猫を追いかけ、やっつけることだった。ときには、殺してしまうこともあったという。(61頁)

もしピカソほどの才能がなければ、彼は間違いなく深刻な社会不適応を起こしていただろう。(63頁)

ピカソにとっては父なくばピカソはなかった。

『金閣寺』などで知られる作家の三島由紀夫、本名平岡公威の父親は平岡梓といい、農商務省(現在の農林水産省)の官僚だった。−中略−その梓が見合結婚したのが、開成中学の校長の娘で、三島の母となる倭文重だった。−中略−その家では、すべてが姑の夏子を中心に回っていただけでなく、わが子さえも、夏子に取り上げられてしまった。生まれてきた孫公威を溺愛した夏子は、「二階で赤ん坊を育てるのは危険」という口実により、母親の手から奪い取り、自分の部屋で育てようとした。倭文重は、三時間おきに母乳を与えるときだけ、“面会”を許された。夏子は、孫の遊び相手選びにまで口をだし、男の子は危ないと言って、年上の女の子だけと遊ばせた。後に男性的なものに強く固執することになる三島は、幼少期まるで女の子のように育てられたのだ。(68〜90頁)

 幼い頃からずっと母親に甘え損なった三島は、成人してからも、母親にべったりだったという。(91頁)

(番組では祖母の他界で母親にべったりになったと言っているが、本によると引っ越しなどによるらしい)

梓は梓なりに、一人しかいないわが子を愛していた。若い頃の三島は、青白く、とてもひ弱だった。徴兵検査を東京ではなく、わざわざ本籍地の兵庫県志方村で受けさせたのは、わが子の弱々しさが余計に際立ち、検査に不合格になるとの思惑からだった。田舎の若者が、米俵を軽々担ぎ上げて、甲種合格となる中、三島が抱えようとした米俵は、微動だにせず、周囲の失笑をかったが、案に相違して、検査の結果は、第二乙種合格だった。兵隊がそれほど不足していたのだ。
 いよいよ三島にも召集令状が下って、入隊検査を受けるべく、本籍地に向かった。このときは、梓が付き添った。折から三島は発熱し、検査のため裸になると、余計に具合が悪くなった。ゼーゼー荒い息をついているのを、診察した医者が、結核の初期である肺浸潤と誤診した。間一髪、入隊を免れた三島と父梓は、小躍りするように連隊の弊社から、駅まで駆け続けたという。
(91〜92頁)

(番組では「肺に影があるという誤診で」と言ってるが、上記のようにそうではない)

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