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2016年01月26日

2015年3月30日〜4月10日◆『たったひとつの「真実」なんてない メディアは何を伝えているのか?』森達也(前編)

たったひとつの「真実」なんてない: メディアは何を伝えているのか? (ちくまプリマー新書)



テレビディレクターをやっていた森氏がオウム信者を取材した時のこと。
余りに強くトップの制作サイドの方からいろいろ命令を受けた。
「もっと気持ち悪く描け」とか「擬音強めに入れろよ」とか。
そういう干渉されるテレビ界を去って、自主製作で現役信者を描き続けた『A』というドキュメンタリー作品を撮って注目を浴びた作家。

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報道メディアについて、ものすごく悩み続けた人。
そういうところにメディアマンの魂を感じる。
メディアは全て事実と嘘の境界線上にいる。
公平な報道というのはものすごく難しい。
真実・事実を伝えるというのと、それが誤報であったというギリギリの線上をいつもメディアマンは歩いている。
そういう自覚を持っていなければいけない。
ニュースというのは「間違いない」と思ったら大間違いである。
全部ウソではない。
ウソが混じることがある。
どこらへんが正しいのかはメディアに対する読み方を視聴者、聴取者、読者が自らの手で自分を鍛えるしかない。

一つの例。
北朝鮮のテレビを自分の目で見た著者。
日本との差を感じる。

 テレビやラジオでは、ニュース番組の生放送もできないらしい。全部放送前に収録している。(35頁)

この一点に著者は北朝鮮の異常をふと感じた。
(本の内容を読んだ限りでは、そういう論調ではないが)

メディアを支配すれば一党独裁体制は実に簡単だと思い知る。
中国でもライブ放送はほとんどない。
チェックを入れるためになるべくVTR。
北朝鮮と中国の共通点は、選挙を経験したことが全くない。
そういう違いみたいなものを感じて欲しい。

森氏はまず、メディアの闇を語る。
己が権力にうぬぼれを持って、己が信じた正義をつらぬいて、たくさんの人を傷つけた過去があるのだ。

 第二次世界大戦が始まる前、つまり最初に日本の軍隊が中国大陸に侵攻したころは、インターネットはもちろん、テレビもまだ誕生していない。当時のマスメディアの代表は新聞だ。
 この時代の大手新聞は、朝日新聞と東京日日(今の毎日)新聞だった。両紙とも最初は、軍部の大陸進出や拡大方針に対して、どちらかといえば反対の姿勢を示していた。でもそんな報道を続けるうちに、部数がだんだん下がってきた。そこで日日新聞が少しだけ路線を変えて、ちょっとだけ勇ましい記事を書いた。そうしたら部数は急激に上昇した。あわてたのは朝日新聞だ。こちらも少しだけ路線を変えた。中国で戦う兵士たちの勇ましい様子を記事にした。そうしたらまた部数が上がった。これはまずいと日日はあわてた。ならばもっと勇ましい記事を書け。
(45〜46頁)

内田樹氏曰く、ニューヨークタイムズも戦争報道から大新聞になっている。
これは日本だけではなく、アメリカもイギリスも同様で、メディアリテラシーに則って言えばメディアというのは戦争を取り上げたがる傾向にある。

メディアの方が中東に行かれて人質になるという悲惨な事件(ISILによる日本人拘束事件 - Wikipedia)があったが、あの時に新潟かどこかの市役所の人が村が孤立しないように見守りに出かけられて、二名の方が土崩れに巻き込まれて亡くなった。
浜松市で土砂崩れ 橋ごと崩落して市職員2名死亡 | ハザードラボこの件かと思われる)
だが、そのニュースは数秒しか捉えない。
二人の地方公務員が死んだという事実よりも、きな臭い戦場での人質事件の方に90%以上の時間を割く。
人の死に関してもランク付けをする。
メディアは必ずニュース報道についてランク付けをする。
トップラインとヘッドライン。
「今週の10位!」と言ってドラムロールで順番を付けるという番組構成をやっているところもある。
同じ「死」の問題。
そういうところは、私たちは非常にクールにメディアマンの騒ぎ方というのを見ておかなければならない。

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養老孟司氏はこの本の中で同じことをおっしゃっている。
「一生懸命ニュース番組に耳や目を持っていかれない方がいいよ。何でかっていうと、それは既に加工してある。」
キャメラが戦場のどこかにフォーカスを合わせた瞬間、他のものは一切目に入らないように撮影していることは事実。
養老氏は「顕微鏡の性能が上がれば上がるほど、だんだん全体像がわからなくなる」。

なぜメディアは間違うのか。
そこをまず、読み方「リテラシー」として学びましょう。
新聞メディアは発行部数を伸ばしたいという大前提の上に立っている。
これはテレビもラジオもネットも全く同じで「なるべく多くの人の関心を」という、そこに実は盲点がある。
そのためにメディアは情報を選択する。
なるべく共通する話題を取り上げることが生き残りと成功につながる。
メディアには息苦しい量的限界があるのだ。

 なぜメディアは情報を選択するのか。すべてを伝えないのか。理由は単純だ。メディアには量的に限界がある。新聞ならば文字数。テレビのニュースならば時間。ツイッターなら文字数140字。(57頁)

例えば、アフリカを報道する時、それが都市のど真ん中でもゾウから入るとか砂漠から入るとか、サバンナの風景を合間合間に差し込むとかっていう。
アメリカは、のどかにしているアメリカはアメリカらしくない。
切迫感がアメリカ報道に。

 だからメディアは要約する。あるいは視点を選ぶ。そしてこのときに、メディアはまず、「わかりやすさ」を基準に情報を要約し、視点を選ぶ。
 要約とは何か。要するに四捨五入だ。0.5以上は切り上げる。0.5未満は切り下げる。
(58頁)

メディアの要約は、「わかりやすさ」だけを最優先するわけではない。特にテレビや新聞など商業メディアの場合、情報をわかりやすく要約するときに、より「刺激的」で多くの人が好む情報に加工する場合がある。(61〜62頁)

ニュース全体が、やや上から目線の方が数字が取りやすい。
「ほら、知らないでしょう?」という。

先日大阪へ行っていた武田先生。
大阪ローカルのワイドショー番組。
誰かの悪口を言っているらしく、バンバカ音消し音(ピー)が入る。
それが入るのがその番組のウリ。
メディアにいる人たちの展開の仕方というのはギョっとすることをいう。
関西の人たちはスタジオでのケンカが好き。
クロストーキングが多い。
クロストーキングはほとんど何を言っているのかわからないが、その騒がしさからチャンネルを切り替えられなくなる。
「そんなことはちっとも重要じゃないんですよ!私が言っているのはね!本当はね!(何かを叩く音)」
人間というのは、その「本当は」の後の言葉を待つからチャンネルを替えずに聞いてしまう。

不安になった武田先生。
「隣国のある国がこんなふうにして日本を攻めてきていますよ」とおっしゃる。
あまりにも具体的におっしゃるので、怖くなる。
一番確かなバランスは何かというと、中韓に関しては、もちろん悪い人もいる。
日本にいるように中国にも韓国にも悪い人はいる。
いい人もいる。
それが普通の感覚。

武田先生が新幹線に乗った時、観光客用の新幹線のチケットを持って、号車のわからない東洋人がいた。
武田先生は「後ろの方じゃないの」と指を指したら、真面目そうな青年が頭を下げて「シェイシェイ」と言って去っていった。
彼は多分中国の方だろう。
感じのいい人だった。
つまりいい人もいれば悪い人もいるという言い方では客は集まらないので「たくらんでいるんだ!あいつらは!」っていうような言葉使いの方が、というここにメディアは非常な危険性があるということを森氏は言っている。

商業メディアは「わかりやすさ」「刺激的であること」。
「知らないでしょう。実は」という枕詞を使うものだ。
耳や目を集める最も効果的な優先順位からいくと「危機」。
危機を感じさせる。
中国で反日運動があったらそれを大きく報じるが、「僕たち日本人好きですよ」という運動があってもそれを日本では報じない。
殺人事件があればそれがトップニュースになる。
しかし、一件も殺人事件がなかったというその日の夕方のニュースは「本日日本国で一件も殺人事件はありませんでした」というのは絶対に報道しない。
「犯人はあなたの横にいます」というような報道の仕方が今でいうところのメディアの常識。

1991年に起きた湾岸戦争の際に、真っ黒な重油で全身をおおわれた水鳥が黒い波打ち際に立っている映像が、世界中で大きな話題になった。このときはフセイン政権率いるイラク軍がクウェートの石油施設を爆撃したことで、深刻な環境破壊問題が生じているとメディアは伝え、多くの人はイラク軍のこの蛮行に怒り、攻撃もやむなしと考えた。−中略−でもその後、重油が海に流出した理由は、イラクではなくアメリカの爆撃が原因であることが明らかになった。つまりアメリカ政府の情報操作にメディアが使われたのだ。(63〜64頁)

私たちはそれゆえにメディア・リテラシー、読解力が絶対に必要だ。
文字メディアの歴史は紀元前。
新聞みたいなヤツは紀元前からあった。
問題はテレビ、ラジオといった視聴メディア。
これは1920年に生まれて、急速に全世界を覆ったもの。
この新しい視聴メディアを最も効果的に歴史上コントロールしたのがナチス・ドイツ。
ナチスが「ラジオとニュース映像が政治に使える」。
子供まで、いや、子供こそ簡単に取り込めた。
見せる、聞かせればいいだけ。
第二次世界大戦で全土を破壊され、死者は兵士のみならず市民にも及び、日本では死者だけで300万人以上に及んだ。
世界では6000万人が死んだ。
人類史上最大の犠牲者を出した。
この最大の犠牲者を出した戦争というのは、ある意味でメディアが広げたと言っても過言ではない。
でもメディアもその後も営々と生き続ける。
今度は逆に軍部を呪う論調で生き残り、経済復興と共にテレビメディアとなって、ますます肥え太っていく。

 メディアは、僕らが間違った世界観を持ってしまう危険性を持っている。新聞も書籍もテレビも、その可能性がある。
−中略−これはあなたも知っているかも知れない。袴田事件だ。
 事件の発端は今からおよそ50年近く前の1966年だ。静岡県清水市(現静岡市清水区)にあった味噌製造会社専務の自宅が放火され、さらにその焼跡から、専務の家族4人の他殺体が発見された。静岡県警はこの会社の従業員で元プロボクサーだった袴田巌さんを逮捕して、袴田さんは裁判で死刑が確定した。でも袴田さんは、自分は犯人ではないとずっと冤罪を訴え続けていた。
(82頁)

M新聞は袴田さんのことを「異常性格者」と書いている。
(本によると毎日新聞)
この記事はしきりに警察の努力に拍手を送っている。

 あるいは9月8日付けの紙面では、「袴田を追って70日 人情刑事に降参 事情引き出す森田デカ長」の見出しで、この取材に関わった記者たちの座談会が大きく掲載されている。(86頁)

あとで調べると、この「人情刑事」が最も暴力をふるった人。
正義というものは本当に注意深くペンを走らせなければいけない。

 例えば袴田さんが任意同行で取り調べを受けたことを報じた1966年8月18日付けの毎日新聞紙面は、記事の見出しがいきなり「不敵なうす笑い」で始まっている。(84頁)

1994年、オウム真理教による松本サリン事件が起きたときは、よりによって被害者である河野義行さんが犯人とされかけた。
−中略−でもこれを聞いたテレビや新聞は一斉に、河野さんが犯人であるかのような報道を始めた。たとえば6月29日の朝日新聞の見出しには、「松本のガス中毒 会社員宅から薬品押収 農薬調合に失敗か」と書かれている。そして同日の毎日新聞は、「第一通報者宅を捜索 薬品類を押収 調合『間違えた』」などが見出しになっている。(93〜94頁)

ほとんど犯人扱い同然の誤報を新聞で扱っている。
私たちが肝に命じなければならないのは、新聞は、メディアは間違えることがある。
そのことを決して忘れてはならない。
メタ情報といって、そのニュースを伝えることによって違うものが伝わる。
新聞の一面でドカーン!とその記事を大きく扱うと、それが日本の最も重大な関心事と受け止めてしまう。
そういう人間の心を操るというのがニュース番組では簡単にできる。
そうとう際どいラインにメディアは立っているものだと、そんなふうに思って付き合った方がいいのではないか。

街頭インタビューなんかで、テレビ局にもその思いがあるのだろうが「こんなに日本社会が格差に満ち溢れ貧富の差が」「老人たちは明日の不安におびえ」それは「やっぱりアベノミクスの失敗だ」と政治家の名前を上げてボロクソに言う人を取り上げる。
今、メディアで平気で言っているが「貧しい家庭の子は学力が伸びない」。
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貧しい家庭の子は学業成績が低いというが「本当かいな?」と思う武田先生。
「テレビで戦争ゲームばっかりやっているから少年犯罪が増えている」というような因果関係の見つけ方とよく似ていて、「お勉強」は貧富の差を逆転させる唯一の道だった。
何で二宮金次郎が小学校の校庭に立っていたのか。
「お金持ちの子は薪を拾いに行かないから薪拾いの後に本なんか読まない。だからダメなんだ。二宮金次郎は貧しかったから勉強したんだよ」という銅像があの二宮金次郎なのではないか。
薪を背負うぐらい貧しくないと本は読まない。

かくのごとく真実は一つではなく、いかようにも読みようがある。

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