カテゴリ


2016年02月02日

2015年9月28日〜10月9日◆正義という幻(前編)

以前取り上げられた『たったひとつの「真実」なんてない メディアは何を伝えているのか?』という本と同じ森達也氏の著書。
内容も前の本とかぶる部分もある。
番組では途中まで本を取り上げるのだが、最後の方は引き続き「正義という幻」というお題のままで、本からは離れた話に移る。
番組の中では本の一部しか取り上げないのだが、取り上げない章などにも、とてもためになる内容がたくさんあると思う。

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機



とても洒落た前書きに魅せられた武田先生。
小学生の息子と遊んでいる筆者。
遊んでいるうちに蜂に襲われそうになる。
体が大きくて真っ黒い毛に覆われた大型の蜜蜂。
凄まじい羽音を立ててこちらに向かってくる。
大スズメバチか?
いや、クマバチであった。
息子と「刺され無くてよかったよかった」と幸運を喜び合うという「夏の思い出」みたいなことから話が振り出される。
「絡まれたクマバチはそんなに恐ろしいのか」という息子の疑問に著者はひたすら自分たちが遭遇した蜂を調べる。

 体が大きく、羽音の印象が強烈なために獰猛な種類として扱われることが多いが、性質はきわめて温厚である。ひたすら花を求めて飛び回り、人間にはほとんど関心を示さない。オスは比較的行動的であるが、針が無いため刺すことはない。毒針を持つのはメスのみであり、メスは巣があることを知らずに巣に近づいたり、固体を脅かしたりすると刺すことがあるが、たとえ刺されても重傷に至ることは少ない(アナフィラキシーショックは別)。
 本種は大型であるためにしばしば危険なハチだと解されることがあり、スズメバチとの混同がさらなる誤解を招いている。スズメバチのことを一名として「クマンバチ(熊蜂)」と呼ぶことがあり、これが誤解の原因のひとつと考えられる。
(8〜9頁)

 人から見た虫の世界は、かなりの誤解と偏見に満ちている。(9頁)

平和な蜂なのに、それを悪漢のように思ってしまう。
世界全体をしっかり見つめないとだめだなということ。
ムカデ、ゴキブリ、ゲジゲジ。
よく調べてみると、非常に危険なヤツと全く危険じゃないヤツがいる。
それを私たちは余りにも、いとも簡単にいっしょくたんに悪者とまとめているんじゃないだろうか?
筆者はそれを前書きでこんなことを言う。

 ほんの少し視点を変えるだけで、たぶんこの世界は相当に違って見えるはずだ。それほどに世界は多重で他面で多層的だ。(11頁)

意見というのは様々あっていいと思う。
様々ないとダメ。
意見が「一つしかない、二つしかない」それじゃあダメ。
突拍子もないことも含めて、いろいろないと世論というのはまとまらない。
まとまるためには最初から一つを目指すのではなく様々が混じるところから一つが目指される。
森氏は自分が書いた社会派エッセーの「加熱する領土問題の章」というところで、一つの提案として自分の考えをおっしゃっている。
それはどういうことかというと、竹島にしろ尖閣列島にしろ、譲渡、中国や韓国に譲るというのも一つの選択肢として考えられないか?という提案。
一体、領土、土地についての国家間の争いがどれだけの人たちを不幸にしただろうか?
大東亜戦争、中国との大戦争にのめり込んでいくのは満州の利権問題なので、日本は異国に土地を広げて持って、300万人を超える戦死者を出す大戦争に巻き込まれていく。
それもたかだか領土問題。

 インドとパキスタンのカシミール紛争。イギリスとアルゼンチンのフォークランド戦争。朝鮮戦争やノモンハン事件。イラクがクウェートに侵攻したことで始まった湾岸戦争もあれば、第二次世界大戦だってきっかけはドイツによるポーランドの侵攻だ。−中略−
 歴史の縦軸を見ても現在の世界情勢の横軸を見ても、テリトリー(領土)をめぐる問題で多くの人が争い、多くの命が犠牲になってきたことは明らかだ。
(38頁)

領土問題で人間が幸せになったことが一回もない。
必ず殺し合いで泥沼化する。
日本はその中でも、とんでもない不幸を抱えている。
ロシア、韓国、中国、台湾。
全ての隣国と領土問題を抱えている。
そういう国の地勢的な位置にあって、せめぎ合うだけ、主張するだけではなくて、様々な提案が領土問題になされて当然ではないか?

 ならば「譲渡する」ことも一つの選択だと僕は思う。−中略−
 もちろんタダとは言わない。漁業権やレアメタルなどの海洋資源、天然ガスや排他的経済水域などの問題については、譲渡のバーターとして、今後見込まれる利益を分配するとか契約を交わすとか交渉を継続し続けることが、それこそ大人の知恵と分別が必要だ。
 あまり知られていないことだけど、国土面積において世界第六一位の日本は、排他的経済水域の面積については世界第六位にランクしている。
(39〜40頁)

竹島や尖閣諸島をめぐる問題が大きくなった九月上旬、この連載で書いた『過熱する領土問題 譲渡することも一つの選択肢だ』がネットにアップされて数日後に、「2ちゃんねる」などの匿名掲示板を中心に、すさまじい反応が沸きあがった。−中略−
 「生粋の非国民・売国奴」
−中略−
 「誰かこのバカの家に押しかけていってやれ。土地をくれるってよ」
(46〜47頁)

あまりにも正義が大声すぎるのではないか?
他の人の意見を聞かないぐらい大きくなっている。
彼を罵倒する声の中で、中国のチベット、ウイグルを奪い取ったことを大別すべきという若者がいた。
彼が街を歩いていて、そういう若者に詰め寄られた。
著者は1949年に成立した中国が1950年に侵攻したのがチベット、ウイグル。
国が出来立ての時に半分脅えながら、中国が自分のところに侵略されたくないというので先に侵略し返した。

でも六〇年も前の史実を前提にして、だから今も同じことが起こるとの主張は、あまりにも短絡的だと思いませんか。(50頁)

中国も国際社会の目があるから、そんなことできないから、あんまりムキになって「中国が侵略するぞ侵略するぞ」と一方的な正義ばかり叫ばない方がいいのではないか?
そういうこともおっしゃる。

非国民で売国奴で平和ボケのうえにお花畑全開である森達也は、ますますこの国で居場所を失くしているはずだ。(53頁)

尖閣の問題が本当に燃え上がったのは、例の乱暴者の中国人船長による体当たり事件。
尖閣諸島中国漁船衝突事件 - Wikipedia
日本の船から撮った体当たりなので、体当たり風に見えるとおっしゃる方もいると思うが、やっぱりあれは中国人船長のマナーが悪いような気がする。
森氏の本には時間のズレがあるので気を付けなければならない気がする。
基本的に中国と日本の領土感がかなり違うようだ。
中国の方というのは領土というものを非常に固定的に考えられる。
NHKの東の島の調査。
日本というのは東の方の島で国土が広がりつつあって、活火山がどんどん島を広げる。
領土というのは非常に不安定なものであるというのを、私たちは自然観の中に持っている。
中国の方たちは「不動」産。
「動かないもの」という思いがあるようだ。

 例えば二〇〇七年の春に公開された映画『俺は、君のためにこそ死にに行く』。石原東京都知事が脚本と製作総指揮を手がけたこの作品のタイトルは、「俺と君」とのあいだの純然たる対幻想が、いつのまにか戦争という最悪の共同幻想の場に誘引される構造を、とても明確に露呈している(65頁)

メイキング・俺は、君のためにこそ死ににいく [DVD]



この映画に関して森氏は石原都知事の危なさを文章の中でおっしゃっている。
このあたりもズレがある。
この映画ははっきり言って、何にも話題にならなかった。
公開日数もそうとう短くて、ほとんど打ち切り状態だったのではないか。
映画屋さんが拗ねて言う「構想三年、撮影三ヵ月、公開三日」。
政治家がタイトルを聞いただけで察しがつくような政治的宣伝を含めたような映画を製作指揮するのはいかがなものか、というのはよくわかるがしかし、結論として何の効果も、ある意味でなかった。

日本の問題点。
処分される犬猫の殺傷処分の方法。
改憲を目指す自民、安倍首相への異議、違和。
森氏は、それなどを激しくプロテストしておられる。

 小学五年生の長男が熱を出した。咳も止まらない。近くの小児科医院に連れてゆく。−中略−
 靴を脱いだ僕は、玄関の横の靴箱に入っているスリッパに履き替える。
−中略−
 受診料を払い、小さな紙袋に入った薬を手渡される。長男の手を引きながら玄関へと向かう。
−中略−
 あわててスリッパを脱いだ僕は、長男が履いていたスリッパと合わせて手に持った。でもどうしよう。いくつもの正方形に区切られた靴箱に入れるためには、今脱いだばかりのスリッパを重ねなくてはいけない。
−中略−
 そもそもなぜ、待合室でスリッパに履き替えねばならないのか、その理由がよくわからない。履物の意味は、足の裏を床や路上と遮断すること。どう考えてもおかしい。だって重ねるときにスリッパの底面がもう一つのスリッパの内側の箇所に付く。付くどころかべったりと付着する。つまりその瞬間、床と足裏とを遮断することが目的のはずのスリッパは、本質を失っていることになる。
(142〜144頁)

「利便性に隠れた日本人の不潔さ」と指摘する。
スリッパを発明した国はどこでしょう?
日本。
メイドインジャパンのスリッパは左右対称。

最も大きな違いは、欧米のスリッパの場合は、日本のスリッパとは異なる左右非対称であることだ。(146頁)

なんでスリッパが日本で生まれたか?

日本型のスリッパが考案されたのは江戸時代の終わりから明治時代の初めにかけて。鎖国体制が終了するとともに来日するようになった外国人たちが旅籠や寺社に泊まる際、どうしても靴を脱がずに部屋に上がってしまうため、靴を履いたまま履く屋内用の上履きとして、東京八重洲に在住していた仕立て職人の徳野利三郎が考案して作成した。このときの基本形は左右同型で底は平面。そしてこれが、その後の日本におけるスリッパのスタンダードとなった。(145頁)

 一九九八年、僕は『A』というタイトルの自主製作ドキュメンタリー映画を発表した。撮影開始時には、テレビで放送されることを前提にしていた作品だった。でもオウムを絶対悪として描こうとしていないとの理由で、所属していた番組制作会社から撮影中止を言い渡され、やむなく休日を使って一人で撮影を続けていたら、今度は契約を解除され(つまりクビ)、最終的には制作も配給もすべて自前でやる自主制作映画になった。(158頁)

A [DVD]



 社会の異物であるオウムを撮ることで、僕自身もこの社会の異物となった。(159頁)

 海外のメディア関係者が来日して日本の夕方のニュースを見たとき、誰もがまず、「なぜ報道番組で行列のできるラーメン屋や回転寿司店のランクなどを放送するのだ」とびっくりする。(161頁)

 彼らが口にする違和感はもう一つある。モザイクやテロップだ。「あまりに多すぎる」と嘆息される。(162頁)

 テレビ番組で朝鮮(韓国)語の翻訳を仕事の一つにしていた知人(在日韓国人)にしばらくぶりに会ったとき、「ここ数年の北朝鮮については、翻訳の方向性が変わってしまった」と言われたことがある。
「変わったってどんなふうに?」
「例えば北朝鮮の一般国民が金正日について語るとき、普通に『首領さま』とか『将軍さま』と言っているのにディレクターやプロデューサーから、『偉大なる首領さまである金正日同士』にしてもらえないかと要求される。
−中略−
「だからボイス・オーバー(吹き替え)だよ。もとの音声は声優さんの声でつぶして消してしまう」
 こうして異常で危険な国だとのイメージが強調され、敵視感情が高揚する。
(319〜320頁)

音も聞かせないし訳文をかぶせる。
ワイプで抜いて不愉快そうなコメンテーターの顔を映す。
一つの画面の中に、盛るだけ盛っている。
その上、雨がちょっと降れば「どことかに警戒が出ました」とか、上も下も横も、日本のテレビぐらい汚いテレビはない。
テレビ画面というものが最近は情報が溢れすぎている。
その上、現場の風景を撮るとモザイク等々がバーッと入ったり、音声の変換というのが、わからせたくない時はなおさら声をいじる。
極端すぎて、事件の何か持っているものが歪んで聞こえる。
「その男が殺人に加わったとして、あなたその男とお会いになったのは何時ごろなんですか?」
殺人事件をずっと報道している時に突然
「(音声をいじった変に高い声で)ええ私は・・・」
殺人事件なのにドナルドダックみたいな声が出てきたりして「真面目にやれよ」と言いたくなる時がある。
モザイクをかけるのはいいのだが、モザイクを全部にかける。
「そこまでモザイクをかけるなら、もう映すなよ」と言いたくなる。

ニュースメディアにとって足すもの(いろんなものを伝えたいという情報)はわかるけれども、足すものが多ければ多いほど、ニュースメディアはパワーを失う。

 ベトナム戦争当時の人たちは、一秒の何百分の一。しかもモノクロがほとんどだ。つまり欠落したメディアだ。ところが今の戦争報道の主流はビデオ。情報量はスティール写真とはくらべものにならないくらいに増大したのに、人の心は喚起されない。−中略−
 表現の本質は欠落にある。つまり引き算。
(164頁)

そのスチール写真で全米にベトナム反戦の渦が巻き起こった。
湾岸戦争の時、砂漠の戦場からCNNが中継放送をやった。
海兵隊が上陸してくる。
それを逆打ち。
CNNが浜辺に待っていて報道する。
コメディーを見ているみたいで、上陸してくる兵士たちが拍子抜けしているのと、不愉快そうな顔をしている。
彼らは戦場に行くって言われて上陸用舟艇から降りてくるのだが、CNNのキャメラが正面から撮る。
戦場に報道キャメラが正面からいるっていうことのばかばかしさ。
かつてノルマンディーということでブレにブレた写真一枚で、ノルマンディー上陸作戦の緊迫度を捕まえたあの報道写真の神聖な緊迫感というのがテレビの動く方、ムービーには全くない。
CNNが湾岸戦争を報道すればするほど、「ゲームじゃないか」という、イメージする自らの力をテレビが枯渇させた。

もしもこのままメディアが進化し続けるなら、環境破壊や核戦争や宇宙人の襲来などではなく、メディアによってこの世界は滅ぶだろう。(165頁)

明らかに私たちが戦争報道に関してものすごく想像力を失っているのことは事実。

今年(2015年)の8月、NHKの報道の仕方で武田先生が「偉いな」と思ったこと。
8月7日に、たまたま広島で見ていた。
(南)こうせつさんから原爆反対のコンサートをやろうと言われて、ゲストで出演された武田先生。
NHK広島放送局 | ヒロシマから全国へ、世界へ
この時にNHKがすごい番組をやっていた。
原爆が落ちてから二時間後の写真が広島に二枚残っている。
それをNHKのCG班が動かす。
「人間はこう動くであろう」という人体の動き予想図をアレして15秒間ぐらいその映像がその後どう動くかというのをCGで合成して色をつけてやって見せる。
女学生が背中を向けていて、シャツが裂けて肉が出ているのだが、そこに原爆の火傷の色を込める。
髪の毛がドリフのコントみたい。
二時間前に2000℃の熱を髪の毛が浴びたので、チリッチリに盛り上がっている。
奥の方に両手を前に突き出したお婆さんが手袋を半分脱ぎかけて歩いてらっしゃる。
それは手のひらの肉が焼け落ちて下がっている。
その奥の方のお婆さんを5・6歩歩かせる。
一枚の写真が動き出すあの恐怖感はすごい。
NHKは素晴らしい原爆特番だった。
是非アメリカの方に展示して欲しい。
涙を誘うのは、赤ん坊の頭がちょっと見えるお母さんがいる。
2000〜3000℃の熱を浴びて、赤ん坊が泣いているんだろう。
そのお母さんの静止画が揺らす。
そのお母さんの手が動き出した時、号泣以外の何物でもない。
たった一枚の写真が最新のCG映像で30秒間動くという、そのイマジネーションの刺激の仕方が素晴らしい。
(武田先生が見たものと同じものかは不明だが、ここから動く写真を見ることができるNHKスペシャル きのこ雲の下で何が起きていたか
戦争の伝え方というのは、これからもっと工夫できる。
そんなことを考えていただくと、森氏が今批判してらっしゃる「テレビメディアが世界を滅ぼす」から、逆にテレビ世界が遠くにあった戦争を間近に見せてくれるすばらしいメディアになる可能性があることは事実。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック