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2016年04月14日

2016年1月18〜29日◆『女が女になること』三砂ちづる(前編)

この著者の別の本は以前取り上げたことがあるのだが、その時には結構納得した内容だったけど、主張に極端な部分もある方のようで、賛否あるようだ。
特に今回の『女が女になること』という本を読んでみると、確かに過激というか「そういうことを言われると迷惑」っていう人も多そうだなと。
番組の中では、本の一部分しか取り上げられていない感じ。

番組は以前取り上げた

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)



この本の話から入る。

女の人はオニババ化する。
「オニ」という言葉は女性にしか使っていない。
「オニジジイ」はない。
言うなら「ヒヒジジイ」。
(ここで私は「鬼教官」ってのもあるけど?と思ったが)
それを女性の立場で「なぜ女だけがオニババ化するのか」というのをこの本で謎が解けたという武田先生。
名前は言えないが、武田先生の目の前に本当にオニババ化した人がいた。
「なんであんないい人だったのに」
若いころは美しくインテリで、いちずでブレていない。
それがとある年齢を超えた瞬間から、非常に窮屈で頑固で融通が利かず、暴力的。
おばあさんも暴力をふるうようになる。
七十過ぎた人が杖を振り上げる恐怖感には圧倒される。
ジジイだとわかるが、お婆さんが怒りのあまり、孫ぐらいの年齢の子に杖を振り上げているというのは一種真昼の怪談のよう。
そういうこともあって、なぜそうなったかというのを三砂ちづるという方がとくとくと書かれたのが『オニババ化する女たち』。
それから何冊もお書きになって、今回番組で取り上げる本

女が女になること



三砂ちづる氏は疫学教授。
つまりたくさんの人から話を聞いてそれを健康に活かすとか。
「肺がんになる人をずっと調べていたらタバコを吸う人が多かった」というのは疫学調査の結果。
そういう研究をなさっている教授。
人間を保健衛生というような面で見ていく。
この人の本には、うならせるような爽快な一言はない。
ことの本質について、いくつもの事柄を重ねて迫っていく人。

本の帯。

「仕事と家事・育児の両立」が喧しいが、問題は両立や経済だけではなく、男に抱きとめられ、子どもを産み育て、性と生殖を担う女のからだの喜びが見失われていることではないか。

子育ての困難さ、少子化、保育園不足等々、社会・行政の問題等々あるが、これらすべてことの本質は「女がからだの喜びを忘れたから」だ。
この人は女性の権利の問題を扱う時も、女の体から問いただすという手順の人なので、男どもを納得させる力を持っている。
例えば『オニババ化する女たち』には、卑俗な表現ながら男が男に責任を問う表現に
「貴様、それでも○○○○ついてんのか!」という言い方がある。
そういう叱責がある。
男が男を罵倒する時に「○○○○(四文字ということなので「キンタマ」か)ついてんのか」と叫ぶ。
人間というのは非常に面白いことに、このほかにも腹、キモ、首、コシなど肉体の一部を心理表現に使う。
これが日本語の特徴。
女性にはその手の言葉がないのか?

京都の日本舞踊の伝授の現場。
芸妓さんや舞妓さんに舞を教えるお師匠さんの言葉で「おひしが歪みますえ」。
「菱」が女性器を表している。
「おひし」を歪ませてはいけない。
日本舞踊の藤娘などを連想すると「おひしが歪んでいない」のが伝わってくる。
菱型のまま腰が回転する。
腰が入っている。
「腰を入れる」「腰が砕ける」「腰が抜ける」とかというのは日本語にしかない表現。
おひしを歪ませるな。
それが身体の中心を作る、武道で言うところの「丹田」になる。
女の子の成長を願うおひなさまの横に飾るのは「菱餅」。
あそこが順調に生育することを願うという。
つまり非常にストレートなお祭り。
ある意味で「おひし」が子孫繁栄の人類を支えている。
そういうことを三砂氏がおっしゃる。

三砂氏は絶えず、身体に即して、性に即して女と母を説くという方。
第一章で著者は出産を問うている。

 子どもにとって親は宿命である。−中略−親は宿命、さらにまた、母親はとりわけ宿命である。胎児のうちは母親と文字通り一体であり、生まれてからは、なつかしい匂いと声をもつおかあさん。その人が自分に対してどのようにふるまっているか、ということが人間の基本的な対人態度の基礎を作る。こういったことに、いわゆる「科学的根拠」をあげることはできているが、あげるまでもない、ということもまた、多くの人に感知されている。(13頁)

安倍さん(安倍総理)は言い方はまずかったが、まんざら間違いではない。
2013年の「3年間抱っこし放題」の件かと思われる)
基本は母親との接触。
これが人間を作るということを保育園の前に語らなければならないと三砂氏はおっしゃる。
幸せな母の声掛けにより言葉は人に芽生えていく。
三歳までの母親の存在はとにかく大きいのだ。
いっそのこと出産から考えてみましょう。
はたして出産は医療の問題かどうか疑問に思う。
出産については、母体へいくつものリスクが想定されている。
それは苦しく危険なものである。
その想定で医療が関与し、医療のもとで出産は支配されている。
痛くない出産は医療で可能になった。

 彼らが二〇一二年に四万ドルの寄付を得てつくった“Freedom for birth”(「出産の自由を求めて』)は、自宅出産を介助していたために逮捕されたハンガリーの助産婦、アグネス・ゲレブをとりあげ、欧州人権裁判所に「女性はどこで、だれと、どのように出産するかを求める自由を持つ」ことをみとめさせたことを題材としている。(56頁)

帝王切開は各国で上昇しつづけ、アメリカ、ヨーロッパでは三割を超えており、日本でも一九八〇年には七%程度だった帝王切開率は二〇一〇年には二〇%に近づこうとしている。(57頁)

産道を通って赤ちゃんが生まれてくるということには生物学的なワケがある。

母親の産道を通らずに生まれてくる、ということは、人生唯一のチャンスである母親の産道における細菌叢への曝露を出生時に経験しないということになり、生涯にわたってさまざまな疾病に対して脆弱な状態になりうるのではないかという。−中略−微生物学の研究者たちの仮説のひとつは「産道を通った自然な出産を経験していないと、その後さまざまな疾病にかかりやすい」ということであり、だから、「帝王切開で生まれてきた子どもに、母親の産道からの採取物を塗布して、細菌叢への曝露を促進する」ような研究を推進したりしている。(57頁)

(番組ではすでに確定した事実で、採取物を塗布する方法も既に一般的に行われているかのように言っているが、本によるとそこまでの内容ではなさそう)

出産は医療が築かれる遥か以前からあった。
医者がいない時から、出産は人類の命をつないできた。
完全性、快適性を追求する方がおかしいのではないか。

出産は女の体の母性のスイッチを入れるための経験なのだ。
産婦人科での出産体験ではなく、いわゆる助産婦院の助産所で出産した女性たちを調査した結果、赤ちゃんを産むという重大さを女の人は自動的にたくさん学んでいる。
ここに一片の詩がある。
助産所で出産したある女性が書いた詩。

  「わたしのお産」
 繰り返し襲う、いきみの波。
 膣からのぞき始めた卵膜に触れる。
 わたしは、“生き物”だ。
 いつまで続くのだろう。いつまでも続くのか。
 彼の潤んだ目が見える。
 卵膜が破裂し、羊水が流れ出る。
 少しずつ、少しずつ、ゆっくりと赤ちゃんの頭を感じ出すに連れ、わたしのからだは、ふわーっと軽く持ち上がり、どこか宇宙をひとり、ただよっているようだ。
 頭からつまさきまでわたしの全身が希望に包まれる。
 「いい顔してはるねえ」遠くで声が聞こえる。
 この感覚はなんだろう。
 ただ希望の光だけがわたしをおおう……。
 このあとの一週間は、まるで母の子宮に戻っているような、不思議な心地よい時間だった。羊水のにおいとピンクのベールにつつまれ。
(29〜30頁)

ここにあるのは分娩についての苦痛、リスクではない。
男には全く不可能な体験の報告である。
ここには女性の能力の賛歌がある。
命を自分の体で生んでいるという体感は男が絶対体験できない本能と野生に支えられている。

(ここで番組では武田先生が過去に遭遇したたくましいお母さんたちの話になるが、2015年12月7〜18日◆『父という病』岡田尊司(前編)とかぶるので割愛)

家庭、あるいは助産院で子供を産むことは、人生の中で、ものすごく強い体験になる。
強烈な体験を心地よい体験に導くのが助産師。
ここで自分の力で生んだ方というのは、自分の力で、自分のホルモンだけで生んだという自信と決意が母性のスイッチを入れる。
医療を介入させず、己の体力のみで出産したという体験は生の大元の原理を獲得することになる。

 分娩中に女性は周囲に気を使わなくなったり、自然に出てくる声や感情を出せるようになったりする。(49頁)

これは性行為、脱糞にも勝る快感に違いない。
(と本に書いてあると番組では言っているが、見つからない)

近年、増加傾向にあると言われる虐待や育児不安といったトラブルに対して、育児期の女性に対するサポートだけでなく、妊娠・出産時からの関わりも重要である可能性を示している。(49頁)

「子供を産んだ」という手ごたえなしに子供が出現したことへの戸惑いみたいな。

自分は動物なのだという実感を出産体験で楽しんで欲しい。
子を産むという力は女性の体の中にたくわえられている。
その力を存分に出しきる。
そうすると母の自覚が宿る。
女の体には生殖という野生が宿っている。
そのことを女性自身は気づいて欲しい。
私たちは生まれて育てて死ぬ。
この基本の形そのものに喜びと満足がある。
生きる事自体がリスクに満ち溢れている。
妊娠出産というリスクは、実はそんなに大きなリスクではないはずだ。
近代医学が全力をあげて精緻に作り上げられてから、妊娠出産はいつのまにか女性のリスクになってしまった。
近代医学の前から妊娠出産はあったワケで、医学ができてから母体への危険ということで妊娠出産が取り上げられるのはおかしいのではないか。

子猫を取り上げられた母猫はものすごく怒る。
猫が六匹ぐらい子供を産む。
残酷な話だが武田先生のお母様が何匹飼うか決めてあるので、生まれた先から捨てに行く。
取り上げると、おとなしかった母猫がものすごく怒る。
ずっと恨むように夜中じゅう探す。
子供を取り上げれた母猫の怒りはすごい。
絶対に人間にもある。
山口百恵さんが子どもを保健所に連れて行こうとして、芸能誌に追いかけられて取り囲まれた時に暴れた。

被写体



(この本に詳しく書かれているようだが、保健所ではなく入園式でのことらしい)
子供を産んでいる緊張感と、守って育てなきゃという緊張感が女性に宿ると、そういう母親の「母性」というのは凄みがある。

医療が介入するとすぐに母親から離して新生児室に集める。
ここで粉ミルクが給餌されるため、母乳保育があまり重大視されていないという指摘が三砂氏にある。

 低体重児であったり、なにか異常がない限り、元気な赤ん坊を「新生児室」に全員隔離する必要は全くないし、−中略−医療関係者に「休んでください、赤ちゃんは預かります」と言われると、そういうものかな、と思うのである。(86頁)

 「カンガルーケア」は、もともと南米のコロンビアで、低体重児に対する処置として行われていたものだった。低体重の赤ちゃんは、哺育器が十分にはない開発途上国では別の方法で保温しなければならない。そこで赤ちゃんとお母さんの肌を触れ合わせることによって、低体重の赤ちゃんの体温低下を防ぐという発想が生まれたのである。−中略−
 親しくしている現在六十代の日本の開業助産師の方は、自分自身が低体重で生まれたため、お産婆さんが自分のふところにはだかでいれて、育てられたのだ、とおっしゃっていた。
(97頁)

 コロンビアやボリビアは高地にあって気温も低い。−中略−まさにカンガルーのように、お母さんの胸に赤ちゃんをずっと入れたままにして保温するのである。ラテンアメリカでは一九九〇年代に盛んに行われるようになり、ブラジルの病院では、−中略−文字通り寝ても覚めても赤ちゃんを懐の中に入れていた。(98頁)

いわゆる「医療」というのは西洋から入ってきたものだから、西洋システムをとる。
子供の育て方にしても、わりと早い段階から子ども部屋を作る。
ベッドルームに行かせて一人で寝かせる。
日本ではかつての時代は親子というのは川の字になって寝るというのが妥当だった。
それが教育的に非常に子供の自立心を奪うということで真似をしたのだが、あまり関係ないのではないか?

戦前の日本を見た多くの西洋人が書き残した伝聞の多くが「幸せな日本の子供の笑顔」。
明治期に西洋からやって来た人が大森あたりの海岸をブラブラしながら、日本人の子供の表情を見ていて「これくらいニコニコ笑って近寄ってくるていう子供を世界中で見たことがない」。
その人が言っているのは、小さな子供を叱る大人を見た事がない。
日本の大人たちは穏やかに子供を見る。
しつけはもうちょっと大きくなってから、ものすごく厳しくなるが、幼児に関してこれほど優しげな国民を見たことがない。
そういうことを書き残した方がいらっしゃる。
(調べてみたがエドワード・モースという人の文章ではないかと思われる。ただ、この時期は「叱らない子育てブーム」のようなものが日本にあったようで、昔の日本はずっとそうだったのか?となると疑問。その上、欧米人から見たら日本人の顔は笑っていなくても笑っているように見えているものらしいので、そのあたりも鵜呑みにしていい話ではないように思える)

ここから少し武田先生のお母様との思い出話。
前にも似たような話があったと思うので割愛。

 ここでは、多くの女性がその生殖年齢期間ずっと経験する「月経」をとりあげてみよう。−中略−
現在の日本には安価で品質のよい生理用ナプキンが存在するから、この質のよい生理用ナプキンをあてておいて、トイレにいくたびに交換するものである、と考えている。
(138頁)

用具を使わずに本能で対処できるのではないだろうかというような指摘をなさっている。
そういうも能力本能というものが、現代女性は低下しているのではないか。


この記事へのコメント
「菱餅が女性器を指す」の話は嘘だね。後付けだよ。
Posted by 難波氏ヨット! at 2016年10月28日 06:15
コメントをありがとうございます。
「諸説ある」みたいな、結局は調べてもよくわからない話かなと思います。
ご指摘ありがとうございました。
Posted by ひと at 2016年12月13日 07:25
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