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2017年01月18日

2016年3月14〜25日◆『しんがりの思想 反リーダーシップ論』鷲田清一(前編)

しんがりの思想 ―反リーダーシップ論― (角川新書)



関西方面にいらっしゃる哲学者の先生。
武田先生と年齢が同じ(お二方とも1949年生まれ)。

「しんがり」という言葉が好きな武田先生。
「どべ」「ビリ」ということ。
鷲田さんは心構えのことを仰っているので、具体例は本の中にはない。
「リーダーシップ論」があるが、鷲田さんの発想は「そうじゃないんじゃないか」。
武田先生が好きな考え方「反リーダーシップ論」。
世の中を決定しているのはリーダーじゃなくて、優秀なビリの人を持っている社会が良い社会なのだ。
「しんがり」の人、最後尾を歩いている人、走っている人。

「しんがり」という言葉そのものは、日本史の戦国期、合戦で用いられる軍事用語。
詳しく言うと、隊列や陣、序列の最後、最下位を示す言葉ではあるのだが、この「しんがり」というのは合戦や戦闘になった時、最も勇敢な軍人が担当する戦闘場所。
だからしんがりというのは、いざ戦闘となった場合は意味がコロッと変わる。
具体例で言うと、例えば織田信長の軍勢が武田軍と激突する。
織田信長はコテンパンにやられる。
武田軍は圧倒的に勇猛果敢で強い。
それで信長は何と、ほとんどの兵隊さんを全部捨てて、まず自分がトップバッターで逃げる。
退却戦になるのだが、その退却戦になった瞬間にリーダーの信長は一番最初に逃げながら言い置いた命令が「しんがりは秀吉」。
「退却戦のビリは秀吉が担当しろ」
これは何を意味するかというと、最も優秀な信頼できる兵士であるということ。
秀吉は何をやるかと言うと、退却戦の最後尾について味方を逃しつつ、敵と戦い自分も逃げる。
これをやらなければならない。
だからしんがりを担当するというのは、知恵があって戦争に強くて度胸満点。
三拍子も四拍子もそろわないと退却戦においては、しんがりは任せてもらえない。

幕末に薩長軍と幕府軍が鳥羽伏見で激突する。
時の勢い等々があって、幕府軍は総崩れになる。
退却戦に入る。
その時に大阪までの退却戦のしんがりは誰か?
新撰組、土方歳三。
その全体の軍隊の中で最も勇猛果敢な人間がしんがりを担う。
数千の薩長軍に対して、新選組は土方をトップにして数十人の単位で、千の軍勢を止めたというので武名がものすごく上がる。
「さすが土方」と。
そのしんがりの意味合いが変わるというのは、このへんのこと。
普段は「最後」という意味を示すのだが、戦闘になって退却戦になった場合、しんがりといのは最も勇猛果敢な、リーダー以上に優秀な人でないと担当できないという。

前に『三枚おろし』で日立の社長さんのをやった。
あの人は「しんがり」のことを「ラストマン」とおっしゃった。
船が傾いて沈んでいく時に、全員避難したかどうかを全部チェックして最後に船を脱出する人。
この「ラストマン」と同異義語が日本には古くからあって、それが「しんがり」ということ。

 リーダー論、リーダーシップ論がとかく賑やかである。(2頁)

 そもそも、みながリーダーになりたがる社会はすぐに潰れるということがある。(6頁)

リーダー論に素直に従うようなひとほどリーダーにふさわしくない者はいないという、語るに落ちる事実がある。(6頁)

それよりはしんがりの人、これこそが本当の勇者ではないか?

民俗学者の宮本常一。
『三枚おろし』でも取り上げた方。
(このブログでは取り上げていない)

庶民の発見 (講談社学術文庫)



ある石工の言葉として、宮本が『庶民の発見』(一九六一年)のなかで記録しているものである。「ほめられなくても自分の気のすむような仕事はしたいものだ」とも、この職人は語っている。−中略−
 石工は、田舎を歩いていて見事な石の積み方に心打たれ、将来、おなじ職工の眼にふれたときに恥ずかしくないような仕事をしておきたいとおもった。
(9頁)

黙々と田舎の河原の土手あたりにしっかりした石を組んでいる、あるいはその石組を見て感動している石工さん。
「実はこの手の人たちが世の中を作っているんだ」と仰っている。



寂しい浜辺を遠くの方で一人、走っている。
そうするとナレーションか文字か何かで「もうオリンピックは始まっている」
長距離ランナーらしきその青年は、オリンピックを目指して練習している。
それをそのコマーシャルは「もうオリンピックは始まっている」という。
ジーンとくる。
影で努力しているその影の人。
鷲田氏はそういう「影」とは言わないまでも、そういう人たちが大事なんじゃないか。
リーダーよりも最後尾のしんがりの人たちが大事なのではないか。
なぜ、その人たちが大事か。
それは日本が縮小社会に入ったから。
日本は縮んできている。
年間で25万人のスケールで人口が減っている。
だから4〜5年で百万都市が一つ消える。
そういう激変が日本には訪れつつある。
1970年代、人口は一億を突破し、30歳以下の若者人口は国民の49%。
そういう世相が変わって日本という国は老いに入った。
2008年、1億3千万を超えた人口はついに減少に転じ、出生数は減少。
もはや4人家族、子供が2人の家族、こういう家族がもう珍しくなった。
これは間違いなく縮小社会であって、2011年の大震災と原発事故が追い打ちをかけ、地方消滅というような危機が今、進行している。
これからも果てしなく日本の縮小は続くであろう。

 この国は本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつある。(144頁)

「負けた」というのではない。
やっぱり国にも攻め込んでいく時と、退却する時と二つあっていいのではないか。

震災の半年後にNHKの朝の連続テレビ小説「カーネーション」の放送が始まった。(39〜40頁)

カーネーション 完全版 DVD-BOX1【DVD】



岸和田に生まれた女三人姉妹(コシノ3姉妹)がファッションの道を歩くという。

 番組の折り返し点は敗戦の日。その玉音放送のシーンだった。玉音放送を聴いたあと、洋服店を営む糸子がすっくと立ち上がり、家族や従業員たちに言う──
「さ、お昼にしょうけ」
(40頁)

つまりこれじゃないかと。
このエネルギー。
これこそ「しんがりの哲学」ではないだろうか、というのが鷲田さん。

このあたりから大阪NHKは続々とヒットが朝ドラで出る。
今はまた『あさが来た』か何かで大人気。

連続テレビ小説 あさが来た 完全版 ブルーレイBOX1 [Blu-ray]



福沢先生も活躍なさった。
(武田先生が演じられたらしい)

何故、人はリーダーを探すのか?

 だれもみずから責任をとらないで、他者に「押しつけ」るという責任放棄の構造。これに合わせ鏡のように対応するもう一つの責任放棄の構造があるようにおもう。「おまかせ」の構造である。(47頁)

近代国家の成立したばかりの日本で、そのことをまずトップバッターで嘆いたのが、何と今、話に出た福沢諭吉という先生。

「人民はこれを一国文明の徴として誇るべきはずなるに、かへつてこれを政府の私恩に帰し、ますますその賜に依頼するの心を増すのみ。〔中略〕人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かへつて民心を退縮せしむるの具となるべきなり」と、福澤はいう。(50頁)

政府が頑張って鉄道を引いた、政府が頑張って家を庶民のためにいっぱい建ててくれた。
「あー政府っちゃありがたいありがたい」
「そんな情けない国民を作ってしまった」と仰っている。
「何を言っとるんだ」と。
「なぜ自分が時代の主人公であると胸を張らんのか。鉄道を作ったのは政府にあらず国民なり!」
福沢先生はこの時代からこのことをおっしゃっている。
「一番重要なのは政府ではないんだ。国民の質なのである」と。
「国民の質こそが全てではないか」と仰っている。

メディアによって編集された情報をそのまま反復して、まるでニュースキャスターが言っていることをなぞるようなことを持論になさっている方がいらっしゃる。
それではつまらない。
「時たま違うことを言ってもいいのではないか」と思う武田先生。
それから、いろいろ政治を批判なさる、憤る方、ものすごく怒りながら国民を叩く人がいらっしゃるが、あの人の叩き方は「映りの悪いテレビの横っ面はたく」ようなもの。
昔、父ちゃんがよく叩いていた。
叩けば時々目が覚めたように映り始める。
でも、叩くことで映りがよくなるテレビと違って、社会・世間というのはよくならないのではないだろうか。
巨大規模で人口減少に入った現在、サービスのための政治とか市民を持ち上げてくれる行政サービス、そういうのは時代としてもう終わったんじゃないか。
それなのに「市民がバカになっている」と。

今年(2016年)「真田ブーム」。

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真田っていう人もよくよく考えてみると「しんがり」の人。
家康に勝ったところで「天下を取る」という、そこまでの野望は持っていなかった人。
「一泡吹かせてやりたかった」という。
草刈(正男)さんがやっている幸村の父(真田昌幸)。
あの人の気持ちがわかる。
真田幸村は最後まで家康に抵抗して大坂城での戦いではものすごい勇猛ぶりを見せる。
でも絶望的。
勝てるわけがないのだから。
何でそんなファイトが燃えたのかといったら、真田は家康と3回戦って1回も負けたことがない。
平べったく言うと、4回目をやってみたくなる。
何かその痛快さ。
六文銭なんていう発想そのものがまさに「しんがりの思想」。

武田先生がちょっとジーンときたこと。
清原事件の時の桑田(真澄)さんの登場。
彼は清原について語ったことがあって「いつまでも4番打者であるってことが忘れられなかったのかな」と言った後「僕たちは『見せる野球』。何万人のお客さんに来てもらって『見せる野球』というのに憧れて生きてきた。その『見せる野球』というのが終わるんだ。そしたら今度は自分が支える野球というのをやらなければならない。一番最後はどこかで静かに野球を見ているという、そういう人間にならなければならないけど、最後まで清原は見せる野球っていうので支える野球ができなかったんじゃないかな」という。
これは芸能人にもピッタリ。
視聴率戦争の中で戦いつつ、必死になって順位を争ってきた。
「今週○%」とか。
やっぱり「数字じゃない」なんてことは主役をやめないと言えない。
主役一はやっぱり数字と一緒に背負う。
その後、桑田さんが言った「支える野球」という。
だから武田先生も「支える芸能人」。
一番最後は「芸能を見る人」あるいは「楽しめる人」に自らならないといけないなと思う武田先生。

 こういう仕組みが完備してゆくことで、市民生活において逆にクオリティを大きく損なったものがある。いうまでもなく、《いのちの世話》を自力でおこなう能力の喪失である。いまこの国で、赤ちゃんを取り上げる腕前をもつひとは専門職を除きほぼゼロである。遺体の清拭や死化粧をするひと、できるひともほぼゼロである。調理において魚を捌けるひとも、家人の病や傷の応急手当ができるひとも格段に減った。(62頁)

この間、地方のテレビ番組で盛り上がったこと。
食中毒の話になったのだが、昔の母親は鼻一つだった。
ご飯か何か、夕方にカゴの中に入れたものを母がクンクンと鼻で嗅いで「喰える」と言うと、うわーってみんな家族でご飯を食べたというのがある。
保健所の仕事みたいなものもお母さんが鼻一つでやっていた。
ジャッジメント。
「消費期限、賞味期限なんか袋に書かなくても結構だ。そんなものは私が判断しますわ」という。
震災時「どこへ逃げるか」「どうやって逃げるか」「何を持って逃げるか」みんな自分で判断していた。
あるいは最低限の排泄物の処理。
もう「自分のところの排泄物は自分の畑へ」なんていう。
完全エコの三角マークみたいな人がいた。
あるいは降ってくる雨を自らの工夫で飲料水に変える等々。
そういう「命の世話」というような最低限の能力がもう全くできない。
すぐにプロを呼ばないと気がすまないという市民に成り下がっているのではないかという鷲田さんのお叱り。

むかしの庶民の家にあっていまはないものに話が及んだ。で、とっさに浮かんだのが、わたしは救急箱、お相手は大工箱、この二つだった。(63頁)

どんな家庭でもカンナ、トンカチ、ノコギリ、糸のこ。
そのへんで箱を組み立てるぐらいの道具は。
台風がやってきたら家の修繕。
武田先生の家はプロでもあったのだが、ミシンがあった。
これらのことを実は全部今、プロに任せて甘えきっているのではないかというのがこの作者からの声。

「しんがり」を漢字で書くと「殿軍」。
(「殿」だけで「しんがり」と読むようだが、小説で使われているのは「殿軍」らしい)
別名はこの通り「でんぐん」と呼ぶ。
これに初めて接したのは『竜馬がゆく』。
司馬(遼太郎)さんの本に出てきて、一発で好きになった言葉。
龍馬の友達の土佐勤王党の誰かが新撰組に追われる。
四、五人いて、一人、腕は大したことがなが度胸が抜群のヤツがいて、トップバッターで沖田と土方が追ってくる。
その時に友達の四人を逃がしておいて、ブワーッと抜刀して四人の仲間に絶叫した言葉が「おいが殿軍(でんぐん)!おいが殿軍!」と言う。
「俺がしんがり!俺がしんがり!」という。
つまり「俺が新撰組と格闘している間にお前らは逃げろ」という。
その時に覚えたその「殿軍」と書いて、司馬さんがそこに「しんがり」というルビを打つ。
「しんがりを務めた○○は」と書いてあって「沖田、土方になますのように斬られた。が、血しぶきを浴びつつなお、その頬に笑顔が残っていたという」とか。
何かもうゾクッとするような表現がたまらなく好きな武田先生。

ちなみに「しんがり」を「殿」と書くのは「殿」の展(屍)がひとが几(牀几)に腰掛けている姿で、「殿」が「天子の御所」や「政務を執る所」を意味する一方で、それが「臀」に通じるところから「尻」、さらには「しんがり」を意味するようになったからだといわれる(145頁)

私達は何か問題があると、強いリーダーあるいは専門家にすがりつく。
しかしプロの専門家というのは話を聞けば聞くほど、ますます全体が見えなくなるのではないか。
北朝鮮がロケットを打ち上げた。
ロケットの専門家がスタジオにいるのだが、話を聞いていてもよくわらかない。
「だから何だ」と言いたくなる。
最近、専門家が多ければ多いほど全体像はわかりにくくなっている。
やはり世の中は複雑。

「どんな専門家がいい専門家ですか?」
 返ってきた答えはごくシンプルで高度な知識を持っているひとでも、責任をとってくれるひとでもなく、「いっしょに考えてくれるひと」というものだった。
(104頁)

複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。(107頁)

個人の自由を大切にすることは社会の多様性のため、自然界と同様、様々な人が生きているということは、社会を活性化する意味でとても大事なことである。
社会が全部均一になってしまうと、これはあきらかに退化の徴候である。

英語のリベラル(liberal)の第一の意味は「気前がよい」だということ、このリベラルの名詞には二つ、「自由」を意味するリバティと「気前のよさ」と「寛容」を意味するリベラリティとがあることをここで思い出したい(110頁)

「フリー」というのは「自由」という意味もあるが「タダ」「無料」という意味がある。
ケチな人というのは心に自由がない人。
そうやって考えると英語というのは「本質を示そう」という。
この発想は面白い。
だから一発回答ではなくて、いくつもの意味を引っ張り出していくという。
そういう知恵が今「しんがりの思想」として大事なのではないかと思ったりする。

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