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2017年02月04日

死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人

死刑でいいです―孤立が生んだ二つの殺人 (新潮文庫)



「私は生まれてくるべきではなかった」。そう言い残して2009年夏、25歳の若者は死刑になった。
16歳で母親を殺害し、少年院を出た後、再び大阪で姉妹刺殺事件を犯した山地悠紀夫元死刑囚。
反省はしないが、死刑にしてくれていい。開き直った犯罪者の事件が続く。秋葉原の無差別殺傷事件、茨城県土浦市の連続殺傷事件・・・。
彼らは他人と自分の死を実感できていたのか。死刑にするだけでなく、なぜそうなったのか、どうすれば防げるかを考えるべきではないか。そうでないとすぐ次の凶悪犯が生まれるだけだ。
事件を起こした山地悠紀夫死刑囚は少年時代に広汎性発達障害と診断され、後に精神鑑定では人格障害とされた。
16歳で母親を殺害した男が再び犯した大阪の姉妹刺殺事件を追い、日本社会のひずみをえぐりだす渾身のルポルタージュ。
裁判員裁判が開始された今、一般市民が死刑の評決を下さなければならない時代。だからこそ読んでほしい一冊!


発達障害と思われる(最後まで診断は割れる)人による殺人事件のことを書いた本。
当時、ニュースなどでも取り上げられたんだろうと思うけど、まだ自分の障害を知らなかったから関心も持っていなかったらしく、この事件に関する記憶が全くない。

数件の「発達障害者(と思われる)による犯罪」ってのがあり、それを根拠に「発達障害者(あるいは「アスペルガー」)は犯罪者予備軍」というようなことを言う人がいたり、「発達障害者は犯罪率が高い」という話も聞く。
これに関しては裏を取ろうと思って調べてみたけど、データが発見できず。
そもそも「発達障害者」の母数ってのがまともに出てくる状況じゃないからね。
未診断の人の方が多いんじゃないかと思う。
ってことは逆に言うと「犯罪者が全員発達障害者」という可能性も出てきちゃうんだけど。

事件の凄惨な部分なども出てくるので、そういうのを見聞きしたくないという方で「でも、発達障害については知りたい」っていう人は本の最後の方の第四章の部分だけ読むんでもいろいろ参考になるんじゃないかと思う。
発達障害の当事者会みたいなのをやっている人の話なんかが出てきて、事件自体とは直接的には関係のない内容。
ここに出てくる人たちは、マスメディアが喜んで取り上げるような「感動ポルノ」のエサとして美味しい感じの人も登場しないし、ごく稀にしかいないであろう「特殊な才能に恵まれて成功した障害者」も登場しない。
「普通の発達障害者」って感じなので、実態を知っていただくのにいいように思う。
ただ、会の運営みたいなのが順調な感じに見えるので、当事者会に一度行ってみてどうも馴染めなかった私としては、アスペとADHDであればまだしも、アスペ同士では衝突しがちってのがあるので、ここまでうまく行くのって難しいというか、この本に登場する会ではどうかわからないけど、実際には当事者会のようなものにすらうまく適応できずに落ちこぼれていってしまう人もいるんじゃないかな?と思った。

山地悠紀夫という人は、最近読んだCOCORA 自閉症を生きた少女と同様に、環境に恵まれなかった人なんだなという感じ。
本の中でも周囲の状況によってものすごく差が出るというような話も出て来るけど、私もこうなりかねなかったんだなと。
特に私は「紙一重」なレベルだろうなと思う。

 ───山地は「どうしてこの時、こうしなかった?」と理詰めで聞かれると「思いつかなかった」と答えます。(93頁)

私もよく似たようなことを問われて、実際に「思いつかなかった」ってことがある。
定型発達者(発達障害者ではない人たち)にとっては「考えればわかるだろう?」っていうことでも、本当に思いつかないことがよくある。
そうして非難される。
本当に「思いつかなかった」とは誰も信じてくれない。

「法律を守ることは」
「そんなに重いと思ってない。これまでは別に破る理由もなかったし」
 少年院の規則には従うのに、法律や社会規範には考えが及ばないようだった。
(137頁)

「矛盾している」という感じなんだろうか。
私もいろんな決まりは普通の人より守ると思う。
守っているように見られない(なまけたりしているように見られる)けど。
でも法律って守る必要があるものだとは思えない。
今でも人を殺してはいけない理由ってのは、私にはわからない。
(たぶん)殺しはしないけど、普通の人だって人を殺さない理由って「殺人は罪になるから」とかっていう理由ではないと思う。
それとも普通の人は法律で殺人が禁止されてなきゃ人を殺すのかな?
「人を殺してはいけない」っていうきまりがあるのに、どうして死刑は執行できるんだろう?ってのも不思議ではあるけど。

 私たちは毎日、ストレスを抱え、むしろそれを楽しみながら仕事をしたりする。彼らはそういうことができません。(181頁)

何だそりゃ?
仕事のストレスを楽しんだりできるの?
ありえない。
絶対にそんなことはない。

 ───具体的に役立つ子育てのコツはありませんか。
 愛嬌がある子に育てるのは大切ではないでしょうか。愛嬌があれば、ちょっと失敗しても嫌な感じを与えず、誤解されないで済むかもしれません。
(184頁)

これ重要。
同じことを言ったりやったりしても、クソみたいな定型発達者の皆様は「愛嬌」みたいなものでしか判断しないので、そこで手助けをしてくれるか、排除していじめるかに分かれたりするのだ。
だから発達障害のある人が定型発達者の中で生きていく能力として定型発達者から見て「可愛げがある」「助けてあげたくなる」「大目に見てあげようという気にさせる」という「雰囲気」のようなものを獲得できるかどうかってのは大変意味がある。
それができなかった私は当然のことながら、いじめられるだけの状況になるワケです。
しかも定型発達者の99%は人をうわべでしか見る能力がないので(個人の感想です)、自分の性格や考え方なんて変えなくても、本当に表面上の言動だけで簡単に騙されてくれるという、本当にクソみたいな生物なので、特性をうまくとらえることができると(自分のじゃなく相手のだよ)結構うまいことやれるものだ。

 少年時代にアスペルガー症候群と診断され、成人後に人格障害とされるケースもある。人格障害かアスペルガー症候群かは判断が分かれることがあるのが実情で、別の鑑定結果もありえたと話す精神科医も複数いる。(259〜260頁)

この事件の時から何年も経つが、今でもやっぱり診断はとても難しい。

 発達障害は「生涯、サポートが必要な人たち」です。訓練でカバーできる部分はありますが、社会への適応力は簡単には身に付きません。(294頁)

うん。
本当にそう思う。
誰もサポートしてくれないけどね。
常に「社会通念上はどうなんだろう」なんて考えるけど、考えたってわからない。
自分の言動が常識的に合っているのか外れているのかもわからない。
いつも最適解を探し続けているが、正直しんどいし、自分一人の力ではどうにもできない。

 不登校の子や不登校をしたかったけどできなかった人も多いです。ひきこもりとかニートは、ある意味、恵まれていると思います。家がないとひきこもることもできない。(334頁)

私も家にいられなかった方なんで、これはよくわかる。
何だかんだ言っても死なずに家に留まるってことは、それだけ恵まれているんだと思う。
私みたいに「野垂れ死ぬ覚悟」で家を出なくて済んだってことだから。
それでも家族とうまく行っていないって話はよく聞くから「ひきこもりができる環境があるから幸せ」ってことではないけどね。

 親は親で育てにくいですよ。自慢の子に育てたい親には「こんな子はうちの子じゃない」となる。事件を起こすかどうかは紙一重だと思いますね。友達とか、いい先生がいたら、何とかやっていける。どうすればうまく人とやりとりできるかというのはなかなか教えてもらえないですね。(334〜335頁)

今でもそういうことはあるようだけど、やっぱり昔は「親のしつけがなってないから」なんて親も叩かれまくったようだし、実際私も母にそういう思いはさせまくったんだろう。
自分に非がないこととは言え、やっぱりいいことではない。
本当に発達障害というのは「自分も周囲も不幸にする障害」だなと思う。

頑張っても「普通」にはなりません。全部に近いエネルギーを注いで普通を目指すのは嫌じゃないですか。でも、実際はほとんどの人がそれを強要されて育てられる。(340頁)

私は完璧に「普通」を演じられるようになったけど、本物の「普通」ではないから、どこまで行っても「人間モドキ」でしかないし、常にものすごい無理をし続けるっていうね。
そんなことをやり続けたら潰れてしまうし、実際に私は二次障害を発症してしまったし。
考えて見て欲しい。
「普通」の人が宇宙人の中に放り込まれて「宇宙人そっくりな言動」を強要され続けたらどうか?

 最後まで山地の「本音」を聞けず、死刑が執行されたのは本当に残念でならない。(350頁)

死刑が執行されなかったとして「本音」を聞きだすことってできたんだろうか?
定型発達者の「感情」を表現する言葉にはたいてい「名前」が付いている。
「悲しい」「嬉しい」「せつない」「嫉妬」「優越感」等々。
私達の「感情」を表現する言葉には「名前」がついていないことが多いなって思うのだ。
まあ、私はかなりズレているというか、定型発達者から遠い感覚を持っているタイプかと思うので、定型発達者と感情面で共通する部分が多いタイプの人はそうでもないだろうけど。
何かをしていて、自分の中に何かの感情が湧いてきたのは知覚できる。
運がよければそれが「快」か「不快」かのどちらに分けられる種類のものかぐらいまでは判別できる。
でもその感情が何という名称のものかっていうと「名前」はないので説明ができない。
中には「どういう感じのものか」までは説明できるものもあるんだけど、それすらできないものとか、最近は「快」か「不快」もわからないものもある。
でも何かの「感情」は湧いている。
私達には「心」はあるが、「心」の内容が定型発達者とは違うので説明ができないものがある。
山地という人も、人を殺した時に何か思ったことがあったのかも知れないけど、それが定型発達者に説明できる種類のものだったかというと、それはわからない。

この事件について書かれた本は他にも出版されている。
読んでないけど。

我思うゆえに我あり 死刑囚・山地悠紀夫の二度の殺人



posted by ひと at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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