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2017年05月31日

差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」

差別されてる自覚はあるか: 横田弘と青い芝の会「行動綱領」



神奈川県立津久井やまゆり園での事件に関連して紹介されていた本だったので、読みたいなと思っていた。
読んでみてとても難しい内容だなと。
著者の荒井裕樹さんが、かつてかなり過激な感じに障害者運動をやっていた横田弘さんに話を聞いたり、当時のことをいろいろと調べたりしてまとめた本。
数十年前、今とはくらべものにならないぐらい障害者に対するサポート体制が脆弱で、ボランティア頼りぐらいの状況があった。
そういう状況から、徹底的に闘って自分たちをとりまく状況を変えようとした障害者たち。
特に過激派と見られていた「青い芝の会」。
その中心にいた重度の脳性マヒの横田弘。
こういった「障害者をとりまく経緯」みたいなものって、何も知らなかったなと。
私は自分が「障害者」でなければ、一生そういうことには無縁なまま生きていたんだろうと思う。
私は生まれつき障害者ではあるけれども「統計上」の障害者ではなかった。
障害は常にある。
生まれた時から多分死ぬまで。
今は障害者だが、ずっと障害者とは認定されていなかった。
そういう意味では「統計上」の健常者(この本の中では「健全者」という表現が一貫して使われている)だった。
そういう「中途半端」な状態の私と、重度の脳性マヒの横田さんとでは置かれた状況は全く違う。
私は今からでも障害者手帳の交付を受けずに「健常者です」と言い張って生きることも可能なのだ。
そのことに対して非常に釈然としないものを常に感じているワケだが。
ってことで、本の内容を追うっていうより、かなり私見みたいな内容になります。
まあ、他のものもそんなんだけどさ。

 一九七〇年五月二十九日、横浜市金沢区内で、重度の脳性マヒをもつ二歳半の女児が実母に絞殺されるという事件が起きた。この母親には三人の子どもがいて、そのうち二人に障害があった。−中略−横田弘という人間を、障害者運動に駆り立てた原点となった事件だった。(98〜99頁)

この「子殺し」に対して、町内会の人たちが母親への減刑嘆願のための署名集めを始めたり、障害児を抱える親たちの会が横浜市長に抗議文を提出したり。
でも、このことに対して横田さんは怒りを覚える。
地域社会に追い込まれて子供を殺したのに、その地域社会が安易に減刑嘆願をする。
この事件に横田さんは「殺される者」としての恐怖感を肌で感じていた。
そのあたりが、同じ脳性マヒであっても、より軽度の人たちはあまりピンときていない感じで、温度差が生じてしまうワケだが。
私は「恐怖感」こそ感じなかったけど、やまゆり園の事件の時に自分が「殺される者」であると感じていた。
殺すという直接的な行為に及んだのはたった一人だけだったけど、頻繁に「障害者は存在してはいけない」というメッセージを受け取っていた。
障害者は福祉を喰い潰す存在。
自分たちの年金が、医療費が、障害者によって搾取されている。
世の中の役には立たない障害者。
障害者の存在そのものに嫌悪感を持つ人。
等々。
「生きているべきではないんだな」と思うのには十分なメッセージに溢れていた。
そしてやまゆり園の事件が起こった。
そうなんだ。
やっぱり私たちは「殺される者」なんだ。
そして「殺される者」ではない人たちからマスメディアに向けて発信されたメッセージ
自分は健常者のくせに「『障害者』って書くのは失礼でしょ!『障がい者』って書きましょうね!」なんていう無意味な「配慮」をしてくれようとするクソみたいな人に対して感じる時のような違和感。

 人は、いろいろと理由や理屈をこねて、規律やルールのようなものをつくり出す。「働かざる者、喰うべからず」とか、「他人様に迷惑をかけてはいけない」とか、「経済的に自立してこそ一人前だ」とか。
 でも、働けない人や、どうしても他人の手を借りなきゃいけない人や、経済的に自立できない人は、本当に生きてちゃいけないのか? そういった規律やルールをつくったのは、もちろん障害者ではない。むしろ、健康でキビキビ動けてバリバリ働ける人たちが、障害者のように他人の手を借りなければ生きていけない人たちを排除するためにつくったルールじゃないのか?
(105頁)

 横田は「障害も個性」という言い方が好きじゃなかった。この言い方だと「障害」というものが「ついていてもよいオプション」、もしくは「ついていても仕方がない付属品」みたいに聞こえなくもない。
 でも、横田にとっての障害=脳性マヒは、横田弘という存在そのものだった。脳性マヒを抜きに横田弘という人間は存在し得ないのだから、脳性マヒという障害を否定することは、横田弘という存在そのものを否定することだし、横田以外の脳性マヒ者を否定することは、そのまま横田弘を否定することでもあった。
(116〜117頁)

この本を読んで初めて、発達障害以外の障害者に対しても「障害は個性」といった言い方をされていたことを知った。
発達障害者は当事者自身までが「障害は個性」と言う人がいる。
私は「個性」だとは思っていない。
障害を持っている自分が「自分」であり、障害がもし無くなったらそれは「自分」ではない。
自分そっくりの外見であっても、五感もそれを処理する脳のシステムも違うのだから、私の主観ではそれは私ではない。
そういう、自分とは切り離すことができない(というか切り離せば「私」ではないものしか残らない)種類のものが「個性」であり得るはずはないと思っている。

 「がんばる健気な障害者」というイメージに合わせて振る舞っていれば、社会の人は応援してくれる。「明るくて愛想の良い障害者」というイメージを受け入れてさえいれば、社会の人は構ってくれる。「不幸で可哀想な障害者」というイメージからはみ出さずにいれば、社会の人は同情してくれる。
 でも、「相手の気分が良いときだけ仲間に入れてもらえる」というのも、本当の「福祉」じゃない(ちなみに横田は、「福祉は思いやり」という言葉が大嫌いだった。もし「福祉」が「思いやり」だとしたら、社会が変化して「誰かを思いやれる余裕」がなくなったら、障害者は生きていけなくなる)。
(129頁)

まさに今が「社会が変化して『誰かを思いやれる余裕』がなくなった」時かなって思う。
このままでは障害者は生きていけない。
つまりは、横田さんたちが徹底的に闘い続けてきたというのに、今も当時と「世間の意識」みたいなものは変わっていないということなんだろう。

 〈妥協〉というのは、弱い立場の者がしぶしぶ折れる(折られる)ことになる。しかも「健全者」vs「障害者」という構図では、前者が「社会を支えている立場」にある(とされる)。だとしたら、「世間」や「社会」といったものは、どうしたって障害者側に折れることを求めてくる。しかも、その圧力は往々にして〈愛と正義〉という言葉によって包まれている。(139頁)

「愛」と「正義」。
どっちも某宗教の人たちが大好きなものだねぇ。
そんなものは誰も救わないのに。
追い詰めたり不幸にしたりするだけなのに。

 弱い立場に置かれていて、苦しい思いをしている人が、「こんな思いはもうイヤだ!」と叫んだとき、「じゃあ、どうすればいいのか」を考えるべきは誰なのだろう? 「もうイヤだ!」と叫んだ人が対案なり代替案なりを示さなければならないのだろうか? その人が示した対案や代替案が実現性に乏しいものだったとしたら、その人が苦しまなければならない現状は「仕方がないもの」として正当化されてしまうのではないか?
 そもそも、苦しい思いをして「もうイヤだ!」と叫ばなければならないところまで追い込まれている人に、対案や代替案を構想する余裕なんてあるのだろうか? それに対案や代替案が示せない人は、「もうイヤだ!」と叫ぶことさえ許されないのだろうか?
(139〜140頁)

特に発達障害者は自分で自分の障害特性を正確に把握し、周囲に対して具体的に「こういう配慮をしてください」と伝えろって要求される。
生まれた時から障害があるので、健常者がどういう感覚なのかは全くわからない。
あくまで想像するしかない。
全てが手探りだ。
その上、自分で自分の体や心に対する「セルフモニタリング力」が乏しい。
そんな状態で「対案や代替案」を提示するっていうのは本当に難しいことだ。
でも、それは常に障害者に要求される。

 「健全者幻想」というのは、一言でいえば「健全者に憧れる気持ち」「健全者こそ正しい存在だと思う気持ち」のことだ。「青い芝の会」の人たちは、この「健全者幻想」をものすごく敵視していた。
 この社会の中には、障害や障害者を否定する価値観があふれ、それが常識になっている。そんな社会の中で、障害者である自分は差別され、排除されている。それが嫌だからといって、「健全者に近づこう」と考えてはならない。いくら「健全者」に近づいたところで、社会は「健全者」に近い障害者としてしか見てくれないし、そもそも、「健全者」に近づくことさえできない障害者だっている。
(161頁)

 自分の中に少しでも「健全者に近づきたい」という気持ちがあると、こういった社会の常識が心を切り刻んでくる。そうしている以上、障害者は「ありのままの自分」を肯定することなんてできない。
 「青い芝の会」の人たちが使う「健常者幻想」という言葉は、往々にして、同じ障害者に向けて発せられている。「こんな身体で産まれてこなければよかった」「少しでも健全者に近づきたい」といったかたちで「障害者である自分を否定すること」を戒める文脈で使われるのだ。
(162頁)

五体満足であることが「正義」なのだ。
障害者たちは「自分を健全者化すること」を目指している。
ってのは「健全者」たちが思い描く幻想。
その幻想に取り込まれてしまって、自分で自分を否定するだけの障害者たち。
そうなっちゃいけない。

 「青い芝の会」の発想の基盤は、障害があるなら障害があるままで、「できない」ならば「できない」ままで、ありのままの自分で生きていく、という点にある。だから、「治療」や「リハビリテーション」という概念にも否定的な人が多い。(183頁)

私達も常に定型発達者の考え方ややり方に無理やりにでも合わせることを要求されている。
子供の頃から「療育」の名のもとに「健常者モドキ」になるべく教育される。
それでいいのか?
かといって、それを拒否して私のように「人生が積む」という結末しかない状況を受け入れることができるのか?

 「できることが良いことだ」というのは「健全者」がつくり出してきた常識なのであって、それを障害者に当てはめれば、結局、障害者は「できなくて悪い自分=健全者になれない自分」を責め苛むことになる。(183〜184頁)

 文明機器が発展すれば、身体の動かない障害者だって「できる」ことが増える。それはきっと便利なことなんだろうけれど、でも、文明機器がどこまで障害者の味方をしてくれるのかは不明だ。少なくとも、機器を開発するのが「健全者」であることを考えれば、それは本当に障害者のための機器なのか、という危機感をもった人もいたのだろう。(184頁)

障害者と機器(道具)っていう観点では、よくメガネのことが引きあいに出される。
とても視力の悪い人って大勢いるけど、その人たちはメガネがあるのでかなりの部分まで日常生活には支障がない。
もしメガネというものがこの世に存在しなければ、その人たちは本を読むのも一苦労、店に入ってもメニューの文字が読めない。
とても不便だ。
だから新しい機器が発明されるのって、むしろ歓迎されることかなって思っていた。
私にはあまり役に立たなかったけど、デジタル耳栓が非常に役に立つというタイプの人もいる。
それで楽になった人がいるのは事実。
私もデジタルデバイスによってかなり助けられている。
自分がやらなきゃいけないことを管理するのって、そういうものがないと私にはどうにもできない。
「文明機器がどこまで障害者の味方をしてくれるのかは不明」という発想はなかった。
一つ間違えれば「厄介者を封じ込める」という方向性にもなり得るということか。

 ハンセン病の人も、水俣病の人も、結核患者も、環境が良ければ健全者だったわけでしょう。こういう言い方すると申し訳ないけど。でも、そのように考えると、脳性マヒの青い芝の運動とは違うということですよ。(230〜231頁)

脳性マヒの人から「オマエと一緒にするな!」って言われそうだけど、私がたびたび「精神病と一緒にするな」と言っているのと同一線上の話のように感じる。
決して「精神病なんて軽い」みたいに思っているワケではない。
私自身、精神病にも罹患しているのだから。
「両方を経験している」上で、やっぱり「分けて考えてもらえませんか?」と思うのだ。
ハンセン病の人、水俣病の人、結核患者、鬱病の人、統合失調症の人。
彼らには「本来戻るべき(以前は所有していた)健全な心身」が存在している。
横田さんや私にはそれはない。

 横田弘は生まれたときから脳性マヒ者だった。つまり、横田弘は人生の中で「障害者でない自分」を経験してはいないのだ。(240頁)

「健全こそだ善で、障害は悪だ」という考え方自体を批判しないと、「健全」であったことのない自分たちの存在が危うくなるからだ。(240頁)

今、私達はとても厳しい状況におかれている。
かつての横田さんたちや他の団体によって行われてきた活動によって、数十年前よりは遥かに福祉は充実してきた。
重度の障害者であっても働いたり、ヘルパーを頼んで一人暮らしをしている人もいる。
そうやって、なかなか進まないながらも、少しずつこの国の障害者を取り巻く環境は改善されていっていた。かに見えた。
長引く不景気からか、健常者たちにどんどん余裕がなくなっていく。
「自分たちだってこんなに大変な状態なのに、障害者のことなんか考えていられるか!」
その気持ちが分からないではなかったりするけれども。
「福祉目的に使う」という大嘘を繰り返しながら消費税は引き上げられ、徐々に斬り捨てられる年金や補助金。
このまま物理的にか精神的にか両方か、ただ殺されるのを待っているワケにもいかないと思っているけど、「じゃあ私にできることって何だろう?」って考えても答えは見つからない。
私にとって目先のカネ、目先の生活、そんなものしかない。
「よい方向」っていうものがどこかに存在するとしても、ヨーロッパのどこかの国みたいに「え?そんなのまで国が面倒見るの?」みたいなのまで全部福祉で面倒を見るっていうんじゃないと思うんだけど。
「じゃあどういうのがよい方向なの?」っていうのは、やっぱり考えてもわからない。
ただ、私にこれ以上「健常者モドキ」になることを求めないで欲しい。
まずいことに、私は無理をすればいくらでもできてしまう。
まるで障害がないかのように振る舞うことができる。
でもそれは「無理」の上に成立している。
死ぬまで無理をさせられるのは御免だ。
「無理」をして見せると「普通にできるんだろ」と言われ、際限なく「無理」を求められる。
もうそこからは降りることにした。
二度とそんなことはしたくない。

posted by ひと at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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