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2017年08月31日

2016年3月27〜4月7日◆タッチ(前編)

お隣の国、半島の両方の国で騒ぎが起こっている。
おそらくヨーロッパの街角でばったり会ったりすると、隣国の方と日本人の区別はほとんどつかない。
「何が違うのかなぁ」と思う時がある武田先生。
「理解ができない」というのは、韓国の人は本当に整形美容に抵抗がない。
あの裁判で出てきた「◯◯さんの娘」みたいなのがいた。
あれで何か語られてもすごく苦しい。
教育テレビを見ていたら「整形についてどう思いますか?」というので世界中の人が集まって、そういうことをワーワー井戸端会議をやるという番組をやっていた。
「それは、もう何てことないものです」と手を上げたのが韓国の人で、他にも西洋の人がいた。
「だいたい中学校の真ん中ぐらいになった時に顔を変える」というのが一番いいそうだ。
「チェンジにもってこい」で。
そう言われると「いいのかな?」と思ってしまう。

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり(古代中国の書物・孝経)

整形に抵抗がある。
こっちはあんまり親から良いものを貰っていないから、何とか他でカバーしようと思って。
それが人生じゃないかなぁと思う。
歳を取ってから崩れてきてわかってしまうのが嫌だし「そんなことしていいのかな」という抵抗がある水谷譲。
あえて名前を出さないが、整形をやった俳優さんの演技を見たことがある武田先生。
整形前よりもオーバーになっている。
顔が持っている表情を自分がコントロールできていない。
だから無闇に顔を使うが、全部オーバー。
それで、複雑な心理の芝居ができない。
「静かな顔をしようとしてるんだけど、内面が動揺してる」という『飢餓海峡』なんかで三國(連太郎)がやったような演技ができない。
「オメェがサチコさん殺ったんだろ!」「やってませんよ・・・」
その時に観客が見て「あ、殺ってる。犯人はコイツだ!」という、それが出ない。
自分の顔の筋肉をコントロールしていない。
或いは一枚お面をかぶったような感じで、肉を動かしているが表が動いていない。
そういえば法廷みたいなところに引っ張り出されたその整形で綺麗になられた方の顔を見ていると、指から先も反省しているように見えない。
それは、美しさのために表情が顔に出てこなくなったんじゃないか。
そう思う時にすごく抵抗がある。
そんなことを頭の中で考えているうちに、フッと本屋さんで目が合った本。

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか



著者はデイヴィッド・J・リンデン。
THE SCEIENCE OF HAND,HEART,AND MIND
TOUCH

というタイトル。

見れば信じられる。だが、触れることができればそれは真実だ。
         ──トーマス・フラー「ノーモロジア」一七三二年
(6頁)

この著者は特に男性にとって「触る」ということが、いかに決定的な感覚なのか、それを懸命に本で訴えている。
『ロリータ』をお書きになった作家さんの言葉をこの著者が本に書いている。

「男性にとり、視覚に比べれば取るに足らない触覚が、決定的な瞬間には、現実を扱う、唯一とは言わないまでも主要な感覚となるのである」(10頁)

女性より男の方が、触覚に関しては重大。

この著者が遠回しに言っていることをズバリ言うと、大人の方だったらばどなたも経験なさったと思うが、男女のその瞬間、両方とも目をつぶる。
なぜ目をつぶるかというと、それは触覚による情報をマックスに上げるために視覚を消して触覚に専念するという。
個人差があるかも知れないが、間違いなく言えることは、ジーっと相手を目を開けて下から眺めていられると、一種「侮辱」ととられる。

 私たちの場合も、触覚経験は感情と分かちがたく結びついている。それは英語の日常的な表現をとってみても分かる。−中略−「傷つく(I'm touched:触れられる)」や「いじめてる(hurt your feeling:触覚を傷つける)」のほか、「ツンツンする(pricky:棘の多い)」、「キツい(rough:表面が粗い)」、「ずるい(slippery:つるつるしている)」などはごく普通の比喩表現だ。私たちは人間のさまざまな感情や行動や性格を、皮膚感覚を使って表現することに慣れている。たとえば、−中略−
「厄介な(sticky:べとべとした)状況」
−中略−
「難しい(hairy:毛深い)問題だ」
−中略−
 気の利かない人のことを英語でtactlessと表現するが、これは文字通りtact(触覚)を欠いているという意味である。
(10頁)

だから、触ることというのがいかに感情表現に用いられているかということ。

触覚の不思議なので、言われてみると確かにそう。
「触覚」とは実は私たちの例えば「子育て」とか「傷」とか、気配や空気を読む男女間のいわゆる「情」みたいなもの、「別れの予感」。
そういうものも含んでいるという。

面白いのは「ミント」を冷たく感じる。
唐辛子は熱く感じる。
皮膚に塗っても。
これはどうしてこういうことになってしまうのかというと、脳の領域でジャッジする。
だからミントが冷たいワケではない。
唐辛子が火のように熱いワケではない。
それが脳に行くとミントで皮膚を撫でると「あ〜冷たい!」。
それから唐辛子だと「あ〜熱い、ポッポしてきた!」とかっていうことに。
温度を持っているワケではないのだが、脳の領域ではそれを「冷たい」、それを「熱い」「ホット」とジャッジする。

かくのごとく「触る」「触られる」というのは脳でジャッジするから、ものすごく複雑。
ある人が触ると愛を感じる。
ある人が触ると警察に訴えようと決断する。
恋人がアナタのお尻にソッと回す手と、電車の中で痴漢の人がソッとアナタのお尻を触るのとは、力具合においてはだいたいおんなじだが、感情が全く違う。
つまり「触覚」が決定しているのではなく、触覚から伝わってきた感情がその触ってきた者に対してジャッジしているという。
これは面白い。
ものすごくクールな言い訳をすると「性的な絶頂感」は中身はクシャミと同じ。
これは感覚器で言うと「あくび」と同様の反射。
それが一生忘れられないということは、いかに脳がこの「接触」「タッチ」「触覚」に意味を与えているかということ。
性的な絶頂感でさえ、肉体的には女性でクシャミ、男性ではあくびと同様の痙攣であるという。

心理学科の建物に入ってきた被験者を、女性の実験助手がロビーで出迎える。−中略−助手はどうしたわけか、コーヒーの入ったカップと、クリップボードと、教科書を2冊手にしている。研究室の階まで上がるエレベーターの中で、助手は被験者の情報をクリップボードの用紙に書き込みながら、何気なく、コーヒーを持っていてもらえないかと頼む。コーヒーを返してもらったら、被験者を実験者のところに案内する。その際、ある被験者にはホットコーヒーを、別の被験者には冷たいコーヒーを手渡す。−中略−
 有意な結果として、ホットコーヒーを手に取った被験者は、冷たいコーヒーを手渡された被験者よりも、架空の人物を温かい人(人間的、信頼できる、友好的)と知覚した。
(20〜21頁)

NBA全30チームの2008〜09シーズン開幕後2カ月分の試合(選手総数294人)の録画をチェックし、ゴールを喜ぶ接触−中略−を数えた。(24頁)

少なくともプロバスケットボールの文脈では、短時間の喜び合いでの身体的接触が個人とチームの成績を押し上げていること、それも協調性を築くことを通じて成績を上げていることを、強く示唆している。(25頁)

「喜んでないで早くやれよ」という時がある。
あれはダメ。
いちいち喜ぶ。
それから、もし点数を取られたら、いちいち励まし合う。
こうすると強くなる。
これは「なるほどなぁ」と思う。

人手不足の児童保護施設で、1日20〜60分、子供を優しくマッサージし、手足を動かしてやったところ、触れ合い不足の悪影響はほとんど打ち消すことができた。この接触療法を施した赤ん坊は体重の増加ペースが上がり、感染に強くなり、よく眠り、あまり泣かなくなった。(40頁)

 未熟児に対して優しく接触刺激を与えるには、カンガルーケア(早期母子接触)と呼ばれる方法が効果的である。(40頁)

子供を育てる時、接触は重大な感覚であるという。

 デポー大学のマシュー・ハーテンスタインらが、感情伝達における対人接触の役割を調べる興味深い実験を始めている。ひとつの実験はこのようなものだ。カリフォルニアの大学の学生を集め、2人ずつテーブルを挟んで向かい合って座ってもらう。2人の間は黒いカーテンで遮られている。お互いの姿を見たり、話をしたりすることは禁止だ。伝達者の役を割り当てた側に、感情を表す12の単語リスト(怒り、嫌悪、恐怖、幸せ、悲しみ、驚き、同情、困惑、嫉妬、誇り、感謝)の中からランダムにひとつを見せる。伝達者にはしばらく考える時間を与えたうえで、もうひとり(解読者)の前腕の肌に、その感情を伝えるために適切と思われる触れ方で5秒間触れてもらう。−中略−外向きの感情である愛情、感謝、同情は、偶然によるよりもはるかに高い確率で解読された(42頁)

若い時もそうだが、母ちゃん(武田先生の奥様)の手なりなんなり握ると大体分かる。

女性が男性に怒りを伝えようとしても男性はその意図を正しく解読できず、男性が女性に思いやりを伝えようとしても女性はそのメッセージを解釈できなかったのだ。(44頁)

この男女差というのは、やっぱり男と女の恋愛も含めての、恋の駆け引きにもなるだろうが、一歩まかり間違うと事件になったりする。

1960年代に心理学者のシドニー・ジュラードが、世界中のコーヒーショップで会話をする人々を観察した。それぞれの場所で、きちんと同じ数のペアを同じ時間だけ観察したのだ。その結果、プエルトリコのサンフアンでは2人の間の身体的接触が1時間に平均180回と最も多く、パリでは110回、フロリダ州ゲインズウィルでは2回、ロンドンでは0回だった。(44頁)

これはおそらく日本も0なのだろう。
日本は触らない。

番組の控室か何かで指原莉乃さんとした話。
結構疲れてらっしゃったから「前のスケジュール大変だった?」「ちょっと握手会があったもんで」という。
何気なく「アンタも嫌だろ?他人と。な、手を握ってくるんだろ。アンタの手を」と。
「そんなことないです」という。
マツモトさんが横にいらして、小っちゃい声で「ウソ」とおっしゃっていた。
どっちが本当か分からない。

「触れる」というのは考えてみれば、不思議な感覚。
東アジアに限って「触れる」ことというのを考えているが、外見では分からない。
香港と台湾の人の違い。
香港の人は、中年とか初老、老年になってもすぐに手を繋ぐ。
香港を旅した時に、中年夫婦がもうほとんど十代のカップルのような密着度で歩いてらっしゃる姿を見て、ちょっと驚いたことがある武田先生。
台湾は肉体接触がき。
ダンスとかすごく好きだから。
でも、台湾の方は香港ほどではない。
台湾と上海も違う。
何でこんな話をしたかというと、武田先生が英語を教わっていたイギリスの娘さん、カリーナ先生が時々面白いことを言う。
あの英国娘の目というのがすごく刺激的だった。
よく一杯飲み屋なんかで、ニュースか何かが音声を全部消してテレビが流れている。
そうしたらえらい事故が起こっていて、事故の現場風だったから「え?どっかで死人出たんだ・・・」とつぶやいたら、あのイギリス人が「あ、これ日本じゃないよ」という。
「え?何で?日本人じゃん」
「違う違う、これ韓国よ」
「何で分かるの?」
「泣き方違うもん」
そういう例を取り上げて申し訳がないが、韓国の人はそういう悲惨な出来事が起こるとワーッと抱き合って泣く。
それで、日本人からすると泣き方がすごく強い。
悲しみの表現が韓国の方はすごく強い。
ある意味では大地を叩き、地をかきむしるような。
それを誰かがガバーッと抱きしめるとか。
気絶しそうになる方がたくさんいらっしゃる。
それに比べて日本人はいっぱいニュース報道でも見てきたが、泣く時に一人。
踏ん張って、伸びてくる手を振り切る。
接触を拒否して単独で泣こうとし、極力泣くまいとし。
異様なのは、事故現場から笑顔で被害の状況を語る人がいる。
本当に多い。
気の毒そうにテレビ局の人がマイクを差し出すと笑う。
「もう逃げる暇もなーんもなかったですたい」と言いながら。
巨大な火山の爆発を遠目に見ながら、ほんのわずか笑みを浮かべて語る雲仙の人を見かけたことがある。
それから、もう本当に武田先生が泣いたが、広島で土砂崩れで家が何軒も流された時に連れ合いの80代のおばあちゃまを亡くされた90代近いおじいちゃんが「まぁしかし、一瞬の出来事だったんでね、大きな苦しみはなかったと思います」と言いながら淡々と語ろうとする。
その時に倒れたり一切しない。
自力で立って妻の最期みたいなことを語るおじいちゃんを見ていて、皮膚感覚の違いと感情表現の違いを半島の両国と日本、それからユーラシアに巨大な国を持つ中国と、それから島である台湾。
何かそれぞれの感情表現の、それが何か違うのではないかと。

「日本人ってやっぱり触覚の人種なんだ」「タッチの国民なんだなぁ」と武田先生が思うのは、この国の手工芸品に出ているような気がする。
日本は「手のひらの感覚で判断して物を造形していく」という能力がすごい。
東京12チャンネル、テレ東の番組とかを見ると。
「匠の技って何か?」と言ったらほとんど「触覚」。
その辺がやっぱり大陸の国、そして半島の国、島の国である台湾あたりの人たちと日本人との差ではないのかなぁと思ったりする。

日本は戦前のことだが「アジアは一つ」と言って、大まとめにアジアを考えたところから大きな戦争を起こしてしまって。
アジアの他の国も含めてご迷惑をかけた。
ちょっとトリッキーな言い方になるが「アジアは一つではない」と「アジアはバラバラ」。
こういうところからアジア観を作っていった方がいいんじゃないだろうか?
武田先生が考えたのは「韓国文化は何か?」と言ったら「視覚文化」じゃないか?
どう見せるか?
だから愛情も見せる、怒りも見せる。
それから自分の力も見せる。
つまり「見せる」ということが最大の文化的特徴。
日本は反対で「見えるものを見えなくしてしまうところに見えるものがある」という。
「行間を読む」みたいなこと。
寅さんでも健さんの任侠ものでも日本人がゾッとするのは、主人公がクルっと背中を向けて歩き出した瞬間に「クライマックスに入った」という。
その「後ろ姿の美学」。
「見せないことの努力をしていることが、より見せることになる」という。
連れ合いのおばあちゃんの死を訥々と語るおじいちゃんのその口元に胸を揺さぶられるような悲しみを感じるという。
その間におじいちゃんは一粒の涙も流さない。
インタビューが終わった瞬間に、おじいちゃんは身をねじった瞬間に「泣いているんだぁ」と思った瞬間に、隠された涙を我々は見ることができるという。
「涙を隠すところに涙を見る」という。
その「隠そうとする文化」と「見せようとする文化」の違いが、時折半島の方々とすれ違いになっているのではないか。
原子が爆発するというような爆弾を作っても強さの証明にはならないと思うが、どうしてもあれに火を付けて上がっているところを見せないと自分たちの軍事力を見せられないのだろう。
その辺の違いみたいなのが、皮膚感覚の違いみたいなものがアジアの人々の間にそれぞれあるのではないだろうか。

この「触覚」という問題に関してはものすごく複雑。

 皮膚には基本的に有毛と無毛の2種類がある。無毛皮膚というと、読者はすべすべの肌を思い浮かべるかもしれない。たとえば女優のキーラ・ナイトレイの頬のような。けれども、キーラの愛らしい顔の柔らかい皮膚を注意深く観察したなら、実際には細く短い、色の薄い毛に覆われているのが分かるはずだ。軟毛(産毛)と呼ばれる毛だ。−中略−この軟毛は、基本的に毛管作用で水分を運ぶ役割を負っている。汗を皮膚表面から引き上げ、効率的に蒸発させて皮膚の冷却を助ける。(49頁)

 本当の無毛皮膚は、手のひら(指の内側を含む)と足の裏、唇、乳首、生殖器の一部にのみ見られる。(49頁)

 有毛皮膚も無毛皮膚も、基本構造は同じである。二層構造のケーキを思い浮かべて欲しい。上層は表皮で、さらに薄いいくつかの下位層に分かれている(図2-1)。どちらの皮膚も、表皮の最上層は角質(角質層)と呼ばれる死んで扁平になった皮膚細胞の層で、その下に3つの薄い層(顆粒層、有刺層、基底層)がある。(49〜50頁)

こうして表皮の細胞は、50日ほどですっかり入れ替わる。(51頁)

そしてその4つの層には4つのセンサーがある。
このセンサーがすごい。
浅い皮膚には物の形、質感を判断する「メルケル盤」。
握る力の強弱のセンサー「マイスナー小体」。
深いところでは「パチニ小体」。
揺れを感知するセンサーで皮膚が0.0001mm動いても感知する。
ほんのちょっと揺れても「あ!揺れた」と感じるというのは、この皮膚のセンサーのおかげ。
掴んでいる物の、手に伝わってくる震動を正確に神経の方に送って、何を感じているか絶えず脳にジャッジさせている。

シャベルで砂利を掘るところと、柔らかい土を掘るところを想像してみてほしい。あなたの手は、シャベルと地面の接触箇所からずいぶん離れているにもかかわらず、砂利と土の違いはすぐに分かるはずだ。(62頁)

posted by ひと at 11:28| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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