カテゴリ


2018年01月18日

共感性羞恥

どういう形で書こうかって考えていた内容なんだけど、たまたま本の内容とも被るかな?と思うので(被ってないかも知れないけど)書いてしまおうと思う。
ちょっと前にネットなどで話題になった「共感性羞恥」というものの話。

 なぜ、ぼくは高いところに登りたがるのか? なぜ、ぼくは毎日家の中を一時間も二時間も走り回るのか? なぜ、ぼくには虚栄心やプライドがないのか? なぜ、ぼくはTVのドラマで誰かが誰かを責める場面になると耳を塞いでその場から逃げだしてしまうのか?「ぼくが発達障害だからできたこと」4〜5頁)

本の著者の市川拓司さんも私と同じ感覚かどうかはわからない。
発達障害者でも障害特性はピンキリなので。
ただ、私もテレビとか映画とか「作り話」っていうのがはっきりとわかっている状態でも「誰かが誰かを責める場面」はとても居心地が悪い。
もちろん職場などでそういう状況になっても、とてもつらい。

責めるっていうのとはちょっとずれるかも知れないけど「共感性羞恥」ね。
共感性羞恥とは - はてなキーワード
↑このあたりがわかりやすいかな?
恥ずかしい思いをさせられている人ってバラエティー番組なんかでよく見かける。
「ドッキリ」とかね。
そういうのは楽しめない。
多分そのまんま「共感性羞恥」なのかなと思う。
最近まで、そういう言葉自体を知らなかったから、自分以外にもそういう人がいるのは知らなかった。
twitterの投票で「自分は共感性羞恥があるかないか」ってのを投票してもらったら、定型発達者も発達障害者も両方とも「共感性羞恥」のある人だらけになってしまったのだが。
実際には大部分の人が「共感性羞恥」なのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。
定型発達者の大部分が「共感性羞恥」なんだとしたら、恥をかかされている人をみんなで笑うっていう種類の番組が成立しないんじゃないかと思うけど、違うのかな?

で、「共感性羞恥」とは私はちょっと感覚がズレるんだけど、市川氏が言うところの「誰かが誰かを責める場面」ね。
市川氏は「共感性羞恥」と同様に「自分がそうされているかのように」感じるのかも知れない。
私はこれに関しては、内容的に異なる。
うまく説明できないけど、不快なのは事実。
よく誤解されるのが「優しいんだね」っていう。
叱られている人を見て、その人を私がかわいそうだと思っているのではないかと誤解している。
うん。
全然「かわいそう」とか思ってないから。
じゃあどう思っているのかというと、別に叱られている人を不憫に思うワケでもなく、責めている人に対して怒っているワケでもなく・・・。
その叱られている人物が自分ならまだマシなのだ。
「その中」にいれば対応のしようがあるから。
でも、叱っているのも叱られているのも自分ではないので、私には対応のしようがない。
それがつらいのかな。
わからんけど。
具体的に「これ」っていう説明ができないんだけど「そういう場」に遭遇したくない。
「責められるかわいそうな人がいなくなりますように」と思うのではなく「自分の視界に入りませんように」だな。
むしろ薄情だなぐらいに思うのだが。

posted by ひと at 15:21| Comment(0) | 発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: