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2018年04月17日

2017年12月11〜29日◆なかにし礼(前編)

BSで昭和歌謡を振り返る番組やTBSの歌番組でも『ザ・ベストテン』を振り返ったり、もうほとんどメインは「昭和歌謡史」。
関口さんとか『武田鉄矢の昭和は輝いていた』とか、いろんなところが昭和の歌を振り返っている。
そういう「時代の流れ」というのもあって「なかにし礼」氏を取り上げる。
『恋のフーガ』『恋のハレルヤ』『石狩挽歌』
日本作詞大賞から直木賞まで獲っちゃったという凄い才能の方。

夜の歌



一九三八年中国黒竜江省(旧満州)牡丹江市生まれ。立教大学文学部仏文科卒業。在学中よりシャンソンの訳詩を手がけ、その後、作詩家として活躍。(本のそで)

なかにし礼氏を自分の番組に招き、話を伺った武田先生。
武田鉄矢の昭和は輝いていた|BSジャパン 第181回 5月5日 「作詩家 なかにし礼の世界3時間スペシャル」)
その席で『夜の歌』という彼の自伝に近い小説、物語をいただいて、お話を伺いながらその本を読んだのが今回の『三枚おろし』のネタ。
この『夜の歌』というのがまた凄い。
なかにし礼氏が己が一生を振り返りつつ、小説にしてある。
ヒット曲にも恵まれず落ちぶれ果ているが作詞家である武田先生。
この方(なかにし礼)と同業。
ただ、スケールが違う。
武田先生はライブで数百人の観客がいれば十分というような、非常に「小商い」、狭い所帯で生きている。
なかにし礼氏はもう昭和歌謡史に残る、燦然とその足跡を残すという詩人。
自ら歌うこともあるが、彼の詩は多くの歌手に求められた。
個人の仕事ながら、それがそのまま昭和の歌謡史になるという。
作詩する力が違う。
なかにし氏は「百貨店」。
言葉の売り方、展示場が。
それに比べて武田先生は「軒下のたい焼き売り」。
「美味しいの焼けてるよ。買ってかない、お嬢さん!」とかと言いながら。
これほど商売のスケールは違う。

作詩というのは作り方「作業手順」というのがある。
その作業手順というのは「一語」から始まる。
一語、たった一つ。
その一つを思いつくか思いつかないか。
思い出があってそれが歌になるのではない。
その「一語」があって思い出がくっついてくる。
武田先生の唯一のヒット曲である『贈る言葉』。

贈る言葉



「暮れなずむ」という言葉を知った時から始まった。
これは堀内大學というフランスの訳詩集の中にあった言葉。
「暮れなずむ」
それが何だか呟いてみると響きがいい。
「夕暮れ」「日暮れ」などがあるが、この「暮れなずむ」を歌にしたかった。
そうすると当然そういう夕焼けなので「別れ」がいいわけで。
その別れは当然次に「去りゆくあなたへ」という言葉を呼び寄せる。
そしてこの「去りゆくあなた」から去って行った女の人を思い出すうちに歌が膨らんでいく、できていく。
始まりは「暮れなずむ」。
舞台を考えていくうちにそれが「別れ」になっちゃう。
「暮れなずむ町の 光と影の中」と来ると「去りゆくあなたへ」とこう来る。
「夕焼け」とか「日暮れ」とかっていうよりも「暮れなずむ」という。
その別れの情景を作っていくうちにその別れをベタッとしないでサラッと鮮やかに、というので、別れの言葉そのものを花束のように交換した、というので『贈る言葉』という。

その一語を見つけるために、本当にのたうちまわる。
自分の人生のすべてを振り返る。
そのことをテレビの番組でなかにし礼氏に訊いた武田先生。
「鉄ちゃんも作詩やるからわかると思うけど、一語なんだ。それをどう思い出の中から」という。
このなかにし礼という作詩家がどんなふうにしてその一語を持ってくるかを。
(歌の歌詞なので「作詞家」と表記するのが普通かと思われるが、この本の中では「作詩家」と表記されているので、なかにし礼氏に関してはこちらの表記に統一しておく)
礼氏がまだ8歳の少年だった時。
満州国に生まれた方。
この満州国が消えてなくなる。
昭和20年8月、日本の敗戦と同時に満州国は地上から消え失せる。
国家の庇護なく、国境から侵入してきたソ連軍の殺戮にさらされながら礼氏、8歳の少年は姉と母と共に避難民となって帰国の引き揚げ船を目指して歩き続ける。
そこで8歳の少年は、いっぱい人間が死んでいく姿を死んでしまった亡骸を見ている。
おそらく阿鼻叫喚の引き揚げ地獄があったのではないだろうかというふうに思う。
彼は自伝的な小説『夜の歌』の中でその情景を書いている。

「ぼくたちは重いリュックサックを背負い、ハルピン駅から石炭を運ぶための無蓋車にぎゅうぎゅう詰めにされて乗った。列車は中国の子供たちに石をぶつけられながら大連に向かって南下し、二十日ほどかかって遼東湾の西側にある葫蘆島という港町に着いた。
 その港町を歩いていると、海の香りがしてきた。その香りに導かれるようにして砂丘が作る小高い丘を上った。這うようにして砂丘を上りきって、ふと目の前の開けた景色を見ると、そこには雲一つない真っ青な空が広がっていて、その下には波一つない真っ青な海がたゆたっていた。そして沖のほうには、ぼくたちを日本に向けて乗せていってくれるはずのアメリカのフリゲート艦が錨を下ろして待機していた。
(229頁)

「やっとこの船で日本に帰れる。助かったんだ!」
そういう燃えるような(思いが)8歳の少年でもあった。
「もう死体を見なくていいんだ」という。
あの歓喜を生涯忘れない。
これが情景でまず思い出の中にある。
それから○十年後、話はポーンと飛ぶ。
なかにし礼氏は作詩家になっていて、曲が出来上がっている。
音符は4つ。
「4つで何かいい言葉はないか?いい言葉はないか?」
恩義ある人から頼まれた黛ジュンという新人のための歌。
頭を掻きむしっているうちに彼の思い出が8歳の少年に戻っていった。
なんとあの砂丘から引き揚げ船の船影が見えた瞬間を思い出した。
あの喜びを何て言おう。
その時に彼はフッと思う。
「あれは神がかりだった」

「ぼくはクリスチャンでもユダヤ教徒でもないが、あの時のあの喜びはハレルヤだ。神をたたえよ! その言葉しかない」(230頁)

4つの音符に「ハレルヤ」をはめ込んだ礼氏は、次に7つの音符に昭和21年10月中旬、引き揚げ船の出港を重ねた。
壮絶だったらしい。
「船が出て命が助かった瞬間、みんなウワーンと泣き出した」
(本には「ただただ無口でうずくまる引揚げ者たちは、無限にすすり泣いていた」という表現)

「満州のバカヤロー!」
 人々はそう叫びつつも、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 空中に紙吹雪が舞った。それは緑色の満州国紙幣だった。
−中略−歴史とか世界とか人々の生活を無残に崩壊させる大いなるもの、神の力などとは言わない。悪魔の手になるのか善魔のなすものかは分からないが、とにかく止めようのない大いなる力がある。それを恋の歌の形で表現できたら、そこには万人が納得する必然性が歌の柱になってくれるだろう。
 タイトルは『恋のハレルヤ』で決まりだ。
−中略−
 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない
−中略−
 ハレルヤ 沈む夕陽は
 ハレルヤ 止められない
(232〜233頁)
 
なかにし礼さんと話したり、この本を読んで圧倒されたのは、ものすごく暗い悲しい思い出が、後の彼が作ったポップスの歌詞になっている。
昨日(番組上の前日)、引き揚げ船で引き揚げてくる時に、消えた満州国に対する引き揚げ者たちの無念の叫び声と言った。
「満州のバカヤロー!」とか
でも、なかにし礼氏は「恨みだけではなかった」という。

満州で生きた人々にとって、満州で見た夢は膨大であり、−中略−夢に向かって歩みつづけた充実感と躍動感は生涯忘れがたいものになっている。(233〜234頁)

それくらい満州生活は胸がときめいた。
日本人だけではない。
周りには中国人の子もいるしロシア人の子もいるし、朝鮮民族の子もいる。
モンゴル系の人たちもいる。
そういうアジアの多民族が生きていた街というのは、我々が体感できない「賑わい」が。
それをなくした無念さというのは「どこか恋に似ていた」と。
それであの満州国に対する思いというのが『恋のハレルヤ』の中でこう変化する。



 愛されたくて
 愛したんじゃない
 燃える想いを
 あなたにぶっつけただけなの
(232〜233頁)

黛ジュン譲はそう歌っているが、実はこれは満州にかけた彼らの夢をあの『恋のハレルヤ』のサビのところに持ってきたという。

『恋のハレルヤ』は予定通り昭和四十二(一九六七)年二月上旬に発売されたが、プレスが追いつかないほどの売れ行きを示した。(236頁)

武田先生がびっくりした引き上げ直前の出来事。
ハルピンに命からがらたどり着いて「殺されなかった」と喜んだ瞬間に、1945年のこと、ハルピン駅で外国にいる日本人引き揚げ者に向かって日本国から勧告文書が届いた。

《ハルピン地区の事情がまったく分からないので、引揚げ交渉を行うにも方法がない。さらに、日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚げ者数は満州を除いても七〇〇万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、ハルピン地区でよろしく自活されることを望む。 外務大臣・重光葵》(174頁)

いわゆる「棄民」。
国民を棄てる。
国家というのは時として国民を外国に棄て去るものであるという、そういう体験をなさっている。
私たちにはもう、想像もつかない。

 七歳の私でさえ、この紙に書いてある文章を読んでやり場のない怒りと悲しみを覚えた。私は牡丹江生まれだが、姉は日本の小樽生まれだったから、祖国に棄てられた衝撃は私よりも何倍も大きかったのだと思う。(176頁)

号泣するお姉さん。
家も財産もすべて投げ出してソ連の戦闘機に追われてやっとここまで逃げてきたのに。
帰るべき日本国政府からは「帰ってくるな」と「喰わせる飯がねぇんだ、お前たちには」という。
この「日本国に棄てられた」というこの無念と恨みを彼は歌にしている。
弘田三枝子さん『人形の家』。



 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた人形みたい
 愛されて捨てられて
 忘れられた部屋のかたすみ
 私はあなたに命をあずけた


この暗い恋歌の底に、戦争敗北によって一国の街に棄てられた引き揚げ者の無念が込められていたワケで。
この人の「一語」は凄い。

満州から引き揚げてくる時、淡々と小説の中で書いておられるが、お父さんはソ連軍に連行されて、お母さんとお姉さんとまだ7〜8歳の少年であるなかにしさんは三人で逃亡していたらしい。
その逃避行の途中で「満蒙開拓団」満州に開拓に入った日本人の開拓団の人たちが中国人によって皆殺しにされたという惨状を眺めたり「七十万精鋭」と威張り続けた関東軍が紙のごとくソ連軍の奇襲に引き破られたというその関東軍の見苦しい逃げっぷりを語りつつも、かばうように帝国軍人の出来事を語ってある。

 大杉というのは大杉寛治少将のことで、−中略−
彼は参謀本部にいて関東軍の満州進出計画は手に取るように分かっていたから、父に牡丹江移住を勧めた。なぜそのようなことになったのかというと、大杉は母に結婚を申し込んでいたのだが、大正デモクラシーに染まった母は軍人よりも商人の倅である父を選んだという物語が背景にあった。大杉は自分を袖にした女性にたいして最大の寛容さをみせ、満州移住という一大プレゼントを差し出してみせたというわけだ。
−中略−
いわば大杉は父と母にとっては満州における成功と栄光をもたらしてくれた恩人であった。
(191頁)

昭和20年8月9日、大杉というこの少将は攻め込んでくるソ連軍を止めるためのしんがりを受け持った。

戦車はソ連軍一キロメートルあたり約四〇台にたいして日本軍ゼロ。戦闘機はソ連軍の数百にたいして日本軍はゼロ。大砲にしても的は四十倍、といった具合だ。(192頁)

日本軍はなんと大杉少将を先頭にして突撃を繰り返し、ソ連軍の侵攻を食い止める。

 大杉少将は言った。
「勝利の望みなき戦いで命を落とせし数多くの兵たちよ、その家族たちよ、祖国を恨むな。満州にわたり苦難を強いられた数多くの民たちよ、祖国を恨むな。祖国を許せ、
−中略−上官の言葉は天皇陛下のお言葉であると『軍人勅諭』にあったはずだ。−中略−天皇陛下のお言葉だと思って聞け! 兵たちよ、謝って済むことではないが、私は心から君たちに謝りたい。済まなかった。誠に済まなかった。済まなかった……」
 このあとカチリと音がして、兵たちが大杉少将を見た時はすでに遅かった。
 大杉少将はピストルをこめかみに当て、引き金を引いた。銃声が鳴った。
 大杉少将は膝からがっくりと地に倒れ、絶命した。
−中略−
 翌早朝、突撃隊に志願した兵たちおよそ四〇人は、大杉少将との約束どおり、白刃をかざしてソ連軍戦車隊にぶつかっていき、むなしく散っていった。
(193頁)

しかしまさしく『人形の家』の歌詞に込められたように「私はあなたに命をあずけた」というこの「満州へ渡った人たちの思い」みたいな、この絶望みたいなものが伝わってくる。

逃避行の最中、列車でソ連軍の戦闘機から銃撃を浴びている。
その時にお母さんが「伏せろ!」と言ったからそのまま伏せるのだが、もう戦場における生と死なんて運、不運のそれだけ。
だから「ダダダダダダ…」と銃をソ連の戦闘機が撃っていく。
だから当たって死んだその人の横は死んでいない。
死んでいない人のその先は死んでいる。
その運命の「非情さ」というか、そういうものをポツンとお書きになっている。
とにかく7〜8歳の少年はザクロのように頭蓋骨を割られた死体をいくつも見ながら逃避行を続けたという。
そして礼氏は、その体験を踏まえてこんなことをおっしゃっている。

 このたった四日間で、私は突如、幼児から少年になった。いや少年どころか、疲れても腹が減っても泣き言一つ言わない、しっかりした大人以上の大人になった。(51頁)

死を目撃することによって彼の中の成長が急がされてしまったという。
とても不幸な出来事かもしれないが。
「幸運」と「不運」というものの残酷さ。
それで彼らは恨みに恨んだ日本に帰ってくる。
行き場がなくてお父様の故郷である小樽にたどり着く。
そうしたらその小樽では一つ幸運が待っていた。
それはどんな幸運かというと、この一家、なかにし家の大黒柱であるご長男さんが生きておられた。

学徒出陣して陸軍特別操縦士見習士官となり、特攻隊として出撃したはずの兄は戦死していなかったのだ。(389頁)

そのお兄さんは(なかにし氏よりも)一回り年上。
「生き残った」という運を手にしてお兄さんと会った時、もう本当にお母さんは抱きついて泣かれたという。
いい話。
ところがそう簡単に話はいかない。
このお兄さんが何を思ったか、とにかく大博打が好きな人で、せっかくあった家、土地、建物の権利書を手にニシン漁の大博打に打って出られて「すべてをなくす」という。
なかにし礼氏に襲いかかる戦後の不幸はここからまた始まっていく。

もう昭和もとっくに終わって数年のうちに平成も過ぎていくのだろうが、この昭和という時代は振り返っても振り返っても不思議。
「引き揚げ」という言葉は我々の頃はまだぼんやり差別用語として使われていた。
「あの人は引き揚げ者たい」という。
つまり「一攫千金を夢見て中国大陸に渡ってはずした人」とか。
それから「日本国内がB-29で焼かれてる時に安全に眠ったやつら」とかっていう意味合いも含めてそんな言い方をする。
向こうは向こうでものすごい地獄があったワケだが。
でも満州から引き揚げてきたという人たちはものすごい才能が何であるのだろうと不思議で仕方がない武田先生。
森繁(久彌)さんは引き揚げてきた人。
加藤登紀子さん、なかにし礼さん、山田洋次さん。
この間、聞いてびっくりしたが宝田明さん。

とにかく小樽に引き揚げてきた。
引き揚げてきたら特攻隊で死んだはずのお兄さんが生きていたという。
「わぁ、うれしや」とみんなで抱き合って「生きてた、生きてた」で抱き合ったのもつかの間、このお兄さんが人変わりがしたような大変な大博打うちになり、まずは自分のところの家、土地、建物、それをカタにして高利から借金し、30万円でニシンの漁の網を買い、三日間船を借りて増毛の沖に網を張った。
戦後すぐの食糧難の時世なので、とにかく一日でも大量の網が曳ければ大金が転がり込むという大博打だった。

おばあさんが小樽にいらっしゃったようだが、おばあさんはわかったのだろう。

とんだ疫病神が帰ってきてくれたもんだ。(390頁)

このお兄さんは博打を強行。
何度曳いてもニシンが引っかからない。

 そして三日目、こんなことってあるのだろうか。兄の網にニシンが、しかも六十万尾という大量のニシンが入ったのである。(391頁)

もうそのまま函館に陸揚げしただけで100万円。
その当時の100万円だから、今で言ったら○千万円か一億近いかもしれない。
そのお金が入る。
この時になかにし礼さんは「興奮が忘れられなかった」と(本には書いていない)。
そのズシッと網に引っかったニシンの跳ねるその影が浜辺から見えた。
日雇いの「ヤン衆」漁労たちがウワーっと集まってきて浜で網を曳く。
そのニシンを曳き上げる。
篝火を焚いて延々と夜通し曳き揚げた。
「やった!ダイエン(と言っているように聞こえたがよくわからない)だ。これで一家は大金をつかんで幸せに」と思いきや、お兄さんは博打の上にもう一つ博打を重ねた。

 兄は言う。今日の大量で兄は一〇〇万円を得ることになる。しかしこの大量のニシンを輸送船をチャーターして秋田の能代まで運べば、三倍の値段になる。−中略−
 兄の取り分である三十六万尾のニシンをふた晩がかりで五隻の輸送船に積み終えた。
−中略−五隻の船は、嵐のような時化に遭って翻弄され、ニシンはみんな白子や数の子を吐き出しちゃって生ゴミ同然になってしまい、その生ゴミを海に投げ捨てて命だけは助かったのだそうだ。(392頁)

掛け金のすべてと住む家、土地をなくし、故郷に住めず、お兄さんも逃亡して一家は苦境に。
壮絶な人生。
それでなかにし礼さんは東京に出てくる。
お兄さんのことを恨みたかっただろう。

 私の初めての小説『兄弟』の、これが書き出しの二行である。−中略−
『兄貴、死んでくれて本当に、ありがとう』
(449頁)

兄弟



なかにしさんに憑りついた疫病神のごとく、お兄さんはなかにしさんを苦しめるということになるのだが、その作品は後年のことなので横に置いておく。
生活に追い込まれたなかにし礼氏。
お母さんとお姉さんを守りながら懸命に働く苦学生になって東京で学びながら働き、大学にも通いつつ、必死になってアルバイトで生きていく。
そこで彼がちょこっと芽を出したのは、フランス語をやっていたらしいが、フランス語のシャンソンの訳詩をやらせたらうまいので、バイトでやっていたら引く手あまたになった。
彼は学生結婚をして奥さんも働いてくれて二人で生きている時に面白い運命。

ここはひょっとして下田の東急ホテルか?−中略−
 私は、昨日結婚したばかりの新妻と一緒にホテルのロビーにいた。
 大勢の人だかりがしている。みな一方向を見て、口々に同じことを口走っている。
「裕ちゃんだ。裕ちゃんがいる」
 みなが注視している方を見ると、天下の大スターの石原裕次郎がロビー奥のカウンターのスツールに腰掛け、こちらを見て、にこにこ笑っている。
(64頁)

 と、すると、その裕ちゃんが、私を指さして、その人さし指を上に向けて、おいでおいでをしている。−中略−
 私はふわふわと石原裕次郎のいるカウンターに向かって歩き出した。
(64頁)

「疫病神の兄貴」から逃れたなかにしさんは、ここで「運命の兄貴」と出会う。
この人の人生の面白さ。

posted by ひと at 14:44| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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