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2018年04月17日

2017年12月11〜29日◆なかにし礼(中編)

これの続きです。

「立ち向かっていこう」と「負けたくない」というので懸命に頑張ってきた武田先生。
ここまでくるとはっきり差は認める。
最近そういうのが多い。
世の中には凄い人がいっぱいいる。
武田先生が最近一番尊敬している歌手は北島三郎さんになった。
あの人はやっぱり凄い人。
その番組(『武田鉄矢の昭和は輝いていた』「北島三郎3時間SP」を指しているかと思われる)で取り上げて、北島三郎さんのことを「生きてる神社」と呼んだ武田先生。
二礼二拍手すると何か良いことがありそうだと思う。
誰かが言っていたことだが、北島さんは「一つおやめになると一つ幸運が舞い込む」。
「もう紅白出ない」と不出馬宣言をなさって、一か月間の座長芝居も辞めて、「これからは体力に合わせて。80歳ですから」なんて切なげにそうつぶやかれたら、とたんに持ち馬が走り始めたという。
いっぱいお弟子さんがいらっしゃるが今、本当に北島プロで一番稼いでいるのはアイツ。
本当に「花さかじいさん」みたいな方だと思う。
昭和を生きてきた人間として己を振り返るが、その時に目の敵にした人の「才能」みたいなものがすごく最近身に染みて感じる。
阿久悠という人は只者ではない。
浜口庫之助さんとか。
ああいう人たちの作品とか人柄とか生きっぷりに、最近やっぱり次々に圧倒されている。
そしてお話した時になかにし礼さんの作詩の秘密を聞いていくうちに「やっぱりすごいな」と。
戦前、戦中、戦後を生きた人たちの「凄み」みたいなものがフツフツと。
見てきたもの、経験したことがもう全然違う。

戦後になってこのボロボロの人生で、なかにし礼さんは自分で苦学しながら大学に行かれてフランス語を勉強なさって学生結婚なさっている。
始めての結婚の時、お金を貯めて二人が伊豆下田まで新婚旅行に出て、そこで高いホテルに「一泊だけ泊まろう」と泊まって、そこのホテルに行かれたのが昭和38(1963)年。
下田東急ホテルに行かれて、ロビーをくぐったらそこにいた映画スターが手招きした。
その映画スターこそ石原裕次郎。
これは本当にドラマのようだが。
何で手招きされたか?

「いや、なにね、さっきからここに坐ってロビーにたくさんいる新婚さんたちの品評会を、ま、退屈まぎれに、この専務と一緒にやっていたんだよ。そこでよ、君たちが一番カッコいい新婚さんてことに、俺たち二人の意見が一致したってことだよ。ま、ここに坐れや」
 裕次郎は自分の右隣のスツールをぽんとたたいた。
−中略−ブルーのコットンパンツをはいた足は長く、白いスニーカーで悠々と床を踏みしめている。やたらとまぶしい。なんだかスターと凡人の差を感じて私は意気消沈してしまった。
「というわけでよ、君たちは新婚カップル・コンテストのグランプリに決まったってことよ。ま、一杯、祝杯といこうや」
−中略− 
「乾杯!」
 裕次郎がみんなを見回してジョッキをあげた。
−中略−
「なにやって食ってんだい?」
「シャンソンの訳詩をやってます」
−中略−
「あんなもの訳詩して食っていけるのか?」
「まあ、なんとか」
「本当か? 貧乏してるんじゃないのか。こんな可愛い嫁さんに苦労かけちゃまずいぜ。よお、嫁さんよ、おたくの旦那、大丈夫なのかい?」
 裕次郎は私越しに妻に声をかけた。
−中略−
「やめとけ、やめとけ、訳詩なんざ。シャンソンを日本語にしたってつまんねえよ。なんで、日本の歌を書かないのよ。流行歌をよ」
「流行歌ですか?」
−中略−
「自信作ができたら持ってきなよ。俺がすぐに歌うってわけにはいかないけど、レコード会社に売り込んでやるよ。なあ、専務」
 裕次郎にそう促された専務は、
「ええ、もちろんです。石原プロモーションに私を訪ねてきてください」
 と言って名刺をくれた。
(66〜69頁)

気に入った詩が出来上がったので三年後ぐらいに持っていく。
もう覚えていなくて玄関払いだろうと。
大スターだから当然だろう。
そう思ったら裕次郎さんはちゃんと覚えていて「できたかー」と言いながら事務所の奥から出てきた。
(本によると石原プロで裕次郎は応対していない。『夜の歌』はフィクションを含む内容のようなのだが『兄弟』の方にも同様のシーンが登場するが、やはり裕次郎はこの時応対していない)
まるで疫病神のような兄から「太陽をいっぱい浴びた新しい兄貴を見つけた」というこの瞬間から彼は日本の歌謡界に一歩を踏み出す。
この奇妙な縁はさらに彼を別世界へ運ぶ。

裕次郎さんが何かの関係で一人の女の子を預かった。
その預かった子が黛ジュンさん。
それで裕次郎さんから「この子の曲は絶対当てて欲しいんだ」と頼まれた。
それが例の『恋のハレルヤ』。

恋のハレルヤ (MEG-CD)



 黛ジュンという名前はどこから来たかというと黛敏郎からだ。−中略−その頃の私はクラシック音楽にのめり込んでいて、−中略−なんとしても黛敏郎の「黛」を拝借したいと考えたのだ。(216〜217頁)

なかにし礼さんは名付け親でもある。
それで『恋のハレルヤ』の大ヒットを飛ばした。
このなかにし礼という人は必死になって言葉を紡ぐ人。
その一つの例だが、裕次郎さんに言われた「シャンソンの訳詩だけじゃつまんない。歌謡曲作ってごらんよ」というので彼はシャンソンの訳詩もしながら歌謡曲の詩を作っていく。
まずヒットしたのはシャンソンの訳詩。
その当時、シャンソンの歌い手でナンバーワンと言われていたのが菅原洋一さんという。
ただ、シャンソンを歌う方はインテリ。
ちょっとうるさい。
それで、もう今でこそ笑い話なのだが、なかにしさんは必ず録音に立ち会う人らしいのだが、壮絶な闘いがあった。
その中で「なるほどなぁ」と思った一曲。
菅原洋一さんで『知りたくないの』。



これは一行目から大ゲンカになった。

 あなたの過去など
 知りたくないの
 済んでしまったことは
 仕方ないじゃないの
(242頁)

これは何気ない言葉。
これを菅原さんがテーブルを叩き「こういう言葉使う?普段から」。

念のため全音の『歌謡大全集』全十二巻を買ってきて、そのすべてに目を通して見た。思ったとおり「過去」という言葉はどこにも見当たらなかった。(『兄弟』199頁)

「過去」という二文字は男女の別れの色っぽい歌には使われない。
だいたい「過去」と言った場合、犯罪関係の話。
なかにしさんは「女心の深い傷跡として『過去』という響きの暗い言葉が一行目から必要なんだ!」というので。
でもヒットしたのでパーティーでお会いしたらすごく菅原さんは喜んでらしたという。
(『兄弟』にこの曲のレコーディングの時のことが詳しく書かれているが、菅原氏は「『過去』はカ行が二つ並んでいるせいか歌いにくいので他の言葉に代えて欲しい」と言っているが、テーブルを叩いたとか、普段使わない言葉であるという主張をされたということは書かれていない)

礼さんが『恋のハレルヤ』とか『知りたくないの』等々ヒットを飛ばすたびに、お兄さんが聞きつけて。
本名が「中西禮三」さんなのでわかってしまう。
(番組では「なかにしれいじ」と言ったが「なかにしれいぞう」)
だから「作詩家・なかにし礼」と言えば「弟ではないか」ということで住んでいるところがバレちゃうみたいなことで。
お兄さんがお母さんの面倒を見られた。
そういう関係があったらしい。
お兄さんが「母親の面倒は俺が見てる」と言われると返す言葉がなくて、お兄さんが人生に絡んでこられるという。
本人がそうおっしゃっているからそうとしか言いようがないが、本当になかにしさんのお兄さんは「疫病神」だったらしい。
ある意味で、もうはっきり憎悪を込めておっしゃる。
どんどんまた借金をして。
なかにしさんも考えてみればいいひと。
「母親の面倒見てるの俺だぞ」と言われると返す言葉がなかったらしくて、尻拭いの意味でお金を渡していくうちに、ものすごいことをなさったようだ。
勝手に借金の肩代わりみたいな。
莫大な負債をいつの間にか負わされて、歌の権利か何かも全部押さえられた。
そんな苦労をなさっている。
勝手に印鑑を持ちだされてみたいなことらしい。
それで先々の権利までお兄さんが手を出されていて、次のヒット曲を出さないとなかにしさん自身が破産するような。
連続ヒットを出さないと、なかにしさん自身が全財産をなくす。
最初の結婚はダメになってしまうが、二度目の奥様には頭を下げようがないみたいな大借金をお兄さんが持ち込まれた。
その時にレコード会社からの企画を持ち込まれて。
仕事だから、お兄さんに対する思いとか借金のことを考えると頭が作詩の方にいかないが、頭を掻きむしっているうちにヒョコッとできたヒット曲。



いしだあゆみさんの『あなたならどうする』。
「どこがどう」というわけではないが、サビの文句の「あなたならどうする」というのは、そう訊きたくなったのだろう。
それから選ばせる。
「生きるの?死ぬの?」とか何か。
あれももう、本当に全財産なくすかどうかの瀬戸際で思わず口からついて出た言葉で。
一番最初にこのなかにし礼さんを語る時に言った「『一語』が歌を作っていく」という。
この方は本当に壮絶。
それで驚くなかれ、借金はずっと背負い続けられて21世紀に入ってやっとその呪縛から。
そこまで引っ張った。
それも負債者がもう「群れ」で襲ってくる。
壮絶な巨大負債。
今まで一生懸命返してきた。
弁護士さんでものすごく立派な方がいらっしゃって、21世紀に入ってからだから数十年にわたって。
本当に「あなたならどうする?」と言いたくなる。
でも不思議。
こういう苦悩がなかにし礼という人に詩を書かせていく。
とりあえずお金とは関係ないが、作品が、一語が、次々とこの苦悩の摩擦から熱となって浮かび上がってくるという。

 『恋のフーガ』

 追いかけて追いかけて すがりつきたいの
 あの人が 消えてゆく
 雨の曲がり角
 幸せも 思い出も
 水に流したの
 小窓打つ 雨の音
 頬ぬらす涙
 初めから 結ばれない
 約束の あなたと私─
 つかのまの 戯れと
 みんなあきらめて
 泣きながら はずしたの
 真珠の指輪を
(247頁)



クラシック好きのなかにしさんらしい。
「フーガ」という。
ティンパニーのダダダーン!というような音なんていうのは、なかにしさんのアイディアだと思う。
そのなかにし礼さんが「負けてなるか」と思った一群が彼の人生に登場する。
フォークソング。
なかにし礼さんはこの歌を聞いた瞬間に「負けるもんか」と思ったという。
そのライバル心に火を点けた歌がこの歌。



作詩・岡本おさみさん、作曲・吉田拓郎さん。
自身も歌ってらっしゃる『襟裳岬』。
我々にはピタッとくる「襟裳の春は何もない春です」という。
「北の街ではもう悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい」というような抽象表現が武田先生の世代の圧倒的な支持を。
そして森(進一)さんの歌唱力もあってレコード大賞に選ばれるという。
レコード大賞に選ばれた情景を、作詩家なかにし礼氏は「オマエらが襟裳だったら俺には小樽がある」ということで、彼は過去へと思いを走らせる。
その小樽にある情景というのは、あの忌まわしき兄。
そこの浜辺でニシンを引いたという「あの負けてしまったあの情景こそ俺は歌にしてやる」と。
普通は演歌だったらこれを「うみねこ」と表現するが、彼は「ゴメが鳴くから」と、こう表現した。
「ヤン衆」
漁業にまつわる季節労働者。
若いヤン衆たちの作業着を「赤い筒袖(つっぽ)」と呼ばせるという。
聞く者にあえて馴染みのない異様な言葉でその情景を語る。
この人は「ゴメ」から歌を思いついたのではないかと思う武田先生。
「海猫(ゴメ)が鳴くからニシンが来ると」とこの一行で「ブワーッと思い出が」という。
彼にはやっぱり小樽の浜辺にいっぱい思い出があるのだろう。
「雪に埋もれた 番屋の隅でわたしゃ夜通し飯を炊く」
凄い情景。
「夜通し飯を炊く」というのは体験した人じゃないと思い浮かばない。
飯を炊いているのは女。
しかも「飯炊き女」というのは響きの中に江戸期、宿場町なんかで旅人の給仕をし、売春も兼ねていた「飯盛り女」というようなのがイメージとして重なる。
それが夜通し飯を炊いて働いて、ヤン衆相手に春をひさぐというような強烈な北の匂い。
その娘がある日の浜の情景を語っている。
そういう歌。
それが五行目で突然消える。
ヤン衆相手に春をひさぐような、体を張った生き方をしている女が一瞬のうちにかき消えて「あれからニシンはどこへ行ったやら」と。
これが能狂言の舞台を観るようで、橋を渡って老婆がスーッと出現するような。
「老婆が若い頃の幻影を懸命に語る」というのが、何か能狂言の「夢幻能」を観ているみたいな感じがする。
『黒塚』とか「ヨーッ!ポン!」という。
「ハラマナサラ、ヒョワーッ!」とかというのがある。
うつつか夢がわからないという。
その闇の中から死者が浮かんできて、死者が死者を語り、また闇に消えていくような。
「夢幻能」の能舞台を観ているような気がする。
その老婆が語る風景も凄い。
「沖を通るは笠戸丸」
聞いてもわからない。
これはもう戦前を体験した人じゃないとわからない。
「わたしゃ涙で鰊曇りの空を見る」とサビが始まるが、この「笠戸丸」はかつて、南米ブラジルへと移民の人々、日本人を集めて太平洋を渡っていった、移住する人たちのための船だった。
客船だった。
これも一種「国から棄てられた人々」。
耕す土地が無いので、農家の百姓は「ブラジルへ行ってコーヒー園やれ」「一発当たりゃデカいぞ」なんて言いながら、国が笠戸丸を用意して日本人をせっせとそこへ運んだ。
それは自分たちの父と母が満州に賭けた思いと全く同じ。
そういう情景が。
この笠戸丸は戦後、荷運びの船となり、今は北の方の海に漁礁として沈められたそうだ。
(調べてみたがソ連軍に爆撃をされて沈没したようだ)
一曲の歌謡曲の中にこれほどの深みが。
「なかにしさんの歌の裏地は全部死人ですね」となかにし氏に言った武田先生。
大きく頷かれた。
「死んでいった人たちを歌の裏地に使う」という。
それが武田先生には「複式夢幻能」の構造を歌謡曲にこの作詩家は写しているのだと。
戦後日本の歌謡曲には様々な作り手がいたが、なかにし礼というのはその意味で「才人」。
能狂言を歌謡曲にして酒場に流すという。
後にそう呼ばれる一曲『石狩挽歌』。
この歌の中にはそれほどの深みがあるような気がする武田先生。
しかも歌詞の解説は一番だけでは足りない。
老婆は死んでいった者たちと、死んでいった者たちが見たであろうその情景を一曲の歌に託す。
この歌は無頼の兄に宛てて書いた「歌手紙」。
歌は書けない。
この歌はさらに二番に広がっていく。

石狩挽歌




posted by ひと at 15:03| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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