カテゴリ


2018年04月17日

2017年12月11〜29日◆なかにし礼(後編)

これの続きです。

笠戸丸は逆の意味で言うと幽霊船。
「沖を通るは笠戸丸」というのは幽霊船のようにバァーッと揺らめきながら沖を・・・という感じ。
二番目の歌詞もすごい。
語彙そのものが実に巧み。
二番目の一行目
燃えろ篝火朝里の浜に 海は銀色ニシンの色よ
ニシン漁のその夜は浜には煌々と篝火を本当に焚くそうだ。
これは火を燃やして魚を呼び寄せる。
魚を集める明かりとして浜辺に篝火を焚く。
もう一つ特徴なのは、なかにし礼氏が体験なさっている言葉だから重みがあるが、浜辺に篝火を焚きながら浜には物音ひとつしない。
物音ひとつ立ててはいけない。
音を聞くと魚が逃げる。
目に浮かぶ。
真っ暗い海の浜辺に煌々と篝火。
物音ひとつしない朝里の浜。
そしてやがて朝が来たのだろう。
ソーラン節に頬染めながら わたしゃ大漁の網を曳く
「労働のその弾む息から娘は頬を染めている」と、そう読み解ける。
礼氏曰く、これは違う。
これはなかにし礼氏から聞いたら『ソーラン節』はヤン衆が歌うと「猥歌」。
エッチソング。
もちろん正調は「ニシン来たかとカモメに問えばわたしゃ立つ鳥…」なのだが、あれは浜で曳いてヤン衆たちが歌う時は猥歌になっていて「カーチャンの上に乗っかってヤレンソーランソーラン…」というようなエロ猥歌。
それを延々と続ける。
その歌に娘は頬を赤く染めている。
その猥歌故に頬を染め、大漁の高揚もあるかも知れないが。
氏曰く、もちろん民謡の『ソーラン節』だが、ヤン衆が歌う『ソーラン節』というのは「中高校生が文化祭で運動会で踊る時に流れる、あんな歌詞じゃないんだ」という。
浜辺で唄われているのは「猥歌」なのだ。
「昨日カーチャンと寝床で船漕いだ」というような、そういう歌なんだ。
その猥歌に娘は頬を真っ赤に染めているという、そういう魚の生臭さと男女の性の生臭さが浜いっぱいに広がっているという。
活況と高揚、それが浜いっぱいにあの頃は広がっていたという。
そして、それらのすべての情景を飲んで時は流れ、今は「オタモイ岬のニシン御殿もいまじゃさびれてボロボロの幽霊屋敷のようだ」という。
(番組中「オモタイ」と言ったが、もちろん「オタモイ」)
そして時世が変わる。
時間が変わって「あれからニシンはどこへいったやら」。
いきなり時間が飛ぶ。
だから武田先生が言う「能狂言」というのがわかる。
一瞬のうちに時が掻き消えて、別の時間になってしまうという。
とても大きなお城が一瞬のうちに荒城のお城に一変するというような、そういう歌の深さを持っている。

最後の行に出てくる不思議な一行
かわらぬものは古代文字
これはここに行かないとわからない。
ここの浜辺に行かないと、この一行の謎は解けない。
よくこんな歌詞を入れたものだ。
小樽のこの浜辺の洞窟の中に、解読不可能な古代文字が刻んである。
「それをメソポタミア人が書いたんじゃないか」と言われるような楔形文字。
どこか、いつかの時代、誰かが書いたらしいのだが、これは今、洞窟遺跡として小樽の郊外の浜辺に残っている。
小樽市 :小樽市手宮洞窟保存館
縄文の文字なのかメソポタミア文字なのか判読不可能で謎はそのまま、今日も謎のままそこに置かれている。
そのことを詩人なかにし礼は
かわらぬものは古代文字
と締めくくって
(番組中「わからぬ」と言っているが「かわらぬ」)
わたしゃ涙で 娘ざかりの夢を見る
という。
老婆が賑わいの消えた荒れた砂浜に膝を抱えて座り込んでいるという情景で終わる。
ここまで説明しないとこの歌は聞けない。

武田先生のノートから。
なかにし礼氏は自信の「ルサンチマン」憎悪みたいなものを一曲に仕立て上げる、そんな人じゃない。
そういう恨みごとを綴るような、そんな詩ではないと。
この人は憎しみもするけれども、その憎しみをもっとも美しい言葉で語ることのできる詩人だと。
普通、憎しみというのは同じことを繰り返す、ただのグチになってしまいがちがだが、なかにし礼という詩人は自分の憎しみをもっとも美しい言葉で表現できた。
『石狩挽歌』は借金を背負わせて逃げ回り、やっかいをかけた兄への恨みの歌なのだが、その恨みの歌と恨みの情景をこれほど深い詩の次元まで…。



この一曲を踏まえてだが『夜の歌』という彼の自伝的小説の中には、このお兄さんの最期も書かれている。
これがまたびっくりするような。
このお兄さん「特攻隊帰り」と言ったが、なかにし礼さんはその後、お兄さんが亡くなられた後、同期でその特攻隊の部隊にいた戦友の方とお会いになっている。
お兄さんは特攻隊は特攻隊でも、飛行機がなかった。
もう戦況がボロボロで、特攻隊と言っているが飛ぶ飛行機がなかったそうで。
お兄さんのことを詳しく聞くと飛行機に乗ったことがなかったそうだ。
実際の訓練はまったく受けていないそうで。
配属された部隊はそうだったかも知れないが、実際としては飛行機にはまったく乗ったことがない方で。

兄は国旗に抱かれて焼かれたいと申しました。その願いをかなえてやりました。(『兄弟』322頁)

全部が終わった後、なかにしさんはちょっと苦しげに「あれも全部ウソか?」とおっしゃったのだが、まあ、お兄さんは別の意味での歌を書いてらしたのだろう。
実際は飛行機に乗ったことがない特攻隊兵士であったというようなオチになってしまうが。
ある意味で、ちょっと胸が痛くなるような人生。
なかにしさんの話はこれでは終わらない。
兄を見送ってから、もう一人の兄の物語が続く。

なかにし礼さんが慕ったもう一人の兄。
それは石原裕次郎。
昭和を代表する大スター。
偶然に出会っただけの銀幕のスター。
その銀幕のスターは市井の青年でしかなかった、なかにし礼さんに「歌謡曲の詩を書けよ」と勧め「できたら俺んとこ持ってこいよ」と気まぐれな一言を残し去っていき、残された青年はそこから作詩家の道を歩みだしたという。
まさに彼の人生の舵を海の方へ切ったのは石原裕次郎というスターだった。
裕次郎は様々なチャンスや逸材を与えて彼を「なかにし礼に育て上げた」という、立派なお兄さん。
そして、ここからがまた不思議。
ある日のこと。
その裕次郎氏からお呼び出しがかかったという。
それは出会いの1963年から23年後のことであった。
裕次郎氏から呼び出されて。
一回入院なさって、お元気に退院なさったんで、この後は元気にまた活躍してくれると信じて彼は会いに行く。
裕次郎さんの依頼はもちろんのこと、作詩。
裕次郎さんは「このへんで俺に一曲、またいいの書いてくれよ」。
何曲も書いてらっしゃるのだが「このへんで一曲頼むよ」。
「あ、じゃ、こんなのは」と言うと「いやいや、ちょっとこっからは俺が先に注文出していいか?何かさ、人生を歌うような歌がいいな」「え?人生を?恋の歌じゃないんですか?」「う、うん。人生を歌う歌がいいなぁ。例えばシナトラの『マイ・ウェイ』のような」。

マイ・ウェイ/夜のストレンジャー フランク・シナトラ・ベスト



その時、裕次郎さんは51歳。
4〜5歳年下のなかにし礼さんは「51歳で『マイ・ウェイ』は早い」と。
「どうかなぁ」と乗らない顔だったらしい。
気乗りしない表情を浮かべた礼さんに向かって裕次郎さんは珍しく注文を繰り返した。
どんな注文かというと「いや、何気ない情景の歌でいいんだよ。俺はさ、礼。毎晩自宅で酒を呑む。女房が満たしてくれたブランデーグラスを飲み干す。そういう習慣を持ってるんだけど、そん時さ、ちょっとしたクセがあって、女房がブランデーグラスに注いでくれたら、俺のちょうど正面にサイドボードがある。そのサイドボードのガラス板に自分の顔が映りこむんだ。その自分の顔に向かってグラスを上げて乾杯するんだ。そして妻とか俺を慕ってくれる後輩たちに対して、自分の運命に対して『ありがとう。乾杯』って言いながら礼を言うんだ」という。
「そんな歌。そういうサイドボードに映る自分の顔にグラスを上げて乾杯してる時にフッと歌いたくなるような歌を、オマエ、作ってくんないかな」という。
それを聞くともう、このなかにし礼という作詩家にはフワーッと歌がよぎる。
その時に、礼氏はそういう直感の持ち主なのだろう。
「この人、もしかすると死が近いのではないか?」と直感なさったという。
大きな病気から不死鳥のごとくよみがえった太陽の男ではあるが、しかし彼の好みの歌を聞いていると、どうもその歌の中に自分を「遺影」のように「写真」のように写し込みたいという。
この歌を聞く時に裕次郎を思い出すという、そういう「遺影」。
「写真のような一曲が欲しいのではないだろうか?」という、そういう直感がした。
その詩はこの出だしで始まる。
これは裕次郎さんが語った通りの一行から始めている。
鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
裕次郎さんの日常の酒癖が実に平凡に静かに始まる。
そして三行目からが素敵。
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
誰かの歌に似ている。
(海援隊の『思えば遠くへ来たもんだ』のことか)
美しいフレーズ。
2コーラス目、3コーラス目も同じ個所。
純で行こうぜ愛で行こうぜ 生きてるかぎりは青春だ(3番)
親にもらった体一つで 戦い続けた気持ちよさ(2番)
絢爛たる詩を並べているが、しかし『石狩挽歌』などに比べるとちょっと冷たい言い方をするが、詩に動きが少ない。
静止している。
詩がフレーズで止まっている。
でもこれはやっぱり詩人なかにし礼。
ブロマイドのような歌を作りたかった。
妙に揺らしたくなかった。
出来上がった歌がこの歌。



石原裕次郎に捧げた歌。
作曲は加藤登紀子さん。
これも「同じ大陸からの引き揚げ者だ」ということで加藤さんをご指名なさったようだ。

北の旅人/わが人生に悔いなし



鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
長かろうと短かろうと わが人生に悔いはない


この歌の完成から五か月後、シングル発売から三か月後、裕次郎さんは亡くなられる。
まさしく「運命」。
何と52歳の若さで、このシングルを発売して、この世を去られている。
彼は昭和のスターを演じきった。
しかもなかにし礼氏は裕次郎さんの死を演出した。
見事な演出。
この世を数か月後に去る人がサビでつぶやいた言葉「長かろうと短かろうとわが人生に悔いはなし」。
まさしく裕次郎さんしか言えない一行。
なかにし礼という人は弟として「幻の兄」裕次郎の遺影に花の如き挽歌を贈って飾った。
しかしその裕次郎にも実の兄(石原慎太郎)がいる。
長生きな方。
フッと思ったのは、この歌をお兄さんはどんな思いで聞かれるのかなぁと。
小池(百合子)さんにさんざん突っつかれ。
公聴会か何かに呼び出された時にお気の毒だった。
年齢。
あんなことをお命じになる方は情けがない。
だけど、もし慎太郎さんがこの歌を聞かれるとすると、この一行はまさしく裕次郎が兄を叱る声に聞こえたのではないか?と思う。
「兄貴、長かろうと短かろうと『わが人生に悔いはなし』だぜ?」という。
そう思うと歌は凄い。
やっぱり「歌」というのは死者の声を留める。
その意味でまさしく、なかにし礼、昭和の大作詩家。
この人の華やかな歌謡曲の裏地は「死」。
それが我々を圧倒する。

この歌は軍歌。
戦地で戦うご亭主のことを思ってしみじみ奥さんが歌っている歌。
なかにし礼さんはそれを詩を替えてコミックソングにしている。
元歌はコレ。
『ほんとにほんとに御苦労ね』



それをコミックソングで詩を替えて歌わせているのが、なかにし礼。
『ドリフのほんとにほんとにご苦労さん』



この歌は軍歌。
それをなかにし礼さんがドリフに歌わせる時にコミックソングにしている。
これはご本人に聞いていないので、理由はよくわからない。
ただ、この中に礼さんの「軍歌として不幸に生まれてきたが、俺はコミックソングに仕立て直して歌い継がせていこう」というような「過ぎた戦前を忘れさせてたまるか」というような意地を感じる。

遠い昔、こんな話を聞いたことがある武田先生。
この方も満州から引き揚げてきた方なのだが、その方のお父さんは満州鉄道の官僚だったそうだ。
彼は満州にいた頃はベッドで寝起きし、料理人は中国人、家庭教師はフランス人、父母は土曜日は舞踏会に出かけて行って、舞踏会に行く馬車の馬丁はロシア人だった。
そういう満州国ハルピンかその辺での生活をなさっていた。
ところが戦争に敗れて全部なくす。
この方は武田先生の恩人だが、日本に引き揚げてきて、もの凄い苦労をなさる。
その苦労話をお話しなさったのだが、お父さんと二人で生きるためにヤミ米を買って、昔、そんなふうにしないと喰い物がなかった。
米を背負って運んでいる時に、おまわりさんが接収にやってくる。
ヤミ米で「不当だ」というので取り上げられてしまう。
おまわりさんが来て「もう米なんてどうでもいいや」と思って動けず、へたり込んでいる時に「貴様!何をやっとるか!」とおまわりさんが少年の首に手をかけた時にボカーンと殴った人影がいた。訛りから在日韓国の人だったらしいのだが、その在日韓国人がその少年を救ってくれた。
おまわりさんを殴り倒してにっこり笑って「ショウネン、逃ゲナ」と言った。
訛りで朝鮮系の人だというのがわかって、もうそういう方が戦後、闇市にいっぱいいた。
その人はその少年を助けてくれた。
その少年は後に映画監督になる。
バァン!と横から殴ってくれたその人の残像をモデルにして「喜劇シリーズ」を作る。
それが『男はつらいよ』。

「男はつらいよ HDリマスター版」プレミアム全巻ボックス コンパクト仕様<全53枚組> [DVD]



何かその「永遠のヒーロー」を山田(洋次)さんは、その在日の朝鮮人の人の面影と重ねてらっしゃる。
表現することの引き金に、あの満州から引き揚げてきた人たちの「無念」とか「悔しさ」とか「切なさ」とか「暗い思い出」が、戦後日本のエンターテイメントの中にドッと流れこんだと思うと、なかにし礼という人の作品の数々というのは、そこも「込み」でかみしめ直す時に、二倍も三倍も味が深くなるのかなぁという。


posted by ひと at 15:18| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: