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2019年01月14日

2018年9月24日〜10月5日◆感情的になるなよ(前編)

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味



 本書では基本的に「感情」という言葉ではなく、「情動」という言葉を用いる。−中略−あえて「情動」という言葉を選んだのは、無数の名もなき情動たちをそこに含めたかったからである。(はじめに)

今の世の中、「感情」はあまり値段が高くない。
感情的になってしまって損をこいている。
けつまづく人が何人もいる。
「オレが金メダル獲らせたんやー!」から始まって
ボクシング:山根会長 村田に「生意気だよ!1人でメダルを獲る力ない」TV発言(スポニチ) - 毎日新聞
「彼女、全部嘘言ってるなー」
塚原副会長、宮川の告発を全否定「なぜあんな嘘を言うのか」/体操 - スポーツ - SANSPO.COM(サンスポ)
あとで前言を訂正なさるが。
その感情的な一言をマスメディアがあげつらって、その人を突き落す、という。
これはもう今、メディアはこのやり方を必ずする。
大勢でバーッと囲まれてウワーッと言われたら「全部嘘ですよー!」や「オレが獲らせたんやー!」というのも言ってしまうかもしれない。
「感情」あるいは「感情的」とは、人を過ちに招きよせる誘導灯のような、そういう語られ方。
理性の反対語に情動、感情という言葉があるように思ってください。

人に暴力を振るった。
犯罪に手を染める。
あるいは恋に落ちること。
しばしばそういうことを私たちは「一時の感情に押し流されて」とか「ついカッとなって」などと表現し、ネットの炎上などに見られる集団的熱狂、集団的憎悪など、そういうものに火をつける火力は人間の持つ「感情」である、と。
だから人は感情ではなく理性でふるまわなければ危うい、と。
これが普通の考え方。

 一見、情動を排して、純粋に理性のみに基づいて生きていけば、私たちは過ちのない幸福な人生を送ることができるようにみえる。−中略−しかしじっさいにはそうではないのである。情動がなければ、たとえ理性が健常でもまっとうな人生を送ることはできない。(はじめに)

私たちの理性は情動のお膳立てを必要とし、単独ではほとんど何もできないのである。(はじめに)

実は理性は感情(情動)の補佐役に過ぎない。
こういう哲学。

 VM患者は脳の前頭前野の腹内側部に損傷を負った患者である。彼らは知的な能力には問題がないが、情動が鈍化しており、何事につけてもほとんど情動を抱くことがない。それゆえ、彼らはまさに情動ぬきに理性のみで生きる人と言ってよさそうである。しかし、彼らの人生は悲惨である。彼らは意思決定に大きな問題を抱えており、ごく簡単なことでさえ、あれこれ些末なことを延々と考えるばかりで、なかなか決断できない。(はじめに)

 理性は情動能力を鍛えて、そもそも誤った情動ができるだけ生み出されないようにすることができる。(はじめに)

しかし、私たちを突き動かしているのは「感情」。
感情がまずある。
その感情を頭に一回送って「こうしよう」と決定する。
その最初の感情に自分で気づかない。
ただ、頭の中に「イヤぁ〜」みたいな呻き声みたいなのが「うわーん」と響く。
「人はまず情動」「感情から動く」という。
これはちょっと面白い。

何でこの本に惹かれたのかがわからないが、この手の言葉を捕まえておくと芋づるみたいに「ネタが根で結ばれている」という直感がある武田先生。
このまとめのノートの最初の方に書いている。
「この一冊はあるいは私が知りたいと思っていることと違うかも知れない。しかしとにかく、丁寧に読んで情動を探ろうと思う」

 魅惑感や渇望感などを情動に含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。−中略−ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」とよぶことにしたい。(6頁)

「感情」がある。
その「感情」が価値を呼ぶ。
どういうことかと言うと、楽しければ「もっと楽しみたい」と思う。
「美しい」と自分が感じたならば、その美しさを「なんとか自分の手に」とか。
嫌悪だったら「顔も見たかねぇや!」というような価値的性質を感情は帯びる、と。
これは不思議な物の言い方。
哲学者の人はこういう言い方をする。
「見る」「聞く」「触れる」は感覚器によるが、心で感じて心にたち現れる価値的性質が情動なのである。
見るとか聞くとか触るとかというのは感覚がある。
でも心で感じていることは頭の中に湧くが感覚器はない。
「何か今日、つらいなー」とか「何か今日、うっとうしいなー」とか。
いくら考えても答えが出てこない。
原因、理由はわからない。
カーッとなって怒った時も「何でいつもよりこんなに腹が立つんだろう」という。
「腹の虫が治まらない」ということがある。
自分の内側に他の者がいて、ソイツと自分のコミュニケーションが取れていなくて気分だけが残っている、とか。
女の子が二人歩いている。
「右の子、好みだなー」と思ったとする。
左の子と比べて「何が好みか」は言えない。
「好み」は「好み」だから言えない。
「見る」「聞く」「触れる」に関しては比べられるが「感じること」に関しては感じてしまったまんまで、さっきの「ぼんやりうっとうしい」と同じように、何で好みかもうまく言えない。
そういう広い感情の動きを「情動」と呼ぼう、と言っている。
「情けが動く」と。

 情動には特有の感覚器官がない。(7頁)

しかも喜怒哀楽ばかりではない。
魅惑や渇望という情動も心理に出現させる。
さっき言ったように「好みのタイプ!」という心のざわめきみたいなヤツは心理に現れて自分を突き動かすのだが、それがどこからやってきたのかうまく説明できない、という。

有名な情動のジェームズ=ランゲ説によれば、私たちは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである(9頁)

これは不思議。
つまり理性で捉えて「悲しい」と感じたから泣くのではない。
ハッと気がつくと泣いている。
それでその情動に対して理性が「あれ?オレ悲しいんだ」と。
こういうことは人間にある。
「情動を注意深く見よう」と。

情動に身体的反応の感受が含まれるとしても、それはあくまでも身体的反応の感受であって、事物の価値的性質の感受ではない。(10頁)

若い女の人が泣いている。
「あ、この人は悲しいから泣いてるんだ」と思うと「君は甘いよ」と。
女は悲しくなくても涙を流すことがある。
つまり、泣いてその姿を人に見せるという行動に打って出る時がある。
「アタシ傷ついたの・・・」なんて何回も言われた武田先生。

私たちが目覚めている間中、ずっと情動は生じている。(はじめに)

考えると不思議。
若い女性が頬に涙を流している。
「あ、この人は悲しんでいるんだ」と思いつつも、その涙というのは悲しく見せるための演技ではないかと疑う。
この「疑う」こともまた「情動」「感情」。
結局その涙が「価値的性質」、何のために流され、どんな価値が値打ちがあるのかということを分かった時、涙のみを「悲しい」とイコールで結べない、という。
「泣いたら勝てるかな?」みたいなことはあるんじゃないかと思う水谷譲。
昔、とある女性に教えてもらったことがある武田先生。
女の人は被害者に回り込む。
やっぱり被害者の方が得。

女性という生き物はよく見ていると本当に不思議。
武田先生の恋愛時代の体験。
綺麗な女の人がいる。
仲良くなる。
必ずすっぴんで来る。
化粧をしたその人の顔が好きなのだが。
若い時には「好きだ」というのは目が「闇夜のタヌキ」みたいに光るタイプなので、女の人から読みやすいのだろう。
ちょっと武田先生に興味のある女の人は必ずすっぴんで来る。
それがずっと謎だった。
武田先生の偉い所は若いとき持った疑問をずっと持ち続けているというところ。
女の人は化けるためにメイクをする。
メイクは美しく見せるためではない。
自分を隠すため。
男というのは隠そうとしているものを見たがる。
「絶対に開けないでください」といったら絶対に開ける。
「絶対に見ないでください」といったら絶対に見にいく。
「絶対に触らないでください」といったら触りにいく。
男はそういうもの。
女の人というのは隠すことが本質。
バーッと男が入ってきて「イヤ!」とか言いながら股間と胸に手を当てるから男は「フフフ・・・お嬢さん」とか言う。
でもあれはバッ!と両手を広げてみる。
バァン!と広げる鳥がいる。
あれをやったら男が怯えてバァン!と扉を閉める。
男は隠されているものに関して興味がある。
スカートを「よくあんなもん履きながら風の中、歩けるね?」といつも思う武田先生。
スカートは何に似ているかというと「マジックショーのカーテン」。
手品師が箱に布きれをかぶせる。
「1、2、3」とかと言いながら。
スカートというのはマジックにかぶせた布きれ。
スカートの中はマジック。
男は見たがる。
でもネタは絶対にバラしちゃいけない。
しっかり閉じていないと。
男の情動というのは隠されたものに対して動く。
(著者の)信原さんがしきりにおっしゃっているのは「情動は価値に対して動く」と。
「価値」というのは「この人は好きなタイプだなぁ」とか「この人は嫌いなタイプだなぁ」とか。
情動はそっち。
「その価値に向かって動く」ということ。

人間の感情。
その感情の不思議さみたいなものを。
昨今、感情というのがいろんなところで混乱している。
人間の感情。
情動の混乱。
例えば殺人事件から動機が消えたり、思わず目をそむけたくなるが若いお母さんがわが子を、とか。
老夫婦が殺し合う、とかという。
件数としては日本はすごく平和の方に流れているが「情動」「感情」の掴めない人たちがけっこういる。
そういう人たちに対して、その人が表現できない感情とは、情動とは一体何か?
深く考えないとダメ。
トップニュースの文字だけで世界は割り切れるものではないと近頃思うようになった。

いろんな人がニュース解説をやったり世界のことを説明してくれる。
そんな情報はスマートフォンも含めて、山ほど世の中にあふれている。
でもよく見つめると全然わからない。

「北斎が印象派に与えた影響」という、その手の本も読んでいる武田先生。
例えば葛飾北斎が描いたお相撲さんの一筆書き(「一筆書きというのが何を指しているのかは不明だが『北斎漫画』十一編を指していると思われる)で「お相撲さんが腰に手を当てて休んでいる」とかを印象派の人たちの絵の中に探すとドガのバレー(エドガー・ドガ『踊り子たち、ピンクと緑』)。
あれは腰の角度から全く同じ。
それからお相撲さんがタライのお風呂か何かで体を洗っている。
それが印象派の『たらいで背を洗う女』という。
構図が全く一緒。
それからモネの『ポプラ並木』(クロード・モネ『陽を浴びるポプラ並木』)。
ポプラ並木が並んでいて藁の小積みというかあれが畑の中にたっている。
あれが北斎の農村風景(葛飾北斎『冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷』)と全く同じ。
木が何本も立っていて、という。
それを上野の美術館でやったから見に行った。
(国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」かと思われる)
葛飾北斎とそれから浮世絵。
「ジャポニズム」と言って浮世絵がゴッホなんかにも巨大な影響を与えた。
『ひまわり』とか『アヤメ』とかがある。
それから『タンギー爺さん』は後ろ側にゴッホが浮世絵を描いてる。
すごい影響。
モネもアレだしドガも。
みんな。
何でマネしたのか?
いわゆる彼らの「情動」が「感情」が動いた。
でも何で?
その「価値的意味」。
彼らは何の価値を見出したのか?
考えてみたら本当に不思議。
マネをするというのは、よほど強い感情。
そこから印象派が生まれてきて、あれだけの美術史の大革命になった。
「これ何でだ?」というのが不思議で仕方がない。
北斎の何に惹かれたのか?
セザンヌなんかも白状しないが、そうらしい。
ボォン!と故郷の山を描いたのは北斎の『赤富士』(葛飾北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』)をマネした。
赤富士を見てセザンヌが「スッゲェ!」と思う。
かんざしをいっぱい差した芸者さんの浮世絵を見てゴッホが「スッゲェ!」と思う。
北斎が描いた花の絵を見てゴッホが「オレも花、描こう!」と思う。
何でそう思うのか?
(おそらく「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」へ)奥様とお嬢さんと三人で行った武田先生。
「(印象派の画家たちが)北斎のどこに惹かれたんだ?」と。
富士山が奥側に見えて、波がこうバアッと渦巻いているヤツがある。
あんな波が来たら死んじゃう。
あれはオーバーに描いている。
「あれでひっくり返った」という。
美術の本にも理由は書いていない。
今、『たゆとうけど沈まず』という日本の版画の売買をやった人とゴッホの物語を読んでいるが、それにも出てこない。

たゆたえども沈まず



やたら「ゴッホは浮世絵に惹かれた」ばかりしか書いていない。
「何で惹かれたんだ?」というのが不思議。
びっくりすることを言った武田先生のお譲さん。
「何で北斎のマネしたんだ?」と言ったら(大学で美術を勉強している)お嬢さんが「北斎の絵には意味がないからよ」。
「なるほど」と思った。
「西洋の絵」というのは意味がないとダメ。
例えば女の子を描いて、その女の人が百合の花を持てばマリアになる。
マリアがあって、足元でヘビを踏んでいないといけない、とか。
聖書の意味とかギリシャ神話の意味とかが一枚の絵の中にあるのが「西洋美術」。
だから印象派が描いて大パニックになったのは『草上の昼食』(エドゥアール・マネ)。
公園の片隅でサラリーマンみたいな人と奥さんか恋人か、それが素っ裸で飯を喰っている。
それを見た時にものすごく印象派はいじめられる。
女の人の裸はギリシャ神話の女神を描かなければならない。
それが普通の女の人が裸になっているから。
「印象派!」という悪口。
『印象・日の出』をモネが描く。
あれを罵った批評の言葉が「な〜んだ、印象描いてるだけじゃ〜ん!」。
「意味のない絵を描く人たち」という意味で「印象派」という。
彼らは北斎を見て何が驚いたかといったら「意味がない」。
『赤富士』は山が描いてあるだけ。
それを見てびっくりした。
「何だ。北斎がやってるんだったらオレも故郷の山、描いていいんだ」ということになる。
「ただの風景を描けばいいんだ」「それが絵でいいじゃねぇか」ということ。
ゴッホに至っては北斎が描いた菊の絵を見て「何?花描いていいの?」「ひまわり描こうぜ!」。
「絵に意味はいらないんだ」という。
意味がないということが「情動」「感情を動かすんだ!」という。
だから「麦畑のカラス」というゴッホの絵がある。
真っ黄色の麦畑の中にカラスがバーッ!と。
何の意味も感じない。
でも動く感情だけはどうしようもない。
モネの『睡蓮』。
東洋の花がいっぱい咲いているだけ。
あれはキリスト教で出てくる花ではない。
だが、モネはそれを描いた。
もっとモネのすごいのは「家族」を描いた。
意味はない。
キリスト教的意味合い、ギリシャ神話的意味合いはないが「へぇ、奥さん幸せそうだな」という「情動」が動いた、という。
それが「印象派」という流れを作っていった。
そこから美術が第二のルネサンスで「神を離れて人間の元にやってきた」という。
北斎が与えた影響はデカくて『考える人』の(オーギュスト)ロダン。
ロダンたちもマネをしている。
「ジャポニズム」というのはもの凄いショックだったらしい。
ロートレックも浮世絵の役者絵を見て同じことをやる。
つまり「頭ではないんだ」「感情が動くということが大事なんだ」という。
その「情動が動く」という興奮。
それが印象派から、やがては近代絵画へ流れていくという。
情動が動けばそれは美なんだ、アートなんだ。

価値判断には情動が不可欠である。情動がなければ、世界の価値的なあり方を知ることはできない。(50頁)

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posted by ひと at 10:27| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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