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2019年12月30日

2019年4月15〜26日◆諏訪大社(前編)

(諏訪大社側の見解と、今回取り上げる本の著者の見解とが喰い違っているので、番組中にそれに対する「お断り」みたいなのが何度も入るが、極力割愛していこうと思う)

まな板の上に「諏訪大社」。
なぜこれが「まな板」の上に座ったかというと、ずっと(武田先生の)頭の中にある「ナウマン君」から。
このあたりに登場する)
例のフォッサマグナの発見者というか(フォッサマグナに)気づいたナウマン君。
あの方とそれから、飛騨の奥の方に入ったいい温泉宿がある。
そこの風景がぐるぐる頭の中に回り始めて。
何度か行ったこともあるし、お祭りに参加した人からも話を聞いたことがあるが、諏訪大社は変。

十年以上も前に熊本を旅していた時の話。
かなりの山奥。
その熊本のその街に行くのには、熊本の空港ではなくて鹿児島空港から車で行った方が近いという肥後と薩摩の県境。
もちろん熊本県なのだが、その小さな村へ行った。
たしか人吉という山の真ん中にある街に近い町での歌うたいだったと思う。
そこで歌を歌って、最後に土地の人から焼酎の差し入れが客席からあった。
その焼酎の中はスズメバチがぎっしりだった。
スズメバチの醤油漬け。
さすがに土地の人には申し訳ない。
あえて名前は言わない。
その方には失礼なのだが、さすがにスズメバチを浮かべて焼酎を呑む気にならない。
それでコンサートが終わって夕食会になった。
そうしたら前菜の、いわゆるおつまみで出たのが「バッタの佃煮」「ハチの子」。
それでその次に馬刺しが来た。
なんとなくみんな「ここ、ちょっと変わってない?」という話を。
つまり虫を喰う、馬を喰う。
熊本だから馬刺しは・・・
「こんなとこないよね」という話をしていた。
そうしたら「ハチ喰う、虫喰う、バッタ喰う、馬喰うというところが日本中でもう一か所ありませんか?」というのをスタッフが言い始めた。
「え〜?そんなとこあったっけ?」と言ったらそのスタッフが「信州ですよ」。
信州は馬を喰う。
ハチの子のイメージはあるが、あそこは虫も喰う。
バッタも食べる。
「へぇ〜。食べ物、一緒だなぁ」と。
「馬喰う文化」というのは点々とあるが、日本の食文化の中ではちょっと郷土色の強い食べ物で。
馬を喰うということに関して泣き出す外国人もいるぐらいなもので。
「馬はフレンドリーなのに!」とかと言って怒る人もいるのだが。
鯨を喰うのと同じように国際的な非難にされそうなのだが。
食文化というのはなかなか頑固で。
誰かが「長野でも馬喰う、虫喰う、ハチ喰う」という話をしていた。
と、もう一個また話が繋がる。

一晩寝て次の朝、カメラ好きのスタッフがいて、そいつとそこらあたりの風景がいいので写真を撮りに行った。
そうしたら九州山脈のど真ん中。
ちっちゃな神社があった。
社務所とか一切持っていない社(やしろ)だけの。
そこの看板を見たら、その神社の名前が「諏訪神社」だった。
「諏訪」と言えば「長野」。
何で熊本の山奥に諏訪神社があるのか?
「不思議だなぁ」と思っていた。
諏訪大社。
歴史を調べるとこの諏訪大社というのは古事記の中にたった一回しか出てこない。
「この諏訪神社はどうやってここまで来たのだろう」というのが気になっていた。
そこに手に入ったのが河出書房新社『諏訪の神』。

諏訪の神: 封印された縄文の血祭り



「諏訪大社」と言えば御柱。
木に乗ってわーっと滑ってくるという、けが人の多いお祭り。
死者が出るほどの激しい祭り。
「七年に一度」と言うが、寅と申の年ごとに巨大な樅(もみ)の木を伐り出して山から出す。
(『諏訪大社復興記』に「七年目」と書かれているのだが「六年毎」という意味で、実際に開催されるのは「六年に一度」)
木落とし。
あの丸太が人間に曳かれて川を越える。
その上に「里曳き」と称して、あの大木を諏訪大社まで運ばれて4本建てるという。

 おんばしらの用材は樅の木が使われ
上社関係は約25キロ隔たる八ヶ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの里程を曳き出します。
(62頁)

上社、下社の四つの宮の四隅に16本の巨木を建てるという。

 この御柱年≠ノは、諏訪地方では、ほぼすべての神社で御柱の建て替えがおこなわれる。街角の小祠から境内社の一つ一つに至るまで、その数は膨大であるが、大小にかかわらず、特別の例外を除いてすべて建て替えられる(一説に三千本ともいわれる)。(64頁)

「山出し」から柱を建てる。
これは四隅に建てるまで丸一年かかるという大行事。
しかもこの御柱はトーテム。
あるいは神梯(しんてい)。
「神様が降りてくるハシゴ」と言うのだが、そこのてっぺんに降りて、すーっと降りてくる。
だからそうとう古い時代から神は階段状にストンストンと降りてくるという神話がある。
だから御柱もそれであろうと。
でも、この諏訪の柱はやっぱりおかしい。

 伊勢の神宮には謎が多いが、最も重大な謎はこの「心御柱」である。−中略−
 長さ五尺三寸〜五寸(天皇の身長という説あり)ほどのもので、『御鎮座本記』などによると、それに五色の布を巻き付け、さらに八葉榊で飾り立てて、その周りを天平瓮という土器を八百枚積み重ねて被っているという。
(76頁)

これが「心御柱(しんのみはしら)」と言って真ん中の証。
これを本殿のど真ん中に埋める。
心御柱。
それは「神様が宿る」という。
地下からも神様がやって来て「神様の宿る木」という意味で心御柱というのを置く。
ところが「御柱」の柱も「心御柱」だろうと思うと扱いが乱暴。
泥だらけになって滑らせて、その上に人が乗っているワケだから。
あの伊勢神宮の心御柱を人間がまたがるとか泥で汚すとか引きずるとかというのはない。

御柱の柱は一種「生贄」っぽい。

引きずり回して傷だらけにするという行為は「みせしめ」以外の何ものでもないだろう。(79頁)

そのあたりが諏訪他社の御柱の不思議がある。

四隅に建てるというのは神道でおなじみ。
神道ではイミダケ(忌竹・斎竹)と言って土地に建物を建てる時に神主さんが四隅に竹を立てて。
あれは結界。
注連縄と雷を。
真ん中に神様が宿るようにお米とか果物を置いて。
「高天原に〜」という祝詞を上げる。
そのイミダケ。
悪い怨霊がやってくるのを「こっから先、入っちゃいけない」ということのイミダケという宗教的な形があるのだが、どうもそれとも違う。
イミダケじゃないような気もする。
だがどちらも「四本」建てる。
だから諏訪大社の御柱の四本建てと地鎮祭でやるイミダケの四本は意味が違うのではないか、と。

もう一つ、こんなことをやっているのを知らなかった。
この諏訪大社のお祭りで「御頭祭(おんとうさい)」というのがあるそうだ。

 御頭祭とは、上社第一の祭儀で、「本宮での例大祭の後、(略)行列を整えて神輿を神宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特殊な神饌をお供えして大祭が行われる。」(84頁)

鹿の首、ウサギ、カエルの串刺し。
これを神様に捧げる。
ちょっと血まみれ。
今は飾りだけらしいが、昔は現実に。
それも数十頭、その首をずらーっと並べたという。
鹿を殺す、ウサギを殺す、カエルを殺す。
それを生贄として諏訪の神に捧げる。

この手の動物が出てくる神話があった。
因幡の白兎。
その系譜の流れの神話を諏訪大社は持っているのではないか。
そう考えてみると鹿、ウサギ、カエル。
「もしかするとこれは別の意味があって」という説。
「出雲風土記」「古事記」にも登場するが、大国主命(オオクニヌシノミコト)という人が、兄弟の中で軽んじられる弟分だったが、とても話をするのが、座をつくるのがうまかったのだろう。
ワニ(サメ)とウサギがケンカをする。
それでウサギが毛をむしられてコテンパンのところを助けてやった、という。
他にも大国主命の物語にはたくさの動物が出てくる。
少彦名命(スクナヒコノミコト)。
小さな小人の妖精が出て来たり(少彦名命は妖精ではなくて「神」のようだが)非常にファンタジーに富んでいるのだが。
この大国主命がウサギを助けてあげた。
これは何を意味しているか?
別の解釈がある。
これは陸上にウサギをトーテムとする部族がいたんだろう。
それで海人族の海で生きるサメをトーテムとする一族がいたんだろう。
これがケンカして、あんまりひどいので大国主命が仲裁に入ってまとめたんじゃないか、と。
つまり古代の種族というのは全部「トーテム」代表する動物を持っている、と。
ということは「鹿」。
蘇我入鹿(そがのいるか)。
それからウサギもさっき言ったように、陸上の部族の中でウサギをトーテムとする一族、カエルが出てくるということは、これは川辺あたりを生きる民がいて、そのトーテムがカエルだったのではないか、と。
その鹿とウサギとカエルに諏訪の神が裏切られたのか?という。
(本にはカエルもウサギも「人間集団」のことと書かれてるが、蘇我入鹿などは出てこない)
しかも奇怪なことに御柱。
柱を建てる。
工事がうまくいくように、昔はもう一つ柱を建てた。
そういう人のことを、そういう名前で呼んでいなかったか?
つまり橋を架けるという工事。
その橋の根本のところに「人柱」。
「御柱」というのはそういう意味で。

諏訪において、最も高貴な人間、すなわち、これは、「大祝(おおほうり)」の墓標である。−中略−
「ほうり」とは、ヤマト言葉では「屠り(ほふり)」の謂である。
「屠る」とは、言うまでもなく「殺害」のことだ。
(89〜90頁)

だから諏訪の神様というのがどうも「異種」別流の神様ではないか?と。

「諏訪」とは、古代支那の特別な階級でのみ用いられた宗教用語である。
 漢音で「シュ・ホウ」、呉音で「ス・ホウ」と読む。「神の意志・判断を問う、諮ること」である。
−中略−おそらくは千数百年より以前の信濃(科野)において用いられているということは、そういう人物がここに居て(来て)、地名として定着させるだけの立場になっていたことを意味することになる。すなわち、渡来人、それも道教の方士のような人物が考えられる。(50頁)

それではいよいよ本殿の中に入る。
諏訪大社の主祭神について戸矢さんの見解を聞いてみたいと思う。
ここには二柱の神がいらっしゃる。
神様を数える時には「一柱(ひとはしら)」「二柱(ふたはしら)」と言う。
諏訪大社の主祭神。
神様。
どんな方がいらっしゃるか。

【祭神】建御名方神(たけみなかたのかみ) 八坂刀賣神(やさかとめのかみ)(17頁)

この二神、二柱がいらっしゃって。
これが諏訪大社にお勤めの方から怒られちゃうかも知れないが「大社」と名前が付くような神様らしくない。

『日本書紀』にも『出雲国風土記』にも、建御名方神は登場しない。『古事記』にのみ詳細に記されているにもかかわらず、二書にはまったく影も形もないのだ。(37頁)

 ──その昔、天照大神は葦原の中つ国を譲り受けるために、交渉の使者として経津主(ふつぬし)神と建御雷(たけみかづち)神を、中つ国の王である大国主神のもとに派遣した。
 長男の事代主神(ことしろぬしのかみ)はすぐに同意するのだが、
「もう一人、息子がいる。建御名方神だ。これより他に子はいない」
 と大国主神は言う。
(40頁)

 建御雷神は手を取らせると、その手を氷柱に化し、さらに剣刃に変えた。(40頁)

両手を険にして「ツルギになった」という。
シュルシュルシュル〜と。
『寄生獣』。

寄生獣 完結編



 そのため建御名方神は、おそれおののいて退いた。
 今度は建御雷神が建御名方神の手を握り、あたかも葦のように軽々と投げ放ったので、建御名方神は逃げ去った。
 そこで建御雷神は追いかけて行き、科野国(しなののくに)の州羽海(すわのうみ)に追いつめて、殺そうとした時に、建御名方神は言ったた。
「参った。殺さないでくれ。この地より他へは行かず、父と兄の言葉に従い、この葦原の中つ国は、天照大神の御子の仰せの通り献上する」
(41頁)

「こっから一歩も出ませんから、野望はありませんので許してください」と言って出雲から逃げて来た建御名方さんがここに住むことになったという。
何かパッとしない。
神様としては情けない。

諏訪社は全国に五〇〇〇社以上もの多くが勧請されており−中略−建御名方神は軍神≠ニして多くの武人たちに崇敬されている。初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂を始め、源頼朝、武田信玄、徳川家康に至るまで、まるで彼らは『古事記』を知らず、別の伝承によって建御名方神の勇猛さを確信していたかのようではないか。
 別の伝承がどんな形であったかはともかくも、少なくとも『古事記』が流布されるより以前に、建御名方神への崇敬・信仰ができ上がっていたことは明らかであろう。
『古事記』が、にわかに注目されるようになったのは、実は江戸時代も後期である。
(43頁)

 右に挙げた武将たちは、全国各地に鎮座する諏訪神社のことは当然承知していたはずで、その信仰内容も承知していたことだろう。そしてそれは「軍神」に相応しい神話・伝承であったに違いない。(44頁)

出雲から逃げ込んだ神ではなくて「コシ(高志・越)の国」新潟のほうから長野一体にかけて君臨していた巨大な神。
それがこの建御名方ではないのか?という。

ここから話がものすごく異様なところに走る。
これが戸矢さんの説の面白さ。

 諏訪湖を中心とするこの一帯には、まぎれもなく大規模な縄文文化が存在した。おそらくは、東は八ヶ岳山麓から、西は木曾界隈まで、北は安曇野から南は飯田辺りまで。(5頁)

 縄文時代とは、約一万四千年前から紀元前六世紀頃までの時代である。(4頁)

これはご存じの方は多かろうと思うが、信州の地では、ここは非常に高度な縄文文化があった所で。

 諏訪大社との関係は不明だが、「縄文のビーナス」(国宝)と呼ばれる土偶が同県茅野市米沢の棚畑遺跡から発掘されて(5頁)

この「縄文の神」がいたという所が諏訪大社とドッキングしてるんじゃないか、という。
諏訪大社には面白いことに不思議な信仰があって、ここは巨石信仰がある。
この大きい石の名前のことを「ミシャグジ」。
石の神様のことを「シャグジ」と昔言っていた。
「石神井公園」というのがある。
つまりあれは「石の神様がいた場所」という縄文語の名残。
その縄文の神様を実は諏訪大社は記憶しているのではないか?と。
なぜこんなところにその縄文の神様が石となって諏訪にいるのか?
大きな石を見ると日本人はすぐに注連縄を巻いて。
日本の国歌。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで
─君が代、日本の国歌

ウィキペディア

「『君の代』がいつまでも続きますように」という祈りを、石をたとえにしてやっているワケで縄文系の歌。
これはまた、凄いことを言う人がいる。
これは小さな鍾乳石みたいな石がずっと積み重なって巨大な鍾乳洞の柱になるように、それに苔が生えるまで。
これは聞きようによっては「怨霊、出てくるな」という鎮魂の歌。

10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としているウィキペディア

それを「明治期にメロディ付けちゃった」という。
選者は紀貫之。
この和歌の、古今和歌集が出来た時点、成立したのが西暦905年で、二年前に西暦903年。
延喜3年に左遷されて無念を残し、死んだ人がいる。
菅原道真。
彼は「祟り神」になって京都の御所に鬼となって現れたりするものだから、あわてて藤原一族が「天神様」という名前で神様にしてしまう。
こうやって考えると、巨大な祟りがある。
その巨大な祟りというのがこの国に災害をもたらす。
何とかその神を鎮めなければならない、という思いがある。
菅原道真前後に何か巨大な日本の不幸はないかと思って武田先生が調べてみると貞観11(869)年のこと東北地方にマグニチュード8.3の貞観大地震が起こっている。
これが千年周期の地震と言われている。
この貞観6年にはなんと富士山も噴火している。
だから地は揺れるわ火山は噴くわ。
そういう恐ろしい祟り。
(藤原道真が亡くなったのが903年で地震は869年、富士山の噴火は864年。亡くなる前に起こったことが「藤原道真の祟りである」と考えるのは無理があると思われるのだけれども)
この「祟り神」というのは縄文とつながっている。
古い神々と。
朝廷とか貴族の中には弥生から始まる新しい大陸の血を持った人たちもいるのだが、その人たちでさえも縄文から続く神のパワーを抑えきれない。
日本という国は。
そういうことを考えると、遠い遠い古代がくっきりと見えてくるような気がする。

更に巨石を祈る儀式を歴史に探すと『日本書記』。
推古天皇の頃だが、前方後円墳の四隅に大きな柱を打ち込んで封じ込め、神様がそこから出てこないようにしたという記述があるという。
だから祟り神を四方に杭を打ち込んでそこに閉じ込めるという宗教観はもうこの5〜6世紀にあった。
出雲大社には強力なヤツが神社の下にいたのだろう。
これは戸矢さんがおっしゃっていることで。
戸矢さんの説は諏訪大社の近くにある「守屋」という山麓があるのだが、ここの山のてっぺんにお宮さんが一個建っていて。
「守屋」という名前も実に暗示的。
山の名前なのだが、実はこれは貴族で天皇に仕えていて追われて滅ぼされた物部守屋という古代貴族がすぐ近くにいる。
これは物部守屋というのはなかなかの人物で、この人が朝廷の勢力と仲が折り合わずにここまで追い詰められて切り殺されている。
だから「物部の呪い」という。

 ところがその頃は、新たに移入された仏教が急速に興隆している時期でもあり、崇仏派のトップである蘇我馬子大臣が勢力を伸ばしていた。−中略−
 これに反対する「排仏派」の代表が物部守屋大連であった。
(108頁)

結局聖徳太子も敵に回してしまって、討たれてしまうという方。
ただ物部というこの滅ぼされた一族というのがずっと気になった。
それで今度はこの物部を調べてみようかなと。

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posted by ひと at 14:50| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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