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2020年06月27日

2020年1月6〜17日◆あわいの時代(前編)

新春第一発目に持ってきたのは安田登さん。
あのフランス哲学者の内田樹先生が師と仰ぐ能の舞い手。

あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0



変な本のタイトル。
「ヒューマン2.0」
「人間が二つ」という意味で「2.0」。
これと同じタイトルの本を見つけた。
それは『宇宙2.0』。

ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する



全ての始まりはこれ。
タイトルが同じだから何か繋がりが。
著者は全然違う。
安田さんは何でこんな不思議な副題をお付けになったのか?
「ヒューマン2.0」とは何か?
ここを謎としてこの一冊を追いかけていきたいと思う。

著者は孔子の『論語』に挑む。
中国の道徳を作り、神とも中国ではなった人。
習近平さんも大好きな孔子。
その方が人間関係について非常に苦しんだことを材料にして『論語』という本を書いた。
その著作の論語という本を書いた文字が漢字。
そのまず漢字からいく。

紀元前一三〇〇年ごろ、殷の武丁と呼ばれる王の時代の甲骨文です。いまから三三〇〇年ぐらい前の文章です。この文章は牛の肩甲骨に刻まれていますが、亀の甲羅に刻まれたものも多く、甲羅や骨に文字を書いていることから「甲骨文」と呼ばれています。
 甲骨文のほとんどは占いの文章であり、この文も占いの文です。
(37頁)

最初は五千字ばかりが生まれる。
その五千字は神様と王様が会話するという「通信ツール」だった。
王と神様のものだった。
彼らの文明は祈祷、祈りと犠牲に満ちていて。
現在の四川省。
パンダが住んでいる。
ここに羌(きょう)族という一族がいた。
この羌族の人たちが殷の人たちに捕まって生け贄の人間とされた。
だから殷の人たちは羌族の人間を生け贄のために飼育していた。
そういう関係がある。
羊と同じようにこの羌族の人間たちを生きたまま生け贄として神に捧げたという。
中には「サレコウベダン」というのがあって。
羌族の人たちの生首が数十個並んだドクロ棚がある。
この羌族の人たちの生首を持って夜の道を歩くと魔物が逃げていく、という。
ただし、文字に残ってしまう。
道を歩く時、生首を持って歩くと魔物が寄ってこない、というので殷の文化では「道」という字を・・・生首を持っている。
漢字の中にはこういうふうにして、生け贄になった人がそのまま文字になるという。

「燃」
これは生け贄だろう。
下のテンテンが炎。
上の方で焼け焦げているのは「犬」。
犬がいる。
犬を焼いちゃった。
「献」
また「犬」がいる。
かくのごとくして、中国、殷文明は甲骨文字を発明し、漢字の大元を作る。
この安田さんの説というか話だが、では羌族の人たちは何も抵抗しなかったのか?
これが抵抗しなかったようだ。
(本によると戦った人もいたようだ)
生け贄になるということが人生の目標になっているので、死を恐れたり、生きるために反抗するということなどには一切思いがゆかないという「生け贄用人間」だったという。
「飼育された人間」というのはそんなふうになってしまう。
(本によると「時間」の感覚、すなわち「心」の働きが希薄だったのではないかということだが)
中国というのは闇の中でこういう歴史を持っている。
「殷がダメだ」というワケではない。
とにかく殷の文明はここから漢字を生み出していくワケだから。
漢字の一文字の中にはそういう殷の、今ではちょっと理解できない文明、文化があったと思ってください。

これは安田さんの説だが、こういうのを聞くとゾクッとする。
甲骨文字が生まれ、文字がゆっくり広がっていくと反転していく。
羌族の人たちが漢字を知ることによって反抗するようになる。
(ということは本にはない)

 ヘレン・ケラーは生後十九ヶ月のときに高熱にかかり、聴覚・視覚・言葉を失いました。そして七歳のときにサリバン先生と出会い、「W-A-T-E-R」という文字を知り、すべてのものには名前があるということを知ったと自伝には書かれています。そして、そのときヘレンは、それまでに感じたことがなかったふたつの感情を感じたといいます。
 それは「後悔」と「悲しみ」です。
 彼女は、三重苦のつらさと、そして甘やかされて育ったために、毎日、自分の人形を投げつけたり、ちぎったりしてバラバラにしていました。そして、その行為を省みることはありませんでした。しかし、文字を知ったその日、自分の部屋に戻ったヘレンは、自分の人形を、自分がバラバラにしたという事実をはじめて認識しました。
(47頁)

「文字を知ることが感情を作る」ということ。
人間はその「文字の一滴」から大脳新皮質が出来上がり、一滴の文字、それが脳の中になだれこんでいって川の流れのごとく、最初は細く、言葉を溜めることによって感情の大河になっていくという。
文字が感情の川、心の川を作るという。
それが安田さんの説。
全部当たっていないにしても、かなり美しい例え。
(本の中にはこういった表現はないが)

話を甲骨文字を作った殷に戻す。
今から三千年前のこと。
この殷を倒そうということで周という国家が起こる。
この周は単独で殷を倒すほどの国力がない。
そこでまわりの国に声をかけた。

 殷を倒すために集結した周の軍隊は、さまざまな国や民族の人たちの寄せ集めの軍隊でした。少し前の中国ですら、河を挟むと通訳が必要だといわれていました。ましてや紀元前一〇〇〇年、お互いの音声言語はまったく通じなかったでしょう。しかし、文字を使えばコミュニケーションができた。(100〜101頁)

その文字も台湾と北京では変わる。
中国の北京の方は略した文字ばっかり。
台湾の人たちはちゃんと漢字を用いている。
いずれにしろ「殷を滅ぼそう」ということを叫んだ周は他民族を集めて、心を合わせるために必要なコミュニケーションツール、それを殷が作った文字で代用した。
今までは甲骨文字だったが、約束したことを忘れないように金属に鋳込んで「金文」という新しいタイプの文字を作った。
お寺の鐘か何かに漢字が彫り込んである。
あれを契約書にした。
あれは簡単に割れたり千切れたりしないので、一回結んだ契約は固い約束になる。
そんなふうにして青銅器に鋳込む文字。
甲骨から金文へと発展していく。
最初は神と王とのものだったのだが、ついに周が漢字を地上に降ろし、人と人との契約に漢字を使い始めたという。

「あわい」というのは隙間とか間とか。
漢字一文字で言うと「間(ま)」と書く。
それで「あわい」と読み仮名を打つ。
(本には「あわい」は「あいだ(間)」と似た意味だが、ちょっと違うと書いてある)

殷から周へ変わって、今度は春秋戦国の世となる。
まずは春秋なのだが、紀元前五世紀ごろ。
千々に千切れた中国。
それが相争う。
そういう時代に道徳の孔子が現れる。
彼はどういうタイプの人だったかと言うと「圜冠句履(えんかんこうり)緩く玦を帯び絃歌講誦(げんかこうしょう)」。
丸い冠を被り、先の曲がった履物を履き、美しい玉(ぎょく)を身に付けていた。
そして琴に合わせて詩を吟ずるという、いわゆる「流し」みたいな人か。
カッコイイ言葉を、フレーズを並べながら吟ずる人だったという。
最初から道徳だけじゃなかったと思う。
でもできたばっかりの漢字を並べて歌を作るから「ハイクラスな」ということだったのだろう。
儒教という理想を掲げて。
母親の存在というのは大きい。
孔子がこれ。

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)



三千年ぐらい前の人だが、白川静先生が書くと目の前に出てくる。
どんな人かというと、孔子はどうもシングルマザーだったようだ。
お父さんは逃げてしまったようだ。
中国の本には一切書いていないのだが、白川先生はズバッとおっしゃっている。
母親の手、一つで育てられた。
そのお母さんの仕事がまた複雑。
女占い師だったらしい。
つまりお母さんは何をやっていたかといったら「雨を降らせる」というお祈りが得意だった。
雨は大事。
それで一生懸命雨乞いのお祈りをしていた。
孔子が教える「儒教」にはお母さんの形見が文字になっている。
「儒」は「雨」の一文字が隠れている。
これがお母さんの形見。
武田先生は小学校5年から何で「儒教」に「雨」が入っているのかわからなかった。
謎が解けたのは60いくつ。
白川先生の本を読んで夜中に正座した。
儒教の「儒」というのはもともと雨を乞う教え。
だから横にニンベンが立っている。
それから雨の下に(而)。
昔の武田先生。
長髪。
儒教の人はみんなロン毛。
「(金八先生の口調で)あぁ、いぃですかぁ〜?」と言っていた頃の武田先生。

3年B組金八先生 第2シリーズ昭和55年版 初回生産限定BOX [DVD]



漢字一文字の中に人間が潜んでいる。
変わった風体をして歌を歌って歩く孔子。
理想とすることを歌にする。
フォークソング。
「遠い〜世界に〜旅に〜出ようか〜・・・お空の〜♪」と孔子は歌っていた。
そういう人だった。
彼は説くところは人をまず二つに分けた。
「小人」と「君子」。
(番組の中では「小人」を「しょうにん」と言っているが本によると「しょうじん」)
(「小人」は)今ではあまりいい意味に使わない。
「不出来な人」という意味で。
君子は「上出来な人」という。
そういう分け方をした。
彼が弟子に説いたのは君子と「仁(じん)」の人。
この「仁」を目指す人。
「仁」とは何か?
「医は仁術」とかいう。
「優しい」ということ。
つまり「優しくあらねば」ということを言った。
(本によると「仁」とはもっと複雑なことらしい)

『論語』の中での「君子」の出現回数は一〇九回、「仁」は一一〇回。(52頁)

つまり孔子にとって一番大事だったのは「仁」。
この「仁」を繰り返し説明している。
ところがこの「仁」というのは孔子のほとんど造語。
だから意味は孔子しか知らない。

「仁というのは人≠ニ二≠ゥら成る文字なんですよ」と話したら、ドミニクさんは即座に「あ、ヒューマン2.0ですね」と言いました。(215頁)

安田さんというのはなかなか面白い方で、独特の論語の読み方をなさる方。
今、お聞きの中には中国や韓国の方がいらっしゃって「そんな読み方しないよ、論語は!」とかとおっしゃる方もいらっしゃるかも知れないが、これは安田さんの読み方。
安田さんはもうズバり「論語の中にいる孔子は、決して高潔な聖人ではない」。
吟遊詩人というか。
彼は自分のことをこう言っている。

 孔子は「生まれつきは、みなほとんど同じだ。ただ、学びによって違ってくるのだ(性、相近し、習えば、相遠し【17-2】と言っています。孔子自身も「自分も生まれながらにして知恵を持った人間ではなかった。ただ、古代のことが大好きで、そしてがむしゃらにそれを探求した人間なんだよ(我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず。古を好み、敏にしてこれを求めたる者なり【7-19】)」と言うのです。
 生まれつきは、みなほとんど同じ。だからこそ、誰でもが君子にもなり得るし、小人にもなり得るのです。
(52〜53頁)

(【】が付いている箇所は『論語』からの引用)
彼は「不出来な人間」という意味で小人と言ったのではない。
「勉強しない人」を小人と言った。
決して「つまらない人」という意味ではなく。
一つの考え方だけで生きている人、それを小人と言った。
これに対して特別な人、あるいは色々考え、先を読む人のことを「君子」。
そういう言い方をした。

 孔子曰わく、君子に九思有り(56頁)

『論語』の中の君子の「九思」について書かれている章句を読んでみましょう。「九思」というのは、九つの状況において、君子は「思」をする、ということが書いてある章句です。
 「思」というのは、現代的な意味の「思う」とはちょっと違います。すなわち「思」とは網の目のように細かく思慮すること、注意深く考えることをいいます。
(56頁)

例えば疑えば「どう訊けばいいのかな?」。
カーッと腹が立つ相手と出会った時は「どうやれば仲良くなれるかなぁ?」。
何が正しいか?
それを言う時には「正しい」。
本当にそれが正しい判断かどうか?
相手のことを考え、これからのことを予測し、決してその場だけの一つ、そのことだけを考えているのではない。
いつも一つから九つのことを引っ張り出す、という。
そういう自分でいられる人が「君子」なんだ、という。

 孔子は、生国である魯の国を追われるようにして出国したあと十三年にも及ぶ諸国遍歴の旅をすることになります。旅の間ではさまざまな苦難に見舞われましたが、その中でも最大の苦難のひとつが陳の国でのできごとです。−中略−
 陳に在りて糧を断つ、従者病みて能く興つ莫し、子路慍って見えて曰わく、「君子も亦た窮するあるか」と、子曰わく、「君子、固より窮す、小人窮すれば斯に濫る」と。【15-1】
 放浪の旅の途中、陳の国に至った孔子ら一行は、食糧すらも尽きてしまいました。悪いときには悪いことが重なるもので、従者もみな病気になって立ち上がることもできません。まさに窮地。そんなときに弟子のひとりである子路が怒りもあらわに孔子に向かっていいます。
「君子でも、こんな窮地に陥ることがあるのですか」
(60〜61頁)

「そりゃあ君子だって困窮するよ(君子、固より窮す)。ただ、ふつうの人(小人)は窮地に陥ると濫れてしまうけどね」と。(62頁)

この「やせ我慢」が生々しい。
弟子に謀反を起こすというか、文句を言うヤツがいた、という。
これはおかしい。
「君子もまた窮するか!」というのはもう本当に腹の底から腹が立ったのだろう。
「いいことばっかりやっているのに、なんでこんなつらいの?俺たちは」というのは、いつの世にもつぶやきたくなるような愚痴ではないか?

 孔子に文句をいったこの子路という弟子は、弟子たちの中でも直情径行、曲がったことが大嫌いで、歯に衣を着せぬ言い様をすることで知られています。(61頁)

孔子の答えが弟子によって変わる。
それが論語を読む時の面白さ。
この二人の出会いはいつかと言うと、孔子がまだ中年だった頃、子路が先生ぶっている孔子をへこませてやろうと「南山の竹、揉す。自らただし、斬って用うらば犀革の厚きを通す」。
(子路曰:「南山有竹、不揉自直、斬而用之、達于犀革、何學之有?」)
「アンタ『勉強しなさい勉強しなさい』『学べ学べ』なんて偉そうなこと言ってるけども、見てご覧。竹、真っ直ぐ出てくるでしょ?南山の竹。アンタ、切って使うだけで革、突き通しますよ? 人間はね、素材じゃないの?素材。」
孔子曰く「その南山の竹に羽を付け、ヤジリを付ければ、革を貫くだけではない。」
(孔子曰:「括而羽之。鏃而礪之。其入之不亦深乎?」)
「素材だけではダメなんだ。それを磨いてとがらせる」という。

これはもう聖書と同じ。
いろんな弟子の性格があって。
子路はずっと孔子に楯突きながら人間的に成長していく。
最後は子路は先生を離れて衛という国の官僚になる。
それで出世してそのまま終わればいいのだが、やっぱり春秋時代。
世が乱れていた。

 衛の国でクーデターが起こったことを知った子路は、君主を助けるために死地に飛び込んで行き、戦闘の最中に、冠の紐の切れたのを嫌い「君子は死ぬときも冠を外さない」と冠の紐を結びなおしているうちに殺されてしまうのです(『史記』「仲尼弟子列伝」)。(61頁)

子路の亡骸は「見せしめのために」ということで塩漬けにされて都に晒された。
その噂を聞いた高齢の孔子は死ぬまで塩漬けのものを口にしなかった。
これは司馬遷の『史記』が伝えているエピソード。

現代語訳 史記 (ちくま新書)



おそらくかなりの誇張が入っているのだろうが。
しかし今から二千年以上前、「仁」という境地を求め、それを中国社会に説いたという孔子の行動録。

「君子」の「君」は、古くは「尹」と書かれていました。この「尹」という文字は杖(棒)を手で持つ形がそのもともとの形です。(55頁)

その下に「口」を書く。
それこそが祈りを入れる箱の「サイ」。
君子という「君」の字は「杖を握りしめた人」ということで、杖が必要な、あるいは脚に少しハンディキャップを抱えているかも知れない人。
そういう人たちが祈りの箱と共に立っている。
それが君子の「君」。
「杖を握り、祈りの箱を引き寄せている人」ということ。
これは本当に不思議なのだが、中国の文明というのは脚にハンディを抱えている人を「聖人」と見る。
だから「君子」の「君」は杖を握りしめた人の姿。

 伊尹の「尹」は、杖を持つ手だと書きましたが、その本字は、同音の「充」だという説もあります。現代では「まこと」と読む「充」ですが、殷の時代の文字ではこう書きます。
0113_02.png
 この字は佝僂の人の姿だと加藤常賢氏はいいます(『漢字の起源』)。
−中略−背骨が屈曲し、背中にこぶのようなものができた姿がせむしであり、佝僂です。(68頁)

 そして孔子も「頭の真ん中がくぼんでいる(反羽)」。(70頁)

それで「孔丘」というあだ名が。
「頭が丘みたいだ」というニックネームが付いている。
沖縄に最後、カチャーシーを踊りながら一升瓶を頭に載せるおじさんがいる。
ああいう頭をしていたのだろう。

posted by ひと at 10:19| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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