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2020年08月13日

2019年7月15〜26日◆磐井の乱(前編)

「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」の前に、北部九州から韓国の半島に向かってヤマト軍を送り込む時に、筑紫の国で磐井という氏族が反乱を起こしてやっつけられた。
それを「磐井の乱」というのだが。
「ヤマト朝廷の力は強かった」というのでよく。

地方を転々としていた。
武田先生は古代史ファンなのでフッとした謎に入る時がある。
この間、高田純次さんが『じゅん散歩』で立川を歩いておられた。
じゅん散歩|テレビ朝日
立川の諏訪神社に立ち寄られて。
あの方らしくて神主さん、権禰宜(ごんねぎ)さんをからかってらっしゃるのだが。
なんで立川に諏訪がいるのか?
前に御柱のお祭りの話をした時に「諏訪という神社があると、そこは必ず物部という氏族が力を持っていたエリアだ」という。
このあたりの回のことだと思われる)
高田さんだから、そんな古代史に立ち寄ろうはずがない。
「な〜んつっちゃったりなんかして」と言いながら。
地方の神社が持っているそういう歴史はすごく面白い。
でもズバリ言うと「私には」。

地元に帰ってテレビ番組の中で古里を歩いているのだが、「令和」の起源になった坂本八幡神社に行った。
(大伴)旅人くんが梅の咲いている木の下で宴をやったという場所が坂本八幡神社なのだが。
これは「ワンセット」。
令和の語源になった坂本八幡神社とか都府楼とか、大宰府政庁とかという昔の役所。
その役所を守るお城として大野城という山城がある。
この山城とそれから、人が攻めてきた時に堰を切って水攻めにするという水城(みずき)。
これは福岡の人だったらみんな知っている。
水城という防波堤がある。
何でそんなところに水のお城を大宰府政庁を守るために作ったか?
敵はどこから来るか?
海を越えて朝鮮半島あるいは中国から福岡に上陸して戦争が始まった場合は大宰府政庁に向かって突進してくるので、その人たちを防ぐために水城というお城があって、ここに第一波の砦が築かれた。
二番目が久留米の高良山。
三番目が日田。
三段構えで外的を防ぐという防御システムがとられているワケで。

白村江の戦いは、百済の救援要請に応じた倭国軍が唐と新羅の連合軍と戦い、木っ端微塵に打ち砕かれ、百済は消滅した。(33頁)

その後「攻めて来るんじゃないか?」ということで水城というお城が築かれた。
その前後に奇妙な事件があった。
その奇妙な事件が「磐井の乱」。

磐井の乱の謎



福岡県でこのあたりの国道とか道を走ってらっしゃる方は「わぁ!」と、ほんの僅かだけれども喜んでらっしゃると思う。

 継体二十一年(五二七)夏六月、近江毛野臣が六万の軍勢を率いて任那(朝鮮半島最南端。古くは伽耶諸国をひとくくりにして任那と呼んでいた)に赴き、新羅のために攻め滅ぼされた南加羅(洛東江下流域)と喙己呑(慶尚北道慶山)を復興し、任那に合併させようとした。ここに筑紫国造磐井が、密かに反逆を目論んだが、なかなか実行できず隙を窺っていた。新羅はこれを知り、磐井に賄賂を届けて毛野臣の遠征を妨害するように働きかけた。磐井は−中略−近江毛野軍の行く手を遮った。(15頁)

 継体二十二年(五二八)の冬十一月十一日、大将軍物部大連麁鹿火は「賊帥・磐井」と筑紫の御井軍(福岡県久留米市中部と小郡市)で戦った。−中略−ついに磐井は斬られ、境界が定められた。(17頁)

どうもこの福岡県の大野城市、あるいは大宰府あたり、越後八女あたりにかけて磐井という人の巨大な国があったようだ、と。

なぜ磐井は、反旗を翻したのだろう。『日本書紀』は、「それは磐井が新羅から賄賂を受け取っていたから」というが(21頁)

この時の半島情勢はこういうこと。
高句麗があって百済があって新羅があった。
今で言うと北朝鮮があって韓国があるのだが、韓国が真っ二つに別れていて、親大和派と反大和派があった。
それで反大和派が九州の勢力と手を結んでいたという。

「磐井の乱」という朝鮮半島問題に巻き込まれた日本。
これは現代だけの話ではなく1500年前にもすでにあったという。
そんなふうに話せば少し興味を持ってもらえるか?
それに地方に点々と神社があるのだが日本の神社は「神道という宗教だ」という人がいるが、歴史的な何かがあったモニュメント。

今話しているのは西暦500年代だから6世紀の頃。
日本の隣の朝鮮半島には三つの国があった。
一つは高句麗という国があって下に左半分が百済、右半分が新羅という国だった。
百済と新羅の間に小さなポリス国家がある。
そのポリス国家のいくつかが、向こうの方は絶対認めてくださらないが、それは日本の領土だった。
ずばり「日本府」とか「倭館」という地名で呼ばれていた。
もちろん今「更返せ」とか絶対言わないから、向こうの方は警戒してらっしゃる。
『釜山港へ帰れ』という歌が日本でヒットした時に「再びまた攻めてくる可能性あり」と新聞に載ったぐらいで。

釜山港へ帰れ



武田先生は知りもしなかったが、後で聞いて。
領土的野心で言っているのではない。
この日本のポリス国家の所有というのがヤマト朝廷をして深く深く朝鮮半島問題に首を突っ込まざるを得なくなった。
そういう下地があることを覚えておいてください。

今と違うのは親日「日本と仲良くしよう」という新羅。
これは実は北部九州の豪族と手を結んでいた。
これは多分だが、出雲あたりもこの新羅と仲が良かった。

神話のスサノヲが新羅に舞い下りたという話だが、これは伽耶だろう。スサノヲは鉄を求めて朝鮮半島に渡った倭人を神格化したものと思われる(93頁)

ここは鉱物資源には溢れているけれども樹木が少ない、と。
それで樹木のもっと豊かなところに移ろうというので降り直したところが出雲。
それから鳥取とかあのへんはいくつか島を持っている。
島根とか。
あれは朝鮮半島の脇にあったヤツを神々が縄を引っ掛けてこっち側に引き寄せたという「国引き」という神話が残っているくらいで。
それくらい朝鮮半島と深い関係にあった。

武田先生が生まれた町は雑餉隈(ざっしょのっくま)という古代めいた地名なのだが、隣町は白木原(しらきばる)という。
これは繰り返して言うが新羅の人たちの集落があった、といって新羅の人たちがそこに住んでいたという。
福岡市郊外には古墳から新羅製の馬具が見つかったりしている。
つまり九州北部の王様はこの新羅と仲がよく、ヤマトの方にある国は百済と仲が良かった。
百済の王子様が奈良県の方に来たりしていた。
それくらい深い関係にあった。
日本はどっちが本当の政府かわからない。
ヤマトと筑紫の国で外交問題のねじれがあった。
外交がヤマトと筑紫では一本化できていなかった。
こういう古代史的事実があったのではないだろうか?
その5世紀前半の大和朝廷の中で磐井という人が半島に渡ろうとしていたヤマト軍に対して反乱を起こした。
この時の台詞が日本書紀に書いてあるが、これがすごく不思議な言葉で。
これは謎とされてずいぶん論議されたのだが。

 そして磐井は近江毛野臣に対し、次のような無礼な言葉を吐いた。
「今でこそ使者としてやってきたかもしれないが、昔はわがともがらとして、肩を擦り肘を触れ、同じ釜の飯を喰らった仲ではないか(「共器して同に食ひき」同等の立場で結びついていたの意)。
(15頁)

反乱を起こした磐井の方にずる賢い発想があったのではなくて、当然のこととして彼は朝鮮に出兵しようとする6万の兵の前に立ちはだかった、という事実がある。
「オマエたちの言うことなんか聞けない」ということで磐井は物部麁鹿火という武人によって成敗されてしまう。
あるいは北方面に逃げたというような話もあるが、潰された。
古代史において九州の北部は歴史舞台であった。
断固として言うが、邪馬台国は2〜3世紀にかけてこのあたりにあった。
武田先生の説は断言する。
有難いことにこの(筆者の)関裕二さんも河出書房の本の中で「邪馬台国は九州の北部、筑紫か筑後平野にあったんだ」と。
理由としては鉄という輸入品が、ここでは大陸から入りやすいんだ、と。
アジアからの文明の品々が流れ着くところは福岡しかありえない。
漢委奴国王。
倭国王がいたんだ、と。
奴国(なこく)という国があって、そこの王様が「那の津」博多にいたんだということは、これは間違いない。

1500年前、古代史の話をしている。
ヤマト朝廷が朝鮮半島の政治状況に首を突っ込もうとした。
その時にたくさんの兵隊を福岡博多から朝鮮半島に渡そうとした時に、その出兵するヤマト軍に対して邪魔をした筑紫国造。
筑紫の国を任せられた、県知事級の人物磐井が反乱を起こした。
この反乱はなぜゆえにか。
それは今まで大和朝廷が朝鮮半島に乗り出そうとしているのに、県知事級の人が邪魔をした。

日本を代表する政府というのがヤマトだけではなかった。
北部九州の磐井も日本を代表して外交をやっていた。
おそらくこの人は邪馬台国の生き残りの人だったのだろう。
邪馬台国とヤマトが別々の国であったと思った方がいいのではないか。
そのほかにも博多湾沿岸には奴国がある。

「旧奴国」が、弥生時代後期の日本列島を代表する地域として、後漢に朝貢し、「委奴国王」と刻まれた金印を授けられていたことだ。(57頁)

奴国には王様がいた。
この印鑑は1世紀頃。
ということは博多のあたりには、漢字を読める人がいたということ。
印授だからハンコが持っている権力というのも理解できたワケだから一応「国家」の感覚を持っていた。
巨大ではない。
まだ小さい。
その奴国の隣には伊都国(いとこく)という、今は「糸島」という。
AKBの(篠田)麻里子様の出身地が伊都国だから。
糸島の子だから東京の男性と付き合った時に「生まれはどこ?」と訊かれたから胸を張って、福岡でいいところなので「私は糸島です」と言うと「へぇ。じゃ市内にはフェリーで?」と。
島ではない。
これは伊都国という古代国家があったところ。
こういう奴国とか伊都国を纏める統一の代理者として邪馬台国があった。
邪馬台国は漢ではなくその後、魏の方から印綬を貰っていて。
親魏倭王という「倭の王様である」という印鑑を貰っている。

大学生の頃から邪馬台国が面白い武田先生。
この邪馬台国の女王卑弥呼が親魏倭王という称号を貰っている。
「倭」という字はすごく変。
中国は周辺国の民族に対してケモノの字をボンボンあてる。
動物呼ばわりする。
人間は中国人だけ。
回りの周辺民族は全部ケモノの字。
「匈奴(きょうど)」とか「韃靼(だったん)」とか。
「羌」というのは羊の下に人間の足を足して「頭は羊」というような意味なのだろう。
チベット族のことを「羌族(きょうぞく)」と呼んだりする。
人間扱いしない。
「ギン」とか虫を書いたりなんかする。
(「ギン」と聞こえたが、虫偏の「ギン」という字は調べてみたがわからなかった)
「倭」は不思議。
人偏。
なんでわざわざ「人偏」というようなよい文字をくれたのか?
それから横に「委」だが、それは何か?
「女」がいる。
上は「禾編」。
これは豊作の祈りの祭りの衣装を着た女の姿。
だから「倭」というのは女がいて「豊作の踊りを踊っている人間の集団」という意味で。
すごくいい漢字。
これは変な意味ではなくて、中国サイドも王朝を一目置いていた、という。
倭を強い国として。
その倭国に内乱が起きる。
それは卑弥呼が死亡すると権力闘争が始まって、台与(いよ)ていう女王様が出てくるまで内乱が続いたというのが秦のほうの『東夷伝』というような書物に載っている。
日本は文字を持っていないから、その間何があったかわからないが。
この関さんの説ですごく納得がいくのは、日本中様々な豪族がいた。
出雲がいた、吉備がいた、但馬がいた、丹波がいた、淡路がいた、東海、近江、越前、越後、様々な権力集団があって、その人たちが敵から攻められてもいいようにコンベンションセンターを作った。
それがヤマトコンベンションセンター。
奈良に作った。
そこに様々な勢力の人が集まってどうするかを決定した。
「議長がいる」というので、天皇という格別の議長席を用意した、という。
こういう説。
これは相当面白い。
生き生きと蘇る古代史。

古代史は膨大すぎて、話しておかなければならないことが多すぎるので。
ただ、日本各地に様々な地方の豪族がいて、彼らが何とかまとまった意見を一つにするために、ヤマトにコンベンションセンターを作った。
その議長職に就いたのが天皇という一族であったという。
古代史の不思議は一体何か?
今日は向きを少し変えてそこから話す。

初代の天皇は誰か?
神武天皇。
神武天皇はどこから来たかというと日向。
だから神話の始まりは日向。

 天孫降臨神話の中で、高皇産霊尊と天照大神の孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊が日向の高千穂峰−中略−に舞い降り、その末裔の神日本磐余彦尊(神武天皇)が、日向から瀬戸内海を東に向かった……。これが、『日本書紀』の示すヤマト建国、天皇家誕生の物語だった。(50頁)

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という人が降りて、それで海岸線まで出て、子供がだんだん増えていって。
神武の時についに宮崎の海岸から熊野へ行って。
熊野に上陸する。
その時にヤマトへ行く。
ヤマトを日本の中心にするために。
その時に神武を案内してくれたのがヤタガラス。
サッカーのマークで鳥が真ん中にいる。
(日本サッカー協会は日本代表チームのシンホルマークとして、勝利に導く、ボールをゴールに導く神様として「八咫烏(ヤタガラス)」を昭和6年に採用)
サッカーを日本中に広めた人がそこの出身だったのでヤタガラス。
それをマークにした
神武がヤタガラスに導かれてヤマトに入って、様々いた王様を全部追放して彼が初代の天皇になる。

 実在の初代王は第十代崇神天皇と考えられていて(52頁)

(番組ではしばらく「すうじん」と言っているが「すじん」天皇)
でも崇神は何で自分の前に十代もいるという伝説をくっつけたのか?
そして都が違う。
神武は奈良の橿原(かしはら)を都とし、崇神は纒向(まきむく)を都とした。
ここも遺跡が出ている。
二つ都がある。
二つの帝の系譜が別々に事務所を奈良に作った。
それ故に、この橿原と纒向という二つのお宮さんが今でも奈良にあるのではないか?
この崇神という人が朝鮮半島問題については、新羅ではなくて百済を応援していたのではないか?と。
それで、この崇神さんというのは福井県の出身。
「でっちあげ」の中で「著者から指摘があり崇神ではなく継体の間違い」と訂正されている)
福井県に行ったら崇神さんの伝説はもうすごい。
「うちが出した、うちが出した」と言って。
その崇神さんが「百済を一生懸命応援するんだ」「これがヤマトの意思だ」と言うのだが、従う人があまり国内にいない。
それで崇神さんの周りに、政治活動をやる今で言うとロビイストの人たちがどんどん集まって来る。
その中に百済人がいたんじゃないか?
朝鮮半島の人たちが。
「応援してください、百済を」と言い続けたという。
「百済じゃないんだ、新羅だ」という日本の他の豪族たちの意見をこの崇神さんが潰したのではないだろうか?という。
それにつけても崇神さんは、何でわざわざ自分の前に神武という人を迎えて十代を繋いだのか?
関さんの説が面白い。

 ヒントは『日本書紀』に隠されている。神武と同一人物と考えられている崇神天皇が、疫病の祟りに追い詰められていたという。(70頁)

その伝染病にかからない人たちを探したら、薩摩と日向の人がかかっていないという大発見があって、彼らを奈良まで呼んだんじゃないか?
そして彼らの血を天皇系に入れることによってその伝染病をシャットアウトした。
(番組では一貫して「伝染病にかからない遺伝子を持っている人たちを連れて来た」というようなことを言っているが、「でっちあげ」の回で著者から「病は祟りで、その祟りを呪術で抑え込むことのできるパワーを持った者を連れて来たということを書いている」との指摘があった。実際、本を読んでみた限りでは「伝染病にかからない体質の民族である」といった内容は一切ない)
古代史を伝染病で見るなんてことは一回もやったことがない。
この伝染病は一体何かというと天然痘で、大陸からやってきたのではないか?

 稲作文化が伝わったころ、朝鮮半島の疫病が北部九州にもたらされ、恐怖の病が迫ってきたからこそ、奈良盆地の橿原で(71頁)

その伝染病にかからない血を持っていた一族が薩摩と日向の一族だった。
それを天皇家に入れることによって、その病からヤマトを救った。

朝鮮半島問題に関しては、現代もそうだが進展がない。
両国の国民の印象もすごく悪くて。
韓国の方は日本人を80%嫌い。
日本人も80%の人が韓国のことを信用できないと言っている。
本当にうまくいかない。
でもうまくいかないのは今に始まったことではない。
そのうまくいっていないことを前提にして、両国民は考えた方がいいのではなかろうか?

日本人はどこから「日本人」になったか?
「縄文から」と思う水谷譲と武田先生。
普通の人は「弥生」と考える。
弥生人という前方後円墳なんかを作っているところから日本は始まった。
そうなると弥生ということ。
しかも日本は文字を持っていないから、日本の正体というのは歴史の本の中では全部中国の歴史に書かれていたオマケみたいな文章。
そんなふうに思う。
そして稲作の広がり。
北部九州にやってきた朝鮮半島や中国江南地方の人たちが縄文人を追いやる。
そして日本をだんだん。
だから縄文人から日本が始まるというのは、今の日本の学者さんたちの言い方とは違う。

武田先生が住んでいる福岡市内の雑餉隈というところ。
すぐ近くが板付飛行場。
福岡空港。
そこの旧地名が「板付(いたづけ)」という。
子供の頃から「変な名前だなぁ」と思って。
「板」が「付」く。
「博多」というのも変わっている。
板付というのは今、福岡空港がある所なのだが、そこが昔は波打ち際だった。
よく板が流れ着いていたので「板付」。
それで博多湾は延々とした干潟だった。
そこに足が取られないように下駄を履いて歩いて、残った足型が「歯型歯型」「はがたはがた」「はかたはかた」。
それで「博多」。
そういうふうにして古代の響きを込めて町の名前が付いている。
その板付から見つかって日本中が驚いたのが水田の跡。
そこは何と古代人の足型が見つかった、という。
福岡の番組で、そこの板付遺跡には行ったことがある武田先生。
その時、武田先生の家はそこから車で十分ぐらいしかかからないのだが、そこの板付遺跡の館長さんから「武田さんちは家を建て直す時、工事を丁寧にやってください」と。
「何でですか?」と言ったら「お宅のタバコ屋のある辺りはですね、まだ遺跡が出る可能性があるんですよ」と言われた。
「へぇ〜」とかと聞いたのだが。
武田先生の家はそのままなで、その前のナガヌマさんの家がお百姓をやめて家を全部壊して土を掘ったら(遺跡が)出てきたので今、建設が中止になっている。
その時に一番大事なことは、私たちは稲作を持ってきた人が中国の江南人や朝鮮民族だと思っているフシがある。
でもこの関さんは「違う」とおっしゃる。

 われわれは、「縄文人と弥生人は別の存在」と考えがちだが、稲作を選択した縄文人と先住民の社会に融合していった渡来人が弥生人であり、その後、大陸や半島の混乱から逃れた人びとがやってきて、日本列島人が形成されていったと考えるべきなのだ。(66頁)

どう考えてもケンブリッジ飛鳥は日本人。
それと同じことがその時代に起こった。
余りにも簡単に「稲作は向こうから持ってきた」とかと言いすぎる。

それからこれは前に話したことがあるが、釜山の東三洞貝塚という遺跡がある。
これは釜山だから朝鮮半島。
ここから土器が見つかって、その土器のマネをして九州の人間が縄文土器を作ったとされていたのだが、土の分析から縄文土器を向こうに持ち込んでいる。
朝鮮半島の先っぽの方には小型ながら前方後円墳がある。
それは最初、前方後円墳のことを「朝鮮民族がヤマト民族に教えたんだ」と言ったが、前方後円墳は日本の縄文・弥生の文化が作ったお墓の形で。
それが朝鮮半島にあるということは、そこのお墓のところが、かつて日本だったということ。
でももちろん韓国の方は認めていらっしゃらない。
弥生人が縄文人を追い立てて日本を作ったという中国江南からの渡来というのは紀元前2500年。
春秋戦国時代。
中国がものすごい戦争をやっていた時に九州方面に流入してくる中国人がいたのだが、これが日本の歴史を大きく変えたということはないのだ、と。
融合する、混ぜ合わせることによって日本が生まれていった、というふうに考える方がいいのでは?と。

posted by ひと at 21:29| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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