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2020年08月13日

2019年7月15〜26日◆磐井の乱(後編)

これの続きです。

古代と呼んでもいいと思う。
平安よりはるか前、奈良より遥か前の日本の歴史。
まだ飛鳥にも入っていない西暦527年の6世紀の頃。
筑紫国造「磐井の乱」。
その磐井が反乱を起こした隣町に大宰府政庁がある。

磐井の乱の謎



磐井の乱というのは今で言うと福岡の方はわかると思うが大牟田の辺りだと思う。
武田先生のマネージャーの古里。
岩戸山古墳というのがあって、そこにいってみたくて仕方がなかったが、地元の人で知っている人は誰一人いなかった。
九州はいっぱいあるのだが。
この間、坂本八幡神社に行った。
武田先生は笑いこけてしまった。
そこの土地の70代の人がそこの神社をずっと守ってらっしゃる方。
その方がインタビューに行ったら「毎年ですね、ここの神社はですね、だいたいですね、観光客の人はですね、20人でした」。
1年で(20人)。
「今ですね、一日でですね、この間1万2千人来ました」
すごい。
田んぼの真ん中を延々と。
その梅の宴をやったという場所の真後ろにあるのが大野城という。
山なのだが、その山のてっぺんに野城を築いて、半島から攻め込んでくる中国人を「ここで防ぐぞ」という防衛ラインの一段目だった。
野城はデカい。
真ん中がボコっとえぐれているものだから天然の要害で。
それでいまだにてっぺんに登ると非常食の米のカスが出てくる。
それくらい朝鮮半島情勢はかつて古代は緊迫していた。
遠い遠い昔のことだが、ヤマト朝廷と言わず、まあ連合ヤマト。
日本の様々な豪族が集まって防衛上安全な奈良にコンベンションセンターを建設して、いろんな豪族がそこに集まって「外交はこうしよう」「輸入品はこれにしよう」とか様々決定していた。
議長をやっていた、その特別の議長の席に越前から崇神天皇を迎える。
この崇神天皇が朝鮮半島情勢に関して「我々は朝鮮半島にある百済という国を応援しよう」ということを決定したのだが、言うことを聞かない豪族がいっぱい日本中にいた。
そういうまだ日本が一本に統一されていないもどかしさ。
その崇神さんが百済からいろんなロビイストを迎えて、向こうの文化とか文明を聞く。
もうこのあたりから百済の手によって、仏教がしきりに持ち込まれる。
ところが物部という人たちは「仏教はいらない。俺たちには神道があるじゃないか」という。
そんなこんなしているうちに、一説によるとヤマトに集まった人の半分が死んだという伝染病がヤマトに広がる。
それが天然痘らしい。

天然痘の致死率は、現代でも三割以上なのだから、当時、もし天然痘が流行していたら、人口の半減は、大袈裟な記事ではなかったことになる。(70頁)

その天然痘というのはどうも大陸の病が入ってきたんじゃないか、ということ。

 ヒントは『日本書紀』に隠されている。神武と同一人物と考えられている崇神天皇が、疫病の祟りに追い詰められていたという。人口が半減し、神(三輪山の大物主神)に問いただすと、神の子を探しだして連れてきて神を祀れば、落ち着くだろうというので、その通りにしたというのだ。(70頁)

橿原という地が伝統的に、「西からやってくる脅威に立ち向かう地」であり、崇神は九州から神武を招き寄せ、橿原で疫病を祀らせていたのではないか、というものである。(70頁)

それで議長の崇神は薩摩の阿多(あた)族。
宮崎のウ族の青年を招聘し祀ったという。
(「ウ族」とやらは本と付き合わせても何のことかわからなかった)
これは不思議で、現代でもものすごい死亡率の天然痘が彼らはかからない。
今で言う免疫を持つ部族が九州南部にいた。
それが阿多隼人(あたのはやと)。
そして宮崎の海神(わたつみ)の一族だったのではないだろうか?
そこで生まれた子たちを代々の天皇として祀ることにした。
そうすると天然痘にかからない驚異の体質を持っていたという。
崇神はその子、神武をヤマトへ呼び寄せて神としてまつる。
橿原に別の都、彼のための都を作った、と。
崇神は天皇家を免疫体質にするために、縄文系海人族の姫を天皇家に嫁として入れた。
そういう人たちの系譜を入れたことによって、自分の系譜を十代前まで繰り上げた。
これが神武に始まるヤマトの始まりなのではないか?

古代史のことなのでピンとこないかも知れないが、とにかく西暦6世紀、日本はまだ統一国家としての力が弱く、各豪族がヤマトの地に集まって国政を決定するというヤマト連合と、九州北部には邪馬台国という古代から続く王国があって、外交政策が一本にまとまっていなかった。
一本化がゆっくり進むのだが。
北部九州にある邪馬台国の残党みたいなのが言うことを聞かないというので「やっつけよう」という話になったようだ。
それでこの北部九州にある豪族たちをやっつけるために先頭に立って戦ったのが、ヤマトに行って血を混ぜて免疫体質を持った日向の一族、それから隼人の一族だった。

海幸山幸神話の中で、山幸彦は海神の宮に三年留まり、海神の娘・豊玉姫と結ばれ、故郷の日向に戻っていった。豊玉姫は山幸彦を追って、海岸にたどり着き、子を産む。(54頁)

それで兄さんの海彦(「海幸彦」のことかと思われる)はと言うと、弟の子分になって大和朝廷を盛り上げるという話になる。
海人、海の一族の血をヤマトの天皇家に入れたということは、病を祓う、異国から飛んで来た病気を祓うというパワーになった、というのが古代の伝説で。
天皇家はその伝説を大事にした。
それで二重外交をいつまでもやっていてはイカンということで、ヤマトが日本をまとめようという決心をして、北部九州の一族をやっつけに行く。
その時のヤマトの王子が仲哀天皇。
これがまた本当に悲しい字で。
仲哀。
打倒邪馬台国を目指して。
「邪馬台国」とあえて言っておくが、北部九州の一族を滅ぼすために行くのだが。
どうもなんだかこの人は弱い。
そこでおそらくだが、土地のお嫁さんを貰った。
そのお嫁さんこそはトヨ系。
豊玉姫系の海人の女性で、その人と結婚して子供ができるのだが、これは日本書紀に書いてあるのだが、仲哀さんは「北部九州の一族をやっつけるぞ」と張り切っていたのだが、福岡の香椎という場所まで行って「琴が弾きたい」とか何かおっしゃって琴を弾いてらした。
そうしたら部屋の明かりが消えた。
風か何かだろう。
その香椎の先陣の宮の陣屋の中で真っ暗になったと思ったら、気持ちの悪いことに山辺に鬼火がブワーッと走った。
「不吉だ」というので建内宿禰(たけのうちのすくね)という子分の人が慌てて火を点けたら仲哀さんは死んでいた。
アガサ・クリスティ。
これから戦闘だというのに頭領が死んじゃっているワケで。
ヤマトから送り込んだ仲哀が。
その香椎というところは「かしい」というぐらいだから椎の木がいっぱいあって、これで仲哀天皇を入れる棺桶を作る。
それで建内宿禰が(仲哀天皇が)死んだことを内緒にしていて棺桶を立てる。
仲哀を棺桶の中に納めて立てる。
それで子分を集めて後ろ側に建内宿禰が回り込んだのだろう。
「みな集まってくれてどうもありがとうね。ちょっと風邪ひいて声、変になっちゃってるけど、決行しようと思うんだ」という腹話術をやる。
それでまとめて戦闘を開始した、という。
それで、妊娠した奥さんがいる。
これがすごい。
臨月が近かったのだが「出るな」と言って石でふさいだというから。
神話。
それで鎧を着て熊襲(くまそ)はやっつけるわ、勢い余って船に乗っかって朝鮮半島に攻め込んで新羅をギャフンと言わせて帰って来て、それでお子さんを産んだ、という。
この海人のお姫様の名前が神功皇后(じんぐうこうごう)。
福岡あたりは今頃、声が上がっていると思う。
「出た!神功皇后!」という。
あそこの神社のことごとく祭神がこの神功皇后。
ここから神功伝説が始まるのだが。

『日本書紀』が「神功皇后は邪馬台国の時代の女傑」と明記している。(39頁)

福岡一体はことごとく神功皇后の伝説で神社は生きている。
福岡の方は神功皇后を知ってらっしゃる方が多い。

ハネムーンだったが、旦那さん(仲哀天皇)がそこで死んじゃったという。
(仲哀天皇が亡くなったのは何年も後のようなのでハネムーンではないと思われる)
神功皇后はその後、北部九州を平定して、持てる力で朝鮮半島まで出撃して、朝鮮半島の新羅をやっつけて戻って来て、そこでやっとお子さんを出産なさる。
この産んだお子さんが応神天皇。
十五代天皇になる。
その時に川にへその緒か臍帯を箱に入れて神功皇后が流したらしい。
その箱が流れ着いたところが博多の川の下流、海の近くで、そこにできた神社が筥崎宮(はこざきぐう)。
この時におそらく神功皇后に力を貸したであろう海人族。
海に強い一族が宗像海人。
宗像の一帯の海人族で、彼らはこの神功皇后との繋がりから天照大神の娘の三姉妹が主祭神になった。
全部神功から始まっていく。
神功伝説というのは筑豊にもいっぱいある。
ヤマト代表の仲哀と海人の女性である神功。
その海と陸との血を引く天皇ということで応神天皇が決定していくという。
これは神功皇后の冒険旅行はここでも終わらなくて、ヤマトに行こうとするのだが、ヤマトで百済系の官僚から裏切りにあって、何回もピンチに遭っている。
それをやっつけながらヤマトへたどり着くという。
大阪の住吉神社の主祭神は神功天皇。
それからヤマトに帰ろうかどうかというのをこの神功皇后が占う。
「魚が釣れたらヤマトに帰ろう」とかという占いの仕方をやる。
釣れた時の魚が「鮎」。
だから魚偏に「占」。
この一文字の起こりは神功皇后。
「鮎」は中国では違う漢字を充てる(「香魚」)が、日本ではこの故事になぞらえて鮎は「神功皇后が釣り上げた魚」ということで。
そしてこの人(関裕二さん)はすごいことを言う。
この神功皇后というのが日本史に出てくる台与(とよ)、卑弥呼が死んだ後に女王国のまとめ役として出てくる女霊媒師の名前を台与と。
この台与が本当は神功皇后じゃないか?
「トヨ」というぐらいだから豊玉姫系。
だから南部九州の名前。

邪馬台国を潰した神功皇后(台与)は、「親魏倭王を殺した」と、魏に報告できないために(ヤマト政権が魏を敵に回すことになる)「台与(神功皇后)は卑弥呼の宗女(一族の女)」と魏に報告し、邪馬台国の王に立った。(72頁)

この台与という南九州系の女王の血を引くこの人は「奴国の印鑑とか持ってたんじゃないか」とこの人が、そういうことをおっしゃっているのだが、これもなるほどと頷ける武田先生。

ちょっと耳に挟んだ話。
福岡でものすごく有名な神社で宗像神社がある。
その宗像神社と、すぐ近くに宮地嶽(みやじだけ)神社というのがある。
そこが台与に味方しなかった神社で、台与に力を貸したのが宗像神社じゃないかという説があって。
この宮地嶽神社というのは、この間博多に帰った時にお礼に行った。
何でかと言うと宮地嶽神社にお参りして「私も年、取ったんですが新しいキャラクターでもありましたら、ぜひ仕事でください」と言ってお祈りをした。
珍しく神頼み。
何か月後かに「水戸黄門やりませんか?」と来たものだから。
それで水戸黄門の話が来て。
今年(2019年)コロッケと一緒に博多座でかけた演目が水戸黄門だったのでお礼参りに行った。
今年もまたお祈りしてきたのだが、何かそういう不思議なエネルギーのこもったところで。
この宗像神社と宮地嶽神社はオススメする。
でも何でこれを熱心に話すかというと、両方ともに今、話した神功皇后が一枚絡んでいる両神社。
香椎も箱崎も。
そうやって考えると胸がときめく武田先生。

神功皇后というのは日本史の中では当然のごとくだが「作り話だ」というふうにして否定されている。
やっぱり戦前の皇国史観というのが大きな戦争を起こしたせいで日本神話というのは学者さんたちから軽蔑をされて嘘ということになっているのだが。
福岡を歩くと「何かあった」ということはわかる。
関連する神社が多すぎる。
今は世田谷に住んでいる武田先生。
世田谷神社の一角にもこの神功皇后のお宮さんがある。
これは何であるのかやっとわかった。
神功皇后は戦いの神様なので、かつて軍人さんがいた住宅地には神功皇后がいる。
その神功皇后の一番の子分が建内宿禰という。
神話では爺さん。
ところが遠い昔、美輪明宏さんから武田先生のルーツは建内宿禰と言われた。
美輪さんが何を見てそうおっしゃったのかはわからない。
「あなたの元型、大元は建内宿禰だ」という。
「だからアナタは困ったりなんかすると、必ず女性の背中に隠れるでしょ?」
つまり女の人の背中の方に回り込んで、その人の後ろに立つことによって危機を乗り切る、という。
建内宿禰はそう。
すごく優秀な人らしいのだが、主役は神功皇后。
武田先生も困ったらおっかさんの歌を作ったりしているので。

母に捧げるバラード (Live)



「女の人を押し立てると自分に運が向いてくる」という。
「そういう運命をアナタは生きるのですよ」と言われた。
美輪さんにとんでもない質問で「死んだら坂本龍馬に会えますか?」と聞いた。
そうしたら美輪さんは静かに笑って「会えるも何も同じよ」という謎の言葉を。
坂本も建内宿禰系からやってきた人らしい。
だから元型みたいなのは同じで。
そういう不思議なことを言われたので、そこから建内宿禰というのは忘れられなくなった。

建内宿禰みたいな人を「審神者(さにわ)」という。
「審神者」というのは女祈祷師がいて、何か祈っている時に、横からガードしながらその人が口からこぼす予言を拾い集める人。
何で「さにわ」と言うかというと「にわ」はそういう場所だった。
今、おうちに庭がある。
その庭は「神様にお祈りをする場所」という。
「庭」というのは元々そういう「祈り事をするところ」のことを言うらしい。

とにかく日本書紀において、神功皇后はたちまち新羅を平伏させて金銀宝を持ち帰った。
すごいことに海の鯨までが神功皇后に従ったという伝説があるので、いわゆる海に関する力を神功皇后は持っていたのだろう。
遠征で帰ってきた神功皇后。
慌てふためいたのは百済系の人たち。
百済系のロビイストの人たちが慌てふためいた。
そういうのを神功皇后が全部殺した。
そして応神天皇を真ん中に置いて二重外交はそのまま続き、連合ヤマトを含めて各地の豪族も身分を保たれたまま天皇家の力はゆっくり増していった。
これが墓の形である前方後円墳を日本中に広めた応神のいわゆるゆるやかな「和」、ハーモニーを大事にした政治のおかげではなかったか?という。

著者関裕二さんと武田先生の仮説も混ぜている。
関さんの説は朝鮮半島の弱小国である百済に外交で牛耳られていたヤマト連合。
ヤマト連合とは出雲、淡路、但馬、越の国、吉備など。
それと九州南部の阿多(あた)、薩摩の隼人。
そして日向の宇土族。
これが連合に加わって。
それで北部九州の邪馬台国連合は打倒された。
だが、邪馬台国連合をヤマト連合が吸収することになって日本は天皇を議長にした緩やかな連合国家として出発する。
このへんが古代史の謎を解くカギになるのではなかろうか?というふうに言っている。

武田先生がこの関さんの説で一番驚いたのは崇神天皇の時に天然痘の大流行があって、ヤマトの国民の多くを失ったという悔いが、血を混えて天然痘に対抗しようとするアイデアを生んだ、という。
この発想が面白くて仕方がない。

連合ヤマト。
様々な国が応神という十五代の天皇の緩やかな豪族を圧迫しない二重外交。
問題がありつつも認められるというのが、日本を平和にまとめていたという。
磐井の反乱という、これから語らねばならないことはどういうことかというと、この二重外交がだんだんうまくいかなくなって磐井が反乱を起こしたということ。
この磐井の乱の前までを話したのだが、一番興味深かったのは十代崇神天皇。
この人がヤマトで天然痘が、疫病が大流行して、神様に縋り付いて「解決策を教えてください」と言ったら南の方から天皇家に別の血を入れなさい、と。
それで神武という宗教上の青年を招いて天皇家の初代とし、崇神が初めてなのにその前にさも十代あるがごとく足した。
それで天皇家に祓い清めの力を見つけた。
人々も天皇家が持っている流行病、天然痘に罹らない不思議な血の力を祓い清めの力として認めた。
それが証拠に日本の夏祭りはこの祓い清め。
京都もそうだし祇園祭もそう。
鉾を持って。
あれは病を断ち切っている。
それから博多祇園祭。
山笠。
あれもいわゆる水を撒きながら清める。
そして東北の夏のお祭りも疫病退散。
これが十代崇神から始まったのではないか?
その祓い清めのエネルギーを持っていたのは阿多隼人(あたのはやと)という九州南部の一族たちのパワー、祓いのパワー。
それが天皇家に宿ることにおいて豪族の中でも、とある権威になっていくという。

磐井の乱の起きた時代、朝鮮半島では高句麗が南下し、ところてん式に百済が南に押し出され、伽耶諸国を蹂躙しようとしていたのだ。(97頁)

新羅は押し返す。

白村江の戦いは、百済の救援要請に応じた倭国軍が唐と新羅の連合軍と戦い、木っ端微塵に打ち砕かれ、百済は消滅した。(33頁)

そして唐が攻めてくることを怯える。
それで大宰府の地に水城というお城、防衛ラインを築いて、それでいくつも防衛策を打っておいて。
ところが唐が攻めてこない。
防御ラインをいっぱい作ったのに。
それで日本は唐に対してどうしたか?
仲良くした。
「唐が攻めてくる」といってお城を築いておいて、その片一方で「勉強したいんで勉強させてください」と言いながら遣唐使を送る。
それで唐も無視しない。
これは何でか?
これはまたこの間、現地で聞いて面白かった。
逆に向こうは日本を利用しようとした。
唐から持ちかけられたのは「力合わせて新羅やっつけない?」と言われた。
「新羅滅ぼしちゃおう」と。
言っているうちに高句麗がだんだん力を持ってくるので、日本は静観の立場で持っていた加羅等々の国家を手放してしまう。
でもこれでまだ終わらない。
すごいのは日本の歴代天皇に「もう一回朝鮮半島行きましょう」と誘い続ける人々がいた。
これが百済系の人たち。
百済系の人たちはもう天皇家もお認めになっているが、天皇家に女性が入ったりして、皇統と血が。
この百済系の人たちが日本国籍をとって、何っていう一族になったか?
その百済系の人々の日本姓が「藤原」。
そうすると平安時代がどういう時代だったか?
天皇家に巻き付く藤の花のごとく藤原氏が。
日本中で声が「うわぁぁ〜だからか〜!」という。
驚いていないのは水谷譲だけ。
ここらあたりの面白さ。
神功皇后。
そして百済系の人々が日本の貴族として生きていく。
彼らが呼び寄せた時代が平安時代。
日本史は面白い。
今、朝鮮半島ともなかなかうまくいっていないが、歴史というのはかくのごとく続くワケで、現代の何か足しになればと思いながら語っている『(今朝の)三枚おろし』。
驚いていないのは水谷譲だけ。


posted by ひと at 21:38| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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