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2020年08月13日

2019年9月30〜10月11日◆磐井の乱(後編)

これの続きです。

古代史を話している。
皆さま方も「古代史」と言われてピンとこないだろうし、興味もないだろうが。
でも武田先生は好き。
自分の生まれたところが北部九州。
九州の福岡県というところで。
そこには古代の匂いがするエリアポイントがあって。
水城とか大野城がある。
春日原(かすがばる)とか白木原(しらきばる)とか。
そういう地名の中を青年期まで生きていた。
武田先生が生まれた町の名前は雑餉隈。
これは大宰府王朝に仕える小間使いの雑掌(ざっしょう)の人たちがたくさん住んでいたとか。
そういう、いわゆる古代がかった地名。
そういうところで自分が生まれた。
大野城というのも、ものすごい歴史的な遺産が残っていて。
野城。
そこの大野城という丘の上てっぺんに行くと真っ黒な米粒が見つかる。
それは千年の時を隔てた米蔵の跡。
それは何のためにかというと朝鮮半島から朝鮮の国が攻めて来る。
その時に大宰府王朝を目指して来るだろうから水城、丘の上にプールを作っておいて下から来たら上から水を落とす。
基山という山があって、そこと大野城を結んで、二つのポイントに兵隊を置いておいて、朝鮮半島を渡って来た敵兵に向かって矢を射かけたり石を投げつけたりする基地を山のてっぺんに。
つまり今で言う尖閣の最前線が福岡市にはいっぱいあった。
武田先生はそういうところで大きくなったものだから「古代史」と聞くとその風景が蘇ってくる。

百済の人がいて、日本のヤマト朝廷に潜り込んで。
「潜り込む」という表現はよくないかもしれないが、ロビイストとして朝鮮半島の人たちの意見を彼らに伝える。
その意見が正し時とひどく間違った時があるのだが。
とにかく百済という国が「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」。
663年だが。
これで百済が消えてなくなって。
難民というか百済を失くした朝鮮半島の人たちを日本に安全のために亡命させる。
彼らのために大和朝廷は近江の地を与えたりしている。
その中でも百済王族でプライドの高い人は「何とかもう一度朝鮮の地に帰りたい」と思う人がいて、強力な政治家にヤマト朝廷の元でなっていく。
この関さんの説の中ですごく面白いのは、正しいかどうかはわからないが。
そう考えると武田先生にとっては日本史がすごくわかりやすい。
親日の朝鮮人が叩きだされた。
今もそう。
「親日の人は出ていけ」とか。
日本に協力した人、そういう企業は「親日企業」という「ブラックレッテルを貼るぞ」とかという「ウェノム嫌い」「倭人嫌い」はもう二千年前から持ってらっしゃる。
だからそういうところでやっつけられた百済。
日本に協力したばかりに、日本を誘い込んだばかりに。
それを我が連合ヤマトは全部引き受けて亡命させている。
その百済系の亡命人の中に日本名に変えた人たちがいて、それが中臣鎌足ではいかと。
百済人ではないか?と。
この人の献策で新羅が攻めてくるかも知れないので、対馬、壱岐、筑紫。
これは武田先生が生まれた町。
そこらあたりに防人を置いて、防衛体制をとろう、と。
ところが本当に国際政治はわからない。
新羅と一緒に唐が攻めて来るとあれほど怯えていたのだが、その唐と新羅が不仲になってしまう。
戦争を開始する。
高句麗、北朝鮮も不仲になって戦闘状態に入ってしまう。

筑紫国造、磐井が反乱を起こしたという。
その磐井の乱から時は流れてこれから話すところは662年以降。
磐井の乱からいつの間にか半島問題に巻き込まれた日本。
連合ヤマトは唐、新羅を相手に白村江の戦いを経て、大敗北を喫する。
それで百済が滅亡する。
その百済の王族たちを日本に保護した。
いわゆる百済系の王族たち。
彼らは朝鮮の人なのだが、やがて日本名を名乗り始めて大和朝廷の政治に絡んでいったのではないか?

『日本書紀』は、中臣鎌足の父母の名をまったく掲げていない。古代史最大の英雄で、『日本書紀』編纂時の権力者・藤原不比等の父が中臣鎌足なのに、なぜ藤原氏の素姓が定かでなはないのか。ボウフラが湧くように、無位無冠の中臣鎌足が忽然と歴史に登場し、有力な皇位継承候補の中大兄皇子と、まるで同等であるかのように振る舞い、蘇我入鹿暗殺現場では、中大兄皇子が自ら蘇我入鹿に斬りつける中、背後で弓を持って高みの見物としゃれ込んでいる。(146頁)

とにかくこの鎌足というのはものすごいヤリ手。
汚れ仕事まで平気でやるという貴族。

筆者は中臣鎌足を百済王子・豊璋(余豊璋)とみる。(145頁)

百済のロビイストは連合ヤマト、ヤマト朝廷に潜り込んで様々な政治を操り始めたと言っている。
この鎌足あたりに反対したのが大伴氏だったり九州南部の隼人族、日向族の海人族。
彼らの天皇に対する忠誠心はものすごく激しい。
それで彼らが天皇という巫祝王、神様に向かって祈ることができる天皇の地位を独自のものにしていく。
本当に珍しいことで、日本は「強い王様」を望まない。
天皇そのものが強健であることは望まない。
ただ巫祝王、祈る王様として豪族をまとめてゆくというのが日本人が、日本が求めた天皇像。
祭祀王の天皇と豪族たちの合議によって政治を回していくという統治システムが古代から日本では適していたし、それがうまくいっていたのだろう。

『日本書紀』に従えば、磐井の子の葛子が糟屋屯倉を献上しただけで、許されたとあり、実際考古学者も、筑紫君らの眠る八女古墳群は岩戸山古墳ののちも継続したことをあきらかにしている。(173頁)

というのは、あんまり徹底してやっつけちゃうと恨みが残って反抗が続く、という。
聖徳太子が言った「和を以て尊しとする」という。
磐井の子らも徹底して滅ぼされなかったということで、連合ヤマトに組み込まれていったという。
日本はまとまりを作り始める。

蘇我氏は8世紀に没落する。
中臣鎌足は中大兄皇子に取り入って中臣という役職名で鎌足が語っていたが、中大兄皇子と仲良くなって名前を変える。
何という名前に変えたか?
藤原姓に変える。
「藤原鎌足」になる。
つまりここからあの藤原氏が始まる。
藤原氏というのは貴族の中で最高の力を持った貴族。
この藤原鎌足が大化の改新から律令国家づくりまで全部やる。
海外の知識を豊富に藤原鎌足は持っていたのだろう。
だから唐のマネをするという律令国家づくりなんかを始めるという。
そのあたり、関さんが「この人の国際感覚は日本人じゃない」という。
そして例の藤原時代を築く。
武田先生の(会社の)社長の名前は「伊藤」と言うが、これは「藤」が付く字は全部藤原氏から来ている。
「伊勢にいた藤原の一族」というので「伊藤」。
「藤原氏を助けた」というので「佐藤」。

今語っているのはどのあたりかと言うと、中大兄皇子即位だから668年ぐらいまで来た。
白村江の戦いから5年ぐらい経ったぐらいか。
そのへんを語っている。
中大兄皇子の子分となった中臣鎌足。
百済からやってきた豊璋という百済の王子様だったのではないか?
そして日本を百済化して、百済人の住みやすいような日本に。
海外のことは詳しいから「乗っ取っちゃおう」。
それで貴族の中で「藤原」という姓を唱えて藤原文化を作る。
この「藤」を選んだところがまた見事。
(野生の藤は)気持ち悪い。
一本の木があったら巻き付く。
その巻き付き方がアマゾンの大蛇みたいな。
幹に喰い込む。
それで木の養分を吸い尽くすというから。
ずばり言うと、藤原鎌足が夢見たのは、天皇家に絡みつく藤の花。
こうやって考えると面白い。
そして自分たちの半島ではできなかった国家づくりを鎌足は始める。
それは藤原一族の栄華。
そして自分たちが住みやすいように大化の改新を起こし、律令国家をつくる。
そして次にやったことが、これがすごい。
朝廷にいた他の豪族たちを追いやる。
藤原鎌足が中大兄大氏、天智天皇に絡みつくことによって奈良から追放した豪族。
蘇我氏を東北へ追いやる。
そして安倍氏。
天皇家に一生懸命仕えた日本の豪族。
これも東北にやられてしまう。
今、総理をやってらっしゃる安倍さんの先祖。
元々ヤマトだったのだが藤原氏に追われて東北へ追いやられた。
そしてこの藤原氏がやったことは蝦夷地征伐。
蝦夷を攻めると言って、東よりの豪族を抑え込む。
それから西の方も全部やられてしまう。
北部九州の筑紫とか奴国とか。
そういうのも全部この藤原氏によってペッタンコにされる。
ところがこの藤原氏の登場によって地方へ追いやられた豪族が心の中で「いつかやっけてやる藤原!」。
これが日本史の原形。
日本史はいつも中央政府があると遠い東か西の別勢力が上って来て天下を獲る。
そのことによって日本史は対流が起きる。
その対流の一番最初のエネルギーは「藤原氏憎し」。

そしてここからが、あれほど巻き付かれながらよく頑張ったと思うが。
藤原氏は娘が生まれると天皇家に入れて、自分たちの血を濃くする。
ところが藤原氏に巫祝王としての天皇は絶対にその座を乗っ取られることはなかった。
そして巫祝王として霊性、スピリチュアルな力を持っていた。
どうしても百済人たちが朝廷を牛耳られなかった。
それは彼らが仏教を操るために教え込もうとしたのだが、天皇は言うことを聞かない。
そして「神仏習合」という日本だけの仏教に切り替えてしまう。
どういうことかと言うと、日本に昔からいた神様が修行にインドまで行って、帰ってきたのが菩薩様とか、どんどん日本風に意訳してしまう。
仏教と神道を合体させる。
仏教は仏教でもこれは「日本教」としか言いようがない。
そのことによって天皇家のみの効力、能力、霊力を天皇家は胸に秘めた。
祟りの神を抑える呪能、能力というのは天皇家の帝しかない。
これは関さんが別の本で、藤原氏もどこかで天皇家を舐めていた。
祈りで何かを動かすという力なんか信じていなかっただろうが、天皇に「ああしましょう」「こうしましょう」といろいろ注文をつけていくうちに、藤原氏の息子四人同時に全員死んでしまうという事件が起きる。
天然痘。
それから藤原氏がやろうとして誰かが邪魔をする。
そいつを左遷する。
菅原道真とかというヤツがいて、藤原氏の言うことを聞かない。
「あ、もういいよ。大宰府行っちゃえ」と言って大宰府にやらせてしまう。
そうしたら疫病が流行る。
それで天皇が「道真、もう怒らないで」と言うまで疫病が殺していく。
それぐらい恐ろしいし、これを祓う力を持っているのは天皇しかいない。

天皇家が神仏習合で仏教と神道を合体させ「日本教」とでもいうべき新しい宗教形態を作ったというのは武田先生の説だろう。
歴史の読み方についてだが、関さんの説が今までくすぶっていたものに再び「焼けぼっくいに」というヤツなのだが、火が点いてしまって、面白くて仕方がない。
朝鮮とヤマト、あるいは邪馬台国との関係というのを昔、すごく興味を持って。
自分がそういう古代史の最前線、筑紫の国に生まれたから。
だが、フッと嫌になったのは、こういうことがあった。
平壌のすぐそばか何かに見つかった遺跡らしいのだが、好太王碑(こうたいおうひ)文というのか、モニュメントが建っていて、そこの「好太王」という高句麗の王様が、どのぐらい立派な人だったかというのを書いてある。
その中に平壌、4世紀391年に倭が攻め込んで、倭と好太王は戦って追い返した、というのが石文に書いてある。
ヤマトが、倭が、それこそウェノムを押し返した。
この石文に関する解釈で、韓国の学者(李進熙)が「倭というのは391年に日本列島から兵隊を集め、船で平壌まで攻め込む兵力を持っていたのか?どう考えてもそんな力は日本にあるはずがない」と疑った。
それで「この碑文は日本人が勝手に捏造したんだ」と。
391年に日本にそんな力があるワケがない。
日本が平壌まで来る力があるハズがない。
これは日本の軍部が戦前、朝鮮に来た時にカンカンカンカーン!と刻んだ、という。
それが歴史的事実として、何十年か通っている。
学説として日本も採用していた。
それが最近になってやっと「それはおかしい」と言い始めた。
(実際にはかなり前から反論はあったようだ)
向こうの学者さんも「まあ無理かな」とかと言い始める。
つまりその手の「侮蔑語で日本を歴史的に見る」という足場があるから、この一つをとって考えてみても、この4世紀、391年。
九州とか例えば出雲から船を出して朝鮮半島、平壌まで行くのは無理かも知れないが、もしかしたら朝鮮半島の釜山のすぐ近くあたりに半島の中に日本という国を持っていたのではないか?
それは伽耶国とか倭館とか。
任那府とかと言われていた。
そこにある程度の軍隊がいた。
それが平壌まで行ったと思えば、そっちのほうが合理的。
それを向こうの方が「日本がこんなところにいるハズがない」という、そういう歴史の取り方ではダメなんじゃないかなぁと。

司馬遼太郎氏は古代史について4世紀、391年。
ヤマトが朝鮮半島の高句麗まで進出し、百済や新羅の国を次々と打ち破ったと記録されているが、それはおそらく事実であろう、と。
そして高句麗によって押し返された。
倭、ヤマトというのはそれぐらいの力を持っていたのではないだろうか?という。
その中に天皇家があったが、天皇家は力だけではない別種の力を持っていたのではないだろうか?ということをおっしゃっている。
それと関さんが縄文からの祈りの力を天皇家は巫祝王として持っていた。
パンデミック、巨大な疫病が流行した時、それを鎮める力を持っているのは日本には天皇しかいなかった。
そういわれるとすごく納得がいく。
京都の祇園祭も博多の博多祇園山笠も、そして小倉にある小倉祇園太鼓も、夏の疫病退治のためのお祭り。
そうやって考えると、その中心に疫病対策として天皇がいるということになると、関さんの説に武田先生が深く頷いたというのはご理解いただけようかなぁというふうに思う。

古代。
2、3世紀〜7世紀。
400年ぐらいを二週間で語っているので、ちょっととっ散らかったりして誠に申し訳ございません。
わかりにくかろうとも思う。
教科書通りのことではなく、こういうことを学校の歴史の時間に教えてくれればまた違うと思う水谷譲。
不思議なもので、教わった方は教科書通りじゃないところしか覚えていない。
この辺は全部寝ていた武田先生。
古田武彦という古代史の大先生がいて、その古田武彦という人は説として間違いであったということもこの人の中にあるのだが、この人の仮説というのが無茶苦茶面白い。
この関さんの今週オススメした『磐井の乱』というのも面白いのだが、一番最初に武田先生を虜にしたのは古田武彦という人で。

我々は国歌として『君が代』を歌う。
君が代というのも不思議な唄。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巖となりて 苔のむすまで
(君が代)

これは古今和歌集の「詠み人知らずの句」なのだが、我が君、君が代は、あなたの時代がいつまでも続きますように。
小さなさざれの石、砕けた石が固まって、大岩になって、コケが生え揃うまで永久(とわ)に続きますように。
よく考えてみると一種のお誕生日の歌。
「ずっとずっと長生きしてね」「ハッピバースデー、トゥーユー」みたいな歌。
日本はハッピーバースデーを国歌にしている。
「石」とか「苔むす」とか、こういうものに美を感じるところから縄文の匂いがする。
関さんの考え方の中ですごく納得したのは縄文人がいた、いわゆる「倭」。
倭がいた。

 渡来人がやってきて水田を造り、稲作をはじめ、あっという間に東に向かって侵略していったというイメージが強かったが、まったく違う図式が見えてきたのだ。先住の縄文人が、稲作を選択し、北部九州で本格的な水田が誕生していったのだ。(65頁)

だから弥生時代、縄文時代とアッサリ線は引けない、という。
一番最初に話したように「ふんどし文化」という、天皇家でさえも学校行事として遠泳の時は赤いふんどしを。
これはどう考えても縄文、海人文化。
これがやっぱり日本の文化の特徴ではないだろうか?
「日本」ということを考える時に、このあたりから古代史が解けていくといいなぁというふうに思ったりした。
この本(『磐井の乱』)をお書きになった関さんは百済系は半島を脱出したのち、藤原鎌足と名を変え、新興国家の新たなる豪族として藤原姓を起こして、天皇家にまるで藤の花のように絡みついた。
この藤原氏が最も恐れたのがパンデミック、大陸から伝わってくる疫病による一族の大量死であった。
4〜8世紀、パンデミックは一種の呪いとされた。
だから都を替えたりしている。
仏教文化を取り入れたのも、おそらくこの巨大なパンデミック、人口の半分が死んでしまうような極端な大流行が日本であったのではないだろうか?
その藤原氏はやがて、平安の世を築く。
このことによって地方の豪族の生き残りを触発し、やがては取って替わって「武士」という武家政治が。
平氏もそうだが鎌倉からバァン!と出てくるという。
この武家が政治を行ったというところから日本は独特の道を、という。
そのあたりが半島の人々と当初島に住む我々日本人は大きく分かれていったのではないだろうか?
アジアは一つで隣の国、韓国、あるいは朝鮮。
だから「我々は」とすぐにまとめない。
私達と朝鮮文化、あるいは韓国、あるいは朝鮮の人たちは、かくも違う文化を持っているんだという。
そういう自覚の中からうまくゆく方法が見つかるのではないだろうか?
似たところを探すよりも、違うところを見つけ合うことによって私たちは、もっといい関係が逆に見つかるような気もする。
そういう意味を込めてあえてお送りした『磐井の乱』。


posted by ひと at 21:51| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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