カテゴリ


2021年02月26日

2020年11月9〜20日◆コロナと共に(前編)

(公式サイトでネタ元として紹介されているのは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』の、現在は発売されていないらしい新装版ではない古い方の本)

新装版 アクティブ・マインド: 人間は動きのなかで考える (UPコレクション)



(上記の本からの引用も何か所かあるのだが、ネタ元として紹介されていない『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』から大量に引用されている)

「間合い」とは何か: 二人称的身体論



(因みに、このブログでは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』はページ数などをネタ元で紹介されている新装版ではない方に従った。二冊の本からの引用が登場するので引用箇所はページ数と共に『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』は「アクティブ・マインド」、『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』は「「間合い」とは何か」と表記しておく)

本当ならば「ウィズ(with)コロナ」というのだろうが、武田先生はこの「ウィズ・コロナ」をいろんな方が東京都知事も含めておっしゃるが、耳で「水コロナ」に聞こえる。
何か本当にイボを治療する時の塗り薬みたいな・・・というような響きで聞こえるものだから、敢えて「日本語で語った方が」という。
とにかくコロナという疫病、流行り病と共にこれからは生きて行かねば、ということで、一年ぐらいコロナのことを何かにつけて語ってみようかなと、そんなふうに企画したワケで。

本屋さんに行くと、コロナと共によく本棚に並んでいるのがAI。
その関係が凄い。
AIとはよくわからないがとにかく「人工知能」。
膨大な情報を持つコンピューターがどんどん知識を膨らませて、やがては人類を支配するのではないか?というような予言の書が結構並んでいるのだが、武田先生が手にした本は『アクティブ・マインド』という本で、その本を読みながら凄く考えた。
それをコロナのこの時代と重ね合わせると、どんなことが言えるのかな?というのが今週、来週に渡って語る「コロナと共に」。
まずは『アクティブ・マインド』という本の中から行ってみる。
序章によれば、一体、AIがいっぱい持っているという「知識」とは何であろうか?

「頭のいい人」というのは、頭の中に豊富な「知識」を持っている人のことだ、という考え方もどこか捨てがたい。−中略−
 ところが、
−中略−私たちが日常生活でいろいろなことが「理知的(intelligent)に」できるようになっていることの背後にあるのは、そのほとんどが、−中略−Knowing How(本章では〈やり方・知〉と呼ぶことにしよう)であって、それはさまざまな命題や規則の知識を所有しているKnowing That(〈事柄・知〉と呼ぶことにする)とは根本的に異なっているのだとした。(アクティブ・マインド 2〜3頁)

クイズ番組に最近、東大の(学生が)よく出てくる。
おじいさんだから「勉強しろ!この野郎!」と言いたくなる時がある。
「(クイズ番組に出ている東大生は)めちゃめちゃ頭がいい」と思う水谷譲。
そこをちょっと考えよう。
彼らは頭がいい。
だが、ここではっきりさせなければならないのは、「Knowing」「知識」「頭がいい」とはどういうことなのか?
とりあえずその頭の良さをAIに託してみよう。
AIは頭が抜群にいい。
それは認める。
クイズ番組に東大生が出てくる。
どんなにあがいても、あのAIには勝てない。
AIは知識量が膨大すぎる。
ということは「頭のよさ」はその程度のこと。
そのAIが全く役に立たない場面は何か?
テレビ番組で考えてもわかる。
東大生「AI的頭の良さを持っている人間」が活躍するのは番組としてはクイズ番組。
だが、テレビ番組はクイズ番組だけではない。
報道番組もあれば、ドラマもある。
バラエティもある。
決定的に東大の人はスポーツ中継には役に立たない。
プロ野球に行ってバッターボックスに立って頭の良さでヒットが打てるワケではない。
ということは、その手の頭の良さはスポーツでは全く役に立たないということ。
AIの持っている知識は。
これはなぜそうなるのかというと、スポーツには状況がある。
スポーツでは「正しい答え」ではなくて「適切な行動」が求められる。
三塁に同じチームのヤツがいれば、彼をホームに帰すことが適切な行動。
そんなふうにして、世の中は「正しい答え」というので正解を出すことと「適切な行動」というので答えを出すという、そういう世界もある。
一番大事なことは、世の中全体にとって適切に行動することが最も正しい答え。
野球でも今はAIが活躍していて「次の球種はこれじゃないか」という予想はいくつもしてくれるが、それを状況を見て選ぶのは人間。
つまり、今、コロナと共に求められているのは「状況の中で人間はどう行動しなければならないか」。
「頭のいい行動をとって欲しい」というのが「コロナと共に」の時代で、「正しい答え」はみんなテレビ番組に出てくるコメンテーターの病院の先生が言っている。
だが、五か月も六か月も同じことを言われると人間はくたびれてくる。
「正しい答え」というのは飽きてしまう。
「数が減って来た」と思って喜ぶ。
そうしたらワリとクールに「あ、今日は検査数が少なかったんです」。
わかっているが、とりあえず喜ぼう。
情報番組で人通りの多い通りを映す度に厳しい顔をした司会者が「かなりの油断が見られるようです」。
みんなマスクをしてそれなりに適切に行動している。
そのことを言おう。
誰かが言っていた。
「名言だな」と思ったが、秋の連休なんかがあった時に、100人中90人の人がちゃんとマスクをしている。
それはやっぱり「素晴らしいことなんだ」と。
10人を暗い顔で語らず、「90人はやってますよ」と伝えるのが報道ではないか?
本当にモノは言いようで「AI的モノの言い方」というのは、カチンとくる。
正しいから、なおさら腹が立つというのが人間にはある。

このコロナの時代、共に生きていく知恵をここで絞りましょう。

実は昨日から突然始めた「コロナと共に」は武田先生が前に話した「アフォーダンス研究」の一環。
アフォーダンス。
その環境と人間がどう折り合って行動していくかという心理学。
ご本家の(ジェームズ・J・)ギブソンという人。
この方が「アフォーダンス理論」を考えたのだが、この人が世界をどう見るかというと、「人間が考えて行動するのではない。人間は行動しているうちに考えるのだ」。

今度のコロナ騒動で男の人と女の人の違いがよくわかった。
男はちょっと「踊る阿呆に見る阿呆」みたいな阿呆なところがあって。
男は外に出たがる。
武田先生はいつも出ようとすると(奥様から)「どこウロウロするのよ!」。
だが、ウロウロしないと何も考えられない。
「あ、俺アフォーダンスだ」と思った。
女の人は考えてからウロウロする。
だが、男はウロウロしながら考えている。

それとシモ話になってしまうかもしれないが、つくづく思ったことなのでご報告しておく。
三日に一遍ぐらい(奥様が)「ゴミ箱のゴミを出せ」と凄い声で怒鳴る。
「ゴミ出して!ホラぁ!!!(怒」
それで自分のゴミを出すのだが。
男は自分が使ったチリ紙を必ずポケットに入れる。
チリ紙に限らず、ゴミなど「何でそれ出さないの?」ということがある水谷譲。
男はゴミを出すのはもちろんわかっている。
武田先生はティッシュを入れたまま忘れるクセがあるので洗濯のたびに「またぁ!」と怒られるのだが。
「何でか?」とコロナの時に考えたのだが、そこが男性と女性の心理の違い。
女の人は「決まった日に出す」。
男は「溜めてから出す」。
「一杯溜めてから出す」というのが男にとっては快感。
ゴミも山程溜めてから出したい。
何でもそう。
男はトイレに行くにしても、もう「あわや」というところまで一杯溜めてから行きたがる。
いちいち行かない。
習慣でそれはない。
そういう生理の違いがある。
そんなふうに思ってください。

J・ギブソンのアフォーダンス理論。
人間の心理学として大いに使える。
すごく面白いのは、この人間の行動の差異というのを民族まで拡大すると、またアフォーダンスが成立する。
日本人はお箸を自由に使うことが食事のマナー。
だから、日本人は食器を手にして箸を動かす。
日本人は旅館などに行って飯を喰う時、今度お出かけになったら確認してください。
宿屋の人がご飯を出して置いた時、日本人は食器の場所を変える。
かくのごとく「食器を入れ替える」ということに関して、日本人は平気だ。
マナー違反にはならない。
それは何かというと「箸を自在にふるえる」という。
基本的に日本人の食事の中で、さじ(スプーン)に対する「上から目線」。
スプーンは赤ちゃんに「食べにくいだろうからお箸じゃなくてスプーン、おさじにしましょう」。
赤ちゃんとお年寄り。
つまり箸が自由に使えない人に対しての補助食器としてのスプーン。
日本人はやっぱり箸一本でやりたがる。
そういうことが道具の種類を無闇に増やすという日本人の「工具の文化」に結びついているのではないか?
中華料理はフライパン一個。
あれは一個で作ってしまう。
ちゃんぽんも焼きそばもチャーハンも同じ鍋。
行きつけのちゃんぽん屋のオヤジがそれをやっていて、武田先生はそれを目の前で見たことがある。
だが、日本人は全部を変える。
いろんな種類の鍋やフライパンがある。
日本人の手工芸の最大の特徴は「道具をたくさん持っている」ということ。
このあたり「道具」対「人間」の関係が他の文化圏とは違うというところから話を突っ込む。

これは武田先生のノートに書いてあるのを今回は下敷きにしている。
これは『アクティブ・マインド―人間は動きのなかで考える』。
自分の考えと本に書いてあることを横糸・縦糸で織り込んでいるので、どこがどこまでとは今回はちょっと言い難い。
心というものは誠に不思議なもので、「心は一つである」なんていう、そういう言い方はできない。
だから心を一つにしている国家体制というのは非常に息苦しい。
やはり心はいろいろいっぱいあっていい。
構造からして心は複合体。
脳の中にいくつものエージェンシー群があり、ただ一つの意思に従って行為を為すものではなく、「ある行為」をすると「ある心」が動いていくという。
そういうものであるとJ・ギブソンは言っている。

 リーとアロンソンが「姿勢」の研究の対象としたのは、やっと歩きはじめた一三ヵ月から一六ヵ月齢の乳児である。乳児は、壁が床から切り離され、天井からつりさげられて、前後に容易に動く部屋に母親とともに入った。そして、彼らがちょうど壁の方を向いた時、実験者が乳児の視線の向かっている壁を奥の方向にわずかに押した。−中略−実際には部屋はAのように乳児から遠ざかるように動いた。−中略−八割以上の試行でどの乳児も前の傾く方向に「姿勢」を変化させた。乳児のからだは前方に揺れ、前のめりによろけ、前向きに転んだ。(アクティブ・マインド 97〜98頁)

自分が見ている前面が遠ざかっただけで「箱が前に進んでいる」と錯覚し、つんのめる。
時々駅で上り下りの列車が、その時に隣の列車が出発すると自分が前に進んでいるような気がする。
それと同じことが小さな子供では起きる。
つまり、自分が「進んでいる」「進んでいない」をジャッジしているのは「環境の変化」が「あ、俺は前に進んでる」という感覚をその人に与えている。
この辺が面白い。

ここからはアルトン・ベッカーが「自然について」というエッセーを書いている。
(アルトン・ベッカーの「翻訳を超えて──美学と言語記述」という論文の中で取り上げられているエマソンの『自然について』の一部)

 Crossing a bare common in snow puddles at twilight under a clouded sky,(アクティブ・マインド 200頁)

これは何が言いたいかというと「本を読むことの不思議さ」
水谷譲と武田先生の「読み」がちょっと違う。
水谷譲はよく言う。
アフォーダンス理論の本を読んでいて水谷譲は「武田さんが名言決めたんで、そんないいことが書いてあるんだと思って本を買って読んだら、そんなこと一行も書いてありませんよ」。
それは同じ本を読み方が違う。
その実験を今からやる。

以下の詩を読んでほしい。谷川俊太郎の「いるか」ということば遊びのうたの前半部分である。
  いるかいるか
  いないかいるか
  いないいないいるか
  いつならいるか
  よるならいるか
  またきてみるか
  一度読み終わったら、また読んでほしい。
−中略−さまざまな読み方をしてほしい。−中略−たとえば、「いるかいるか」を一字一字区切ってゆっくりと読むとそれは海のイルカを連想させる。しかし、「いるか」、「いるか」と全体を一単位として速く読むとそれは「居るか?」という音になる。−中略−しかし、どのように読むかによって作品の意味が異なって感じられることは明らかである。(アクティブ・マインド 242〜243頁)

「私(武田先生)には悪いクセがある。ラジオ番組の相手をしている加奈からよく指摘されるのだが、その本を読み、その本が感銘深ければ深いほど、私が最も感動したという文章、あるいは言葉が加奈が探すとその本のどこにもなくなることだ」
どこにも書いていないことを平気で「読んだ」という武田は一体何者なのか?というのは、明日。

武田先生が『(今朝の)三枚おろし』で本を取り上げておろすのだが、(水谷譲が)時々気に入った本があって本屋さんへ行ってその本を読むらしいのだが、武田先生がラジオで語った一番素敵な感銘深い一言が本のどこを探しても載っていない。
これを水谷譲から激しくなじられたことがある。
「全然一言もそんなこと書いてないじゃん!」と思うことがある水谷譲。
だが、武田先生は「書いてあった」と思って喋っている。
つまり武田先生は「行間を読んでいる」と思う水谷譲。
著者が書いてあることを読む人。
それから、著者が伝えようとしていることを推し量って読む人。

 第三の読みの姿勢は、作者を中心に置かない。作者は読者にとっては対話の相手の一人であるにすぎない。(アクティブ・マインド 256頁)

筆者・著者が書かなかったことを読んでしまうという読み方がある。
そこに書いていないのだが、書かれていないことを読んでしまったという読者が武田先生の中にいる。
武田先生の中の「本を読む人」の読み方。
ちゃんと著者が書いてあることを読んだつもりでいるが、武田先生の中の読み手が筆者・著者が「これが言いたかったんだ」というヤツ。
ある意味「演出をしている」ということ。
そういう本との対面の仕方、接し方をしている、という。
今、ものすごくわかりにくい時代で、番組の冒頭でも触れているが科学でコロナ対策をみんなが必死になって考えている。
だが、どこの番組に行ってもコメントがたいしてうまいことを言えなかったのだが「何かコロナの扱い方が違うのではないか?」という、「コロナに対して違う読みをする自分」を自分で励ましているところがある。
それで、本屋さんに行って本を探している。
コロナだけでは寂しいだろうからエボラ出血熱とかいろいろ読んだのだが三枚にはおろせなかった。
だが「コロナは何でこの時代、ここに来たんだろう?」というのが武田先生の謎。
「コロナがどんなウイルスで」とか関係ない。
「何で今来たんだ、オマエは?」というのがコロナに訊きたい。
だから、今大流行しているコロナ用語がある。
ソーシャルディスタンス。
「ソーシャルディスタンスって何だ?」と思う。
「ソーシャルダンス」だったら知っている。
「ソーシャルディスタンス」を日本語で言ってくれないか?
「ウィズ・コロナ」とかと言っても「水コロナ」に聞こえてしまって横文字だとわからない。
水谷譲は(ソーシャルディスタンスを)「社会的距離」「社会的間隔」と訳す。
今は1m。
一番最高時の時は児童遊園地などに貼ってあったのは2m。
「2m」と矢印が書いてある看板がある。
そこに若いのが二人立って向かい合った。
ソーシャルディスタンス2mを取っている。
アフォーダンス。
2mが持っている心理を刺激した2m。
刀を持って向かい合うサムライ。
あれが2m。
「ソーシャルディスタンス」を「間合い」と言えばいい。
「間合いを取ろう」だ。
「間合い」なんて日本人のお手のもの。
日本人は昔から間合いについては武道でさんざん稽古していた。
「それでは・・・間合いが遠い!」とか何とか言ったりなんかして。
『水戸黄門』から『雲霧仁左衛門』から、みんな「間合い」でやっていた。

あの頃映画 「雲霧仁左衛門」 [DVD]



そうすると「間合い」の研究をやればいい。
日本は間合いの名所がある。
日本で間合いの名所。

 外国人が東京にきて驚くことの一つは、渋谷駅前のスクランブル交差点だそうです。大勢の人が一斉に渡り出し、誰もぶつかることなく、実にスムーズに渡り終えます。−中略−渋谷のスクランブル交差点で皆が何気なくこなしていることは、まさに「間合いを形成する」行為に他なりません。(「間合い」とは何か 11頁)

「ソーシャルディスタンス」なんて、渋谷の交差点であんなに鍛えていたではないか?
このコロナの時代に、日本語に置き換えて「間合い」というもので、という。
「ソーシャルディスタンス」とは「間合い」のこと。
では、「間合い」を研究していこう。
コロナ前に社会心理学の本として出された本。

「間合い」とは何か: 二人称的身体論



様々な心理学の先生の論文を集めた本。
序章でこれをおまとめになられた諏訪(正樹)先生が日本人の暮らしの中にある「間合い」、この「間合いのセンスが独特である」ということを語ってらっしゃる。
「間合い」とは対人競技である武道、あるいは対戦競技である野球・サッカーなどに必要な技術である。
(間合いは)必要な技術だった。
別にコロナだからではなく「間合い」は必要。

 外国人が東京にきて驚くことの一つは、渋谷駅前のスクランブル交差点だそうです。大勢の人が一斉に渡り出し、誰もぶつかることなく、実にスムーズに渡り終えます。(「間合い」とは何か 11頁)

日本人はこのようにして「二人称の身体論」。
「私とあなたの距離感は今はこれでいいんだ」という、それを一瞬で決定するという風俗を持つという。
「交差点の雑踏を歩くのに身体論があるか?ちょっと大げさだな」と思われるかも知れないが、2020年からしきりに繰り返されるマナー用語「ソーシャルディスタンス」。
これも日本語に訳せば簡単で「失礼のない相手との距離を置くこと」。
二人称の身体論。
それを応用すればいいだけであって、コロナだからということではない。
間合いをこれほど好む人種はいないのだから。
曖昧な「ソーシャルディスタンス」よりも「間合い」という日本語のうちにコロナと共に生きて行く極意みたいなものがあるんじゃなかろうか?という。
外国の人が渋谷の交差点が不思議でしょうがない。
外国の人はうまくできない。
だからキャメラを持って撮影している。
と、いうことは何でぶつからないのか?
あそこを歩きながら、ぶつからない技術を発揮している。
その技術とは何か?

身体は、眼前に繰り広げられる思い思いの動きの兆候すべてを並列的に知覚し、それらを個々に感じ取るのではなく全体的に眺めた結果、「エネルギーのようなものの粗密場」を、そしてその移り変わりを感じ取っているのではないかと、私は思うのです。(「間合い」とは何か 14頁)

「エネルギーのようなもの」とは何を意味するのか?−中略−身体の大きな人や、大きな物体があなたに向かって猛然と進んできたら、あなたは圧力を感じるでしょう。(「間合い」とは何か 14頁)

そのエネルギーが「危険だな」と思った時、アナタは自然に避ける。
それが外国の人にはわからない。
我々は無意識にやっている。
その「無意識」が向こうの人には「技術」に見える。
日本人はその要領を言葉にはできないが、正面からやってくる全ての人に関してセンサーを巡らせ「スーツケースを引っ張ってるな」「顔つきがおかしい」「昨日遊んだな」と見抜きながら、その人のこっちに向かってくるエネルギー量を仕分けする。
赤から緑になった温度を測るヤツみたいに。
あれで危険を察知すると早目に避ける。
だから一直線に歩く人はいない。
外国の人は一直線に歩く。
歩く時に外国の人は正面だけを見る。
外国の人はそういう顔をしている。
何かやたらと彫りが深くて。
「Yes I can.Yes」
深々とした目で正面を見る。
正面を見れば見るほど周辺、周りを見る視覚が衰える。
日本人は真ん中を見ない。
周辺をぼんやり見ている。
視覚が広くなる。
人混みを歩く時、中央に焦点を持ってこない。
ぼんやりとルーズに眺める。
そのことによって危険なものを抽出し、「ソーシャルディスタンス」2m以内に入る前に避ける。
だからぶつからない。
もう一つ言えることは、スクランブル交差点で日本人は真っ直ぐ歩いていない。
どこかで蛇行している。
外国人は真っ直ぐ歩く。

どこにも焦点を合わさずに全体をぼわんと眺めていると、自然に、どこに疎の領域が存在するかを感じとることができ、そこに足が向き、結果的に軋轢を感じることなく、スイスイと気持ち良く泳ぎきることになるわけです。(「間合い」とは何か 25頁)

「しっかり正面を見る時」と「正面を見ない時」を区別していく。
これは面白い。
もう一つこの本の著者が言っているのは、日本人は対面する人々からのエネルギーのような圧力を探査する能力にあふれている。
これが「スクランブル交差点で日本人がぶつからない」という能力になっている。
この「間合い」の取り方というのがいろんなところに実はある。
その「間合い」の面白さ。


posted by ひと at 10:24| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: