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2021年02月26日

2020年11月9〜20日◆コロナと共に(後編)

これの続きです。

コロナと共に人間は生きねばならぬ、という。
若い世代の呼び方も「ロックダウン世代」と呼ぶようにしようなんてアイデアが上がっているワケで。
何かニューヨークのニュースとかロンドンのニュースとかを見ると状況が(日本と比べて)きつい。
日本は抑えている感じはする。
人と人とが接することを「face to face」とか「皮膚感覚」とか言われた言葉が全部消し飛んで「ソーシャルディスタンス」「間合いを取れ」という、そんな時代だから「ロックダウン世代」という言葉も響きは悪いが当たっていないこともないな、という。
先週お話したのは「ソーシャルディスタンス」そんな横文字はやめよう。
家にいることを「ステイホーム」なんて言わない。
「巣ごもり」の方が的確。
このコロナと共に生きる自体。
「ソーシャルディスタンス」のことを武田先生は「間合い」と呼ぼう、と。
しかもこの「間合い」に関しては人からお説教をされることはない。
日本人というのは間合いの民族。
あまり「民族」という言葉は好きではないが。
間合いの民族と言ってもいいぐらい間合いに関してはデリケートである。
お話したのは渋谷のスクランブル交差点。
四方方向から人が流れ混んできて誰一人ぶつからず全員がすれ違うという。
日体大の名物みたいなもの。



「エネルギー」という物理量は、−中略−質量×加速度×距離ということになります。(「間合い」とは何か 14頁)

これを一瞬でやる。
2m以内に入る前にやってしまって、2m入った段階でもう避けている。
目測、暗算で測りだす人が非常にたくさんいらっしゃる。
それから日本人の独特なのだが

物理には「位置エネルギー」という言葉があり、−中略−位置が高ければ高いほど、位置エネルギーは大きくなります。(「間合い」とは何か 15頁)

こういう「位置エネルギー」にも敏感で、高いところからものを言うと「上から抑えつけようとするエネルギー」を感じる。
それが言葉になったのが「あの人の言い方、なんか高飛車!」「アイツ、上から目線なんだよね」。
この視線にしても、ものの言い方にしても、すでに間合いを取って威圧のエネルギーを感じる。
こうやって考えると日本人は「間合い」というものを日常から感じつつ自分というものを守っている。

先週言っていたが生きて行くということは「正しい答えを見つけるのではない。適切な答えを見つける」それが「頭がいいということなんだ」と。
ここにたどり着きたかった。
重大なことは、ぶつからない間合いを感じ取る。
二人称的な間合いを直感で思いつく。
それが大事なんだ。

繰り返しになるが、合気道をやっている。
「俺は強いぞ」と威張っているのではない。
合気道がいろいろなことを教えてくれる。
合気道の基本は簡単。
足を右左互いに出して、右足を前に出したら右手を前に出す。
それで引いた左足を一歩前に踏み出して一回転する。
回転の妙で敵を避ける。
その時に合気道の指導者は言う「指先に力を入れるな。指先に力を入れずに指先に蚊が止まっても感じる能力を持ちなさい。身体感度を上げなさい。そのことがあなた自身を守る武道になります」。
だから、日本の武道は、西洋のスポーツと違って、相手に存分のエネルギーを発散させることを目標にする。
その相手のエネルギーを使う間合いで上手さがある。
故に日本の武道には「相手の不調につけこむ」というようなやり方を「卑怯」と言って喜ばない。
武道には「油断をさせる」「裏をかく」「欺く」そういう戦術用語はない。
そこに達人の境地がある。
相撲。
世界でただ一つの特徴は何か?
スタートを自分たちで決められる。
西洋のスポーツは全部ジャッジする人がいて、スタートの合図はそのジャッジマンがやる。
ホイッスルを吹き、ピストルを撃ち鳴らし、掛け声を掛けて。
日本は違う。
見ていて「難しいだろうな」と子供の頃から思っていた水谷譲。
立ち合い。
だから凄く面白いことは、気が合わないと開始にならない。
敵と気を合わせないのが西洋のスポーツ。
相撲は二人がしっかり同じ気持ちで立たないと成立しない。
ああいうのは面白い。
相撲は両方の足の裏が天井を向いたら負け。
体当たりでビョーン!と相手を向こう側に突き出す。
その両足の裏側が天井を向いていたら負け。
一瞬、瞬間。
だがそれを見抜く。
白鵬の時にあった。
白鵬が負けになった。
足の裏を見せると負けになる。
間合いというもの「立ち合いの間」。
それを大事にする日本のスポーツと言うか興行だが大相撲がある。
立ち合いの間が合わないと開始にならないという。
そのへんが「間合い」。

そして、二人で間合いを作るというものの重大なスポーツ。
これは西洋からやって来たワリには日本人が大好きで人気スポーツの一つ。
野球。
大事なのは間合い。
野球の本質とは何か?ということ。
これがラジオではちょっと説明しにくいのだが、野球の試合進行はというとピッチャーが構えて投げて、投げられた球をバッターボックスのバッターが打つ。
これが野球の攻守になる。
ここのどこに「間合い」があるか?
これは単純に言うと投手はバッター、打とうとする人の間を外すことが名投手。
ボールを曲げたり落としたり横にずらしたり。
バッターはというと、投げられたその球を間合いを読んで遠くへ打つ。

攻撃動作と投球動作はまるで同じ構造をしていることがおわかりいただけると思います。投手が打者側ではない足で立つことと、打者が後ろ足に体重を預けることは、ともに体内に位置エネルギーを溜め込む行為です。次に投手は打者側に踏み出し、着地しますが、一方、打者も投手側に踏み出し、着地します。−中略−着地するや否や、投手は上半身の回旋と腕の振り出しを行い、打者は上半身を回転させながらバットを振り出します。−中略−投球と打撃は、ほぼ同じ原理で成り立っているのです。(「間合い」とは何か 43頁)

これも一種「間合い」。

打者が、投手に比べて、フェーズが一つずつ遅れて開始されているという関係にあることがわかります。まるで輪唱のように、打者は投手の動きを追いかけるのです。(「間合い」とは何か 44頁)

「間合いのズレ」を楽しむのが野球。
こういうのはたまらなく面白い。
間合いを自分で合わせなければ始まらないという相撲。
これも間合い。
投手と打者。
これも打つ、投げる。
この間合いをどう外すか。
それが勝負になってくるという。

それから、芸能に於いてもそう。
演技で要求されるのは「間」。
お芝居をしていて「コイツとは間が合わないな」というのがある。
もう決定的。
名優というのは間が上手。
誰と言っているのではない。
ただ、その人のドラマのお芝居を見ていて「何かこの人は嫌だな」と。
何に「嫌かな」と反応しているかというと「間」が嫌。
一番手に負えないのが自分の間だけでやる人。
やりにくい。
共演者と間を合わせること。
『3年B組金八先生』をやっていて向こうは素人。

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それをもの凄い高い次元のシェイクスピアみたいな芝居を子供の前でやっても間合いが合わない。
「何かあったか?ん?」
下手にやる。
下手さ加減を合わせるところにお芝居の間がある。
だから誰かがもの凄く高い次元でバーン!と出るとみんな付き合わなくてはいけないので、現場はみんなくたびれてしまう。
出てくる人がまずセリフでものを言わない。
まず目でものを言う。
つまり、静かなシーンは静かにやればいいし、騒がしいシーンは騒がしくやればいい。
驚くシーンは驚けばいい。
その方が見やすい。
驚くシーンで驚かない人が時々いる。
「ん・・・ん?何か?」
「何か」じゃねぇよ。
「大変だ」って言ってきてるんだから「大変だ」って顔しろよ。
誰と言っているワケではないが、ドラマだって演劇だって舞台だって「間」。
二人称的身体。
自分を作って相手に見せるのではない。
相手と一緒に自分を作っていく。
どんどん広がる。
ウィズ・コロナの時代。

ソーシャルディスタンスではない「間合い」。
日本の暮らしの中とか文化の中にある、人と人との「間」。
演劇にもあればスポーツにもあるというその「間」「間合い」を三枚におろしている。

例えば「間合い」。
日常会話に於いてもやはり「間合い」。
坂井田瑠衣さんという方がお書きになっているが。
会話に於いて最も重大なのが実は間合いなのである。

 日常会話を、「相手にかかわろうとするエネルギー」−中略−をさまざまなやり方で醸し出し合うことで、互いにとって心地よい間合いを絶えず形成し続けるプロセスである、と捉えてみましょう。(「間合い」とは何か 56頁)

共感とは、相手が見ている事物を相手の立場から捉え、相手が醸し出す訴えを感じ取ろうとすることだといいます。これが、「二人称的かかわり」です。(「間合い」とは何か 68〜69頁)

自分の主張を相手に渡すことではない。
「語りたいけれども上手く語れない」語りにくさへの共感。
言いたいことは何かというと「オマエが喋って私が聞いてる」というポジションではない。
「これ、何て言えばいいのかな?」「そうそうそうそうそう・・・そういうことを語る時、難しいんだよね」という、共感が生まれた時、会話は成立するという。
今度のコロナ報道が一番わかりやすかったのだが、事実を暗く語る方と、その事実の中から「語りにくさを語る」というアナウンサーの人がいた。
これも誰とは言わないが。
その人の声を聞くとほっとする。
それは局アナの人が「こう語りたいんですけども、語りにくいんですよね」という。
マスクをしている群衆がいる。
それに向かって「何人かしてない人もいますね。やっぱり気の緩みか」と責めるテレビ局の中で「たくさんの方が守ってらっしゃいます。お互いに注意したいですね」という、その語りにくそうに語るのを見ていて感じる時、もの凄くその人に共感する。
そして、会話に於いてその会話が順調にいっているなと思うのが、漫才でもそうだが

 会話には、ターンテイキング(順番交替)と呼ばれるシステムが働いています。(「間合い」とは何か 79頁)

それも「間合い」。
今は水谷譲は聞くのに忙しくて声にあまり出さないが、いわゆる「聞いている」というのを全身で表す。

会話の聞き手は、受動的に情報を受信するだけの存在ではなく、話し手の発話を受け止め、さまざまな反応を返す、という重要な役割を担っています。−中略−聞き手は相槌を打ったり、話し手に視線を向けたりします。話し手は、聞き手のそうしたふるまいの裏に、「あなたの話を聞いていますよ」というエネルギーを感じることで、スムーズに話し続けることができるというわけです。(「間合い」とは何か 57頁)

水谷譲も喋る時に、たえず自分がこう言った時に頷く聴取者の人の声が聞こえるがごとく語れた時にレジェンド女子アナになれる。
入社した時に「相手の間を絶対壊しちゃいけない」と言われた水谷譲。
その時は「『間』ってどういうものかな?」とずっと思っていた。
何でもそうだが「はい」という返事でさえも余りにも過剰だと侮辱。
誰とは言わないが、やたら相槌を打つ人がいる。
「ハイハイ。ハイハイハイハイ」
昭和のいる・こいるさんみたいに。

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つまり「はい」という返事でさえも「聞いてない」というふうな返事の仕方がある。
間合いがよくて思わず聞き惚れるというお手本がやはり「寅さん」など。
さくらと寅さんがラストでしみじみ「お兄ちゃん」「え?」という。

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あの時に日本人は心を広げて二人の会話を聞く。
それは聞いている人をあの名優二人が十分に察しながら語るから。
それからもう一つ。
いつも感心するが作品にもよるかも知れないが『となりのトトロ』に於ける宮崎アニメの会話の静けさ。

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あれはいい。
お父さんとお母さんの物言いを絶対に急がせない。
サツキとメイは子供だからテンポアップするのだが。
(サツキ)「何かお父さん、家の中で動いた」
(お父さん)「え?何が動いたのかなぁ?」
確かにどれを見てもお父さん、お母さんはすごく穏やかで静か。
あそこには日本人が最も好む会話の間合いがある。
それが映像、アニメになっても日本人は凄くそこから情感を感じてしまう。
このことを踏まえておいて「コロナと共に」の時代、人と話すスピードと間合いを考えましょう。

「喋り方の間合い」というのでコロナが教えてくれたというか、そういうものがあった。
街で見かけた風景で「コイツの喋り方は『コロナと共にの時代』まずいな」という喋り方がパッとわかるようになる。
それは何かというと、無我夢中で話している若い人の喋り方を見ると「危なぇな」と思う。
イラッとする。
感染のことをすっかり忘れて二人称的間合いを忘れて、自分の興奮だけを夢中。
「あっ!俺!ヤバくてさ!バァッ!」とかと言うと「考えろよ」とかという・・・
それがやっぱり我々にコロナが遠回しに教えていることなのではないかな、と。
接触の間合いというのはやはり学ばないとダメなのではないか?
この時代、知恵を絞る、その絞り方を探って行きたいというふうに思う。

一人でも間合いがある。

居心地というものごとも、実は、空間を構成する様々なモノとの間につくり出す「間合い」の結果であるということを論じたいと思います。(「間合い」とは何か 138頁)

例えば喫茶店に入り居心地のいい席に座る。
居心地のいい、その席はどんな席かというと右手の席が空いており、長いテーブルの先、ガラス窓があって遠くの景色が見える。
武田先生たちはスタジオで今、お送りしているが、今日は豊かなスタジオで、広いところを使わせてもらっているが、そんなふうになっている。
この時に何となく居心地がいい。

視線が外に抜けることで、内側の空間にいながらにして、閉鎖的な鬱屈感が軽減されます。(「間合い」とは何か 138頁)

今、このスタジオもそうだが、武田先生と水谷譲の間にはアクリル板、シールドがある。
「シールド」と言うと『スター・ウォーズ』を思い出して仕方がない。

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (通常版) (字幕版)



そのシールドがあって、お互いツバがかからない2m近い距離がある。
だが居心地がいい。
この「居心地がいい」というのは一人ではない。
この「モノに囲まれている」「他のモノに囲まれて私は居心地がいい」と感じている。
理想を言うと水谷譲と武田先生は向かい合っている。
お互いにシールドがあって、目を逸らすと遠くの浜松町の街が見下ろせる。
窓がある。
あの窓の手前か何かにちょっと綺麗な花が置いてあったりすると、さらに居心地がいい。
何でかというと伝うから。
視線というのは必ず、見るものを伝いながら遠くを見る。
遠くを見るまでにいろんな指標が点々とあると居心地がよくなる。
何かが仲介しているということ。
これがいわゆる二人称的身体というワケ。
視線は手前の風景「近景」から「中景」「遠景」これが三つ繋がるように物が置かれていると安定する。
「居心地がいい」ということでさえも何者かの協力がないと、環境がないとそう感じ取れない。
視線には「巡らす演出」がなければならない。

一人の居心地のよさを追求したのが何かというと、この本はそういうところの指摘が面白かったのだが、茶道。(というのは本の中に発見できず)
茶道は対面に人間を置かない。
茶を点てる人は釜の反対側だから横にいる。
だから、対面しない。
人の視線にさらされない。
そんなふうに人物が配置してあって、近くの壁に掛け軸があったり、花瓶に椿を一輪入れたり、視線をずっと這わせることができる。
そうするといかに狭い空間でも、もの凄く広々感じることができるという、これはもう茶道が持っている「間合い」。
これは名言。

「何だかわからないけど、この店入りにくな」とかということがある水谷譲。
それは「間合い」。
かくのごとく「間合い」というのは重大なもの。
コロナも後半の方になると20〜30代の方の陽性率が高かった。
それはその方々があまり日本の間合いをよく学び取ってらっしゃらなくて、アメリカとかヨーロッパの間合い「ハグ」とか「スキンシップ」とか「シェイクハンド」とか、そういう文化にたっぷり浸り続けたのではないか?
若い方にお説教ではない。
ただ、若い方もちょっと覚えておいて欲しいのだが、どうもコロナというヤツはそこに向かってNoを突き付けたようだ。
前にお話ししたが、芸能に於いて見せるもの、売り物は「間」である。
会話の「間」である。
もう一つ客と芸人の「間(あいだ)」。
その「間合い」も重大な芸だった。
お客さんとの間に「間(ま)」があればある程、輝くもの。
「コロナと共に生きる」ということは芸能界の商品と化した握手だったのだが、少なくともコロナはNoを突き付けたワケで。
「そういうものも見直していくべき」ということ。
そこから考えるとコロナが大きい声で「それは絶対に許さない」と叫んでいるものは明日発表する。

「ソーシャルディスタンス」という言葉。
これでは物事を正確に掴んでいないような。
それで、本屋さんに行って本を探っているうちに「間合い」という武道用語を手にいれて、いろいろ読んでみて「ソーシャルディスタンス」というよりも我々には「間合いを取る」「間合い」じゃないだろうか?ということで、本を読んで三枚におろしてみた。
間合いの取り方。
これが、ただ単に感染症の予防だけではなく、ゴルフも所詮間合い。
それからサッカー、野球、夫婦の在り方も間合い。
考えてみれば我々はソーシャルディスタンスのテクニックを相当やはり忘れている。
喫茶店に座り込むこと、佇み方、それも間合い。
「あおり運転」もそう。
間合いが取れない人。
何てことない間合いを「オレには危険だった」と怒るワケだから、間合いに敏感すぎる病の方。
間合いはありとあらゆるもの。
予告したので先に言っておく。
「握手会も許さない」と言うのだから、一体コロナは何を嫌っているのだろうか?
人と人が密に接触することをNoと言っている
ここからは本にも載っていない武田先生の考え。
コロナが登場することによって粉々に砕け散った人類の計画がある。
それが「一帯一路」ではないか?
「グローバルスタンダート」ではないか?
つまり、「一つの価値観で世界をまとめる」ということにコロナは「許さない」という。
「お互いに儲かるからいいじゃん」というのが、いわゆる「グローバルスタンダード」。
価値を一緒にしておいて、一つの価値観で世界を割り切る。
一帯一路。
中国を中心に世界を結び直すネットワーク。
「No!」
コロナはそれを叫んだ。
コロナがもしテレビ番組を見るとしたら何を見るか?
コロナが「面白いじゃん。オレ好き、こういう番組」。
報道番組は見ない。
日テレの『ケンミンSHOW』ではないか?
秘密のケンミンSHOW極
「へぇ〜。秋田県は芋煮会に牛肉入れるワケか」とか小さなエリア内の違い、そのあることの証明をコロナは「へぇ〜」とかと見るのではないか?
コロナはみんな同じ症状に突き落とすというのは「差異」「個体にはそれぞれの違いがある」ということがコロナは確認すると楽しいのではないか?
これが武田先生のだいたいの結論。

もう一つ。
一週間前、そんなことを喋っていたが「AI」。
正しい答えを知っているコンピューター。
膨大な量の。
それが、世界を支配するという。
コロナ対策でもAIに任せようとさんざん出てきている。
それからもう一つ、自動運転。
一種AI。
この本で一番面白かったところ。
AIが一番苦手にしているところはどこか?
AIが自動運転でできないことがある。
譲り合い。
AIはできない。
正面から来て、どっちかが道を曲がるとする。
その十字路が幅が同じぐらいでどちらが先行していいかわからない。
本線がわかりにくい十字路がある。
時々譲り合う時がある。
あの時に「お先にどうぞ」をやる。
あれが(AIには)読めない。
人間がやるしかない。

現在のAIは間合いを図ることはできません。(「間合い」とは何か 251頁)

譲り合いがAIはできない。
やっぱり難しい。
車をポッと抜いておいて、ある安全な車間に入って、二車線目に戻ってケツのランプを二回パカッパカッと後ろに「サンキュ!」と送る。
あれを「送るかな?」とAIが考えるとするとAIは凄く苦しむと思う。
それと、前に言った勝ちパターンを知れば知るほど、負けないというパターンを消失してしまうAIの限界。
あるいは「負けてもいい」という勝ち方がある。
「よーし!負けてもいいんだ」と思って打つという。
とにかく数で表現できない、この主観を一回忘れることで「間合い」というものを計算できるという。
これをちょっとやはり「ウィズ・コロナ」「コロナと共に」の時代に考えるとなかなか面白いのではないかなと。
理屈っぽい放送ではあったが、ちょっとやってみたかった。
来週はグッとわかりやすく「森の生き物」とかわかりやすいものをやる。

posted by ひと at 10:32| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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