いろんな告発が広がる昨今だが、自由に発言する人の発言に怒ったり、それで事件が起きるとかというのがある。
それからものの見方の目撃しているポジションが違うと、それが虐待に見えたり、或いは励ましに見えたりという「見え方の違い」みたいなのが膨らんでゆくという。
とにかく始めてみましょう
著者は荒井裕樹さんという方で柏書房「まとまらない言葉を生きる」という本。
(番組では「柏書店」と言ったが柏書房。番組内ではこの後も「柏書店」と言っているが「柏書房」にしておく)
一九八〇年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。(256頁)
この方の本を読んで、二週はもたないのだが、一週間分はこの話題は今の時代、やっておくべきだなぁと。
自分もそうだがテレビでコメントを発表したり、ものの意見を言ったりするのだが、必ず後で話題というか・・・
東野幸治さんが司会をする番組に出ていて、この間、彼から「武田さん使うのは凄く便利なんですわ。何でかっつうと大きいのはないんですが、ミニ炎上が連続してくるから」という。
たまにtwitterで武田先生の発言が話題になっている。
それは武田先生は読まない。
そちらの方でどうぞ騒いでください、と。
だが気分はやっぱりあまりよくない。
SNSなどで自死に追い込まれるというような人の気持ちもわからないではない。
というワケでいろんなバラエティ番組で喋っていると「地雷」というか、踏んでしまうとエラい騒ぎになる、大炎上になってしまう。
この「まとまらない言葉を生きる」の中に、これは推薦文に書いてあったのだが
強くて安全な言葉を使えば、
簡単に見落とすことができる。
だけど取り零された瞬間に、
誰かが、自分が、いなかったか?
はらだ有彩『日本のヤバイ女の子』著者(本の帯)
確かに「強くて安全な言葉」がやたら大手を振っているという。
お国もそうで、国の政策なんかも、凄くザックリした言葉。
「一億総活躍」「女性活用(→女性活躍→女性が輝く)」「人づくり革命」等々といったフレーズはぼくでも諳んじられるくらいだから、やっぱりインパクトは強かった。(9頁)
そんな「強くて安全な言葉」が大手を振って、その隙間から大事なことがポロポロこぼれ落ちているんじゃないか?という。
その指摘をこの荒井裕樹さんがなさっている。
裏ではインターネットの憎悪表現。
これはやっぱりある。
武田先生も憎まれるタイプのキャラクターで。
いろんな方がやっつけたいのだろう。
武田先生は簡単にやっつけられるのだが、「やっつけたい」と思っている人はジーっと見ている。
何かこう、気に障ることを言わないかどうか。
それと慣用表現。
当たり前のことばっかり言う。
そういう表現は肝心の話は抜け落ちている。
何を恐れているのか?
当番組(「今朝の三枚おろし」)も小さいながらもラジオメディアだが、(メディアは)「まとまらない話」をしたがらない。
だが「それじゃよくないんじゃないか」というのを荒井裕樹さんから指摘されて「まとまらない話をすべきだ」「まとまる話ばっかりだと言葉そのものが壊れていきますよ」という。
「言葉そのものが壊れてゆく」という表現が武田先生はズキッとした。
「まとまる話だけを話にしない」という。
「まとまらない話もしましょうよ」という。
ラジオもテレビも言葉を介して社会を映し、それを社会で更にもう一度流す、還流するというメディア。
あらゆるメディアは、特にラジオもそうだと思う。
「まとまらない話を切り出さないと言葉は弱くなるばっかりだよ」という。
具体的な例があるとわかりやすいと思う水谷譲。
具体的な例を挙げるのが難しい。
何でかというと、それこそが「まとまらない話」。
今よりも遥かに偏見が強かった時代があった。
1970年代あたりは非常に言葉が乱暴で「統合失調症」と今、メディアが言う病のことに関しては「精神(分裂)病」と呼んでいた。
1974年のこと、障害者の方を大学では「異常児」と呼んでいた。
武田先生が心理学を勉強する時の教科書のタイトルは「異常児心理学」だったから。
聴覚を欠損した、それから視覚に障害がある、そいういう子達は「異常児」と呼ばれていた。
武田先生は「聾唖課程」、聴覚欠損児の教科で学んでいた。
そんな時には武田先生はその言葉が差別的であることさえ思ってもみなかった。
その言葉しかなかったから。
かくのごとく、今も残っている心の病に対する偏見みたいなものが、まとまる話だけではこぼれ落ちてしまう。
まとまらない話を敢えてした方がいいんじゃないか?
今週はこの手の話題。
荒井裕樹さん、柏書房「まとまらない言葉を生きる」という本。
なかなか素敵な視点だと思う。
敢えてまとまらない話をしようじゃありませんか。
その「まとまらない話」の中に今からずいぶん昔だが1970年代のこと、統合失調症、心の病のことを「精神病」という病名として呼んでいた時代があった。
当時、「心を病む」ことは、「その人が弱い・悪い・おかしい」で片付けられていた。心を病んだ人は、−中略−長期入院させておけば「問題は解決した」と考えられていた。(28頁)
病院があった場所が山の奥だったりするもので、俗語では「山の病院」なんていう言い方をしていた。
それは「隔離しとかないといけないんだ」。
そういう病院が平然とあった。
東京郊外の精神科医療の現場に立っておられた「吉田おさみ」という先生がおられて、この先生が統合失調症の患者さん達に対する世間の差別に関してずっと闘い続ける。
(吉田おさみを番組内では精神医療の医師であるような紹介をしているが、調べてみたが臨床心理学批判の研究者らしい)
この先生は「長期隔離ということ自体がおかしいんだ」。
「隔離」と聞くと思い出す。
(コロナで)我々も味わったばかり。
この国は幸いなことに世論がまだ国中で響いているから、「耐えられない」と言えばそれはそれなりにメディアに反映されるが、お気の毒に人口の多い近い国であった。
全部町を閉めてしまう。
それでコロナに罹った人はとんでもない所に連れていかれて。
お便所で寝かされた。
便器の前に枕を置いて寝ている。
そんな隔離政策を取った。
そうするともう、もの凄い勢いで狂気の如く中国の人が暴れた。
そのことをもう、この吉田という方、精神医療の最前線の、このお医者さんが1970年代におっしゃっている。
この人の名言をこの著者の荒井さんが取り上げてあるのだが、これはいい言葉。
ある視点からすればいわゆる気が狂う状態とてもそれが抑圧に対する反逆として自然にあらわれるかぎり、それじたい正常なのです。(28頁)
それはとても自然なことで「長期隔離」なんていうのは個人の考えで人に押し付けるものではない。
心を病むのは〈抑圧に対する反逆〉として〈正常〉なのだと言い切った。(28頁)
「『狂わないことの方が狂っているんだ』という、そういう目で精神に疾患を持った人を見詰めてもらえませんか?」という。
「この人達を病たらしめいるのは、この人達の何かではなくて、社会全体からかかってくる圧力そのものがこのに人達に病に陥るところに追い詰められてしまっているんですよ」という。
この著者が言っていることは、言葉遺産で「こういう言葉を私はまとまらない話として残したい」と。
ある人の「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても「生きようとする意欲」が湧かない社会になる。(29頁)
「生きる意欲」の湧くまとまらない話をしようではありませんか、という。
ちょっと熱弁を振るい過ぎてお爺さんは疲れてきた。
だが、ハッとする。
著者は言う。
探してみましょう、人を「励ます言葉」を。
人を励ます言葉。
これはアンケートを取ったら凄く面白い言葉が出た。
ワークショップで出てくる不動のトップ3は「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」。(34頁)
ぼくらが「励まし表現」の代表格だと思っている言葉は、時と場合によっては、「人を叱る言葉」や「人と距離をとる言葉」に姿を変える。どうやら日本語には、「どんな文脈にあてはめても、『人を励ます』という意味だけを持つ言葉」というのは存在しないらしい。(35頁)
私達は「人を励ます言葉」というのを「まとまらない話」からつくっていきましょうよ、と。
人を励ます言葉。
「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」
いずれも人を励ます言葉ながら、実はこれは
日本語では「叱咤」と「激励」はコインの表裏の関係にある。(35頁)
これは裏返すと、「自分を強く持て」ということなんだけど、受け取り方によっては、「いじめられるのはあなたが弱いからいけない」というメッセージにもなる。(35頁)
これは面白いレポートがあって、著者の方が書いてらっしゃる。
ちょっとうろ覚えで申し訳ないが。
いじめっ子だった人に「何故いじめたんですか?」という作文を書かせると、だいたいこの三つで文章を書く。
「僕があの人をいじめたのは、もっと頑張って欲しかったから。人に負けない強い人になって僕に『大丈夫』って言う笑顔を見たかった」
荒井裕樹さんが「早目に話をまとめようとするからそういうことになるんだ」という。
東京の郊外で精神医療の先頭に立たれている吉田おさみさんという精神科医の先生も「心の病で苦しんでおられる方々に対してまとまる話でまとまるなんていうことはありませんよ」という。
この「まとまらない現場」の中でこのお医者さんがおっしゃっているのは、「悩みを取り去るような鎮痛剤のような言葉というのは現場では役に立たないんだ」という。
武田先生は「鎮痛剤名人」みたいなところがあって、やたらと振られる。
「先生一言」「人という字はね・・・」とかと言ってしまうのだが。
「そんな言葉じゃないんだ」という。
これは凄く身につまされるというか、我が身を振り返る時に便利な本だった。
一番大事なことは「今、悩んでいいよ」
そのことを基準とした何か。
「がんばって」という言葉は昔から「あまりいっぱい使わない方がいいよ」と言われた水谷譲。
そういう歌を作ってずいぶん抗議のお葉書もいただいた。
「がんばれがんばれ」という歌がある。
「がんばりを安く使うな」というのを中学生の方からいただいた。
反省はしているが作ってしまったものは仕方がない。
「がんばれ」というのは「まばたきしないで目を開き続けろ」という意味だから元々そういう意味。
「頑」を「張る」。
だから「がんばれ」の中にはそういうのがあるのだろう。
だが、励ます言葉の難しさというのは何かある。
今、一流進学校の先生から聞いた話だが運動会で「がんばれ」と使ってはいけないそうだ。
「それは無理させる言葉だから」という。
「何て言うんですか?」と言ったら「できるかぎりやれよ」と言う。
ちょっとはずみが悪くなる。
運動会ぐらいだったら「がんばれ」でいいのではないかと思う水谷譲。
武田先生が一番好きだったのは、精神科医のその先生が自殺しそうな患者さんがおられた。
その人が京都の方で、東京におられたその精神科医の先生は急いで新幹線に乗って患者のところに駆けつけて自殺を思いとどまらせなければならない。
もう何と言っていいかわからない。
「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」
全部使ってしまって。
それで新幹線の切符を買って京都に帰るのだが何も思い浮かばない。
それでその人に会って「死んではいけない」という代わりに喉をついて出てきたのが、JRの切符の窓口の職員さんの言葉「『ひかり』はないが『のぞみ』はある」。
(『思想家 河合隼雄』中沢新一 河合俊雄の時に出てきた河合隼雄氏の話だと思われる)
これはその手のユーモアのある先生で。
つまり、人をユーモアに引き込むことができるという、それがやっぱり励ましの言葉になるのではないだろうかということで。
「あなたに期待しているから」という、その「期待」も重くなる。
ストレスを感じる。
〈希待〉──という不思議な言葉を教えてもらったことがある。もちろん、辞書には載っていない造語。(52頁)
〈希待〉とは、〈人間の善性や自己治癒力〉を信じ、その〈可能性〉を〈無条件〉に信頼しようという姿勢のこと。(56頁)
武田先生自身もそうだが、人を励ます言葉は本当のことを言うと自分が一番欲しい。
自分を励ます言葉が。
その為には「まとまらない話をしよう」というのはなんとなくわかると思いませんか?
そして、ここから大きな話になる。
これはこの荒井さんがもの凄く訴えたかったことではなかろうかなぁと思うが、
二〇一六年七月二六日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、凄惨な殺傷事件が起きました(86頁)
これはもう、背筋も凍るような事件で。
裁判で被告人は、犯行前後に発していた「障害者は生きている意味がない」という主旨の主張を再び展開するのではないか。
その様子が報じられたら、事件直後のように、被告の主張を肯定したり賛美したりするような意見が、またSNSに溢れるのではないか。(90頁)
SNSは言論空間であると同時に生活空間でもあります。あのような言葉が生活圏に存在すること、またそうした生活に違和感がなくなってしまうことに、私は恐怖を覚えます。(91頁)
このことをこの方はいい表現で言っていて、武田先生も「なるほどな」と思った。
この荒井さんという著者が本の中で、この言葉、「障害者を殺すことが悪いことではないと」いうような意見というのは、この社会全体に犯人の考えを「降り積もらせる」という。
言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。(26頁)
若い人を見る度に「そういうことを思ってるヤツがいるんだな、この中には」と見ることになる。
そのことを著者は、「言葉で社会全体を汚した」とおっしゃる
考えてみると今、言葉で社会全体を汚す人はいっぱいいる。
「障害者は生きる意味がない」という言葉を批判しようとすると、ともすると、反論する側に「障害者が生きる意味」の立証責任があるように錯覚してしまうことがあります。(91頁)
しかし、私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありませんし、社会に対してそれを論証しなければならない義務も負っていません。(92頁)
「障害者、生きてる意味があるのか答えろよ」
それはアンタが言っている質問自体がもう間違ってるんだ。
皆さん、巻き込まれちゃダメですよ。
質問が間違っているということがある。
しかし私達はディベートの大会とか討論とかという時に間違った質問を平気で見逃す。
その間違った質問が言葉を壊しているんじゃないですか?とおっしゃる。
では何を前提としなければならないかというと、人生を生きている意味は、それは個人のものであって、アンタから問われる必要はないんだ。
この言葉は強い。
「それをいちいちアンタから聞かれて答えなければならないと思っているアンタが間違っているんだ」という。
社会とは何を前提としているか?
「共に生きよう」
これが社会の前提。
様々な性別もあるだろう。
また、性には区別できない性を生きておられる方もいる。
たやすく「非生産的だ」とか、そんな言葉で片づけるべきではない。
この手のディベート、対話のいやらしいところは、「障害者に生きる意味があるのか」と問えば相手が答えない。
その時にこの人が「勝った」と思われる。
つまり、問いに対して答えないということで勝ち負けを決めていくからだ。
相手に対して「答えねばならない」と問い詰めることがディベートの強い人だという。
怒らないでください。
一度はゴルフ場で前と後ろの組でご一緒したこともあるのだが、森元総理がおられて。
まあ、言いたかったのだろうが、この方も間違った質問をなさる方で。
「ロシアのプーチンだけを批判して、多くのウクライナ人を苦しめているゼレンスキーを叱らないっていうのはどういうワケだ?」
(森元首相がゼレンスキー大統領を批判「ウクライナ人苦しめた」…失言王にSNSではあきらめ声も「またもウケ狙い」「王道パターン」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース)
「それは森元総理、アナタの質問が間違えているんです。苦しむ苦しまないでプーチンとゼレンスキーを比較すること自体、アナタの間違いなんです。私達は強権主義の国家に対してそういう国が世界をいじることを好まない。ましてや、隣国に攻め入るとは何ですか?その社会の中にいるワケで、ロシアのプーチン大統領を守るべき言葉を一言も持っていないという国家にいて、アナタはそこの元総理だったワケじゃないですか?ウクライナ戦争というのはそういう意味での日本の支持なんですよ」という。
自分の問いが、問いとして正しいかどうかぐらいは問う人が考えないと。
(番組冒頭の話から続いてハワイの話が入るが割愛)
この本、「まとまらない言葉を生きる」の荒井裕樹さんが最初の章の方で書いているのだが、この方が苦しんだ保育園問題を書いておられる。
「保活」が、しんどかった。
「保活」というのは「子どもを保育園に入れるための活動」のこと。(60頁)
女性達がそのことで子供を保育園に入れる為の活動「保活」にいかに苦しんだかという。
著者は様々な人が集まって形成されている社会の中で仕事と子育てを女性が両立する為にどれくらい苦労したか、
水谷譲も、もの凄く武田先生を叱ったことがあった。
「保育園落ちた。日本死ね」という騒ぎがあった。
武田先生が「日本死ね」はキツイだろうと。
この著者もさんざんに保育園に選んで預けられるほどの、いわゆる社会の上の方におられる方に「この苦しみがわかりますか」という。
それでその保活のことを書いてらっしゃる。
保育園に子供を入れて、職場での仕事を確保する女性達の苦悩みたいなのを。
そして悠々と保育園に子供を預けて職場に通える女性の優雅さというか、格差みたいなものを問題に。
ところが2022年、その保育園で問題が起こった。
あれほど「保活」という単語が生まれる程、保育園落ちた、その無念さ故に「日本死ね」と言った母親達が保育園に預けられない。
これは2022年静岡・裾野市の保育園で1歳児に対する暴力行為が見受けられて
(静岡・裾野市の園児虐待、「宙づり」「閉じ込め」など不適切保育10種…特別監査で確認(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース)
凄い。
保母さん(保育士)三人が警察に暴力行為で逮捕されるという。
何だよこれ?
「あの人は保母さんみたいな人」と言えば、人の家の子でも可愛らしくて仕方がない性格の女性のことを言う。
「子供が好きだからその仕事就いたんでしょ?」という。
それが「逆さづりにした」「手をひっぱった」「わざと椅子を引いて転ばせた」「泣き止まない子に向かってはカッターナイフを見せて脅した」。
何という保育園だと思う。
ところがすぐ。
全く同じこと。
今度は富山の保育園で保母さんの暴力行為が見つかって、「不適当な保育士」ということで告発が始まって大騒動。
これが全国で転々と見つかり始めた。
これは一番の問題は働く母親達を支えた女性保育士、女性達を助ける為の最高の同性のサポーターであった保育士が身の毛もよだつような暴力と罵りで虐げる鬼になった。
「鬼」と言った人がいた。
「鬼保育士」と。
やっぱり「理解できない」というのは大声で叫んだ方がいい。
ここには何かきっとある。
それも全国に連鎖反応のように暴力の保育士さんが見つかった
私達はいとも簡単にそういう不始末をしでかした人達に向かっては「鬼と化した」とか、そういう本当に申し訳ない、汚い言葉で向こう側に追いやってしまう、捨ててしまうけれども、それでは本当の問題を見失うことになる。
当番組は意地でも何故か探ろう。
その問題に関しては、ちゃんとしている保育士さんの方が圧倒的にたくさんいらっしゃるワケで、捕まった人達はその人達に本当に失礼なことをしてしまったなと思う水谷譲。
だが「不適当な保育をした」という三人の顔が画面に並ぶ。
どの顔を見ても優し気な人達。
優し気な女性。
或いは人格的広さを感じさせる笑顔をお持ち。
何かある。
何かあることがわかるまで、この話を片付ける話にしてはいけない。
まとめてはいけない。
これが今週のテーマだった。
まとまらない話を恐れずに続けましょう。
ちょっと一週間と短かい間だったが、まとまらない話を問う、短い番組だが続けていこうというふうに思っている。